最終更新日 2025-07-22

児玉就英

毛利水軍の中核、児玉就英の生涯 ― 栄光と葛藤の実像

序論:毛利水軍の中核を担った猛将、児玉就英

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台でその名を馳せた。その中で、毛利氏の瀬戸内海支配を支えた水軍の将、児玉就英(こだま なりひで)は、特筆すべき存在である。一般に「児玉就方の子で水軍を率い、出雲で尼子水軍を、摂津木津川で織田水軍を破り、後に淡路岩屋城を守った」 1 という武勇の人として知られる。しかし、その生涯は単なる一武将の戦歴に留まらない。

本報告書は、この児玉就英という人物について、現存する史料を基に徹底的な調査を行い、その実像を多角的に解明することを目的とする。彼の生涯を追うことは、毛利氏の勢力拡大を支えた水軍指揮官としての側面を明らかにすると同時に、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、旧来の価値観と新しい支配体制の狭間で葛藤した譜代家臣の姿を浮き彫りにする。彼の栄光と苦悩の軌跡は、戦国末期を生きた武士の実像、そして時代の転換点そのものを我々に示してくれるであろう。

表1:児玉就英 生涯年表

西暦(和暦)

就英の年齢

主要な出来事

関連人物

史料的根拠

1544年(天文13年)

1歳

児玉就方の長男として安芸国に生まれる。

児玉就方

2

1569年(永禄12年)

26歳

尼子再興軍が出雲国に侵攻。就英も毛利水軍の主力として日本海へ出陣する。

尼子勝久、山中幸盛

4

1571年(元亀2年)

28歳

舟で逃れる尼子勝久軍を追撃し、隠岐国へ敗走させる。この功績で元就・輝元より感状を受ける。

毛利元就、毛利輝元

4

1576年(天正4年)

33歳

第一次木津川口の戦い。毛利水軍を率い、焙烙火矢を用いて織田水軍を撃破。石山本願寺への兵糧搬入に成功する。

乃美宗勝、村上元吉

2

1578年(天正6年)

35歳

淡路国岩屋城の守将に任じられる。周防・長門国内で300貫の知行を加増される。同年、第二次木津川口の戦いで毛利水軍は織田方の鉄甲船に敗北。

冷泉元満

4

1586年(天正14年)

43歳

父・児玉就方が死去。家督を相続し、草津城主となる。

児玉就方

8

1589年(天正17年)

46歳

毛利輝元の広島城築城に伴い、草津城からの退去を命じられるもこれを拒否。小早川隆景の説得により、最終的に応じる。

毛利輝元、小早川隆景

4

1591年(天正19年)

48歳

毛利輝元より「周防守」の受領名を与えられる。

毛利輝元

4

1596年(慶長元年)

53歳

6月11日、死去。

-

2


第一章:武勇の系譜 ― 児玉一族と毛利水軍の黎明

児玉就英の武勲を理解するためには、まず彼が属した児玉一族と、彼が率いた毛利水軍の成り立ちを把握する必要がある。彼の強烈な自負と行動原理は、この一族の歴史と密接に結びついている。

1-1. 安芸児玉氏の出自と毛利家における地位

児玉氏は、その起源を関東の武士団である武蔵七党に持つ古い家柄である 9 。承久の乱(1221年)での戦功により、安芸国豊田郡の地頭職を与えられて以来、この地に根を下ろした有力な在地領主であった。戦国期には毛利氏に仕え、その譜代家臣団の中核を成す存在となっていた。

特に就英の父の世代は、毛利家の発展に不可欠な役割を担った。就英の伯父にあたる児玉就忠(1506-1562)は、行政手腕に長け、毛利元就から「家中での人あたりもよく行政手腕に優れている」と高く評価され、奉行として毛利氏の政務を支えた 10 。一方で、就英の父である児玉就方(1513-1586)は、兄とは対照的に武勇に優れた猛将として知られ、数々の合戦で戦功を挙げた 10

この就忠・就方の兄弟が、それぞれ「文」と「武」の両面で毛利家中枢を支えていた事実は、極めて重要である。戦国大名が領国を拡大し、安定的に統治するためには、軍事力と、それを支える内政・兵站・外交を担う官僚組織の両輪が不可欠であった。毛利氏は、児玉一族という一つの血族に、この二つの重要な機能を担わせていたのである。これは、一族に対する絶大な信頼の証であると同時に、毛利家の支配体制が、特定の譜代家臣団の専門能力に深く依拠していたことを示唆している。就英が、単なる一介の武将ではなく、毛利家を支える名門の嫡流であるという強い自意識を持っていたことは想像に難くない。この「文武」を担う一族の出身という背景こそが、後の草津城問題で見せる彼の頑なな抵抗の精神的支柱の一つとなったと考えられる。

1-2. 父・児玉就方と「川内警固衆」の創設

毛利氏が安芸国における覇権を確立する過程で、瀬戸内海の制海権確保は死活問題であった。天文10年(1541年)頃、毛利元就は安芸武田氏を滅ぼすと、その旧臣であった水軍衆(警固衆)を再編し、毛利氏直属の水軍である「川内警固衆」を創設した 12 。この新たな水軍組織の統率を任されたのが、児玉就方であった。

就方は広島湾の海上交通の要衝である草津城の城主に任じられ、ここを拠点として毛利水軍の育成に努めた 12 。この人事は、単なる恩賞ではなく、毛利氏が瀬戸内海の制海権を掌握するための極めて戦略的な配置であった。就方は期待に応え、天文24年(1555年)の厳島の戦いでは水軍を率いて毛利本隊の厳島渡海を成功させ、勝利に大きく貢献した 8 。さらに永禄4年(1561年)の門司合戦では、豊前沖で大友氏の水軍を破るなど、輝かしい戦功を重ねている 8

重要なのは、就方が単なる戦闘指揮官ではなかった点である。彼は毛利氏の作戦命令を警固衆に伝達し、逆に警固衆の戦功を毛利氏へ上申するという、水軍組織全体の管理者・奉行としての役割も担っていた 8 。これにより、草津城は児玉氏にとって単なる居城ではなく、一族の功績と毛利水軍支配の象徴そのものとなった。父の代から続くこの歴史的経緯が、後に就英が「草津は父祖伝来の地である」と主張する際の、単なる私情ではない客観的な正当性の根拠となったのである。


第二章:栄光と蹉跌 ― 海の戦場における児玉就英

父・就方が築き上げた毛利水軍の基盤を継承した児玉就英は、その才能を遺憾なく発揮し、毛利水軍を率いて数々の戦場で武名を轟かせた。しかし、その軍歴は、時代の変化と共に栄光と蹉跌が交錯するものであった。

2-1. 日本海での追撃戦:尼子再興軍の鎮圧

就英が大規模な水軍を率いた最初の大きな戦役は、宿敵・尼子氏との最終決戦であった。永禄12年(1569年)、尼子勝久と山中幸盛が率いる尼子再興軍が、織田氏の支援を受けて出雲国に侵攻すると、就英は毛利水軍の主力部隊を率いて日本海へと出陣した 4

元亀2年(1571年)、陸上では吉川元春の猛攻に晒された尼子勝久軍は、ついに拠点を放棄して舟で出雲国島根郡の桂島へと逃れた。この好機を逃さず、就英は数百艘の兵船を率いて猛追撃を開始する。彼の執拗な追跡により、勝久らは再起の足がかりを完全に失い、隠岐国へと敗走を余儀なくされた 4

この作戦において就英は、敵主力の追撃のみならず、尼子方の兵糧輸送船を拿捕・焼却するという兵站破壊任務でも大きな成果を挙げた。この戦功に対し、毛利元就・輝元父子は連名で感状を送り、「新山の兵糧船数艘を捕獲し、剰え兵糧米を焼き捨て、あるいは奪い取った勝利は、誠に比類なきものである」と絶賛している 5 。この一次史料は、若き日の就英が、単なる追撃だけでなく、敵の補給線を断つという水軍の極めて重要な戦略的役割を的確に理解し、実行する能力を持っていたことを証明している。この日本海での成功は、彼の指揮官としての評価を不動のものとし、後の大舞台へと繋がる重要な一歩となった。

2-2. 第一次木津川口の戦い:栄光の頂点

児玉就英の名を天下に知らしめたのが、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いである。当時、織田信長と石山本願寺は激しい抗争(石山合戦)を繰り広げており、海上封鎖によって兵糧が尽きかけた本願寺は、毛利輝元に救援を要請した 6

輝元はこの要請を受諾し、毛利家の総力を挙げた水軍部隊の派遣を決定する。同年7月、児玉就英は、乃美宗勝、村上元吉、村上吉充ら安芸・備後・伊予の水軍衆を束ね、総勢700~800艘ともいわれる大艦隊の指揮官の一人として出陣した 2 。木津川口で待ち受ける織田水軍に対し、毛利水軍は得意戦術である「焙烙火矢(ほうろくひや)」—火薬を詰めた陶器の玉を投げ込む焼夷兵器—を駆使した。この攻撃は絶大な効果を発揮し、織田方の船団は次々と炎上、壊滅的な打撃を受けた 18

この圧勝により、毛利水軍は織田方の海上封鎖を完全に突破し、石山本願寺へ兵糧を運び込むという戦略目標を見事に達成した。この戦いは、児玉就英の軍歴における最大のハイライトであり、毛利水軍の武威を全国に轟かせた瞬間であった。

2-3. 束の間の制海権:淡路岩屋城の守備

第一次木津川口の戦いの勝利により、毛利氏は瀬戸内海東部の制海権を一時的に掌握した。この戦略的優位を維持するため、天正6年(1578年)、就英は淡路国の岩屋城に守将として派遣された 4 。淡路は、大坂湾の入り口に位置する対織田戦線の最重要拠点であり、この配置は、就英が毛利首脳部から最も信頼される海上指揮官の一人と見なされていたことを物語っている。彼の功績は正当に評価され、同年には周防・長門国内で300貫の知行を加増されている 4

2-4. 第二次木津川口の戦い:新兵器「鉄甲船」との遭遇

しかし、毛利の優位は長くは続かなかった。第一次での手痛い敗戦に学んだ織田信長は、水軍の将・九鬼嘉隆に命じ、従来の常識を覆す新兵器の開発を進めていた。それが、船体を鉄で装甲した巨大な軍船「鉄甲船」である 20

天正6年(1578年)11月、毛利水軍約600艘は再び石山本願寺への兵糧搬入を試みるが、木津川口で待ち受けていたのは、わずか6艘の鉄甲船であった 7 。毛利方は、これまで必勝の戦術であった焙烙火矢を次々と投げつけるが、鉄張りの装甲にことごとく弾き返され、全く通用しない 22 。逆に、鉄甲船に搭載された大砲から猛烈な砲撃を浴び、毛利水軍は甚大な損害を被り、惨敗を喫した 23

この敗北は、児玉就英個人の指揮能力の低下によるものではない。彼が拠って立つ戦術体系そのものが、技術革新によって一夜にして陳腐化した瞬間であった。彼の軍歴は、まさに戦国時代の海戦における劇的な技術的転換点の渦中にあったのである。この敗北によって毛利氏は瀬戸内海の制海権を失い、石山本願寺への支援は不可能となった。これは毛利氏の対織田戦略に根本的な見直しを迫るものであり、織田氏との全面対決から後の和睦路線へと舵を切る大きな要因の一つとなった。就英の軍事的キャリアの下降線は、奇しくも毛利氏全体の戦略的後退と軌を一にしていた。


第三章:時代の奔流の中で ― 豊臣政権下の葛藤

織田信長の死後、毛利氏が豊臣秀吉に臣従すると、戦いの様相は大きく変化した。児玉就英は、武力衝突ではなく、新たな政治秩序の中で自らの立場と誇りをかけて戦うことを余儀なくされる。

3-1. 草津城退去問題:譜代の誇りと中央集権の論理

天正17年(1589年)、毛利輝元は本拠地を山間の吉田郡山城から、瀬戸内海に面したデルタ地帯に新たに築く広島城へ移すという、一大事業を開始した 4 。これは、豊臣政権下の大名として広大な領国を効率的に支配し、経済的中心地を掌握するための、近世的な城下町建設事業であった 24

この計画において、輝元は広島城の外港として草津を毛利氏の直轄領とすることを望み、城主である就英に所領替え(転封)を命じた。しかし、就英はこれを断固として拒否する。彼は「草津は父・就方の代よりの水軍の根拠地であり、一族の功績によって得た土地である」と主張し、主君の命令に公然と抵抗したのである 4 。この事態に輝元は苦慮し、重臣宛の書状で「草津の扱い、はたと草臥れ候(草津の件では、すっかり疲れ果ててしまった)」と苦悩を漏らしている 4

この膠着状態を打開したのは、就英の叔父にあたる小早川隆景であった。隆景は輝元や他の重臣に対し、広島城築城という国家事業の前では草津の直轄化は当然であると説き、同時に就英の説得に当たった。隆景は就英に対し、これ以上抵抗すればかえって悪い結果を招くと警告し、草津を退去する代わりに自身の望む替地を輝元に願い出るよう諭した 4

この一連の出来事は、戦国時代と近世の価値観の衝突そのものであった。就英にとって草津は、父の武功によって与えられた「恩賞」であり、一族の栄誉と不可分な土地であった。これは、土地と個人の功績が強く結びついた戦国武士の価値観である。一方、輝元や隆景にとって、領地は藩という国家を運営するための「知行」であり、主君の戦略的判断によって再配置(知行替え)が可能なものであった。これは、主君の絶対的権力の下で家臣団を統制する近世大名の論理である。

就英の抵抗は、単なる個人的な我儘ではなく、失われゆく旧来の武士の権利と誇りを守ろうとする最後の抵抗であったと解釈できる。最終的に隆景の説得を受け入れて就英が屈したことは、毛利家臣団が、戦国的な独立領主の連合体から、近世大名の下に統制された官僚的組織へと変貌していく、不可逆的な時代の流れを象徴している。天正19年(1591年)、就英は輝元から「周防守」の受領名を与えられたが 4 、これは彼の功績と家格に配慮しつつ、新たな支配体制に従わせるための、輝元・隆景による巧みな「軟着陸」策であったと言えよう。

3-2. 人物像を巡る逸話:「桓温」と「相生の松」

児玉就英の人物像を語る上で、後世の軍記物語などが記した二つの有名な逸話がある。

一つは、第一次木津川口の戦勝後、播磨国高砂に差し掛かった舟の上で、就英が中国・東晋の武将である桓温の故事「男子、芳名を百世に流せずんば、また臭名を万年に遺すべし(男として良い評判を後世に残せないのなら、いっそ悪い評判でも後世に残してやる)」を引用し、自らの野心を語ったというものである 6

もう一つは、同じく高砂の名所であった「相生の松」を、神木であるにもかかわらず薪にして燃やしてしまい、その神罰によって病(白癩)になったという伝説である 6

これらの逸話の出典は主に『陰徳太平記』など後代の編纂物であり、史実としてそのまま受け取ることはできない。特に後者の逸話は、松を燃やしたのが就英か、あるいは伯父の就忠か、記述に混乱が見られ信憑性は低い 6 。しかし、これらの物語が「なぜ作られたか」を考察することには歴史的な価値がある。桓温の故事を引用する逸話は、就英が単なる忠実な家臣ではなく、天下を望むほどの野心と、中国の古典に通じる教養を兼ね備えた大人物であるというイメージを付与する。また、「相生の松」の逸話は、神仏を恐れぬ豪胆さ、あるいは海の荒武者らしい破天荒な性格を強調するものである。

これらの逸話は、史実の就英そのものではなく、後世の人々が彼の劇的な戦歴から着想を得て作り上げた「キャラクター像」を反映している。歴史研究においては、これらの逸話を史実と厳密に区別し、「児玉就英という人物が、後世どのように記憶され、語り継がれたか」を示す文化史的な資料として分析することが重要である。

3-3. 文禄・慶長の役における役割の考察

就英は慶長元年(1596年)に死去しているため 2 、豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄の役(1592-1593)には参加していた可能性が極めて高い。この国策事業において、毛利氏は水軍を動員し、膨大な兵員と兵糧を朝鮮半島へ輸送するという、極めて重要な後方支援任務を担っていた 25

児玉就英がこの役で具体的にどのような役割を果たしたかを直接示す一次史料は現存しない。しかし、彼が毛利水軍の最高幹部の一人であり、草津城問題の後も「周防守」という官位を与えられていたことを考えれば、父・就方と同様に水軍の統率や船奉行といった重責を担い、この一大事業に関与していたと考えるのが自然である。ただし、これはあくまで状況証拠からの推論であり、断定は避けなければならない。


第四章:落日と遺産 ― 児玉家のその後

時代の大きな転換期を駆け抜けた児玉就英の死後、彼が築いた家と遺産は、新たな時代の中で生き続けていくこととなる。

4-1. 就英の最期と家督継承

慶長元年(1596年)6月11日、児玉就英は53年の生涯を閉じた 2 。その死因については記録がない。家督は、病弱であったとされる長男の元方ではなく、次男の児玉元昌が継承した 4 。元昌は、父祖伝来の地であった草津城の最後の城主となったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍に与して敗北し、防長二国へ大減封されると、草津城は廃城となり、児玉家もその地を去ることとなった 27

4-2. 長州藩士「児玉惣兵衛」家として

関ヶ原の戦後、毛利氏は112万石から約37万石へと大幅に領地を削られ、家臣団もまた厳しい状況に置かれた。児玉家も知行を大幅に減らされたことは間違いない。しかし、就英の家系は断絶することなく、江戸時代を通じて長州藩(萩藩)の上級藩士である大組の家格を維持し、「児玉惣兵衛」を名乗って存続した 4

江戸中期に編纂された長州藩の公式な家臣の系譜・由緒書である『萩藩閥閲録』には、巻100に「児玉惣兵衛」の家が収録されている 4 。これは就英の直系子孫の家によって提出された記録であり、彼の事績を後世に伝える重要な史料となっている。また、児玉一族の他の分家も長州藩士として存続しており 30 、児玉氏全体が毛利家臣団の中で重要な位置を占め続けたことがわかる。

草津城問題では主君と激しく対立し、毛利家自体も関ヶ原で大敗するという激動と苦難にもかかわらず、就英の家系が上級藩士として存続した事実は、注目に値する。これは、毛利氏が譜代の功臣の家系を、たとえ困難な状況下でも尊重し、藩の体制の中に組み込み続けたことを示している。就英の生涯に見られたような主君との緊張関係はありながらも、最終的には主家と譜代家臣団の間の強固な主従の絆が、近世を通じて維持されたのである。児玉家の存続は、その歴史的連続性の確かな証左と言える。


結論:戦国期水軍指揮官としての児玉就英の歴史的意義

本報告書を通じて明らかになった児玉就英の生涯は、単なる一武将の戦歴に留まらない、深い歴史的意義を持っている。

第一に、彼は父・就方が築いた毛利直属水軍「川内警固衆」を継承・発展させ、第一次木津川口の戦いにおいてその戦術を完成させた、当代屈指の水軍指揮官であった。焙烙火矢を駆使した彼の勝利は、毛利氏の勢力を頂点に押し上げ、織田信長の天下統一事業に一時的とはいえ深刻な打撃を与えた。この点において、彼の軍事史上の功績は非常に大きい。

第二に、彼のキャリアの後半生は、時代の大きな変化に翻弄されたものであった。第二次木津川口の戦いでは、織田方の新兵器「鉄甲船」という技術革新の前に、伝統的な戦術が完全に無力化されるという敗北を喫した。また、草津城退去問題では、近世的な中央集権化を進める主君の論理と、戦国的な土地への固執という旧来の価値観との間で激しく葛藤した。彼の生涯は、武勇や個人の才覚だけでは抗うことのできない、軍事技術と政治体制の構造的変化を体現している。

結論として、児玉就英は、一人の武将の栄光と苦悩の物語であると同時に、戦国時代の軍事と政治が、近世のそれへと移行していく過渡期のダイナミズムを象徴する、貴重な歴史的ケーススタディである。彼の存在を通じて、我々は戦国という時代の終焉を、より深く、そして人間的な視点から理解することができるのである。

引用文献

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  3. 毛利輝元の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-35-mouri-terumoto-kashin.html
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