本報告書は、戦国時代の下野国(現在の栃木県)に勢力を誇った名族・佐野氏の第13代当主とされる佐野泰綱(さの やすつな)の生涯と、その歴史的実像を徹底的に解明することを目的とする。彼の治世は、関東地方が旧来の室町幕府・古河公方体制から、北条氏と上杉氏という二大勢力が覇を競う新たな戦国乱世へと移行する、まさにその転換期に位置している 1 。泰綱という一地方領主の生涯を丹念に追うことは、この激動の時代の関東地域政治史を、より深く、より具体的に理解する上で不可欠な作業である。
しかし、佐野泰綱に関する研究は、極めて大きな困難に直面する。それは、彼に関する史料が断片的であり、かつ相互に矛盾を抱えているという「史料の壁」である。特に、戦国時代の混乱の中で佐野氏が保有していた一次的な系図や記録の多くが失われたことは、後世に編纂された『佐野記』や『寛政重修諸家譜』といった二次史料における情報の錯綜を招く直接的な原因となった 2 。生没年、親子関係といった人物の根幹をなす情報でさえ、史料によって記述が異なり、一つの確定的な伝記を描くことを困難にしている。
したがって、本報告書では単一の物語を提示するのではなく、現存する複数の史料、すなわち『佐野記』、『寛政重修諸家譜』、『続群書類従』所収の系図、そして近年の研究成果などを網羅的に比較検討し、客観的な事実と諸説を慎重に整理・分析する手法をとる 2 。情報の不確実性そのものを歴史的文脈として捉え、なぜそのような矛盾が生じたのかを考察することで、記録の断片の向こう側にある泰綱の人物像、そして彼が生きた時代の真実に迫ることを目指す。本報告書は、史料批判に基づいた歴史学的分析を通じて、佐野泰綱という一人の武将の生涯を多角的に再構築する試みである。
佐野泰綱という人物を理解する上で、まず彼が率いた佐野氏そのものの特質を把握する必要がある。佐野氏の権力は、その高貴な「血筋」という文化的権威と、難攻不落の「城」という軍事的実力の両輪によって支えられていた。この二つの要素こそが、小規模な国人領主でありながら、大勢力が割拠する関東の地で独自の存在感を放つことを可能にした源泉であった。
佐野氏の出自は、平安時代に平将門の乱を鎮圧したことで知られる鎮守府将軍・藤原秀郷に遡る 3 。秀郷流藤原氏は関東に広く根を張り、その中でも特に名門とされたのが藤姓足利氏である 3 。佐野氏は、この藤姓足利氏の当主・足利有綱の子である基綱が、下野国安蘇郡佐野庄に土着し、佐野氏を称したことに始まるとされる 3 。室町幕府を創設した源姓足利氏とは系統を異にするが、同じ「足利」を名乗るこの一族は、関東において高い家格を誇る存在であった。この由緒ある家柄は、佐野氏が周辺の国人領主と渡り合う上での無形の権威として機能した。
その権威を軍事的に裏付けていたのが、本拠地である唐沢山城であった。標高約247メートルに位置するこの城は、関東平野を一望できる戦略的要衝に築かれた天然の要害である 6 。城は山頂の本丸を中心に、尾根上に複数の曲輪を連ねる「連郭式」の縄張りを持ち、その周囲は深い堀切や竪堀で固められていた 7 。特に、戦国後期から織豊期にかけて築かれたとみられる高石垣は、高さ8メートルを超え、当時の関東の山城としては異例の堅固さを誇った 7 。この難攻不落の城は、後に「関東七名城」の一つに数えられ、越後の上杉謙信による十数回に及ぶ猛攻を凌いだことで、その名を天下に轟かせた 5 。佐野氏の独立性は、この唐沢山城の圧倒的な防御力なくしては語れない。
このように、佐野氏は藤原秀郷以来の名門という「家格」と、関東一と謳われた「堅城」という二つの強力な基盤の上に、その勢力を築き上げていたのである。
佐野泰綱の生涯を研究する上で、避けては通れない最大の難問が、その出自、特に父と子の関係をめぐる系図の混乱である。戦国期の動乱で一次史料が失われた結果、後世の編纂史料はそれぞれに異なる系譜を伝えており、泰綱の正確な位置づけを特定することは極めて困難となっている 2 。
最も一般的に知られている説は、佐野氏第12代当主・佐野秀綱の嫡男として生まれ、後に佐野氏第14代当主・豊綱、第15代当主・昌綱、そして佐野家再興の祖となる房綱(天徳寺宝衍)の父となった、というものである 1 。しかし、この通説ですら、複数の史料を比較検討すると多くの矛盾点が浮かび上がる。
例えば、江戸時代に幕府が編纂した公式の系図集である『寛政重修諸家譜』は、通常、武家の系譜研究において重要な典拠とされる。しかし、佐野氏に関しては、編纂時点ですでに原本となる系図が失われており、口伝や記憶に頼らざるを得なかったため、その内容は必ずしも正確ではないことが指摘されている 2 。実際に、泰綱とその前後数代の当主の生没年には複数の説が存在し、親子関係を単純に当てはめると年代的な矛盾が生じるケースが見られる 11 。
この混乱を具体的に示すため、主要な史料における泰綱とその子とされる人物の関係性を以下の表に整理する。
表1:佐野泰綱 関係者系図の諸説比較
人物 |
通説・Wikipedia 1 |
『佐野記』・『下野国誌』系 11 |
佐野昌綱の出自に関する異説 12 |
佐野房綱の出自に関する異説 13 |
佐野秀綱 |
泰綱の父 |
泰綱の父 |
- |
- |
佐野泰綱 |
秀綱の嫡男。豊綱・昌綱・房綱の父。生没:1488年~1560年。 |
秀綱の子。豊綱の父。生没:1482年?~1560年。 |
昌綱の父。 |
豊綱・昌綱・房綱の父。 |
佐野豊綱 |
泰綱の長男。第14代当主。 |
泰綱の嫡男。第14代当主。昌綱の父。 |
泰綱の長男。昌綱の兄。 |
泰綱の長男。昌綱・房綱の兄。 |
佐野昌綱 |
泰綱の次男。第15代当主。 |
豊綱の子(泰綱の孫)。第15代当主。 |
豊綱の子(泰綱の甥)。 |
泰綱の次男。豊綱・房綱の弟。 |
佐野房綱 |
泰綱の三男。第18代当主。 |
泰綱の子。 |
- |
豊綱の子(泰綱の孫)。 |
この表が示すように、特に昌綱と房綱の出自については説が大きく分かれている。昌綱を泰綱の次男とする説もあれば、甥(豊綱の子)とする説もある 12 。同様に、後に豊臣秀吉のもとで活躍する房綱(天徳寺宝衍)も、泰綱の子とする説と、豊綱の子(泰綱の孫)とする説が並立している 13 。
このような系図の混乱は、単なる記録の誤りというだけでなく、戦国時代の佐野氏内部で複雑な家督相続、例えば庶子による継承や有力な一族からの養子縁組などが行われ、後世の編纂者がそれを単純な父子継承の形に整えようとした結果生じた可能性を示唆している。
本報告書では、これ以降の記述において、最も広く受け入れられている「泰綱が豊綱・昌綱・房綱の父である」という説をひとまずの作業仮説として採用する。しかし、その背後には数多くの未解決な疑問点が存在することを常に念頭に置く必要がある。この「不確実性」こそが、佐野泰綱という人物を巡る歴史研究の現状そのものなのである。
佐野泰綱の治世は、関東が本格的な戦国乱世に突入する前の、比較的安定した時期であったと推察される。彼は父・秀綱から家督を継承し、下野国における有力な国人領主として、巧みな領国経営を行った。
その統治理念の根幹には、父・秀綱が残したとされる十二箇条の家訓があったと考えられる 15 。この家訓には、「母のいうことをよく聞け」「一生懸命に奉公せよ」「無駄な寄合をするな」といった基本的な心構えから、「馬は肥やし、身は痩せるほどに勤むべし」「戯れにても偽りを言うべからず」といった武士としての厳格な自己規律までが説かれている 16 。泰綱は、この家訓に示されるような質実剛健な価値観を継承し、一族と家臣団を厳しく律することで、乱世を乗り切るための強固な組織基盤を築こうとしたのであろう。
外交面では、主君である古河公方の足利高基、次いで晴氏に仕えた 1 。しかし、当時の古河公方の権威はすでに衰退しつつあり、泰綱は公方との主従関係を維持しつつも、その権威を巧みに利用して下野国に自立的な勢力圏を確立していった。これは、旧来の室町幕府・古河公方体制という古い秩序の中で力を蓄え、来るべき新時代に備える、当時の有力な国人領主に見られた典型的な行動様式であった。
領国経営や寺社政策に関する具体的な発給文書は乏しいものの、一族の菩提寺である曹洞宗本光寺との関係は深かったと見られる 1 。泰綱の墓所もこの本光寺にあり 1 、彼の治世を通じて寺社勢力との安定した関係が維持されていたことが窺える。後述する文化活動への傾倒も、領国が安定し、相応の経済的基盤がなければ不可能なことであった。泰綱の治世は、次代の昌綱が北条・上杉という二大勢力と渡り合うための、政治的・経済的な土台を築いた重要な時代であったと評価できる。
佐野泰綱の人物像を語る上で特筆すべきは、彼が武人であると同時に、高い教養と文化的関心を備えた風雅な領主であった点である。その象徴的な出来事が、永正6年(1509年)に当代随一の文化人であった連歌師・宗長を佐野の地に招いたことである。
宗長が自身の紀行文『東路の津登』に記したところによれば、関東を旅していた彼は佐野氏の当主であった泰綱の館に招かれ、数日間にわたって滞在した 1 。泰綱は家臣らと共に宗長を歓待し、連歌会を催している 16 。連歌は、複数の詠み人が和歌の上の句と下の句を交互に詠み繋いでいくもので、当時、京都の公家や武家の間で流行していた最先端の文化であった。
この出来事は、単に泰綱個人の趣味や教養を示すに留まらない、深い政治的・文化的意義を持っていた。第一に、宗長のような一流の文化人を招聘し、数日間にわたり歓待できることは、佐野氏の経済的な豊かさと領国の安定性を内外に誇示する絶好の機会であった。第二に、京都を中心とする中央の文化と直接通じていることを示すことで、他の地方領主に対する優位性を確立し、佐野氏の「家格」を一層高める効果があった。戦国時代の武将にとって、軍事力だけでなく文化的な権威もまた、その支配を正当化する重要な要素だったのである。
宗長は佐野に6日間滞在した後、北へと旅を続けたが、帰路にも再び佐野に立ち寄り、今度は7日間も滞在している 16 。この事実は、泰綱をはじめとする佐野一族の歓待が、宗長にとって非常に心地よいものであったことを物語っている。戦国の厳しい日常の中にあっても、文化的な営みを求め、それを享受する精神的な余裕を失わなかった泰綱の姿は、彼が築いた治世の安定を何よりも雄弁に物語っている 16 。彼は軍事力のみに頼るのではなく、文化のパトロンとして振る舞うことで自らの権威を高める「ソフトパワー」を巧みに行使した、洗練された領主であったと言えよう。
順風満帆に見えた佐野泰綱の治世であったが、その最晩年には佐野家の根幹を揺るがす二つの大きな危機が立て続けに襲いかかった。その一つが、永禄2年(1559年)に勃発した、重臣・赤見伊賀守(あかみ いがのかみ)による謀反である。
諸記録によれば、この年、家臣である赤見伊賀守が主家である佐野氏に背き、その居城である赤見城に立てこもった 18 。これに対し、当主である泰綱は自ら軍を率いて赤見城を攻撃し、激戦の末にこれを鎮圧、伊賀守を常陸国(現在の茨城県)へと追放した 18 。赤見氏は佐野氏の重要な支城である赤見城を任される有力な一族であり、その反乱は佐野家にとって軽視できない重大事件であった 21 。
この謀反の背景には、単なる家臣の個人的な野心や不満だけでは説明できない、より深刻な要因が存在した可能性が指摘されている。その鍵を握るのが、乱の前年に起きた「多功ヶ原(たこうがはら)の戦い」である。永禄元年(1558年)、佐野氏は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵に際し、その先鋒として宇都宮氏の領地へ侵攻した。しかし、宇都宮方の猛将・多功長朝の奮戦の前に苦戦を強いられ、佐野軍の大将であった「佐野小太郎」が討死するという手痛い敗北を喫した 22 。
『佐野記』などの軍記物はこの討死した「佐野小太郎」について、泰綱の嫡男であり、家督を継ぐはずであった佐野豊綱その人であったと示唆している 11 。もしこの説が事実であるならば、赤見伊賀守の乱は全く異なる文脈の中に位置づけられることになる。すなわち、
①1558年に後継者である豊綱が戦死し、佐野家の指導力に深刻な動揺と権力の空白が生じた。②1559年、この好機を捉えた有力家臣の赤見伊賀守が、佐野家の弱体化を見越して独立を画策し、反旗を翻した 、という一連の因果関係が浮かび上がるのである。
この見方に立てば、赤見伊賀守の乱は、泰綱の晩年を襲った悲劇的な後継者の死という第一の危機に連鎖して発生した、第二の危機であったと言える。嫡男を失い、さらに信頼していたはずの重臣にまで裏切られるという二重の苦難に見舞われながらも、老齢の泰綱は自ら陣頭に立ってこの難局を乗り越えた。彼の領主としての強靭な精神力が窺える逸話である。
なお、乱後に追放された赤見氏であったが、次代の昌綱の時代には帰参を許されている。そして、後の佐野家の家督争いにおいては、北条氏に反発する勢力の中核を担い、佐野房綱を助けて佐野家の再興に尽力するなど、依然として家中で重要な役割を果たし続けた 21 。このことからも、彼らの謀反が佐野家の歴史においていかに大きな画期であったかが理解できる。
佐野泰綱の晩年にあたる弘治・永禄年間(1555年~1560年)は、関東の政治情勢が根底から覆る、まさに激動の時代の幕開けであった。長らく関東の公的秩序を担ってきた古河公方体制は、内紛と権威の失墜により完全に形骸化していた。その権力の空白を埋めるかのように、南からは相模の北条氏康が、北からは越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が、それぞれ急速に勢力を拡大し、関東の覇権をめぐる両者の激突はもはや避けられない状況となっていた 25 。
この時期、北条氏康は巧みな内政と軍事行動で武蔵国へと進出、関東管領上杉氏を越後へ追いやるなど、その勢力圏を着実に広げていた 27 。一方、上杉憲政を保護した長尾景虎もまた、関東管領職の継承を大義名分として、関東への介入を本格化させていた 30 。下野国に位置する佐野氏は、この二つの巨大勢力が衝突する最前線に立たされる運命にあった。
泰綱の治世は、この北条・上杉の角逐が本格化する直前に終わりを迎える。しかし、彼の治世の末期である永禄元年(1558年)の多功ヶ原の戦いにおいて、佐野氏が長尾景虎の先鋒として参陣したという事実は、すでに関東の国人領主たちが否応なくどちらかの陣営に組み込まれつつあったことを明確に示している 22 。泰綱の死は、佐野氏にとって一つの時代の終わりを象徴する出来事であった。彼が維持してきた、古河公方を中心とする旧来の秩序の中での比較的安定した時代は終わりを告げ、次代の昌綱は、北条・上杉という二大勢力の間で、降伏と離反を繰り返しながら生き残りを図るという、より過酷な戦国乱世の現実に直面することになるのである。その意味で、泰綱は旧時代の秩序の中で勢力を保った最後の当主であり、彼の治世は、来るべき激動の時代の「序章」であったと位置づけることができる。
数々の功績と苦難の末、佐野泰綱は永禄3年(1560年)1月29日にその72年の生涯を閉じた 1 。彼の亡骸は、一族の菩提寺である佐野市栃本町の曹洞宗本光寺に葬られ、法名は「東根院殿渓唯禅大居士」と贈られた 1 。
晩年は高齢であったことから、史料によっては1550年頃には隠居し、嫡男の豊綱に家督を譲っていたとする説もある 11 。しかし、前述の通り、永禄2年(1559年)の「赤見伊賀守の乱」を自ら鎮圧していることから、最晩年まで実権を掌握し続けていたか、あるいは後継者・豊綱の死という非常事態を受けて、再び政務の第一線に復帰していた可能性が高いと考えられる。
泰綱が後世に残した最大の遺産は、彼の子らであった。彼らはそれぞれ異なる才能を開花させ、父の死後、佐野家を襲うさらなる激動の時代を乗り越えていく。
長男(あるいは嫡男)とされる 佐野豊綱 は、多功ヶ原で悲劇的な戦死を遂げたとされるが、その死は佐野家の歴史に大きな影響を与えた 11 。
家督を継いだ 佐野昌綱 は、父の築いた基盤の上に、知勇兼備の名将としてその名を馳せる。彼は難攻不落の唐沢山城を巧みに活用し、巧みな外交戦略を駆使して、当時最強と謳われた上杉謙信の度重なる猛攻を凌ぎきった 12 。その粘り強い抵抗は、小大名が大勢力に伍していく戦国時代の生存戦略の典型例として高く評価されている。
そして、三男とされる**佐野房綱(天徳寺宝衍)**は、兄たちとは全く異なる道で佐野家を支えた。彼は若くして仏門に入り「天徳寺宝衍」と号したが、その枠に収まらず、武者修行で諸国を巡り、織田信長や豊臣秀吉といった中央政権の要人と深く通じる傑出した外交僧となった 13 。後に佐野家が北条氏に乗っ取られた際には、秀吉の力を借りてこれを奪還し、見事に家名を再興させた 14 。彼の存在なくして、近世大名としての佐野家の存続はあり得なかったであろう。
泰綱が築いた安定した領国と高い家格は、昌綱の軍事的な抵抗と房綱の外交的な活躍の確かな土台となった。一方で、彼の治世の末期に顕在化した家中の対立の芽、すなわち赤見氏の反乱に象徴されるような内部分裂の危険性もまた、次世代へと引き継がれる負の遺産となった。泰綱の死後、佐野家臣団は親北条派と反北条(上杉・佐竹)派に分かれて激しく対立することになるが、その源流は泰綱の時代にすでに見て取ることができるのである。
佐野泰綱は、これまで一部の郷土史家や戦国史愛好家を除いて、その名が広く知られることは少なかった。史料の錯綜から、単なる系図上の一人物として扱われることも少なくなかった。しかし、本報告書で見てきたように、断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせることで、彼の歴史的な重要性と魅力的な人物像が浮かび上がってくる。
第一に、泰綱は戦国時代前期の関東において、卓越した手腕を持つ有能な領主であった。彼は藤姓足利氏という名門の権威を背景に、堅城・唐沢山城を拠点として安定した領国経営を行い、一族の勢力を維持・発展させた。さらに、連歌師・宗長を招くなど、中央の文化を積極的に導入することで、地方領主としての自らの権威を高める文化政策も巧みに展開した。
第二に、彼の生涯は、戦国国人領主が直面した栄光と苦悩を凝縮している。安定した治世を築き上げた一方で、その晩年には後継者である嫡男の戦死と、それに連鎖する形での有力家臣の謀反という、一族の存亡に関わる深刻な危機に直面した。老齢を押してこの難局を乗り越えた彼の姿は、乱世を生きる武将の強靭な意志を我々に示している。
第三に、泰綱は関東の歴史における大きな転換点に生きた、象徴的な人物である。彼の治世は、古河公方を中心とする中世的な政治秩序がまだ機能していた最後の時代であった。彼の死の直後から、佐野氏は北条氏と上杉氏という二大勢力の激しい角逐の渦中に本格的に投じられていく。泰綱の生涯は、旧秩序の黄昏と新時代の黎明の狭間で、自立を模索し、生き残りを図った地方豪族の運命そのものを体現しているのである。
佐野泰綱は、決して歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼の築いた基盤があったからこそ、子の昌綱は上杉謙信と渡り合い、房綱は豊臣秀吉と通じることができた。彼の存在なくして、戦国後期の佐野氏の活躍は語れない。佐野泰綱は、関東戦国史の序章を力強く生きた、再評価されるべき重要な人物であると言えよう。
佐野泰綱は「修理亮(しゅりのすけ)」という官職を称していたことが記録されている 1 。この官職が当時の武家社会においてどのような意味を持っていたかを補足する。
「修理職(しゅりしき)」とは、日本の律令制において、宮内省に属し、宮殿や官庁の建物の修理・造営を掌った役所である 36 。その職員は、長官である大夫(たいふ)、次官である亮(すけ)、三等官である進(じょう)、四等官である属(さかん)などで構成されていた 37 。泰綱が称した「修理亮」は、この修理職の次官であり、その官位相当は従五位下と定められていた 37 。これは、朝廷の位階制度において貴族の仲間入りを果たす重要な位であり、武家社会においても相応の格式を示すものであった。
戦国時代に入ると、これらの律令官職は本来の行政的な実務機能を失い、武士の序列や家格を示すための名誉的な称号としての性格を強めていった 39 。大名や有力な国人領主は、朝廷や幕府、あるいは関東における古河公方などへの貢献や献金の見返りとして官位を授けられることで、自らの支配の正当性を内外に示したのである 39 。
したがって、佐野泰綱が「修理亮」という官位を名乗っていたことは、彼が単なる一地方の武力勢力ではなく、古河公方を通じて、あるいは直接的に朝廷からその地位を公的に認められた、権威ある領主であったことを示唆している。この官位は、佐野氏が藤姓足利氏という名門の系譜に連なる高い家格を持つ一族であったことを、公的な形で裏付けるものであったと言えるだろう。