伊勢貞宗は、室町幕府政所執事。父の失脚から賢臣と称され、将軍義尚の「親父」として幕政を掌握。明応の政変を主導し、伊勢流故実を大成。戦国時代の幕開けに貢献した。
室町時代後期から戦国時代初期にかけて、日本の社会は大きな転換点を迎えていた。中央では足利将軍家の権威が失墜し、地方では守護大名がその地位を家臣や国人衆に脅かされる「下剋上」の風潮が蔓延していた。応仁・文明の乱(1467-1477年)は京の都を焦土に変え、幕府の無力さを天下に知らしめた。この時代は、織田信長や武田信玄に代表されるような、武力によって領国を拡大し、天下に覇を唱えようとする戦国大名が次々と台頭する、まさに「力こそ正義」の時代の幕開けであった。
このような激動の時代にあって、一人の武将が武力ではなく、卓越した政治手腕、高度な行政実務能力、そして文化的な権威を武器として、長きにわたり幕政の中枢に君臨し続けた。その人物こそ、本報告書が主題とする伊勢貞宗(1444-1509年)である 1 。
伊勢貞宗の生涯を語る上で、父・伊勢貞親(1417-1473年)の存在は欠かせない。貞親は8代将軍足利義政の絶対的な寵愛を背景に権勢を振るい、その専横ぶりから「天下の佞臣」とまで酷評された人物であった 3 。その父が政争に敗れて失脚するという最大の危機の中から、貞宗の政治家としてのキャリアは始まる。しかし、彼は父とは対照的に、その冷静沈着な判断力と調整能力によって「天下の賢臣」と称賛され、人々の信頼を集めることに成功した 3 。この父子の対照的な評価は、貞宗という人物の特質を理解する上で極めて重要な視点を提供する。
本報告書は、伊勢貞宗の生涯を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。具体的には、第一に、幕府の財政と行政を司る政所執事としての「政治家」の顔。第二に、9代将軍義尚の養育係を務め、「親父」とまで呼ばれるほどの信頼を得た「将軍の傅役」としての顔。そして第三に、武家社会の礼儀作法の基準となる「伊勢流故実」を大成させた「文化人」としての顔である 1 。
伊勢貞宗の生涯を追うことは、戦国時代を単なる「武力のみが支配する時代」という一面的な見方に対し、重要な再考を促す。彼の存在は、崩壊しつつある中央集権体制下において、政治や行政といった「知」と「実務」、そして文化という「ソフトパワー」がいかにして権力の源泉となり得たかを示す、絶好の事例研究となる。本報告書は、貞宗の具体的な行動とその背景を丹念に解き明かし、彼が乱世においていかにして幕府権威の黄昏を支え、そして自らも時代を動かす存在となったのかを明らかにしていく。
伊勢貞宗の政治的キャリアは、名門としての栄光と、父の失脚という痛烈な挫折という、光と影の双方を背負って始まった。彼の人物像と後の政治行動を理解するためには、まず彼が属した伊勢氏の歴史的背景と、父・貞親が引き起こした政変の衝撃を把握する必要がある。
伊勢氏は、桓武平氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代後期から足利氏に仕えてきた譜代の家臣であった 5 。室町幕府が成立すると、伊勢氏は将軍家に近侍する重要な役割を担うようになる。特に康暦元年(1379年)に伊勢貞継が幕府の政所執事(まんどころしつじ)に任じられて以降、この職は伊勢氏宗家によって代々世襲されることとなった 3 。
政所は、幕府の財政、所領問題、そして各種訴訟などを管轄する、幕府行政の中核をなす機関である 7 。その長官である執事は、将軍の命令を奉書(ほうしょ)という形で発給する権限を持ち、幕府の意思決定を実務レベルで支える極めて重要な役職であった。伊勢氏は、この政所執事の地位を独占することで、幕政に絶大な影響力を行使する家柄となったのである。
さらに伊勢氏は、将軍家の子息が元服するまでの養育係を務めることも多く、足利将軍家とは公私にわたる密接な関係を築いていた 5 。この将軍家との個人的な繋がりと、政所執事という制度的な権力が、伊勢氏の権勢の源泉であった。貞宗の祖父・伊勢貞国も政所執事を務め、その子が貞宗の父・貞親である 3 。
伊勢貞親は、8代将軍足利義政の乳父(めのと)を務めたことから、将軍の絶対的な信任を得て、幕政を牛耳るほどの権力を手にした 1 。彼は季瓊真蘂(きけいしんずい)らと共に義政の側近として幕政を主導し、その権勢は管領や有力守護大名を凌ぐほどであった。
しかし、その強引な権力行使は次第に諸大名の深刻な反発を招く。決定的な対立のきっかけとなったのが、斯波氏の家督問題への介入であった。貞親は斯波義廉(よしかど)を退け、自らが推す斯波義敏(よしとし)を家督に据えようと画策した。これに対し、山名宗全(そうぜん)や、当初は義敏派であった細川勝元(かつもと)までもが義廉を支持し、貞親と鋭く対立した 9 。
さらに、将軍後継者問題が事態を一層複雑にする。義政には長らく男子が生まれなかったため、弟の足利義視(よしみ)を次期将軍と定めていた。ところがその後、正室の日野富子(ひのとみこ)が足利義尚(よしひさ)を産むと、義尚の乳父であった貞親は、自らの権力基盤を固めるために義視の排斥を画策する。文正元年(1466年)、貞親は「義視に謀反の疑いあり」と義政に讒言し、その殺害を進言した 9 。
この性急な陰謀は、義視が細川勝元のもとへ逃げ込んだことで失敗に終わる。これを好機と見た山名宗全、細川勝元ら諸大名は一致して貞親の追放を義政に要求。将軍の寵愛もここに至っては及ばず、貞親は失脚し、京から近江、そして伊勢へと逃亡を余儀なくされた。この一連の事件は「文正の政変」と呼ばれ、応仁の乱の直接的な引き金の一つとなった 10 。
父・貞親の失脚は、伊勢家にとって最大の危機であった。しかし、将軍義政は伊勢氏そのものを見限ったわけではなかった。義政は、貞親の嫡男であった貞宗に家督を継承させることを命じたのである 1 。当時23歳の貞宗は、父が築き上げた権勢が崩れ去る様を目の当たりにしながら、混乱の渦中で伊勢家の当主となった 4 。
この時、貞宗が父の専横を泣いて諫めたという逸話が伝えられている。この逸話の史料的な裏付けは必ずしも強固ではないものの 9 、貞宗の清廉潔白な人格を象徴する物語として後世に語り継がれたことは重要である。このイメージは、父の「佞臣」という汚名と対比され、貞宗が新たなスタートを切る上で、周囲の信頼を得る一助となった可能性がある。
貞宗の政治家としてのキャリアは、この「父の失敗」という強烈な反面教師から始まったと言える。父・貞親の失脚の原因は、有力守護大名の意向を無視した強引な権力行使と、性急な政敵排除の試みにあった。その結果、貞親は政治的に孤立し、全てを失った。この教訓は、貞宗のその後の政治手法に決定的な影響を与えたと考えられる。彼は、特定の個人との関係に依存する権力の危うさを知り、有力者とのコンセンサス形成、すなわち「根回し」の重要性を痛感したはずである。彼の慎重かつ巧みな政治運営、そして後に「賢臣」と評されるバランス感覚は、父の轍を踏まないという強い意志の上に築かれていったのである。
表1:伊勢貞宗の主要な関係者と続柄
人物名 |
読み |
関係性 |
備考 |
典拠 |
伊勢氏一族 |
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伊勢貞親 |
いせ さだちか |
父 |
8代将軍義政の寵臣。文正の政変で失脚。 |
9 |
伊勢貞陸 |
いせ さだみち |
嫡男 |
貞宗の跡を継ぎ政所執事。山城守護も務める。 |
11 |
伊勢盛定 |
いせ もりさだ |
叔父(父・貞親の妹の夫) |
備中伊勢氏。伊勢宗瑞(北条早雲)の父。 |
9 |
伊勢宗瑞 |
いせ そうずい |
従兄弟 |
通称は新九郎。後の北条早雲。戦国大名の祖。 |
11 |
足利将軍家 |
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足利義政 |
あしかが よしまさ |
主君(8代将軍) |
貞宗に家督継承を命じる。応仁の乱時の将軍。 |
1 |
足利義尚 |
あしかが よしひさ |
主君(9代将軍) |
貞宗が養育係を務め、「親父」と慕われる。 |
1 |
足利義材 |
あしかが よしき |
主君(10代将軍) |
後の義稙。明応の政変で貞宗らに追放される。 |
11 |
足利義澄 |
あしかが よしずみ |
主君(11代将軍) |
明応の政変で貞宗らに擁立された将軍。 |
11 |
その他 |
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日野富子 |
ひの とみこ |
義政の正室、義尚の母 |
幕政に強い影響力を持つ。後に貞宗と協調。 |
12 |
細川勝元 |
ほそかわ かつもと |
東軍総大将 |
応仁の乱で貞宗が属した東軍の総帥。 |
2 |
細川政元 |
ほそかわ まさもと |
管領 |
勝元の子。明応の政変を貞宗と共に主導。 |
12 |
山名宗全 |
やまな そうぜん |
西軍総大将 |
応仁の乱で貞宗ら東軍と敵対した西軍の総帥。 |
17 |
文正の政変の翌年、応仁元年(1467年)正月、ついに武力衝突が勃発する。畠山氏の家督争いを直接のきっかけとして、細川勝元を総大将とする東軍と、山名宗全を総大将とする西軍が京の都で激突し、11年にも及ぶ「応仁・文明の乱」が始まった 17 。この大乱は、幕府の権威を根底から揺るがし、日本全土を巻き込む戦国時代の序曲となった。
伊勢貞宗は、この未曾有の内乱において、一貫して細川勝元率いる東軍に属して戦った 4 。これは、文正の政変で父・貞親を失脚させた張本人である勝元の陣営に加わるという、一見すると矛盾した選択であった。しかし、これは貞宗の冷静な政治判断の結果であった。当時の将軍・足利義政と次期将軍・義尚は東軍に擁されており、幕府の「正統性」は東軍にあった。貞宗は、伊勢家の存続と再興のためには、正統な幕府に仕え続けることが最善の道であると判断したのである。
応仁の乱は、伊勢貞宗にとって、武将として軍功を上げるための戦場ではなかった。むしろ、それは行政官僚としての彼の真価が問われる試練の場であった。戦乱によって幕府の統治機構が麻痺状態に陥る中、彼はその実務能力を高く評価されることになる。その象徴的な出来事が、戦乱の最中である文明3年(1471年)、貞宗が正式に政所執事に就任したことである 4 。この人事は、東軍を名実ともに「幕府」として機能させる上で、伊勢氏が世襲してきた行政・財政の実務能力が不可欠であることを示している。戦闘が日常と化した京都で、貞宗は将軍の命令を伝達し、所領の安堵を行い、幕府の儀式を取り仕切るなど、統治システムの維持に奔走した。
武将たちが戦場で槍を振るい、互いに勢力を削り合っている間、貞宗は幕府の「正統性」と「実務」という、目には見えないが極めて重要な基盤を守り続けていた。この地道な努力は、戦乱の時代においてこそ際立った価値を持った。彼の働きは、戦後の秩序回復を見据える諸将や、混乱に疲弊した庶民からの信頼を着実に集めていった 19 。応仁の乱という国家的な危機は、皮肉にも、父の失脚で揺らいだ伊勢家の地位を再建し、貞宗を幕政に不可欠な人材として押し上げる絶好の機会となったのである。彼は、焦土と化した京都の中から、軍功とは異なる「信頼」という名の権力基盤を築き上げていった。
応仁・文明の乱が終息に向かう中、文明5年(1473年)に9代将軍に就任した足利義尚はまだ9歳であった。この幼い将軍の養育係(傅役)に任じられたのが、伊勢貞宗であった 1 。この任命は、貞宗のその後の運命を決定づける極めて重要な出来事となる。
貞宗と義尚の関係は、単なる主君と家臣、あるいは教師と生徒という枠を遥かに超える、極めて密接なものへと発展した。史料によれば、義尚は貞宗を深く信頼し、敬愛の念を込めて「親父(おやじ)」と呼んだと伝えられている 2 。この個人的な信頼関係は、貞宗に幕政を実質的に統括する絶大な権力を与えることになった。
その権力関係を象徴する画期的な事件が、文明8年(1476年)頃に起こる。成長した将軍義尚が、母である日野富子が住まう花の御所(北小路殿)を出て、なんと貞宗の邸宅に御所を移したのである 16 。これは、幕府の意思決定の中心が、事実上、貞宗の私邸になったことを意味する。この背景には、政治への介入を強める母・富子からの自立を目指す義尚の意志と、それに応えうる温厚で信頼篤い人柄を持つ貞宗の存在があったとされる 20 。この出来事により、貞宗は将軍の後見人として、日野富子をも凌ぐ影響力を手中に収めた。彼の権力は、政所執事という制度的な地位に加え、「将軍の親父」という個人的で情緒的な絆によって、盤石なものとなったかに見えた。
義尚の信任を得た貞宗は、幕政全般を統括し、応仁の乱後の混乱収拾に尽力した。長享元年(1487年)、義尚が幕府の権威回復をかけて近江国の守護大名・六角高頼を討伐する親征(鈎の陣)を開始すると、貞宗もこれに従軍し、将軍を補佐した 18 。しかし、この遠征の最中に、貞宗の権力の源泉を根底から揺るがす悲劇が起こる。延徳元年(1489年)3月、将軍義尚が近江の陣中で病に倒れ、25歳の若さで急逝したのである 18 。
義尚の早世は、貞宗にとって計り知れない打撃であった。彼の権力の多くは、義尚との擬似親子関係ともいえる個人的な信頼の上に成り立っていた。その義尚を失ったことで、貞宗は「将軍の親父」から、再び単なる一幕臣へとその立場が引き戻される危機に直面した。このキャリアにおける第二の転機は、貞宗に権力基盤の根本的な再構築を迫るものであった。彼は、特定の個人への依存という脆弱性を持つ権力から、より恒常的で、自らが主導権を握れる政治体制の構築へと動かざるを得なくなる。この危機感が、次期将軍との関係、そして最終的には日本史上前代未聞のクーデターへと彼を駆り立てる、大きな動機の一つとなったのである。
将軍義尚の死後、新たな将軍の座に就いたのは、義尚の従兄弟にあたる足利義材(よしき、後の義稙)であった 15 。しかし、この10代将軍は、父・義視に似て剛直な性格であり、失墜した将軍権威の回復を目指して、自ら政務を主導する積極的な親政路線を打ち出した。この姿勢は、六角征伐を継続するなど幕府の威信を示す一方で、幕府を支える管領の細川政元や、長年にわたり幕政の実務を担ってきた伊勢貞宗ら幕府の重臣たちとの間に、次第に深刻な軋轢を生んでいった 12 。
そして明応2年(1493年)4月、日本政治史を揺るがす大事件が勃発する。将軍義材が、河内国で反抗を続ける畠山基家を討伐するため、自ら軍を率いて京都を留守にした。この絶好の機会を捉え、管領・細川政元と伊勢貞宗は共謀して、京都でクーデターを決行したのである 12 。これが「明応の政変」である。政元と貞宗は、現職の将軍を一方的に廃し、義尚のもう一人の従兄弟で、当時は天龍寺の僧であった清晃(せいこう)を還俗させて、新たな11代将軍・足利義澄(よしずみ)として擁立した 12 。
このクーデターにおいて、伊勢貞宗は単なる協力者ではなく、計画段階から深く関与した紛れもない主役の一人であった。彼は、長年掌握してきた政所をはじめとする幕府の官僚組織を完全にコントロールし、将軍の廃立と新将軍の擁立という前代未聞の政変を、行政手続き上、滞りなく成功に導いた 12 。政変後、貞宗は幼い新将軍・義澄の後見役となり、その権力は絶対的なものとなった。息子の伊勢貞陸は山城国守護に任じられ、京都周辺の軍事・警察権をも掌握 3 。伊勢氏は、クーデターのパートナーであった細川政元の行動すらも牽制できるほどの強大な権勢を誇り、幕府の実権を完全に掌握するに至ったのである。
この明応の政変の真の恐ろしさは、それが単なる京都中央での政局にとどまらなかった点にある。それは、関東における戦国時代の本格的な幕開けと密接に連動した、壮大なスケールの政治工作であった。この工作の鍵を握るのが、貞宗の従兄弟にあたる伊勢宗瑞(そうずい)、後の北条早雲である 11 。
この二つの事件を結びつける背景には、複雑な人間関係があった。当時、伊豆国を支配していた堀越公方・足利茶々丸は、クーデターで追放された将軍・義材の支持基盤の一つであった。そしてこの茶々丸こそ、新将軍・義澄の母(円満院)と弟(潤童子)を殺害した仇敵だったのである 12 。
貞宗と政元が京都で義材を追放したことは、茶々丸の政治的な後ろ盾を完全に消滅させることを意味した。この千載一遇の好機を捉え、駿河国に拠点を置いていた伊勢宗瑞は行動を起こす。彼は「母と弟の仇を討つ」という新将軍・義澄の個人的な悲願を大義名分として、伊豆国へと侵攻し、茶々丸を討ち滅ぼしたのである 12 。これは、貞宗と宗瑞という伊勢一族の従兄弟同士が、中央(京都)と地方(関東)で完璧に連携して実行した、極めて高度な政治・軍事作戦であった。貞宗は、幕府の運命を自らの手で操るだけでなく、その策略によって従兄弟の伊豆平定を成功に導き、後の戦国大名・後北条氏が誕生する道筋をつけた、影の演出家でもあったのだ。
伊勢貞宗は、権謀術数に長けた冷徹な政治家であると同時に、当代随一の文化人・知識人でもあった。彼のもう一つの、そして極めて重要な功績が、武家社会における礼儀作法や儀式の規範となる「伊勢流故実(いせりゅうこじつ)」を大成させたことである 4 。
故実とは、先例に基づいて定められた儀式、典礼、制度、装束、武具、文書の様式などの総称である。貞宗は、伊勢家に代々蓄積されてきた知識を体系的に整理し、新たな時代に即した武家の規範として確立した。その内容は、小笠原氏と並び称される弓馬術の作法 11 、身分や場面に応じた手紙の書き方を定めた書札礼 24 、甲冑や日常の衣服の正しい着装法 25 、そして饗応(きょうおう)と呼ばれる公式な宴席での接待儀礼など、武士の公私の生活全般にわたる広範なものであった。
伊勢流故実の特徴は、儀礼的、形式的な側面を非常に重んじた点にある。その思想を端的に示す言葉が、料理の世界で用いられる「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」である 26 。これは、「割く(切る)」こと、すなわち食材の見栄えや盛り付けの美しさ、儀式的な切り方といった形式が「主」であり、「烹る(にる、やく)」こと、すなわち味付けや調理法はそれに「従う」べきものだとする考え方である。料理は味わう以前に「見る」ものであり、その形式美こそが重要視された。この思想は、伊勢流故実全体の精神を象徴している。
貞宗自身も優れた文化人であり、和歌や連歌を能くし、三条西実隆のような当代一流の公家や、横川景三といった高名な禅僧とも深い文化交流を持っていた 1 。彼の著作とされる『貞宗聞書』や『伊勢兵庫頭貞宗記』などは、後世の武家社会における礼法の教科書として、絶大な権威を持つことになった 11 。
貞宗による伊勢流故実の大成は、単なる個人的な文化活動ではなかった。それは、彼の政治戦略と不可分に結びついた、高度な権力戦術であった。応仁の乱以降、旧来の家格や権威が大きく揺らぎ、武力によって成り上がった新興勢力が台頭する時代にあって、「何が正しい作法なのか」「どのように振る舞うことが武士としてふさわしいのか」という規範への需要は、むしろ増大していた。
貞宗は、この時代の要請に応える形で、「伊勢流」というブランドを確立し、武家社会における作法・教養の基準を独占的に提供する立場を築いた。これにより、地方の守護大名や成り上がりの国人が、幕府の公式な儀式に参加したり、社会的な威信を確立したりするためには、伊勢氏が定めた故実を学び、その指導を仰がざるを得なくなった。
結果として、伊勢氏は直接的な武力を持たずとも、全ての武士が参照すべき「文化的な権威」となり、その地位は政治的な影響力に直結した。故実の体系化は、武力や血縁といった不安定な要素に依存しない、伊勢氏の永続的な権力基盤を築くための、極めて巧妙な「ソフトパワー」戦略だったのである。彼は、文化資本を政治資本へと巧みに転換させることで、乱世における一族の生き残りを図ったのである。
明応の政変によって自らが擁立した将軍・足利義澄のもと、伊勢貞宗は幕政の最高実力者として、その晩年を過ごした。彼は政変後の政治的混乱を収拾し、細川政元との協調と牽制を繰り返しながら、不安定ながらも幕府の統治機構を維持することに努めた。
永正6年(1509年)10月28日、伊勢貞宗はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年66であった 1 。彼の死後、政所執事の職と伊勢家の家督は、嫡男の伊勢貞陸が継承した 3 。貞陸もまた父の築いた政治的・文化的遺産を受け継ぎ、優れた実務官僚として、その後も幕政に重きをなし続けた 12 。
伊勢貞宗の生涯を振り返るとき、常に比較対象となるのは父・貞親である。将軍の寵愛を背景に権勢をほしいままにしながらも、諸大名の反発を招き「佞臣」と酷評されて失脚した父。それに対し、父の失脚という逆境から出発し、応仁の乱という未曾有の危機を乗り越え、巧みな政治手腕で幕政を掌握し、「賢臣」と称賛された息子 3 。この鮮やかな対比こそが、貞宗の歴史的評価を決定づけている。彼の慎重さ、バランス感覚、そして実務能力の高さが、父の失敗を知る多くの人々から信頼を勝ち得た最大の要因であった。
しかし、伊勢貞宗の歴史的評価は、単純な「賢臣」という言葉だけでは捉えきれない、深い矛盾を内包している。彼は確かに、その卓越した行政手腕によって、崩壊寸前であった室町幕府の寿命を延ばした「延命の功労者」であった 3 。だが、そのキャリアの頂点に立つきっかけとなった明応の政変は、正統な将軍を武力で追放し、傀儡を立てるという、幕府の根幹を自ら破壊する下剋上そのものであった。
この一見矛盾した行動は、彼の政治家としての本質を浮き彫りにしている。貞宗にとって、守るべきは将軍という「個人」ではなく、将軍を頂点とする「幕府統治システム」そのものであった。将軍・義材の強引な親政路線が、有力大名との対立を激化させ、システム全体の崩壊を招きかねないと判断したとき、彼は躊躇なく「将軍」という部品を交換することで、「幕府」という機械全体を救おうとしたのである。
したがって、彼の「賢臣」という評価は、旧来の主君に対する滅私奉公的な忠誠心から生まれたものではない。それは、時代の変化を冷静に見極め、目的のためには非情な手段も辞さない、極めて冷徹なリアリズムと政治的判断力に対する評価と解釈すべきである。その意味で、彼は古い時代の忠臣ではなく、来るべき戦国時代のマキャベリスト(権謀術数家)の先駆けであったとも言える。このパラドックスこそが、伊勢貞宗という人物の複雑さと、室町幕府末期の構造的矛盾を最もよく物語っている。
伊勢貞宗の生涯は、室町幕府がその権威を失い、戦国の動乱へと突入していく時代の大きなうねりの中で、類稀なる才覚を発揮した一人の政治家の軌跡であった。彼は、政治家、官僚、そして文化人という三つの顔を巧みに使い分け、激動の時代を生き抜いただけでなく、自ら時代を動かす中心人物となった。
父・貞親の失脚という絶望的な状況からキャリアをスタートさせた彼は、応仁・文明の乱という未曾有の混乱を、自らの行政官僚としての価値を証明する好機へと転換した。次に、将軍・義尚との「親父」と呼ばれるほどの個人的な信頼関係を足がかりとして権力の階段を駆け上がり、幕政の実権を掌握した。そして義尚の死という危機に際しては、細川政元と結託して明応の政変を断行。現職将軍を追放し、自らが望む将軍を擁立するという、日本史上前例のないクーデターを成功させ、権力の頂点に立った。
彼の行動は、結果として将軍の権威をさらに失墜させ、幕府の傀儡化を決定的にした。その意味では、戦国時代の到来を早める一因となったことは否定できない。従兄弟である伊勢宗瑞の伊豆討ち入りを支援し、戦国大名・後北条氏誕生の道筋をつけたことも、その象徴である。
しかし、もし伊勢貞宗という人物が存在しなければ、室町幕府はより早期に、そしてより無秩序な形で崩壊していた可能性もまた高い。彼は、その卓越した実務能力と、伊勢流故実という文化的な権威によって、幕府という統治システムが完全に瓦解することを防ぎ続けた。
最終的に、伊勢貞宗は「室町幕府の最後の守護者」であり、同時に「戦国時代の扉を開いた者の一人」という、二律背反の評価を下すことができる。彼は、旧来の秩序と価値観が崩れゆく中で、幕府というシステムを維持するために、そのシステムの頂点たる将軍さえも切り捨てるという究極の選択をした。その冷徹な現実主義と卓抜した政治手腕は、彼を単なる「賢臣」という枠に収めることを許さない。伊勢貞宗は、中世から近世へと移行する時代の狭間に立ち、古い秩序の延命と新しい時代の創造という、二つの役割を同時に演じた、極めて複雑で多義的な歴史上の人物として、再評価されるべきである。