佐竹氏は、清和源氏の中でも武家の棟梁として名高い源義家(八幡太郎)の弟、新羅三郎義光を祖とする由緒正しい一門である 1 。平安時代末期、義光の孫にあたる昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹姓を名乗ったことにその歴史は始まる 3 。鎌倉・室町時代を通じて幕府の御家人として重きをなし、特に室町時代には常陸国の守護職を代々務め、関東の有力大名家で構成される「関東八屋形」に列せられるほどの高い家格を誇った 3 。
しかし、戦国時代の到来とともに、一族の内紛や周辺勢力との絶え間ない抗争により、その勢力は常陸北部の一角に押しとどめられる苦難の時代を迎えていた 2 。佐竹義宣が歴史の表舞台に登場する直前、佐竹氏はまさに存亡の岐路に立たされていたのである。
佐竹義宣が元亀元年(1570年)に常陸太田城で生を受けた当時、佐竹家を取り巻く環境は極めて過酷であった。南には関東の覇権をほぼ手中に収めた後北条氏が、北には奥州で急速に勢力を拡大する伊達氏が、それぞれ強大な勢力として立ちはだかり、佐竹氏は南北から挟撃される危機的状況にあった 5 。
この難局を乗り切るべく辣腕を振るったのが、義宣の父であり佐竹氏第18代当主の佐竹義重である。義重は、戦場での勇猛果敢さから「鬼義重」「坂東太郎」の異名で恐れられた猛将であった 1 。かつて北条軍と対峙した際には、一瞬で7人の敵兵を斬り伏せたと伝えられるほどの武勇を誇った 8 。しかし、彼の真骨頂は単なる武勇に留まらない。早くから越後の上杉謙信と同盟を結んで後北条氏に対抗し 8 、中央で台頭する織田信長や豊臣秀吉といった天下人といち早く誼を通じるなど、時代の潮流を見据えた卓越した外交感覚を併せ持っていた 1 。義重は、この武と智を駆使して周辺の小田氏や白河氏を次々と屈服させ、その勢力圏を南奥州にまで拡大、一時は「奥州一統」を果たしたと評されるほどの権勢を築き上げた 10 。
義宣が家督を継承した時期の佐竹氏は、父・義重が築き上げた54万石という、一見すると栄光に満ちた状態にあった。しかし、その内実は極めて脆弱なものであった。義重の拡大路線は、周辺勢力との深刻な対立を必然的に生み出していた。特に、天正17年(1589年)、義宣の弟・蘆名義広を会津黒川城主として送り込むことで確保した南奥州の支配圏は、台頭著しい伊達政宗との摺上原の戦いでの大敗によって、あっけなく瓦解してしまう 6 。
これにより、佐竹氏は北の伊達、南の北条という二大勢力に完全に包囲される形となり、滅亡の危機というべき絶望的な状況に追い込まれた 6 。したがって、義宣が父から受け継いだものは、佐竹氏史上最大の版図という「栄光」の遺産と、いつ滅ぼされてもおかしくない「危機」という負の遺産の、二重のものであった。彼の武将としての生涯は、この矛盾した遺産を背負い、いかにして危機を打開し、父が築いた栄光を確固たるものにするかという、困難な課題への挑戦の連続だったのである。
佐竹義宣が父・義重から家督を相続した正確な時期は、天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間とされ、記録上は明確ではない 5 。これは、義重が隠居後もなお政治・軍事の実権を握り続ける「二頭政治」体制が敷かれていたことを示唆している 10 。この父子の権力分担は、経験豊富な義重が若き義宣を後見するという形を取りつつも、後の関ヶ原の戦いにおいて、家の進路を巡る深刻な路線対立を生む遠因となった。
天正17年(1589年)、豊臣秀吉から天下統一の総仕上げである小田原征伐への出兵命令が下された 13 。当時、佐竹氏は南奥州で伊達政宗と対陣中であり、即座に動くことはできなかった 6 。しかし、秀吉自らが京を発ったとの報を受け、義宣は同盟関係にある宇都宮国綱らと連携し、1万余の軍勢を率いて小田原へと馳せ参じた 5 。
天正18年(1590年)5月、小田原に到着した義宣は秀吉に謁見し、臣下の礼を取った 13 。この行動は、単なる服従ではなく、北条・伊達による包囲網を、秀吉という中央政権の絶対的な権威によって打ち破るための、極めて戦略的な一手であった。参陣後、義宣は石田三成の指揮下に入り、北条方の支城である忍城攻めに参加。水攻めのための堤防構築などに従事した 5 。この経験が、後に彼の運命を大きく左右することになる三成との個人的な信頼関係を築く、最初のきっかけとなったと考えられる。
小田原征伐における功績により、義宣は秀吉から常陸一国の支配を公的に認められるという、長年の悲願を達成した 15 。この中央の権威を最大限に活用し、義宣は一気呵成に国内の平定事業へと乗り出す。
天正18年(1590年)12月、小田原攻めで北条方についた江戸重通を攻撃し、その拠点である水戸城を奪取。この地を新たな本拠地と定めた 5 。続いて府中城の大掾清幹を攻め滅ぼし、常陸中部の有力勢力を排除した 5 。
そして、常陸統一の総仕上げとして、天正19年(1591年)2月、義宣は父・義重と共に、長年にわたり佐竹氏に抵抗を続けてきた常陸南部の国人領主たち、いわゆる「南方三十三館」の当主らを太田城に招き、その場で謀殺するという挙に出た 8 。当主を失った諸城を武力で速やかに制圧し、ここに佐竹氏は悲願であった常陸一国の完全統一を成し遂げたのである 19 。
この一連の行動は、義宣が父・義重のような戦場での武勇を誇る伝統的な「猛将」とは一線を画す、冷徹なリアリストであったことを示している。彼は、秀吉という中央の権威を巧みに利用し、敵対勢力を「戦」ではなく「謀略」によって一掃した。これは、旧来の国人領主が割拠する中世的な秩序を破壊し、大名による一元的な支配体制を確立するという、戦国大名から近世大名への移行期における必然的な「仕置」であった。この非情ともいえる決断力こそ、義宣を単なる武将ではなく、近世的な「権謀の政治家」たらしめるものであった。
常陸統一後、義宣は豊臣政権下でその地位を不動のものとしていく。文禄4年(1595年)に行われた太閤検地の結果、常陸国を中心に下野国の一部を含む54万5千石余の所領が安堵された 5 。この石高は、徳川、毛利、上杉、前田、島津、伊達、宇喜多に次ぐ全国第8位にランクされるものであり 24 、義宣は「豊臣六大将」の一人に数えられるほどの有力大名へと飛躍を遂げた 22 。
また、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しては、自らが渡海することはなかったものの、肥前名護屋城に参陣して軍役を務め、豊臣政権の一翼を担う大名としての責務を果たしている 7 。
佐竹義宣の生涯を語る上で、石田三成との関係は欠かすことができない。両者の親交は、小田原征伐での共闘に始まり、義宣が伏見の屋敷を拠点に中央政界で活動する中で、極めて強固なものへと深化していった 22 。
その絆を決定的なものとしたのが、天正19年(1591年)に起きた宇都宮国綱の改易事件である。国綱の従兄弟であった義宣もこの事件に連座して改易される危機に瀕したが、三成の懸命な取りなしによって危難を逃れた 14 。この「恩義」は、義宣の心に深く刻まれた。
その恩に報いる機会は、慶長4年(1599年)に訪れる。豊臣秀吉の死後、加藤清正ら七将が三成を襲撃した際、義宣は危険を顧みず三成を自らの屋敷に匿い、そこから宇喜多秀家の屋敷へと無事に脱出させた 14 。古田織部から、この行動について家康に釈明するよう勧められた際も、「旧恩に報いただけだ」と述べたと伝えられており 4 、彼の「律儀」な性格を象徴する逸話として知られている。
母が伊達晴宗の娘であるため、伊達政宗とは従兄弟という血縁関係にあったが、両者の関係は終始、宿命的なライバルとして緊張をはらむものであった 1 。父・義重の代から南奥州の覇権を巡って激しく対立し、特に義宣の弟・蘆名義広が政宗に敗れて会津を追われたことは、両家の確執を決定的なものとした 6 。
豊臣政権下では、いち早く中央と結んだ義宣が54万石の大名として厚遇されたのに対し、政宗は奥州仕置で減封されるなど、両者の立場は逆転した 10 。この屈辱は政宗の心に深く刻まれ、両者のライバル関係は関ヶ原の戦い、さらには江戸時代に至るまで続くこととなる。
佐竹氏と上杉氏の関係は、義宣の父・義重と上杉謙信が反北条氏という共通の利害で同盟を結んで以来の、長きにわたる友好関係にあった 25 。義宣もこの関係を継承し、上杉景勝とは反伊達氏という点でも利害が一致しており、固い連携を保っていた 22 。この伝統的な盟友関係が、関ヶ原の戦いにおける義宣の政治的判断に大きな影響を与えることになる。
義宣の人間関係を俯瞰すると、石田三成、上杉景勝という、後の関ヶ原の戦いで西軍の中核をなす人物たちと極めて密接なネットワークを形成していたことがわかる。三成への個人的な「恩義」、上杉への父祖代々の「盟約」。これらは単なる友好関係ではなく、武士の価値観である「義」によって結ばれた強固な絆であった。義宣にとって、この「義のネットワーク」に連なる人々を裏切ることは、自らの存在意義を揺るがす行為に他ならなかった。一方で、台頭する徳川家康との関係は希薄であり 25 、彼の政治的立場は必然的に反家康的なものへと傾斜していったのである。
義宣は武将としての顔だけでなく、茶の湯、連歌、能楽にも通じた当代一流の文化人でもあった 28 。特に茶の湯への造詣は深く、千利休や、その筆頭弟子で「へうげもの」として知られる古田織部と親交を結んでいた 28 。
義宣は織部の弟子の一人であり、茶の湯を通じて深い師弟関係を築いていた 31 。この関係は単なる趣味の交流に留まらず、重要な政治的パイプとしても機能した。実際、関ヶ原の戦いの直前には、家康の意を受けた織部が、義宣を東軍に引き入れるための説得工作を行っている 31 。茶の湯の交友が、当時の複雑な政治状況の中で、情報収集や交渉の場として重要な役割を果たしていたことを示す好例である。
慶長5年(1600年)、徳川家康は豊臣政権に恭順の意を示さない上杉景勝を討伐するとして「会津征伐」を宣言し、諸大名を動員した。佐竹義宣にも当然、出兵命令が下された 22 。しかし、この命令は義宣を深刻な苦悩へと突き落とす。長年の盟友である上杉氏と戦うことはできず、また、その背後には盟友・石田三成の打倒という家康の真意が透けて見えていたからである。義宣は上杉氏との間で密約を結び、家康の命令に容易に従うことはなかった 22 。家康は義宣の態度を警戒し、人質として弟か妹を江戸に送るよう要求したが、義宣はこれを拒絶した 25 。
この事態に、佐竹家中は真っ二つに割れた。父・義重は、徳川の勢いはもはや止められないと判断し、家の安泰のためには家康に従うべきだと主張する現実路線を説いた。一方、義宣は三成への恩義と上杉との盟約を重んじ、西軍に与することを決意。父子は激しく対立した 22 。
家中の意見をまとめきれず、また「義」と「家の存続」という二つの大義の板挟みになった義宣は、最終的にどちらにも明確に味方せず、軍勢を率いて本拠地の水戸城へ引き上げるという、中立的な態度を選択した 4 。これは後世、優柔不断と評されることが多いが、実際には彼の置かれた複雑な人間関係と、分裂した家臣団を前にして、それ以外に取りうる道がなかった末の苦渋の決断であった。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わった後、義宣は家康に自身の不戦を詫びた。この時の義宣の態度について、家康は「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない。しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したと『徳川実紀』は伝えている 4 。
この「律儀者」という評価は、一見すると義宣が三成への恩義を貫いたことを賞賛しているようにも聞こえる。しかし、その真意は全く逆であった。続く「あまり律儀すぎても困る」という言葉こそが家康の本音であり、これは新しい天下人である自分に従わず、滅びゆく豊臣家への「旧恩」に固執する義宣の時代遅れの価値観を揶揄し、その頑なさを非難する言葉であった。家康は、義宣の性格を的確に見抜いた上で、それを政治的に断罪したのである。「律儀者」という評価は、賞賛の仮面を被った痛烈な皮肉であり、政治的敗者への烙印に他ならなかった。この一言が、義宣に下される厳しい処分を正当化する論理となった。彼の美徳であったはずの「律儀さ」が、時代の転換点において、最大の弱点となってしまったのである。
その結果、義宣は関ヶ原で直接敵対しなかったにもかかわらず、極めて厳しい処分を受けることになった。以下の表は、主要な西軍参加大名の戦後処遇を比較したものである。
大名家 |
当主 |
戦前の石高(約) |
戦後の石高(約) |
処遇内容 |
処遇理由(考察) |
佐竹家 |
佐竹義宣 |
54万石 |
20万石 |
減転封 |
旗幟不鮮明。上杉・石田との親密な関係と、関東における潜在的脅威を危険視された 3 。 |
上杉家 |
上杉景勝 |
120万石 |
30万石 |
減転封 |
西軍の中核。しかし、戦後は恭順の意を示したため改易は免れた 33 。 |
毛利家 |
毛利輝元 |
120万石 |
37万石 |
減転封 |
西軍総大将。吉川広家らの内通工作により改易は免れたが、大幅減封 33 。 |
宇喜多家 |
宇喜多秀家 |
57万石 |
0石 |
改易・流罪 |
西軍の主力として最後まで戦ったため、最も厳しい処分 35 。 |
島津家 |
島津義弘 |
60万石 |
60万石 |
本領安堵 |
敵中突破の武威と、本国での徹底抗戦の構えを見せたため、家康が全面対決を避けた 36 。 |
この表が示すように、佐竹氏への処分は、西軍総大将であった毛利氏や上杉氏に匹敵する厳しいものであった。これは、家康が関東の有力大名である佐竹氏の存在をいかに危険視していたか、そして義宣の態度をいかに問題視していたかを如実に物語っている。
慶長7年(1602年)5月、徳川家康は義宣に対し、正式に出羽国秋田への転封を命じた 23 。石高は常陸時代の54万石から20万5千石余へと半減以下となり、佐竹氏にとっては、平安末期以来、数百年にわたって根を張ってきた先祖代々の地を追われるという、屈辱的な処分であった 3 。
関ヶ原の「敗者」として未開の地であった秋田に送られた義宣であったが、その後の彼の行動は驚くほど精力的かつ創造的であった。彼は過去の栄光に固執することなく、新天地での藩経営という現実に即座に適応し、その類稀な統治能力を発揮し始める。
秋田に入部した義宣は、旧領主であった秋田氏の居城・湊城を破棄し、新たに領国の中央に位置する久保田の神明山に城を築くことを決定した 5 。慶長8年(1603年)に始まった築城は、翌年には義宣が入城するほどの速さで進められた 38 。この久保田城は、石垣をほとんど用いず、また幕府への配慮から天守閣も意図的に築かれなかったことが大きな特徴である 38 。これは、転封による財政難に加え、徳川幕府への恭順の意を明確に示すための政治的判断であったと考えられる。義宣は城の築城と並行して城下町の建設にも着手し、これが現在の秋田市の礎となった 5 。
義宣は、新天地において藩の体制を根底から作り変えるべく、大胆な改革を断行した。旧来の家柄や譜代の家臣といった慣習にとらわれず、能力主義に基づいて家臣団を刷新したのである 5 。
この改革の中核を担ったのが、渋江政光と梅津政景という二人の家老であった。渋江政光はもともと下野小山氏の家臣、梅津政景に至っては義宣の茶坊主出身という、異例の抜擢であった 43 。当然、譜代の家臣からは強い反発が起こり、家老の川井忠遠らが義宣と政光の暗殺を企てる「川井事件」にまで発展したが、義宣はこれを粛清し、改革を断固として推し進めた 44 。
渋江政光は、新たな検地制度である「渋江田法」を導入して農業生産の安定を図り、また「国の宝は山なり」との言葉を残し、秋田杉に代表される豊富な森林資源の保護と活用を両立させる林業政策を推進した 44 。一方の梅津政景は、理財の才を発揮し、院内銀山をはじめとする鉱山開発で大きな成果を上げた。これにより藩財政は飛躍的に潤い、久保田藩に黄金期をもたらした 30 。彼が記した『梅津政景日記』は、当時の藩政や社会を知る上での一級史料として今日に伝わっている 30 。
秋田への転封は、義宣にとって最大の危機であったと同時に、彼の真価が最も発揮される機会でもあった。彼は戦国武将としてのキャリアを事実上終え、久保田藩という新たな組織の「創業者」として再生したのである。常陸時代に培った政治経験が、この困難な事業を成功に導く礎となったことは疑いようがない。義宣の統治者としての資質は、戦場での武勇よりも、むしろこの藩政確立の過程において最も鮮やかに輝いていたと言えるだろう。
慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の陣が勃発すると、義宣は徳川方として参陣した 5 。これは、彼にとって単なる軍役以上の、極めて重要な意味を持つ参戦であった。関ヶ原での曖昧な態度によって失墜した佐竹家の武門としての名誉を回復し、新たな支配者である徳川家への絶対的な忠誠を行動で示す絶好の機会だったのである。
冬の陣において、義宣は上杉景勝軍と共に大坂城の北東に位置する今福・鴫野方面に布陣した 46 。今福の戦いでは、豊臣方の猛将・木村重成や後藤基次が率いる軍勢と激突 13 。家老の渋江政光が討死するなど苦戦を強いられたが、上杉軍の援護も得て最終的に敵を退けるという大きな戦功を挙げた 13 。
この活躍は幕府から高く評価された。大坂の役全体を通じて、幕府から公式に感状(感謝状)を受けたのはわずか12名であったが、そのうちの5名までを佐竹家の家臣が占めたという事実が、その戦功の大きさを物語っている 11 。この「最後の奉公」により、幕府内における佐竹家の立場は安定し、外様大名として幕末まで存続する道筋が確実なものとなった。かつて豊臣への「律儀さ」ゆえに苦境に陥った彼が、今度は徳川への「律儀さ(忠誠)」を示すことで家を安泰に導いたという構図は、彼の生涯を象過する一つの帰結であった。
義宣は正室・継室との間に実子がおらず、後継者問題に悩まされた 24 。当初は末弟の佐竹義直を養嗣子としていたが、寛永3年(1626年)、江戸城で催された猿楽の見物の際に、義直が伊達政宗の面前で居眠りをするという失態を演じたことに義宣は激怒。これを理由に義直を廃嫡するという厳しい処分を下した 11 。
その後、新たに後継者として迎えたのが、甥にあたる岩城吉隆(義宣の弟・岩城貞隆の子)であった。吉隆は亀田藩主の地位を返上して義宣の養子となり、名を佐竹義隆と改めて久保田藩の第2代藩主となった 5 。
寛永10年(1633年)1月25日、佐竹義宣は江戸神田の上屋敷にて、64年の波乱に満ちた生涯を閉じた 5 。死に際して、家臣が後を追って殉死することを固く禁じたと伝えられており 23 、最後まで家臣を思いやる為政者としての一面を覗かせている。墓所は秋田市にある天徳寺にあり、今も静かに眠っている 28 。
佐竹義宣という人物は、しばしば「猛将」あるいは「律儀者」という言葉で語られる。しかし、彼の生涯を詳細に追うとき、これらの評価は彼の一側面を捉えたものに過ぎないことがわかる。
「猛将」というイメージは、むしろ父・義重にこそふさわしい。義宣自身は、戦場での個人的な武勇よりも、知略や政略を駆使して目的を達成する理知的な人物であった。常陸統一の過程で見せた権謀術数は、その好例である。
「律儀者」という評価は、彼の性格の核心を突いている。石田三成への恩義を貫いた姿勢は、まさにその証左である。しかし、その美徳は時代の転換期において、彼の運命を大きく左右する弱点ともなった。家康による評価は、その「律儀さ」がもはや新しい時代には通用しない旧い価値観であることを突きつける、冷徹な政治的宣告であった。
彼の生涯は、旧来の「義」を重んじる戦国的な価値観と、中央集権的な統治機構に従属する近世的な論理との間で葛藤し、最終的に後者に適応していく過程そのものであったと言えよう。彼は、戦国武将から近世大名への変革期を、その身をもって体現した人物なのである。
佐竹義宣の歴史的功績は二つある。第一に、数々の存亡の危機を乗り越え、源氏の名門・佐竹家を外様大名として幕末まで存続させたこと。第二に、出羽国秋田に久保田藩を創設し、今日の秋田県の礎となる都市と藩政の基礎を築き上げたことである。
彼は、戦国の荒波と徳川の治世という二つの異なる時代を生き抜き、見事に家の存続と再生を成し遂げた、稀有なバランス感覚を持つ統治者であった。その評価は、単なる戦国武将の枠を超え、新たな時代を切り拓いた藩祖として、より高く位置づけられるべきである。