本報告の対象である伊丹康直(いたみ やすなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、今川氏、武田氏、そして徳川氏という東海地方の有力大名に仕え、主に水軍の指揮官としてその名を知られています。本報告では、伊丹康直の出自から晩年までの生涯、各主君の下での具体的な活動内容、そして彼の子孫である徳美藩伊丹氏の興亡に至るまでを、現存する資料に基づいて詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とします。
なお、同姓同名の人物として、延宝3年(1675年)に捕鯨に関する定書に名を連ねた太地村庄屋の伊丹康直が存在しますが 1 、本報告で扱うのは戦国武将の伊丹康直(初名:雅勝)であり、両者は時代も活動内容も異なる別人であることを冒頭に明記しておきます。
伊丹氏は摂津国(現在の兵庫県南東部)の国人で、伊丹城(有岡城の前身)を拠点としていました 2 。伊丹氏は藤原利仁の後裔を称する加藤氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代末期から史料にその名が見え始め、室町時代には細川氏の被官として、また伊丹城主として活動していたことが確認されています 3 。康直の父は伊丹兵庫助元扶(初名は雅興)とされています 2 。
摂津の有力国人であった伊丹氏は、中央の政治動向とも無縁ではなく、その立場は常に安定していたわけではありませんでした。特に室町時代後期から戦国時代にかけては、畿内における細川氏や三好氏などの有力大名の興亡に大きく影響を受けることになります。
伊丹康直(幼名:千代松、初名:雅勝)は、大永2年(1522年)に伊丹元扶の子として誕生しました 2 。
当時の伊丹氏は、管領細川氏内部の権力闘争(細川高国派と澄元・晴元派の対立)に巻き込まれており、享禄2年(1529年)には伊丹城が落城し、父・元扶が戦死するという悲劇に見舞われました 2 。この時、千代松(康直)はまだ数えで8歳という幼少期であり、この出来事は彼のその後の人生に大きな影響を与えたと考えられます。本拠地を失い、庇護者である父を亡くしたことは、彼が自らの力で生き抜くことを余儀なくされたことを意味します。
父の死と伊丹城落城後、幼い千代松は、伊丹氏家臣で外祖父にあたる間野時秋(間野七郎)と共に摂津を脱出しました 2 。間野時秋の存在は、幼い康直が戦乱の中で生き延びる上で不可欠な支えであったと推察されます。
その後、伊勢国(現在の三重県)や上野国(現在の群馬県)などを流浪したと伝えられています 2 。この流浪の時期の具体的な動向については史料が乏しく詳細は不明ですが、各地を転々とする中で、様々な地域の情勢を見聞し、多様な人々と接する機会を得たことでしょう。こうした経験は、特定の土地や勢力に縛られない柔軟な思考や、後に複数の主君に仕える際の適応能力、さらには水軍という専門性を磨く上での多様な知識吸収に繋がった可能性があります。また、外祖父である間野氏がどのような人物であり、流浪中にどのような人脈や支援ネットワークを頼ったのかは、康直の初期キャリアを理解する上で興味深い点であり、後の今川氏への仕官に繋がる何らかの伏線となったのかもしれません。
流浪の末、永禄元年(1558年)、伊丹雅勝(康直)は駿河国(現在の静岡県中部)に辿り着き、今川義元に仕えることになりました 2 。義元は雅勝を同朋衆として抜擢したとされています 2 。同朋衆は、主君の側近として芸能や教養をもって仕える役職であり、雅勝が何らかの文化的な素養を持っていたか、あるいは摂津出身という経歴が評価された可能性があります。
また、別の考察によれば、伊丹家が当時から摂津の城持ちの有力者として著名であり、京都との太いパイプを持っていた今川家が、その情報網や伊丹氏の旧縁が持つ価値を期待して雅勝を抜擢した可能性も指摘されています 8 。流浪の身であった雅勝を取り立てた今川義元の判断は、単なる温情ではなく、雅勝の潜在的な能力や背景を見抜いた戦略的な人事であった可能性も考えられます。
雅勝の正室は、今川氏の重臣である岡部常慶の娘でした 2 。この婚姻は、今川家中で雅勝の立場を安定させ、その後の活動を円滑にする上で大きな意味を持ったと考えられます。岡部氏は今川家臣団の中でも有力な一族であり、この縁組によって雅勝は今川家中に深く根を下ろし、その能力を十分に発揮するための基盤を得ることができたと推測されます 8 。
桶狭間の戦いで今川義元が討死した後、その子・氏真の代になると、雅勝は海賊奉行に抜擢され、今川水軍を統率する立場となりました 2 。戦国時代における「海賊」という言葉は、現代の略奪者という否定的なイメージとは異なり、大名に属して水上戦力として機能する武士団を指す場合もありました。海賊奉行は、そうした水軍力を組織し、統制し、軍事作戦に投入する責任者であり、駿河湾という地理的条件を考えると、今川氏にとって水軍の整備は喫緊の課題でした。
陸戦を得意とする武士が突然水軍を率いることは困難であるため、伊丹氏が伝統的に水軍の知識や経験を有していたか、あるいは駿府への逃避行に同行した家臣団に水軍経験者がおり、その能力をアピールした結果ではないかと推測されています 8 。摂津が古くから海運や水軍活動と関わりが深い地域であったこと(例えば安宅氏の存在など)も、この推測を補強する材料となります。今川水軍は、駿河湾沿岸の防衛や海上交通の維持、さらには敵対勢力への海上からの攻撃など、多岐にわたる任務を担っていたと考えられ、雅勝はその専門性を買われてこの重要な役職に抜擢されたのでしょう。彼が率いた今川水軍の具体的な規模や編成、活動内容については、さらなる史料調査が待たれるところです。
永禄11年(1568年)末からの武田信玄による駿河侵攻により、今川氏は急速に衰退し、最終的に滅亡します。主家を失った伊丹雅勝(康直)は、武田信玄に仕えることになりました 2 。今川水軍が武田水軍へと発展し、武田滅亡後は徳川家康に吸収されたという資料の指摘 8 は、康直のキャリアがこの大きな流れと軌を一にしていたことを示しています。
武田信玄の下で、康直は船大将として武田水軍の創設と強化に大きく貢献しました 2 。元亀2年(1571年)には、信玄の命を受けて武田水軍の組織化に着手したとされています 2 。信玄が旧敵である今川氏の家臣であった康直を船大将という要職に登用したことは、信玄の能力主義的な人材登用策と、水軍の重要性に対する深い認識を示しています。駿河を制圧した以上、その沿岸防衛と海上権益の確保は必須であり、水軍の専門家である康直はうってつけの人材でした。
具体的な活動としては、駿河湾に侵攻してきた後北条氏の家臣・清水康英が率いる伊豆水軍を撃退するなどの戦功を挙げています 2 。これは、武田氏が駿河を確保し、さらに伊豆方面への圧力を強める上で重要な意味を持つ戦いであったと考えられます。武田氏は甲斐という内陸国を本拠としながらも、駿河獲得後は積極的に水軍力の整備を進めました。康直のような専門知識を持つ武将の存在は、武田氏の海洋戦略にとって不可欠だったと言えるでしょう。
武田信玄の死後も、康直はその子・勝頼に引き続き仕えました 2 。勝頼期においても、武田水軍の維持・運用において重要な役割を担っていたと推測されます。しかし、武田水軍は、康直らの尽力によって一定の戦力を持ったと考えられますが、伝統的な水軍勢力である北条水軍や、後に台頭する織田・徳川の水軍と比較して、その規模や活動範囲には限界があった可能性も指摘できます。武田氏の主要な関心が陸上戦にあったことを考えると、水軍への資源配分は限定的だったかもしれません。
今川氏から武田氏へと主君を変えた康直の行動は、戦国時代の武将にとっては珍しいことではありませんが、彼の専門性が高く評価され、新たな主君の下でも活躍の場を得られたことが、その背景にあると考えられます。これは、個人の能力が主君への絶対的な忠誠よりも重視される場合があったことを示唆しています。
天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐によって武田氏は滅亡します。この大きな転換期において、伊丹康直は徳川家康の家臣となりました 2 。家康は武田氏の旧領(甲斐・信濃・駿河)を巡る争奪戦(天正壬午の乱)を経て、これらの地域に影響力を拡大しており、武田氏の旧臣を積極的に登用していました。康直もその一人として、家康の麾下に加わったと考えられます。
徳川家康は、康直を駿河清水(現在の静岡市清水区)の御船奉行に任じました 2 。これは、康直が今川・武田時代を通じて培ってきた水軍に関する知識と経験を高く評価した人事と言えます。清水湊は、駿河湾の要衝であり、徳川氏にとっても兵站輸送、海上警備、情報収集などの観点から極めて重要な拠点でした。御船奉行としての康直は、徳川水軍の編成・維持、船舶の管理、港湾の整備、さらには有事における水軍の指揮などを担当したと考えられます 9 。
「海に出られる(詳しい)武士団は重宝されたもので、いわゆる特殊技能によるポストですね」との記述 8 は、康直の専門性が徳川家においても高く評価されていたことを示唆しています。徳川家康は関東移封後、江戸湾を拠点とする水軍力の整備にも力を入れており、向井氏などがその中心でしたが 11 、駿河を拠点とする康直が率いた水軍は、これと連携し、あるいは補完する役割を担っていた可能性があります。
康直が最終的に名乗った「康直」の「康」の字は、徳川家康から偏諱(主君が家臣に自身の名前の一字を与えること)として与えられたものと考えられています 2 。資料によれば、康直の近親者に「康」の字を用いた者がいないことから、家康からの偏諱である可能性が高いと指摘されています 2 。これは、家康が康直の能力と忠誠を認め、徳川家臣団の一員として正式に遇したことを示す重要な証左です。偏諱の授与は、主君と家臣の間に特別な結びつきを生み出すものであり、康直の徳川家中における地位を高めたと考えられます。家康が康直に「康」の字を与えた具体的な時期は不明ですが、武田氏滅亡後、徳川氏に仕えてから比較的早い段階であった可能性があり、これは武田旧臣である康直を早期に徳川体制に取り込み、その忠誠を確実なものにしようとする家康の意図があったのかもしれません。
伊丹康直は、慶長元年(1596年)7月21日(旧暦。新暦では1596年8月14日)に死去しました 2 。享年は74歳でした 2 。彼の死後、家督は三男の康勝が継ぎました 2 。康直が長年にわたり培ってきた水軍に関する知識や指揮経験が、息子の康勝や配下の者たちにどのように継承されたのかは興味深い点ですが、康勝自身は後に幕府の財政・行政面での活躍が目立ち、水軍との直接的な関わりは父ほど深くはないように見受けられます。
表1:伊丹康直 略年譜
年代 (西暦/和暦) |
主君 |
役職・地位 |
主要な出来事 |
典拠 (例) |
1522年 (大永2年) |
― |
― |
摂津伊丹城主・伊丹元扶の子として誕生 (幼名:千代松) |
2 |
1529年 (享禄2年) |
― |
― |
伊丹城落城、父・元扶戦死。外祖父間野時秋と流浪 |
2 |
(不明) |
― |
― |
伊勢・上野などを流浪 |
2 |
1558年 (永禄元年) |
今川義元 |
同朋衆 |
駿河にて今川義元に仕える (初名:雅勝) |
2 |
(義元没後) |
今川氏真 |
海賊奉行 |
今川水軍を統率 |
2 |
(今川氏没落後) |
武田信玄 |
船大将 |
武田氏に仕える。武田水軍創設に貢献 |
2 |
1571年 (元亀2年) |
武田信玄 |
船大将 |
北条水軍を撃退 |
2 |
(信玄没後) |
武田勝頼 |
船大将 |
引き続き武田氏に仕える |
2 |
1582年 (天正10年) |
徳川家康 |
御船奉行 (駿河清水) |
武田氏滅亡後、徳川家康に仕える。後に「康」の偏諱を受ける |
2 |
1596年 (慶長元年/文禄5年) |
徳川家康 |
御船奉行 (駿河清水) |
7月21日 死去 (享年74) |
2 |
伊丹康直の生涯を貫く最も顕著な特徴は、水軍指揮官としての高い専門性です。今川氏の海賊奉行、武田氏の船大将、そして徳川氏の御船奉行と、三代の有力大名の下で常に水軍関連の要職を任された事実は、その能力が高く評価されていたことを物語っています 2 。
資料 8 で指摘されているように、「海に出られる(詳しい)武士団は重宝された」という当時の状況において、康直はまさにその「特殊技能」によって戦国の世を渡り歩いた人物と言えます。戦国時代における船奉行の役割は、軍船の管理、水路の確保、水軍の指揮など多岐にわたり 9 、時には兵站輸送の安定化も担う重要な役職でした 10 。康直はこれらの任務を的確に遂行しうる能力を持っていたと考えられます。
摂津の国人から流浪の身となり、その後、今川、武田、徳川という主家を変えながらも、それぞれの勢力下で重用された康直の生涯は、戦国時代特有の流動性と、個人の能力が重視された側面を象徴しています。主家が滅亡したり、勢力図が大きく塗り替わったりする中で、自身の専門性を武器に新たな活躍の場を見出し続けた適応力は、特筆に値します。
康直自身は大名にはなりませんでしたが、その徳川家への忠実な奉公と実績は、三男・康勝が後に大名(甲斐徳美藩主)に取り立てられる礎となったと言えるでしょう 2 。これは、戦国末期から江戸初期にかけて、親の功績が子の立身出世に繋がる事例の一つとして捉えることができます。
伊丹康直に関する史料は、その活躍の割には断片的である可能性があり、特に一次史料(彼自身が発給した書状など)の現存状況によっては、その具体的な思考や詳細な行動を再構築するには限界があるかもしれません。『寛政重修諸家譜』 2 などの二次史料に頼る部分が多くなる場合、その記述の信頼性についても慎重な検討が必要です。
伊丹康勝は、伊丹康直の三男として天正2年(1575年)に駿河清水で生まれました 2 。父・康直が武田勝頼に仕えていた時期にあたります。武田氏滅亡後、父と共に徳川家康に仕え、幼少期から家康に近侍したとされています 14 。康勝の「康」の字も、父同様に家康からの偏諱である可能性が推測されており 14 、「勝」の字は父の初名・雅勝から取ったものと考えられます 14 。
天正14年(1586年)には家康の嫡子・徳川秀忠に出仕し 14 、慶長10年(1605年)に秀忠が将軍職を襲職して以降は、江戸で勘定頭(勘定奉行)として幕府財政に深く関与しました 14 。佐渡奉行を兼任し、天領の管理も担当するなど、幕政において重要な役割を担いました 14 。具体的な事績としては、三上山の植林事業の指揮 14 、本多正純改易の際の上使としての詰問成功 14 などが挙げられます。これらの実績は、康勝が高い実務能力を持ち、幕府(特に秀忠・家光)から厚い信頼を得ていたことを示しています。父・康直の功績に加え、康勝自身の能力が伊丹家を大名へと押し上げた要因と考えられます。
寛永10年(1633年)2月、伊丹康勝は従来の所領(下総国相馬郡など9000石)に加え、甲斐国山梨郡に3000石を加増され、合計1万2000石の大名となりました 14 。康勝は甲府城番を兼務し 14 、所領である山梨郡栗原筋三日市場村(現在の山梨県甲州市塩山三日市場)に陣屋を構え、これをもって徳美藩が成立しました 16 。
徳美藩は1万2000石の譜代藩であり、甲府城番を兼ねるなど、軍事的・政治的にも一定の役割を期待されていたと考えられます。武田氏旧領である甲斐国に配置されたことにも、何らかの意図があった可能性があります。康勝は佐渡奉行や勘定頭といった要職を歴任していたため、藩の実務は長男の勝長が主に執り行っていたとされています 16 。伊丹康勝の代での大名への昇進は、江戸幕府初期における家臣団編成の一環として捉えることができ、功績ある旗本が大名に取り立てられることで、幕府への忠誠心を高め、支配体制を強化する狙いがあったと考えられます。
伊丹康勝は承応2年(1653年)6月3日に79歳で死去し 14 、家督は長男の勝長が継ぎました 14 。
伊丹勝長は慶長8年(1603年)に康勝の長男として生まれました 20 。当初は徳川秀忠の小姓として仕え、下総相馬郡に1000石の所領を与えられました。寛永10年(1633年)に甲府城番となり、寛永20年(1643年)には甲斐に流罪とされた良純法親王の警護を務めるなどしました 20 。
承応2年(1653年)、父・康勝の死去により家督を相続。この際、私墾田2620石を弟の岡部勝重(資料により姓の記述に揺れあり)に分与しています 19 。しかし、寛文2年(1662年)3月27日、勘定奉行の岡田善政と共に役宅で駿河代官の一色直正に対して不正会計の詮議を行おうとした際、逆に一色直正によって刺殺されるという悲劇的な最期を遂げました。享年60でした 16 。この事件は、当時の幕政内部における緊張関係や、代官支配の腐敗といった問題を示唆している可能性があります。跡は長男の勝政が継ぎました 16 。
伊丹勝政は、父・勝長の横死の後、家督を継ぎました 16 。勝政は甲斐黒川金山の開発や近江水口城の守備などで活躍したとされています 16 。元禄4年(1691年)7月15日に67歳で死去しました 16 。
伊丹勝守は、勝政の嫡男として家督を継ぎました 16 。しかし、元禄11年(1698年)9月15日、江戸城内で自害しました。享年26歳でした 16 。
自害の理由は「狂気」によるものとされており、『廃絶禄』には「九月十五日、二十六歳にて御失心、厠にて御自害、依て御領地被召上」あるいは「9月15日、26歳で失心。厠にて自害す。よって領地を収らる」と記されています 16 。資料 22 の記述にも「勝守が乱心自殺改易」とあります。「狂気」という理由は、江戸時代の大名改易においてしばしば用いられる表向きの理由である可能性も否定できず、勝守が実際に精神的な問題を抱えていたのか、あるいは何らかの政治的な失脚や陰謀に巻きまれた結果、そのような形で処理されたのか、真相は不明です。26歳という若さでの自害は痛ましい出来事です。
この伊丹勝守の自害により、徳美藩伊丹氏は4代をもって改易となり、所領は没収されました 16 。資料 23 の改易リストにも、伊丹勝守が甲斐徳美藩1.0万石、1698年に乱心・自害により所領収公と記載されています。
徳美藩が改易された後、伊丹氏の血筋が完全に断絶したわけではなく、旗本などとして家名が存続した可能性も指摘されています 5 。
表2:徳美藩伊丹氏 歴代藩主
代 |
氏名 |
続柄 |
在任期間 (西暦) |
石高 |
主要事績・備考 |
典拠 (例) |
初代 |
伊丹康勝 |
康直三男 |
1633年 - 1653年 |
1万2千石 |
勘定頭、佐渡奉行などを歴任。徳美藩立藩。 |
14 |
二代 |
伊丹勝長 |
康勝長男 |
1653年 - 1662年 |
1万2千石 |
甲府城番。駿河代官一色直正により刺殺される。 |
16 |
三代 |
伊丹勝政 |
勝長長男 |
1662年 - 1691年 |
1万2千石 |
甲斐黒川金山開発、近江水口城守備などで活躍。 |
16 |
四代 |
伊丹勝守 |
勝政嫡男 |
1691年 - 1698年 |
1万2千石 |
元禄11年、江戸城内にて自害(狂気とされる)。これにより徳美藩は改易。享年26。 |
17 |
伊丹康直は、摂津の国人から身を起こし、戦国乱世の荒波を水軍指揮官としての卓越した専門技術をもって乗り切り、今川・武田・徳川という三つの有力大名に仕えた稀有な武将でした。彼の生涯は、個人の能力が重視され、また主君を違えることも珍しくなかった戦国時代のダイナミズムを体現しています。
彼自身は大名となることはありませんでしたが、その功績は息子・康勝による徳美藩立藩という形で実を結びました。しかし、その徳美藩もわずか四代で改易となるなど、伊丹家の盛衰は戦国から江戸初期にかけての武家の運命の変転を象徴していると言えるでしょう。
伊丹康直の具体的な活動や人物像については、なお史料的な制約も多く、今後のさらなる研究によって新たな側面が明らかにされることが期待されます。特に、彼が指揮した水軍の具体的な編成や戦術、そして彼自身の一次史料の発掘などが進めば、より詳細な康直像を構築できる可能性があります。