日本の戦国史において、伊達家の名を語る時、多くの人々の脳裏に浮かぶのは、独眼竜の異名で知られる17代当主・伊達政宗の勇姿や、その曽祖父であり、辣腕な外交政策で伊達家の勢力を飛躍的に拡大させた14代当主・稙宗の野心であろう。しかし、この二人の偉大な当主の間にあって、伊達家の歴史を繋ぎ、その屋台骨を支え続けた一人の武将の存在は、しばしば見過ごされがちである。その人物こそ、本報告書が主題とする伊達実元(だて さねもと)である。
伊達実元の名は、多くの場合、伊達家を二分し、南奥羽全域を巻き込む6年間の大内乱となった「天文の乱」の直接的な原因として語られる。父・稙宗の命により越後守護・上杉家へ養子に出されるはずが、兄・晴宗の猛反発を招き、骨肉の争いの引き金を引いた悲劇の人物。この側面が強調されるあまり、彼の生涯の大部分を占める、その後の功績や人物像については、十分に光が当てられてきたとは言い難い。
本報告書は、この従来の評価に一石を投じることを目的とする。伊達実元は、単に内乱の「原因」となった受動的な存在ではない。彼は、父と兄の対立という巨大な悲劇を乗り越え、天文の乱で疲弊した伊達家の再建期を支え、甥の輝宗、そして大甥の政宗の時代に至るまで、一門の重鎮として、また優れた統治者として、伊達家の屋台骨を支え続けた稀有な人物であった。彼の生涯を丹念に追跡することは、天文の乱が伊達家、ひいては南奥羽の政治秩序に与えた深刻な影響と、そこからの困難な再生の過程を理解する上で、不可欠な作業である。本報告書では、現存する史料を基に、実元の生涯を多角的に分析し、その歴史的意義を再評価する。
年代 |
出来事 |
典拠 |
大永7年(1527年) |
伊達稙宗の三男として誕生。幼名は時宗丸。 |
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天文11年(1542年) |
越後上杉家への養子問題が直接的な引き金となり、父・稙宗と兄・晴宗が対立。天文の乱が勃発する。 |
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天文11年~17年 |
乱中は一貫して父・稙宗方に属し、信達地方で奮戦する。 |
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天文17年(1548年) |
将軍・足利義輝の仲介で乱が終結。兄・晴宗が家督を継承し、実元は赦免される。上杉家への養子話は白紙となる。 |
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乱終結後 |
兄・晴宗の二女である鏡清院を正室に迎え、陸奥国信夫郡の大森城主となる。 |
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永禄11年(1568年) |
嫡男・伊達成実が誕生する。 |
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天正2年(1574年) |
甥・輝宗の命により、二本松畠山義継の支城である八丁目城を攻略する。 |
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天正4年(1576年) |
対相馬氏との戦いにおいて、十六番備として伊具郡の戦線に出陣する。 |
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天正11年(1583年) |
家督を嫡男・成実に譲り、八丁目城に隠居。「棲安斎」と号す。 |
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天正15年(1587年) |
4月16日、八丁目城にて死去。享年61。 |
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伊達実元の生涯は、彼自身の選択ではなく、父の壮大な野望によってその幕を開けた。戦国大名としての地位を確立しつつあった伊達家と、後継者問題に揺れる越後の名門・上杉家。二つの家の思惑が交差する一点に、彼の運命は置かれていた。
伊達実元は、大永7年(1527年)、伊達家14代当主・伊達稙宗の三男として生を受けた 2 。幼名は時宗丸と名付けられた 13 。彼が生まれた時代、父・稙宗は伊達家の歴史上、最も精力的な拡大政策を推進していた。永正14年(1517年)には室町幕府将軍・足利義稙から偏諱を受け、左京大夫に任官 14 。これは奥州探題・大崎氏が世襲してきた官位であり、伊達家が大崎氏と比肩する存在として中央に認められたことを意味した。さらに稙宗は、天文5年(1536年)に伊達領国の基本法となる分国法『塵芥集』を制定し、天文7年(1538年)には領内の課税台帳である『段銭古帳』を作成するなど、領国経営の制度化を推し進め、伊達家の戦国大名化を強力に推し進めていた 15 。
稙宗の拡大戦略の根幹をなしたのは、近隣の有力大名や国人領主との間に、自らの子や娘を送り込む婚姻・養子縁組政策であった 5 。蘆名氏、相馬氏、葛西氏、大崎氏など、南奥羽の主要な勢力は、この政策によって伊達家と姻戚関係を結び、稙宗を中心とする巨大な同盟網、いわゆる「洞(うつろ)」が形成された 16 。実元もまた、この壮大な戦略の重要な駒として、生まれながらにしてその運命を定められていたのである。
実元の将来を決定づけたのは、その母方の血筋であった。多くの史料で、実元の母は越後国北部の有力国人であり、鳥坂城主であった中条藤資の妹とされている 2 。この血縁関係こそ、稙宗が日本海側にまで影響力を伸長させようと画策する上で、実元を越後守護・上杉家への養子候補として選ぶ決定的な要因となった。ただし、伊達家の系譜の中には、実元を兄・晴宗と同じく蘆名盛高の娘を母とする同母弟として記すものも存在し、母の出自については完全に確定しているわけではない点も留意が必要である 2 。しかし、養子問題との強い関連性を考慮すれば、中条氏出自説は極めて説得力が高い。
当時、越後国守護であった上杉定実には跡継ぎがおらず、家門の断絶が危惧されていた。この状況に着目した稙宗は、定実からの養子要請に応える形で、母方の血縁を持つ三男・時宗丸を送り込むことを画策した 2 。この縁組は、伊達家にとっては越後という豊かな国への影響力を確保する絶好の機会であり、稙宗の野心の集大成ともいえる計画であった。
準備は着々と進められた。時宗丸は、養父となる定実から偏諱(名前の一字)を賜り、「上杉実元」と名乗ることになった 2 。そして、この養子縁組に際して、上杉家から実元へと贈られた引き出物の中に、後々まで伊達家の象徴となるものが含まれていた。それは、上杉家が使用していた「竹に雀」の家紋と、名刀「宇佐美貞光」であった 2 。
この「竹に雀」紋の継承は、伊達家の歴史における極めて興味深い事象である。なぜなら、この養子縁組は最終的に破談となり、伊達家を父子兄弟の争いへと導く天文の乱の直接的な原因となったからである。通常であれば、このような不吉な経緯を持つシンボルは、失敗の象徴として忌避され、歴史の闇に葬られるのが常であろう。しかし、伊達家はそうしなかった。
乱の終結後、勝者となった兄・晴宗は、この紋を実元から譲り受ける形で、伊達家の正式な家紋の一つに加えたと伝えられている 15 。これは単に紋のデザインを気に入ったというような単純な理由からではない。そこには、晴宗の高度な政治的計算が働いていたと考えられる。第一に、この紋を掲げることで、関東管領を輩出した名門・上杉家の権威を間接的に自らのものとして取り込み、内乱で低下した伊達家の威光を高める狙いがあった。第二に、より重要なのは、家中の融和を象徴する狙いである。実元は敗者である稙宗方の象徴的存在であった。その彼から譲り受けた紋を家中で用いることは、敗者側となった勢力を懐柔し、彼らを赦免・統合したことを内外に示す強力なメッセージとなった。
このように、「竹に雀」紋の採用は、父・稙宗の失敗した外交政策の遺物を、巧みに自らの権威確立と家中の再統合のための道具へと転換させた、晴宗の優れた政治手腕の表れと解釈できる。実元という個人と、彼にまつわるシンボルが、伊達家の歴史の中で巧みに再利用され、失敗の記憶は権威と融和の象徴へと昇華されたのである。
実元の上杉家入嗣は、稙宗の野望の頂点となるはずであった。しかし、その計画は思わぬところから綻びを見せる。父の強引な手法に反発した嫡男・晴宗の決起は、実元の運命を大きく狂わせ、伊達家、そして南奥羽全域を戦火に巻き込む未曾有の内乱へと発展した。
天文11年(1542年)、稙宗は実元を越後へ送り出すにあたり、伊達家中の精鋭百騎を随行させることを決定した 2 。これは、養子である実元が越後で確固たる地位を築くための後見であり、武威を示すための措置であったが、嫡男・晴宗の目には全く異なるものに映った。彼は、この措置が伊達家の軍事力を著しく削ぎ、家中の統制を乱し、ひいては自らの家督相続権をも脅かす暴挙であると見なしたのである 3 。
晴宗の危機感は、彼一人だけのものではなかった。稙宗の強引な中央集権化政策、特に『段銭古帳』に基づく一方的な段銭(軍役負担金)の徴収や、周辺大名を巻き込む独断的な外交政策に対して、家臣団や国人領主たちの間には、かねてから根強い不満が鬱積していた 3 。晴宗は、こうした反稙宗感情を巧みに糾合し、重臣である中野宗時や桑折景長らと結託して、父に対する実力行使を決意する 2 。実元の養子問題は、これらの蓄積された不満が一気に爆発するための、格好の口実となったのである。
天文11年(1542年)6月、晴宗は行動を起こした。鷹狩りから帰る途中の父・稙宗を襲撃し、伊達氏の本拠であった桑折西山城の一室に幽閉したのである 3 。しかし、このクーデターは完全には成功しなかった。稙宗に忠実な家臣であった小梁川宗朝らが密かに城に忍び込み、稙宗を救出 6 。脱出した稙宗は、娘婿である相馬顕胤や懸田俊宗らを頼り、晴宗に対して兵を向けた。ここに、父と子、兄と弟、そして伊達家の家臣団、さらには南奥羽の諸大名を二分する、6年間にわたる「天文の乱」の火蓋が切られた 3 。
この骨肉の争いにおいて、伊達実元の立場は明確であった。彼は一貫して、自らの運命を定め、その実現のために動いた父・稙宗の側に与した。稙宗方の武将として、彼は伊達領の南の拠点である信達地方(現在の福島県北部)を主戦場とし、兄・晴宗方の軍勢と対峙し、奮戦を続けた 2 。
しかし、この乱における実元の立場は、極めて特異なものであった。彼は紛れもなく争いの中心人物であり、乱のきっかけそのものであった。にもかかわらず、彼の主体的な意思決定が乱の行方を左右したという記録は乏しい。養子縁組を決定したのは父・稙宗であり、それに反対してクーデターを起こしたのは兄・晴宗である。実元自身の意向が、この壮大な計画にどのように反映されていたのか、史料は沈黙している。乱が始まると、彼は父の陣営で戦うが、それは子として、また縁組の当事者としての当然の帰結であり、彼が乱全体の戦略を主導したわけではない。
このことから、実元は、自らの人生を根底から揺るがす巨大な渦の中心にいながら、その流れを自らコントロールする術を持たなかったという、戦国武将としては稀有な悲劇性を帯びた人物像が浮かび上がる。彼の前半生は、個人の意思を超えた「家」の論理と、時代の激しい奔流にただ翻弄される人間の姿を象徴しているかのようである。
天文の乱は、南奥羽全域を巻き込み、長期にわたって泥沼化した。当初は、稙宗の築き上げた広範な姻戚関係を背景に、相馬氏、蘆名氏、田村氏などを味方につけた稙宗方が優勢であった 4 。しかし、晴宗方も岳父である岩城重隆の支援を得て粘り強く抵抗し、次第に戦況は膠着状態に陥る 16 。やがて、稙宗方の内部対立や、蘆名盛氏などの有力大名の離反が相次ぎ、形勢は徐々に晴宗方に傾いていった 16 。
この長期にわたる内乱の収拾に乗り出したのが、室町幕府13代将軍・足利義輝であった。将軍の権威回復を目指す義輝は、奥羽の秩序を乱すこの争いに介入し、両者の和睦を斡旋した 6 。天文17年(1548年)9月、ついに和睦が成立。その条件は、稙宗が家督を晴宗に譲って隠居することであった 3 。
この決着により、伊達実元の上杉家入嗣という、乱の根本原因であった計画も完全に白紙に戻された 2 。同時に、越後国内でも実元の入嗣に反対していた勢力が抗争に勝利しており、もはや彼の越後国主への道は完全に断たれたのである 2 。
伊達家にとって、この内乱が残した傷跡はあまりにも深かった。稙宗が心血を注いで築き上げた周辺大名との同盟網「洞」は完全に崩壊し、蘆名氏や相馬氏などは伊達家の影響下から離脱、独立勢力として再び伊達家と敵対するようになった 5 。伊達家の勢力は著しく減退し、晴宗とその子・輝宗、孫・政宗の三代は、この失われた勢力を回復するために、長い年月を費やすことを余儀なくされたのである。
天文の乱は、伊達実元の越後国主への道を閉ざした。敗者側に属した彼が、歴史の舞台から姿を消しても何ら不思議はなかった。しかし、彼の物語はここで終わらない。兄・晴宗の巧みな政治判断と、実元自身の資質によって、彼は伊達家中で新たな、そして極めて重要な役割を担うことになる。
乱の終結後、実元は速やかに兄・晴宗に降伏し、赦免された 2 。晴宗は、弟を罰するのではなく、むしろ積極的に自らの体制に組み込む道を選んだ。その最も象徴的な措置が、自らの二女である鏡清院を実元に嫁がせたことであった 2 。
この婚姻は、単なる血縁関係の強化や弟への温情に留まらない、極めて戦略的な政治判断であった。天文の乱で最も深刻な亀裂が生じたのは、言うまでもなく稙宗と晴宗の父子、そして晴宗と実元の兄弟の間であった。実元は稙宗方の象徴的存在であり、彼を厳しく処断すれば、旧稙宗方の家臣たちに拭いがたい遺恨を残す危険性があった。一方で、単に赦免するだけでは、将来的な不満分子となるリスクが残る。
そこで晴宗は、娘を嫁がせるという一手によって、実元を単なる「弟」から「義理の子(婿)」という、より緊密で、ある意味では従属的な関係へと再定義した。この婚姻により、実元の子(後の伊達成実)は晴宗の孫となり、伊達宗家との血縁は二重に強化される。これは、実元とその子孫が将来にわたって宗家に反旗を翻す動機を構造的に削ぐ、巧みな仕掛けであった。この一手は、武力ではなく血縁の力を用いて内乱の傷を癒し、引き裂かれた家中の再統合を図るという、晴宗の優れた統治能力を示す好例と言えよう。
兄からの信頼を得た実元は、新たな役職を与えられた。晴宗が本拠地を、それまでの桑折西山城から出羽国米沢城へと移すと、実元は陸奥国信夫郡の大森城主(現在の福島県福島市)に任じられた 2 。大森城は、伊達領の南の玄関口であり、蘆名氏や畠山氏といった南方の勢力と直接境を接する極めて重要な拠点であった。この要衝を任されたことは、実元が兄から軍事的にも政治的にも深い信頼を得ていたことの証左である。当時の彼の所領は、信夫郡内31か村、名取郡内2か村に及んだと記録されている 2 。こうして実元は、かつて自らが原因となった内乱の傷跡が残る地で、伊達家の南方統治の責任者として、新たな人生を歩み始めたのである。
伊達実元の真価は、その息の長い奉公によって証明される。彼は兄・晴宗の治世に始まり、甥である16代当主・輝宗、そして大甥にあたる17代当主・政宗の時代に至るまで、実に三代にわたって伊達家に仕え、一門の重鎮として重きをなし続けた 10 。
輝宗の時代、伊達家は天文の乱で失われた勢力の回復を目指し、周辺大名との間で一進一退の攻防を繰り広げていた。実元は、この輝宗の政策を軍事面で支える重要な役割を担った。彼は大森城主として、南に隣接する二本松畠山氏や、東の相馬氏との戦いの最前線に立った。天正2年(1574年)には、輝宗の命を受けて二本松義継の支城であった八丁目城を攻略 2 。天正4年(1576年)には、対相馬戦線に十六番備として出陣するなど、数々の軍功を挙げている 2 。
彼の役割は、武勇一辺倒ではなかった。一門の長老として、その徳望と経験を活かし、外交や調略においても重要な働きを見せている。天正13年(1585年)、輝宗が二本松義継に拉致され非業の死を遂げた後、家督を継いだ若き政宗が義継への報復戦に乗り出した際、窮地に陥った義継からの和睦の願いを政宗に取り次いだのは、実元であった 10 。彼の存在は、血気盛んな政宗の政権にとって、安定と調整をもたらす貴重な存在であった。
天正11年(1583年)、実元は家督を嫡男の成実に譲り、自身は先に攻略した八丁目城に隠居して「棲安斎」と号した 2 。しかし、隠居後もその影響力は衰えず、一門の長老として外交の最前線に立ち続け、政宗の治世初期の困難な局面を幾度となく支えたのである 2 。
伊達実元の生涯は、前半生が時代の奔流に翻弄される受動的なものであったのに対し、後半生は自らの役割を見出し、伊達家のために能動的に尽くすものであった。彼の人物像と、後世に残した遺産を考察することは、戦国時代の武将の多様な生き方を理解する上で重要である。
史料や後世の編纂物からうかがえる実元の人物像は、野心家の父・稙宗や、勇猛果敢で「武勇無双」と評された息子・成実とは対照的である 1 。彼は、派手な武功や大胆な策略で名を馳せるタイプではなく、むしろ「人徳に厚く」 21 、一門の融和と安定に心を砕く、思慮深い宿将であったと伝えられる。
彼の生涯を俯瞰すると、伊達家という巨大な船が、激動の時代を乗り切るための「錨(いかり)」のような役割を果たしていたことが見えてくる。彼の存在が、天文の乱後の混乱を収拾し、政宗時代の飛躍を可能にするための、見えざる土台を築いたのである。
兄・晴宗の時代、彼は内乱の象徴から和解の象徴へと転身し、兄の統治を支えることで家中の安定に貢献した。甥・輝宗の時代、輝宗が周辺大名との複雑な外交網の構築に腐心する中、実元は南方の国境地帯という物理的な防衛線を一手に引き受け、輝宗の外交政策を背後から支える実務者として機能した 2 。そして、若く野心的な大甥・政宗の時代には、経験豊富な長老として、時に助言を与え、時に外交交渉の裏方を務めることで、若き当主の政権に安定感とバランスをもたらした 10 。彼が担った「統治」と「安定」という、地味ではあるが極めて重要な役割があったからこそ、輝宗や政宗はより大きな戦略を描くことができたのである。伊達実元は、伊達家の歴史における激情と野心の時代にあって、常に理性と安定を供給し続けた、不可欠な存在であった。
実元自身は生涯を通じて信夫郡を拠点としたが、彼が残した最大の遺産の一つは、その血脈である。嫡男の伊達成実は、父の思慮深さと武勇を兼ね備えた名将として成長し、従兄弟である政宗の右腕として、人取橋の戦いや摺上原の戦いなど、伊達家の命運を賭けた数々の合戦で獅子奮迅の働きを見せた 1 。
成実はその功績により、後に仙台藩の要衝である亘理(わたり)に2万4千石の所領を与えられ、仙台藩一門の中でも筆頭格の家格を誇る「亘理伊達家」を興した 8 。これにより、伊達実元は、この名門の事実上の家祖となったのである 2 。亘理伊達家は幕末まで続き、江戸時代を通じて仙台藩を支え続けた。江戸時代中期に起こった伊達騒動(寛文事件)の際には、亘理伊達家が藩に提出した訴状の中で、祖先である実元・成実の功績を詳細に述べ立てて自家の正当性を主張しており、その文面は『亘理忠儀記』としてまとめられている 13 。これは、実元の功績が後世の子孫たちによっていかに重要視され、語り継がれていたかを示す貴重な証拠である。
一門の長老として三代の当主を支え続けた実元は、天正15年(1587年)4月16日、隠居城であった八丁目城にて、61年の生涯に静かに幕を下ろした 1 。その死は、政宗が奥州統一に向けてまさに飛躍しようとする直前のことであった。
後年制作された大河ドラマ『独眼竜政宗』では、実元が死の床で息子・成実に対し、「『敢えて火中の栗を拾う勿れ』と政宗殿に申すがよい」と遺言を託す場面が描かれている 21 。これは創作ではあるが、危険を顧みず突き進む若き政宗の将来を案じ、慎重な行動を促す彼の思慮深い人物像を、実に見事に象徴していると言えよう。
実元の墓所は、当初は大森城の近在にあった陽林寺に設けられたとされる 9 。そして時代は下り、江戸後期の天保7年(1836年)、亘理伊達家の当主であった伊達宗恒によって、亘理における菩提寺である大雄寺に、実元のための壮麗な霊屋が建立された 2 。この霊屋は、息子・成実の霊屋などと共に今日まで大切に保存されており、亘理町の文化財に指定されている 2 。これは、彼が子孫から祖として深く敬愛され、その遺徳が長く偲ばれていたことの何よりの証である。
伊達実元の生涯は、戦国という時代の激しい奔流に翻弄されたものであった。父・稙宗の野心的な拡大政策の駒として、自らの意思とは無関係に巨大な内乱の引き金となり、若き日の夢であった越後国主への道は、志半ばで絶たれた。彼の前半生は、まさに運命の受難者であったと言える。
しかし、彼の真価は、その逆境の後にこそ発揮される。敗者として、また内乱の原因として、歴史の舞台から消えてもおかしくない状況から、彼は驚くべき生命力で復活を遂げた。兄・晴宗の巧みな政治判断にも助けられ、彼は単に赦免された弟ではなく、伊達家の南方統治を担う重要な大森城主として、また一門の融和を象徴する存在として、自らの新たな役割を見出したのである。
輝宗、そして政宗の時代には、一門随一の長老として、その豊富な経験と徳望をもって若い当主たちを補佐し、伊達家の安定と発展に不可欠な貢献を果たした。彼の存在は、野心と激情が渦巻く伊達家中にあって、常に冷静な視点と安定をもたらす「錨」であった。彼は、輝宗の慎重な外交を支える屋台骨となり、政宗の急進的な拡大政策の背後で、政権のバランスを取る重しとなった。
伊達実元は、自らが引き金となった内乱の傷跡を、その後の生涯をかけて癒し、伊達家が次代へ飛躍するための礎を築いた人物である。彼の生涯を丹念に追うことで、我々は、華々しい武功や権謀術数だけが戦国武将の価値ではないことを知る。父の野心と兄の反発の間で引き裂かれながらも、自らの務めを誠実に果たし、一門の安定に生涯を捧げた一人の武将の姿は、戦国大名家の内実に横たわる複雑な人間関係と、動乱の時代を生き抜くための強かな生存戦略を、我々に深く教えてくれるのである。