戦国時代の日本、とりわけ奥州の地は、中央の政権から遠く離れ、数多の豪族が割拠し、絶え間ない興亡を繰り返す動乱の舞台であった。伊達、蘆名、最上といった大名が覇を競う中、その狭間で自らの存亡を賭けて戦った中小の武士団もまた、この時代の重要な構成要素であった。本報告書で光を当てる佐藤好信(さとう よしのぶ)も、そうした激動の時代を生きた武将の一人である。相馬家の家臣として軍奉行という要職を務めながら、同僚の讒言によって失脚し、失意のうちに生涯を終えた彼の人生は、戦国武士の栄光と悲劇を色濃く映し出している。
本報告書は、佐藤好信という一人の武将の生涯を、現存する史料を基に詳細かつ徹底的に追跡するものである。第一部では、彼の出自から、岩城家臣としての時代、そして相馬家に仕えて武功を重ね栄達を極めるも、讒言によって没落するまでの波乱に満ちた生涯を描き出す。第二部では、好信の死後、父の仇を討つために伊達家へ走った次男・為信と、主家である相馬家に忠義を尽くして討死した長男・清信という、対照的な道を歩んだ二人の息子の運命を辿る。この一族の物語を通じて、戦国時代の南奥州における複雑な政治情勢、武士の忠義のあり方、そして乱世を生き抜こうとした人々の人間模様を深く掘り下げていく。
佐藤氏の起源は、平安時代中期の武将で、鎮守府将軍として名を馳せた藤原秀郷に遡るとされる 1 。その中でも、奥州佐藤氏は、源義経の忠実な家臣として屋島の戦いや衣川の戦いで壮絶な最期を遂げたことで知られる佐藤継信・忠信兄弟を祖と仰ぐ家系である 2 。『伊達世臣家譜』には、佐藤忠信から好信に至るまでの詳細な系譜が記されており、それによれば「忠信-信隆-安忠-安信-常信-正信-重信-長信-行信-隆信-重信-盛信-好信」と続く 2 。
この系譜が歴史的事実としてどこまで正確であるかを検証することは困難であるが、戦国時代において、自らの家系を権威ある英雄に繋げることは、一族の家格を高め、他の武士団に対する優位性を示すための重要な政治的戦略であった。特に、主君のために命を捧げた佐藤兄弟の物語は、武士の忠義の鑑として奥州の地で広く語り継がれており、その末裔を称することは、佐藤一族にとって大きな誇りであり、また実利的な意味を持つ無形の資産であったと言えよう。
信夫郡(現在の福島市周辺)を本拠とした佐藤氏は、鎌倉時代以降、その一族が奥州各地に広がり、留守氏や葛西氏、小野寺氏といった有力な御家人のもとで重用されるなど、地域の有力武士団として確固たる地位を築いていた 1 。佐藤好信の家系も、こうした流れの中で歴史の舞台に登場するのである。
好信が最初に仕えた岩城氏は、陸奥国磐城地方(現在の福島県浜通り南部)を拠点とする有力な戦国大名であった 2 。一方、相馬氏は、鎌倉時代に下総国から奥州行方郡に移住して以来、浜通り北部から中部にかけて勢力を拡大し、特に北隣の伊達氏とは領土を巡って長年にわたり熾烈な抗争を繰り広げていた 11 。
佐藤好信の生涯は、まさにこの岩城・相馬・伊達という三つの勢力が複雑に勢力争いを繰り広げる、地政学的に極めて不安定な地域で展開された。彼の主家替え、栄達、そして悲劇的な最期は、この三者間のパワーバランスの変化と密接に連動しており、彼の個人的な物語を理解するためには、このマクロな政治的・軍事的背景を常に念頭に置く必要がある。
表1:佐藤好信 関連年表
西暦(和暦) |
佐藤好信・一族の動向 |
関連する主家・周辺勢力の動向 |
典拠 |
1492年(明応元年) |
岩城氏家臣・佐藤盛信の子として誕生。 |
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2 |
天文年間(1532-1555年) |
岩城重隆が相馬顕胤に敗戦。これを機に、好信は相馬家に仕官する。 |
岩城氏と相馬氏が抗争。背景に伊達氏の天文の乱(1542-1548年)がある。 |
2 |
天文年間 |
相馬顕胤より標葉郡・行方郡に所領を与えられる。 |
相馬顕胤、伊達稙宗方として天文の乱に参戦。 |
2 |
時期不詳(盛胤の代) |
軍奉行に就任。磯部城主となる。 |
相馬盛胤が家督継承(1549年)。伊達氏との抗争が続く。 |
2 |
1563年(永禄6年) |
磯部城防衛戦で武功を挙げる。草野式部の乱で夜襲をかけ、六十余の首級を得る。 |
相馬家中で青田氏・草野氏が謀反。伊達勢が介入し磯部城を攻撃。 |
16 |
時期不詳 |
桑折左馬助の讒言により軍奉行を罷免され、知行を没収される。 |
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2 |
1579年(天正7年) |
2月10日、失意のうちに病死。享年88。 |
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2 |
1581年(天正9年) |
次男・為信が父の仇・桑折左馬助を小斎城で殺害し、伊達輝宗に寝返る。 |
伊達輝宗、為信に小斎1,000石を安堵し、一族の家格を与える。 |
2 |
1588年(天正16年) |
為信、郡山合戦で伊達方として相馬軍の侵攻を防ぐ。 |
伊達政宗と蘆名・佐竹連合軍が郡山で対陣。 |
18 |
1590年(天正18年) |
長男・清信が新地城合戦で相馬方として戦い、討死。 |
豊臣秀吉の小田原征伐。伊達政宗と相馬義胤が新地・駒ヶ嶺で対陣。 |
2 |
1591年(天正19年) |
為信、葛西大崎一揆鎮圧戦に従軍し、佐沼城で討死。 |
豊臣秀吉による奥州仕置。葛西大崎一揆が勃発。 |
18 |
表2:佐藤好信 関係人物一覧
人物名 |
読み仮名 |
続柄・役職 |
主要な事績・備考 |
典拠 |
佐藤好信 |
さとう よしのぶ |
本人 |
岩城家臣→相馬家臣。軍奉行、磯部城主。 |
2 |
佐藤清信 |
さとう きよのぶ |
好信の長男 |
相馬家に残留し、新地城合戦で討死。 |
2 |
佐藤為信 |
さとう ためのぶ |
好信の二男 |
伊達家に寝返り、小斎城主となる。 |
18 |
佐藤勝信 |
さとう かつのぶ |
為信の嫡男 |
小斎佐藤家を継ぎ、仙台藩士となる。 |
18 |
桑折(郡)左馬助 |
こおり(くわおり) さまのすけ |
好信の政敵 |
好信を讒言し失脚させるが、後に為信に討たれる。 |
2 |
岩城重隆 |
いわき しげたか |
好信の旧主君 |
岩城氏当主。相馬顕胤との戦いに敗れる。 |
8 |
相馬顕胤 |
そうま あきたね |
好信の主君 |
相馬氏14代当主。好信を家臣として迎える。 |
2 |
相馬盛胤 |
そうま もりたね |
好信の主君 |
相馬氏15代当主。好信を軍奉行に任じるが、後に讒言を信じ罷免。 |
2 |
相馬義胤 |
そうま よしたね |
盛胤の子 |
相馬氏16代当主。伊達政宗と激しく争う。 |
11 |
伊達輝宗 |
だて てるむね |
為信の主君 |
伊達氏17代当主。為信の内応を受け入れる。 |
18 |
伊達政宗 |
だて まさむね |
輝宗の子 |
伊達氏18代当主。奥州の覇者。 |
14 |
佐藤好信は、明応元年(1492年)、岩城氏の家臣であった佐藤盛信の子として生を受けた 2 。佐藤氏は、陸奥国岩崎郡船尾(現在の福島県いわき市常磐関船町および常磐下船尾町)を領する在地領主であり、南北朝の時代から岩城氏に仕えてきた譜代の家柄であった 2 。この船尾という地名は、古代の港湾である「船尾湊」に由来する可能性が指摘されており、佐藤一族が古くから海上交通に関わりの深い一族であったことを示唆している 24 。後年の史料ではあるが、佐藤氏が「岩城之船」と称され、水運において重要な役割を担っていたとの記述もあり、彼らが単なる陸上の武士団ではなく、海事に関する特殊な技能を持つ集団であった可能性は高い 24 。
好信の運命を大きく変えたのは、天文年間(1532年~1555年)に勃発した主家・岩城氏と隣国・相馬氏の間の大規模な紛争であった。この戦いの背景には、奥州の最大勢力であった伊達氏内部の深刻な対立、すなわち「天文の乱」(1542年~1548年)が影を落としていた。伊達家14代当主・稙宗とその嫡男・晴宗が家督を巡って争ったこの内乱は、奥州の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。この時、相馬氏当主・相馬顕胤は岳父である稙宗方に、岩城氏当主・岩城重隆は晴宗方に与したため、岩城・相馬間の戦いは、伊達氏の代理戦争という側面を色濃く帯びていたのである 22 。
複数の史料において、「天文年間、岩城重隆が隣国の相馬顕胤と戦って敗れ、佐藤一族は相馬家に帰属する」と記されていることから、この敗戦が佐藤氏の主家替えの直接的な契機となったことは明らかである 8 。戦国時代の武士にとって、主家の敗北は自らの領地の喪失、ひいては一族の滅亡に直結する死活問題であった。岩城氏の敗北により、佐藤氏の所領である船尾周辺が相馬氏の勢力圏に脅かされる状況となった際、好信が旧主への殉死ではなく、勝者である相馬氏への仕官という道を選んだのは、一族の存続と安泰を最優先する、極めて現実的かつ戦略的な判断であったと言えよう。これは、戦国武士の現実的な生存術の一典型を示すものである。
相馬家に仕えることとなった好信は、新たな主君・相馬顕胤からその能力を高く評価された。彼は標葉郡山田村(現在の双葉郡双葉町)と、行方郡の大亀・萱浜・雫の三か村(現在の南相馬市原町区)を合わせた四か村を所領として与えられ、相馬領内で新たな活動基盤を築くことに成功した 2 。この時、好信は通称として「伊勢」を名乗るようになる 2 。これは伊勢守といった官途名に由来するものか、あるいは当時武士の間で流行していた伊勢信仰に根差すものかは定かではないが、彼の武将としての新たなアイデンティティを象徴する名であった。
相馬顕胤が好信を重用した背景には、彼の武勇のみならず、佐藤一族が持つとされた海事の知識や技能への期待があった可能性が指摘できる。後に好信が城主となる磯部は、太平洋に面した潟湖・松川浦に位置する当時屈指の重要港であった 24 。相馬氏にとって、沿岸の制海権の確保と海上交易路の維持は、領国経営の生命線であった。顕胤は、旧領・船尾湊を拠点としていた佐藤氏の海運に関するノウハウを高く評価し、戦略的要衝である磯部の防衛と管理を託すに足る人材と見なしたのではないだろうか。好信の価値は、単なる陸戦の将に留まらず、経済と兵站を支える専門家としての側面にもあったと考えられる。
相馬家に新たな天地を見出した佐藤好信は、その期待に応えるかのように目覚ましい武功を重ね、家中でその地位を確固たるものにしていった。彼の活躍は、相馬氏が伊達氏との熾烈な生存競争を繰り広げる中で、不可欠な戦力として高く評価された。
好信は、相馬顕胤の子・盛胤の代には、軍事に関する総括責任者である「軍奉行」という重職に任命されている 2 。軍奉行とは、鎌倉・室町時代に起源を持つ役職で、戦陣において大将を補佐し、軍勢の編成や配置、兵糧の管理、軍功の査定、戦後の恩賞配分に至るまで、軍事に関する実務全般を統括する司令官級の役職であった 31 。この職に就くには、個人の武勇はもとより、軍全体を動かす戦略的思考と、複雑な実務を処理する能力が不可欠であった。外様家臣である好信がこの地位に抜擢されたという事実は、彼が相馬家中で比類なき信頼を得ていたことを雄弁に物語っている。
好信の武功は、宿敵・伊達氏との絶え間ない戦いの中でこそ、その輝きを増した。
数々の戦功により、好信は相馬盛胤から絶大な評価を受け、その所領は大幅に加増された。宇多郡内の磯部・蒲庭・柚木・日下石・立谷・富沢という六か村が新たに与えられ、名実ともに磯部城主としての地位を確立したのである 2 。当時の地誌である『奥相志』には、「小磯辺の旧館は、天文中、佐藤伊勢好信ここにおる。形勢卓然、東西五町余り、南北二町余り」と記されており、彼の居城が広大で威容を誇るものであったことが窺える 28 。
この頃、好信は自らが当初与えられていた行方郡の三か村を長男の清信に分与しており、一族の棟梁として、また相馬家中の有力重臣として、その栄華は頂点に達していた 2 。しかし、この目覚ましい栄達が、皮肉にも彼の晩年に暗い影を落とすことになる。外様家臣である好信の急激な台頭は、相馬家中の旧来の勢力図を揺るがし、譜代の家臣たちの間に嫉妬と警戒心を生む土壌を形成していったのである。
栄華を極めた佐藤好信の運命は、一人の男の嫉妬と讒言によって暗転する。彼の晩年は、戦国武将の非情な現実と、人間関係の複雑さがもたらす悲劇に彩られていた。
好信の前に立ちはだかった政敵の名は、桑折(あるいは郡)左馬助(こおり/くわおり さまのすけ)と記録されている 2 。史料によって「桑折」と「郡」の二つの表記が見られるが、これは同一人物を指すものと考えられている。桑折氏は伊達氏の一族にも見られる姓であり、彼が伊達氏と何らかの繋がりを持っていた可能性も否定できない 35 。一方で、後の時代の相馬藩の記録にも桑折姓や郡姓の家臣が見られることから、相馬家譜代の家臣であった可能性も十分に考えられる 37 。いずれにせよ、彼は好信の目覚ましい出世を快く思わず、その権勢を妬む人物であった。
左馬助は、主君・相馬盛胤に対し、好信に関する根も葉もない讒言を行った。その讒言の具体的な内容は、残念ながら史料には残されていない。しかし、その目的が好信の失脚にあったことは明らかである。彼は、好信が軍奉行として権力を握り、広大な領地を持つことを危険視し、盛胤にその忠誠心を疑わせるような虚偽の報告を吹き込んだのであろう。
問題は、主君である盛胤がこの讒言を信じてしまったことである。盛胤は、かつて青田信濃の讒言を信じて重臣の木幡盛清を粛清するという過ちを犯した過去があった 16 。この事実から、盛胤が家臣の言葉に左右されやすい性格であった可能性も考えられる。しかし、より深く考察すれば、別の側面も見えてくる。外様でありながら実力で台頭した好信の存在は、相馬家中のパワーバランスを崩しかねない危険性をはらんでいた。盛胤にとって、譜代家臣団の不満を代弁する左馬助の讒言は、功臣である好信を直接罰することなく、その強大になりすぎた力を削ぐための、政治的な口実として利用価値があったのかもしれない。つまり、この事件は単なる盛胤の暗愚さによるものではなく、譜代家臣団との均衡を保とうとする、主君の冷徹な政治判断の結果であった可能性も否定できないのである。
結果として、盛胤は好信を軍奉行の職から罷免し、加増した知行地のうち三か村を没収して、それを讒言した左馬助に与えるという非情な裁断を下した 2 。
好信を失脚させた左馬助は、その勢いに乗じて、好信の残された所領にまで侵入し、横暴な振る舞いを重ねたとされる 2 。長年にわたり主家のために戦い、多大な功績を挙げてきた好信にとって、この仕打ちは耐え難い屈辱であったに違いない。彼は左馬助への復讐を計画したが、その時すでに八十歳を超える高齢であり、老いと病のためにその志を遂げることはできなかった。
天正七年(1579年)二月十日、佐藤好信は、積年の功績を踏みにじられた無念と、晴らせぬ恨みを抱えたまま、煩悶のうちに病の床で息を引き取った。享年八十八であった 2 。彼の死は、一人の武将の悲劇であると同時に、実力主義がもたらす軋轢と、戦国大名の家臣団統制の難しさを物語る象徴的な出来事であった。しかし、この無念は、彼の息子たちによって、全く異なる形で晴らされることになる。
佐藤好信の悲劇的な死は、彼の一族の物語に終止符を打つものではなかった。むしろそれは、残された二人の息子、清信と為信が、それぞれ全く異なる形で父の無念と向き合い、自らの道を切り拓いていく新たな物語の序章であった。兄は主家への忠義を貫き、弟は父の復讐を果たすために主家を裏切る。この兄弟の分かたれた道は、戦国時代における「忠義」のあり方の複雑さを浮き彫りにし、佐藤一族の運命を伊達・相馬という二大勢力に跨る形で後世へと繋いでいくことになる。
父の無念を晴らすべく、劇的な復讐劇を演じたのが次男の佐藤為信(ためのぶ)であった。彼の行動は、一族の名誉を回復させると同時に、佐藤家を新たな主君のもとで繁栄させる礎を築いた。
為信は、通称を宮内、あるいは左衛門、紀伊などと称した 8 。彼は若い頃から父・好信や兄・清信と共に伊達氏との戦いで武功を重ね、その武勇は相馬家中でも高く評価されていた。特に、相馬氏が伊達領から奪取した伊具郡の要衝・小斎城の城代に任命されたことは、彼が将来を嘱望された武将であったことを示している 2 。
しかし、父・好信が讒言によって非業の死を遂げると、為信の心には主家・相馬氏への不信と、父を陥れた桑折左馬助への強い復讐心が芽生えた。『伊達世臣家譜』には、この復讐が父の遺命であったとも記されており、為信の行動が単なる私憤ではなく、家を継ぐ者としての責務感に根差していたことを示唆している 18 。
為信は好機を窺っていたところ、相馬氏と敵対する伊達輝宗から内応の誘いを受け、これを密かに受諾する 18 。そして天正九年(1581年)四月、運命の時が訪れる。父の仇である桑折左馬助が、援軍という名目で手勢を率いて小斎城に来訪したのである。為信はこの千載一遇の好機を逃さなかった。四月十一日の夜、為信は城内で兵を起こすと、自ら剣を振るい、油断していた左馬助とその配下数名を斬殺。父の無念を見事に晴らした 2 。
為信はそのまま小斎城ごと伊達方に寝返った。伊達輝宗はこの報に大いに喜び、為信を破格の待遇で迎えた。輝宗は為信に小斎周辺の知行1,000石を安堵するだけでなく、伊達家中でも最高の家格の一つである「一族」の待遇を与えたのである 8 。この厚遇は、単に復讐劇を称賛したからだけではない。伊達氏にとって、敵の最前線基地である小斎城を、その地理と防衛の要諦を知り尽くした有能な城代もろとも、一滴の血も流さずに手に入れたことの戦略的価値は計り知れないものであった。為信の復讐という個人的動機と、伊達氏の領土拡大という戦略的目標が完全に一致した結果が、この破格の待遇に繋がったのである。
伊達家臣となった為信は、その期待に応え、対相馬戦の最前線指揮官として目覚ましい活躍を見せる。
為信の忠勤は伊達政宗の代になっても変わらなかった。天正十九年(1591年)、豊臣秀吉の命による葛西大崎一揆鎮圧戦に従軍。しかし、同年六月二十四日、佐沼城(宮城県登米市)攻略の激戦の最中、兜の頂点にある八幡座を敵の矢に射抜かれ、戦場の露と消えた。享年六十であった 8 。
為信の死後、家督は嫡男の勝信が継承した 18 。勝信も父に劣らぬ勇将で、父の死の直後、佐沼城の戦いで奮戦し、政宗から賞賛されている 8 。こうして始まった小斎佐藤家は、江戸時代を通じて仙台藩の重臣として存続した。時には若年寄や奉行、家老といった藩政の中枢を担う人物も輩出し、伊具郡小斎の地を知行地として幕末まで治め続けたのである 8 。父・為信の決断は、一族に新たな繁栄をもたらす結果となった。
弟・為信が父の復讐と一族の新たな活路を求めて伊達家へ走ったのとは対照的に、長男の佐藤清信(きよのぶ)は、旧主・相馬家への忠義を貫き通す道を選んだ。彼の生き様は、戦国武士のもう一つの「義」の形を示している。
父・好信が讒言によって不遇の死を遂げ、弟・為信が伊達方へ寝返るという一族存亡の危機に際しても、清信は動じなかった。彼は父から行方郡の三か村を分与されており、相馬領内に生活の基盤を持っていた 2 。弟からの内応の誘いを断固として断り、たとえ主君に裏切られようとも、仕えた家への忠誠を尽くすことを選んだのである 2 。
この清信の選択は、為信の行動とは全く異なる価値観に基づいている。為信が優先したのは、不当な仕打ちによって汚された「家」の名誉回復であった。対して清信が重んじたのは、武士として仕える「主君」への奉公であった。どちらが正しいという単純な二元論では割り切れない、この兄弟の選択の相違は、戦国時代における「忠義」という概念が持つ二重性、すなわち「家への忠義」と「主君への忠義」の相克を象徴している。
清信の忠義が試される時が来たのは、天正十八年(1590年)のことである。この年、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、伊達政宗は小田原への参陣を余儀なくされた。この機を捉え、相馬義胤は伊達領への侵攻を開始。駒ヶ嶺城や新地城を巡って、両軍は激しい攻防を繰り広げた 11 。
同年四月二十三日、宇多郡新地での合戦において、清信は相馬軍の一翼を担い、伊達軍と激突した。この戦いで彼は奮戦するも、衆寡敵せず、ついに討死を遂げた 2 。その死は、弟・為信が伊達方として対相馬戦で戦功を重ねていたのとはあまりにも対照的であった。彼は自らの命をもって、主家への忠誠を証明したのである。
清信の死後、彼の子孫がどうなったかについて詳細な記録は少ない。しかし、弟・為信の系統である小斎佐藤家が仙台藩の重臣として名を馳せたのに対し、清信の家系は相馬中村藩の藩士として存続したと考えられる 19 。江戸時代の相馬藩の記録には、多くの佐藤姓の家臣の名が見られ、その中には清信の子孫も含まれていた可能性が高い 37 。
結果として、佐藤好信の二人の息子は、それぞれが信じる「義」に従って行動し、一方は伊達家、もう一方は相馬家という、敵対する二つの大名家で家名を存続させることになった。これは意図したものではなかったかもしれないが、どちらの勢力が最終的に生き残っても、佐藤一族の血脈は途絶えないという、一種のリスク分散として機能した。この一族の分裂と存続の物語は、戦国乱世を生き抜くための、もう一つの知恵の形を示していると言えるだろう。
佐藤好信の生涯は、戦国時代の奥州という一地方を舞台にした、一人の武将の栄光と悲劇の物語である。彼は、伊達政宗や上杉謙信のような、歴史の教科書を飾る英雄ではない。しかし、彼の人生と、その死後に分かたれた一族の運命を丹念に追うことは、我々に戦国という時代の本質をより深く、そして人間的な視点から理解させてくれる。
好信の人生は、まさに戦国武将の栄枯盛衰を体現していた。岩城氏の家臣から、敵対していた相馬氏へと主家を替え、そこで軍奉行という最高幹部にまで登りつめる。その実力主義に基づく栄達は、戦国乱世の醍醐味とも言える。しかし、その成功が故に同僚の嫉妬を買い、讒言という一本の矢によって全ての地位と名誉を奪われ、失意のうちに生涯を終える。彼の物語は、個人の武勇や才覚だけでは生き残れない、戦国社会の厳しさと非情さを我々に突きつける。
彼の死後、物語は二人の息子へと引き継がれる。父の仇を討つために主家を捨て、敵であった伊達家に走った次男・為信。彼はその復讐を成し遂げ、新たな主君のもとで戦功を重ね、一族を仙台藩の重臣へと導いた。一方、父が受けた屈辱に耐え、旧主・相馬家への忠義を貫き、伊達軍との戦いで命を落とした長男・清信。彼の家系もまた、相馬藩士として幕末まで続いた。この兄弟の対照的な生き様は、「主君への忠義」と「家への忠義」という、武士が抱える二つの価値観の相克を鮮やかに描き出している。
もし、あの讒言事件がなければ、佐藤一族の歴史はどうなっていただろうか。為信の武勇が相馬方として発揮されていれば、伊達氏との伊具郡を巡る攻防は、また違った様相を呈していたかもしれない。歴史に「もし」はないが、そうした想像を掻き立てるほど、佐藤好信とその一族の物語はドラマ性に満ちている。
結論として、佐藤好信は歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼の人生は、戦国時代の南奥州における地域権力の動態、武士社会の内部矛盾、そして乱世を生きる人々の複雑な人間模様を解き明かすための、貴重な鍵となる。彼の名は歴史の片隅に埋もれるかもしれないが、その生きた証は、大名たちの華々しい戦記の裏側で繰り広げられた、無数の人間ドラマの一つとして、今なお我々に多くのことを語りかけてくれるのである。