戦国時代の日本列島は、数多の武将たちがそれぞれの存亡を懸けて覇を競った動乱の時代であった。その中で、中央の歴史からは光の当たりにくい地方の国人領主たちもまた、激動の渦中で必死の生存戦略を繰り広げていた。本報告書で詳述する佐波隆秀(さわ たかひで)も、そうした国人領主の一人である。彼の生涯を理解するためには、まず彼が拠った石見国(現在の島根県西部)の特異な地政学的状況と、彼の一族である佐波氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。
佐波氏は、平安時代の碩学・三善清行を遠祖に持つ名門の家系である 1 。三善氏は代々朝廷に仕える学者の家柄であり、鎌倉幕府においては問注所執事を務めるなど、中央政権で法曹・官僚としての役割を担った。その子孫である三善義連が石見国に下向し、邑智郡佐波荘を領有して「佐波」を名乗ったのが、石見佐波氏の始まりとされる 1 。同じく石見の国人である赤穴氏も同族であり、佐波氏は石見国に深く根を張った旧来の勢力であった 1 。
彼らの本拠地は、南北朝時代の貞和3年(1347年)頃に佐波顕連によって築かれた青杉城(あおすぎがじょう)であり、約250年の長きにわたって佐波氏の居城として機能した 4 。この城は、中国地方最大の大河である江の川が三方を囲む天然の要害に築かれており、佐波氏の勢力基盤の核を成していた 5 。このほか、龍岩寺城や、出雲国との国境地帯に位置する泉山城なども、一族の重要な拠点であった 5 。このように、佐波氏は学問の家系という権威的な背景を持ちつつも、在地の実力者として武士化し、石見国に確固たる地盤を築き上げていたのである。
戦国時代の石見国は、西の周防国(現在の山口県東部)を本拠地とする守護大名・大内氏と、東の出雲国(現在の島根県東部)から勢力を伸張する戦国大名・尼子氏という、二大勢力のちょうど中間に位置していた。この地理的条件は、石見国の国人領主たちの運命を大きく左右した。佐波氏をはじめ、益田氏、吉見氏、小笠原氏、福屋氏といった国人たちは、常に両勢力からの圧力を受け、ある時は一方に従属し、またある時はもう一方と結ぶといった、巧みな外交と軍事行動によって自家の存続を図ることを余儀なくされていた 7 。
特に、16世紀前半に本格的な採掘が始まった石見銀山は、莫大な富を生み出すことから、大内・尼子両氏にとって戦略的に極めて重要な拠点となった。この銀山の領有を巡る争奪戦は熾烈を極め、石見の国人たちは否応なくその戦乱の渦中に巻き込まれていった 10 。佐波氏は、その所領が尼子氏の勢力圏と直接接していたため、常に尼子氏からの軍事的脅威に晒されながらも、基本的には西国随一の大名であった大内氏に従属することで、その勢力を維持していた 1 。
このような、常に二大勢力に挟まれ、一つの判断ミスが一族の滅亡に直結しかねないという極度の緊張状態こそが、佐波隆秀が生きた時代の基本的な環境であった。彼の生涯における幾多の重要な決断は、すべてこの地政学的な宿命を背景として理解されねばならない。
佐波隆秀の青年期は、西国に覇を唱えた大内氏の権勢が絶頂期を迎え、そして突如として崩壊するという、まさに激動の時代であった。彼自身の家督相続もまた、この大内氏の動乱と密接に絡み合った、極めて複雑かつ困難なものであった。
佐波隆秀は、大永3年(1523年)、石見の国人・佐波興連(おきつら)の嫡男として生を受けた 1 。父・興連の諱(いみな)である「興」の一字は、当時の大内氏当主であった大内義興から与えられた偏諱(へんき、主君が家臣に名前の一字を与えること)であると考えられている 12 。これは、佐波氏が大内氏と代々強い主従関係を築いてきたことの証左である。
隆秀自身もまた、その慣例に倣った。彼の諱である「隆」の一字は、義興の子であり、当時の大内氏当主であった大内義隆から拝領したものであった 1 。偏諱を受けることは、元服して一人前の武将として認められると同時に、大内氏を中心とする西国の秩序の中に、家臣として正式に組み込まれたことを意味した。当時、石見国の有力国人であった吉見隆頼や福屋隆兼なども同様に義隆から「隆」の字を与えられており、大内氏の威光が石見国にまで及んでいたことが窺える 13 。
若き日の隆秀は、大内氏の家臣として軍役を務めた。天文11年(1542年)から翌12年(1543年)にかけて、主君・大内義隆が宿敵・尼子氏を滅ぼすべく、その本拠地である出雲・月山富田城へ大軍を率いて遠征した際(第一次月山富田城の戦い)、隆秀もこれに従軍している 1 。この戦いは、尼子方の頑強な抵抗と大内軍内部の足並みの乱れから、義隆の養嗣子・大内晴持を失うという惨憺たる敗北に終わった 14 。しかし、この大敗は、若き隆秀にとって、巨大な軍事連合が動員される大規模な合戦の現実と、その脆さを肌で感じる貴重な経験となったに違いない。
天文20年(1551年)8月、大内氏の歴史を揺るがす大事件が勃発する。筆頭重臣であった陶隆房(後の晴賢)が、文治主義に傾倒し政務を顧みなくなった主君・大内義隆に対し、突如として謀反を起こしたのである(大寧寺の変) 14 。
この未曾有の政変において、佐波一族は重大な岐路に立たされた。当時の佐波氏当主は、隆秀の従兄にあたる佐波隆連(たかつら)であった。隆連は、主君・義隆への忠義を貫き、最後まで義隆方として行動した。彼は義隆の使者として、同じく親義隆派であった石見の有力国人・吉見正頼のもとへ援軍を要請するために赴いた。しかし、その任を果たしての帰路、すでに陶方に与していた武将・町野隆風(まちの たかかぜ)の兵に行く手を阻まれ、長門国阿武郡生雲(いくも)の地で奮戦の末、討死を遂げた 1 。
当主・隆連の突然の死は、佐波氏に深刻な後継者問題と内紛の危機をもたらした。隆連には男子がおらず、血筋から言えば従弟である隆秀が後継者の最有力候補と目された。しかし、佐波氏の家中には、隆秀の家督相続に反対する勢力が存在したのである 1 。
事態をさらに複雑にしたのは、隆連を討ち取った町野隆風が、何を隠そう隆秀の妻の父、すなわち舅であったという事実である 1 。大内家中の「義隆方」と「陶方」の対立は、佐波氏の縁戚関係をも引き裂き、隆秀を「主君筋の仇の婿」という極めて困難な立場に追い込んだ。反対派からすれば、自らの主君を殺害した者の縁者を、新たな当主として迎えることへの抵抗は当然であったろう。
この絶体絶命の危機に対し、隆秀は卓越した政治手腕を発揮する。彼は、ただ力で反対派を抑え込もうとはしなかった。代わりに、「自らの嫡男である恵連(しげつら)が成人した暁には、討死した隆連の娘と婚姻させ、その子に正式な家督を相続させる」という妥協案を提示したのである 1 。この提案は、第一に、隆連の血筋を絶やさないことで家督の正統性を担保し、第二に、自らはあくまで「中継ぎ」の当主であるという姿勢を示すことで反対派の不満を和らげ、そして第三に、嫡男が成長するまでの時間的猶予を確保して自らの権力基盤を固めるという、複数の効果を狙った高度な政治的解決策であった。この条件を反対派に飲ませることに成功した隆秀は、父・興連の後見を受け、暫定的ながらも佐波氏の家督を相続。一族分裂の危機を回避したのである。この一件は、大内氏の権威という旧来の秩序が崩壊し、家中の対立や周辺勢力との力関係といった、より現実的な問題解決能力が領主の資質として問われる新時代が到来したことを象ึงする出来事であった。
大内氏の滅亡は、中国地方の勢力図を根底から覆した。佐波隆秀は、この権力の空白と新たな動乱の中で、一族の存続を懸けた重大な戦略的決断を下すことになる。それは、旧主・大内氏を滅ぼした新興勢力、毛利氏への帰属であった。
弘治元年(1555年)、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が、大内氏の実権を握っていた陶晴賢を厳島の戦いで破るという、歴史的な勝利を収めた 17 。この戦いを契機に、元就は破竹の勢いで大内氏の旧領である周防・長門国への侵攻(防長経略)を開始し、西国に君臨した名門・大内氏は事実上滅亡した 2 。これにより、中国地方は、東の尼子氏と西の毛利氏が覇権を争う新たな時代へと突入した。
大内氏という巨大な後ろ盾を失った石見の国人たちは、再び不安定な状況に直面した。特に佐波氏にとって、西隣の川本温湯城を拠点とする石見小笠原氏の当主・小笠原長雄は、長年にわたる宿敵であった 7 。小笠原氏は尼子氏と強く結びついており、大内氏が崩壊した好機を捉え、佐波氏の領地に対して軍事的な圧力を強めていた 18 。東からは尼子氏、西からはその同盟者である小笠原氏に挟撃されるという、まさに風前の灯であった。このままでは、遠からずして両勢力に呑み込まれ、一族が滅亡することは火を見るより明らかであった。
この国家的危機を打開するため、隆秀と父・興連は、旧主の仇敵でありながらも、今や中国地方で最も勢いのある毛利氏への帰属を決断する。弘治2年(1556年)、石見国内に所領を有していた毛利氏の家臣・口羽通良(くちば みちよし)を仲介役として、毛利元就への服属を正式に申し出た 1 。
しかし、この申し出に対し、元就は意外にも慎重な姿勢を見せた。当時、元就は防長経略の遂行に全力を注いでおり、このタイミングで佐波氏を味方に引き入れることが、小笠原長雄を過度に刺激し、石見国という新たな戦線を本格化させてしまうことを深く懸念したのである 1 。元就は、仲介役の口羽通良に対し、「我ら父子(元就・隆元)が安芸に帰陣するまで、佐波氏の帰順は待つように」と、書状で再三にわたり釘を刺している。
だが、現場の状況は元就の戦略的判断を待てるほど悠長ではなかった。小笠原氏からの圧力が日増しに強まる中、危機感を募らせた佐波父子と、彼らの窮状に同情し、また自らの手柄を急いだ口羽通良は、ついに元就の指示を待たずして帰順を成立させてしまう 2 。これは、戦国時代の国人領主が、単に大名の駒として受動的に動く存在ではなく、自らの存亡を懸けて主体的に行動し、時には大名の全体戦略すら左右する存在であったことを示す好例である。
結果として、元就の懸念は的中した。佐波氏が毛利方に付いたことを知った小笠原長雄は直ちに軍事行動を起こし、同年3月には佐波氏と小笠原氏の間で合戦が勃発している 1 。隆秀の決断は、結果的に毛利氏を石見を巡る泥沼の戦いへと引き込む一因となったが、佐波氏にとっては、滅亡を回避するための唯一の選択肢であった。この一連の動きは、大名の戦略的判断と、最前線に立つ国人の戦術的必要性との間に生じる乖離と、それを繋ぐ口羽通良のような在地に影響力を持つ仲介者の役割の重要性を浮き彫りにしている。
毛利氏への帰属は、佐波氏にとって新たな戦いの始まりを意味した。特に、石見銀山を巡る毛利・尼子両陣営の争いは激化の一途をたどり、隆秀はその最前線で、新主君への忠誠と自らの武威を証明していくこととなる。
佐波氏が毛利方に加わったことで、石見国は毛利方(佐波氏、福屋氏など)と尼子方(小笠原氏、温泉氏など)の国人たちを巻き込んだ代理戦争の様相を呈した 7 。その最大の係争地が、莫大な富の源泉である石見銀山であった。弘治2年(1556年)7月、毛利軍は石見銀山近郊の忍原(おしばらく)において、尼子晴久率いる大軍に手痛い敗北を喫してしまう(忍原崩れ) 18 。この敗戦により、毛利氏は一時的に石見銀山の支配権を失った。この戦いには、佐波氏の宿敵である小笠原長雄も尼子方として参陣しており、佐波氏を取り巻く状況は依然として厳しかった 19 。
毛利氏が石見で苦戦を強いられる中、永禄3年(1560年)、佐波氏の忠誠が試される決定的な事件が起こる。佐波氏の一族である花栗山城守(はなぐりやまじょうのかみ)が、あろうことか尼子氏に内通し、毛利氏から離反したのである 1 。新参の家臣である佐波氏にとって、一族から裏切り者が出たことは、主君からの信頼を根底から揺るがしかねない一大事であった。
この危機に対し、隆秀の対応は迅速かつ断固たるものであった。彼は父・興連と協議すると、主君からの命令を待つことなく、自らの手で直ちにこの謀反人を誅伐したのである 1 。これは、戦国乱世において「忠誠」が言葉ではなく、時に「身内を斬る」という非情な行動によって示されることを深く理解した、極めて計算された政治的行動であった。この行動により、隆秀は「佐波氏は毛利氏に二心なし」という強烈なメッセージを内外に示したのである。
この迅速な対応を、毛利元就と嫡男の隆元は最大限に評価した。同年2月22日付で、父子それぞれから隆秀宛に感状が送られ、元就からは金で覆輪を施した名刀(吉則作)と馬一疋、隆元からも太刀一腰、馬一疋、そして高級な糸で威した具足一領という、破格の恩賞が与えられた 1 。この出来事は、佐波氏が毛利家中で確固たる信頼を勝ち得た、重要な転換点となった。
佐波氏の毛利氏への貢献は、忠誠の証明だけに留まらなかった。毛利氏に帰属した直後の弘治2年(1556年)、隆秀と父・興連は、従来の居城であった龍岩寺城とは別に、新たに八幡城(はちまんじょう)を築城している 6 。現地の伝承によれば、この城は、尼子方の勢力が石見銀山方面へ侵攻してくるルート上に位置しており、対尼子戦線における毛利方の重要な前線拠点として機能したという 20 。
この築城は、佐波氏の役割が、自領を守るだけの存在から、毛利氏の石見平定戦略という、より大きな軍事構想の一翼を積極的に担う存在へと変化したことを象徴している。彼らはもはや単なる在地領主ではなく、毛利氏の方面軍司令官的な役割を担う、信頼できるパートナーへとその地位を向上させていったのである。
毛利氏の家臣として確固たる地位を築いた佐波隆秀は、その活躍の場を石見国内から、さらに西の九州へと広げていく。この九州での戦いは、彼が武人として生涯最高の栄誉を掴む舞台となった。
永禄5年(1562年)までに石見銀山周辺の支配を確立し、永禄9年(1566年)には宿敵・尼子氏を滅ぼした毛利氏は、次なる目標として北九州の覇権を狙い、豊後国(現在の大分県)を本拠とする大友氏との全面対決に突入した。
永禄11年(1568年)、大友方に与していた豊前国企救郡(現在の福岡県北九州市周辺)の国人・長野氏を討伐するため、毛利軍の総帥である吉川元春と小早川隆景(毛利元就の次男と三男)が主力軍を率いて九州へ出陣した。佐波隆秀もこの軍勢に加わり、関門海峡を渡って豊前の地を踏んだ 1 。
同年9月4日、毛利軍は長野氏の拠点である三岳城への攻撃を開始した 1 。戦いは激戦となり、佐波氏の家臣である深井木工允(ふかい もくのじょう)が戦死するなど、大きな犠牲を払いながらの攻城戦となった 1 。
この激戦の最中、佐波隆秀は一軍の将として目覚ましい働きを見せる。彼は敵陣に深く切り込み、ついに敵方の総大将である長野弘勝(ながの ひろかつ)を討ち取るという、この上ない大功を挙げたのである 1 。戦国時代の合戦において、一軍の将が敵の総大将を直接討ち取ることは極めて稀であり、この功績は隆秀個人の武勇を毛利家中、そして敵である大友方の双方にまで鳴り響かせる決定的な出来事となった。
この「大将首」を挙げるという武功は、単なる軍事的な勝利以上の意味を持っていた。それは、個人の武勇の証明であると同時に、その武将が率いる軍団全体の士気を高め、主君からの評価を飛躍的に向上させる、計り知れない価値を持つ「政治的資本」であった。この功績が、後の隆秀のキャリアを決定づけることになる。
この比類なき大手柄に対し、毛利家からの賞賛は迅速かつ最大級のものであった。報せを受けた毛利元就は、同年9月28日付で直ちに感状を記し、賞賛の言葉と共に太刀一腰と馬一疋を与えることを約束した 1 。さらに、当時すでに家督を継いでいた若き当主・毛利輝元も、10月20日付で同様に感状を記し、太刀と馬を贈って隆秀の功績を称えている 2 。
毛利家の新旧両トップから相次いで最高の賞賛と恩賞を受けたことは、隆秀がもはや単なる石見の一国人ではなく、毛利家中で誰もが認める不動の評価を確立したことを意味した。かつて旧主・大内氏の家臣としてキャリアをスタートさせた男が、新主君・毛利氏の対外戦争の最前線で主役級の働きを見せ、武人としての名声を頂点にまで高めた瞬間であった。この功績があったからこそ、彼は後年、武勇だけでなく統治能力をも問われる、さらに重要な役目を任されることになるのである。
九州での華々しい武功から約四半世紀、佐波隆秀のキャリアは新たな段階へと入る。毛利元就・隆元という創業世代が世を去り、孫の輝元が当主となった時代、毛利氏は豊臣政権下で中国地方に112万石の広大な領国を維持する大大名へと変貌を遂げていた。この新たな体制下で、隆秀は武人としてだけでなく、信頼篤い重臣として、その最晩年を飾る大役を担うことになった。
毛利輝元は、祖父や父の時代とは異なり、より中央集権的な領国経営を目指した。その象徴が、天正17年(1589年)から始まった、瀬戸内海に面したデルタ地帯への新城・広島城の築城であった。輝元は、山間部の吉田郡山城からこの新城に本拠を移し、家臣団を城下に集住させることで、権力の集中と統治体制の近代化を図った 21 。
天正19年(1591)の書状には、輝元が佐波隆秀の広島居住の申し出を喜び、彼に城の留守番を命じたと記されており、隆秀もまたこの新政策に応じて広島に屋敷を構え、輝元政権の中枢近くに仕えていたことが窺える 21 。
天正20年(文禄元年、1592年)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる野望として明国の征服を掲げ、朝鮮への大軍派遣を命じた(文禄の役)。毛利輝元もこの国策に従い、七番隊の総大将として3万という大軍を率いて、自ら朝鮮半島へと渡海した 23 。
大名が領国の全軍事力を率いて長期間にわたり国外へ遠征する際、本国の留守を誰に託すかは、政権の安定を左右する最重要課題であった。万一、国元で謀反や一揆が起これば、遠征軍は背後を絶たれ、国家そのものが崩壊しかねないからである。この極めて重要な役目、すなわち毛利氏の本拠地・広島城の留守居役に任命されたのが、佐波隆秀であった 1 。
留守居役は、単なる城の番人ではない。主君不在の領国における、①政務の統括、②遠征軍への兵糧や物資を送り届ける兵站の管理、③領内の治安維持、そして④万一の敵襲や内乱に備える軍事指揮権など、国元の一切を統括する最高責任者である。輝元が、毛利一門や譜代の重臣たちを差し置いて、この大役を隆秀に任せたという事実は、彼に対して寄せる信頼が絶対的なものであったことを何よりも雄弁に物語っている。これは、隆秀の生涯における忠誠と能力が完全に認められた、キャリアの集大成であった。
かつて大内氏の一家臣として初陣を飾った青年は、主家の滅亡と家督相続の危機を乗り越え、新主君の下で忠誠を誓い、九州の戦場で武名を轟かせた。そして今、齢70にして、巨大な領国と本城のすべてを預かる統治者・管理者として、そのキャリアの頂点を迎えた。
しかし、この重責を担っている最中の文禄元年(1592年)、佐波隆秀はその波乱に満ちた生涯の幕を閉じた 1 。享年70。彼は、主君からの絶大な信頼を一身に背負いながら、静かにこの世を去ったのである。彼の生涯は、戦国乱世に求められる武将の資質が、単なる「武勇」から、巨大な組織を動かす「統治・管理能力」へとシフトしていく時代の変化を、一人の人間のキャリアを通じて体現したものであった。
佐波隆秀の生涯は、戦国時代の国人領主として、一つの輝かしい成功物語であった。しかし、彼が築き上げた栄光は、その死後、予期せぬ形で、そしてあまりにも悲劇的な結末を迎えることになる。一族の辿った運命は、隆秀が生きた「戦国」という時代が終わり、新たな時代が到来したことを残酷なまでに示していた。
佐波隆秀は、主家の滅亡、家中の内紛、そして周辺勢力との絶え間ない軍事的緊張という、戦国時代の国人領主が直面しうるあらゆる困難を、卓越した政治手腕と個人の武勇によって乗り越えた人物であった。
大内氏から毛利氏へと主君を乗り換えるという大胆な決断によって一族の存続を確保し、新主君の下では一族の謀反人を自ら討つことで忠誠を証明した。さらには九州の戦場で敵将を討ち取るという比類なき武功を挙げ、毛利家中での評価を不動のものとした。そして最晩年には、主君不在の本拠地の一切を任される留守居役という最高の栄誉を得た。彼の生涯は、激動の時代を自らの力で切り拓き、生き抜いた国人領主として、紛れもない成功例と言えるだろう。
隆秀の死から13年後の慶長10年(1605年)、毛利家を揺るがす一大騒動が勃発する。世に言う「五郎太石事件(ごろたいしじけん)」である 26 。
関ヶ原の戦いに敗れ、112万石から防長二国30万石余りへと大幅に減封された毛利輝元は、新たな本拠地として萩城の築城を進めていた。その普請工事の最中、石垣の隙間を埋めるための「五郎太石」と呼ばれる小石が盗まれたという些細な事件が、担当する重臣間の深刻な対立へと発展した 26 。
この事件の中心人物の一人が、安芸以来の名家である熊谷氏の当主・熊谷元直であった。そして彼の妻は、佐波隆秀の娘であった 27 。事件は、熊谷元直・天野元信(元直の娘婿)らと、毛利家中で大きな力を持つ益田元祥らとの対立となり、藩内を二分する騒動となった。
最終的に、主君・毛利輝元は、この対立の非は熊谷・天野側にあると断じ、彼ら一族の粛清という非情な決断を下す。この時、隆秀の嫡男・恵連の子で、佐波家の当主となっていた孫の佐波善内(さわ ぜんない)も、熊谷元直の近親者として事件に連座させられ、他の作事奉行らと共に誅殺されてしまったのである 1 。
これにより、佐波隆秀が一代で築き上げた佐波氏嫡流の栄光は、彼の死後、孫の代で突如として、そして悲劇的な形で終焉を迎えることとなった。
この結末は、単なる家中騒動の余波ではない。それは、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。隆秀が生きた戦国時代において、国人領主の「自律性」や「実力」は、生き残るための武器であり、評価の対象であった。しかし、関ヶ原の敗戦を経て、絶対的な藩主権力の確立を目指す近世大名(江戸時代の大名)にとって、藩内に大きな勢力を持つ旧国人層は、もはや潜在的な脅威以外の何物でもなかった。
隆秀の成功物語と、その孫・善内の悲劇的な結末は、表裏一体の歴史的必然であったと言えるかもしれない。佐波一族の悲劇は、佐波隆秀という一個人の物語の終わりであると同時に、彼が体現した「戦国的な国人領主」という存在そのものが、歴史の舞台から退場させられる時代の断絶を、鮮烈に物語っているのである。
西暦 (和暦) |
佐波隆秀の動向 |
関連する主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1523 (大永3) |
佐波興連の嫡男として誕生 |
- |
佐波興連 |
1 |
1542 (天文11) |
第一次月山富田城の戦いに従軍 |
大内義隆、出雲へ遠征 |
大内義隆, 尼子晴久 |
1 |
1551 (天文20) |
従兄・佐波隆連が討死。家督を相続 |
大寧寺の変。大内義隆自刃 |
陶晴賢, 佐波隆連, 町野隆風 |
1 |
1555 (弘治元) |
- |
厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破る |
毛利元就, 陶晴賢 |
17 |
1556 (弘治2) |
口羽通良を介し毛利氏に帰属。八幡城を築城 |
毛利氏、防長経略を開始。忍原崩れで尼子軍に敗北 |
毛利元就, 小笠原長雄, 口羽通良 |
1 |
1560 (永禄3) |
尼子に内通した一族・花栗山城守を誅伐 |
- |
毛利元就, 毛利隆元 |
1 |
1568 (永禄11) |
九州出陣。豊前三岳城攻めで敵将・長野弘勝を討ち取る |
毛利氏、大友氏と北九州で抗争 |
吉川元春, 小早川隆景, 長野弘勝 |
1 |
1592 (文禄元) |
文禄の役で広島城留守居役を務める。同年に死去 |
豊臣秀吉、朝鮮へ出兵(文禄の役) |
毛利輝元, 豊臣秀吉 |
1 |
1605 (慶長10) |
(死後) |
五郎太石事件発生。娘婿・熊谷元直、孫・佐波善内が粛清される |
熊谷元直, 佐波善内, 毛利輝元 |
1 |