伊集院忠真は島津家臣。父忠棟が主君忠恒に殺され庄内の乱を起こす。家康仲介で降伏も後に謀殺。彼の悲劇は島津家と中央政権の複雑な力学の象徴であり、関ヶ原にも影響した。
本報告書は、島津氏の有力家臣でありながら、主家との深刻な対立の末に非業の死を遂げた戦国武将、伊集院忠真(いじゅういん ただざね)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。一般的に知られる「父・忠棟が主君・忠恒に殺害されたため謀叛を起こし、徳川家康の仲介で降伏するも、後に忠恒に謀殺された」という生涯の骨格は、その背景に横たわる複雑な力学を看過させるきらいがある 1 。本報告では、島津家内部の権力闘争、豊臣・徳川という中央政権の対大名政策、そして父子の恩讐といった要素を深く掘り下げ、忠真の悲劇が単なる一個人の運命ではなく、戦国末期から近世へと移行する時代の転換点を象徴する事件であったことを論証する。
まず、忠真の生涯を同時代の大きな歴史的動向の中に位置づけるため、以下の年表を提示する。この年表は、伊集院父子の運命が、豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いに至る中央政局の激動と、いかに密接に連動していたかを示している。
表1:伊集院忠真の生涯と関連年表
年号(西暦) |
伊集院父子の動向 |
島津家の動向 |
中央政権の動向 |
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天正15年 (1587) |
父・忠棟、秀吉に降伏し人質となる。島津家存続に貢献 2 。 |
豊臣秀吉に降伏(九州征伐) 4 。 |
豊臣秀吉、九州を平定 5 。 |
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文禄4年 (1595) |
忠棟、太閤検地を経て日向庄内8万石を秀吉から直接拝領 4 。 |
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に従軍 7 。 |
豊臣秀吉、太閤検地を全国で実施 4 。 |
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慶長3年 (1598) |
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泗川の戦いで島津義弘が武名を轟かせる 7 。 |
豊臣秀吉、死去 4 。 |
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慶長4年 (1599) |
3月:父・忠棟、伏見にて島津忠恒に殺害される 4 。 |
閏3月:忠真、庄内にて挙兵(庄内の乱) 3。 |
忠恒、家督を継承。忠棟を殺害 11 。 |
義久、忠真への与同を禁じる 12。 |
閏3月:石田三成、七将に襲撃され失脚 11 。 |
徳川家康が台頭し、乱の鎮圧を公認 12。 |
慶長5年 (1600) |
3月:家康の仲介により降伏。都城を退去 12 。 |
乱の鎮圧に忙殺される 9 。 |
9月:関ヶ原の戦いに義弘が僅かな兵で参戦 7。 |
9月:関ヶ原の戦い。東軍勝利 14 。 |
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慶長7年 (1602) |
8月:忠真、日向野尻にて忠恒に謀殺される。一族も粛清 1 。 |
忠恒(家久)、家康から本領安堵される 16 。 |
徳川家康、全国支配を確立。 |
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慶長8年 (1603) |
- |
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徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く 14 。 |
この年表が示す通り、忠棟の暗殺は秀吉の死という権力の空白期に発生し、忠真の反乱は石田三成の失脚という好機を捉えて「公認」された。そして乱の終結は関ヶ原の戦いのわずか半年前である 10 。一連の事件は、中央政局のパワーバランスの変化が、地方の力関係をいかに激しく揺さぶったかを示す好例と言える。
伊集院忠真の悲劇を理解するためには、まず伊集院氏と島津宗家との間に横たわる、長く複雑な歴史的関係を紐解く必要がある。伊集院氏は、島津氏初代当主・島津忠久の子である忠経を祖とする、紛れもない島津一門であった 6 。鎌倉時代に薩摩国伊集院(現在の鹿児島県日置市伊集院町)に根を下ろし、在地領主として力を蓄える中で、宗家とは一線を画す半独立的な性格を帯びていった 17 。
この独立志向は、歴史の中で幾度となく宗家との衝突を引き起こした。南北朝の動乱期には、伊集院忠国が南朝方について北朝方の島津宗家と敵対した記録が残る 15 。さらに室町時代には、当主の伊集院頼久が宗家の家督継承問題に介入し、自らの子を当主に立てようとして「伊集院頼久の乱」と呼ばれる大規模な内乱を引き起こした 3 。この反乱は、伊集院氏が単なる家臣ではなく、時には宗家と覇を競うほどの有力な一門であったことを物語っている。一方で、婚姻関係を通じて宗家を凌ぐほどの領地を支配した時期もあり、対立と融和を繰り返す複雑な関係が続いていた 17 。
しかし、頼久の乱の敗北後、伊集院氏は一時没落する。その後、宗家に帰参を許され、忠真の祖父・伊集院忠朗、父・伊集院忠倉の代になると、島津家中興の祖と称される島津忠良・貴久父子に家老として仕え、その勢力拡大に大きく貢献した 6 。特に祖父の忠朗は、軍配者(軍師)としても活躍し、島津貴久の嫡男・義久の初陣にも付き従うなど、宗家からの信頼を回復し、再び家中で重きをなすに至った 17 。
このように、伊集院氏と島津宗家の関係は、単純な主従関係ではなかった。それは「本家」に対する「分家」という、より緊張をはらんだ力学を内包していた。伊集院氏は島津の血を引きながらも、常に独立性を志向し、宗家はそれを警戒し、時に弾圧するというサイクルが歴史的に繰り返されてきたのである。この根深い相互不信は、いわば両家の間に横たわる「宿痾(しゅくあ)」であった。忠棟が豊臣政権という外部の権威を背景に強大な権力を手にした時、島津家中の人々、とりわけ次代の当主である忠恒が抱いた「謀反の疑い」は、この歴史的背景、すなわち「伊集院氏は機会さえあれば宗家に取って代わろうとする危険な存在だ」という潜在的な不信感に根差していた。したがって、後に起こる一連の悲劇は、豊臣政権という外部要因によって、この古くからの宿痾が致命的な形で再燃したものと解釈することができる。
伊集院忠真の運命を決定づけたのは、父・伊集院忠棟(ただむね)の特異な生涯であった。忠棟は、当初は島津義久に仕える有能な家臣として、その頭角を現した。永禄9年(1566年)頃には家老職に就き、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切る一方、武将としても肥後や筑前への出兵で数々の戦功を挙げ、島津氏の九州統一戦に大きく貢献した 4 。
彼の運命が大きく転回するのは、豊臣秀吉との接触である。忠棟は歌道に造詣が深く、当代随一の文化人であった細川藤孝(幽斎)と親交があった 4 。この人脈を通じて中央の情勢に精通していた忠棟は、天正15年(1587年)に秀吉が九州征伐の軍を起こすと、島津家中で主流であった主戦論に抗い、圧倒的な兵力差を冷静に分析して和睦こそが島津家存続の道であると強く主張した 4 。根白坂の戦いで島津軍が豊臣秀長軍に決定的な敗北を喫すると、忠棟は自ら剃髪して人質となり、秀長の陣に赴いて降伏の意を伝えた 4 。この迅速な行動が、秀吉による島津家取り潰しを回避させ、本領安堵に繋がったことは疑いない。この時の忠棟の行動は、後年、薩摩藩の公式史観では「早くから秀吉に内通し、戦うふりをしただけの裏切り行為」と断罪されることになる 22 。しかし、江戸時代中期の学者・新井白石が『藩翰譜』で「九州征伐後の島津家の滅亡を救った忠義の者である」と評価しているように、これは敗戦の現実を直視した冷静かつ現実的な判断であったと再評価する声も根強い 21 。
この降伏交渉で、忠棟は秀吉からその交渉能力と政治手腕を高く評価された。その結果、彼は島津家の家臣という立場でありながら、秀吉から直接、日向国庄内(現在の宮崎県都城市)に8万石という破格の所領を与えられることになる 2 。これは、それまで200年にわたり都城を治めてきた島津一門の北郷氏を強制的に移封させた上での措置であり、島津家中の知行秩序を根底から覆すものであった 10 。さらに忠棟は、秀吉の意向を受ける形で島津領内での「太閤検地」の責任者となり、知行割の再編を断行した 4 。これにより、彼は豊臣政権の権威を背景に主家の内政に介入する立場となり、家中の不満と憎悪を一身に集める「嫌われ役」を担うことになったのである 2 。伏見に構えた彼の屋敷が主君である島津家のものより壮麗であったことなども、彼の増長と「野心」の証拠として、国元でまことしやかに噂された 6 。
忠棟の悲劇は、彼個人の資質や野心以上に、豊臣秀吉の巧妙な対大名政策の産物であったと言える。秀吉は、強力な外様大名である島津氏の力を削ぐため、その重臣である忠棟を意図的に取り立て、主家と比肩する石高と権威を与えることで、島津家中に内部対立の楔を打ち込んだ。忠棟は、秀吉の代理人として家中の反発を招く政策を実行させられることで、島津家内部の不満の矛先を宗家から逸らす役割を担わされた。いわば、忠棟は秀吉の対島津政策の駒として利用されたのである。
そして慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、この人工的な権力構造は脆くも崩壊する。後ろ盾を失った忠棟は、それまで蓄積されてきた島津家中の憎悪の奔流に飲み込まれることとなった。慶長4年(1599年)3月9日、家督を継いだばかりの若き当主・島津忠恒(後の家久)は、忠棟を伏見の島津屋敷に呼び出すと、謀反の疑いを口実に自らの手で斬殺した 4 。この暗殺の動機については、忠棟が主家を蔑ろにしたことや朝鮮出兵中の補給を滞らせたことへの忠恒個人の憎悪が原因とする説 11 、忠棟が政治的に義弘に近かったことから義久が忠恒に殺害を示唆したとする説(山本博文氏) 22 、あるいは義弘と忠恒が共謀したとする説(小宮木代良氏) 22 など諸説あるが、いずれにせよ、この事件が忠恒の単独犯行ではなく、島津宗家上層部の暗黙の了解、あるいは積極的な示唆のもとに行われた可能性は極めて高い。
父・忠棟の突然の死は、嫡男・伊集院忠真の運命を大きく狂わせた。父が主君の手によって誅殺されたという衝撃的な報せは、国元の日向都之城で家督を継いでいた忠真のもとに届いた 22 。忠真は直ちに一族や家臣を集めて合議を開き、今後の対応を協議した 10 。この内乱の複雑な人間関係を理解するために、まず主要な関係者を整理する。
表2:庄内の乱 主要関係者一覧
勢力 |
主要人物 |
立場・役職 |
動機・目的 |
伊集院方 |
伊集院忠真 |
伊集院家当主 |
父の横死に対する仇討ち、家門の存続 4 |
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白石永仙 |
客将・軍師(元根来衆) |
島津氏への徹底抗戦を主張 10 |
島津方 |
島津義久 |
前当主(龍伯) |
家中の統制回復、伊集院氏の殲滅 12 |
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島津義弘 |
忠恒の父 |
忠真の舅でもあり、当初は説得に努める 2 |
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島津忠恒 |
島津家当主(後の家久) |
父の仇として反逆者を誅伐、権力基盤の確立 11 |
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北郷忠能 |
旧都城領主 |
庄内の乱での戦功による旧領回復 10 |
中央政権・その他 |
徳川家康 |
五大老筆頭 |
乱の仲介を通じた島津家への影響力拡大、天下掌握への布石 12 |
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加藤清正 |
肥後熊本城主 |
伊集院方に密かに物資援助 10 |
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伊東祐兵 |
日向飫肥城主 |
伊集院方に密かに物資援助 10 |
当初、忠真は島津宗家に対し恭順の意を示していた形跡がある。彼が川上忠智に宛てた書状では、父の死後すぐに義久のもとに伺い、主命に従うつもりであったと述べている 10 。しかし、島津宗家側の対応は冷徹であった。当主・忠恒の父である義弘は忠真の舅(妻の父)という関係から説得を試みたものの 2 、隠居の身でありながら家中に絶大な影響力を持つ前当主・島津義久は、忠棟殺害の直後から庄内への人や物資の往来を禁じ、家臣たちに「忠真に味方しない」という起請文を提出させるなど、明らかに伊集院氏を追い詰める動きを見せていた 3 。忠真は、この義久の動きを見て「父同様に自分も滅ぼされるつもりだ」と悟り、反乱を決意したと主張している 10 。
この決断に大きな影響を与えたのが、客将として伊集院家に仕えていた白石永仙(しらいし えいせん)の存在であった 10 。永仙はもともと紀伊国の根来寺の僧兵で、武芸百般に通じた猛将であったが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の紀州征伐で根来寺が焼き討ちに遭った際に日向へ逃れてきた人物である 28 。彼は軍略にも長けており 10 、一族内で恭順論も出る中、徹底抗戦を強く主張して忠真の背中を押した 28 。
こうして挙兵を決意した忠真は、本拠地である都之城(みやこのじょう)を中心に、梅北城、志和池城、安永城、山田城、財部城など、庄内一帯に広がる12の外城(支城)に一族や有力家臣を配置し、堅固な防衛網を構築した 10 。伊集院方の兵力は8千から2万と諸説あるが、地の利を生かした組織的な籠城戦を展開し、島津宗家の大軍を迎え撃つ態勢を整えたのである。
慶長4年(1599年)6月、島津忠恒は父・忠棟殺害の事後処理を終え、中央で実権を握りつつあった徳川家康から伊集院忠真追討の「公認」を得て、鹿児島を出陣した 10 。島津一門や重臣たちが従い、その軍勢は3万から4万に達したと記録されている 10 。
討伐軍は緒戦で山田城を攻略したものの、その後は伊集院方の頑強な抵抗に遭い、戦いは膠着状態に陥った 10 。特に、軍師・白石永仙の智略は島津方を大いに苦しめた。『三国名勝図会』などの記録によれば、永仙は安永城の守将として、伏兵を巧みに用いたり、城内に薪を積んで火をかけ落城を偽装したりするなど、知略を尽くして島津方の追撃部隊に大きな損害を与えたという 10 。また、この戦いでは、かつて伊集院忠棟によって都城を追われた北郷氏が、島津方として旧領回復をかけて奮戦した 10 。彼らの士気の高さは、攻城戦において重要な役割を果たした。
この地方の内乱は、天下の情勢を窺う徳川家康にとって、またとない好機であった。家康の介入は、単なる仲裁ではなかった。それは、関ヶ原の戦いを見据えた、巧妙な全国戦略の一環であった。まず、家康は豊臣政権の五大老筆頭という「公議」の立場から、この事件の裁定役を、政敵である石田三成から奪い取った 12 。忠棟殺害という、豊臣大名を島津家臣が殺害した大事件を家康が処理することで、島津家に対する直接的な影響力を確保したのである 11 。
次に、家康は忠恒による反乱鎮圧を「公認」するだけでなく、九州の諸大名、すなわち秋月種長、高橋元種、太田一吉らに島津氏への援軍を命じた 10 。島津氏は他家の助力を潔しとせずこれを固辞したが、この命令自体が重要であった。これは、家康が豊臣秀頼に代わって天下の軍勢を動員する権限を持つことを、全国の大名、特に豊臣恩顧の西国大名たちに見せつけるための、極めて戦略的なデモンストレーションだったのである 34 。この九州での動きは、同時期に進行していた東国の会津・上杉景勝問題と対になっており、家康が東西の有力外様大名が抱える問題を同時に処理することで、自らの覇権を確立し、来るべき天下分け目の戦いに向けた布石を打っていたことを示している。
伊集院忠真の反乱は、家康にとって自らの権威を高め、九州に影響力を浸透させるための絶好の「機会」として利用された。度重なる家康の調停工作の末、慶長5年(1600年)2月から3月にかけて、志和池城を皮切りに外城が次々と降伏し、追い詰められた忠真はついに和睦を受け入れた 10 。忠真の悲劇は、この巨大な政治的歯車に巻き込まれた結果でもあったのだ。
慶長5年(1600年)3月15日、徳川家康の仲介による和睦が成立し、伊集院忠真は島津宗家に降伏した 10 。和睦の条件として、忠真は本拠地であった都之城を明け渡し、代わりに頴娃(えい)一万石(後に帖佐二万石を与えられたとの説もある)へ移されることになった 10 。これにより、約1年にわたった庄内の乱は終結したが、それは忠真にとって偽りの平穏の始まりに過ぎなかった。
島津忠恒は、一度は反旗を翻した忠真への警戒と憎悪を解いてはいなかった。乱の終結後も、忠恒は忠真を誅殺する機会を虎視眈々と狙っていた。そのための口実は、周到に準備された。一つは、忠真が肥後熊本城主の加藤清正に密使を送り、父の仇討ちのための助力を依頼していたという疑惑である 3 。この密書を託された伊集院甚吉なる人物が裏切って忠恒に密告したとされ、これを知った家康も激怒したというが、この話自体が忠真を罪に陥れるための捏造であった可能性も否定できない。
もう一つは、島津家の家督相続問題への関与である。当時、島津家老の平田増宗が、義久・義弘・忠恒の血筋とは異なる島津信久(久信)を後継者に擁立しようとする動きがあり、この計画を忠真が主導していたという説が浮上した 10 。これらはいずれも、忠真に再び「謀反の意思あり」との烙印を押し、その誅殺を正当化するための布石であったと考えられる。また、父・忠棟の死後、忠棟夫人や子らが京都の寺社で「怨敵(=忠恒)退散」の祈祷を熱心に行っていたという情報も忠恒の耳に入っており、伊集院一族への不信感は根深いものがあった 22 。
そして関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)8月17日、その時は訪れた。忠恒は自らの上洛に際し、忠真に同行を命じた。その道中、日向国野尻(現在の宮崎県小林市野尻町)で狩りを催すと、その場で忠真を謀殺したのである 1 。これは偶発的な事件ではなく、鉄砲の名手である穆佐衆の淵脇平馬(ふちわきへいま)らが、忠真を「誤射」に見せかけて射殺するという、周到に計画された暗殺であった 2 。実行犯たちは口封じのために直ちに切腹させられ、真相は闇に葬られた 2 。
この暗殺は、忠真一人の殺害に留まらなかった。忠真が狩りの場で家臣の平田平馬と馬を交換していたため、平田平馬も同時に射殺されているが、これも偶然ではなく、前述の家督問題で暗躍したとされる平田増宗の一族を粛清する意図があったとする説もある 10 。さらに同日、都城に残っていた忠真の母と三人の弟も忠恒の命によって殺害され、伊集院氏の嫡流は完全に根絶やしにされた 10 。この徹底した粛清は、自らの権力基盤を磐石なものにしようとする、若き当主・島津忠恒の冷徹な意志を如実に示している。忠真の供養塔は、現在もその最期の地である小林市野尻にひっそりと佇んでいる 1 。
伊集院忠真の死と庄内の乱の終結は、島津家、ひいては天下の情勢に小さからぬ影響を及ぼした。第一に、約1年にもわたる大規模な内乱は島津家の国力を著しく疲弊させた 9 。これが、乱の終結からわずか半年後に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、島津家が大軍を派遣できなかった直接的な原因の一つとなったことは間違いない 10 。結果として、島津義弘はわずか1500ほどの手勢で参戦せざるを得ず、西軍が総崩れとなる中で戦場に孤立し、世に名高い「島津の退き口」という壮絶な敵中突破を敢行することになったのである 7 。
一方で、この内乱を徳川家康の仲介によって収拾したという事実は、皮肉にも関ヶ原後の島津家にとって有利に働いた側面がある。西軍の主要大名として家康に敵対したにもかかわらず、戦後に本領安堵という破格の扱いを受けた背景には、家康が庄内の乱を通じて島津家に「貸し」を作り、自らの影響下に置いていたという政治的計算があった可能性が考えられる 12 。
歴史における伊集院父子の評価は、その立場によって大きく分かれる。勝者である島津家が江戸時代を通じて編纂した『本藩人物誌』や、島津義弘の言行録である『惟新公自記』など、薩摩藩の公式史料において、伊集院忠棟・忠真父子は「国賊」「佞臣」として厳しく断罪されている 21 。これは、忠恒による忠棟殺害と庄内の乱という一連の事件を正当化し、藩の公式史観を確立するための、いわば「勝者による歴史叙述」であった 2 。伊集院一族が根絶やしにされ、その声を伝える者がいなくなったことも、この一方的な評価が定着する要因となった 22 。
しかし、後世には異なる評価も生まれている。江戸時代中期の碩学・新井白石は、その著書『藩翰譜』の中で、伊集院忠棟を「九州征伐の際に島津家の滅亡を救った忠義の者」と再評価した 21 。この視点は、伊集院父子を単なる逆賊ではなく、時代の大きな奔流に翻弄された悲劇の人物として捉え直す見方につながる。
結論として、伊集院忠真の生涯は、一個人の能力や意志だけでは到底抗うことのできない、巨大な時代のうねりの中にあったと言える。父・忠棟が中央政権と結んだ危険な権力、島津家内に根深く存在した猜疑心、そして徳川家康の天下取りの謀略という三つの巨大な力が交錯する中で、彼は父の仇討ちと一族の存続という、武士として当然の行動原理に従って立ち上がった。しかし、その抵抗は偽りの和睦によって封じられ、最後は謀殺という形で無残に潰え去った。彼の悲劇は、戦国という「地方の論理」が通用した時代が終わり、近世という「中央の論理」がすべてを覆い尽くしていく時代の転換点において、その狭間で犠牲となった一つの象徴的な事例として、歴史に記憶されるべきであろう。