序論
本報告書は、戦国時代の武将である伊東義賢(いとう よしかた)の生涯、事績、および彼を取り巻く歴史的背景について、詳細な調査に基づき解明することを目的とする。伊東義賢は、日向伊東氏の興亡という激動の時代に生きた人物でありながら、彼自身の具体的な活動に関する記録は比較的乏しい。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、その実像に迫ることを試みるものである。
なお、伊東義賢の祖父である伊東義祐(いとう よしすけ)が、一時期「伊東義賢」あるいは「伊東義範」と名を改めたことがあるとの記録が存在するが 1 、本報告書で対象とする「伊東義賢」は、義祐の孫にあたる人物である。この点は、歴史記述における混同を避ける上で、まず明確にしておく必要がある。
第一章:伊東義賢の出自と伊東氏の背景
第一節:伊東義賢の生い立ちと家族
伊東義賢の父は伊東義益(いとう よします)、母は土佐の有力国人であった一条房基(いちじょう ふさもと)の娘、阿喜多(あきた)である 2 。しかし、父・義益は永禄12年(1569年)に病没したため、義賢は幼少期を祖父である伊東義祐(いとう よしすけ)のもとで養育されることとなった 2 。父の早世は、義賢の成長過程における祖父・義祐の影響力を決定的なものとし、後の家督相続や伊東家における実権の所在に深く関わることになる。
義賢には弟として祐勝(すけかつ)がいた 2 。祐勝もまた、兄・義賢と同様に文禄の役に加わり、朝鮮半島で病を得て帰国する途上、文禄2年(1593年)に24歳の若さで没している 3 。
義賢の妻は、豊後の大名、大友宗麟(おおとも そうりん)の娘であるレジナ(洗礼名)であった 2 。この婚姻は、後に伊東氏が豊後に落ち延びた際に、大友氏との政治的結びつきを強化する上で重要な意味を持ったと考えられる。また、「伊東氏大系図」によれば、義賢には伊東家臣に嫁いだ娘が一人いたと伝えられている 2 。
義賢の祖父である伊東義祐は、日向国において伊東氏の最大版図を築き上げた人物である 5 。永禄11年(1568年)には長年の宿敵であった島津氏の飫肥(おび)城を攻略し、伊東氏の最盛期を現出した 5 。しかし、その後の木崎原の戦いでの敗北 7 を境に、伊東氏は衰退の道を辿ることになり、義賢の生涯に最も大きな影響を与えた存在と言える。
義賢の叔父には伊東祐兵(いとう すけたけ)がいる。祐兵は義賢の父・義益の弟にあたり 3 、伊東氏が日向を追われた後、豊臣秀吉に仕えて武功を重ね、最終的には伊東氏を再興して飫肥藩の初代藩主となった人物である 3 。祐兵の存在は、義賢の生涯、特にその死因を考察する上で重要な関連を持つことになる。
表1:伊東氏主要系図(義賢中心)
関係 |
氏名 |
備考 |
祖父 |
伊東義祐(いとう よしすけ) |
伊東氏第16代当主、日向伊東氏最盛期を築く |
父 |
伊東義益(いとう よします) |
義祐の子、義賢の父。永禄12年(1569年)病没 |
母 |
阿喜多(あきた) |
一条房基の娘 |
本人 |
伊東義賢(いとう よしかた) |
本報告書の対象。洗礼名ドン・バルテルミー |
妻 |
レジナ |
大友宗麟の娘 |
子 |
娘(氏名不詳) |
伊東家臣に嫁ぐ |
弟 |
伊東祐勝(いとう すけかつ) |
義賢の弟。洗礼名ドン・ジェロニモ。文禄2年(1593年)病没 |
叔父 |
伊東祐兵(いとう すけたけ) |
義益の弟、義賢の叔父。飫肥藩初代藩主 |
(出典: 2 等に基づき作成)
第二節:伊東氏の略史と義賢の時代的位置づけ
伊東氏は、鎌倉時代に工藤祐経(くどう すけつね)が源頼朝から日向国の地頭職を与えられたことをその起源とする武家である 11 。代々、都於郡(とのこおり)城を本拠として勢力を拡大し、義賢の祖父である伊東義祐の時代には、島津氏の支配下にあった飫肥城を攻略するなど、日向国内に一時的ながら覇権を確立するに至った 5 。
しかし、義賢が歴史の表舞台に登場する時期は、伊東氏が元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおいて島津義弘に大敗を喫し 7 、その勢力を急速に失墜させていく過渡期にあたる。義賢の生涯は、まさに伊東氏の栄光が過去のものとなり、一族が没落の淵に沈んでいく、その狭間に位置づけられる。彼は伊東氏の最盛期を直接経験することなく、一族の存亡をかけた苦難の中でその短い生涯を送ることになるのである。
第二章:伊東義賢の生涯と事績
第一節:家督相続と祖父・伊東義祐の実権
伊東義賢は、父・伊東義益が永禄12年(1569年)に病没した後、祖父である伊東義祐の後見のもとで養育された 2 。そして天正5年(1577年)、11歳という若さで伊東家の家督を正式に相続した 2 。しかし、義賢はまだ幼少であったため、家中の実権は依然として祖父・義祐が掌握していた 2 。このため、義賢は形式上の当主ではあったものの、実質的な権力を持たない、いわば傀儡に近い立場であった可能性が高い。この状況が、義賢自身の主体的な行動に関する記録が乏しい一因となっているのかもしれない。
第二節:伊東氏の没落と豊後への退避
義賢が家督を相続した天正5年(1577年)は、伊東氏にとって運命の年であった。この年、宿敵・島津氏の本格的な攻勢を受け、伊東氏は本拠地である日向国からの退去を余儀なくされる 2 。義賢をはじめとする伊東一族は、母・阿喜多の縁者である豊後の大名、大友宗麟を頼って落ち延びることになった 2 。この豊後落ちには、後に伊東氏を再興する叔父の伊東祐兵も同行していた 3 。
伊東氏の没落は、単一の原因によるものではなく、複合的な要因が絡み合っていた。その最大の契機は、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおける島津軍への大敗である 6 。この敗戦は伊東氏の軍事力を著しく低下させた。加えて、家中では「伊東崩れ」と呼ばれる内紛が発生し 6 、さらに島津氏による巧みな調略工作も行われるなど 12 、伊東氏は内外からの圧力によって急速に弱体化していった。義賢の家督相続は、まさに一族が存亡の危機に瀕したその瞬間と重なっていたのである。彼が当主としての指導力を発揮する以前に、伊東氏は故郷を失うという最大の試練に直面したのであった。
第三節:大友宗麟との関係とキリスト教への改宗
日向を追われた伊東義賢ら一族は、豊後国において大友宗麟の庇護を受けることになった 2 。この豊後での生活の中で、義賢は宗麟の影響を強く受け、天正10年(1582年)にキリスト教の洗礼を受けた。その洗礼名はドン・バルテルミー(Don Bartolomeu)であった 2 。この時、義賢の母・阿喜多も同時に受洗している 14 。
興味深いことに、義賢の弟である祐勝は、兄よりも早く洗礼を受けており、ドン・ジェロニモ(Don Jeronimo)という洗礼名を持ち、安土にあったセミナリヨ(神学校)に入学していたとの記録もある 14 。
伊東義賢のキリスト教改宗の背景には、単に個人的な信仰の問題だけでなく、当時の政治的・社会的状況が深く関わっていたと考えられる。庇護者であった大友宗麟自身が熱心なキリシタン大名であり、その領内ではキリスト教が積極的に保護されていた 15 。宗麟は、鉄砲や硝石といった西欧の軍事技術や物資の入手と引き換えに、キリスト教の布教を許容、あるいは奨励していた側面があった 16 。日向を失い、大友氏の支援なしには立ち行かない伊東氏にとって、宗麟の意向に沿う形でキリスト教に改宗することは、大友氏との良好な関係を維持し、将来的な支援を確保するための政治的判断であった可能性も否定できない。母・阿喜多の同時受洗や、弟・祐勝の早期の受洗と神学校入学は、伊東家が西欧の進んだ文化や技術、そしてその背景にあるキリスト教世界との繋がりを模索し、一族再興の活路を見出そうとしていたことの表れと見ることもできるだろう。
第四節:九州平定と日向への帰還
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が完了すると、伊東氏の運命にも転機が訪れる。義賢の叔父である伊東祐兵は、秀吉のもとで九州平定戦に参陣し、その功績によって旧領である日向国飫肥に所領を与えられ、伊東氏の再興を果たした 3 。これに伴い、長らく豊後で亡命生活を送っていた伊東義賢も、日向国へ帰参することができた 2 。
しかし、この時点で伊東家の実権は、秀吉から直接所領を与えられた叔父・祐兵の手に完全に移っていたと考えられる。義賢はかつての当主ではあったものの、その立場は依然として微妙なものであったと推察される。
第五節:文禄の役への従軍
日向へ帰参した後の伊東義賢の動向として記録されているのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)への従軍である。文禄元年(1592年)に始まったこの戦役に、義賢は伊東軍の一員として朝鮮半島へ渡海した 2 。当時の大名やその一族にとって、秀吉の命令による軍役は避けることのできないものであり、義賢も元当主としての立場上、従軍せざるを得なかったと考えられる。しかしながら、この戦役における義賢の具体的な戦功や活動に関する詳細な記録は見当たらない。
第三章:伊東義賢の死とその背景
第一節:朝鮮半島からの帰国と最期
文禄の役に従軍した伊東義賢であったが、朝鮮半島において病を得てしまう。そして文禄2年(1593年)、帰国途中の船上にて、27歳という若さでその生涯を閉じた 2 。
義賢の遺体は、壱岐国(現在の長崎県壱岐市)の風本(ふうもと)という場所にあった長徳寺という禅寺に運ばれ、そこで葬儀が営まれた。その法号は罷山全休大居士(はいざんぜんきゅうだいこじ)と伝えられている 3 。
悲劇は義賢一人にとどまらなかった。同じく朝鮮で病を得て帰国途中であった弟の祐勝も、兄の死とほぼ時を同じくして、同年の同月14日に石見国(現在の島根県)湯津(ゆつ)という場所で死去している。祐勝の享年は24歳であった 3 。さらに、伊東家の家臣であった川崎権助(かわさき ごんのすけ)も、同年6月14日に朝鮮半島で病死しており、享年30歳であったと記録されている 3 。義賢・祐勝兄弟、そして近臣が相次いで若くして亡くなっている点は、当時の朝鮮出兵がいかに過酷な戦役であり、将兵の生命を脅かすものであったかを物語っている。
第二節:病死説と暗殺説の検討
伊東義賢の死因について、史料上の公式な記録は「病死」とされている 2 。文禄の役における朝鮮半島の劣悪な衛生環境、風土病の蔓延、そして長期にわたる従軍による疲労などが、若き義賢の命を奪った原因であった可能性は十分に考えられる。
しかしながら、義賢の死に関しては、もう一つの説が根強く存在している。それは、叔父である伊東祐兵との家督相続を巡る対立、あるいはその対立を未然に防ぐために、祐兵方によって「暗殺された」という説である 2 。
この暗殺説が浮上する背景には、当時の伊東家の状況がある。叔父・伊東祐兵は、豊臣秀吉に仕えて数々の武功を挙げ、伊東家再興の最大の功労者として、日向国飫肥の領主となっていた 3 。これにより、伊東家における祐兵の権力基盤は確固たるものとなっていた。一方、義賢は伊東家の元当主であり、血筋から見れば正統な家督継承者としての立場にあった。その弟である祐勝も同様である。祐兵にとって、あるいは祐兵の後継者にとって、義賢・祐勝兄弟の存在は、将来的な家督相続問題において、潜在的な火種となり得る存在と見なされた可能性は否定できない。
特に、義賢と祐勝の兄弟が、ほぼ同時期に、同じような状況(朝鮮出兵からの帰国途上の病)で亡くなっているという事実は、単なる偶然として片付けるには不自然さが伴うとの見方を生む。この状況証拠が、暗殺説に一定の信憑性を与えているのである。もしこの暗殺説が事実であったとすれば、それは伊東祐兵が伊東家の支配権を完全に掌握し、自身の、あるいは自身の子孫への家督継承体制を盤石なものにするための、非情な決断であった可能性が示唆される。戦国時代の武家社会における権力闘争の非情さを鑑みれば、このような暗殺が行われたとしても不思議ではない。ただし、暗殺説はあくまで状況証拠に基づく推測の域を出るものであり、直接的な史料による裏付けは現在のところ確認されていない点には留意が必要である。
第三節:墓所について
伊東義賢の墓所は、記録によれば二箇所に存在するとされている。
一つは、義賢が最期を遂げたとされる壱岐国風本(現在の長崎県壱岐市)の長徳寺である 2 。文禄2年(1593年)に義賢の葬儀が行われた場所であり、彼の終焉の地としての意味合いが強い。
もう一つは、日向国飫肥(現在の宮崎県日南市)にある伊東家の墓所内である 2 。飫肥は、叔父・伊東祐兵が再興した伊東氏の本拠地である。ここに義賢の墓が設けられたのは、祐兵あるいはその後継者たちが、伊東家の元当主として義賢を公式に弔い、一族の歴史の中に位置づけるための措置であったと考えられる。たとえ暗殺説が囁かれていたとしても、表向きには一族の連続性と結束を保つ必要があったのだろう。
二箇所の墓所の存在は、伊東義賢の流転の生涯と、その死後の伊東家における複雑な位置づけを象徴しているようにも見える。壱岐の墓は「客死の地」としての記録であり、飫肥の墓は「家の歴史への編入」を意味する。彼の生涯が、島津氏、大友氏、豊臣氏、そして最終的には叔父である伊東祐兵といった他者の力によって大きく左右されたことを、これらの墓所が静かに物語っているのかもしれない。
第四章:伊東義賢を取り巻く歴史的環境
第一節:木崎原の戦い(元亀3年、1572年)と伊東氏の衰退
伊東義賢の生涯を理解する上で欠かすことのできない戦いが、元亀3年(1572年)5月4日に起こった木崎原(きざきばる)の戦いである。この戦いは、義賢の祖父である伊東義祐が、薩摩の島津義弘率いる寡兵に対して喫した歴史的な大敗であった 7 。その劇的な展開から「九州の桶狭間」とも称されている 7 。
当時、伊東義祐は肥後国の相良義陽(さがら よしひ)と連携し、家臣の伊東祐安(いとう すけやす)を総大将として約3,000の兵を島津領の加久藤(かくとう)城攻撃へ向かわせた 7 。これに対し、飯野城を守る島津義弘の手勢はわずか300余りであった 7 。しかし、島津義弘は巧みな「釣り野伏せ」と呼ばれる戦術を駆使する。まず少数の兵でおびき寄せ、伏兵によって包囲撃滅するというこの戦法に伊東軍は完全にはまり、総大将の伊東祐安をはじめ、伊東加賀守、米良筑後守といった有力武将が次々と討死し、伊東軍は壊滅的な打撃を受けた 7 。伊東軍の戦死者は500余人にのぼったと伝えられる 18 。
この木崎原の戦いは、義賢が家督を相続する5年前の出来事であるが、伊東氏の軍事力を著しく削ぎ、その後の急速な衰退を決定づける転換点となった 6 。この敗北が、後の伊東氏の日向からの追放、そして義賢ら一族の豊後落ちという苦難に満ちた道のりの直接的な原因の一つとなったのである。
第二節:耳川の戦い(天正6年、1578年)と九州の勢力図の変化
木崎原の戦い以降、勢いを増す島津氏に対し、豊後の大友宗麟は危機感を募らせていた。天正5年(1577年)、島津氏が伊東義祐を日向から追放すると 13 、大友宗麟は伊東氏救援と自身の勢力拡大のため、天正6年(1578年)に大軍を率いて日向へ侵攻した。しかし、同年11月、高城川(耳川)において島津軍と激突し、大友軍は壊滅的な敗北を喫した。これが耳川の戦いである 13 。
この戦いの結果、大友氏は多くの重臣と兵士を失い、その勢力は大きく後退することとなった 20 。逆に島津氏は九州南部における覇権をほぼ確立し、九州統一へ向けて大きく前進した。伊東義賢ら一族は、この時大友氏を頼って豊後に滞在していたが、その大友氏が敗北したことにより、豊後における立場も不安定になり、さらなる流浪を余儀なくされる状況へと繋がった 20 。九州の勢力図が島津氏優位に大きく傾く中で、伊東氏が自力で日向の旧領を回復することは、ほぼ不可能な状況となったのである。
第三節:叔父・伊東祐兵の台頭と飫肥伊東氏の再興
伊東氏が日向を追われ、大友氏も耳川の戦いで敗れるという絶望的な状況の中、一族再興の道を切り開いたのが、義賢の叔父である伊東祐兵であった。祐兵は、豊後落ちの後、一時期流浪の身となるが、やがて大坂へ赴き、当時天下統一を進めていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることになった 3 。
祐兵は、天正10年(1582年)の山崎の戦いや翌年の賤ヶ岳の戦いなどに従軍して武功を挙げ、秀吉の信頼を得ていった 10 。そして、天正14年(1586年)から始まった秀吉による九州平定においては、土地勘のある祐兵が先導役として抜擢され、黒田孝高(黒田官兵衛)の軍に加わって先陣を務めるなど、重要な役割を果たした 10 。
九州平定が完了した天正15年(1587年)、祐兵はこれまでの功績を認められ、秀吉から伊東氏の旧領であった日向国飫肥周辺の地を与えられ、280年余り続く飫肥藩の初代藩主となった 3 。その石高は最終的に5万石を超えたとされている 10 。その後も祐兵は文禄・慶長の役に従軍し、蔚山城の戦いなどで活躍した 10 。
伊東祐兵の台頭と伊東氏の再興は、彼個人の武勇や才覚もさることながら、何よりも豊臣政権という新たな中央集権力との結びつきによって成し遂げられたものであった。これは、戦国時代末期において、旧来の地方勢力間の争いから脱却し、中央の覇者に臣従することで家名を存続させようとした武家の生き残り戦略の典型と言える。自力での領地回復が絶望的であった伊東氏にとって、祐兵が選択したこの道は、結果的に伊東家を近世大名として存続させる唯一の活路であった。この祐兵の成功は、時代の大きな変化に翻弄され続けた甥・義賢の生涯とは対照的である。
第四節:戦国時代九州の三大勢力(島津・大友・龍造寺)の動向
伊東義賢が生きた時代の九州は、島津氏、大友氏、そして龍造寺氏という三大勢力が激しく覇権を争う、まさに群雄割拠の様相を呈していた。
薩摩の島津氏は、木崎原の戦いや耳川の戦いでの勝利を経て、九州南部(薩摩・大隅・日向)をほぼ制圧し、その勢いは九州全土を席巻するかに見えた 7 。
豊後の大友氏は、大友宗麟のもとでキリスト教を保護し、最盛期には九州6ヶ国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向の一部)に影響力を及ぼすほどの最大勢力を誇った 15 。しかし、耳川の戦いでの大敗が響き、急速にその勢力を失っていく 20 。伊東義賢ら一族は、この大友氏の庇護を受けていた。
肥前の龍造寺氏は、龍造寺隆信の代に急速に台頭し、少弐氏を滅ぼして肥前を統一すると、筑前・筑後などにも進出し、一時は島津・大友と並んで九州を三分するほどの勢力となった 22 。しかし、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いで、隆信が島津軍に敗れて討死すると、龍造寺氏の勢いも大きく削がれることになった 23 。
伊東義賢の生涯は、これら三大勢力が繰り広げる激しい合戦と、それに伴う勢力図のめまぐるしい変化の渦中にあった。伊東氏の没落と、叔父・祐兵による再興の試みは、この九州全体の大きな歴史的変動の中で展開された出来事だったのである。
結論
伊東義賢の生涯を総括すると、日向伊東氏の最盛期から没落、そして再興へと至る激動の時代に翻弄され、若くしてその生涯を閉じた悲運の当主であったと言える。11歳で家督を相続するも実権はなく、直後には一族が日向を追われて豊後へ亡命するという苦難に見舞われた。
亡命先では庇護者である大友宗麟の影響下でキリスト教に改宗し、ドン・バルテルミーの洗礼名を受けた。これは個人的な信仰に加え、一族の存続をかけた政治的判断の側面も含まれていたと考えられる。叔父・伊東祐兵が豊臣秀吉のもとで伊東氏を再興した後、日向へ帰参するも、文禄の役に従軍し、その帰途に27歳で病死した。
その死因については、公式には病死とされる一方で、伊東家の家督問題を巡る叔父・祐兵による暗殺説も根強く残っており、伊東氏内部の権力構造の複雑さと、当時の武家社会の非情さをうかがわせる。義賢と弟・祐勝の相次ぐ若すぎる死は、伊東祐兵による伊東家支配体制確立の過程で起きた悲劇であった可能性を否定できない。
伊東義賢の生涯は、戦国時代末期における地方豪族が、中央集権化という時代の大きなうねりの中で、いかに存亡の危機に瀕し、また、中央政権との関わり方がその運命を左右したかを示す一例と言える。彼の悲劇性は、旧来の価値観や権力構造が解体され、新たな秩序が形成される過渡期に生きた人物の宿命を象徴している。叔父・伊東祐兵が中央権力と結びつくことで家名を再興したその陰で、義賢は歴史の狭間に消えていった。彼の存在は、戦国乱世の厳しさと、個人の力では抗し難い運命の奔流を我々に伝えている。
表2:伊東義賢関連略年表
年代(西暦) |
伊東義賢・伊東氏の動向 |
九州・中央の主要動向 |
出典例 |
永禄12年(1569年) |
父・伊東義益が病死。義賢(当時3歳前後か)、祖父・義祐の養育下に入る。 |
|
2 |
元亀3年(1572年) |
(義賢6歳前後)木崎原の戦い。伊東軍、島津義弘軍に大敗。伊東氏衰退の契機となる。 |
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7 |
天正5年(1577年) |
義賢(11歳)、伊東家家督を相続。同年、島津氏の侵攻により伊東氏、日向を追われ豊後へ亡命。 |
大友宗麟、伊東氏を保護。 |
2 |
天正6年(1578年) |
(義賢12歳) |
耳川の戦い。大友軍、島津軍に大敗。大友氏の勢力後退。島津氏の九州南部制圧が進む。 |
20 |
天正10年(1582年) |
義賢(16歳)、母・阿喜多と共に受洗(洗礼名ドン・バルテルミー)。 |
本能寺の変。織田信長死去。 |
2 |
天正14年(1586年) |
(義賢20歳) |
豊臣秀吉、九州平定を開始。叔父・伊東祐兵、秀吉軍の先導役を務める。 |
10 |
天正15年(1587年) |
義賢(21歳)、九州平定後、日向へ帰参。叔父・伊東祐兵、飫肥城主に任じられ伊東氏再興。 |
豊臣秀吉、九州平定を完了。バテレン追放令。 |
2 |
文禄元年(1592年) |
義賢(26歳)、文禄の役に伊東軍の一員として従軍、朝鮮へ渡海。 |
豊臣秀吉、朝鮮出兵(文禄の役)を開始。 |
2 |
文禄2年(1593年) |
義賢(27歳)、朝鮮で病を得、帰国途中の船上で死去。弟・祐勝も同年同月に死去(享年24)。 |
|
2 |