最終更新日 2025-07-22

伊木遠雄

伊木遠雄は豊臣秀吉の黄母衣衆。賤ヶ岳で活躍し、関ヶ原で浪人。大坂の陣で真田幸村の軍監となり、豊臣家に殉じた。その忠義は後世に語り継がれる。

豊臣家に殉じた最後の黄母衣衆 ― 伊木遠雄の生涯に関する総合的研究

序章:豊臣譜代の臣、その実像

戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けを告げる大坂の陣。豊臣家の滅亡という歴史的転換点において、多くの武将がそれぞれの信念と運命に基づき、最後の戦場に臨んだ。その中に、豊臣秀吉子飼いの精鋭「黄母衣衆」の一員として栄光を掴み、最後は真田幸村の軍監として豊臣家に殉じた一人の武将がいた。その名は伊木遠雄(いき とおかつ)。

一般的に伊木遠雄は、「豊臣家臣。各地で活躍し、近習から黄母衣衆となる。関ヶ原合戦後は浪人し、大坂城に入城。夏の陣の際、落城寸前に脱出し、真野頼包と刺し違えて死んだ」 1 といった概要で知られる。しかし、この簡潔な記述の背後には、一人の武士の栄光と転落、そして主家への揺るぎない忠義に彩られた、波乱に満ちた生涯が隠されている。

本報告書は、断片的に伝わる伊木遠雄に関する史料を丹念に収集・分析し、その出自から豊臣政権下での活躍、関ヶ原の戦いでの敗北、そして大坂の陣における最期の瞬間に至るまで、彼の生涯の全貌を徹底的に解明することを目的とする。さらに、彼の生き様を通して、実力主義が支配した織豊政権の性格、武士の忠誠心のあり方、そして時代の変革期における個人の選択という、より大きな歴史的文脈を浮き彫りにすることを目指す。既知の情報の枠を超え、伊木遠雄という人物の実像に迫る総合的な研究を以下に詳述する。

第一章:出自と伊木姓の由来 ― 功名によって勝ち取った名

生誕と一族の背景

伊木遠雄は、永禄10年(1567年)に生を受けた 2 。出身地は尾張国(現在の愛知県)とされている 4 。彼の通称は半七、後に七郎右衛門(七郎衛門)と称したが、伊木半七の名で知られることが多い 2

その一族のルーツについては、平清盛の末裔とする伝承が存在する一方で 6 、より具体的な記録として千葉一族に連なる家系であったとする説が有力である 7 。この説によれば、伊木家の本姓は「武馬(ぶま)」または「武間(ぶま)」であり 2 、遠雄の父は武馬和泉守常春 3 、あるいは武馬常遠 7 という人物であった。

織田信長と「伊木」への改姓

伊木家の運命を大きく変えたのは、遠雄の父・武馬常遠(史料によっては尚遠とも記される)が、尾張から天下に覇を唱えた織田信長に仕官したことであった 7 。常遠は信長の家臣として武功を重ね、特に美濃国に位置する「伊木山城」の攻略戦において、二人の弟と共に先陣を務めるという大きな功績を挙げた。この働きを高く評価した信長は、その武勇を賞賛し、戦功の地名にちなんで姓を「伊木」と改めるよう命じた。これにより、一族は武馬姓から伊木姓へと改姓したのである 7

この改姓の経緯は、伊木家の性格を理解する上で極めて重要な意味を持つ。伊木という姓は、古くからの家名や血筋に由来するものではなく、当代随一の実力者であった織田信長から、具体的な戦場での功績に対して下賜された「栄誉の証」であった。この事実は、伊木家のアイデンティティが、生まれながらの貴種性ではなく、実力によって認められるという、戦国時代特有の能力主義的な価値観に深く根差していたことを示している。父の代から続く「戦働きによって身を立てる」という武門の誇りは、遠雄自身の生き方にも大きな影響を与えたと考えられる。

また、父・常遠は、自身が信長に仕える一方で、その嫡男である遠雄(尚定ともされる)を、織田家中で急速に台頭していた羽柴(豊臣)秀吉に仕えさせている 7 。これは、単なる偶然ではなく、激動の時代を生き抜くための一族の存続戦略と見ることができる。信長の後継者レースを見据え、最も将来性のある武将に子を託すことで、一族のリスクを分散させると同時に、次代の権力者との関係を構築しようとする、したたかな政治感覚がそこにはあった。この父の判断が、伊木遠雄を豊臣政権の中枢へと導く最初の布石となったのである。

第二章:豊臣秀吉への仕官と黄母衣衆への抜擢 ― 栄光の頂点

秀吉の近習から猛将へ

父の戦略的な判断により、伊木遠雄は若くして豊臣秀吉の近習(側近)として仕えることになった 4 。秀吉という、同じく実力でのし上がった主君の下で、彼はその才能を開花させる機会を得る。そして、そのキャリアにおける最初の、そして最大の飛躍点となったのが、天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いであった。

この戦いは、織田信長亡き後の主導権を巡る、秀吉と柴田勝家との決戦であった。遠雄はこの重要な合戦に従軍し、目覚ましい武功を挙げた 8 。その奮戦ぶりは特筆すべきものであり、後世、「賤ヶ岳の三振太刀」という武勇を讃える異名で呼ばれるほどであった 4 。この戦いでの功績は、彼を単なる近習から、秀吉が信頼を寄せる猛将の一人へと押し上げた。

黄母衣衆への選抜

賤ヶ岳での勝利を決定的にした七本槍の活躍は有名だが、伊木遠雄もまた、この戦功によって秀吉から特別な評価を受ける。彼は、秀吉子飼いのエリート親衛隊である「黄母衣衆(きぼろしゅう)」の一員に抜擢されたのである 4

母衣(ほろ)とは、元来、背後から放たれる矢や投石を防ぐための防具であるが、戦場で非常によく目立つため、その着用を許されるのは、主君が特に選び抜いた武勇と忠誠心に優れた者のみであった 9 。秀吉は、かつての主君・織田信長が赤母衣衆や黒母衣衆を組織したことに倣い、自身の直属兵力である馬廻(うままわり)の中から特に優れた者を選抜し、黄色の母衣を着用する黄母衣衆を組織した 10 。彼らは、戦場において主君の命令を各部隊に伝える伝令使や、戦況を監視する監察官、時には自ら先陣を切って突撃する切り込み隊長といった、極めて重要な役割を担った 12 。黄母衣衆に選ばれることは、秀吉から絶対的な信頼を得ている証であり、武士として最高の名誉の一つであった。

伊木遠雄の経歴を辿ると、秀吉の近習としてキャリアを開始し、秀吉の天下取りの正念場であった賤ヶ岳で功を立て、その結果として黄母衣衆という最も信頼される側近集団に加えられたことがわかる。この事実は、彼の忠誠の対象が、豊臣「家」という巨大な組織であると同時に、それ以上に、無名の若者であった自分を見出し、その働きを正当に評価し、栄誉ある地位へと引き立ててくれた秀吉という「個人」に強く向けられていたことを示唆している。この秀吉個人への強固な忠誠心こそが、彼の生涯を貫く行動原理となり、後の関ヶ原での西軍参加、そして大坂の陣での殉死という、彼の最後の選択を理解する上で最も重要な鍵となる。

なお、『武家事紀』などに記載されている黄母衣衆の構成員リストに伊木遠雄の名が直接見当たらないことがある 10 。しかし、複数の史料が彼を黄母衣衆の一員として明確に記述していることから 4 、現存するリストが必ずしも網羅的なものではない可能性や、選抜の時期によって構成員が変動した可能性が考えられる。これは、史料に残る名前だけが全てではなく、遠雄のようにリストからは漏れていても、当時その一員として広く認識されていた武将が存在したことを示す好例と言えよう。

第三章:豊臣政権下での活動 ― 秀吉の側近として

文禄・慶長の役

黄母衣衆として秀吉の側近に列した伊木遠雄は、豊臣政権の安定と共に、主君の側近くでその役割を果たし続けた。その活動の一端が、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において確認できる。

彼はこの国を挙げた大事業に従軍しているが、その役割は最前線で敵軍と刃を交える戦闘指揮官ではなかった。史料によれば、彼は御馬廻組の一人として、秀吉が大本営を置いた肥前名護屋城に在陣していたとされる 4 。御馬廻組は、主君の警護や伝令を主たる任務とする直属部隊であり、黄母衣衆もその中核をなす存在であった。つまり、彼の役目は、大陸に渡って戦う諸大名を後方から統括する最高司令官・秀吉の側近くに控え、その身辺を警護し、命令系統を維持することにあった。これは、彼が「豊臣大名」というよりも、あくまで「秀吉個人の家臣」という立場にあったことを改めて裏付けている。

知行の加増と家族

秀吉の存命中、遠雄は着実にその地位を固めていった。慶長4年(1599年)、すなわち秀吉が没した翌年、彼は豊臣政権の最高意思決定機関であった五大老の連署によって、河内国志紀郡(現在の大阪府の一部)において300石の知行を与えられている 4

この加増は、秀吉の死後もなお、豊臣政権の中枢が彼のこれまでの功績を正式に認め、評価していたことを示すものである。300石という石高自体は、大名としては決して大きくはないが、秀吉子飼いの譜代家臣としての彼の立場を保証するものであった。

私生活においては、滝川忠征の娘を妻として迎えている 2 。滝川氏は織田信長の重臣・滝川一益に連なる一族であり、このような婚姻関係は、豊臣政権下における武家同士の結びつきの一端を示すものである。また、兄弟には常成、重遠、若狭がいたと記録されている 2

しかし、彼の活躍が顕著に記録されているのは、主に秀吉の存命中に限られる。秀吉という絶対的な権力者であり、個人的な恩顧関係にあった後ろ盾を失ったことで、遠雄のような秀吉個人との結びつきが強かった武将たちは、政権内での相対的な影響力を徐々に低下させていった可能性がある。五奉行や五大老といった、より大きな政治的権力を持つ大名たちが政権運営の主導権を握る中で、一介の馬廻武将であった彼の存在感は、必然的に薄れていった。このことが、次なる時代の大きな転換点である関ヶ原の戦いにおいて、彼が歴史の表舞台で主要な役割を担ったという記録が見られない一因と考えられる。彼のキャリアは、主君・秀吉の死と共に、一つの停滞期に入ったのである。

第四章:関ヶ原合戦と浪人生活 ― 転落と雌伏

西軍への参加

慶長5年(1600年)、豊臣政権内部の対立はついに天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いへと発展する。徳川家康を総大将とする東軍に対し、石田三成らが決起して西軍を組織した。秀吉子飼いの譜代家臣であった伊木遠雄が、この戦いで西軍に与したのは、彼の経歴と忠誠心を考えれば当然の帰結であった 1 。豊臣家を守るための戦いと認識されたこの合戦において、彼に東軍につくという選択肢はなかったであろう。

しかし、関ヶ原における西軍の主要な部隊編成に、彼の名前は独立した部隊長として見出すことはできない 16 。これは、彼が数千の兵を率いる大名ではなく、石田三成や宇喜多秀家といった西軍の中核をなす大名の部隊に所属する一武将として、あるいは大坂城にあって豊臣秀頼を守る直属兵力の一部として参陣したことを示唆している。黄母衣衆の中には、青木一重のように独立した部隊を率いて関ヶ原に臨んだ者もいたが 17 、遠雄の知行規模ではそれは困難であった。

敗戦と浪人への道

周知の通り、関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りなどにより、わずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わった。この敗戦により、伊木遠雄の運命は暗転する。彼は戦後、勝利した徳川家康によって所領を没収され、主君も地位も失った浪人の身となったのである 1

関ヶ原の敗戦から、慶長19年(1614年)の大坂の陣勃発までの約14年間、伊木遠雄の足跡を史料から追うことは極めて困難となる。この「記録の空白」は、彼が歴史の表舞台から一度完全に姿を消したことを意味する。後藤又兵衛や真田幸村、長宗我部盛親など、関ヶ原で敗れた多くの武将たちと同様に 18 、彼もまた「関ヶ原の敗将」として、徳川が支配する新しい世では活躍の場を見出せず、どこかで息を潜め、雌伏の時を過ごしていたと考えられる。

この14年という長い潜伏期間が、彼の心境に与えた影響は想像に難くない。かつての栄光の日々と現在の零落した境遇との対比は、彼が忠誠を誓った豊臣家への思慕をより一層強くし、その豊臣家をないがしろにする徳川家への反感を静かに醸成していったであろう。大坂の陣において彼が見せる最後の奮戦は、単なる武士の意地や奉公ではなく、この長く苦しい雌伏の時代があったからこそ、より純化され、研ぎ澄まされた忠義の発露であったと解釈することができる。

第五章:大坂の陣 ― 真田幸村の軍監として最後の奉公

大坂城への帰還

14年間の雌伏の時を経て、伊木遠雄が再び歴史の表舞台に登場する機会が訪れる。慶長19年(1614年)、徳川家康が豊臣家を滅ぼすべく大軍を差し向け、大坂の陣が勃発した。この国家存亡の危機に際し、豊臣秀頼と淀殿ら大坂城首脳部は、全国に散らばる浪人衆に呼びかけ、兵力を集めた。伊木遠雄もまた、秀頼からの招きに応じ、馳せ参じた一人であった 4 。かつての黄母衣衆であり、秀吉譜代の臣である彼が、豊臣家にとって「頼れる旧臣」として記憶されていたことの証左である。

真田幸村の「軍監」という重責

大坂城には、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登といった、いずれも一廉の武将たちが浪人として集結した。彼らは強力な戦力である一方、豊臣家の直接の統制下にあるわけではなく、その力をいかにして城方全体の戦略に組み込むかが大きな課題であった。

この状況下で、伊木遠雄は極めて重要な役職を任される。城内でも随一の戦上手と目された真田幸村隊の「軍監(いくさめつけ)」である 6 。軍監の役割は二重の意味を持っていた。一つは、幸村のような外部から招聘された有力武将と、大野治長ら城の中枢部との意思疎通を図る連絡・調整役。そしてもう一つは、彼らが豊臣家の意向に背くような行動をとらないか、その動向を監視する役目であった 19 。この人事は、大坂城首脳部が浪人衆の力を頼りにしつつも、その強すぎる個性を警戒し、コントロール下に置こうとしていた苦心と内部統制の難しさを物語っている。豊臣譜代の旧臣という信頼性と、かつての黄母衣衆としての確かな武勇を併せ持つ伊木遠雄は、この難しい役職に最も適した人物と判断されたのであろう。

幸村との絆

本来、監視する側とされる側という緊張をはらんだ関係であったが、伊木遠雄と真田幸村は、共に戦う中で深い信頼関係を築き上げていく。二人は共に永禄10年(1567年)生まれの同年齢であり、関ヶ原の戦いで敗れて浪人となったという共通の境遇にあった 19 。このことが、二人の間に身分や出自を超えた強い連帯感を生んだとされ、後世、遠雄は「幸村の数少ない理解者」と評されるに至る 6 。旧体制の象徴である譜代家臣(遠雄)と、新興勢力である浪人衆のスター(幸村)が、豊臣家への忠誠という一点で結束し、理想的な融合を果たしたのである。遠雄は単なる監視役にとどまらず、幸村の類稀なる戦術能力を最大限に引き出すための、最高のパートナーとして機能した。

冬の陣では、幸村が築いた出城・真田丸の攻防において、遠雄は幸村の子・真田幸昌と共に城外へ打って出て戦功を挙げた 6 。そして慶長20年(1615年)の夏の陣。彼は道明寺の戦いから 2 、最後の決戦となった天王寺・岡山の戦いに至るまで 21 、常に幸村と行動を共にした。

二人の関係を象徴する逸話が残されている。天王寺・岡山の決戦前、味方の連携は乱れ、もはや豊臣方の敗色は濃厚となっていた。策が尽きた幸村は、傍らの軍監・伊木遠雄に向かい、「諸事悉く食い違い、最早どうにも手の打ちようが尽きたようでござる。この上は家康本陣に突入して討死する外はなさそうじゃ」と、静かに覚悟を漏らした。これに対し、遠雄は苦笑を浮かべ、こう応じたという。「どうやらそのようでありますなあ。今生の思い出に家康の白髪首を狙って見まするか」 22 。死を目前にした二人の間に交わされたこの短い会話は、互いの覚悟を認め合った、武人としての深い信頼と絆を雄弁に物語っている。

第六章:最期の謎 ― 諸説の徹底検証

伊木遠雄が、豊臣家への最後の奉公として真田幸村と共に死地に赴いたことは確かであるが、その最期の瞬間については、史料によって記述が異なり、今日に至るまで明確な定説を見ていない。主に三つの説が存在しており、ここではそれらを比較検討し、最も蓋然性の高い結論を導き出す。

概要

主な典拠史料

信憑性に関する考察

討死説

慶長20年5月7日、天王寺・岡山の決戦において、真田幸村らと共に徳川家康本陣への決死の突撃を敢行。奮戦の末、幸村と時を同じくして戦場で討ち死にした。

『戦国人名事典』 6 、中国語版Wikipedia 4 など、多くの二次史料で採用。

最も広く知られている説である。幸村の軍監という彼の役職、そして両者の深い信頼関係を考えれば、最後まで行動を共にし、同じ戦場で命を落としたという展開は極めて自然である。英雄的な最期として物語性が高いこともあり、状況証拠的には最も可能性が高いと考えられる。

刺違説

5月6日(大坂城落城の前日)、城から脱出。その道中で、同じく豊臣方七手組の一人であった真野頼包(まの よりふさ)と遭遇し、互いに刺し違えて死亡した。

『山口休庵咄』 2 、『大坂御陣覚書』 24

一次史料に近いとされる軍記物に見られる具体的な記述であり、一見信憑性が高いように思われる。しかし、この説には致命的な矛盾が存在する。刺し違えた相手とされる真野頼包は、大坂城落城後に生存が確認されており、後に伊勢津藩主・藤堂高虎に仕官したという記録が複数の史料で確認できる 24 。したがって、遠雄が頼包と刺し違えて死んだということはあり得ず、この説の信憑性は極めて低いと言わざるを得ない。合戦の混乱の中で生まれた誤伝や風説が、そのまま記録された可能性が高い。

生存説

戦死も自害もせず、大坂の陣を生き延び、その後も長寿を全うした。

一部の伝承や二次資料で言及 4

具体的な証拠や、その後の人生を示す史料に著しく乏しく、ほとんど伝説の域を出ない。他の二説に比べ、歴史的事実として検討するに足る根拠が見当たらない。

以上の比較検討から、伊木遠雄の最期については、 討死説 が最も蓋然性が高いと結論付けられる。刺違説は、具体的な史料名が挙げられているものの、相手方である真野頼包のその後の経歴と明確に矛盾するため、史実として採用することはできない。伊木遠雄は、自らが忠誠を誓った豊臣家と、戦友となった真田幸村のために、最後の最後まで戦い抜き、その生涯を閉じたと考えるのが最も妥当であろう。

第七章:子孫と伊木家のその後 ― 忠義の系譜

伊木遠雄の物語は、大坂夏の陣での彼の死をもって終わるわけではない。彼の血脈は、戦国の世の終焉という激動の時代を乗り越え、新たな秩序の中で存続していく。

息子・伊木尚重の動向

遠雄には尚重(なおしげ)という息子がおり、彼もまた父と共に大坂城に入城し、豊臣方として戦ったとされる 26 。大坂城が落城し、父・遠雄が壮絶な最期を遂げる中、尚重は混乱の戦場から脱出することに成功した 26

真田家への仕官

豊臣家が滅亡し、徳川の世が盤石となった後、尚重は意外な人物の下に仕官することになる。それは、父の戦友であった真田幸村の実兄であり、関ヶ原では徳川方について信濃松代藩の初代藩主となった、真田信之であった 7

この事実は、戦国時代の終焉と、それに伴う武士の主従関係の変質を象徴する出来事として非常に興味深い。父・遠雄は、豊臣家への純粋な忠義に殉じた。しかし、その子・尚重は、父の主君の仇であった徳川方の、しかも父の戦友の兄である真田信之に仕えることで、伊木家の家名を存続させたのである。これは、もはや「豊臣か徳川か」というイデオロギーよりも、武士個人の縁や能力、そして何よりも家の存続が優先される新しい時代の価値観が到来したことを示している。

真田信之が、敵将であった幸村の腹心の息子を召し抱えた背景には、弟・幸村への複雑な思いがあったのかもしれない。あるいは、父・伊木遠雄が幸村に対して見せた忠義と武勇を高く評価し、その息子を召し抱えることで、敵味方を超えた武士としての敬意を示した可能性も考えられる。伊木家の物語は、豊臣の滅亡で断絶することなく、新たな秩序の中で生き抜いていく武士の一つの姿を、鮮やかに提示している。

その後、伊木家は尚重の子の代に松代真田家を離れ、最終的には長州藩の分家である清末藩主・毛利家の推挙を得て、長州藩士(大組)として召し抱えられた。そして、その家名は幕末まで続き、明治維新の際には、萩藩の干城隊士として伊木尚忠が越後口の戦いで戦死した記録が残っている 7

終章:豊臣家に殉じた武将・伊木遠雄の評価

伊木遠雄の生涯は、安土桃山時代という激動の時代を駆け抜けた、一人の武士の生き様を凝縮したものであった。彼の人生は、織田信長という革新的な指導者の下で実力を見出された父の功名に始まり、豊臣秀吉という稀代の英雄の寵愛によってその才能を開花させ、黄母衣衆という栄光の頂点を極めた。しかし、偉大な主君の死と共にその運命は暗転し、関ヶ原の敗戦によって一度は歴史の舞台から姿を消す。そして最期は、滅びゆく豊臣家への純粋な忠義を貫くため、大坂城でその命を散らした。彼の生涯は、まさに「豊臣譜代」の武将を体現するものであったと言えよう。

彼は、後世に名を轟かせる大名として歴史に刻まれたわけではない。その知行も決して大きいものではなかった。しかし、秀吉子飼いの精鋭としての誇り、真田幸村の軍監として見せた苦悩と深い信頼関係、そしてその壮絶な最期は、時代の大きな転換点に生きた一人の武士の矜持として、今なお強い光を放っている。

伊木遠雄の物語は、歴史が常に勝者によって語られる中で、その陰に埋もれがちな無数の「敗者」たちの忠誠と誇りの物語の一つである。彼の生涯を丹念に追うことは、豊臣政権の栄枯盛衰を個人の視点から見つめ直し、歴史の多層性と複雑性を理解する上で、極めて貴重な事例を提供するものである。彼は、豊臣の夢と共に生き、豊臣の夢と共に死んだ、最後の忠臣の一人として記憶されるべき人物である。

引用文献

  1. 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?or16=%95%90%8F%AB&print=20&tid=&did=&p=52
  2. 伊木遠雄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E9%81%A0%E9%9B%84
  3. 伊木遠雄 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/zh-tw/articles/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E9%81%A0%E9%9B%84
  4. 伊木远雄- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E9%81%A0%E9%9B%84
  5. 大坂の陣で真田幸村に仕えたという伊木遠雄について出自・生没年・大坂の陣での活躍を知りたい。また、その... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000207084
  6. 伊木七郎右衛門の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/sanada/b-iki.html
  7. 千葉一族【い】の1 https://chibasi.net/ichizoku21.htm
  8. 伊木遠雄(いき とおかつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E9%81%A0%E9%9B%84-1052273
  9. 武士の背中に風船?選ばれし者の証「母衣(ほろ)」の意味や役割ってなに? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/74279
  10. 黄母衣衆とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%BB%84%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E8%A1%86
  11. 母衣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A1%A3
  12. 黃母衣眾 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/zh-hans/articles/%E9%BB%83%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E7%9C%BE
  13. 黒母衣衆 赤母衣衆 - daitakuji 大澤寺 墓場放浪記 https://www.daitakuji.jp/2012/07/12/%E9%BB%92%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E8%A1%86-%E8%B5%A4%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E8%A1%86/
  14. 黄母衣衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E8%A1%86
  15. 第36話 真田丸 - 豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー(木村長門) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054884619343/episodes/1177354054886783904
  16. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  17. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  18. 牢人たちの戦国時代 726 - 平凡社 https://www.heibonsha.co.jp/book/b166549.html
  19. 「日本一の兵(つわもの)」真田信繁(幸村)の最期 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/972260/
  20. 伊木遠雄- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E9%81%A0%E9%9B%84
  21. 天王寺・岡山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  22. 夏ノ陣の激斗 https://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap3/04-02natsunojin.html
  23. 真田信繁とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81?erl=true
  24. 真野頼包 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%87%8E%E9%A0%BC%E5%8C%85
  25. 真野頼包の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/nanate/b-mano-yori.html
  26. 伊木尚重 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/sanada/b-iki-shou.html