戦国時代の中国地方に覇を唱えた毛利元就。その空前の偉業は、稀代の智将と称された元就自身の智謀や、陸上における数多の合戦での勝利によって成し遂げられたと語られることが多い。しかし、その覇業の根幹を支えたもう一つの、そしてしばしば決定的な要因となった力の存在を見過ごしてはならない。それは、瀬戸内海の制海権を掌握した強力な水軍の存在である。天文24年(1555年)の厳島の戦いをはじめ、毛利氏の命運を左右した幾多の局面において、海上戦力は勝敗を分かつ決定的な鍵であった 1 。
この毛利氏の海洋戦略を支え、その水軍力の中核を成した一人の武将がいた。その名は児玉就方(こだま なりかた)。彼は、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕え、毛利水軍の司令官としてその発展と勝利に生涯を捧げた。しかしながら、その功績の大きさにもかかわらず、彼の名は吉川元春や小早川隆景といった「毛利両川」のあまりにも輝かしい名声の陰に隠れ、十分に光が当てられてきたとは言い難い。本報告書は、この知られざる智勇の将、児玉就方の出自からその生涯、武功、さらには行政官としての一面、そして後世に与えた影響に至るまでを多角的に掘り下げ、毛利氏の覇業における彼の真の歴史的価値を再評価するものである。
児玉就方の家系を遡ると、その源流は遠く関東の地に求められる。平安時代後期から鎌倉時代にかけ、武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で大きな勢力を誇った同族的な武士団連合「武蔵七党」の中でも、特に中心的かつ最大規模の勢力であった児玉党がその祖である 3 。児玉党は有道氏(ありみちし)を本姓とし、その子孫である児玉惟行(こだま これゆき)が武蔵国児玉郡児玉庄(現在の埼玉県本庄市児玉町周辺)に住んで児玉氏を称したことに始まるとされる 3 。一族は神流川流域を中心に勢力を広げ、源平の争乱期には庄氏を名乗る分家が党首を務めるなど、関東の有力武士団としてその名を轟かせた 3 。
一族の運命を大きく変える転機が訪れたのは、鎌倉時代の承久3年(1221年)に起こった承久の乱であった。この乱において、児玉氏の一族は幕府方として参陣し、山城国宇治川の合戦などで戦功を挙げた 3 。この功績により、幕府から恩賞として安芸国豊田郡竹仁村(現在の広島県東広島市福富町)の地頭職を与えられたのである 3 。これを機に、一族の一部が武蔵国から安芸国へ下向し、在地領主として根を下ろした。これが安芸児玉氏の始まりであり、就方の直接の祖先となる。以後、鎌倉、室町時代を通じて、安芸児玉氏は安芸国の国人領主としてその基盤を固めていった。
戦国時代に入り、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利氏が、当主・毛利元就のもとで急速に台頭を始めると、安芸児玉氏もその家臣団に組み込まれていく。就方の父である児玉元実(こだま もとざね)は、元就の父・弘元、兄・興元、そして元就の代まで仕えた宿老であった 6 。元実には三人の息子がおり、長兄の児玉就兼(なりかね)、次兄の児玉就忠(なりただ)、そして三男が本作の主題である就方である 6 。
この兄弟の存在は、勃興期の毛利家にとって極めて重要な意味を持っていた。次兄の就忠は、早くからその卓越した行政手腕を元就に見出され、「家中での人あたりもよく行政手腕に優れている」と高く評価された 8 。彼は桂元忠らと共に奉行職の中核を担い、毛利氏の政務を取り仕切る中心人物の一人となった 8 。一方で、三男の就方は武勇に優れた猛将としての道を歩み始める 6 。この「文」の就忠と「武」の就方という兄弟間の明確な役割分担は、単なる個人の資質の違いに留まらない。勢力を急拡大する毛利家が、軍事と行政の両面で有能な専門家集団を渇望していたことの現れであり、児玉家は一族を挙げてその需要に応えたのである。この初期の役割分担は、毛利家中における児玉一族の地位を不動のものとし、特に就方にとっては、自らの武勇を存分に発揮する土壌となると同時に、彼の生涯を方向づける重要な出発点となった。
児玉就方は永正10年(1513年)、児玉元実の三男として生まれた 6 。彼が毛利元就の側近として本格的にキャリアをスタートさせるきっかけは、既に奉行として元就から絶大な信頼を得ていた次兄・就忠の推挙によるものであった 6 。これは、児玉一族が家中で強い影響力を持っていたこと、そして兄弟間の連携が機能していたことを示す逸話である。通称を与八郎と称した就方は、こうして元就の家臣団に名を連ねることになった 6 。
兄が行政官僚として地歩を固める一方、就方は生粋の武人として頭角を現す。天文5年(1536年)、安芸国生田城攻めにおいて、就方は敵の首級を一つ挙げるという武功を立てた。この働きに対し、元就は自ら感状を授与してその功を賞した 6 。この初陣での鮮烈な功名により、彼の武勇は家中広く知られるところとなり、武将としてのキャリアを華々しく歩み始めたのである。
しかし、その血気盛んな気性は、時に危うさも孕んでいた。天文9年(1540年)から翌10年(1541年)にかけ、出雲の尼子詮久(後の晴久)が三万の大軍を率いて毛利氏の本拠地・吉田郡山城に攻め寄せた(吉田郡山城の戦い) 13 。毛利方はわずか数千の兵で籠城し、絶体絶命の危機に陥る。この国家存亡の戦いに、就方も一人の将として参加していた 11 。
この籠城戦の最中、就方は功を焦るあまり軍令を破り、単独で城から討って出る「抜け駆け」という行為に及んだ 6 。これは個人の勇猛さを示す行為ではあるが、全体の統制を重んじる大将の視点からは、作戦を崩壊させかねない重大な軍律違反であった。案の定、この行動は元就の逆鱗に触れ、就方は厳しく戒められると共に、20日余りにわたる出仕停止という重い処分を科されたのである 6 。
この一件は、単なる若武者の過ちとして片付けることはできない。重要なのは、元就が軍律を破った就方を厳罰に処しながらも、決して見捨てなかった点にある。元就は就方の比類なき勇猛さを高く評価しつつも、それが組織的な戦闘においては統制を欠いた「諸刃の剣」となり得ることを深く理解していた。したがって、この処分は単なる懲罰ではなく、一個人の武勇がいかに優れていようとも、大将の指揮下で統率された組織力には及ばないという、将帥としての鉄則を体に刻み込ませるための教育的措置であったと解釈できる。この時の苦い経験と元就からの叱責は、就方にとって大きな転機となった。彼は個人の武功を誇る一兵卒から、大局を見据え、部隊を率いて戦う指揮官へと成長していく。後に毛利水軍を率いて見せる冷静沈着な指揮ぶりは、まさしくこの時の痛烈な教訓が血肉となった結果に他ならない。この事件は、就方のキャリアにおける最初の、そして最も重要な試練だったのである。
「抜け駆け」事件から約10年後の天文20年(1551年)、児玉就方の武将としてのキャリアは新たな段階へと移行する。この年、毛利元就は長年の宿敵であった安芸武田氏を滅ぼし、広島湾岸一帯を完全にその支配下に置いた 16 。この戦略的勝利に伴い、元就は極めて重要な人事を断行する。それは、安芸武田氏の水軍拠点であり、広島湾の制海権を握る上で死活的に重要な拠点であった草津城(現在の広島市西区)の城主に、児玉就方を任命したことであった 6 。
草津城は、西に厳島、南に能美島・江田島を望み、東には後の広島城下となるデルタ地帯が広がる、まさに広島湾の喉元に位置する天然の要害であった 19 。この地を抑えることは、瀬戸内海の西国航路を監視し、毛利氏の勢力圏を防衛する上で不可欠であり、就方の入城は、毛利氏が本格的な海洋戦略へと乗り出す狼煙であった 21 。
就方に与えられた任務は、単に城を守ることではなかった。元就は、旧安芸武田氏配下で太田川下流域を拠点としていた水軍勢力「川内警固衆(かわのうちけごしゅう)」を再編し、その統率を就方に一任したのである 6 。この川内警固衆には、福井氏や山県氏といった武田氏の旧臣たちが多数含まれていた 16 。つまり、就方の役割は、昨日までの敵を味方としてまとめ上げ、毛利氏に忠誠を誓う精強な水軍部隊へと変革するという、高度な統率力と政治的手腕が要求される困難なものであった。就方は、譜代の家臣である飯田義武らと共にこの任務にあたり、見事に旧武田水軍を毛利体制へと組み込むことに成功した 16 。
毛利水軍と言えば、伊予の村上水軍(能島・来島・因島)が広く知られているが、彼らはあくまで独立性の高い同盟者であり、その動向は常に毛利氏の意のままになるわけではなかった。これに対し、児玉就方が率いた川内警固衆は、毛利氏当主が直接指揮命令を下すことのできる、文字通りの「直轄水軍」であった。この直轄部隊の存在こそが、毛利氏の戦略の自由度を飛躍的に高めることになる。
就方は、この直轄水軍の司令官として、単に戦闘を指揮するだけでなく、毛利家中枢からの作戦命令を麾下の警固衆に伝達し、逆に彼らの戦功(軍忠)を取りまとめて元就に上申するなど、水軍全体の指揮・行政系統の中枢を担った 6 。強力な同盟者に依存するだけでなく、自前の信頼できる海上戦力を持つことの重要性を元就は熟知しており、その組織的な基盤をゼロから築き上げたのが児玉就方であった。彼はまさしく、毛利氏が安芸の一国人から「海の大名」へと変貌を遂げるための礎を築いた、毛利水軍創設の功労者として評価されるべきである。
表1:児玉就方指揮下の毛利水軍(川内警固衆)の構成
項目 |
内容 |
典拠 |
統括指揮官 |
児玉就方(通称:与八郎、官位:内蔵丞、周防守) |
6 |
主要な将 |
飯田義武、山県就相、福井元信 |
2 |
中核勢力 |
旧安芸武田氏配下の水軍衆(福井氏、山県氏、福島氏、熊野氏など) |
6 |
譜代家臣 |
児玉氏・飯田氏配下の家臣団 |
16 |
主要拠点 |
安芸国 草津城(広島湾) |
17 |
主な役割 |
海上戦闘、兵站輸送(兵糧・武具)、海上警備、作戦命令伝達、軍功上申 |
6 |
草津城主となり、毛利氏直属の水軍を掌握した児玉就方の名は、以後、毛利氏が繰り広げる数多の大海戦において轟くことになる。彼の指揮のもと、毛利水軍は瀬戸内海から日本海、そして九州沿岸に至るまで、縦横無尽の活躍を見せた。
天文24年(1555年)、毛利元就の生涯における最大の賭けとも言える厳島の戦いが勃発する。この戦いにおいて、児玉就方率いる水軍が果たした役割はまさに決定的であった。作戦の第一段階として、元就は陶晴賢の大軍を狭い厳島におびき寄せるため、島の宮尾城に砦を築かせた。この際、城の防備を固めるための兵員や、籠城に不可欠な兵糧・武具を敵の海上封鎖をかいくぐって輸送するという兵站任務を完遂したのが、就方の水軍であった 24 。
そして決戦前夜、暴風雨の闇に紛れて元就の本隊が厳島へ奇襲上陸を敢行した際、その渡海作戦を成功させたのもまた、就方ら川内警固衆と、味方につけた村上水軍であった 2 。彼らの操船技術と勇敢さなくして、この奇跡的な作戦の成功はあり得なかった。就方はこの歴史的な戦いにおいて、兵站と輸送という作戦の根幹を担い、毛利氏に世紀の勝利をもたらす立役者の一人となった。この勝利によって大内氏は事実上崩壊し、毛利氏が周防・長門へと進出する道が開かれたことで、就方と彼が率いる水軍の評価は不動のものとなった 24 。
大内氏滅亡後、毛利氏の次なる敵は、北九州に広大な勢力を持つ豊後の大友宗麟(義鎮)であった。永禄4年(1561年)、関門海峡の要衝である門司城の支配を巡り、両者は激しく衝突する(門司城の戦い)。この戦いで、就方は再び水軍を率いて出陣し、その真価を発揮した 25 。
豊前国沖で繰り広げられた海戦において、就方の部隊は大友水軍を果敢に攻撃し、「敵の首級7つ、生け捕り13名、馬5匹、敵船8艘を捕獲」という具体的な戦果を挙げたことが記録されている 6 。さらに、小早川隆景の指揮下、乃美宗勝ら小早川水軍と巧みに連携し、大友軍の背後にあたる豊後沿岸を襲撃して補給路を脅かすなど、陸戦と連動した高度な海陸協同作戦を展開した 26 。これにより大友軍は兵站を断たれて苦境に陥り、毛利方は門司城の確保に成功した。この戦いは、就方が単なる海の武者ではなく、大局的な戦略眼を持った戦術家であったことを証明している。
毛利氏の勢力圏は瀬戸内海を越え、四国にまで及んでいた。永禄10年(1567年)から翌11年にかけて、毛利氏は同盟関係にあった伊予の河野氏を支援するため、大規模な軍勢を四国へ派遣した。この伊予出兵において、就方は水軍の将として従軍し、河野氏と敵対する土佐一条氏や伊予宇都宮氏との戦いに参加した 6 。
この遠征は、海を越えた大規模な軍事行動であり、その遂行には水軍による兵員・物資の安全な輸送が絶対条件であった。就方はこの重責を担い、作戦を兵站面から支えた。また、彼は小早川隆景や吉川元春といった毛利家の中枢を担う将帥たちと軍議を重ね、九州方面に展開していた兵力を伊予へ転用するという戦略決定にも関与している 29 。この事実は、就方が単なる一司令官に留まらず、方面軍全体の戦略立案にも参画するほどの信頼と地位を確立していたことを示している。
元亀元年(1570年)頃、宿敵・尼子氏の再興を目指す山中幸盛(鹿介)らが挙兵すると、毛利氏は再び総力を挙げてその鎮圧にあたった。この戦いで、就方は活動の舞台を瀬戸内海から日本海へと移す。彼は水軍を率いて出雲国へ進出し、島根郡の加賀浦や森山といった日本海沿岸で尼子方の水軍と交戦した 6 。
この海戦において、就方は尼子方の兵糧輸送船を数艘拿捕するという戦果を挙げ、敵の兵站を断つ上で重要な役割を果たした 6 。瀬戸内海とは潮流も海象も異なる日本海で、これだけの作戦行動を成功させたことは、就方が率いる水軍が、いかなる海域にも対応できる高い練度と柔軟な運用能力を保持していたことの証左である。この戦いでは、息子の児玉就英も水軍の主力として活躍しており、児玉家が担う毛利水軍指揮官という役割が、次世代へと着実に継承されつつあったことが窺える 30 。
児玉就方と言えば、数々の海戦で武功を挙げた「猛将」としての姿が強く印象付けられる。しかし、彼の人物像をその一面のみで語ることは、その真の価値を見誤ることになる。若き日の「抜け駆け」事件のイメージとは裏腹に、就方は軍事だけでなく、統治や行政においても非凡な才能を発揮した、文武両道の将であった。
毛利氏の統治機構において、当主の意思決定を補佐し、政務・財務・司法などの実務を担ったのが「奉行人」と呼ばれる官僚組織であった。天文23年(1554年)頃、毛利元就は特に信頼の厚い側近たちで構成される奉行人グループを形成するが、驚くべきことに、その一員として児玉就方の名が記録されている 6 。これは、既に行政官僚として名高かった兄・就忠と並んでの抜擢であり、元就が就方の能力を武勇一辺倒ではないと見抜いていたことを示している。兄の就兼もまた奉行人であったことから、児玉兄弟三人が揃って毛利家の行政中枢に関わっていたことになる 7 。
就方の行政官としての手腕が具体的に発揮されたのが、弘治元年(1555年)の厳島の戦い以降に進められた防長経略後の占領地統治であった。毛利氏が新たに獲得した周防国都濃郡(現在の山口県周南市周辺)において、就方は井上就重と共に、新領地の支配を確立するための根幹業務である検地(田畑の面積を測量し、収穫高を査定する作業)や、現地の国人・地侍への所領の打渡(知行地の所有権を公式に認める文書を発給する業務)といった、高度な行政実務を担ったのである 6 。
これらの業務は、単なる事務作業ではない。旧大内領の複雑な利害関係を調整し、新たな支配者である毛利氏への忠誠を促し、安定した統治体制を築き上げるという、極めて高度な政治力が求められるものであった。特に、就方は都濃郡の富田保(とんだのほう)の管理を直接任されており、その実務を自身の被官である御手洗方賀(みたらい かたよし)に行わせている 11 。これは、彼が単独で任務を遂行しただけでなく、自らの配下に代官を置き、統治のための行政組織を構築・運営していたことを示している。
この事実は、児玉就方の人物評価において決定的に重要である。彼は、最前線で敵を打ち破る軍司令官であると同時に、獲得した領地を安定させ、統治する為政者でもあった。兄の就忠が吉田郡山城にあって中央政務を統括する「内務官僚」だとすれば、就方は軍事と行政を一手に担う「方面軍政官」とも言うべき役割を果たしていた。元就が、これほどまでに重要かつ信頼を要する任務を就方に与えたのは、彼の武勇だけでなく、その裏付けとなる忠誠心と、冷静な実務処理能力を高く評価していたからに他ならない。この文武にわたる万能性こそが、児玉就方を単なる一将軍ではなく、毛利家の屋台骨を支える irreplaceable な重臣たらしめた真の理由であった。
毛利氏が中国地方の覇権を確立した後、次なる脅威として東から迫ってきたのが、天下統一を目前にする織田信長であった。天正4年(1576年)、毛利氏は信長に追われた石山本願寺を支援し、織田氏との全面戦争に突入する。この戦いにおいて、毛利水軍の役割はこれまで以上に重大となった。同年の第一次木津川口の戦いでは、児玉就方の嫡男・就英が主力部隊の一員として出陣。乃美宗勝や村上元吉らと共に、焙烙火矢などの新戦術を駆使して九鬼嘉隆率いる織田水軍を撃破し、石山本願寺への兵糧搬入を成功させるという大金星を挙げた 11 。この頃、老境にあった就方は、水軍の総元締めとして後方にあって全体の戦略指導や兵站の確保に専念していたと考えられる。
天正10年(1582年)の本能寺の変を経て、毛利氏は織田氏の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉と和睦し、その臣下に入ることになる。就方も毛利家の重臣としてこの歴史的転換に従い、天正13年(1585年)に秀吉が断行した紀伊攻め(四国征伐の一環)には、毛利水軍を率いて参加している 6 。これが、老将・就方の最後の出陣となった。
数多の戦場を駆け、毛利氏の覇業を海上から支え続けた智勇の将は、天正14年6月9日(西暦1586年7月25日)、74年の生涯に幕を閉じた 6 。法名を常真と号した 6 。彼の死後、家督と草津城主の地位、そして毛利水軍の指揮権は、嫡男の児玉就英(なりひで)が滞りなく継承した 6 。
就方の死からわずか3年後の天正17年(1589年)、毛利家に大きな転機が訪れる。当主・毛利輝元が、新たな本拠地として広島城の築城を開始したのである。この壮大な新城の建設に伴い、その外港として草津の地の戦略的価値が改めて見直されることになった。輝元は、草津を毛利氏の直轄領とし、城下町と一体化した港湾都市として整備することを計画した。
そのため、輝元は草津城主であった児玉就英に対し、所領を替える「転封」を命じた。しかし、就英はこの命令に猛然と反発する。彼は、「草津の地は、父・就方の代から児玉氏が統率する水軍の根拠地であり、安易に明け渡すことはできない」と主張し、輝元の命令を拒否したのである 33 。父の代からの功績と伝統を盾にした就英の抵抗は、輝元を大いに悩ませた。
この対立は、最終的に毛利家の宿老である小早川隆景が仲介に入り、就英を説得すると共に、これ以上抵抗するならば処罰も辞さないという厳しい警告を発したことで、ようやく決着した 30 。就英は止む無く草津からの退去に応じ、就方以来の児玉水軍の拠点は、毛利氏の直轄領へと組み込まれた。
この草津城転封問題は、単なる君臣間の対立ではない。より大きな歴史の文脈において、戦国時代的な在地領主の支配権(知行)が、近世大名による中央集権的な領国支配体制へと移行していく過渡期の緊張関係を象徴する出来事であった。就方が築き上げた草津城と水軍は、毛利氏の領土「拡大」の時代を象徴するものであった。対して、輝元による広島城の築城は、版図の「統治と安定」を目指す新たな時代の始まりを告げるものであった。就方の遺産が、輝元の新たな国家構想と衝突したのである。これは、児玉家の功績が否定されたのではなく、時代の要請そのものが変化したことを示す、歴史の転換点であった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれた毛利輝元は、徳川家康に敗北。その結果、毛利氏は中国地方8カ国120万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二国、約30万石にまで減封されるという厳しい処分を受けた 34 。この毛利家の没落は、家臣であった児玉一族の運命にも暗い影を落とす。
就方の家系もその例外ではなく、禄を失い浪人となるなど、苦難の道を歩むことを余儀なくされた。しかし、一族は断絶することなく、後に毛利宗家の支藩として立藩された徳山藩(現在の山口県周南市)に仕えることとなり、武士としての家名を繋いでいく 3 。
時代は大きく下り、幕末。徳山藩士となっていた児玉家から、一人の傑出した人物が生まれる。その名は、児玉源太郎 35 。彼は、就方の血を引く子孫であった。
源太郎は明治維新後、陸軍軍人としての道を歩み、その類稀なる知略と統率力で頭角を現す。そして日露戦争においては、満州軍総参謀長として作戦指導の中枢を担い、日本の勝利に決定的な貢献を果たした 37 。戦国の世に毛利水軍を率いた海の将・就方の子孫から、数百年後、近代日本の陸軍を率いて国家の命運を担った陸の将・源太郎が輩出されたという事実は、歴史の壮大な連続性とダイナミズムを感じさせる。
表2:児玉就方から児玉源太郎への系譜(略図)
世代 |
人物名 |
概要 |
典拠 |
戦国時代 |
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父 |
児玉元実 |
毛利元就に仕えた譜代の家臣 |
6 |
三男 |
児玉 就方 |
毛利水軍の将、初代草津城主 |
6 |
嫡男 |
児玉 就英 |
毛利水軍の将、二代草津城主 |
6 |
江戸時代 |
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(数代を経て、徳山藩士の家系へ) |
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児玉氏 |
徳山藩士として毛利支藩に仕える |
3 |
幕末・明治 |
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児玉半九郎(忠碩) |
徳山藩士。源太郎の父 |
37 |
長男 |
児玉 源太郎 |
陸軍大将、満州軍総参謀長、子爵 |
3 |
児玉就方の生涯を俯瞰するとき、彼が単なる勇猛な武将という一面的な評価に収まらない、多層的な人物であったことが明らかになる。彼は、第一に、毛利氏がその意のままに動かせる「直轄水軍」を創設し、組織した優れたオーガナイザーであった。第二に、厳島、門司、伊予、日本海と、数々の大海戦において冷静な指揮を執り、毛利氏に勝利をもたらした卓越した司令官であった。そして第三に、防長経略後の新領地において検地や知行安堵を担った、有能な行政官でもあった。
この「武」と「文」を兼ね備えた彼の存在なくして、毛利元就の中国統一という偉業の達成は、より困難なものとなっていたであろう。その功績の大きさは、毛利両川にも比肩しうるものと評価されて然るべきである。現在、広島市西区草津の丘陵に残る彼の墓所は、かつてこの地を拠点とし、毛利氏の覇業の礎を築いた一人の智勇の将が、確かに生きた証として、今なお静かに歴史の潮騒を伝えている 21 。