最終更新日 2025-07-30

佐竹政義

佐竹政義は佐竹東家の祖。百年内乱後の佐竹氏で、兄義舜・甥義篤を補佐し宗家安定に貢献。東殿として宗家を支え、その死は「部垂の乱」激化を招いた。

戦国期の隠れたる重鎮、佐竹政義-その生涯と佐竹氏安定への貢献に関する徹底的考察

第一章:はじめに-戦国期の佐竹政義、その人物像の解明に向けて

1-1. 報告書の目的と対象の明確化

日本の戦国時代は、数多の英雄豪傑が覇を競った時代として知られるが、その華々しい歴史の陰には、自らの野心よりも一門の安寧を優先し、権力基盤の安定に生涯を捧げた人物たちが存在する。本報告書が光を当てる佐竹政義(さたけ まさよし、1484年 - 1534年)は、まさにそのような人物の典型である。常陸国(現在の茨城県)の戦国大名・佐竹氏の一族として生まれた彼の生涯は、佐竹氏が約100年にわたる内紛「山入の乱」を終結させ、戦国大名としての地位を確立していく極めて重要な過渡期と重なる。

一般的に佐竹政義は、佐竹宗家から分かれた分家「佐竹東家」の祖として知られるに過ぎない 1 。しかし、彼の歴史的役割は、単なる分家の創設者に留まるものではない。本報告書は、現存する史料や研究成果を網羅的に分析し、彼が佐竹宗家の権力基盤を固めるための戦略的布石としていかに重要な役割を果たしたか、そして彼の死が佐竹氏の歴史にどれほど深刻な影響を与えたかを多角的に検証することを目的とする。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国大名・佐竹氏の権力構造の変遷と、その安定化の過程を理解する上で不可欠な作業である。

1-2. 同名異人「佐竹昌義」との区別

佐竹氏の歴史を紐解く上で、まず留意すべきは、読みが同じ「さたけ まさよし」という名の重要人物が二人存在することである。一人は平安時代後期に常陸国に土着し、佐竹氏の始祖となった「佐竹昌義」 3 。もう一人が、本報告書の主題である戦国時代の武将「佐竹政義」である。両者は時代も事績も全く異なるが、同名であることから混同されやすい。本報告書の冒頭で、両者の違いを明確にすることで、以降の議論の対象を明確にする。

この二人の「まさよし」の名に使われる漢字の違いは、それぞれの時代の役割を象徴しているとも解釈できる。佐竹氏の通字(代々用いられる特定の漢字)である「義」の字は共通しているが、初代の「昌」が「さかん」を意味し、武門の始祖としての勢いを表すのに対し、本報告書の主題である政義の「政」は「まつりごと」を意味する。後述するように、彼は一度仏門に入った後、兄の命で還俗し、宗家の統治(政)を補佐する役割を担った 1 。彼の名は、まさにその政治的な役割を体現していたと言えよう。

以下に、両者の比較を簡潔にまとめる。

項目

佐竹 昌義 (さたけ まさよし)

佐竹 政義 (さたけ まさよし)

時代

平安時代後期

戦国時代

生没年

不詳

文明16年(1484年) - 天文3年(1534年) 1

位置づけ

佐竹氏の始祖 4

佐竹東家の祖 1

主な事績

常陸国佐竹郷に土着し佐竹氏を称する 4

太田城の東に住し「東殿」と呼ばれる。兄・甥を補佐 1

源義業 3

佐竹義治(第14代当主) 1

第二章:出自と前半生-武家の五男から僧侶、そして還俗へ

2-1. 佐竹氏の五男としての生誕

佐竹政義は、文明16年(1484年)、常陸守護・佐竹氏の第14代当主であった佐竹義治(さたけ よしはる)の五男として誕生した 1 。母は、常陸国の有力な国人領主であった大山義長の娘である 1 。この出自は、政義が佐竹宗家と、その支配領域における有力な在地勢力との結節点に位置する存在であったことを示している。幼名は九郎と伝えられる 1

彼が生まれた当時、佐竹氏は一族内の深刻な内紛、いわゆる「山入の乱」の渦中にあった。宗家に対抗する分家の山入氏との争いは100年近くに及び、佐竹氏の勢力を著しく疲弊させていた。このような不安定な情勢下で、多くの男子が生まれることは、家督相続を巡る新たな火種を生む可能性を秘めていた。

2-2. 養子、そして出家(周悦)

政義は、嫡流から遠い五男という立場から、家督を継承する可能性は当初から皆無に等しかった。彼はまず、田口氏の養子となったと記録されているが、その詳細な経緯や期間については不明である 1

その後、彼は出家して僧侶となり、「周悦」(しゅうえつ)と号した 1 。戦国時代の武家において、家督相続権のない次男以下の男子を仏門に入れることは、将来的な家督争いの芽を摘み、同時に有力な寺社勢力との関係を構築するための常套手段であった。政義の出家もまた、一族の安寧を図るための政治的な判断であった可能性が高い。これにより、彼は俗世から離れ、佐竹家の後継者争いの圏外に置かれることとなった。

2-3. 還俗と「政義」襲名

しかし、僧侶としての平穏な生活は長くは続かなかった。彼は「兄の命令で還俗し、政義と名乗る」こととなる 1 。この命令を下した「兄」とは、父・義治の跡を継いで佐竹氏第15代当主となっていた佐竹義舜(さたけ よしきよ)であったと考えられる。

この還俗は、単なる個人的な事情によるものではなく、佐竹宗家の戦略的な要請に基づくものであった。義舜の時代、長きにわたった山入の乱がようやく終結に向かい(1504年頃)、佐竹氏は領国の再建と支配体制の再構築という新たな課題に直面していた。内乱の傷跡が癒えぬ中、宗家の権力を盤石にするためには、本拠地である太田城周辺を、信頼できる身内で固める必要があった。一度は仏門に入れた弟を呼び戻し、新たな分家を創設させて宗家の藩屏(はんぺい、守り)とする。これは、内乱後の権力再編における極めて重要な一手であった。政義の人生は、まさに佐竹宗家の政治的要請によって、その軌道を大きく変えることになったのである。

第三章:「東殿」の成立-佐竹氏の権力構造と分家の役割

3-1. 「東殿」の由来と地理的重要性

還俗して武士に戻った政義は、佐竹氏の本拠地である太田城(現在の茨城県常陸太田市)の東方に居館を構えた 1 。このことに由来して、彼は「東殿」(ひがしどの)と称されるようになる 1 。この「東殿」という呼称は、単に彼の住居の場所を示すだけでなく、佐竹氏の新たな統治体制の中で彼が担うことになった公的な立場と役割を象徴するものであった。

彼の具体的な居城については、常陸大宮市の山方城(御城)であったとする伝承も存在するが、確たる史料は見つかっていない 7 。しかし、いずれの地であったにせよ、その配置が太田城の東方を防衛し、その地域を統治するという明確な地政学的意図に基づいていたことは間違いない。こうして、政義を祖とする「佐竹東家」が成立した。

3-2. 北家との連携-宗家を支える両翼体制

政義が東殿として配置されたのと時を同じくして、彼の四兄にあたる佐竹義信(さたけ よしのぶ)もまた、太田城の北方に居館を構え、「北殿」(きたどの)と呼ばれた 1 。義信を祖とする「佐竹北家」と、政義を祖とする「佐竹東家」は、いわば宗家を支える両翼として、新たな支配体制の中核を形成した 8

特に北家は、久米城を拠点とし、かつての宿敵であった山入氏の旧勢力や、北方に勢力を張る岩城氏への備えという軍事的な役割に加え、常陸中南部の国人領主たちの意見を宗家に取り次ぐという外交的な役割も担っていた 8 。この事実は、東家と北家の創設が、単なる防衛網の構築に留まらず、より高度な統治システムであったことを示唆している。

宗主である義舜は、信頼できる実の兄弟に特定の地域における軍事指揮権と行政権を委任することで、広大で複雑な領国をより効率的に管理しようとしたのである。東家と北家は、それぞれの担当地域における紛争の調停や情報収集、兵力の動員などを担う方面軍司令部のような役割を果たし、それによって宗家の当主は領国全体の戦略決定に集中することができた。これは、佐竹氏が戦国大名として飛躍するために不可欠な、権力構造の革新であった。政義が創設した東家もまた、北家と同様に、特定の地域における宗家の代行者としての重責を担っていたと考えられる。

第四章:宗家の藩屏として-兄・義舜と甥・義篤の補佐

4-1. 兄・義舜の治世における補佐

第15代当主・佐竹義舜の治世において、政義は兄の義信(北殿)と共に、一門の重鎮として宗家を支えた 1 。義舜は「佐竹氏中興の祖」とも称され、山入の乱を終結させて内紛を克服し、家臣団の再編成や失われた所領の回復を進め、佐竹氏が戦国大名として飛躍する基礎を固めた人物である 9 。政義は、この義舜の政策を、東殿という立場から強力に後押しした。具体的な活動に関する詳細な記録は乏しいものの、領内の安定化や、一族による支配体制の再整備といった事業において、彼が重要な役割を果たしたことは想像に難くない。

4-2. 甥・義篤の後見役

義舜が死去すると、その嫡男である徳寿丸(後の佐竹義篤)がわずか11歳という若さで家督を継いだ 9 。当主が幼少であることは、家中の動揺や外部勢力の介入を招きかねない、一族にとって最も危険な時期である。この危機的状況において、政義は叔父として、そして一族の最長老として、もう一人の叔父である北殿の義信(義言とも)と共に、若き当主の後見役を務めた 9

これは、単なる相談役ではなく、事実上、佐竹家の政務を統括する最高責任者としての立場にあったことを意味する。義篤が元服し、自らの名で家臣に所領を与えたり、官途を授けたりといった当主としての権限を本格的に行使できるようになるまで、政義はその後ろ盾となり、その権威を保証し続けた 9 。彼の存在は、当主交代期という不安定な時期において、佐竹家の政治権力の継続性と安定性を担保する上で、まさに不可欠なものであった。

第五章:政義の死と権力の空白-「部垂の乱」への序章

5-1. 天文3年(1534年)の死

天文3年(1534年)、佐竹政義は51年の生涯を閉じた 1 。法号は、かつての僧侶名であった周悦、そして常清と伝えられる 1 。彼の死は、時期を同じくして亡くなった兄・義信(北殿)の死と相まって、佐竹家から相次いで重鎮を失わせるという深刻な事態を招いた 1

5-2. 権力の「重石」の喪失

政義の死がもたらした影響は、単に有能な補佐役を失ったというだけに留まらなかった。それは、佐竹家中に「政務を統御できる人物が一時的に不在」になるという、致命的な権力の空白を生み出したのである 1 。彼は家中における様々な勢力の利害を調整し、潜在的な対立を水面下で抑制する、いわば権力構造の「重石(おもし)」であった。

この事実は、彼の死後に激化した内紛の経緯を追うことで、より鮮明に理解できる。佐竹宗家と、当主・義篤の実弟である宇留野義元との対立は、享禄2年(1529年)頃からすでに始まっていた 9 。義元は宗家からの独立を目指すかのような動きを見せ、一部の国人領主もこれに同調するなど、家中は一触即発の状態にあった 11

しかし、政義が存命であった享禄2年(1529年)から天文3年(1534年)までの約5年間、両者の対立は全面的な武力衝突にまでは至らなかった。これは、一族の最長老であり、若き当主の後見人でもあった政義の権威と調整能力が、かろうじて破局を食い止めていたことを強く示唆している。彼の死は、この最後の「重石」を取り去り、抑えられていた対立を一気に噴出させる直接的な引き金となった。

5-3. 部垂の乱の勃発と構図

政義の死後、事態は急速に悪化する。当主・佐竹義篤と、その実弟である宇留野(部垂)義元との家督を巡る争いは、ついに全面的な内乱へと発展した 1 。この争いは、義元が拠点とした城の名から「部垂の乱」(へたれのらん)と呼ばれる 13

義元は、常陸大宮市にあった部垂城や宇留野城を拠点とし、正室の子である自らの正統性を背景に、佐竹一族の小場義実らを味方につけて宗家に公然と反旗を翻した 11 。これに対し、義篤方も北家などの一門を率いて応戦し、佐竹氏は再び深刻な内紛の時代へと突入した。この戦いの中で、北家の当主・佐竹義住は天文8年(1539年)に戦死している 15

この内乱は、天文9年(1540年)に義篤が部垂城に総攻撃をかけ、義元とその一族を滅ぼすまで、約12年間にわたって続いた 12 。政義の死が、佐竹氏を再び血で血を洗う内紛の時代に引き戻す、決定的な契機となってしまったのである。この事実は、彼がいかに佐竹家の安定にとって重要な存在であったかを、逆説的に証明している。

第六章:後世への影響-佐竹東家の繁栄と政義の遺産

6-1. 佐竹東家の継承

佐竹政義の死後、彼が創設した東家の家督は、嫡男の佐竹義堅(さたけ よしかた)が継承した 1 。佐竹東家はその後も、政義が築いた礎の上で、代々宗家の補佐役という重要な役割を担い続けた 1 。部垂の乱を乗り越え、宗家の権力を強化した義篤は、自らの弟に南家を興させ、北家、そして義堅が継いだ東家と共に「佐竹三家」として宗家を支える体制を確立した 9

政義の遺産は、その孫の代に大きく花開く。政義の孫にあたる佐竹義久(さたけ よしひさ、東義久とも)は、佐竹氏の最盛期を築いた佐竹義重・義宣父子の時代に、一門の勇将として各地の戦で目覚ましい活躍を見せた 16 。彼は豊臣秀吉からも高く評価され、常陸国内で6万石もの広大な所領を領する大身となり、東家の名を大いに高めた 2

6-2. 秋田転封後と近現代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、当主・佐竹義宣が西軍寄りの態度を取ったため、戦後、佐竹氏は徳川家康によって常陸54万石から出羽国久保田(秋田)20万石へと大幅に減らされた上での転封を命じられた。この国替えに際しても、佐竹東家は宗家に従い、秋田へと移住した。

江戸時代の久保田藩(秋田藩)において、佐竹東家は6000石を領する一門家臣の筆頭格として重きをなした 2 。藩政においては「家老総督」や、藩主不在時に政務を代行する「宗家の牀机代(しょうぎだい)」といった要職を歴任し、藩の運営に不可欠な存在であり続けた 17

この長年にわたる忠勤と功績は、時代が下った明治時代に報われる。明治維新期の戊辰戦争において、当時の東家当主・佐竹義寿が新政府軍側として戦功を挙げたことが評価され、明治39年(1906年)、佐竹東家は華族たる男爵に叙せられた 2

政義が創設した一つの分家が、戦国、江戸、明治という激動の時代を乗り越え、350年以上にわたって繁栄を続けたという事実は、彼が単に分家を作っただけでなく、佐竹氏の統治機構に不可欠な制度として、いかに強固な基盤を築いたかを示している。彼の遺産は、彼個人の行動に留まらず、彼が創始した家系の永続的な成功と忠誠心の中に、今なお見出すことができる。

第七章:結論-佐竹氏安定の礎を築いた調整者

7-1. 佐竹政義の生涯の総括

佐竹政義の生涯は、宗家の戦略的要請にその運命を左右されながらも、その時々で与えられた役割を誠実に全うし、一門の安定と発展に尽くしたものであった。武家の五男として生まれ、一度は仏門に入るも、兄の命一つで還俗。分家「東家」を立てて宗家の守りを固め、若き甥の後見人として家中の舵取りを担った。彼の人生は、自己の栄達よりも一族全体の利益を優先する、戦国武士の一つの生き様を体現している。

7-2. 歴史的評価-「偉大なる調整者」として

佐竹政義は、合戦の場で華々しい武功を立てた英雄でも、天下に号令するような野心家でもなかった。しかし彼は、佐竹氏が100年に及ぶ内戦の傷を癒やし、戦国大名として再起するための極めて重要な過渡期において、内部の結束を固め、権力構造を安定させるという、地味ではあるが最も困難な役割を果たした。

彼の存在は、一触即発の状態にあった家中の対立を抑え込む「調整者」であり、権力の均衡を保つ「重石」であった。そして、彼の死がその均衡を崩壊させ、大規模な内紛を誘発したという事実は、彼がいかに重要な人物であったかを雄弁に物語っている。佐竹政義は、戦国大名・佐竹氏の歴史における「縁の下の力持ち」であり、その後の最盛期の礎を築いた、隠れたる最大の功労者として再評価されるべき人物である。彼の生涯は、戦国の世を動かした力が、武力や策略だけではなかったことを我々に教えてくれる。

引用文献

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  3. 佐竹昌義(さたけ まさよし)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%98%8C%E7%BE%A9-1078385
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  5. 【佐竹氏 vol.3】佐竹氏の誕生|およまる - note https://note.com/oyomaru0826/n/n448f32b6767b
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  17. 『平成新修旧華族家系大成』に掲載されている、佐竹四家(北・東・南・西)について、記載内容に疑問がある... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000107025
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