最終更新日 2025-06-22

佐久間信栄

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佐久間信栄の生涯:栄光、転落、そして再生 ― 激動の時代を生き抜いた武将茶人の多角的考察

序章:佐久間信栄 ― 栄光と転落、再生を生きた武将

戦国時代の人物群像において、佐久間信栄(さくま のぶひで)の名は、しばしばその偉大な父、織田家筆頭宿老・佐久間信盛の影に隠れ、悲劇的な追放劇の付属的存在として語られてきた。あるいは、武よりも茶の湯に耽溺した凡庸な二代目という、一面的な評価に留まることが多かった。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、そこには単なる「追放された武将」というレッテルでは到底捉えきれない、複雑で多面的な人間像が浮かび上がってくる。

本報告書は、佐久間信栄という一人の武将の生涯を、最新の研究と史料に基づき、徹底的に再検証することを目的とする。彼の人生は、「武」と「数寄(すき、茶の湯)」、「忠」と「処世」という、時に相克し、時に融合する二つの軸によって貫かれている。苛烈な実力主義を掲げた織田信長、文化を政治支配の道具とした豊臣秀吉、そして泰平の世の新たな価値観を構築した徳川家康・秀忠。この激動の時代を生きた四人の天下人の下で、信栄はいかに翻弄され、いかに適応し、そしていかにして自らの家名を再興し得たのか。その栄光と転落、そして驚くべき再生の物語を、多角的な視点から解き明かしていく。

第一部:織田家中の貴公子 ― 武将としての前半生(1556年~1580年)

第一章:名門の嫡男として

佐久間信栄は、弘治2年(1556年)、尾張国に生を受けた 1 。父は、織田信長の父・信秀の代から仕え、織田家臣団の筆頭格と目される宿老・佐久間信盛である 3 。佐久間氏は三浦氏を祖とする名門であり、尾張に深く根を張った有力国衆であった 6 。信栄は、信長が「うつけ」と呼ばれた幼少期から一貫して主君を支え続けた功臣の嫡男として、極めて恵まれた環境でその青年期を迎えた 5

その経歴は、まさに織田家エリートの道であった。若くして父・信盛と共に各地を転戦し、武将としての経験を積んでいく。天正2年(1574年)には、織田軍を長年苦しめた伊勢長島一向一揆との戦いに従軍 9 。さらに、天正4年(1576年)から本格化した石山合戦においては、織田方の最前線拠点である天王寺砦の守備を任されるなど、若くして織田軍団の中核を担う存在となっていた 10

天正4年5月、石山本願寺攻めの総司令官であった塙直政が戦死すると、その後任として父・信盛が抜擢される。このとき信盛には、畿内7ヶ国に及ぶ与力が付けられ、織田家中で最大規模の軍団が編成された 11 。信栄は、この巨大軍団の司令官である父を補佐する副将として、対本願寺戦線の維持という重責を担うことになったのである 11 。この時点での信栄は、輝かしい未来が約束された織田家中の貴公子であったといえよう。

第二章:十九カ条の折檻状 ― 栄光からの転落

天正8年(1580年)8月、10年以上にわたった石山本願寺との死闘が、朝廷の仲介による和睦という形でついに終結した。織田家中に安堵の空気が流れたのも束の間、8月12日、主君・信長は突如として佐久間信盛・信栄父子に対し、19ヶ条にもわたる折檻状(譴責状)を突きつけ、高野山への追放を命じた 14 。織田家の筆頭宿老親子に対するこのあまりに苛烈な処断は、家中に大きな衝撃を与えた 8

この折檻状は、主に父・信盛の5年間にわたる対本願寺戦での不手際や、過去の失態を糾弾するものであったが、信栄個人に対する言及もまた、極めて辛辣であった。

  • 書き尽くせぬ罪状: 折檻状は、「甚九郎(信栄)覚悟の条々、書き並べ候えば筆にも墨にも述べがたき事」と断じている 5 。これは、信栄の罪状が数えきれないほど多く、筆や墨では到底書き尽くせないという、信長の強烈な不満と嫌悪感を示している。
  • 人格と業務態度の否定: 信栄は「欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理する」と、その人格と武将としての資質を根本から否定されている 5 。これは、家臣団を率いるべき将器に欠けると断罪されたに等しい。
  • 冷徹な二面性の指摘: 特に信栄の性格を的確に表現しているのが、「自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをする」という一節である 5 。この巧みな比喩は、信栄が表面上は物腰柔らかく穏やかに振る舞いながら、その内実は極めて冷徹で人を寄せ付けない二面性を持ち、与力や家臣たちが彼を恐れ、敬遠していた実態を、信長が見抜いていたことを示唆している。
  • 武士としての失格: 最終的に、信長は佐久間親子を「つまり親子共々武者の道を心得ていない」と結論づけている 5 。これは、武士としての存在意義そのものを問う、最も厳しい評価であった。

この突然の追放劇は、単に佐久間父子の個人的な失態のみに起因するものではない。その背景には、天下統一事業を最終段階に進めようとする信長の、冷徹な政治的計算があった。この追放は、織田家臣団の構造改革を断行するための、大がかりな粛清の幕開けだったのである。

事実、佐久間父子の追放と前後して、信長は信秀以来の宿老である林秀貞や、美濃三人衆の一人であった安藤守就といった古参の重臣たちを、過去の些細な過失を理由に次々と追放している 18 。この一連の動きには、明確な意図が見て取れる。第一に、石山本願寺という最大の敵が屈服し、畿内が平定されたことで、織田政権は新たな段階に入った。これからの戦いは、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉といった方面軍司令官が主導する、大規模な地方遠征が主体となる。第二に、この新体制において、旧来の家柄や年功序列に安住し、顕著な戦功を上げられない古参重臣は、もはや不要、あるいは改革の足かせと見なされた。信長は折檻状の中で、光秀や秀吉の目覚ましい働きを賞賛し、佐久間父子の怠慢と比較することで、その評価基準を明確に示している 5 。したがって、佐久間父子の追放は、彼らの失態を口実としながらも、その真の目的は、織田家臣団を旧来の譜代中心の組織から、信長直轄の「成果主義」に基づく軍団へと再編成することにあった。それは、全家臣に対する「成果を出さねば、次は我が身だ」という、血の気の引くような強烈なメッセージだったのである 8

第二部:不干斎という生き方 ― 文化人としての栄光と蹉跌

第三章:「御茶湯御政道」の寵児

織田信長は、茶の湯を単なる風雅な趣味としてではなく、家臣の序列を決定し、忠誠心を測り、自らの支配の権威を高めるための高度な政治的ツールとして活用した。これは「御茶湯御政道」とも呼ばれる、信長独自の文化戦略である 23 。全国から名物茶器を強制的に集める「名物狩り」を行い、それを戦功のあった家臣にのみ下賜し、茶会の開催を許可することで、信長を頂点とする文化的なヒエラルキーを構築したのである 23

佐久間信栄は、この信長の文化戦略の中で、一躍寵児として脚光を浴びた人物であった。天正6年(1578年)10月、信長は堺で軍船を検閲した帰路、大坂にあった信栄の屋敷に立ち寄り、茶会に参加した。その際の信栄のもてなしと点前は見事なものであったらしく、信長は「信栄の茶事はことのほか上手だ」と感銘を受け、賞賛したと伝わる 27 。これは、信栄が信長から公式に認められた一流の茶人であったことを意味し、彼の織田家における地位を大いに高めるものであった。

その地位を象徴するのが、信長から下賜された名物茶器の数々である。信栄は、大壺「箸鷹(はしたか)」や、牧谿筆と伝わる掛軸「濡雀」「燕の絵」といった、天下に名だたる名物を拝領している 23 。これらの茶器は、単なる美術品ではなく、信長の寵愛と信頼の証であり、所有すること自体が織田家臣団における最高のステータスであった。また、堺の豪商であり当代随一の茶人であった津田宗及が記した茶会記『天王寺屋会記』には、信栄が宗及をはじめとする一流の文化人たちと頻繁に茶会を催し、深い交流を結んでいた様子が記録されている 29 。彼はまさに、武家と町衆の垣根を越えた、桃山文化のネットワークの中心人物の一人だったのである。

第四章:数寄が招いた悲劇

信栄が「御茶湯御政道」の寵児として輝かしい地位を築く一方で、その数寄の道は、彼の足元を静かに蝕む罠ともなっていた。一流の茶人としての名声を維持するためには、高価な名物茶器の収集、贅を凝らした茶会の開催、そして有力茶人との交際費に、莫大な資金を投じる必要があったからである 28

その経済的負担の大きさは、逸話からも窺い知れる。信栄が津田宗及の茶会に招かれた際、手土産として持参した綿10把と銭300疋は、当時の価値で銀10匁、現代の貨幣価値に換算すれば300万円以上に相当した可能性が指摘されている 28 。一度の茶会でこれほどの贈答が行われる世界にあって、信栄が追放前の数年間で参加・主催した茶会は47回にも及ぶ 32 。その累計費用は、天文学的な額に達したであろうことは想像に難くない。

この茶の湯への過剰な投資こそが、折檻状で弾劾された父子の「罪状」と密接に結びついていた。信栄の数寄への耽溺は、単なる個人的な道楽ではなかった。それは、信長が作り上げた「御茶湯御政道」という政治システムの中で、自らの地位を確保し、生き残るための必死の活動であった。信長は茶の湯を政治利用し、家臣たちに文化資本の蓄積を競わせた 23 。信栄はこの競争に勝ち、信長に認められるほどの茶人となったが、その地位を維持するための資金繰りは、父・信盛が近畿7ヶ国を管轄し、推定40万石もの知行を有していたとしても 25 、決して容易ではなかったはずである。

折檻状が厳しく非難する「欲深さ」や、水野信元の旧領を与えられた際に「旧臣を追い出して召し抱えず、直轄地にして金銭を貯め込んだ」という行状 8 は、この茶の湯への投資資金を捻出するための、苦肉の策であった可能性が高い。つまり、信栄は「文化人」として成功すればするほど、武将としての本分である「家臣団の統率」や「領国経営」を疎かにせざるを得なくなり、結果として信長の不興を買うという、深刻な自己矛盾に陥っていたのである 32 。茶の湯に打ち込む情熱の百分の一でも武道に心掛けていれば、と信長が嘆いたのも無理からぬことであった 32

彼の転落を象徴する無常な逸話が残されている。追放後の天正8年11月、千利休の高弟である山上宗二が催した茶会で、一つの大釜が炉に据えられた。その茶会に参加した津田宗及は、自らの日記に「佐甚九(佐久間甚九郎信栄)ヨリ還候釜也」とだけ記した 34 。かつて信栄が宗二から手に入れた釜が、主を失い、再び宗二の元へ戻ってきた、という意味である。信栄を熱狂させ、そして破滅させた茶の湯の世界は、彼が去った後も何事もなかったかのように続き、かつての仲間からの餞の言葉は、この無情な一文のみであった。


表1:佐久間信栄所蔵の主要茶道具と、その政治的・文化的価値

道具名

種類

入手経緯・出典

政治的・文化的価値の考察

雀絵(すずめのえ)

掛軸

織田信長より拝領 23

牧谿筆と伝わる名画。信長からの下賜品であり、織田政権内での信栄の高い序列と、文化人としての評価を象徴する。

はし鷹(はしたか)

茶壺

織田信長より拝領 23

名物大壺。拝領の事実自体が、信長の寵愛の証。その価値は現代価格で1億円以上と推定され、彼の文化活動のスケールを示す。

濡れ雀(ぬれすずめ)

掛軸

織田信長より拝領 23

牧谿筆と伝わる名画。雀絵と同様、信長からの下賜は最高の栄誉であり、信栄が「御茶湯御政道」の主要プレイヤーであったことを示す。

燕の絵(つばめのえ)

掛軸

織田信長より拝領 23

同上。複数の名画を拝領していることは、彼の茶人としてのコレクションの質と、信長からの信頼の厚さを物語る。

大釜

山上宗二より購入または贈与か 34

追放後に宗二の元へ戻った逸話で有名。堺のトップクラスの茶人との道具のやり取りは、信栄が当時の文化ネットワークの中心にいた証左。

竹茶杓

茶杓

佐久間信栄(不干斎)作 35

古田織部美術館所蔵。彼自身が茶道具を製作していたことを示す貴重な史料。単なる収集家ではなく、実践者・創造者であったことがわかる。


第三部:流転の果てに ― 四人の天下人に仕えて(1581年~1631年)

第五章:織田信雄の忠臣として再起

天正8年(1580年)の追放後、佐久間父子は高野山での蟄居を命じられるが、信長の怒りは収まらず、そこからも追われる身となった 7 。父・信盛は流浪の末、天正9年(1581年)に紀伊国熊野で失意のうちに病死した 7

父の死が信長の憐憫を誘ったのか、その直後の天正10年(1582年)1月、信栄は突如として赦免され、信長の嫡男・信忠付きの家臣として織田家への帰参を許された 9 。一度は全てを失った信栄にとって、これはまさに奇跡的な再起であった。同年6月の本能寺の変で信長・信忠親子が横死すると、信栄は信長の次男・織田信雄に仕え、尾張の蟹江城主となっている 10

天正12年(1584年)、信雄が羽柴秀吉と対立して小牧・長久手の戦いが勃発すると、信栄は信雄・徳川家康連合軍の一翼を担い、伊賀・伊勢方面で羽柴方と交戦。敵を苦しめるなど、武将としての面目躍如たる働きを見せた 12 。しかし、信雄の命令で北伊勢の萱生城の普請に出向いている留守中、守りを任せていた蟹江城を、羽柴方の滝川一益の調略によって奪われるという失態を演じてしまう(蟹江城合戦) 12 。この戦いが、信栄の生涯で記録に残る最後の従軍となった 11

この時期の信栄の人物像を考える上で、極めて興味深い逸話が伝わっている。小牧・長久手の戦いの終結に向けた和睦交渉の席で、秀吉は和睦の条件の一つとして、信栄の切腹を要求した。これに対し、主君の信雄は「忠臣を切腹させることはできない」と断固として拒絶。これが原因で交渉は一時決裂したというのである 12

この逸話の真偽を史料的に確定することは困難であるが、もし事実、あるいはそれに近い状況があったとすれば、信栄の人物像は大きく塗り替えられる。かつて父・信長から「家臣に冷たい」「綿の中に針を隠したような男」と酷評された彼が、新たな主君・信雄からは、和平交渉を破談にしてでも守るべき「忠臣」と見なされていたことになる。これは、追放という挫折を経て、信栄が自己を変革させ、新たな主君に対して全身全霊で忠誠を尽くした結果、深い信頼関係を築き上げていたことを示唆する。信長の苛烈な成果主義とは異なる、旧来の主従の情誼を重んじる信雄の器量が、信栄の新たな一面を引き出したのかもしれない。この主君の情に応えるためか、信栄は自ら剃髪して「不干斎(ふかんさい)」と号し、三河国に隠棲することで、信雄の政治的立場を守ろうとしたと伝わっている 12 。それは、信長時代に見られた自己顕示的な数寄の姿とは対極にある、「滅私奉公」の姿であった。

第六章:御咄衆としての泰平の世

天正18年(1590年)、主君・織田信雄が秀吉によって改易されると、信栄は再び主を失う。しかし、彼はもはや武力で身を立てる道を選ばなかった。その豊富な知識、教養、そして波乱万丈の経験を買われ、天下人となった豊臣秀吉に「御咄衆(おはなししゅう)」として召し抱えられたのである 9

御咄衆(御伽衆とも)は、将軍や大名の側近に侍り、雑談の相手や顧問役を務める職である。武辺談や政談に応じるためには、博学多識であること、話術に長けていること、そして何より豊富な経験が求められた 39 。読み書きが不得手であったとされる秀吉は、耳学問の師として多くの御咄衆を重用しており、信栄はその一員に加わった。織田家の栄枯盛衰を中枢で目の当たりにし、一流の文化人でもあった信栄は、この役にうってつけの人材であった。彼は、自らのキャリアを「武」から「知」へと完全にシフトさせ、新たな生きる術を見出したのである。なお、朝鮮出兵の際には「鉄砲の製造を担当した」という記録もあり 12 、単なる話し相手に留まらない、実務的な技術知識も有していた可能性が窺える。

秀吉の死後、天下の趨勢は徳川家へと移る。信栄はここでも時流を読み誤らなかった。大坂の陣の後、彼は徳川二代将軍・秀忠に御咄衆として仕え、武蔵国児玉郡および横見郡において3,000石の知行を与えられた 10 。かつて父と共に管轄した40万石という広大な所領には遠く及ばないが、幕府直参の旗本としては破格の待遇であり、彼の知識と経験が、成立間もない徳川幕府においても高く評価されていたことの証左である。

信栄は寛永8年(1631年)、江戸で76年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。二人の息子には先立たれていたが、弟・信実の子や同族の佐久間安政の子らを養子に迎え、家名を存続させることに成功した 11 。その子孫は旗本・佐久間氏として江戸時代を通じて存続し、幕末には思想家・佐久間象山を輩出することになる 6 。父と共に追放され、一族離散の危機に瀕しながらも、見事に家名を再興し、次代へと血脈を繋いだことこそ、彼の生涯の最終的な成果であり、最大の功績であったと言えるだろう。

結論:佐久間信栄という人物の歴史的再評価

佐久間信栄の生涯を俯瞰するとき、我々は「織田家筆頭家老の凡庸な息子」という従来の評価が、いかに一面的であったかを思い知らされる。彼の人生は、名門の嫡男という栄光の頂点から、主君による突然の追放という奈落の底へ突き落とされ、そこから自らが培った「数寄」の才を処世の武器として再生を遂げ、織田、豊臣、徳川という四代の天下人に仕えきって家名を再興した、日本史上でも類稀なる浮沈の物語である。

信栄の人生は、戦国乱世の苛烈な「武功主義」から、近世泰平の世の「文治主義」へと、時代の価値観が大きく転換していく過渡期そのものを体現している。信長政権下では、武将としての本分を疎かにし、茶の湯に耽溺したことが追放の一因となった。しかし、その茶の湯の素養と知識こそが、豊臣・徳川政権下で「御咄衆」として生きる道を拓いた。彼は、追放という最大の挫折を、自らのキャリアを再構築する転機へと昇華させたのである。そのしたたかさ、そして時代の変化を読み解き適応していく能力は、戦国武将が持つ多様な生存戦略の一類型として、再評価されるべきである。

信雄の忠臣としての逸話は、彼が単なる利己的な文化人ではなく、一度信義を結んだ主君には篤い忠誠を捧げる、武士としての矜持を失っていなかったことを示唆している。彼は、信長の冷徹な実力主義の下では評価されなかった「情」という価値を、新たな主君の下で見事に体現してみせた。

結論として、佐久間信栄は、父・信盛の影に隠れた存在でも、歴史の敗者でもない。自らの才覚と時流を読む力で運命を切り拓き、武人として、文化人として、そして処世家として激動の時代を生き抜き、家名の存続という武士の究極の目標を達成した、一人の独立した、そして極めて魅力的な歴史上の人物として記憶されるべきである。

引用文献

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  2. 歴史の目的をめぐって 佐久間信栄 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sakuma-nobuhide.html
  3. 佐久間信盛 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/sakuma-nobumori/
  4. 佐久間信盛(さくま のぶもり) 拙者の履歴書 Vol.80~信長に仕えた栄枯盛衰の生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/neff3fe3b8d9b
  5. 佐久間信盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
  6. 佐久間氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F
  7. 佐久間信盛は何をした人?「筆頭家老なのに突然の折檻状で信長からクビにされた」ハナシ https://busho.fun/person/nobumori-sakuma
  8. 佐久間信盛の追放(19ヶ条の折檻状)|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/na0dd4c0f2aa3
  9. 佐久間信栄 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/SakumaNobuhide.html
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  11. H504 佐久間信盛 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/h504.html
  12. 佐久間信栄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E6%A0%84
  13. 第74話 石山本願寺を攻めに大苦戦 織田信長の異例な助け方? | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/59924
  14. 天下統一期年譜 1580年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho14.htm
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