戦国時代の常陸国にその名を刻んだ武将、佐竹義斯(さたけ よしつな/よしこれ)。彼は、単なる佐竹宗家の一家臣に留まらず、一門の重鎮として佐竹氏の勢力拡大と領国統治に不可欠な役割を果たした人物である。本報告書は、佐竹義斯の生涯を詳細に追跡し、彼が属した佐竹北家の特異な立場と、彼が生きた時代の政治的・軍事的文脈の中にその活動を位置づけることで、佐竹氏の戦国大名化、とりわけ常陸統一における彼の歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
佐竹義斯は、天文14年(1545年)に佐竹北家の当主・佐竹義廉(よしかど)の嫡男として生を受けた 1 。通称を又七郎といい、左衛門尉、あるいは左衛門督の官途名を名乗った 2 。慶長4年(1599年)4月18日、55歳でその生涯を閉じ、法名を月叟賢哲(げっそうけんてつ)という 1 。
彼の生涯は、佐竹氏が常陸北部の有力国人から、関東に覇を唱える後北条氏や奥州の伊達氏と渡り合う大大名へと飛躍を遂げる激動の時代と完全に重なる。義斯は、この過程において、一門の重鎮として家臣団の統制、外交交渉、そして特定方面の軍事指揮という、国政の中枢を担う極めて重要な役割を果たした 1 。彼の活動を理解することは、戦国期佐竹氏の権力構造そのものを解明する鍵となる。
表1:佐竹義斯 人物概要
項目 |
内容 |
典拠 |
姓名 |
佐竹 義斯(さたけ よしつな/よしこれ) |
2 |
別名 |
北 義斯(きた よしつな)、又七郎(通称) |
1 |
生没年 |
天文14年(1545年)~ 慶長4年4月18日(1599年6月10日) |
1 |
享年 |
55歳 |
1 |
法名 |
月叟賢哲(げっそうけんてつ) |
1 |
家系 |
佐竹北家 第4代当主 |
1 |
父 |
佐竹 義廉(さたけ よしかど) |
1 |
嫡男 |
佐竹 義憲(さたけ よしのり) |
2 |
官途名 |
左衛門尉、左衛門督 |
2 |
役職・称号 |
常陸南部方面軍 総指揮官、小田城 城代、有力国衆の指南役 |
ユーザー提供情報, 1 |
本拠地 |
常陸国 久米城 |
8 |
佐竹氏は、清和源氏の中でも新羅三郎義光を祖とする河内源氏の嫡流であり、常陸国久慈郡佐竹郷に土着したことに始まる名門武家である 5 。室町時代には一族の内紛に苦しんだが、戦国時代に入ると、宗家を補佐する強力な分家群、すなわち北家・南家・東家からなる「佐竹三家」が権力の中枢を形成する体制を確立した 4 。
この三家体制は、意図的に設計された制度というよりは、長年の内紛の歴史の中から必然的に生まれた、宗家と有力分家による一種の「連合政権」的な性格を帯びていた。これは、当主による中央集権化を急進させた他の多くの戦国大名とは一線を画す、佐竹氏の権力構造の大きな特徴であった。この分権的な構造があったからこそ、広大で在地性の強い国衆が割拠する常陸国を効率的にまとめ上げることが可能となったのである。三家の主な役割は、①特定戦線における軍事指揮官、②宗家の代理としての外交交渉、③在地領主である国衆や家臣団との意見調整・取次役、という三点に集約される 4 。佐竹義斯の生涯は、まさにこの三家の役割を体現するものであった。しかし、この構造は宗家当主の権力が絶対的ではなく、常に有力一門との合議や勢力均衡の上に成り立っていたことも意味しており、のちの関ヶ原の戦いにおける家中分裂の遠因ともなった。
佐竹義斯が率いた北家は、佐竹宗家第14代当主・佐竹義治の四男である義信が分家したことに始まる 8 。宗家の本拠である太田城の北方に屋敷を構えたことから「北家」と呼ばれるようになり、東家、そして後に成立する南家とともに、宗家の国政を支える柱となった 8 。
北家の本拠地は、常陸国久米城(現・茨城県常陸太田市)であった 8 。この城は、単なる居城ではなく、極めて高い戦略的価値を持つ拠点であった。久慈川とその支流に面した平地に位置し、流域の生産性の高い田地を確保するとともに、水運を掌握する要衝でもあった 8 。地理的には、北方に佐竹領を窺う岩城氏、西方にはかつて佐竹宗家と激しく対立した旧山入氏の勢力が存在しており、久米城は宗家の本拠・太田城を守るための最前線基地としての役割を担っていた 8 。このような重要拠点に、宗家が最も信頼を置くべき一門を配置する必要性から、北家の存在価値は極めて高かったのである。義斯の活動は、この久米城を地理的・軍事的基盤として展開された。
佐竹義斯が歴史の表舞台で活躍を始めるのは、佐竹氏が常陸統一に向けて大きく飛躍する時代であった。特に宗家当主・佐竹義重の時代において、義斯はその右腕として、また後継者である義宣を支える重鎮として、その地位を不動のものとしていく。
天文14年(1545年)、佐竹北家当主・義廉の嫡男として生を受けた義斯は、父の跡を継いで北家の第4代当主となった 1 。彼が家督を継いだ時期の佐竹宗家は、第17代当主・佐竹義昭(1531-1565)から、その子で「鬼義重」の異名で恐れられた第18代当主・佐竹義重(1547-1612)へと代替わりする、勢力拡大の重要な転換期にあった 11 。義重は上杉謙信と同盟を結び、小田氏治を破るなど、常陸国内での勢力拡大を積極的に進めており、義斯もまた北家の当主として、これらの軍事行動に深く関与していたと考えられる。
義斯の軍事における最も重要な役割は、常陸南部方面の総指揮権を掌握していたことであった(ユーザー提供情報)。この方面は、小田原を本拠地とし、関東の覇権を狙って北上してくる後北条氏との最前線であった。佐竹氏の存亡を左右するこの戦略的要衝の防衛と統治を任されていたという事実は、義斯が単なる一武将ではなく、方面軍司令官としての広範な裁量権を持つ、佐竹家中の実力者であったことを示している。
佐竹氏と後北条氏は、関東の覇権を巡って激しく対立し、天正13年(1585年)には下野国で大規模な軍事衝突である沼尻の合戦が起きている 12 。この合戦においても、義斯は南部方面軍の主将として前線部隊を率い、後北条軍と対峙したことは確実視される。彼の指揮のもと、佐竹軍は後北条氏の北進を食い止め、北関東における佐竹氏の勢力圏を維持したのである。
天正14年(1586年)頃、当主・義重は隠居の形式をとり、長子である義宣が17歳という若さで家督を相続した 13 。しかし、当時まだ39歳であった義重が実権を完全に手放したわけではなく、以後しばらくは父子による二頭政治、あるいは義重が後見人として義宣を支える体制が続いた 13 。この政治的な過渡期において、一門の重鎮である義斯の存在は、若き当主・義宣の権威を補強し、政権を安定させる上で不可欠であった。
その重要性を如実に示すのが、天正17年(1589年)に豊臣秀吉から佐竹氏に宛てて発給された二通の朱印状である。驚くべきことに、これらの朱印状の宛名は、当主である義宣ではなく、佐竹(北)義斯と佐竹(東)義久であった 13 。これは、天下人である秀吉が、佐竹氏の内部事情を極めて正確に把握していたことを物語っている。秀吉は、形式上の当主である若い義宣だけでなく、彼を支え、領国を実質的に運営している義斯と義久という二人の重鎮を、佐竹氏の責任者として公的に認めていたのである。
この事実は、義斯が単なる義宣の「後見人」という立場に留まらず、豊臣政権に対する佐竹氏の「連帯保証人」とも言うべき、極めて高い政治的地位にあったことを示唆する。義斯の権威は、宗家から与えられた職務だけでなく、北家当主という由緒ある家格、南部方面軍司令官という軍事的な実績、そして中央政権からの直接的な承認という三つの要素によって強固に支えられていた。この確固たる立場こそが、彼が後に常陸南部の国衆への「指南」や家中の統制を円滑に進める上での大きな力となったのである。
佐竹義斯は、優れた軍事指揮官であると同時に、領国を安定させ、宗家の支配を浸透させるための統治能力にも長けた人物であった。彼の活動は、佐竹氏が採用していた「方面支配」とでも言うべき統治システムの核をなすものであり、常陸統一事業の国内的な基盤を固める上で決定的な役割を果たした。
義斯の重要な職務の一つに、常陸南部に割拠する江戸氏や真壁氏といった有力国衆への「指南」があった(ユーザー提供情報)。ここでの「指南」とは、単なる助言を与えるだけの役割ではない。それは、佐竹宗家の方針を彼らに伝え、その動向を監督し、時には軍事的な圧力を背景に服従を促すという、後見と監視を兼ね備えた高度な政治的役割であった。
その具体的な証拠として、天正14年(1586年)に真壁氏の当主・真壁久幹が義斯に対して起請文を提出している史実が挙げられる 15 。国衆が宗家当主ではなく、分家の当主である義斯と直接的に盟約を結んでいるこの事実は、義斯が宗家の権威を代行する「分身」として、国衆との関係構築を任されていたことを明確に示している。このように、義斯は対外的には佐竹氏の顔として、内部的には国衆を統制する要として機能していたのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結すると、長年にわたって佐竹氏と敵対し続けた常陸南部の雄・小田氏治は所領を没収され、追放された 1 。この機に、義斯は小田氏の本拠であった小田城の城代に任命される。これは、佐竹氏の支配に反発する可能性が高い敵対勢力の旧領を安定させ、新たな支配体制を確立するという、極めて重要かつ困難な任務であった。
小田氏は、たとえ城を追われても旧臣や領民からの支持が厚く、幾度となく本拠を奪還してきた歴史がある 16 。そのような地に、佐竹宗家は最も信頼の置ける人物として義斯を送り込んだのである。これは、彼の統治能力と武威に対する絶大な信頼の表れに他ならない。義斯は城代として小田領の統治にあたり、この地を佐竹氏の新たな支配領域として着実に組み込んでいった。
義斯の領国経営者としての一面は、家中統制においても発揮された。元亀2年(1571年)、彼は佐竹氏を出奔した重臣・和田昭為の一族を処罰するという断固たる措置を実行している 1 。和田昭為は、外交手腕に長けた有能な家臣であったが、一説には同僚の讒言により佐竹氏のもとを去り、白河結城氏に身を寄せた 17 。主家からの出奔は重大な背信行為であり、佐竹宗家は見せしめとして厳しい処罰を決定した。
この処罰の実行者に義斯が選ばれたことは、彼が佐竹家中の規律を維持し、裏切り者には厳罰をもって臨むという、当主・義重の厳しい方針を代行する役割を担っていたことを示している。家中における義斯の権威の高さと、時には汚れ役も厭わない冷徹な統治者としての一面をうかがわせる逸話である。なお、和田昭為自身は後に巧みな策略を用いて佐竹氏への帰参を果たし、再び重用されることになる 17 。
これらの事績から見えてくるのは、佐竹氏が採用していた巧みな「方面支配」システムである。東家の佐竹義久が陸奥方面の軍権と統治を担ったのに対し 18 、北家の義斯は常陸南部方面を担当した。彼らはそれぞれが方面軍司令官、方面外交官、そして方面行政官としての権限を併せ持つ、いわば「ミニ領主」のような存在であった。このシステムは、広大で国衆が割拠する領国を効率的に管理し、各地の情勢に迅速に対応することを可能にし、宗家は全体の戦略決定に集中できるという大きな利点を持っていた。佐竹義斯は、このシステムが最も効果的に機能した時代の、最も成功した方面統治者であったと評価できる。
佐竹義斯の活動は、軍事や内政に留まらず、外交の舞台においても重要な役割を果たした。彼は、佐竹宗家の意向を体現する交渉役として、周辺大名との複雑な関係を調整し、佐竹氏の勢力圏を安定させることに大きく貢献した。
戦国時代の関東において、佐竹氏の外交戦略の根幹をなしたのは、越後の上杉氏との同盟関係であった。佐竹義重は上杉謙信と固い連携を保ち、その関係は子の景勝の代にも引き継がれ、関東に強大な勢力を築いた後北条氏に対抗する一大連合を形成していた 12 。
この重要な同盟関係の維持において、義斯は最前線の指揮官として、また外交の使者として大きな役割を担った。彼が上杉家に書状を発するなど、直接的な外交活動を行っていたことが伝えられている(ユーザー提供情報)。特に、上杉景勝との書簡のやり取りは、両家の軍事・政治的な連携を維持する上で不可欠であった 19 。関ヶ原の戦いの直前、佐竹氏から上杉氏へ密使が送られ、徳川家康に対する共闘の密約が交わされた際も 19 、こうした義斯の代から続く長年の信頼関係がその背景にあったと考えられる。
さらに注目すべきは、秋田県公文書館に所蔵される史料の中に、上杉謙信から「佐竹(義斯)四郎とのへ」と宛てられた書状の存在が示唆されている点である 22 。これが事実であれば、戦国最強と謳われた武将である謙信が、佐竹宗家の当主ではなく、分家当主である義斯個人に直接書状を送っていたことになる。これは、義斯の武将としての名声や、反北条連合における北家の戦略的重要性が、当時から広く認識されていたことを示す一級の証拠と言える。このことは、義斯が単に宗家の意向を伝える使者としてではなく、一個の独立した交渉主体として他大名から認識され、その個人的な信頼関係や交渉力が佐竹氏の外交を支える重要な資産であった可能性を示唆している。
佐竹氏にとって、北に隣接する下野国の那須氏は、時に協力し、時に敵対するという、一筋縄ではいかない相手であった。この那須氏との関係を安定させることは、佐竹氏が南方で後北条氏との対決に全力を注ぐ上で、背後の安全を確保するという極めて重要な戦略的意義を持っていた。
この困難な外交課題を解決したのが、佐竹義斯であった。彼は、那須氏との和睦を成立させるという大きな功績を挙げている 1 。那須氏との交渉は、単なる話し合いだけでなく、軍事的な圧力を巧みに利用し、同時に懐柔策も用いるといった、高度な政治的駆け引きを必要とした。義斯がこの和睦を成功させたことは、彼が武力と外交の両面を駆使できる、優れた政治家であったことを証明している。
佐竹義斯の外交は、関東の周辺大名に留まらなかった。彼は、天下統一を進める中央政権との重要なパイプ役も務めていた。前述の通り、天正17年(1589年)に豊臣秀吉から直接朱印状を与えられたという事実は、彼が中央政権からもその実力を認知された存在であったことを明確に示している 13 。秀吉は、巨大な勢力を持つ佐竹氏を統制するにあたり、当主の義宣だけでなく、彼を支える義斯や東家の義久といった一門の重鎮たちの動向を注視し、彼らとの直接的な関係を構築しようとした。義斯は、佐竹氏が豊臣政権下の大名として円滑に活動し、その地位を確保するための、重要な窓口の一つであったと言えるだろう。
佐竹氏による常陸統一事業は、豊臣秀吉の天下統一という大きな時代のうねりと連動して、その最終段階を迎える。小田原征伐と、それに続く常陸国内の粛清事業において、常陸南部方面の全権を担っていた佐竹義斯は、歴史の表舞台では目立たないながらも、決定的な役割を果たした。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・後北条氏を屈服させるため、小田原征伐の号令を発した。この天下分け目の戦いに、佐竹氏は当主・義宣のもと、1万余の大軍を率いて参陣した 14 。この軍勢の中核をなしたのは、常陸南部方面軍を率いる主将、佐竹義斯であったことは間違いない。佐竹軍は、豊臣政権の重臣・石田三成の指揮下に入り、北条方の拠点である忍城の攻略戦に参加した 14 。
この小田原への参陣という政治的決断により、佐竹氏は豊臣政権下での存続を公的に認められ、長年の悲願であった常陸一国の支配権を安堵されることになった 13 。これは、佐竹氏の歴史における画期的な出来事であった。
小田原征伐によって豊臣政権という強大な後ろ盾を得た佐竹氏は、その権威を背景に、常陸国内に残る未服従勢力の一掃という、最後の仕上げに取り掛かった。その象徴的な事件が、天正19年(1591年)2月9日に起きた「南方三十三館」謀殺事件である 13 。
佐竹義宣は、常陸南部の鹿島郡・行方郡に割拠し、佐竹氏の支配に服していなかった常陸大掾氏系の一族を中心とする国衆たち(通称「南方三十三館」)を、会盟(同盟のための会合)と偽って太田城に招き寄せ、その場でことごとく謀殺するという、冷徹かつ計画的な粛清を断行した 25 。この事件により、鹿島氏、行方氏、手賀氏といった常陸南部の多くの名族が当主を失い、滅亡の道をたどった 25 。佐竹氏はすかさず軍を派遣して彼らの本拠地を制圧し、ここに佐竹氏による常陸統一は事実上完成したのである。
この謀殺事件において、佐竹義斯が果たした役割は極めて大きいと考えられる。現存する史料に、義斯がこの謀殺に直接関与したと明記したものはない。しかし、状況証拠は、彼がこの計画の中心人物の一人であったことを強く示唆している。第一に、彼は常陸南部方面の軍事・政治における総指揮官であり、粛清の対象となった国衆は、まさに彼の管轄地域に存在していた。第二に、義宣が小田原征伐後に上洛する際、天正18年11月付の書状で、江戸・行方方面の「仕置」(統治および処分)を重臣に一任しており、この粛清が周到に準備されていたことがうかがえる 26 。
これらの事実から導き出される結論は、義斯が単なる命令の実行者ではなかったということである。彼は長年にわたり、南部方面でこれらの国衆と対峙し、その内情、力関係、そして弱点を最も熟知していた人物であった。誰を標的とし、誰を懐柔し、粛清後の混乱をいかにして最小限に抑え、速やかに支配を確立するか。このような具体的な作戦計画は、現場の最高責任者である義斯の深い知見と判断なくしては立案不可能であったはずである。彼は、この常陸統一という歴史的事業の最終章において、当主である義重・義宣父子の「頭脳」であり、またその計画を完遂する「手足」でもあった、中心的な実行者だったと結論付けられる。
常陸統一を成し遂げ、佐竹氏の権勢が頂点に達した矢先、佐竹義斯とその一族を悲劇が襲う。彼の死は、佐竹氏の権力構造に大きな空白を生み、その後の運命にも少なからぬ影響を与えた。
慶長4年(1599年)4月18日、佐竹氏を支え続けた重鎮、佐竹義斯は55年の生涯を閉じた 1 。しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。驚くべきことに、そのわずか2日後の4月20日、義斯の嫡男で既に北家の家督を継いでいた佐竹義憲が、父の後を追うように30歳の若さで急死したのである 2 。
義憲もまた、父・義斯と同様に一門の重鎮として将来を嘱望されていた人物であった。彼は佐竹義重の三男・岩城貞隆の補佐役として岩城氏の政務を取り仕切り、検地を行うなど、その政治手腕を発揮していた 27 。この有能な父子の相次ぐ突然の死は、佐竹氏にとって計り知れない損失であった。北家は義斯の孫にあたる幼い義廉が家督を継ぐことになり 2 、その政治的影響力は一時的に大きく減退せざるを得なかった。
義斯・義憲父子の死の翌年、天下の情勢は大きく動き、関ヶ原の戦いが勃発する。この天下分け目の戦いにおいて、当主・佐竹義宣は石田三成との親交から西軍に心を寄せたが、父・義重は徳川家康への味方を主張し、家中は分裂。結果として去就を曖昧にしたことが家康の咎めるところとなり、佐竹氏は常陸54万石から出羽秋田20万石へと、大幅な減転封を命じられた 24 。
佐竹北家もこの宗家の決定に従い、長年の本拠地であった常陸国久米城を去り、新たな領地である秋田へと移った。江戸時代、北家は久保田藩の一門家臣筆頭として、仙北郡角館に1万石の所領を与えられ、その地名から「角館家」とも称されるようになった 8 。その家系は明治維新後、戊辰戦争での功績などにより華族に列せられ、男爵位を授けられた 9 。そして、その血脈は現代にまで受け継がれており、現秋田県知事の佐竹敬久氏がその末裔であることは、佐竹北家の長い歴史の連続性を象徴する事実である 8 。
佐竹義斯は、個人の武勇やカリスマ性が注目されがちな戦国武将の中で、組織人として、また方面統治の責任者として、主家である佐竹氏の発展に決定的な貢献をした人物として評価されるべきである。彼の軍事、政治、外交にわたる多面的な活動は、佐竹氏が長年の内紛の時代を乗り越え、後北条氏や伊達氏といった強大なライバルと渡り合い、常陸54万石の大大名として豊臣政権下で確固たる地位を築くための、まさに屋台骨であった。
彼は、勇猛な当主・義重を補佐し、若き後継者・義宣を支え、常陸統一という一族の悲願を達成させた「縁の下の力持ち」であった。その功績は、佐竹氏の歴史を語る上で決して欠かすことのできないものであり、彼はまさに佐竹氏を支えた偉大なる「分家の棟梁」として、再評価されるに値する。
義斯の死が、その後の佐竹氏の運命に与えた影響は、歴史の仮定として考察する価値がある。関ヶ原の戦いの際、佐竹家中は親徳川派の父・義重と、親石田(豊臣)派の当主・義宣との間で意見が激しく対立した 19 。義斯は、義重・義宣の両方から厚い信頼を寄せられ、また豊臣政権からもその実力を認められた、家中随一の重鎮であった。もし彼が慶長5年の時点で存命であったならば、両者の間に立って家中の意見を統一し、佐竹氏としてより明確な政治行動を促す、強力な調停役を果たし得たかもしれない。彼の不在が、佐竹氏の去就を曖昧にさせ、結果として秋田への減転封という厳しい処分に繋がった一因であると考えることは、彼の存在の大きさを逆説的に証明するものと言えよう。
表2:佐竹義斯 主要活動年表
西暦(和暦) |
年齢 |
佐竹義斯の活動および関連事項 |
国内の主要な出来事 |
典拠 |
1545年(天文14年) |
1歳 |
佐竹北家当主・義廉の子として誕生。 |
佐竹義篤が死去し、義昭が家督相続。 |
1 |
1562年(永禄5年) |
18歳 |
佐竹義重が家督相続。義斯もこの頃から活動を本格化か。 |
|
12 |
1571年(元亀2年) |
27歳 |
出奔した家臣・和田昭為の一族を処罰する。 |
|
1 |
1582年(天正10年) |
38歳 |
(この頃)那須氏との和睦交渉を主導し、成立させる。 |
本能寺の変。 |
1 |
1585年(天正13年) |
41歳 |
沼尻の合戦。後北条氏と対峙。 |
|
12 |
1586年(天正14年) |
42歳 |
真壁久幹から起請文を受け取る。 |
佐竹義宣が家督相続。 |
13 |
1589年(天正17年) |
45歳 |
豊臣秀吉から東義久と共に直接朱印状を与えられる。 |
|
13 |
1590年(天正18年) |
46歳 |
小田原征伐に参陣。戦後、小田城代に任命される。 |
豊臣秀吉、天下統一。 |
1 |
1591年(天正19年) |
47歳 |
「南方三十三館」謀殺事件に関与か。 |
|
13 |
1599年(慶長4年) |
55歳 |
4月18日、死去。2日後に嫡男・義憲も死去。 |
|
1 |