最終更新日 2025-06-22

佐竹親直

「佐竹親直」の画像

長宗我部家臣・佐竹親直の生涯と土佐佐竹氏の興亡

序章:歴史の狭間に生きた武将、佐竹親直

戦国乱世の終焉と江戸という新たな時代の幕開け、その激動の時代を駆け抜けた武将は数多いる。その中にあって、土佐国の雄・長宗我部元親の娘婿という栄光を手にしながら、主家の滅亡に殉じた悲劇の忠臣として記憶される人物がいる。佐竹親直(さたけ ちかなお)、通称を蔵人佐(くろうどのすけ)と称した武将である 1

彼の生涯は、長宗我部氏の家臣として、土佐国高岡郡上ノ加江城主に任じられ、主君・元親の娘である阿古姫を娶るという、一武将として望みうる最高の栄誉から始まる 1 。しかし、関ヶ原の戦いを境に主家が没落すると、その運命は暗転する。最後まで旧主・長宗我部盛親に付き従い、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、主家再興の夢半ばにしてその生涯を閉じた 1

だが、佐竹親直の物語は彼の死をもって終わりとはならない。むしろ、彼の死が引き金となり、より数奇で広大な歴史の物語が幕を開ける。大坂城落城の混乱の中、遺された妻子は敵将である伊達政宗に捕らえられるが、その裁断によって助命され、遠く離れた奥州・仙台の地で新たな人生を歩むこととなる 2 。そして、親直の次男・柴田朝意は、後に仙台藩を揺るがす大事件「伊達騒動」の中心人物の一人として、歴史の表舞台にその名を刻むことになるのである 1

本報告書は、佐竹親直という一人の武将の生涯を丹念に追うと共に、その出自である土佐佐竹氏の源流、父・義秀の悲劇的な死、そして親直の死後にその血脈が辿った予期せぬ運命までを網羅的に調査・分析するものである。土佐に生まれ、大坂に散った一人の忠臣が、いかにして遠く仙台の歴史にまで影響を及ぼす「連結点」となったのか。その全貌をここに明らかにする。


表1:佐竹親直 人物概要

項目

内容

氏名

佐竹 親直(さたけ ちかなお)

通称

蔵人佐(くろうどのすけ)

生没年

生年不詳 - 慶長20年5月6日(1615年6月2日) 1

氏族

清和源氏義光流 佐竹氏 4

主君

長宗我部元親 → 長宗我部盛親 1

拠点

土佐国 上ノ加江城(現・高知県中土佐町) 5

佐竹 義秀(さたけ よしひで) 1

阿古姫(あこひめ) - 長宗我部元親の三女 1

長男:五十嵐 元成(いがらし もとなり)

次男:柴田 朝意(しばた とももと) 1

戒名

心叟道空居士(しんそうどうくうこじ) 4


第一部:土佐佐竹氏の源流

佐竹親直の生涯を理解するためには、まず彼が属した「土佐佐竹氏」の歴史的背景を紐解く必要がある。彼らは如何にして土佐の地に根を下ろし、戦国の荒波の中で生き抜いてきたのであろうか。

第一章:常陸からの移住と土佐での定着

土佐佐竹氏の祖先は、常陸国(現在の茨城県)に本拠を置いた名門・佐竹氏の分流であると伝えられている 1 。本家である常陸佐竹氏は、清和源氏の流れを汲む源義光(新羅三郎義光)を遠祖とし、その孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着したことに始まる 9 。家紋として用いられた「月丸扇(日の丸扇)」は、文治5年(1189年)の奥州合戦の際、源頼朝から源氏の白旗と区別するために授けられたとされ、その出自の高さを物語っている 4

この常陸佐竹氏の一族が土佐国へ移住したのは、鎌倉時代の承久の乱(1221年)の頃とされている 4 。乱において朝廷方に与したことで常陸での立場を失った一派が、新天地を求めて土佐へ渡ったという伝承が残る 12 。彼らは土佐国高岡郡久礼(現在の高知県高岡郡中土佐町久礼)に入植し、久礼城を拠点とする地頭として、この地に新たな根を下ろした 4

戦国時代に入ると、土佐佐竹氏は土佐国司であった一条氏の重臣としてその名が見える 13 。しかし、土佐国内で長宗我部元親が急速に台頭すると、在地領主としての生き残りをかけた大きな決断を迫られる。当時、久礼城主であった佐竹義直(親直の叔父にあたる)は、元親の弟である吉良親貞の調略を受け入れ、長宗我部氏に帰順した 13 。これは、単なる裏切りや変節と見るべきではない。中央の権威であった一条家の衰退と、新たな実力者である長宗我部氏の興隆という、土佐国内のパワーバランスの変動を的確に読み取った、在地領主としての現実的な生存戦略であった。この政治的判断があったからこそ、佐竹氏は長宗我部体制下でその地位を保全し、後の親直の栄達へと繋がる道を切り拓いたのである。


表2:土佐佐竹氏 主要人物関係図

家系

城主

人物

備考

本家(久礼佐竹氏)

久礼城主

佐竹 義直 (よしなお)

親直の叔父。長宗我部氏に帰順。戸次川の戦いで戦死 13

佐竹 親辰 (ちかとき)

義直の子。親直の従兄弟。長宗我部家改易後、堺で能書家として余生を送る 13

分家(上ノ加江佐竹氏)

上ノ加江城主

佐竹 義秀 (よしひで)

義直の弟。親直の父。岡本城の戦いで戦死 4

佐竹 親直 (ちかなお)

本報告書の主題。義秀の子。


第二章:父・佐竹義秀の武勇と悲劇的な最期

佐竹親直の父・義秀は、久礼城を本拠とする本家から分かれ、上ノ加江城(現・中土佐町)の城主を務めた武将である 6 。彼は弓の名手として知られ、長宗我部元親の四国統一戦において重要な役割を担った 16

義秀の運命を決定づけたのは、元親が進めた伊予侵攻作戦であった。天正7年(1579年)5月、義秀は副軍代として長宗我部軍に従軍し、伊予国宇和郡の岡本城攻略戦に参加する 4 。長宗我部軍は当初、岡本城の乗っ取りに成功したかに見えたが、これは伊予の智将として名高い土居清良が仕掛けた巧妙な罠であった 16 。清良は、長宗我部軍が城を奪取したと誤認させ、油断して城に殺到した本隊を待ち伏せていた。そして、数百丁ともいわれる鉄砲隊による一斉射撃を浴びせたのである 16

この予期せぬ奇襲によって長宗我部軍は大混乱に陥り、総大将であった久武内蔵助親信をはじめ、山内外記ら主だった将兵が次々と討ち取られた。そして、この激戦の中で佐竹義秀もまた、壮絶な戦死を遂げたのである 16 。この岡本城での大敗は、破竹の勢いで四国統一を進めていた元親にとって大きな痛手となった 19

なお、義秀の没年については、天正9年(1581年)とする資料も存在するが 1 、岡本城の戦いの具体的な戦闘経緯や土居清良の活躍を記した複数の軍記物が天正7年の出来事として一致していることから 4 、本報告書では天正7年説の妥当性が高いと判断する。

父・義秀の死は、佐竹家にとって大きな悲劇であった。しかし、この悲劇は逆説的に、息子・親直の未来を大きく拓くこととなる。主君のために命を捧げた「忠臣の子」として、親直は元親から特別な眼差しを向けられることになった。父の「忠死」という犠牲が、息子の「栄光」への道を切り開く直接的なきっかけとなったのである。この因果関係には、家臣団の結束を重んじる武家の論理と、忠臣の遺族を思う元親の人間的な配慮が交錯していたと考えられる。

義秀の菩提は、上ノ加江の禅源寺跡で弔われているとされ、息子の親直と並んで墓があると伝わる 4 。現在、中土佐町には「佐竹義秀五輪塔」として、義秀とその奥方の墓と伝えられる二基の砂岩製五輪塔が祠の中に納められており、桃山時代の様式を今に伝える貴重な史跡として町の有形文化財に指定されている 20

第二部:佐竹親直の生涯

父の死を乗り越え、若くして家督を継いだ佐竹親直。彼の人生は、長宗我部一門としての栄光と、主家と共に歩んだ流浪の日々、そして最後の戦いに散った忠義の生涯として描かれる。

第一章:長宗我部一門としての栄光

父・義秀が伊予の戦場で散った後、親直は家督を継いで上ノ加江城主となった 1 。若き城主は主君・長宗我部元親に仕え、その忠勤を高く評価され、重用された 1

親直の生涯における最大の栄誉は、元親の三女・阿古姫を正室として迎えることを許されたことであろう 1 。この婚姻により、親直は単なる譜代の家臣という立場を超え、主君の一族として遇される「一門衆」という特別な地位を得た 5 。これは、長宗我部氏の支配体制下において、土佐佐竹氏が最盛期を迎えたことを象徴する出来事であった 13 。姻戚関係を結んだことで、親直はより深く国政に関与する立場となったと考えられ、後年編纂された『長宗我部地検帳』に関連する事業においても、何らかの重要な役割を担っていた可能性が研究者によって指摘されている 22

第二章:主家改易と流浪の日々

栄華を極めた長宗我部氏であったが、その運命は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで一変する。親直の主君であり、元親の後を継いだ長宗我部盛親が西軍に与したため、戦後、徳川家康によって土佐20万石の所領は没収され、改易の憂き目に遭った 4

主家が全てを失った後も、親直の忠誠心は揺るがなかった。多くの家臣が離散する中、彼は盛親を見捨てることなく、京都での苦しい浪人生活に付き従ったのである 24 。この時期の逸話として、親直が寺子屋を営んで生計を立てていたという伝承が一部で見られる 5 。しかし、より信頼性の高い史料によれば、浪人中に寺子屋の師匠をしていたのは、主君である長宗我部盛親自身であったと記されている 23 。このことから、この伝承は、主君の苦難を最後まで分かち合った忠臣・親直の姿に、主君・盛親の逸話が後世に重ね合わされ、混同されて生まれたものと推測するのが妥当であろう。

ここで興味深いのは、同じ土佐佐竹氏一族でありながら、親直とは全く異なる道を歩んだ人物の存在である。親直の従兄弟にあたり、久礼城主として佐竹本家を継いだ佐竹親辰は、長宗我部家改易後、武士の道を捨てて和泉国堺へ移り住み、能書家として文化的な余生を送ったと伝えられる 13 。主家への「忠義」に殉じる道を選んだ親直と、武を捨てて「家」の血脈を文化の中に存続させる道を選んだ親辰。この対照的な二人の生き様は、戦国が終わり新たな秩序が形成される時代の転換期において、武士たちが直面した価値観の多様性と、それぞれの苦悩に満ちた選択を浮き彫りにしている。

第三章:大坂の陣と最後の奉公

浪人として雌伏の時を過ごしていた盛親と親直に、最後の奉公の機会が訪れる。慶長19年(1614年)、豊臣秀頼からの招きに応じ、長宗我部主従は主家再興の最後の望みをかけて大坂城へ入城した 24

翌慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣における屈指の激戦「八尾・若江の戦い」の火蓋が切られた 1 。長宗我部盛親率いる部隊は、徳川方の藤堂高虎軍と河内の地で激突する 26 。盛親は堤防に兵を伏せさせ、十分に引き付けたところで一斉に槍を突き出させるという戦術で、緒戦において藤堂勢の先鋒を壊滅させ、藤堂高刑をはじめとする多くの将兵を討ち取る目覚ましい戦果を挙げた 26

しかし、徳川方の井伊直孝率いる赤備えの精鋭部隊が来援すると、戦況は一変する。数に勝る幕府軍の猛攻の前に、奮戦していた長宗我部軍も次第に追い詰められていった。この乱戦の最中、佐竹親直は主君・盛親の馬前で奮戦し、力尽きて討死した 1 。その死は、滅びゆく主家への最後の忠義を尽くした、壮絶な最期であった。戒名は「心叟道空居士」と伝えられている 4

第三部:血脈の行方 ― 仙台藩に渡った妻子

佐竹親直は大坂の露と消えたが、彼の物語はここで終わらない。遺された妻・阿古姫と二人の息子が辿った数奇な運命は、土佐から遠く離れた奥州の地で、新たな歴史を紡ぎ出すことになる。

第一章:伊達政宗による庇護

慶長20年(1615年)5月、大坂城は炎に包まれ落城した。混乱の中、親直の妻・阿古姫は、長男・五十嵐元成(幼名:賀江蔵人)と次男・柴田朝意(幼名:輪丸)を連れて城を脱出するが、その途上で仙台藩主・伊達政宗の兵に捕らえられてしまう 2 。敵将の妻子として、本来であれば処刑されてもおかしくない状況であった。

しかし、伊達政宗は彼ら母子三人の助命を決断する 2 。阿古姫が示した気丈な態度と、その教養の深さ、弁舌の巧みさを政宗が高く評価したためと伝えられる 27 。これにより、阿古姫は侍女「中将」として、二人の息子は小姓として仙台藩に召し抱えられることになった 2

この政宗の裁断は、単なる温情や武士の情けとしてのみ解釈すべきではないだろう。そこには、政宗ならではの冷徹な政治的計算があった可能性も否定できない。阿古姫は、かつて四国を統一した長宗我部元親の娘である。その高貴な血筋は、政宗にとって利用価値のある「資産」であった。彼女らを庇護下に置くことで、西国の情報や人脈を手に入れること、そして何より、豊臣恩顧の有力大名であった長宗我部家の血統を自らの勢力圏に取り込むことで、天下における自らの権威を高めようという深謀遠慮があったとも考えられる。出自を問わず有能な人材を登用した政宗の実利主義的な性格が、この異例の助命に繋がったと見ることもできるだろう。

第二章:仙台藩士となった息子たち

伊達政宗の庇護のもと、佐竹親直の二人の息子は仙台藩士として新たな人生を歩み始める。彼らは父の血と母の教えを受け継ぎ、それぞれが仙台藩の歴史に確かな足跡を残した。

長男の五十嵐元成は、仙台藩の重臣であった五十嵐信濃の養子となり、その名跡を継いだ 8 。これにより、彼は仙台藩の上級家臣である「着座」の家格を持つに至り、父・親直の血脈は奥州の地に確固たる地位を築いた 28 。宮城県柴田町船岡にある大光寺の柴田家墓地には、弟・朝意の墓と共に、この元成の供養碑も現存しており、兄弟の絆の深さを今に伝えている 28

一方、次男の柴田朝意は、兄以上に劇的な生涯を送ることになる。幼名を輪丸、後に賀江忠次郎と名乗った彼は、跡継ぎのいなかった仙台藩重臣、米谷城主・柴田惣四郎宗朝の養嗣子として迎えられ、柴田朝意(後に外記と通称される)と名乗った 3

朝意は父譲りの武才と母譲りの知性を兼ね備え、藩内で順調に昇進を重ね、ついには他藩の家老に相当する奉行職にまで上り詰めた 30 。しかし、彼の運命が大きく動いたのは、寛文11年(1671年)に発生した仙台藩最大のお家騒動、世に言う「伊達騒動(寛文事件)」であった。藩の実権を巡る伊達一門と奉行衆の深刻な対立の中で、朝意は反・伊達宗勝派の重鎮として中心的な役割を担った。そして同年3月27日、幕府大老・酒井忠清邸で行われた関係者一同による審問の席で、事件は頂点に達する。対立派閥の筆頭であった原田宗輔が錯乱して抜刀し、斬りかかってきたのである。これに応戦した朝意は、原田宗輔を斬り伏せるも、自らも深手を負い、その日のうちに絶命した 1

この一連の出来事は、佐竹親直という一人の武将の生涯を考察する上で、極めて重要な意味を持つ。親直の最大の功績、そして彼が歴史に残した最も大きな遺産は、皮肉にも大坂の陣における自らの「死」そのものであったと言える。もし彼が生き永らえていたならば、あるいは主家を見限り隠棲の道を選んでいたならば、妻子が伊達政宗に捕らえられることも、その庇護を受けることもなかったであろう。そして何より、次男・朝意が仙台藩の重臣となり、日本史上でも名高いお家騒動の当事者として歴史に名を刻むという、予期せぬ未来は決して訪れなかった。

佐竹親直の物語は、土佐一国で完結するものではない。彼の忠義の死を起点として、その血脈は時と場所を超え、全く異なる舞台で、より大きな歴史のうねりを生み出したのである。これは、一個人の行動が意図せずして壮大な波及効果をもたらす、歴史の深遠さを示す好例と言えよう。


表3:佐竹親直の妻子と子孫の経歴

人物

続柄・幼名

養子先・役職

経歴・特記事項

阿古姫

長宗我部元親 三女

(親直の妻)

仙台藩 侍女(中将)

大坂落城後、伊達政宗に助命され、その教養を高く評価される。政宗の晩年まで近侍を務めた 2

五十嵐 元成

長男

(幼名:賀江蔵人)

仙台藩重臣 五十嵐信濃

(役職:着座)

養子として五十嵐家を継ぎ、上級家臣となる。仙台藩に親直の血脈を伝えた 8

柴田 朝意

次男

(幼名:輪丸、賀江忠次郎)

仙台藩重臣 柴田惣四郎宗朝

(役職:奉行、通称:外記)

奉行職にまで昇進。伊達騒動の中心人物の一人となり、酒井邸で原田宗輔と斬り合い、相討ちに近い形で死亡した 1


結論:佐竹親直が歴史に残した足跡

佐竹親直の生涯は、長宗我部元親の娘婿としての栄光、関ヶ原後の主家没落に伴う流浪、そして大坂の陣における最後の忠義という、まさしく戦国時代の終焉と近世の黎明期に生きた武士の縮図であった。彼の生き様は、滅びゆく主君に最後まで付き従うという、武士としての美学を貫いた一つの典型例として評価することができる。

しかし、彼の物語の真価と特異性は、その死後にこそ見出される。親直自身の「忠義の死」が、図らずも遺された妻子を新たな安住の地へと導き、その血脈が全く無縁であったはずの仙台藩の歴史に深く、そして劇的に刻まれるという数奇な運命を拓いた。父の死がなければ、息子・柴田朝意が伊達騒動の渦中に身を置くことはありえなかった。

この一点において、佐竹親直は単なる一地方の忠臣に留まらない。彼は、自らの死を通じて、土佐と奥州、長宗我部と伊達という、本来交わることのなかった二つの大きな歴史の流れを結びつける、稀有な「連結点」としての役割を果たしたのである。土佐に生まれ、大坂に散った武将、佐竹親直。彼は、その死によって遠い北の地に新たな物語の種を蒔いた、歴史の記憶に深く留めるべき人物であると言えよう。

引用文献

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  3. 柴田朝意 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%9C%9D%E6%84%8F
  4. 資料「土佐佐竹」 平成24年11月9日 佐竹敏彦 http://xn--08jeej2b3cxd.com/rekishi.htm
  5. カードリスト/長宗我部家/長009佐竹親直 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/1166.html
  6. 戦国大名事典 http://kitabatake.world.coocan.jp/sengoku8.html
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  8. 阿古姫とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%98%BF%E5%8F%A4%E5%A7%AB
  9. 佐竹氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
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  11. 【久礼城(高知県)】土佐佐竹氏もさすがは佐竹氏 https://ameblo.jp/shiroyaru/entry-12753274288.html
  12. ゲストは高知市環境政策課課長補佐の佐竹敏彦さんです。 https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/whatnew1/t-satake/t-satake4.html
  13. 久礼城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kure.htm
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