伊東尹祐
伊東尹祐は伊東氏の版図を広げたが、後継者問題で家臣団に亀裂を生み、後の没落の遠因を作った。島津氏との攻防では戦略転換し、領国経営の基礎を築いた。
日向の岐路:伊東尹祐の生涯と伊東氏の盛衰
序章:日向伊東氏の黎明と尹祐登場の時代背景
日向国(現在の宮崎県)の戦国史において、伊東尹祐(いとう ただすけ)という人物は、一族の最大版図を築いた伊東義祐の父として、またその後の劇的な没落の遠因を作った当主として、極めて重要な位置を占める。彼の生涯を理解することは、南九州における伊東氏と島津氏の百年以上にわたる抗争、そして戦国大名伊東氏の栄光と悲劇の本質を解き明かす鍵となる。本報告書は、伊東尹祐の生涯を徹底的に検証し、彼が下した決断が、日向伊東氏の運命にいかなる影響を及ぼしたのかを多角的に分析するものである。
伊東氏の起源と日向への土着
日向伊東氏の出自は、藤原南家を祖とする工藤氏に遡る 1 。平安時代末期、工藤氏の一族が伊豆国田方郡伊東荘(現在の静岡県伊東市)を本貫としたことから伊東姓を称するようになった 1 。伊東氏が日向国と関わりを持つに至ったのは、鎌倉時代初期のことである。「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子・伊東祐時が、鎌倉幕府から日向国の地頭職を与えられ、一族を下向させたのがその始まりであった 2 。この事実は、伊東氏の日向支配が、在地勢力の中から生まれたものではなく、中央の権威を背景とした外来のものであったことを示しており、土着の国人衆との間に潜在的な緊張関係を内包する要因となった。
その後、南北朝時代の動乱期において、伊東祐持が足利尊氏に属し、日向国都於郡(現在の宮崎県西都市)に所領を与えられ、都於郡城を築城したことで、日向における伊東氏の支配体制は本格的に確立されていった 3 。
祖父・祐堯、父・祐国の時代:宿敵・島津氏との激化する抗争
15世紀中頃、伊東尹祐の祖父・祐堯(すけたか)、父・祐国(すけくに)の二代にわたり、伊東氏は日向国内で急速に勢力を拡大し、戦国大名への道を歩み始めた 2 。この過程で、日向守護職として南九州に広大な影響力を持つ島津氏との対立は避けられないものとなった。両者の争いの焦点となったのが、日向南部の要衝・飫肥城(おびじょう、現在の宮崎県日南市)であった。
文明16年(1484年)、当主祐堯は島津氏の内紛に乗じて飫肥城へ侵攻するが、その陣中で病没する 5 。その悲願を継いだのが、息子の伊東祐国であった。翌文明17年(1485年)、祐国は弟の祐邑(すけむら)と共に再び飫肥城を攻める。しかし、島津本家の当主・島津忠昌が自ら出陣してこれを迎撃し、楠原(現在の宮崎県日南市)で両軍は激突した。この乱戦の最中、伊東祐国は討ち死にし、伊東軍は多数の死者を出して敗走するという悲劇的な結末を迎えた 5 。
南九州の地政学的状況と尹祐の登場
祖父と父を相次いで島津氏との戦いで失うという状況下で、伊東尹祐は家督を継承した。彼が立った15世紀末の南九州は、日向守護の島津氏と、その支配を切り崩そうとする伊東氏の対立を主軸に、在地国人である北原氏や土持氏、さらには島津氏の有力な庶流である北郷氏や薩州家といった諸勢力の思惑が複雑に絡み合う、極めて流動的な情勢にあった 5 。父祖の無念は、若き当主・尹祐にとって、対島津強硬路線を宿命づける強烈な原体験となったことは想像に難くない 7 。彼の治世は、まさにこの宿敵との対決から幕を開けることとなる。
表1:伊東尹祐の生涯年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
1469年 |
文明元年 |
1歳 |
伊東祐国の子として誕生。 |
3 |
1485年 |
文明17年 |
17歳 |
父・祐国が飫肥城攻めで戦死。家督を相続する。 |
5 |
1486年頃 |
文明18年頃 |
18歳頃 |
家督を巡り叔父・祐邑が殺害され、その後、外戚の野村氏一族を断罪する(野村氏の乱)。 |
2 |
1495年 |
明応4年 |
27歳 |
島津忠昌と和睦。飫肥の替地として大隅国三俣院千町を獲得する。 |
13 |
1504年 |
永正元年 |
36歳 |
三俣院を拠点に都城の北郷氏を攻めるが撃退される。 |
2 |
1510年 |
永正7年 |
42歳 |
後継者問題を巡り、重臣の長倉・垂水両氏が自刃する「綾の乱」が勃発。福永氏腹の祐充が誕生。 |
2 |
1512年 |
永正9年 |
44歳 |
福永氏腹の義祐(祐清)が誕生。娘の玉蓮が島津忠治に嫁ぐ。 |
7 |
1523年 |
大永3年 |
55歳 |
北原氏との野々美谷城攻めの陣中で急死。弟の祐梁も相次いで死去。 |
2 |
第一章:家督相続と内訌の嵐
伊東尹祐の治世は、宿敵・島津氏との対決という外面的な課題と同時に、権力基盤の確立という内面的な課題に絶えず直面した時代であった。彼が家督を相続して間もなく、その統治の根幹を揺るがす深刻な内訌が次々と発生する。これらの争いは、尹祐の冷徹な権力者としての一面を浮き彫りにすると同時に、後の伊東家崩壊の遠因となる根深い亀裂を生み出すことになった。
若き当主の誕生と権力基盤の脆弱性
文明17年(1485年)、父・祐国が飫肥城攻めで非業の死を遂げたことにより、尹祐は若くして日向伊東氏の当主となった 2 。しかし、その権力基盤は当初から盤石ではなかった。父と共に戦場にあり、一族の実力者であった叔父の祐邑(すけむら)の存在が、若き当主の前に立ちはだかっていた可能性が指摘されている 2 。
叔父・祐邑との対立と「野村氏の乱」
尹祐の家督相続直後、伊東家は内乱の渦に巻き込まれる。叔父の祐邑が「家督を狙った」として、尹祐の外戚にあたる野村氏によって日知屋(現在の日向市)で殺害されるという事件が起きた 2 。しかし、事件はそれで終わらなかった。文明18年(1486年)には、尹祐自身がその実行犯であるはずの野村右衛門佐とその一族を「専横」を理由に断罪し、粛清したのである 2 。
この一連の不可解な動きは、単なる叔父の反乱と、それを鎮圧した忠臣の物語では説明がつかない。むしろ、尹祐による周到な権力闘争であった可能性が高い。一つの見方として、祐邑は対島津戦略として豊後の大友氏との連携を模索しており、これが尹祐の猜疑心を招いたとされる 17 。この対立を利用し、尹祐はまず自らの権力にとって障害となる叔父・祐邑を、野村氏を使って「反逆者」として排除させた。そして次に、その功績を盾に権力を強めようとした野村氏を、今度は「専横」の罪で粛清することで、家中の有力者を一掃し、自らの権力を絶対的なものにしようとしたと考えられる。若き尹祐は、家中の実力者を巧みに衝突させて共倒れさせ、自らの地位を固めるという、冷徹な策略家としての一面を早くも見せていたのである。
後継者問題と「綾の乱」:伊東家最大の悲劇の序章
権力基盤を固めた尹祐であったが、彼の治世における最大の失政は、後継者問題を巡る騒動であった。正室であった肥後国の名門・阿蘇惟乗の娘との間には男子が生まれず、格式高い譜代家臣・川崎氏の一族である側室の中村氏との間に、待望の長男(後の祐安)が生まれた。尹祐はこの子を後継者と定め、家臣団にも披露していた 15 。
しかしその数年後、尹祐は家臣である福永祐炳(ふくなが すけもち)の娘の美貌に心を奪われる。重臣たちの強い反対を押し切り、既に他家に嫁いでいた彼女を離縁させてまで側室に迎えた 15 。永正7年(1510年)、この寵愛する福永氏の娘が懐妊すると、尹祐はまだ生まれぬ子が男子であれば、一度は後継者と定めた中村氏腹の長男を廃嫡するという、驚くべき計画を立てる 15 。
この暴挙に対し、伊東家譜代の重臣である長倉若狭守と垂水但馬守は、「天に二日なく、国に二君なし」という名言をもって尹祐を繰り返し諫めた。しかし、尹祐は全く聞き入れず、両重臣は主君への最後の抗議として綾城に籠城し、奮戦の末に自刃へと追い込まれた 2 。この一連の騒動は「綾の乱」として知られ、伊東家の歴史に暗い影を落とすことになる。
嫡男廃嫡の決断とその深遠なる影響
結果として、尹祐の寵愛を背景とした福永氏の工作は成功し、本来の嫡男であった祐安は廃嫡された。そして、福永氏の娘が生んだ祐充(すけみつ)、義祐(よしすけ、当初は祐清)、祐吉(すけよし)の三兄弟が、伊東家の新たな後継者と定められた 15 。
この決断は、単なる家庭内の問題に留まらなかった。それは、約67年後に伊東家を崩壊へと導く「時限爆弾」を、尹祐自らが仕掛けたに等しい行為であった。なぜなら、廃嫡された祐安の母方である中村(川崎)氏は、伊東氏が日向に下向して以来、一族を支えてきた譜代筆頭格の重臣層を代表する存在であった。対して、外戚として新たに権勢を振るうことになった福永氏は、比較的家格の低い新参の家臣に過ぎなかった 15 。
この後継者交代は、伊東家の家臣団を「旧来の譜代勢力」と「当主の寵愛を背景とする新興外戚勢力」という、決して相容れない二つの派閥に決定的に分断させるものであった。この深刻な亀裂は、尹祐の死後、たちまち表面化する。息子の祐充の代には、外戚の福永氏が後見役として権力を専横し、家中の不満が鬱積した 5 。そして、その弟・義祐の代に、木崎原の戦いでの大敗をきっかけとして家臣が次々と離反する「伊東崩れ」が発生するが、その最後の引き金を引いたのは、皮肉にも尹祐が寵愛し、一族の運命を託した福永氏自身の裏切りだったのである 12 。尹祐は目先の寵愛を優先するあまり、国家の根幹であるべき家臣団の結束を、自らの手で破壊してしまった。彼のこの決断こそ、伊東氏の栄光と没落を語る上で、最も重要な分岐点であったと言わざるを得ない。
表2:伊東尹祐の家族構成と関係者
立場 |
氏名 |
備考 |
当主 |
伊東 尹祐 |
日向伊東氏13代当主。 |
父 |
伊東 祐国 |
12代当主。対島津戦で戦死 3 。 |
叔父 |
伊東 祐邑 |
尹祐と対立し、殺害される 2 。 |
正室 |
阿蘇惟乗の娘 |
肥後の名門・阿蘇氏出身。子女なし 15 。 |
側室1 |
中村氏(桐壺) |
譜代重臣・川崎氏の一族。旧勢力を代表 15 。 |
側室2 |
福永祐炳の娘 |
新興勢力を代表。尹祐の寵愛を受ける 15 。 |
子(中村氏腹) |
祐安 |
本来の嫡男。綾の乱により廃嫡される 15 。 |
子(福永氏腹) |
祐充 |
14代当主。福永氏の外戚支配を招く 18 。 |
|
義祐(祐清) |
15代当主。伊東氏最盛期を築くが、後に没落 18 。 |
|
祐吉 |
兄・祐充の死後、一時的に家督を継ぐが早世 18 。 |
|
玉蓮 |
島津忠治の室となり、外交の一翼を担う 7 。 |
|
その他女子 |
相良長祗室など 18 。 |
対立した家臣 |
長倉若狭守 |
譜代重臣。綾の乱で尹祐を諫言し自刃 15 。 |
|
垂水但馬守 |
譜代重臣。綾の乱で尹祐を諫言し自刃 15 。 |
台頭した家臣 |
福永 祐炳 |
尹祐の舅。外戚として権勢を振るう 15 。 |
第二章:宿敵・島津氏との攻防と外交戦略
伊東尹祐の治世は、家中の内訌への対処と並行して、父祖の代からの宿敵である島津氏との熾烈な抗争に明け暮れた。父・祐国の仇討ちという個人的な動機と、日向における覇権確立という領主としての野望が、彼を絶え間ない戦いへと駆り立てた。しかし、尹祐は単なる猪突猛進の武将ではなく、戦況に応じて巧みな外交戦略を駆使する、優れた戦略家でもあった。
飫肥城を巡る執念と挫折
父・祐国が無念の死を遂げた飫肥城の攻略は、尹祐にとって当主としての最優先課題であった 7 。彼は家督を継いで以降、執拗に飫肥城への攻撃を繰り返すが、島津氏側の堅い守りを前に、戦況は一進一退を続けた。この長期にわたる消耗戦は、伊東氏の軍事力と経済力に大きな負担を強いたと考えられる。
明応四年の和睦:戦略的転換点
長期化する戦況を打開するため、尹祐は一つの大きな決断を下す。明応4年(1495年)、彼は宿敵・島津忠昌との間に和睦を結んだのである。この和睦の条件として、伊東氏は長年の係争地であった飫肥の領有権を事実上放棄する代わりに、大隅国北東部に位置する「三俣院(みまたいん)」の地、千町を獲得した 5 。
表面的に見れば、父の仇である飫肥を諦めたこの和睦は、一種の敗北や妥協と映るかもしれない。しかし、地政学的な観点から分析すると、これは尹祐による極めて高度な「戦略的ピボット(軸足の転換)」であったことがわかる。三俣院は、単なる代替地ではない。この地は、都城盆地の要衝に位置し 14 、島津氏の有力な一門であり、都城を本拠とする北郷(ほんごう)氏の勢力圏に楔を打ち込む戦略的拠点であった 13 。
つまり尹祐は、多大な犠牲を払いながらも決め手に欠けていた沿岸部での消耗戦から巧みに手を引き、その代わりに敵の勢力圏の中核地帯、その喉元に刃を突きつけるための新たな橋頭堡を手に入れたのである。この土地交換は、伊東氏の主たる攻撃軸を、日向南部の沿岸域から、島津氏とその庶流が盤踞する内陸の都城盆地へと転換させる、画期的な戦略転換であった。これにより、伊東氏は島津氏の分家である北郷氏と直接対峙することになり、南九州の勢力図に新たな緊張の軸を生み出した。これは、尹祐の優れた地政学的判断能力を示す好例と言える。
新たな戦線:北郷氏・北原氏との抗争
三俣院を獲得した尹祐は、その戦略的意図の通り、都城盆地への進出を本格化させる。永正元年(1504年)には、三俣院を拠点として北郷氏の本拠・都城へ兵を進めたが、この時は北郷氏の頑強な抵抗に遭い、撃退されている 2 。
同時に、尹祐は日向中部の有力国人である北原氏とも、庄内地方の野々美谷城(ののみだにじょう)などを巡って激しい争奪戦を繰り広げた 2 。尹祐がその生涯を閉じたのも、大永3年(1523年)、この北原氏との野々美谷城攻めの陣中であった。これらの活発な軍事行動は、尹祐が三俣院獲得を機に、守勢から攻勢に転じ、日向中央部から大隅方面へと勢力圏を拡大しようと積極的に行動していたことを明確に物語っている。彼の外交的決断は、伊東氏の戦略に新たな次元をもたらしたのであった。
第三章:領国経営と尹祐の統治
戦国大名がその軍事力を維持し、拡大していくためには、安定した領国経営と強固な経済基盤が不可欠である。伊東尹祐の治世は、絶え間ない内外の争乱に特徴づけられるが、その一方で、後の伊東氏の発展の礎となる領国支配体制の構築が進められた時代でもあった。しかし、その統治には、彼の野心と、彼自身が生み出した内部分裂という、深刻な矛盾が内包されていた。
経済基盤:港湾支配と交易
伊東氏の領国経営を支えた経済基盤の一つが、海上交易による利益であったと考えられる。伊東氏の勢力圏には、後の飫肥藩時代に「飫肥杉」の積出港として藩財政を支えることになる油津港(現在の宮崎県日南市)が含まれていた 22 。16世紀に入り、室町幕府と明との間の公式な勘合貿易が衰退すると、薩摩や日向の各港は、倭寇などによる私貿易(密貿易)の重要な中継拠点として、その価値を増していた 7 。南九州の覇権を争うライバル、北の大友氏が日明貿易や南蛮貿易に、南の島津氏が琉球貿易に深く関与していたことからも 6 、中間に位置する伊東氏がこうした交易網から利益を得ていた可能性は極めて高い。これらの港湾支配を通じて得られる経済力が、尹祐の執拗な軍事行動を財政的に支えていたと推察される。
分国支配の構造:「伊東四十八城」の萌芽
尹祐の治世は、彼の子・義祐の時代に最盛期を迎える「伊東四十八城」と呼ばれる、広域にわたる支城ネットワークの基礎を築いた時期として位置づけることができる 4 。これは、本拠地である都於郡城を中心に、佐土原城、綾城、清武城といった戦略的要衝に一族や有力家臣を城主として配置し、領国全域に当主の支配を浸透させようとする、先進的な分国支配体制であった 12 。
この支配体制の構築は、尹祐が単なる一地方の豪族ではなく、強力な中央集権体制を目指す戦国大名としての明確な意志を持っていたことを示している。彼が室町幕府の将軍・足利義尹(後の義稙)から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け、「尹祐」と名乗った事実も 28 、中央の権威と結びつくことで自らの支配の正統性を高めようとする、彼の政治的野心を裏付けている。
しかし、尹祐の統治は、この野心とは裏腹の深刻な矛盾を抱えていた。それは、「強力な中央集権国家を建設しようとする先進的な試み」と、「その国家の基盤となるべき家臣団を、自らの個人的感情によって分裂させてしまうという破壊的行動」が、彼の治世において同居していたというパラドックスである。堅固な城郭ネットワークという統治の「ハードウェア」を熱心に整備しながら、その運用を担うべき家臣団という「ソフトウェア」に、「綾の乱」という致命的なバグを自ら埋め込んでしまった。この構造的欠陥こそが、尹祐の築いた支配体制が内包する最大のアキレス腱であり、後の伊東氏の栄華がいかに脆い基盤の上に成り立っていたかを示唆している。
終章:尹祐の死と伊東氏の未来への遺産
伊東尹祐の生涯は、大永3年(1523年)、突如として終わりを告げる。彼の死は、伊東家に一時的な混乱をもたらすと同時に、彼が生前に蒔いた「正」と「負」の遺産を次代へと継承させることになった。尹祐の評価は、この二つの遺産をいかに捉えるかによって大きく分かれる。彼は伊東氏の飛躍の礎を築いた英雄か、それとも崩壊の種を蒔いた張本人か。その答えは、彼の死後の歴史の中にこそ見出される。
陣中での最期と権力の継承
大永3年(1523年)11月、尹祐は北原氏が守る野々美谷城を攻めている最中、陣中にて55歳で急死した 2 。さらに悪いことに、彼の死の直後には、弟の祐梁も相次いで死去し、伊東家は指導者を一挙に失う危機に瀕した 13 。
家督は、尹祐が生前に定めた通り、福永氏を母とする嫡男の祐充が継承した。しかし、祐充はまだ若年であったため、その後見役として外戚である福永一族が政治の実権を握ることになる。これにより、尹祐の時代に始まった新興外戚勢力の権勢はますます強まり、「綾の乱」以来くすぶり続けていた譜代家臣層の不満は、さらに深刻なものとなっていった 5 。
尹祐が残した「正」と「負」の遺産
伊東尹祐が次代に残した遺産は、光と影の二つの側面を持つ。
正の遺産 として評価されるべきは、第一に、彼の巧みな外交戦略である。飫肥を巡る不毛な消耗戦から脱却し、三俣院を獲得したことで、対島津戦略に新たな地平を切り開いた 13 。第二に、「伊東四十八城」に代表される、先進的な領国支配体制の基礎を築いたことである 2 。これらは間違いなく、彼の子・義祐の時代に伊東氏が日向の覇者として君臨する最盛期を迎えるための、重要な布石となった。
しかし、それ以上に深刻だったのが 負の遺産 である。家督相続を巡る一連の内訌、特に「綾の乱」を通じて、彼は伊東家の家臣団に修復不可能なほどの深い亀裂を刻み込んだ 15 。譜代の重臣層と新興の外戚勢力との間の根深い対立構造は、祐充、そして義祐の代になっても解消されることなく、常に伊東家の足元を揺るがし続ける最大の不安定要因となった。
歴史的評価:栄光と悲劇の分岐点に立つ男
結論として、伊東尹祐は、父祖の代からの宿願であった対島津戦線を維持しつつ、新たな戦略的拠点を獲得し、伊東氏の勢力拡大に大きく貢献した有能な戦国武将であった。彼の統治なくして、子・義祐の時代の栄光はあり得なかったであろう。
しかしその一方で、彼の個人的な感情や猜疑心に起因する一連の行動は、伊東家の内部に致命的な対立構造を生み出した。彼が築いた栄華の城は、その土台に深刻な亀裂を抱えていたのである。
伊東尹祐の生涯は、日向伊東氏が戦国大名として最大の飛躍を遂げる「栄光」への道筋をつけながらも、その後の「悲劇的崩壊」の種を蒔いた、まさに歴史の分岐点に立つ人物であったと言える。彼の子・義祐が築いた壮麗な四十八城の威容が、なぜかくも脆く崩れ去ったのか。その根本的な原因を理解するためには、父・尹祐の治世にまで遡り、彼が家臣団の心に残した傷跡を分析することが不可欠なのである。彼の物語は、一個人の決断が、数十年後の組織の運命をいかに決定づけるかを示す、時代を超えた普遍的な教訓を我々に示している。
引用文献
- 伊東氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B0%8F
- 武家家伝_伊東氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/itou_k.html
- 伊東一族~伊豆から日向へ~ - 探検!日本の歴史 - はてなブログ https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/ito-ichizoku
- 日向伊東氏 http://www.ito-ke.server-shared.com/newpage5.html
- 日向伊東氏の栄華と没落、島津氏と抗争を続けて240年余 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/07/18/181646
- 【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも…… - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/21/180000
- 「飫肥の合戦」の衝撃と日本史のゆらぎ - 伊東家の歴史館 http://www.ito-ke.server-shared.com/obitatakai.htm
- 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第36回 九州の城2(伊東氏と都於郡(とのこおり)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1310
- ライバル島津氏から奪い返した伊東氏の【飫肥城の歴史】を総まとめ https://japan-castle.website/history/obicastll/
- 島津氏の薩州家のこと【前編】 分家から本流になりかけるが…… - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/08/23/174654
- 戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2021/09/12/191309
- 三州統一へ、伊東義祐の豊後落ち/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(3) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2022/07/03/114451
- 武家家伝_北郷氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_hongo.html
- 三俣院高城(月山日和城)跡にいってみた、群雄が奪いあった都城盆地の要衝 https://rekishikomugae.net/entry/2022/03/21/110959
- 日向の歴史秘話 祐安と義祐 - 伊東家の歴史館 http://www.ito-ke.server-shared.com/sukeyasuyosisuke.htm
- 歴史の目的をめぐって 伊東義祐 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-itou-yoshisuke.html
- 伊東家の女性物語 - 伊東家の歴史館 http://www.ito-ke.server-shared.com/newpage6.html
- 伊東尹祐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B0%B9%E7%A5%90
- 伊東義祐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%BE%A9%E7%A5%90
- 島津義久 伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃る http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo2.htm
- 都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点 https://rekishikomugae.net/entry/2022/02/07/090325
- 伊東義祐(いとう よしすけ) 拙者の履歴書 Vol.119~日向の空に散りし野望 - note https://note.com/digitaljokers/n/nec22e48797a9
- 第65回 飫肥藩主に返り咲いた、伊東氏の城と城下町 萩原さちこの城さんぽ - 城びと https://shirobito.jp/article/1798
- 島津氏の貿易構想 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20220514183528-1.pdf
- 伊東四十八城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%9F%8E
- 都於郡城 | 九州隠れ山城10選 | 九州の感動と物語をみつけようプロジェクト https://www.welcomekyushu.jp/project/yamashiro-tumulus/yamashiro/20
- 伊東氏四十八城 - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hyuuga/ito48/
- 日向伊東氏の系図について https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/ito