佐竹義舜は、百年続いた山入の乱を終結させ、佐竹氏を戦国大名へと導いた中興の祖。太田城を奪還し、家法を制定、北関東の覇権を目指した。
戦国時代の常陸国(現在の茨城県)にその名を刻む佐竹義舜(さたけ よしきよ)。彼は文明2年(1470年)に生まれ、永正14年(1517年)にその生涯を閉じた 1 。後世、彼は「佐竹氏中興の祖」と称されるが、その評価は単なる一地方領主の成功物語に留まるものではない 2 。彼の生涯は、室町幕府の権威が地に墜ち、下剋上が日常と化した時代の縮図そのものであった。それは、崩壊した秩序を内側から再構築しようとする、一人の武将の苦闘の記録でもある。
佐竹義舜の功績は、宿敵を討ち、本拠地である太田城を奪還したという軍事的な勝利に限定されるものではない。彼の真価は、約一世紀にわたって一族を蝕み続けた「山入の乱」と呼ばれる深刻な内紛を、自らの代でいかにして終結させたかにある。さらに、分裂した一族をいかにして再び束ね、新たな統治体制を設計し、そして北関東という新たな闘争の舞台で如何に立ち回ったかという点にこそ、彼の歴史的重要性が存在する。本報告書は、この佐竹義舜という人物の実像に、深く、そして多角的に迫るものである。絶望的な状況から立ち上がり、過去の負の遺産を清算し、次代の飛躍への礎を築いた彼の生涯を解き明かしていく。
佐竹義舜が家督を継いだ時点で直面したのは、希望の光がほとんど見えない、絶望的ともいえる状況であった。彼の物語は、輝かしい栄光からではなく、一族が百年にわたって抱え込んできた構造的な内乱の最終局面を、否応なく背負わされることから始まる。この部では、その根源である「山入の乱」の深層を解き明かし、若き当主が如何にして苦難の道を歩み始めたかを探る。
佐竹氏の百年にわたる内乱、通称「山入の乱」または「山入一揆」は、義舜の時代に始まったものではない。それは彼の曽祖父の代に端を発する、血統、権力、そして関東地方全体の複雑な政治情勢が絡み合った根深い対立であった 4 。
全ての始まりは、応永14年(1407年)に遡る。佐竹宗家第11代当主・佐竹義盛が後継となる男子なくして没したことであった 4 。跡継ぎを欠いた宗家は、重臣たちとの協議の末、関東管領であった山内上杉憲定の次男・竜保丸を婿養子として迎え、第12代当主・佐竹義人(よしひと、後に義憲と改名)とした 4 。
しかし、この決定は一族内に深刻な亀裂を生む。清和源氏の流れを汲む佐竹家に、藤原氏を祖とする上杉氏から養子を迎えることに対し、佐竹氏の庶流筆頭であり、大きな勢力を持っていた山入氏が猛烈に反発したのである 4 。この時、山入氏が掲げたのが「竹に杉は接げない」という象徴的な言葉であった 6 。これは、源氏の「竹」に藤原氏の「杉」を接ぎ木することはできない、という血統の純粋性を問う主張であり、宗家の決定に対する分家の強い自負と反骨精神の表れであった。
山入氏は、病弱であったために当主候補から外されていた義盛の弟・義有を担ぎ上げ、武力をもって宗家に抵抗を開始する 6 。この一族内の対立は、単なる家督争いに留まらなかった。当時の関東は、京都の室町幕府と鎌倉府(関東公方)が対立し、さらに関東管領の上杉氏内部でも山内上杉家と犬懸上杉家が勢力を争うという、複雑な政治的緊張の中にあった 4 。佐竹家の内紛は、これらの上位権力の代理戦争の様相を呈し、外部勢力の介入を招きながら、際限なく長期化・泥沼化していくのである。
義舜の父である第14代当主・佐竹義治の時代には、山入氏との抗争はもはや常態化していた。断続的な戦闘により領国は疲弊し、宗家の権威と勢力は著しく衰退の一途を辿っていた。義舜が生まれた文明2年(1470年)は、まさにこの百年近く続く内乱の渦中であり、彼が物心ついた頃には、一族が互いに争うことが当たり前の世界が広がっていたのである。彼が継承するものは、輝かしい家名ではなく、解決の糸口が見えない巨大な負の遺産そのものであった。
義舜の当主としてのキャリアは、家督相続という形式的な栄光の直後に訪れた、最大の屈辱から始まった。それは、長年にわたる内乱の矛盾が、彼の代で一気に噴出した瞬間でもあった。
延徳2年(1490年)4月、父・義治が没し、義舜は21歳の若さで佐竹宗家の家督を相続した 3 。しかし、彼が当主として采配を振るう時間はほとんど与えられなかった。そのわずか4ヶ月後、好機を待っていた山入義藤・氏義父子は、かねてより宗家に不満を抱いていた他の佐竹一族や、常陸南部の有力国人である水戸氏までも味方に引き入れ、一斉に蜂起した 3 。彼らの目標はただ一つ、佐竹氏代々の本拠地である太田城であった。
若き新当主・義舜に、この大軍を防ぎきる力はなかった。彼はなすすべなく太田城を放棄し、落ち延びることを余儀なくされる 3 。向かった先は、母(大山常全の娘)の実家である大山氏が治める孫根城(大山城)であった 10 。佐竹宗家の当主が、敵対する分家に本拠地を奪われ、家臣の城に庇護を求めるという事態は、宗家の権威が完全に失墜したことを内外に示すものであった。
孫根城に身を寄せた義舜は、雌伏の時を過ごす。明応元年(1492年)、敵将であった山入義藤が病死したことで、山入一揆の勢いに陰りが見え、一時的に和睦の機運が高まった 10 。この和睦交渉には、義舜の岳父である岩城常隆が仲介に入ったが、義藤の子・山入氏義はこれを頑なに拒否し、むしろ攻勢を強めた 10 。
そして明応9年(1500年)、山入勢の矛先は、ついに義舜が籠る孫根城にまで向けられた 10 。義舜はここでも持ちこたえることができず、再び城を脱出。常陸北部の山中に位置し、古くから天険の要害として知られる金砂山城(かなさやまじょう)へと逃れた 10 。この時点で、彼の支配領域は極限まで縮小し、その存在は風前の灯火となっていた。太田城を追われてから10年、彼の前半生は敗走と逃避行の連続だったのである。
表1:佐竹義舜 関連系譜図
家系 |
人物名 |
義舜との関係 |
備考 |
佐竹宗家 |
佐竹義治 |
父 |
第14代当主 11 |
|
大山常全の娘 |
母 |
大山氏出身 1 |
|
佐竹義舜 |
本人 |
第15代当主 1 |
|
岩城常隆の娘 |
正室 |
名は喜山妙悦。岩城氏との同盟の要 10 |
|
佐竹義篤 |
嫡男(次男) |
第16代当主 11 |
山入家(分家) |
山入義藤 |
敵対者 |
義舜から太田城を奪う 3 |
|
山入氏義 |
敵対者 |
義藤の子。義舜を金砂山城まで追い詰める 10 |
姻戚(支援勢力) |
大山氏 |
母方実家 |
義舜が最初に逃れた孫根城主 10 |
|
岩城氏 |
妻方実家 |
太田城奪還における最大の支援勢力 5 |
絶望的な状況に追い込まれた義舜であったが、彼の物語はここで終わらない。金砂山城での劇的な勝利を転機に、彼は反撃の狼煙を上げる。それは単なる幸運に頼ったものではなく、天運を捉える戦略的判断力と、苦境の中でも着実に築き上げてきた外交関係が結実した結果であった。この部では、義舜がいかにして反撃の機会を掴み、百年来の宿願を達成したかを描く。
明応9年(1500年)に孫根城を追われ、金砂山城に立て籠もった義舜は、人生最大の窮地に立たされていた。しかし、この佐竹氏にとって因縁深い要害が、彼の運命を劇的に転換させる舞台となる。
金砂山城は、標高412mの西金砂山の山頂に築かれた山城である 13 。その歴史は古く、治承4年(1180年)に源頼朝が常陸に侵攻した際、佐竹氏の祖先である佐竹秀義が籠城して抵抗した場所でもあった 13 。周囲、特に西側は切り立った断崖絶壁となっており、容易に兵を寄せ付けない天然の要塞を形成していた 13 。城というよりは、山そのものが要害であり、大軍による力攻めを極めて困難にさせる地理的条件を備えていたのである 15 。義舜に残された最後の拠点として、ここはまさに最適な場所であった。
文亀2年(1502年)、勢いに乗る山入氏義は、この金砂山城に総攻撃を仕掛けた 10 。天険の要害といえども、兵力で圧倒的に劣る義舜は絶体絶命の苦境に陥る 15 。城兵は崖の上から大木や岩石を投下して必死に防戦したと伝わるが 15 、陥落は時間の問題かと思われた。
しかし、まさにその時、戦況を一変させる出来事が起こる。にわかに空が暗転し、激しい雷雨が戦場を襲ったのである 10 。この突然の天候急変により、攻め手の山入軍の士気は乱れ、陣形は浮き足立った。義舜はこの千載一遇の好機を見逃さなかった。彼はこの天運を最大限に活用すべく、即座に城兵に討って出ることを命じた 10 。不意を突かれた山入軍は混乱に陥り、総崩れとなって敗走した。この「金砂山城の戦い」と呼ばれる逆転劇により、義舜は劇的な勝利を手にしたのである 10 。
この勝利は、単に一つの戦いに勝った以上の、計り知れない価値を持っていた。それは、敗走と失地を重ねてきた義舜の評価を一夜にして覆すものであった。彼には「天運」が味方しているという印象を、敵味方を問わず常陸国の武士たちに強烈に植え付けたのである。この勝利によって得られた威信と時間は、彼が態勢を立て直し、外交交渉を有利に進めるための極めて重要な資本となった。金砂山城の雷雨は、佐竹氏再興の幕開けを告げる祝砲となったのである。
金砂山城での奇跡的な勝利は、守勢一方だった義舜に、攻勢へと転じるための心理的・戦略的基盤を与えた。彼はこの好機を逃さず、巧みな外交戦略によって包囲網を形成し、百年来の宿願であった内乱の終結へと突き進んでいく。
反撃の最大の鍵となったのは、かねてより結んでいた婚姻関係の活用であった。義舜の正室は、南陸奥の有力大名・岩城常隆の娘(または妹)であり、この岳父(または義兄)が彼の窮地を救うべく、全面的な支援を約束したのである 5 。苦しい逃避行の最中も維持し続けてきたこの人的ネットワークが、ここに来て決定的な力を発揮した。
さらに義舜は、下野国(現在の栃木県)の那須氏など、周辺の有力勢力にも働きかけ、支援を取り付けることに成功する 10 。金砂山城での勝利によって高まった彼の威信は、これらの交渉を有利に進める追い風となった。これにより、敵である山入氏は徐々に外交的に孤立し、義舜は着実に逆襲の包囲網を狭めていった。
永正元年(1504年)、ついにその時は来た。周到な準備を整えた義舜は、岩城氏からの強力な援軍を中核とする連合軍を率いて、太田城へと進軍した。山入氏義はもはやこの勢いを止めることができず、義舜は実に14年ぶりに、父祖伝来の本拠地である太田城の奪還に成功した 5 。
本拠を失った山入氏義は、自らの拠点である山入城(国安城)に逃れて抵抗を試みるが、勢いに乗る義舜軍の前にここでも敗北を喫した 3 。万策尽きた氏義は、最終的に同族であったはずの小田野義正に裏切られて捕縛されるという悲惨な末路を辿る 8 。そして、子の義盛と共に下野国茂木の地で処刑された 8 。
この山入氏義・義盛父子の死をもって、応永14年(1407年)の養子問題に端を発し、佐竹氏を4代、約100年にもわたって分裂させ、苦しめ続けた「山入の乱」は、ついに完全な終止符が打たれたのである 3 。義舜は、曽祖父の代から続く一族の宿痾を、自らの手で断ち切るという大事業を成し遂げた。彼は単なる失地の回復者ではなく、一世紀にわたる内乱の「修復者」となったのである。
山入の乱という百年の呪縛から解き放たれた義舜は、過去の清算に留まらなかった。彼はすぐさま次なる段階、すなわち荒廃した領国の再建と、戦国大名としての新たな支配体制の構築に着手する。彼の視線は、もはや常陸国内に留まらず、北関東全体の覇権を巡る、より大きな闘争へと向けられていた。彼は「修復者」から、新たな秩序の「設計者」へと変貌を遂げる。
内乱の終結はゴールではなく、新たな国づくりのスタートであった。義舜は、二度と一族が分裂する悲劇を繰り返さないため、そして来るべき戦国乱世を勝ち抜くため、強固な統治システムの構築を急いだ。
永正3年(1506年)、太田城奪還から2年後、義舜は23ヶ条からなる家法(分国法)を制定した 5 。これは、彼の統治者としての先見性を示す画期的な試みであった。長きにわたる内乱の最大の原因が、宗家の統制力の弱さと、一族や家臣の恣意的な行動にあったことを、彼は痛いほど理解していた。この家法制定は、旧来の属人的な支配体制から脱却し、法に基づく恒久的で集権的な統治体制を目指すという、明確な意思表示であった。
具体的な条文の全文は現存していないものの、その目的が家臣団の統制を強化し、軍事力を再編成・強化することにあったのは間違いない 3 。これは、佐竹氏が中世的な武士団連合から、当主の強力なリーダーシップの下に統一された「戦国大名」へと脱皮するための、決定的に重要な一歩であった。
法整備と並行して、義舜は現実的な支配体制の再構築にも着手した。内乱の過程で宗家から離反したり、独立性を強めたりしていた江戸氏や小野崎氏といった常陸国内の有力国人衆に対し、彼は巧みな政治手腕を発揮する 11 。時には彼らの内紛に介入し、時には同盟関係を正常化させることで、再び佐竹宗家の権威の下に彼らを組み込んでいった 18 。
さらに、内乱の間に周辺勢力によって侵食されていた旧領の回復にも積極的に努め、領国経済の立て直しを図った 3 。これらの内政改革と領国経営の安定化は、一見地味ではあるが、後の佐竹氏の飛躍を支える強固な土台となった。強固な家臣団と安定した領国を再構築したからこそ、彼は次章で述べるような、大規模な対外戦争を遂行することが可能になったのである 3 。
国内の安定に成功した義舜の野心は、常陸国の国境を越えていく。彼の目は、北関東全体の政治秩序の主導権を握ることに向けられていた。しかし、そこには新たな、そして強力なライバルとの宿命的な対決が待ち受けていた。
当時の関東地方における最大の政治的争乱は、関東の公権力の象徴であった古河公方家で起きていた。当主・足利政氏とその子・高基が家督を巡って争う、いわゆる「永正の乱」である 11 。この内乱に、関東の有力大名たちは政氏方と高基方に分かれて参戦した。
義舜は、父である政氏の側に与し、同盟者である岩城氏と共に大軍を率いて下野国へ繰り返し出兵した 20 。これは単なる義理立てや目先の利益のためではない。関東の最高権威である古河公方を自らの手で擁立することにより、自らの北関東における覇権を正当化し、確立しようとする、高度な戦略的意図に基づいた行動であった。
しかし、義舜の北関東への進出は、ある強力な武将の存在によって阻まれる。下野の雄・宇都宮成綱である 21 。奇しくも成綱もまた、一族の内紛を克服して宇都宮氏を強大な勢力に育て上げた傑物であり、後世「宇都宮氏の中興の祖」と称される人物であった 22 。彼は義舜とは逆に、高基方を支持しており、両者の対立は必然であった。
北関東の覇権を巡る二人の「中興の祖」の激突は、永正11年(1514年)の「竹林の戦い」と、永正13年(1516年)の「縄釣の戦い」で頂点に達した 20 。これらの戦いで、義舜率いる佐竹・岩城連合軍は宇都宮軍に手痛い敗北を喫し、多大な損害を出して撤退を余儀なくされた 20 。特に縄釣の戦いでは、宇都宮軍の追撃は執拗を極め、佐竹軍は常陸国境の依上保まで押し返されるという大敗であった 20 。この敗北は、義舜の勢力拡大の限界を示すと同時に、宇都宮成綱という好敵手の実力を天下に示す結果となった。
宇都宮氏との熾烈な覇権争いの一方で、義舜は他の方面でも機を見るに敏な戦略を展開していた。永正7年(1510年)、陸奥国の白河結城氏で内紛(永正の変)が勃発すると、彼はこの好機を逃さず介入し、かつて同氏に奪われていた旧領・依上保の地を奪回することに成功している 10 。内政の安定を基盤に、外交と同盟、そして軍事介入を巧みに使い分ける、彼の戦国武将としての円熟した姿がここには見られる。
北関東の覇権を巡る宇都宮成綱との激闘のさなか、佐竹義舜の人生はあまりにも突然に終わりを迎える。しかし、彼が遺した有形無形の遺産は、彼の死後も佐竹家を支え続け、次代の飛躍を約束する強固な礎となった。
永正14年(1517年)3月13日、佐竹義舜は志半ばにして、48歳でこの世を去った 1 。それは、彼の生涯最大のライバルであった宇都宮成綱が没した、わずか4ヶ月後のことであった 22 。北関東の覇権を争った二人の傑出した指導者が相次いで歴史の舞台から退場したことは、この地域に巨大な権力の空白を生み出した。
義舜の跡は、嫡男の義篤が継いだが、まだ若年であった 3 。一方の宇都宮氏もまた、成綱という強力な指導者を失ったことで内紛(大永の内訌)に陥り、大きく勢力を後退させることになった 22 。二人の巨人の死は、北関東の情勢を再び流動化させ、やがて南から台頭する後北条氏の進出を許す遠因ともなっていく。
もし、義舜が百年に及ぶ山入の乱を終結させていなければ、佐竹氏は彼の死後、宇都宮氏や、その後に強大化する後北条氏といった外部勢力の格好の標的となり、歴史の早い段階で滅亡、あるいは吸収されていた可能性は極めて高い。彼が再構築した佐竹宗家の権威、家法によって定められた統治機構、そして強固な家臣団は、彼の死後に訪れるであろう困難な時代を、佐竹家が乗り越えるための決定的な「礎」となったのである。
彼が確立した岩城氏との強固な同盟関係は、息子の義篤、孫の義昭の代にも受け継がれ、佐竹氏の外交の基軸であり続けた。そして何よりも、彼が断ち切った内紛の歴史があったからこそ、曾孫の佐竹義重は内憂に煩わされることなく、その類稀なる軍事的才能を外敵との戦いに集中させることができた。「鬼義重」と恐れられた彼の活躍によって佐竹氏が常陸統一を成し遂げ、関東有数の戦国大名として君臨できたのは、まさしく義舜が築いた盤石な基盤の上にあったからに他ならない 3 。
佐竹義舜は、合戦で連戦連勝するような派手な武将ではなかったかもしれない。彼の真価は、軍事力もさることながら、それ以上に政治力と構想力にあった。一世紀続いた一族の負の遺産を断ち切り、崩壊した組織を法と外交によって「修復」し、次世代が飛躍するための新たな秩序を「設計」した点にこそ、彼の偉大さがある。
彼は、戦国乱世という時代の大きな転換期において、ただ破壊と抗争に身を任せるのではなく、破壊された秩序の中から新たな秩序を創造しようと苦闘した、稀有な指導者であった。逆境からの再生、そして未来への布石という彼の生涯は、時代を超えて、組織を率いるリーダーシップの一つの理想像を我々に示している。佐竹義舜が「中興の祖」と称される理由は、まさにここにあるのである。
巻末資料:佐竹義舜 生涯と関連動向年表
西暦 |
和暦 |
義舜の年齢 |
佐竹義舜および佐竹宗家の動向 |
山入氏の動向 |
関東・中央の関連動向 |
1470 |
文明2 |
0歳 |
佐竹義治の子として生まれる 1 |
- |
応仁の乱の最中 |
1490 |
延徳2 |
21歳 |
父・義治の死により家督相続。直後に太田城を追われ、孫根城へ逃れる 3 |
山入義藤・氏義父子が太田城を占拠 3 |
- |
1492 |
明応元 |
23歳 |
岳父・岩城氏の仲介で和睦交渉が行われるも不調に終わる 10 |
山入義藤が病死。子の氏義が後を継ぐ 10 |
- |
1500 |
明応9 |
31歳 |
孫根城を攻められ、金砂山城へ逃れる 10 |
山入氏義が孫根城を攻撃 10 |
- |
1502 |
文亀2 |
33歳 |
金砂山城の戦い。雷雨に乗じて奇襲し、山入軍に大勝する 10 |
金砂山城を総攻撃するも大敗を喫す 10 |
- |
1504 |
永正元 |
35歳 |
岩城氏、那須氏らの支援を得て太田城を奪還 5 |
本拠・山入城も落とされ、氏義・義盛父子は捕らえられ処刑。山入氏滅亡 8 |
- |
1506 |
永正3 |
37歳 |
家法二十三ヶ条を制定し、領国統治の基盤を固める 5 |
- |
古河公方家で「永正の乱」が本格化 |
1510 |
永正7 |
41歳 |
白河結城氏の内紛に乗じ、旧領・依上保を奪回 10 |
- |
- |
1514 |
永正11 |
45歳 |
永正の乱に介入。竹林の戦いで宇都宮成綱軍に敗北 20 |
- |
宇都宮成綱が高基方として勢力を拡大 |
1516 |
永正13 |
47歳 |
縄釣の戦いで再び宇都宮成綱軍に大敗 20 |
- |
11月、宇都宮成綱が死去 22 |
1517 |
永正14 |
48歳 |
3月13日、太田城にて死去。享年48 1 |
- |
北関東に権力の空白が生じる |