伊達成実(だて しげざね、永禄11年(1568年) - 正保3年(1646年))は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて活躍した伊達氏の武将である 1 。彼は、伊達政宗の奥羽統一戦における中心的な軍事指導者として、また仙台藩一門第二席である亘理伊達家の始祖として、歴史にその名を刻んでいる 2 。成実の人物像は、「勇武無双」と称された猛将としての側面 1 、主君への忠誠心、一度は主家を出奔するという謎めいた行動、そして後に優れた領国経営手腕を発揮した統治者としての側面など、多岐にわたる複雑さを持っている 5 。
成実は、伊達政宗とは従兄弟の関係にあたる。成実の父・伊達実元は、政宗の父・輝宗の実弟であり、成実は政宗より一歳年下であった 2 。この血縁的な近さは、二人の君臣関係の根幹をなすものであった。成実は、片倉小十郎景綱と共に「伊達の双璧」と称され、政宗にとって左右の手の如く不可欠な重臣と見なされていた 2 。
この「伊達の双璧」という呼称は、単なる名誉的なものではなく、政宗の覇業遂行における機能的な必要性を反映していた。伊達家中において、「武の伊達成実」と「智の片倉景綱」という評価が定着していたように 9 、成実が伊達軍の武力を象徴する存在であったのに対し、景綱は戦略や政略を担う知恵袋としての役割を果たした 8 。この役割分担により、政宗は軍事行動と複雑な政治交渉を同時に、かつ効果的に進めることが可能となったのである。これは、成実の武勇と景綱の知謀という、それぞれの際立った才能に基づき、重要な機能を分担させることで、伊達家の勢力拡大を支えた体制であったと言える。
本報告書では、伊達成実の生涯を、その出自と初期の軍歴、謎に包まれた出奔事件、亘理領主としての治績、そして後世に残した遺産という観点から、史料に基づき詳細に検討していく。
伊達成実 年表
年代(和暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
永禄11年 (1568) |
1歳 |
出羽国にて伊達実元の子として誕生 |
1 |
天正11年 (1583) |
16歳 |
家督を継ぎ、大森城主となる。伊達領南方の守りを担う。 |
5 |
天正13年 (1585) |
18歳 |
人取橋の戦い。政宗の窮地を救う奮戦を見せる。 |
1 |
天正16年 (1588) |
21歳 |
郡山合戦。蘆名・相馬連合軍の攻勢を寡兵で防衛。大内定綱を調略。 |
1 |
天正17年 (1589) |
22歳 |
摺上原の戦い。劣勢の伊達軍を側面攻撃で逆転勝利に導く。 |
1 |
天正19年 (1591) |
24歳 |
政宗の岩出山城転封に伴い、角田城主となる。 |
5 |
文禄元年 (1592) |
25歳 |
文禄の役に従軍。朝鮮へ渡る。 |
1 |
文禄4年-慶長3年 (1595-98) |
28-31歳 |
伊達家を出奔。高野山に入る。 |
1 |
慶長5年 (1600) |
33歳 |
関ヶ原の戦いの前哨戦(上杉討伐)に際し、伊達家に帰参。白石城攻めなどに参加。 |
1 |
慶長7-8年 (1602-03) |
35-36歳 |
亘理城主となり、亘理伊達家を創設。 |
2 |
慶長19-元和元年 (1614-15) |
47-48歳 |
大坂の陣(冬・夏)に従軍。 |
5 |
寛永15年 (1638) |
71歳 |
藩主伊達忠宗の名代として江戸へ赴き、将軍徳川家光に人取橋合戦の武勇伝を語る。 |
5 |
晩年 |
- |
政宗の一代記『成実記』(政宗記)を著す。 |
1 |
正保3年 (1646) |
79歳 |
亘理にて死去。 |
1 |
この年表は、成実の波乱に満ちた長い生涯を概観するためのものであり、戦国時代から江戸時代初期への移行期における彼の重要な出来事を時系列で示している。これにより、続く詳細な記述の理解を助けることができる。
伊達成実は、伊達家の一門として生まれ、若き日から武将としての道を歩み始めた。従兄弟である伊達政宗に仕えるべく、武芸の鍛錬に励んだことが推察される 13 。天正11年(1583年)、16歳にして家督を継ぎ、大森城主となると、伊達領の南方を脅かす勢力に対する抑えという、極めて重要な役割を担うことになった 5 。この若さでの重用は、既に政宗が成実の能力を高く評価し、信頼を寄せていたことを示している。
成実の武名は、数々の激戦における目覚ましい活躍によって確立された。
人取橋の戦い(天正13年、1585年/1586年)
この戦いは、父・輝宗を失った政宗が二本松氏を攻めたことに端を発し、佐竹氏を中心とする南奥羽諸侯連合軍と伊達軍が衝突したものである 4。伊達軍7千に対し、連合軍は3万という圧倒的な兵力差であった 4。成実は左翼最前線に布陣した 4。戦闘は熾烈を極め、伊達軍本陣が崩壊し、敗色が濃厚となる中で、成実は退却を促す声を振り切り、「退却したところで敗れることは同じだ。ここで討死するのが本望だ。退却はしないぞ」と叫び、僅か五百の手勢で踏みとどまったと伝えられる 4。この決死の抵抗が、政宗を含む伊達軍主力が退却する時間を稼ぎ、壊滅的な敗北を回避する上で決定的な役割を果たした 4。戦いは引き分け(武分かれ)に終わったものの、成実の功績は際立っており、政宗自筆の感状で「本日の働き比類なき武功なり」と最大級の賛辞を受けた 10。
郡山合戦(天正16年、1588年)
大崎合戦での敗北に乗じて、蘆名・相馬連合軍が伊達領に侵攻した戦いである 4。成実は、約6百という寡兵で郡山城一帯の防衛を担当し、2ヶ月にわたり敵の攻勢を凌ぎきった 4。この戦いにおいて、成実は単に防戦に徹するだけでなく、敵方の有力武将であった大内定綱を調略によって伊達方に寝返らせるという外交手腕も発揮し、最終的に蘆名軍を撤退させるきっかけを作った 4。
摺上原の戦い(天正17年、1589年)
南奥羽の覇権を賭けた、伊達氏と会津の蘆名氏との決戦である 4。合戦序盤、伊達軍は蘆名軍の猛攻を受け、不利な状況に立たされていた 4。しかし、成実は敵陣が伸びきった戦機を捉え、突出した敵部隊の側面を強襲した 4。この機敏な側面攻撃によって蘆名軍の陣形は寸断され、戦況は一変。伊達軍は劣勢を覆して歴史的な大勝利を収めた 4。この勝利により、伊達氏は名実ともに南奥羽の覇者となった 10。成実はこの決戦に先立ち、片倉景綱と共に安子島城を攻略するなど、前哨戦においても重要な役割を果たしている 4。
これらの戦功は、単なる個人的な武勇伝にとどまらず、伊達家の興亡を左右する戦略的な意味合いを持っていた。人取橋での踏みとどまりは、絶望的な状況下での戦略的防御であり、伊達軍の壊滅を防いだ。一方、摺上原での側面攻撃は、劣勢を覆すための計算された攻撃的機動であり、決定的な勝利をもたらした。これらの事例は、成実が単なる猛将ではなく、戦況を的確に判断し、決定的な局面で勝機を掴むことのできる優れた戦術眼を持っていたことを示しており、政宗の領土拡大において彼がいかに重要な存在であったかを物語っている。
成実はこれらの主要な合戦以外にも、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役、1592-93年)に政宗に従って従軍 1 、関ヶ原の戦いに関連して行われた上杉領への侵攻作戦(慶長5年、1600年)、特に帰参直後の白石城攻め 4 、そして徳川体制確立の最終局面である大坂の陣(冬の陣 慶長19年(1614年)、夏の陣 元和元年(1615年))にも政宗麾下として参陣している 5 。
成実の武勇を象徴するものとして、百足(むかで)をかたどった前立(まえだて)の兜が有名である 1 。これは、百足が決して後ろに退かないという習性にあやかり、「決して後退りしない」という成実自身の戦場での不退転の決意を表したものとされている 1 。この特徴的な兜は、現存する伊達成実所用の甲冑(北海道伊達市所蔵)や、亘理町の大雄寺にある木像甲冑像でも確認することができる 1 。
輝かしい軍功を重ね、政宗の覇業を支えた成実であったが、文禄の役からの帰国後、突如として伊達家を出奔するという不可解な行動に出る 1 。出奔の時期については諸説あるが、文禄4年(1595年)から慶長3年(1598年)の間とされている 5 。成実はまず、伝統的に亡命者や隠遁者の駆け込み寺であった高野山に身を寄せた 1 。
主君であり従兄弟でもある成実の突然の出奔は、政宗に大きな衝撃と怒りを与えた 7 。政宗は成実の居城であった角田城の接収を命じ、これに対して城代家老の羽田実景らが抵抗したため、戦闘となり、成実家臣に死者が出る事態となった 7 。ただし、この際に成実の妻子が殺害されたという説は誤りであると指摘されている 14 。
成実が出奔に至った正確な理由は、今日においても「謎の出奔」として語られ、確かなことは分かっていない 5 。しかし、複数の要因が複合的に作用した可能性が指摘されている。
出奔後の成実の動向で注目されるのは、伊達氏の宿敵であった上杉景勝から5万石という破格の条件で仕官の誘いを受けたにも関わらず、これを固辞したという点である 1 。この行動は、政宗や伊達家に対する根本的な忠誠心が失われていなかったこと、あるいは上杉氏に仕えることが戦略的に不利、もしくは心情的に受け入れがたいものであったことを示唆している。深刻な対立と武力衝突まで引き起こした出奔 7 でありながら、最大のライバルへの寝返りを拒んだという事実は、彼の離反が個人的な不満や一時的な幻滅感に根差すものであり、完全な決別や裏切りを意図したものではなかった可能性を窺わせる。
政宗は当初、桑折点了斎らを派遣して成実の説得を試みたが、成実は応じなかった 7 。しかし、数年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに先立つ上杉討伐の機運が高まる中で、石川昭光、片倉景綱、留守政景ら伊達家重臣たちの懸命な説得と仲介により、ついに成実は帰参を許された 1 。政宗も最終的にこれを受け入れ、かつての右腕は再び伊達家に戻ることとなった 5 。
なお、成実出奔に関連して、角田城接収の任にあたった屋代景頼について、しばしば誤解が見られる。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響などから、景頼が成実家臣殺害の責任を負わされ、不当に追放されたという見方が広まっている 7 。しかし、史料(『伊達治家記録』)によれば、景頼が最終的に改易されたのは慶長12年(1607年)であり、その理由は成実出奔事件とは直接関係のない、仙台藩士の私刑問題に関する不手際であったとされている 7 。一方で、成実自身は、自らの軽率な行動が景頼に災いをもたらしたと感じていたようで、後に景頼の遺児を引き取って養育し、家臣に取り立てたという逸話も伝わっており 7 、単純な対立関係ではなかった複雑な人間模様が窺える。
伊達家への帰参を果たした成実は、慶長7年(1602年)または8年(1603年)に、新たな知行地として亘理(わたり)を与えられた 2 。これにより、仙台藩一門の中でも第二席という高い家格を持つ分家、亘理伊達家が創設されることとなった 2 。当初の所領は、亘理郡23か村、宇多郡8か村、伊具郡2か村などで、石高は約6千石であった 3 。
ここから成実は、正保3年(1646年)に79歳で没するまでの44年間、亘理の領主として統治にあたった 10 。戦場での勇猛さで知られた成実であったが、領主としても卓越した手腕を発揮した。
亘理における44年間の安定した統治と目覚ましい成果は、成実が単なる武人ではなく、優れた行政能力をも兼ね備えた人物であったことを証明している。戦場での活躍が主であった前半生から一転し、近世的な領国経営者として成功を収めたことは、彼の多才さを示すものである。特に、平和な江戸時代への移行期において、インフラ整備や経済開発に注力し 5 、領地の安定と発展を実現したことは、出奔という過去の汚名を雪ぎ、伊達家における彼の地位と影響力を再び確固たるものにしたと考えられる。
政宗没後(寛永13年、1636年)も、成実は第二代藩主・伊達忠宗のもとで「家中長老」として重きをなし、藩政を支え続けた 5 。寛永15年(1638年)には、領内の洪水対策費として幕府から銀5千貫目を拝借したことへの謝礼のため、忠宗の名代として江戸に赴いている 5 。この際、三代将軍徳川家光の御前で、かつての激戦である人取橋合戦の模様を語り、家光に深い感銘を与えたと伝えられている 5 。これは、晩年に至るまで成実が高い名声と尊敬を維持し、戦国の記憶を伝える生き証人として扱われていたことを示している。
伊達成実が後世に残した遺産は多岐にわたる。
『成実記』:一次史料としての価値と限界
成実は晩年に、自らの見聞に基づき伊達政宗の一代記を執筆したとされている 1。これは『成実記』(しげざねき)、あるいは『政宗記』(まさむねき)、『伊達日記』(だてにっき)などとも呼ばれる記録である 11。天正12年(1584年)頃から慶長5年(1600年)頃までの出来事を、政宗の側近として実戦に参加した当事者の視点から記述しており、「実見のまま記したるもの」として、その内容は詳細かつ具体的である 10。そのため、伊達政宗や当時の奥羽情勢を知る上で極めて貴重な一次史料(史料的価値は非常に高い)と評価されている 12。
しかし、『成実記』は成実個人の回顧録としての性格も併せ持つ 16 。晩年に書かれたという点を考慮すると、記憶違いや、特定の出来事・人物(自身や政宗を含む)を特定の意図をもって描写している可能性も否定できない 16 。したがって、その記述を利用する際には、他の史料との比較検討を行い、批判的な視点を持つことが重要である。とはいえ、『成実記』が、戦国時代の激動期を生きた当事者ならではの独自の視点を提供する貴重な記録であることに変わりはなく、成実が単なる武人ではなく、歴史を記録し、後世に伝えようとした知識人としての側面を持っていたことを示している。
亘理伊達家の存続と北海道開拓
成実は正保3年(1646年)、亘理において79歳で生涯を閉じ、家督は養子の宗実(実父は伊達宗利)が継いだ 2。亘理伊達家はその後も仙台藩一門として存続したが、幕末の戊辰戦争(慶応4年/明治元年、1868年)で仙台藩が敗北すると、苦難の道を歩むこととなる 18。
明治維新後、第14代当主となった伊達邦成(岩出山伊達家からの養子 3 )は、旧家臣団と共に新天地を求め、北海道の有珠郡(現在の伊達市周辺)へ集団移住するという大きな決断を下した 2 。彼らは未開の地で想像を絶する困難に立ち向かいながら開拓を進め、今日の北海道伊達市の基礎を築いた 5 。この北海道開拓における功績が認められ、邦成は明治25年(1892年)に男爵位を授けられ、華族に列せられた 3 。成実が創始した亘理伊達家が、時代の大きな変遷の中で困難を乗り越え、遠く北海道の地に新たな歴史を刻んだことは、彼の遺産が単に過去のものではなく、近代日本の形成にも繋がっていったことを示している。これは、封建的な江戸時代から近代化を進める明治時代への劇的な社会変動の中で、旧武士階級が示した強靭さと適応力を象徴する事例とも言えるだろう。
史跡と文化財
成実にゆかりのある史跡や文化財も数多く残されている。
これらの史跡や文化財は、伊達成実という人物を今日に伝え、彼が生きた時代を偲ぶよすがとなっている。
伊達成実は、その生涯を通じて極めて多面的な顔を見せた人物であった。戦場においては「猛将」「勇武無双」と称される比類なき勇猛さと、戦況を的確に判断する戦術眼を発揮し 1 、主君・伊達政宗の覇業を軍事面から支えた。一方で、深刻な対立と出奔という危機を乗り越え、最終的には主家への忠誠を貫いた 5 。帰参後は、優れた領国経営手腕を発揮して亘理の地を発展させ、名君として領民から慕われた 2 。さらに晩年には、自らの体験に基づき『成実記』を著し、貴重な歴史的記録を後世に残した 10 。
伊達家における成実の重要性は計り知れない。片倉小十郎景綱と共に「伊達の双璧」として、政宗の勢力拡大と仙台藩の基礎固めに不可欠な役割を果たした 2 。特に、数々の合戦における彼の武功は、伊達家が奥羽の雄となる上で決定的な要因の一つであった。
伊達成実の影響は、彼の死後も長く続いている。彼が創始した亘理伊達家は、幕末維新の動乱を乗り越えて北海道開拓に貢献し、その名を現代に留めている 3 。亘理に残る大雄寺や伊達成実霊屋、亘理神社などの史跡 2 、そして彼が著した『成実記』 12 は、その事績を今に伝えている。勇猛果敢さ、主君への忠誠(一時的な亀裂を含め)、領主としての才覚、そして不退転の象徴である百足の前立は、伊達成実という戦国武将の鮮烈なイメージを形作り、彼は今なお、亘理の地で神として祀られるなど 2 、多くの人々に記憶され、評価され続けている存在である 20 。