伊東祐慶(いとう すけのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市周辺)の第二代藩主です 1 。戦国時代の終焉と江戸幕府による新たな支配体制が確立されるという、まさに時代の大きな転換期にその生涯を送りました。
本報告書は、伊東祐慶に関する詳細かつ徹底的な調査に基づき、その生涯、事績、そして歴史的意義を明らかにすることを目的とします。ユーザー様が既に把握されている、祐慶が伊東祐兵の子であること、関ヶ原の戦いにおいて父と共に東軍に属し、高橋元種軍や島津軍と戦ったこと、父の死後に日向飫肥3万6千石を継ぎ、検地や開墾を行ったといった基本的な情報 [ユーザー提供情報] を踏まえつつ、これらの事績をより深く掘り下げ、祐慶の人物像、藩主としての藩政運営、さらには彼を取り巻く人間関係や文化的側面にも光を当てていきます。
祐慶の治世は、父・祐兵が豊臣秀吉の下で一度は没落した伊東氏を再興し、その基盤を徳川幕藩体制という新たな枠組みの中で確固たるものへと移行させる、極めて重要な時期にあたっていました。そのため、祐慶の一つ一つの行動や政策決定は、この過渡期における小藩の存続戦略と、将来を見据えた藩政の方向性を色濃く反映していると考えられます。本報告を通じて、伊東祐慶という一人の大名の生涯を多角的に検証し、その歴史的役割を明らかにしていきます。
伊東祐慶を理解する上で、彼が属した日向伊東氏の歴史的背景と、父・祐兵、母・阿虎の方(松寿院)の存在は欠かせません。
日向伊東氏の略歴
伊東氏は、その祖を平安時代の貴族である藤原氏に持つとされ、鎌倉時代に工藤祐経の子・祐時が日向国の地頭職を得て土着したことに始まると伝えられています 3。以来、日向国において勢力を拡大し、室町時代末期には伊東義祐が登場し、南九州の覇権を巡って島津氏と激しい抗争を繰り返しました 3。この伊東氏が中央の藤原氏に連なるという名門意識と、在地領主としての長い歴史は、後の藩政運営や幕府との関係構築において、少なからず影響を与えた可能性があります。特に、伊東氏の祖先が朝廷の建築営繕を司る木工寮(もくりょう)の官職「木工介(もくのすけ)」を務めたという伝承があり、伊東氏の家紋の一つである「庵木瓜(いおりもっこう)」もこれに由来するとされています 6。この伝統は、後の飫肥藩における植林事業への関心の遠因となったとも考えられます。5代藩主伊東祐実が飫肥杉の植林と増産に努めた背景には、この「木工介」や「工藤」といった家業の伝統への強い思い入れがあったと指摘されており 6、その意識の萌芽が祐慶の時代にも存在し、彼の植林事業開始の一助となった可能性は否定できません。
父・伊東祐兵(すけたけ/すけたか)
祐慶の父である伊東祐兵は、日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主であり、日向飫肥藩の初代藩主です 10。『南家伊東氏藤原姓系図』や『伊東氏系図』では「伊東氏中興の祖」と記され 10、その生涯は波乱に満ちたものでした。永禄2年(1559年)に伊東義祐の次男として生まれ 10、幼くして飫肥城主とされますが、天正5年(1577年)、家臣の謀反と島津氏の侵攻により父・義祐と共に日向を追われ、豊後国の大友宗麟を頼ります 10。その後、大友氏も島津氏に敗れると、伊予国へ渡り困窮した生活を送りました 10。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕える機会を得てからは、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いに従軍し、秀吉の九州征伐では先導役として活躍します 10。これにより、かつての本拠地である飫肥周辺の地を与えられ、3万6千石の大名として復帰を果たしました 11。文禄・慶長の役にも参陣しましたが 11、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には大坂で病床にあり、同年10月11日に42歳でその生涯を閉じました 2。
この父・祐兵の一時的な没落と、それに続く苦難の末の再興という経験は、若き祐慶にとって藩経営における重要な教訓となったはずです。特に、秀吉や家康といった中央の最高権力者との関係構築の巧拙が、一族の存亡を左右することを目の当たりにした経験は、その後の祐慶の行動指針に大きな影響を与えたと考えられます。
母・阿虎の方(松寿院)
祐慶の母は阿虎の方(おとらのかた)、法名を松寿院(しょうじゅいん)といい、伊東義祐の嫡男であった伊東義益の娘です 1。つまり、祐兵にとっては姪にあたります。彼女の出自で特筆すべきは、江戸幕府大奥の有力女中であった按察使局(あぜちのつぼね)の従姉妹であったという点です 1。この繋がりは、小藩であった飫肥藩が徳川幕府と良好な関係を築く上で、非常に有利に働いたと考えられます。
松寿院は、単に藩主の母という立場に留まらず、藩政にも積極的に関与した形跡がうかがえます。慶長7年(1602年)に起こった稲津の乱では、重臣の山田匡徳らと図って稲津重政の誅殺を決定したとされ 14、また、慶長10年(1605年)からは人質として江戸に下向し、大坂夏の陣直後(慶長20年/元和元年、1615年)には、江戸から国許の祐慶に対して幕府内部の情報を送り、上洛を促すなど的確な助言を行っています 15。彼女は娘たちを徳川家の家臣に嫁がせるなど、伊東家と幕府の絆を深めることにも貢献しました 15。これらの活動から、松寿院が人質という立場にありながらも、情報収集や政治的判断において、祐慶の藩政初期を支える重要な役割を担っていたことが推察されます。
伊東祐慶は、天正17年6月13日(西暦1589年7月25日)に生まれました 2。幼名は熊太郎と伝えられています 2。
官位は従五位下に叙され、左京亮(さきょうのすけ)、後に修理大夫(しゅりのだいぶ)を称しました 2。
慶長5年(1600年)10月、父・祐兵が大坂で病死したことに伴い、祐慶はわずか12歳で伊東家の家督を相続し、飫肥藩の第二代藩主となりました 2 。このように若年で家督を継いだことは、藩政の初期において、家臣団の掌握や藩主としての権力基盤の確立に困難を伴った可能性があり、これが後に述べる稲津の乱の一因となったとも考えられます。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、12歳で家督を相続したばかりの伊東祐慶にとって、藩の存亡を左右する最初の大きな試練でした。
関ヶ原の戦いが起こった際、父・祐兵は大坂の屋敷で重い病の床に伏しており、自ら出陣することは叶いませんでした 11 。しかし、祐兵は伊東家の将来を見据え、密かに嫡男である祐慶を領国の日向へ送り、軍備を整えさせます。そして、旧知の間柄であった黒田孝高(如水)を通じて、徳川家康への味方を表明しました 11 。この伊東氏の動きは、日向国の諸大名の中では唯一、当初から東軍に与するというものであり 16 、結果的に戦後の伊東氏の運命を大きく左右することになります。
領国に戻った祐慶は、家臣である稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の進言を受け入れ、西軍に与していた高橋元種(たかはしもとたね)の所領である宮崎城(現在の宮崎市)を攻撃する決断を下します。宮崎城は高橋元種の飛び地であり、伊東領に隣接していました。伊東軍は宮崎城を攻め、これを陥落させました 2 。
しかし、この宮崎城攻撃とほぼ時を同じくして、城主である高橋元種は東軍へ寝返っていました 2 。この情報は、大垣城で元種が東軍に降伏したことからも裏付けられます 13 。そのため、伊東氏が占領した宮崎城は、戦後処理において高橋元種に返還されることとなりました 2 。
このような複雑な経緯はあったものの、伊東氏の東軍への早期の帰属と具体的な軍事行動は徳川家康に評価され、戦後、祐慶は所領を安堵されました 2 。これは、父・祐兵の周到な外交戦略と、若き祐慶がその意を汲んで行動した結果であり、飫肥藩存続の決定的な要因となったと言えるでしょう。
関ヶ原の戦いを乗り切った伊東祐慶でしたが、藩内には新たな火種が燻っていました。それが、家老・稲津重政の処断、いわゆる「稲津の乱」です。
慶長7年(1602年)、祐慶は、先の宮崎城攻撃の責任を問うという形で、稲津重政を清武城(現在の宮崎市清武町)にて討つことを命じます 2 。稲津重政は伊東氏の庶流の家系で、若くしてその才能を父・祐兵に見出され、19歳で祐兵の小姓となり、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍しました。慶長3年(1598年)には清武城主に任じられ、家老職にも抜擢されるなど、祐兵から厚い信任を得ていた人物です 19 。関ヶ原の戦いにおける宮崎城攻撃では、伊東軍の総大将として3千の兵を指揮し、巧みな采配で城を一日で陥落させました。その後も、宮崎城を守り抜き、寡兵をもって度々島津軍を撃退するなど、その武勇は近隣に知れ渡っていました 19 。
このような功臣であった稲津重政がなぜ誅殺されなければならなかったのか、その理由は諸説あります。
一つは、表向きの理由とされる宮崎城攻撃の責任です 13。高橋元種が既に東軍に寝返っていたにも関わらず攻撃を行ったこと、そしてその結果、宮崎城を返還せざるを得なかったことなどが問題視されたというものです。
しかし、より深層には、祐慶による藩主権力の確立という意図があったと考えられます。稲津重政は父・祐兵の代からの有力家臣であり、その武功と影響力は、若き新藩主である祐慶にとって、自らの親政を進める上での障害となり得る存在でした。重政自身も、祐兵の死後、次第に伊東家中で孤立し、専横的な行動が見られたり、主君である祐慶を軽んじるような態度を取ったりしたとも伝えられています 15。『日向纂記』によれば、大内真という人物と席次を巡って対立した記録もあり 15、家臣団内部での軋轢も存在したようです。
さらに、この誅殺には、祐慶の母・松寿院や、伊東義祐の代からの宿老である山田匡徳(宗昌)らが関与していたという説もあります 14。これは、重政の台頭を快く思わない旧来の重臣層と、藩内の安定と藩主権力の強化を望む松寿院の思惑が一致した結果かもしれません。
稲津重政は、祐慶からの命令に不服とし、手勢を集めて清武城に立て籠もり抵抗しましたが、まもなく飫肥藩兵によって攻め落とされ、誅殺されました 13 。この一連の騒動は「稲津の乱」と呼ばれ、伊東祐慶が名実ともに飫肥藩の支配者としての地位を固める上で、避けては通れない試練であったと言えるでしょう。この事件を通じて、祐慶は家臣団に対する統制を強化し、藩政運営の主導権を確立していったと考えられます。
家督を相続し、関ヶ原の戦いとそれに続く稲津の乱という内外の試練を乗り越えた伊東祐慶は、飫肥藩の藩政確立に向けて本格的に取り組み始めます。その治績の中でも特に重要なのが、検地の実施と石高の確定、そして将来の藩財政の柱となる飫肥杉の植林事業です。
伊東祐慶は、藩主として領内の実態を把握し、財政基盤を固めるために検地を実施しました [ユーザー提供情報]。具体的な時期としては、慶長10年(1605年)に検地が行われた記録があり、これにより飫肥藩の石高は5万7086石(あるいは5万7000余石)と確定されました 22 。これは、藩成立当初の公称石高であった2万8000石 22 や、父・祐兵が豊臣秀吉から与えられた際の3万6000石 11 から比較すると、大幅な増加となります。
この石高の増加は、単にこれまで把握されていなかった耕地が明らかになったというだけでなく、祐慶の治世下で行われた新田開発(開墾)の成果も反映していると考えられます [ユーザー提供情報]。資料によっては「無理な検地を重ねて」石高が増加したという記述も見られ 23 、検地が極めて厳格に行われたこと、あるいは農民にとっては負担の大きいものであった可能性も示唆されますが、いずれにせよ、この石高の確定は年貢増収に直結し、飫肥藩の財政基盤を強化する上で極めて重要な意味を持ちました。また、幕藩体制下において、藩の公称石高は軍役負担の基準となるなど、藩の格付けにも影響するものでした。この慶長10年の検地によって確定された石高が、その後の飫肥藩政の基礎となったのです。
伊東祐慶の治績として最も特筆すべきものの一つが、飫肥杉の植林事業です。この事業は、飫肥藩の将来を見据えた長期的な経済政策であり、その後の藩財政を大きく支えることになりました。
植林事業が開始されたのは元和年間(1615年~1624年)とされ 2 、より具体的には元和9年(1623年)に、藩財政の窮乏を救う目的で、藩主である伊東祐慶の指示によって領内でのスギ(飫肥杉)の植林が始まったと記録されています 24 。その目的は明確に、藩財政の基礎を築くことでした 2 。
飫肥地方は山がちで平地が少なく、農業生産力には限界がありました 26 。そのため、山林資源の活用は経済的合理性の高い選択でした。植林された飫肥杉は、材質が油分を多く含み、軽量で強度があり、造船材や建築材として非常に優れていたため、江戸時代を通じて飫肥藩の主要な専売品となり、藩財政を大いに潤しました 22 。
この植林事業の背景には、単なる経済的合理性だけでなく、伊東氏の持つ歴史的・文化的な伝統が影響していた可能性も指摘されています。前述の通り、伊東氏の祖先は朝廷の「木工介」という官職にあり、家紋「庵木瓜」もこれに由来するという説があります 6。この「木工」の伝統、すなわち木材に関わる家業としての意識が、林業政策への関心を高め、植林事業を後押ししたのではないかという見方です 6。後の5代藩主伊東祐実による大規模な植林や堀川運河の掘削といった事業も、この家業の伝統への強い思い入れが背景にあったとされており 6、その意識の源流が祐慶の時代に遡るとしても不自然ではありません。
植林事業は、成果が現れるまでに数十年という長い年月を要する投資です。江戸時代初期において、藩主導でこのような大規模かつ計画的な植林事業に着手したことは、伊東祐慶の先見の明を示すものと言えるでしょう。この事業は、単なる財政再建策に留まらず、領土に対する永続的な関与と経営意志の表明であり、伊東氏のアイデンティティとも結びついた、意義深い政策であったと考えられます。
検地や植林事業に加え、伊東祐慶は開墾や城下町の整備、そして隣接する大藩・薩摩藩島津氏との関係調整など、多岐にわたる藩政に取り組みました。
ユーザー様がご存知の通り、祐慶は「開墾を行った」とされています [ユーザー提供情報]。これは、前述した検地による石高の大幅な増加という事実からも裏付けられます。具体的な開墾事業の詳細な記録は、現時点での調査資料からは確認が難しいものの、石高の増加がその成果を雄弁に物語っています。
城下町の整備に関しては、父・祐兵が島津氏による占領と風雨で傷んだ飫肥城を改修し、城下町の再建に着手していました 30 。祐慶もこの事業を継承し、さらに発展させたと推測されます。現在の飫肥の町並みが、江戸時代初期の地割をよく留めていること 31 は、祐兵・祐慶父子による整備の成果と言えるでしょう。城下町は、藩の軍事拠点であると同時に、政治・経済の中心地としての機能を高める上で不可欠なものでした。
一方、対外的には、強大な隣藩である薩摩藩島津氏との関係が重要な課題でした。関ヶ原の戦いを経ても、両藩の間には依然として緊張関係が残っていました。特に藩境を巡る問題は深刻で、寛永4年(1627年)から、実に延宝3年(1674年)に至るまで、約半世紀にわたる境界争いが続いた記録があります 33 。伊東祐慶の治世は、この長い藩境争いの初期にあたります。藩政の安定には、内政の充実はもちろんのこと、島津氏との外交関係をいかに安定させるかが極めて重要であり、この藩境問題は祐慶の治世における大きな外交的課題の一つであったと考えられます。
伊東祐慶の生涯と藩政を理解する上で、彼を支え、また時には対立した家族や家臣たちの存在は無視できません。
伊東祐慶の正室は、大田原氏の娘でした。また、側室として森本氏がいたと記録されています 2 。
祐慶には、少なくとも二人の男子がいました。
長男は**伊東祐久(いとう すけひさ)**で、母は正室である大田原氏の娘です 2。祐慶が寛永13年(1636年)に死去すると、祐久が家督を相続し、飫肥藩の第三代藩主となりました 2。
次男は**伊東祐豊(いとう すけとよ)**で、母は側室の森本氏です 2。祐豊は、江戸幕府三代将軍・徳川家光の小姓を務めました。元和9年(1623年)には二条城において二代将軍・徳川秀忠に初めて御目見えし、寛永3年(1626年)からは家光付きとなっています 11。父・祐慶が死去した寛永13年(1636年)、兄の祐久より日向国内の南方村2000石と松永村1000石、合計3000石を分知され、旗本として別家を立てました 2。その後、書院番士となり、中奥に勤めたとされています 11。
この次男・祐豊の旗本としての分家は、伊東本家と幕府との関係をより緊密にするという政治的な意味合いがあったと考えられます。また、藩の石高の一部を割いて分家させることは、本家の財政的負担を軽減しつつ、一族全体の安泰を図るという、当時の大名家によく見られた戦略の一つでもありました。
伊東祐慶の母である松寿院(阿虎の方)は、彼の藩政初期において極めて重要な役割を果たしました。彼女は単に藩主の母、あるいは江戸への人質という立場に留まらず、その出自と才覚をもって積極的に藩政に関与し、若き祐慶を支えました。
前述の通り、松寿院は伊東義益の娘であり、江戸幕府大奥で権勢を誇った按察使局の従姉妹という血縁関係にありました 1 。この大奥との繋がりは、小藩である飫肥藩が中央政界、特に幕府との良好な関係を構築し維持していく上で、計り知れない価値を持っていたと考えられます。
松寿院の藩政への具体的な関与としては、まず慶長7年(1602年)の稲津の乱における動向が挙げられます。この時、彼女は重臣の山田匡徳らと謀り、稲津重政の誅殺を決定したとされています 14。これは、藩主権力の確立を目指す祐慶の意向を汲み、あるいはそれを主導する形で、藩内の重要問題の解決に深く関わったことを示しています。
さらに、慶長10年(1605年)からは人質として江戸に下向しますが、そこでも彼女の活動は続きます。特に、大坂夏の陣(慶長20年/元和元年、1615年)直後には、江戸の幕府内部から得た情報を国許の藩主祐慶に送り、上洛のタイミングなどについて的確な助言を与えたと記録されています 15。これは、彼女が江戸にいながらも藩の情勢を的確に把握し、政治的な判断を下せる能力を持っていたことを示唆しています。また、江戸では自らの娘たちを徳川家の有力家臣に嫁がせるなどして、伊東家と幕府との間の絆を深めることにも尽力しました 15。
これらの事績から、松寿院は、情報収集能力、政治的判断力、そして幕府との交渉におけるパイプ役として、特に伊東祐慶の治世初期における藩政の安定と発展に不可欠な存在であったと言えるでしょう。
伊東祐慶の治世を語る上で、彼を支えた、あるいは彼と対峙した主要な家臣たちの動向も重要です。
伊東祐慶の治世は、父・祐兵の代からの家臣団をいかに掌握し、自らの下で新たな藩体制を構築していくかという課題に直面していました。稲津重政のような、父の代に大きな力を持った新興勢力を排除しつつ、山田匡徳や川崎駿河守のような譜代の宿老たちとの協調を図ることが、藩政安定の鍵であったと言えるでしょう。この過程を経て、祐慶は藩主としての権力基盤を固めていったのです。
伊東祐慶は、藩政の基礎を固め、将来への布石を打った後、比較的若くしてその生涯を閉じますが、彼の残したものは飫肥藩のその後に大きな影響を与えました。
伊東祐慶の文化的側面を示す重要な事績として、江戸における東禅寺(とうぜんじ)の建立が挙げられます。
東禅寺は、慶長14年(1609年)38 または慶長15年(1610年)39 に、伊東祐慶が臨済宗の僧である嶺南崇六(れいなんそうろく)を招聘し、江戸の赤坂(現在の東京都港区赤坂)に「嶺南庵」として創建したのが始まりです。その後、寛永13年(1636年)、祐慶が亡くなる年に、高輪(現在の東京都港区高輪)の現在地に移転しました 38。寺名は、祐慶の法名である「東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士」に由来しています 38。
東禅寺建立の主な目的は、伊東家の江戸における菩提寺とすることでした 39 。江戸時代、大名は参勤交代により江戸に滞在する期間が長かったため、江戸に菩提寺を持つことは一般的でした。さらに東禅寺は、伊東家だけでなく、他の多くの大名家も江戸での菩提寺として利用したと記録されており 39 、妙心寺派の江戸四箇寺の一つに数えられるなど、格式の高い寺院でした 38 。
江戸にこのような寺院を建立することは、単に宗教的な意味合いだけでなく、いくつかの政治的・社会的な意味も持っていたと考えられます。まず、幕府の膝元である江戸に菩提寺を構えることは、大名家が徳川幕府の治世下で恒久的に存続していく意思を示す象徴的な行為であり、幕府への恭順の意を表すものでもありました。また、他の大名家も利用する寺院とすることで、大名間の情報交換や社交の場としての機能も期待されたかもしれません。
伊東祐慶は、寛永13年4月4日(西暦1636年5月8日)、48歳でその生涯を閉じました 2 。
祐慶の墓所については、以下の記録があります。
伊東祐慶の治世は、飫肥藩のその後の歴史に大きな影響を与えました。
伊東祐慶は、戦国時代の終焉から江戸幕藩体制の確立期という激動の時代において、日向国飫肥藩の第二代藩主として、巧みな政治手腕と先見性のある政策によって藩政の基礎を固めた重要な人物です。
父・伊東祐兵が築いた伊東氏再興の基盤を弱冠12歳で受け継いだ祐慶は、まず関ヶ原の戦いという大きな試練に直面しました。父の遺志を継ぎ、黒田孝高を通じていち早く東軍に与したことは、戦後の所領安堵に繋がり、飫肥藩存続の道を切り開きました。その後の稲津の乱では、若年ながらも藩主としての権威を示し、家臣団を掌握することで、藩内統治の安定化を図りました。
藩政においては、慶長10年(1605年)の検地によって石高を大幅に増加させ、藩財政の基盤を強化しました。そして、彼の治績の中で最も特筆すべきは、元和年間(1615年~1624年)に開始された飫肥杉の植林事業です。これは、短期的な成果にとらわれず、数十年後を見据えた長期的な投資であり、後の飫肥藩の経済を支える大黒柱となりました。この政策には、単なる経済的合理性だけでなく、伊東氏の祖先が「木工介」であったという伝承に繋がる、木材や林業に対する特別な意識が影響していた可能性も否定できません。
また、母・松寿院の政治的サポートも、特に祐慶の藩政初期における安定に大きく寄与したと考えられます。彼女の出自や江戸における活動は、小藩である飫肥藩が幕府と良好な関係を築く上で重要な役割を果たしました。江戸・東禅寺の建立は、幕藩体制下における大名としての務めを果たすと同時に、伊東家の威信を示すものでもありました。
伊東祐慶の生涯とその治績は、戦国時代から江戸時代初期への移行期において、地方の小藩がいかにして存続し、安定的な統治体制を築き上げていったかを示す好例と言えます。彼の政策決定には、常に藩の将来を見据えた戦略性と、伊東氏の歴史的背景や文化的アイデンティティが深く関わっていたことがうかがえます。その堅実な藩政運営は、江戸時代を通じて続く飫肥藩の礎を築いたと言えるでしょう。
伊東祐慶 略年譜
和暦 |
西暦 |
祐慶の年齢 |
主な出来事 |
関連人物 |
官位 |
天正17年6月13日 |
1589年7月25日 |
0歳 |
日向国にて生誕。幼名、熊太郎 2 。 |
父:伊東祐兵、母:阿虎の方(松寿院) |
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慶長5年 |
1600年 |
12歳 |
関ヶ原の戦い。父・祐兵の指示で東軍に属す。家臣・稲津重政の進言で高橋元種の宮崎城を攻撃・落城させるが、元種の東軍寝返りにより返還 2 。 |
伊東祐兵、稲津重政、高橋元種、徳川家康 |
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慶長5年10月11日 |
1600年11月16日 |
12歳 |
父・伊東祐兵が死去し、家督を相続。飫肥藩第二代藩主となる 2 。 |
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従五位下左京亮、修理大夫 2 |
慶長7年 |
1602年 |
14歳 |
稲津の乱。宮崎城攻撃の責任等で家老・稲津重政を清武城にて誅殺 2 。 |
稲津重政、松寿院、山田匡徳 |
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慶長10年 |
1605年 |
17歳 |
検地を実施し、石高が5万7086石となる 22 。母・松寿院が人質として江戸へ下向 15 。 |
松寿院 |
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慶長14年(または15年) |
1609年(または1610年) |
21歳(または22歳) |
江戸赤坂に嶺南庵(後の東禅寺)を創建 38 。 |
嶺南崇六 |
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元和年間 |
1615年~1624年 |
27歳~36歳 |
領内にスギ(飫肥杉)の植林事業を開始(具体的には1623年頃) 2 。 |
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寛永13年4月4日 |
1636年5月8日 |
48歳 |
死去 2 。東禅寺が高輪に移転 38 。長男・祐久が家督相続。次男・祐豊が3000石分知 2 。 |
伊東祐久、伊東祐豊 |
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伊東祐慶 関係人物一覧
続柄 |
氏名(通称・法名など) |
生没年(判明分) |
祐慶との関わり・主要な事績の簡潔な説明 |
父 |
伊東祐兵(いとう すけたけ/すけたか) |
永禄2年(1559年)~慶長5年(1600年) |
飫肥藩初代藩主。伊東氏中興の祖。島津氏との抗争、豊臣秀吉への臣従を経て飫肥藩を再興 10 。 |
母 |
阿虎の方(おとらのかた)(松寿院 しょうじゅいん) |
永禄8年(1565年)~寛永14年(1637年)頃 15 |
伊東義益の娘。祐兵の正室。江戸幕府大奥の按察使局の従姉妹。稲津の乱や藩政初期に祐慶を補佐。江戸で人質となる 1 。 |
正室 |
大田原氏(おおたわらし) |
不詳 |
祐慶の正室。長男・祐久の母 2 。 |
側室 |
森本氏(もりもとし) |
不詳 |
祐慶の側室。次男・祐豊の母 2 。 |
長男 |
伊東祐久(いとう すけひさ) |
不詳~明暦3年(1657年) |
祐慶の長男(母は正室大田原氏)。飫肥藩第三代藩主 2 。 |
次男 |
伊東祐豊(いとう すけとよ) |
不詳~寛文8年(1668年) |
祐慶の次男(母は側室森本氏)。徳川家光の小姓。3000石を分知され旗本となる 2 。 |
主要家臣 |
稲津掃部助重政(いなづ かもんのすけ しげまさ) |
天正2年(1574年)~慶長7年(1602年) |
祐兵に重用された家老。清武城主。関ヶ原の戦いで宮崎城を攻略。後に祐慶に誅殺される(稲津の乱) 18 。 |
主要家臣 |
山田匡徳(やまだ まさのり)(山田宗昌 やまだ むねまさ) |
天文13年(1544年)~元和6年(1620年) |
伊東氏の宿老。酒谷城主。稲津重政誅殺に関与したとされる 14 。 |
主要家臣 |
川崎駿河守(かわさき するがのかみ) |
不詳~元和元年(1615年) |
伊東義祐・祐兵・祐慶の三代に仕えた忠臣。晩年は清武地頭 37 。 |