本報告書は、織田信長の天下統一事業の初期において、極めて重要な役割を果たしながらも、桶狭間の戦いでその生涯を閉じた武将、佐久間大学盛重(さくま だいがくのすけ もりしげ)の全貌を解明することを目的とする 1 。彼の生涯は、織田家内部の家督争いから、今川義元という強大な敵との決戦に至る、信長が最も困難な時期と軌を一にする。その決断と犠牲が、信長の覇業にいかなる影響を与えたのか、多角的に論じるものである。
歴史を紐解く上で、まず人物の正確な同定が不可欠である。佐久間一族には同名の「佐久間盛重」が複数存在する。特に、織田信秀に仕え天文8年(1539年)に没したとされる「久六盛重」 3 や、江戸時代前期の旗本「九平盛重」 1 とは明確に区別されねばならない。本稿で扱うのは、通称を「大学助」あるいは「大学允」とし、桶狭間の戦いで戦死した盛経系佐久間氏の盛重である 1 。この峻別は、彼の功績と一族内での立場を正確に理解するための第一歩となる。本報告書を通じて、歴史の転換点に埋もれた一人の忠臣の真実に光を当てることを目指す。
佐久間氏の出自は、単なる尾張の国人領主という範疇に収まらない。その源流は、桓武平氏三浦氏の一族に遡り、鎌倉幕府の創設に貢献した有力御家人・和田義盛の血を引くとされる 7 。『寛政重修諸家譜』によれば、和田義盛の孫にあたる朝盛が佐久間家村の養子となり、佐久間氏を継いだと記されている 7 。
一族が尾張国に根を下ろす契機となったのは、承久3年(1221年)の承久の乱である。この乱において、朝盛の子・家盛は幕府方として戦功を挙げ、その恩賞として尾張国御器所(現在の名古屋市昭和区)の地を賜った 8 。これにより、後の戦国時代における尾張佐久間氏の確固たる基盤が築かれたのである。この事実は、佐久間氏が織田弾正忠家に従う中でも、古くからの由緒を持つ名門としての自負を抱いていたことを示唆している。
戦国期に入り、大学盛重の祖父にあたる佐久間盛通の代で、一族の構造は新たな局面を迎える。盛通には四人の息子がおり、それぞれが織田信秀に仕えることで、佐久間氏は大きく四つの家系に分立した 9 。長男・盛明、次男・盛経、三男・信晴、そして四男・久六盛重(大学盛重とは別人)の四家である。
この四家の分立は、一見すると一族の勢力拡大に見えるが、同時に織田家内部の権力闘争や主家の代替わりといった不確定要素に対する、巧みなリスク分散戦略であったとも解釈できる。各家がそれぞれ独立性を保ちつつ主家に仕えることで、いずれかの一家が不遇に見舞われても、一族全体としては存続を図ることが可能となる。この複雑な一族内の力学は、後に大学盛重が下す重大な決断の背景を理解する上で、極めて重要な要素となる。
本報告書の主題である佐久間大学盛重は、この四家のうち、次男・盛経の子として生を受けたことが史料から確認できる 1 。彼の位置付けをより明確にするため、他の著名な一族との関係を整理する必要がある。
後に織田家筆頭家老として権勢を振るう佐久間信盛は、盛通の三男・信晴の子であり、大学盛重とは従兄弟の関係にあたる 9 。また、「鬼玄蕃」の異名で知られる猛将・佐久間盛政は、盛通の四男・久六盛重の子である盛次の息子である 11 。したがって、大学盛重と盛政は同じ佐久間一族ではあるものの、祖父の代で分岐した別系統であり、直接の血縁関係は比較的遠い。この正確な関係性の把握は、彼らが織田家臣団の中で果たした役割や連携を読み解く上で不可欠な鍵となる。
祖 |
世代 |
系統 |
主要人物 |
備考 |
佐久間盛通 |
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佐久間四家の父 |
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第一世代 |
長男 |
盛明 (通称:与六郎) |
子に家勝がいる。 |
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次男 |
盛経 |
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↳ 第二世代 |
佐久間大学盛重 |
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↳ 第三世代 |
奥山盛昭 |
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第一世代 |
三男 |
信晴 |
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↳ 第二世代 |
佐久間信盛 |
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↳ 第三世代 |
信栄 |
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第一世代 |
四男 |
久六盛重 (大学盛重とは別人) |
御器所西城を守った家系。 |
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↳ 第二世代 |
盛次 |
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↳ 第三世代 |
佐久間盛政 (鬼玄蕃) |
この系図は、大学盛重が佐久間一族の中核に位置しながらも、信盛や盛政とは異なる家系に属していたことを明確に示している。この立場が、彼の行動原理にどのように影響したのかを次章以降で詳述する。
天文20年(1551年)の織田信秀の死は、尾張に大きな動揺をもたらした。家督を継いだのは嫡男・信長であったが、その奇矯な振る舞いから「大うつけ」と評され、家中の信望は薄かった。これに対し、母・土田御前の寵愛を一身に受けた弟・信勝(信行)は、品行方正で家臣からの人望も厚く、筆頭家老の林秀貞や柴田勝家といった宿老たちに擁立され、信長と公然と対立するに至った 13 。織田家は、事実上の内乱状態に突入したのである。
この危機的状況において、佐久間大学盛重の立場は複雑であった。複数の二次史料において、彼はこの時「信勝付きの家老」であったと記されている 14 。しかし、信憑性の高い一次史料である太田牛一の『信長公記』を精査すると、信秀死後に信勝の家老として末森城に付けられたのは「佐久間次右衛門」という人物であり、大学盛重が明確に信勝の配下にあったとする直接的な記述は見当たらない 10 。この史料上の齟齬は、盛重が信勝方に身を置きつつも、その動向を冷静に観察し、一族全体の利害を考慮していた可能性を示唆している。
弘治2年(1556年)8月、信勝方が信長の直轄領である篠木三郷を占拠するなど、両者の対立はついに軍事衝突へと発展した 15 。この動きを察知した信長は、先手を打って清洲城と信勝方の那古野城の中間に位置する庄内川南岸の名塚に砦を急造し、その守将として大学盛重を配置した 19 。信勝方に与していると目される盛重を、戦略上の最重要拠点に起用したこの信長の采配は、両者の間に何らかの密約、あるいは信長から盛重への絶大な信頼があったことを物語っている。
8月24日、柴田勝家、林通具らが率いる信勝方の主力部隊が名塚砦に殺到し、「稲生の戦い」の火蓋が切られた 19 。盛重は、数に劣る兵力でこの猛攻を耐え抜き、砦を堅守した 15 。この彼の奮戦が、信長本隊が到着するまでの貴重な時間を稼ぎ、最終的な信長の勝利に決定的な貢献をしたことは疑いようがない。『信長公記』によれば、この戦いで盛重は信勝方の有力武将・橋本十蔵を討ち取る功績も挙げている 23 。
盛重の行動は、表面的には主君である信勝を裏切り、信長に味方したと見える。しかし、その背景を深く考察すると、これは単純な「裏切り」ではなく、佐久間一族の存続と織田家の将来を見据えた、極めて高度な戦略的判断であったと解釈できる。
第一に、一族との連携が挙げられる。盛重の従兄弟である佐久間信盛は、早くから信長を支持する家中の中心人物であった 10 。盛重の行動は、信盛ら一族の主要メンバーと事前に連携した、佐久間一族としての統一行動であった可能性が極めて高い。彼らは、個人的な主君である信勝個人への忠誠よりも、「織田弾正忠家」という家そのものの存続と安泰を優先したのである。そして、その未来を託すに足る器量の持ち主は、旧弊に囚われず革新的な才覚を示す信長であると、一族として判断したと考えられる 22 。
第二に、信長にとっての戦略的価値である。信勝方の重臣と目されていた盛重が味方に付くことは、単なる軍事力の増強以上に、信長が家督を継ぐ正統性を持つことを家中に示す、大きな政治的意味を持っていた。この稲生の戦いにおける比類なき功績こそが、盛重が信長から絶対的な信頼を勝ち得る源泉となったのである。
結論として、盛重の決断は近視眼的な裏切りではなく、一族の将来と主家の安泰という大局を見据えた、「忠義の対象の再定義」であったと評価できる。この行動は、後に同じく信勝の家老であった柴田勝家が信勝の再度の謀反を信長に密告する行動にも、少なからず影響を与えた可能性があり、織田家臣団における新たな忠誠観の形成を促す一つの画期であったと言えるだろう。
稲生の戦いを経て尾張国内の掌握を進めた信長であったが、永禄3年(1560年)、駿河・遠江・三河を領する大大名・今川義元による未曾有の侵攻という、国家存亡の危機に直面する。今川軍の兵力は2万5千と称され、対する織田軍は数千に過ぎなかった 25 。
この侵攻に先立ち、織田方の拠点であった鳴海城と大高城が今川方に寝返っており、信長はこれらの城を孤立させるため、周囲に複数の「付け城」を築いて包囲網を敷いていた 27 。その中でも丸根砦は、大高城の東約800メートルに位置する丘陵上に築かれ、鷲津砦と共に大高城を直接監視し、その兵站線を遮断する最前線基地であった 30 。この最も危険かつ重要な持ち場を、信長は稲生の戦いで絶大な信頼を得た佐久間大学盛重に託したのである 16 。
5月19日未明、今川軍の先鋒部隊を率いる松平元康(後の徳川家康)は、巧みな作戦で織田方の警戒網を突破し、兵糧の欠乏に苦しんでいた大高城への兵糧入れを敢行した 34 。任務を成功させた元康は、その勢いを駆って、大高城の喉元に突きつけられた刃である丸根砦の攻略へと向かった 30 。
通説によれば、盛重は籠城という消極策を選ばなかった。信長本隊の救援が必ず来ると信じ、時間を稼ぐとともに今川軍の消耗を強いるため、約400の守兵を率いて砦から打って出たとされる 30 。これは、圧倒的な兵力差を前にした決死の覚悟を示すものであった。松平勢の猛攻に対し、盛重率いる織田勢は一歩も引かず、一時は敵軍の前衛を崩すほどの激しい抵抗を見せた 30 。小高い丘の上で、両軍が入り乱れての壮絶な白兵戦が繰り広げられたのである。
しかし、衆寡敵せず、激戦の末に盛重をはじめとする丸根砦の守備隊は、主将の服部玄蕃らと共に全員が討ち死にし、砦は陥落した 16 。この悲報は、早朝に清洲城を出陣した信長が、戦勝祈願のために立ち寄った熱田神宮に到着した頃に届けられた 38 。
盛重の死と丸根・鷲津両砦の陥落は、戦術的には織田方の明確な敗北であった。しかし、この敗北こそが、戦国史を塗り替える奇跡的な勝利の、極めて重要な布石となったのである。最前線の砦が(今川方から見れば)比較的容易に陥落したという報告は、総大将である今川義元に「織田軍は脆く、信長は恐るるに足らず」という致命的な油断と慢心を生じさせた 26 。
この油断こそが、義元を防御に適さない桶狭間山中の窪地で休息を取り、戦勝の宴を開くという、戦略上の大失策に導いた直接的な原因であった。盛重たちの奮戦と玉砕は、結果的に信長の奇襲攻撃を成功させるための完璧な「おとり」として機能したのである。彼らの死は、信長の大勝利のために支払われた、必要不可欠な「戦略的コスト」であったと評価できる。佐久間大学盛重の死は、単なる悲劇的な戦死ではない。それは、信長の天下布武の序章を告げる、不滅の功績だったのである。
佐久間大学盛重が、単に忠義に厚いだけの武将ではなかったことは、後世に編纂された『佐久間軍記』に残る逸話からも窺い知ることができる。それによれば、盛重は大変な大酒飲みであったが、一度陣中にあれば一滴も酒を口にしなかったという 10 。これは、彼の武人としての高い規律と克己心を示している。
さらに、彼の豪胆さを物語る逸話として、ある時、大雪と洪水に見舞われ、前後不覚で眠っていたところを敵に襲撃された際の話が伝えられている。顔に深い傷を負いながらも即座に反撃して敵を切り伏せ、後に曲がってしまった鼻筋を医者に治させようとしたがうまくいかないと見るや、自ら脇差で鼻を突き刺してまっすぐに直そうとしたという 10 。この逸話の真偽はともかく、彼が並外れて剛毅で、痛みに動じない強烈な個性を持った人物として記憶されていたことは間違いない。盛重は、信長の信頼に応える忠臣であると同時に、強烈な自負心と武人としての矜持を抱いた人物であった。
盛重は桶狭間でその生涯を閉じたが、彼の血脈は途絶えることはなかった。遺された子・盛昭は、佐久間氏の祖先ゆかりの地である越後国奥山荘にちなんで姓を「奥山」と改め、家名を存続させた 1 。
盛昭は当初、織田家の宿老・丹羽長秀に仕えていたが、その能力を豊臣秀吉に見出され、天正13年(1585年)に直臣として召し出され、越前国内に1万1千石を与えられる大名へと立身した 7 。父・盛重が信長に捧げた命懸けの忠節が、その子である盛昭の処遇に好影響を与えた可能性は十分に考えられる。盛昭はその後も九州征伐や小田原征伐に従軍し、小田原征伐後には秀吉の命を受け、浪人していた同族の佐久間安政・勝之兄弟(盛政の弟)に仕官を説得するなど、一族のまとめ役としても活動した 7 。
奥山盛昭の子・正之は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易の憂き目に遭う 43 。しかし、その兄である重成の系統は徳川幕府に旗本として召し出され、1000石を知行し、盛重の血脈を江戸時代を通じて後世に伝えた 42 。
一方で、盛重の早すぎる死は、佐久間一族の内部構造と、信長の家臣団に対する評価基準に、長期的かつ見えざる影響を及ぼした可能性がある。生前の盛重は、稲生や丸根砦での戦いに見られるように、一族の「武」を象徴し、命を懸けて最前線で武功を重ねる存在であった。対照的に、従兄弟の信盛は、方面軍の総司令官や交渉役といった「政」に近い役割を担うことが多かった 8 。
盛重の死により、佐久間一族から、信長が最も高く評価するであろう「自己犠牲的な忠義と武功」を体現する象徴的な人物が失われた。信長は、盛重が見せたような鮮烈な働きを、家臣評価の絶対的な基準としていたフシがある。桶狭間の戦いから約20年後、信長が佐久間信盛を追放する際に突きつけた折檻状の中で、「長年奉公してきたが、比類なき働きは一度もない」と厳しく断罪した 46 。この辛辣な評価の背景には、常に信長の脳裏に、丸根砦で散った従兄弟・大学盛重の鮮烈な功績と死が比較対象として存在し、信盛の働きが物足りなく見えたという深層心理が働いていたのではないだろうか。盛重の死は、単に有能な武将一人を失っただけでなく、佐久間一族の力学を変化させ、ひいては信長の家臣団統制における評価基準にまで、静かに、しかし確実に影響を及ぼし続けた可能性がある。
佐久間大学盛重の生涯は、織田信長の覇業黎明期における苦難と栄光を凝縮したものであった。彼は、主家の家督争いという混乱の渦中にあって、目先の主君への忠義に囚われることなく、「織田家」全体の未来を見据え、最も将来性のある信長に味方するという卓越した戦略眼と決断力を見せた。
その忠義は、信長からの絶対的な信頼を勝ち取り、国家存亡の危機であった桶狭間の戦いにおいて、最も危険な最前線・丸根砦の守りを託されるという形で結実した。彼の壮絶な死は、戦術的には敗北であったが、大局的には今川義元の油断を誘い、信長の奇跡的な勝利を呼び込む決定的な布石となった。盛重は、まさに自らの命を「捨て石」とすることで、主君を天下への道へと押し上げたのである。
佐久間大学盛重は、その豪胆な人柄と比類なき忠節をもって、織田信長の最も困難な時代を支え、戦国史の大きな転換点にその命を刻み込んだ。彼の存在なくして桶狭間の勝利はあり得たか、そしてその後の信長の飛躍はあったか。歴史に「もし」はないが、彼が信長の天下取りの礎を築いた、比類なき忠臣として再評価されるべきであることは、疑いのない事実である。