佐久間信盛は、戦国時代の武将であり、織田信長に長年にわたり仕えた重臣として知られている。織田家においては「筆頭家老」とも称されるほどの地位を築き 1 、特に退却戦における巧みな指揮ぶりから「退き佐久間」という異名で武名を馳せた 1 。その輝かしい経歴は、信長による突然の追放という形で劇的な終焉を迎え、その評価は今日に至るまで歴史家や愛好家の間で議論の対象となっている。信盛の生涯は、織田家における彼の卓越した地位と長年の貢献、そしてそれとは対照的な突然かつ過酷な失脚という、一見矛盾する要素を内包している。このような経歴は、信長との複雑な関係性、石山本願寺攻めを中心とする晩年の軍務の実態、そして信長の革新的かつ時に非情な指導者としての資質や政治的判断といった、多角的な視点からの考察を不可避とする。彼の物語は単なる一個人の栄枯盛衰に留まらず、戦国という激動の時代における武将の立場がいかに流動的で不安定なものであったか、たとえ最高位の家臣であっても安泰ではなかったという厳然たる事実を我々に突きつける。本報告では、現存する史料に基づき、佐久間信盛の生涯、その功績と失脚の真相、そして彼を巡る歴史的評価について、多角的に考察する。
佐久間信盛が織田家の重臣として頭角を現すまでの背景には、彼の生い立ちや家系、そして織田信秀・信長父子への仕官の経緯が深く関わっている。
佐久間信盛の生年については、史料によっていくつかの説が存在する。大永7年(1527年)とする説 4 と、大永8年(1528年)とする説 6 があり、正確な特定は難しい。没年から逆算すると、享年は54歳または55歳であったと考えられている 5 。このような基本的な情報における不一致は、戦国時代の人物に関する記録の限界を示すものであり、彼の初期の経歴を詳細に追う上での困難さを物語っている。これは些細な差異に見えるかもしれないが、重要な出来事における彼の年齢計算に影響を与え、歴史記録の批判的検討の必要性を強調する。
出身は尾張国愛知郡山崎と伝えられている 4 。佐久間氏は、その出自を辿ると元々は安房国佐久間(現在の千葉県安房郡鋸南町周辺)を拠点としていたが、後に尾張国に移住したとされる 1 。家系的には桓武平氏三浦氏の流れを汲むとされている 8 。父は佐久間信晴であり 5 、信盛は山崎城主であったとも言われる 5 。幼名は牛助と称した 5 。
妻は前田種利の娘であり、この婚姻は天文11年(1542年)頃と推測されている 4 。この婚姻は、譜代の前田家と幕臣佐久間家の支流である山崎佐久間家を結びつけ、織田家への従属をより確実なものにするという政治的な意図があったと考えられている 4 。佐久間家の当時の経済的基盤については、江戸時代初期には600石から700石程度の領地を有していたとの記録があるが、戦国時代においてはその半分程度であったと推測されている。しかしながら、当時の織田家中の家格としては、十分に宿老の地位にまで登り得る有力な家柄であったと見なされている 4 。
信盛がいつから織田家に仕え始めたのか、特に信長の父である織田信秀の代からの関わりについては、諸説あり判然としない。父・信晴と共に信秀に仕えたとする記述は複数の文献に見られる 5 。しかし、『信長公記』において信盛の名が初めて登場するのは弘治元年(1555年)頃の守山城開城に関する逸話であり、それ以前の合戦記録には彼の名は見当たらない。このことから、信秀の代から出仕し、信長の幼少期から側近として仕えていたという一般的な説を裏付ける確たる一次史料は現存しないとの指摘もある 4 。
この初期の忠誠に関する曖昧さは、信盛と信長の関係性を理解する上で重要な論点となる。もし彼が信秀の代からの古参の臣であれば、信長との関係は世襲的な忠誠心と深い絆に根差したものと解釈できる。しかし、もし彼の台頭が信長の治世に入ってから本格化したのであれば、それは信長自身の勢力拡大と、信盛の能力に対する信長の個人的な評価に依るところが大きかった可能性を示唆する。この点は、信盛が信長政権の初期から「旧守派」の中心人物と見なされていたのか、あるいは信長の下で実力を証明して地位を築いたのかという、彼の立場を評価する上で大きな違いを生む。
信長の家督相続を巡る争いにおいては、信盛は一貫して信長を支持したとされる。弘治2年(1556年)に勃発した稲生の戦いでは、信長方として奮戦し、その勝利に貢献した 2 。この戦い以降、信長は信盛を家臣団の中でも筆頭格として重用するようになったと言われている 2 。
『信長公記』における信盛の初見とされる守山城開城の逸話は、彼の初期の活動を具体的に示す数少ない記録の一つである。弘治元年(1555年)頃、信長の弟である織田秀孝が不慮の死を遂げた事件に関連し、信盛は信長に対して守山城の戦略的重要性を説き、その開城を進言したとされる 4 。この進言が信長に受け入れられた背景には、信盛自身が調略や交渉によって守山城を無血開城させる具体的な算段を持っていたこと、さらには彼が守山城側と何らかの繋がりを有していた可能性が示唆されている 4 。この時点で既に、信盛が織田家の軍議の席で発言し、それが信長に聞き入れられているという事実は、彼が単なる一武将ではなく、信長から一定の信任を得ていたことを物語っている 4 。
表1:佐久間信盛 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠 |
大永7年(1527年)または大永8年(1528年) |
尾張国愛知郡山崎にて出生(推定) |
4 |
(幼少期) |
幼名:牛助 |
5 |
天文11年(1542年)頃 |
前田種利の娘と婚姻(推定) |
4 |
弘治元年(1555年) |
『信長公記』初見。守山城開城を進言 |
4 |
弘治2年(1556年) |
稲生の戦いに信長方として参戦、勝利に貢献 |
2 |
永禄11年(1568年) |
信長上洛に従い入京、京都の治安維持に努める |
1 |
元亀元年(1570年) |
近江永原城主となる。柴田勝家と共に六角義賢を破る。姉川の戦いに参戦。 |
1 |
元亀3年(1572年) |
三方ヶ原の戦いに徳川家康への援軍として参戦 |
10 |
天正元年(1573年) |
槇島城の戦い、一乗谷城の戦い、小谷城の戦いに参戦。長島一向一揆攻めに参加。 |
6 |
天正2年(1574年) |
東大寺蘭奢待切り取りの奉行を務める |
1 |
天正3年(1575年) |
長篠の戦いに参戦、武田軍に打撃を与える。越前一向一揆鎮圧に参加。 |
1 |
天正4年(1576年) |
石山本願寺攻めの総大将(畿内方面軍司令官)に任命される |
15 |
天正8年(1580年)8月 |
信長より19ヶ条の折檻状を突きつけられ、高野山へ追放される |
10 |
天正9年(1581年)または天正10年(1582年) |
紀伊国十津川または熊野にて死去 |
4 |
佐久間信盛は、織田信長の天下統一事業において、数々の重要な戦役に参加し、武功を挙げた。その活躍は多岐にわたり、彼の軍事的能力と織田家中での地位を物語っている。
信盛の戦歴の中でも特筆すべきは、彼に付けられた異名であろう。「木綿藤吉(羽柴秀吉)、米五郎左(丹羽長秀)、かかれ柴田(柴田勝家)に退き佐久間」という言葉は、織田家の主要な武将たちの特性を的確に表したものとして知られている 1 。この中で信盛は「退き佐久間」と称されており、これは彼が殿(しんがり)、すなわち退却戦の指揮を得意としたことに由来する 1 。退却戦は、軍勢を安全に撤退させ、損害を最小限に抑えるための高度な戦術眼と冷静な判断力が求められる、攻撃以上に困難な任務である 18 。信盛がこの困難な役割を巧みにこなしたことは、彼の戦術家としての優れた能力を示しており、しばしば積極的な攻勢を好んだ信長にとって、信頼できる後衛指揮官の存在は戦略上不可欠であった。この特殊な技能こそが、彼が長年にわたり織田軍の中核を担い、信長からの信頼を維持し得た大きな要因の一つと考えられる。戦国時代における武将の評価は、単に攻撃的な勇猛さだけでなく、このような危機管理能力や戦略的な撤退を指揮する能力も含まれていたことを、信盛の事例は示している。
また、「のき佐久間」という異名も伝えられている 19 。これは各地の合戦での活躍に由来するとされるが、その具体的な由来やエピソードを裏付ける史料は現在のところ明確ではない 19 。
信盛が参加した主要な戦役は以下の通りである。
佐久間信盛の軍歴において、石山本願寺攻めはその頂点であると同時に、彼の運命を大きく左右する転換点となった。天正4年(1576年)、信盛は石山本願寺攻めの総大将に任命された 2 。これは、それまで畿内方面の司令官であった塙直政が戦死したことを受けての人事であり、信盛は織田家中で最大規模の軍団を率いる立場となった 16 。この任命は、信長からの信盛に対する絶大な信頼を示すものであった。
しかし、石山本願寺は全国の一向宗門徒の総本山であり、天然の要害と堅固な防御施設、そして熱狂的な信徒兵によって守られた難攻不落の拠点であった。信盛の指揮下で織田軍は本願寺に対する包囲を続けたが、戦線は膠着し、以後5年間にわたり決定的な戦果を挙げることができなかった 15 。この長期にわたる戦果の不足が、後の信長による追放の最大の理由の一つとされている。
信盛が採用した戦術は、信長が定めた基本方針である包囲策に基づき、本願寺への兵糧や物資の補給路を遮断する兵糧攻めが中心であったと考えられる 6 。しかし、この兵糧攻めを困難にしたのが、毛利水軍による海上からの兵糧搬入であった。毛利氏は本願寺と結び、瀬戸内海の制海権を背景に執拗に補給を試みた。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いで九鬼嘉隆率いる織田水軍が鉄甲船を用いて毛利水軍を破り、ようやく海上封鎖が効果を発揮し始めるまで、織田軍は本願寺の補給を完全に断つことができなかった 22 。
さらに、信盛自身の指揮にも問題があったとの指摘もある。彼は直属の家臣を十分に増員せず、信長から配属された与力の将兵に頼ることが多かったとされる 21 。これは、与力に軍役の負担を強いる一方で、自身の財政的負担を軽減しようとした結果とも解釈できるが、結果として軍団全体の士気や結束力を削ぎ、効果的な作戦遂行を妨げた可能性が考えられる。
『信長公記』などの一次史料には、信盛が石山合戦で具体的にどのような指揮を執ったかについての詳細な記述は乏しい。天王寺砦の守備や、本願寺側との和睦交渉の使者として活動した記録は見られるものの 6 、彼が直面した困難や、それに対する具体的な対応策、そして信長からの評価の変遷などを詳細に追うことは難しい。石山本願寺という、当時の織田政権にとって最大の難敵の一つとの対峙は、信盛にとってその軍事的手腕と統率力の全てが問われる試練の場であった。そして、この長期戦における「成果なし」という評価が、彼の輝かしいキャリアに終止符を打つ直接的な引き金となったのである。
佐久間信盛は、織田家において軍事面だけでなく、政治・外交面でも重要な役割を担い、「筆頭家老」と称されるほどの重臣であった 1 。この呼称は単なる名誉職ではなく、彼の織田政権内での実質的な影響力を示すものであった。柴田勝家と並び称される存在であり、信長の幼少期から彼を支えたとも言われるが、前述の通り、信秀の代からの具体的な関わりについては史料的な裏付けが十分ではない点も留意する必要がある 2 。
信盛の職責は多岐にわたった。信長の上洛後は京都の政務にも関与し 14 、松永久秀との交渉 6 や石山本願寺との和睦交渉 6 といった外交任務も担当した。特に畿内方面軍の司令官に任じられてからは、その方面の軍事・行政を統括する立場にあり、信長の信頼がいかに厚かったかが窺える 2 。信長がまだ「うつけ」と評され、家督相続も不安定であった若い頃からの信盛の変わらぬ忠誠心と支持が、この深い信頼関係の基盤にあったとされている 18 。
「筆頭家老」としての信盛の役割は、単に軍を率いるだけではなかった。京都における行政への関与や外交交渉への参加は、信長が彼の軍事的能力(特に「退き佐久間」と評された戦術眼)だけでなく、統治や交渉における手腕も評価していたことを示している。この広範な責任は、信長が長年にわたり彼に寄せていた信頼の深さを物語る。しかし、それ故に、後の折檻状で軍事、人事、忠誠心といった多岐にわたる分野での失敗を指摘されたことは、彼にとってより一層包括的で壊滅的な意味を持った。戦国時代の高位の家臣は、軍事指揮官であると同時に、領国経営や外交交渉にも長けた多才な能力が求められることが多く、信盛の経歴もその一例と言えるだろう。
長年にわたり織田信長に仕え、数々の功績を挙げてきた佐久間信盛であったが、そのキャリアは突如として、そして悲劇的な形で終焉を迎える。信長からの折檻状による追放は、戦国史における有名な事件の一つであり、その背景や信長の意図については様々な解釈がなされている。
天正8年(1580年)8月、織田信長は佐久間信盛とその子・信栄(のぶひで、後の正勝)に対し、19ヶ条にも及ぶ折檻状を突きつけた 2 。この書状は、信盛父子のこれまでの働きぶりを厳しく糾弾し、その結果として高野山への追放を命じるものであった。
信長自筆とも伝わるこの折檻状は、信盛の多岐にわたる「罪状」を列挙し、その言葉遣いは極めて辛辣であった。主な内容は以下の通りである。
この折檻状の19ヶ条にわたる広範かつ詳細な非難は、信長の決定が単一の事件に基づくものではなく、長年にわたる不満の蓄積、あるいはそのような印象を与えることを意図したものであったことを示唆している。軍事、個人的資質、過去の行動など、多岐にわたる「罪状」を挙げることで、信長は信盛追放の正当性を揺るぎないものにしようとしたと考えられる。これは、長年仕えた高位の家臣に対するこのような厳しい措置を正当化し、異論の余地を封じ込めるための、計算されたものであった可能性が高い。この書状は、信長の絶対的な権力と、彼が重大な決定を下す際にその理由(あるいは正当化)を詳細に記録し、それによって事件を巡る歴史的言説を形成しようとしたことを示す強力な史料と言える。
表2:折檻状の主要な指摘事項(十九カ条の要点)
指摘事項の分類 |
具体的な内容例 |
典拠 |
1. 対石山本願寺戦における不作為・無策 |
5年間在城しながら何の功績も挙げていない。武力がおよばなければ調略を用いるべきところ、戦や調略を行わなかった。 |
21 |
2. 他の家臣との著しい能力・成果の差 |
明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興らの目覚ましい働きと比較し、信盛の不手際を指摘。 |
21 |
3. 将としての資質・心構えの欠如 |
欲深く、気むずかしく、良い人材を抱えようとしない。与力ばかりを使い、自身で家臣を召し抱えず領地を無駄にしている。家臣への知行加増や新規家臣の召抱えを怠り、溜め込むことばかり考えている。 |
21 |
4. 過去の軍令違反・指揮上の失態 |
先年の刀根坂の戦いで戦況の見通しが悪いと叱責された際、恐縮せず自説を主張し席を蹴って立った。三方ヶ原の戦いへの援軍派遣で、平手汎秀を見殺しにした。 |
21 |
5. 子・信栄の監督不行き届きと問題行動 |
甚九郎(信栄)の罪状は数えきれないほどである。親子共々武士の道を心得ていない。 |
21 |
6. 長年の奉公に対する総合的な貢献度不足 |
信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。 |
21 |
7. 今後の身の振り方についての最終通告 |
どこかの敵を討ち果たして恥をすすぐか、討ち死にするか。親子共々頭を丸め、高野山に隠遁し赦しを請うのが当然である。 |
10 |
佐久間信盛追放の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。
まず、 信長の意図 として、いくつかの点が挙げられる。第一に、石山本願寺との10年に及ぶ戦いが終結し、織田軍の主要な戦いの舞台が地方遠征へと移行する中で、 軍団の再編成や旧世代の武将からより能力のある、あるいは将来性のある若い世代への役割交代 を進めようとした可能性である 21 。第二に、信盛のような宿老であっても、成果を上げられなければ容赦なく追放するという姿勢を示すことで、 他の家臣団を引き締め、一層の奮起を促す という、いわば見せしめの効果を狙ったという見方もある 21 。これは、信長が実力主義を徹底し、家臣に対して常に高い成果を要求していたことの表れとも言える 10 。
一方で、 信盛自身の問題 も指摘されている。やはり最大の要因は、石山本願寺攻めにおける長期にわたる成果不足であり、総大将としての指導力や戦術眼に疑問符が付けられたことであろう 16 。また、折檻状で指摘されたように、過度な保身の傾向や、家臣団の育成を怠ったことなども、信長の不興を買った要因と考えられる。
さらに、古くから囁かれているのが 明智光秀による讒言説 である。『寛政重修諸家譜』には「明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる」との記述が見られるが、この史料は18世紀末の成立であり、その記述の直接的な典拠は明示されていないため、史料的価値については慎重な検討が必要である 29 。また、江戸時代初期に成立した軍記物である『佐久間軍記』にも、追放の背景に何者かの讒言があったのではないかという憶測が記されている 29 。信盛が追放された後、彼が担っていた畿内方面の重職の一部を明智光秀が引き継いだこと 14 や、信盛の追放が光秀を含む他の重臣たちに大きな危機感を抱かせ、後の本能寺の変の遠因の一つになったのではないかという考察も存在する 14 。しかしながら、折檻状そのものには光秀の讒言を示唆するような記述は一切なく 21 、この説の真偽については未だ不明な点が多い 15 。この讒言説の根強さは、信盛失脚という劇的な事件に対して、単なる能力不足や信長の戦略的判断といった理由だけでは説明しきれない、より人間的なドラマ性を求める後世の人々の心理を反映しているのかもしれない。しかし、一次史料に基づかない憶測である可能性も否定できない。
天正8年(1580年)という時期は、織田信長にとって天下統一事業が大きく進展し、その権力が絶頂に達しつつあった頃である。石山本願寺という長年の宿敵を屈服させ、武田氏や上杉氏といった他の強敵も弱体化しつつあった。このような状況下で、信長はより効率的で、自身の意のままに動く強力な家臣団の構築を目指していたと考えられる。佐久間信盛だけでなく、同じく宿老であった林秀貞や安藤守就らが相次いで追放されたことは 21 、信長が旧体制からの脱却を図り、自身の権力基盤を一層強固なものにしようとしていたことの表れと見ることができる。
この時期の信長は、もはや尾張の一地方領主ではなく、天下人としての自覚と自信を深め、絶対的な専制君主としての性格を強めていた。そのため、家臣に対してもより厳しい成果と絶対的な忠誠を要求するようになっていた 21 。信盛の追放は、このような信長の姿勢の変化と、織田家の急速な拡大と変質という大きな文脈の中で理解する必要がある。
折檻状で高野山への隠遁を命じられた佐久間信盛は、その指示に従い、子・信栄と共に高野山へと赴き、そこで出家したとされている 9 。しかし、その最期については、没年や場所に関して複数の説が存在し、正確なところは判然としない。
没年と場所の諸説:
このように、信盛の最期に関する記録には食い違いが見られる。生年と同様に、没年や没地についても決定的な史料が不足しているのが現状である。これは、彼が政治の中枢から追放された後、その動静が詳細に記録されなくなったことを示唆しているのかもしれない。権力の座から滑り落ちた人物の晩年は、歴史の表舞台から姿を消し、記録も曖昧になることが多い。
近年では、歴史学者の神田千里氏の研究により、佐久間信盛が高野山で比較的平穏な余生を送った可能性も指摘されている。この説は、『信長公記』に見られる高野山から追い出されたという記述の信憑性に疑問を呈するものであり、信盛の最期に関する従来の理解に一石を投じるものである 33 。
息子・佐久間信栄のその後:
父・信盛と共に追放された息子の佐久間信栄(後に正勝と改名)であったが、父の死後、天正10年(1582年)1月に信長から赦免され、信長の嫡男である織田信忠に仕えることとなった 7 。しかし、同年の本能寺の変で信長・信忠父子が横死すると、信栄は信長の次男・織田信雄に仕え、伊勢国蟹江城主などを務めた 35 。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、信雄方として羽柴秀吉軍と戦っている 34 。
信雄が改易されると、信栄は豊臣秀吉に御伽衆として召し抱えられた。さらにその後は徳川家康(あるいはその子・秀忠)にも仕えたとされ、茶人としても名を残し、不干斎と号した 5 。寛永8年(1631年)4月27日、76歳でその生涯を閉じた 7 。父とは対照的に、信栄は激動の時代を巧みに生き抜き、茶人としての文化的な側面も持ち合わせながら天寿を全うした。なお、一部の古い情報源 34 では信栄の追放後の消息は不明とされているが、これはより新しい研究や他の史料によって訂正されている。
佐久間信盛という人物を理解するためには、史料に残された彼の能力、性格、そして功績と過失を多角的に検討する必要がある。また、後世における評価の変遷と現代の研究動向も、彼の歴史的立ち位置を明らかにする上で重要である。
能力:
信盛の最も特筆すべき軍事的能力は、やはり「退き佐久間」と称された退却戦術の巧みさであろう 1。これは、単なる勇猛さとは異なる、冷静な状況判断と戦術眼を必要とする高度な技能であり、織田軍にとって貴重な存在であった。また、一部には軍事・行政・外交のバランスが取れた武将であったとの評価も見られる 26。さらに、学問にも造詣が深かったことを示唆する逸話も残されている。例えば、ある時、信長に讒言によって疑われ、茶室に招かれて暗殺されそうになった際、そこに掛けられていた掛物の絵に書かれた漢詩をすらすらと読み解き、その意味を説明して信長を感服させ、許されたという話が伝わっている 13。この逸話は、彼の教養の深さを示すものと言えよう。息子・信栄が茶人として名を成したこと 9 も、佐久間家に文化的な素養があったことを窺わせる。
性格:
信盛の性格については、史料によって対照的な記述が見られる。織田信長に仕え始めた初期には、その忠誠心は高く評価され、信長からの厚い信頼を得ていたとされる 18。しかし、晩年に突きつけられた折檻状では、欲深く、気難しく、そして吝嗇(けち)であると、極めて厳しい言葉でその人格が批判されている 21。また、石山本願寺攻めの際には、過度な保身の傾向があったとも指摘されている 16。
一方で、同時代を生きたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で佐久間信盛を「思慮深く、人々に対して礼儀正しく、また偉大な勇士である」と好意的に評価している 29 。このフロイスによる評価は、信長の折檻状に描かれた人物像とは大きく異なり、信盛の多面性を示唆している。信長の折檻状が、追放を正当化するという明確な意図を持って書かれた文書であるのに対し、フロイスの記述は比較的客観的な第三者の視点からのものと言えるかもしれない。ただし、フロイス自身も特定の立場や情報源に基づく記述を行っていた可能性は考慮する必要がある。これらの矛盾する評価は、信盛の真の性格が単純なものではなく、見る立場や状況によって異なる側面を見せていたことを物語っている。歴史上の人物を評価する際には、単一の史料に依拠するのではなく、複数の異なる視点からの記述を比較検討することの重要性を示している。
功績:
佐久間信盛は、織田信長に約30年という長きにわたり仕え、その間、織田家の主要な戦いのほとんどに参加し、多くの手柄を立てたとされる 1。信長の上洛作戦、畿内平定、近江の六角氏との戦い、そして長篠の戦いなど、織田家の勢力拡大における重要な局面で、彼は指揮官の一人として重要な役割を果たした 1。また、織田家の筆頭家老として、軍事面だけでなく、政務や外交交渉においても貢献したことが記録されている 14。
罪過:
彼の功績を語る上で避けて通れないのが、その晩年の失態である。最大のものは、やはり石山本願寺攻めにおける長期にわたる成果不足であろう 15。総大将という重責を担いながら、5年間もの間、戦局を打開できなかったことは、信長の期待を大きく裏切るものであった。そして、折檻状で指摘された数々の問題点、すなわち指導力の欠如、人材育成の怠慢、さらには信長に対する忠誠心への疑念などが、彼の「罪」として挙げられている 10。
佐久間信盛に対する歴史的評価は、時代と共に変化してきた。長らく、信長からの折檻状の内容が強く影響し、彼は「無能な武将」「怠慢な宿老」といった否定的なイメージで語られることが多かった 1 。信長の言葉は絶対的なものとして受け取られ、信盛の功績は影を潜めていた。
しかし、近年の歴史研究においては、このような一方的な評価を見直す動きが出てきている。例えば、歴史学者の柴裕之氏は、佐久間信盛が長期間にわたり織田家中で最大の軍団の一つを任されていた事実や、彼が本気で信長に諫言した際には信長もその意見に耳を傾け、思い直したとされる逸話が存在することなどを指摘し、果たして彼が本当に能力のない人物であったのか、再考の余地があるとしている 36 。信長がそのような人物に長年重職を任せ続けるとは考えにくく、折檻状の内容は、追放を正当化するための極端な表現であった可能性も考慮されるべきである。
また、信盛の失脚事件は、単に彼個人の問題としてではなく、織田信長の厳格な家臣団統制や徹底した能力主義、そして急速に拡大する織田政権内部の権力構造の変化を示す象徴的な事例として分析されることが多い 15 。信長のリーダーシップスタイルや人材登用の方針を理解する上で、信盛の追放は重要なケーススタディとなっている。
さらに、彼の追放が明智光秀をはじめとする他の重臣たちに与えた心理的な影響、ひいてはそれが本能寺の変の遠因の一つとなったのではないかという考察も、依然として歴史ファンの間では関心の高いテーマである 14 。
現代における佐久間信盛の再評価の試みは、歴史上の人物に対する評価が、新たな史料の発見や解釈、研究視点の変化によって、いかに多角的かつ深みのあるものへと発展していくかを示す好例と言える。かつては信長の言葉によって一方的に断罪された武将が、現代の歴史学の光のもとで、その実像をより公正に捉え直されようとしているのである。
佐久間信盛の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた武将の栄光と悲哀を凝縮したものであった。織田信長の天下統一事業が緒に就いた初期から、その勢力が飛躍的に拡大する中期にかけて、彼は軍事・行政の両面で重きをなし、織田家宿老として信長を支え続けた。長年にわたる数々の功績にもかかわらず、晩年の石山本願寺攻めにおける不手際などを直接的な理由として信長の怒りを買い、19ヶ条もの折檻状を突きつけられて失脚した彼の運命は、戦国武将の立場の不安定さ、そして主君である織田信長の厳格な人事と絶対的な権力を象徴する事例として、後世に強い印象を残している。
「退き佐久間」と称された戦術家としての確かな能力、ルイス・フロイスが伝えた「思慮深く礼儀正しい勇士」という人物評、そして信長の折檻状に記された痛烈な批判は、佐久間信盛という人物に対する多面的な評価軸を提供する。彼が本当に無能であったのか、あるいは信長の期待に応えられなかっただけなのか。追放の真意に明智光秀の讒言が関わっていたのか否かについては、未だ確たる証拠はなく議論が続いている。しかし、彼の存在と、その劇的な失脚が、織田政権の内部構造や他の家臣たちに与えた影響、ひいては戦国末期の歴史の展開に少なからぬ波紋を投げかけたことは疑いようがない。
現代における歴史研究では、信長の折檻状という一方的な史料のみに依拠するのではなく、他の史料との比較検討や、当時の政治・社会状況を考慮に入れた上で、佐久間信盛の実像に迫ろうとする試みが続けられている。これは、歴史上の人物に対する評価が固定的なものではなく、新たな視点や研究の進展によって常に更新され得ることを示している。佐久間信盛の生涯は、単なる一個人の物語を超え、戦国という時代の特性、織田信長という稀代の指導者の下で生きることの困難さ、そして歴史評価の複雑さを我々に教えてくれる貴重な事例と言えるだろう。