戦国時代の土佐国を語る上で、長宗我部元親の存在は絶大である。しかし、その「土佐の出来人」による統一事業という華々しい歴史の陰には、その礎を築き、あるいはそれに抗った数多の国人領主たちの興亡があった。その一人、公文重忠(くもん しげただ)は、後世に「勇将であったが貧乏で正月の餅もつけなかった」という特異な伝承によって、その名を留める人物である 1 。この一見して矛盾をはらむ逸話は、彼の人物像に複雑な陰影を与えている。本報告書は、この断片的な伝承を手がかりとしつつ、現存する諸資料を横断的に分析し、一人の戦国武将の生涯、その一族のルーツと末裔、そして彼が生きた時代の土佐社会の実像に、多角的な視点から迫ることを目的とする。
公文重忠を調査する上で、まず留意すべきは、同名(しげただ)である鎌倉時代の武蔵武士、畠山重忠との混同である。畠山重忠は源平合戦における「鵯越の逆落とし」などの逸話で知られる著名な武将であり、関連する史跡や資料も多い 3 。本報告書は、これらの情報を明確に峻別し、あくまで戦国時代の土佐国に生きた公文重忠に焦点を絞って論を進める。
年代 |
出来事 |
典拠 |
生没年不詳 |
- |
1 |
天文16年 (1547) |
主家であった天竺氏が長宗我部国親に滅ぼされる。これに対し、介良城主の横山氏、下田城主の下田氏と連携し、国親に抵抗する。 |
1 |
天文16年以降 |
長宗我部氏に降伏し、その家臣となる。以降、各地の合戦で武功を挙げたと伝わる。 |
1 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦後、長宗我部氏が改易。山内一豊が土佐に入国する。 |
7 |
江戸時代初期 |
公文氏は所領を失い、帰農または郷士となる。重忠の娘「かち」が土佐藩執政・野中兼山の側室となる。 |
7 |
寛文4年 (1664) |
野中兼山が失脚。娘「かち」とその子供たちも宿毛へ配流され、悲劇的な末路を辿ったと伝わる。 |
8 |
大正3年 (1914) |
後裔とされる公文公(くもん とおる)が誕生する。 |
11 |
公文重忠の人物像を理解する上で、その姓の起源を探ることは不可欠である。「公文(くもん)」という名字は、中世の国衙や荘園において、公文書の管理・作成を担った役職名「公文所(くもんじょ)」に由来する 12 。この役職は、単なる書記ではなく、法務や財務に関する専門知識を要する重要な地位であった。このことから、公文氏は武士として歴史の表舞台に登場する以前、古代から中世にかけての地方行政機構において、知識階層として重要な役割を担っていた一族であった可能性が高い。実際に、土佐国長岡郡比江(現在の南国市比江)には、国衙の公文書を扱ったとされる公文氏の存在が記録されている 12 。
公文重忠に直接繋がる一族は、土佐国高岡郡日下村(くさかむら、現在の日高村)を拠点としていた 12 。この一族の出自は、単なる地方役人にとどまらない、より古い権威に根差している。彼らは、国史、すなわち六国史にその名が見える「国史見在社」であり、土佐国二宮とされた小村神社(おむらじんじゃ)の神主家であったと伝わる 12 。小村神社は用明天皇2年(587年)の創建と伝えられる古社であり 14 、その神事を司ることは、地域社会において絶大な精神的権威を持つことを意味した。また、同社に残る棟札からは、公文氏が平姓を称していたことも確認されている 12 。
この事実は、公文氏が「公文書を扱う官吏」という世俗的な実務能力と、「神事を司る神官」という宗教的な権威を併せ持っていたことを示している。古代社会における祭政一致のあり方を彷彿とさせるこの二重性は、彼らが単なる武辺一辺倒の豪族ではなく、在地社会において文化的・精神的な支柱でもあったことを物語る。戦国時代に入り、武力が全てを決定するかに見える世の中にあっても、こうした由緒と権威は、公文氏の影響力の源泉であり続けたと考えられる。
公文重忠自身の出自は、やや複雑である。彼は、土佐国香美郡徳善(とくぜ、現在の香南市香我美町徳王子)にあった徳善城の城主・公文正信の養嗣子として公文家を継いだ 1 。
実の出自は石谷(いしたに)氏であり、実父は細川氏の庶流で土佐の国人であった天竺(てんじく)氏の家臣・石谷重信とされている 1 。ただし、『土佐名家系譜』などの史料では石谷民部重信の子とも弟とも記されており、その関係には若干の揺れが見られる 17 。重忠には兄弟がおり、下田城主の下田頼隆、介良城主の横山友隆と共に「石谷3兄弟」として知られていた 1 。この兄弟間の連携は、後に長宗我部氏へ抵抗する際の軍事的な基盤となった。
彼の通称は深三郎、別名に正廣(まさひろ)があり、官途名として「将監(しょうげん)」を名乗った 1 。将監は衛門府の三等官であり、武士が好んで自称した官途名の一つである。神官や文官の家系に連なる一方で、彼自身は武士としての道を歩んだことが、この名乗りからも窺える。
関係 |
人物名 |
備考 |
中心人物 |
公文重忠 |
徳善城主。通称は深三郎、官位は将監。 |
実家(石谷氏) |
石谷重信 |
重忠の実父(または兄)。布師田城主。 |
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横山友隆 |
重忠の弟。介良城主。 |
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下田頼隆 |
重忠の弟。 |
養家(公文氏) |
公文正信 |
重忠の養父。徳善城主。 |
主君 |
天竺花氏 |
長宗我部国親に滅ぼされるまでの主君。 |
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長宗我部国親 |
抵抗の末に降伏し、仕える。 |
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長宗我部元親 |
国親の子。引き続き家臣として仕える。 |
姻戚関係 |
かち(娘) |
江戸時代、土佐藩執政・野中兼山の側室となる。 |
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野中兼山 |
重忠の娘婿。藩政改革で知られるが後に失脚。 |
後裔(伝承) |
公文公 |
公文式学習法の創始者。 |
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公文俊平 |
社会学者。 |
公文重忠が生きた16世紀半ばの土佐国は、守護大名であった細川氏の権威が完全に失墜し、中央の政治的空白を埋めるように在地領主たちがしのぎを削る群雄割拠の時代であった。中でも「土佐七雄」と称された一条氏、本山氏、安芸氏、津野氏、吉良氏、大平氏、そして長宗我部氏が、それぞれの勢力圏で覇を競っていた。
この中で、長岡郡の岡豊城を拠点とした長宗我部国親は、家臣の吉田孝頼らの補佐を得て、巧みな婚姻政策や謀略、そして「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士集団を効果的に動員し、着実にその勢力を拡大しつつあった 19 。
重忠が当初仕えていたのは、細川氏の庶流にあたる天竺氏であった 1 。天竺氏は大津城(現在の高知市大津)を拠点としていたが、その勢力は長宗我部氏の拡大にとって障害となった。天文16年(1547年)、国親は大津城を攻略し、当主であった天竺孫十郎花氏を滅ぼした 1 。
主家を失った重忠は、独立した国人領主として、長宗我部氏の脅威に立ち向かうことを決意する。彼は実父(または兄)の石谷重信、そして実弟である介良城主の横山友隆、下田城主の下田駿河守らと連携し、反長宗我部連合の一翼を担った 1 。『土佐名家系譜』によれば、この連合軍が蜂起した際、重忠も呼応して出陣したものの、物部川が増水して渡ることができず、期を逸してしまったという逸話が残されている 17 。この出来事は、戦における天候や地理的要因の重要性を示すと同時に、彼の武運の一端を物語っているのかもしれない。
この時期、公文重忠が本拠としたのが、土佐国香美郡徳善(現在の高知県香南市香我美町徳王子)に築かれた徳善城である 6 。公文城とも呼ばれるこの城は、香長平野の東端、物部川下流域を見渡せる丘陵の末端に位置する平城、あるいは平山城であったと推測される 7 。その立地は、地域の交通と農業生産を扼する戦略的要衝であったことを示している。近年まで土塁や堀の一部が残存していたとされるが、圃場整備や道路建設によって、現在では城の遺構を地上で確認することは困難となっている 6 。今はただ、現地に立つ案内板が、かつてこの地に城が存在し、重忠という武将が割拠していた事実を静かに伝えているのみである 7 。
重忠らによる抵抗も、破竹の勢いで進む国親の侵攻を食い止めるには至らなかった。連合の中心であった横山氏と下田氏が相次いで国親に降伏すると、孤立した重忠もまた、長宗我部氏の軍門に降ることとなった 1 。
その帰順の具体的な時期や経緯を伝える詳細な史料は現存しないが、天文16年(1547年)の蜂起から、国親が土佐中部の強敵・本山氏を制圧していく永禄年間(1558年~1570年)の間に行われたとみられる。重忠の帰順は、長宗我部氏の国人統制策の巧みさを示す好例と言える。国親・元親父子は、敵対した在地領主を必ずしも根絶やしにするのではなく、降伏した者は家臣団に積極的に組み込み、その武勇や在地での影響力を自軍の戦力として活用した。事実、重忠やその兄弟たちは、長宗我部家臣として後の戦で活躍することになる。これは、単なる武力による制圧ではなく、在地勢力の権益をある程度認めながら自らの支配体制へと再編していく、長宗我部氏の現実的かつ効果的な勢力拡大戦略の現れであった。
長宗我部氏に帰順した後の公文重忠は、その武勇を高く評価され、多くの戦で功績を挙げたと伝わっている 1 。彼は、長宗我部軍の強さの根幹を成した「一領具足(いちりょうぐそく)」の一員として、その後の統一戦に貢献したと考えられる 2 。一領具足とは、平時は田畑を耕す農民でありながら、領主から召集がかかれば、一領の具足(鎧兜)を携えて戦場に馳せ参じる半農半兵の戦闘員集団を指す 24 。彼らは自らが耕す土地を守るために戦うという強い動機を持ち、その土地との深い結びつきから生まれる高い士気と団結力が、長宗我部軍の精強さの源泉であった 26 。
重忠が具体的にどの合戦に参加したかを記す一次史料は乏しいが、長宗我部元親が本山氏や安芸氏を滅ぼして土佐を統一していく過程や、その後の阿波・伊予への侵攻作戦において、一人の武将として重要な役割を果たしたことは想像に難くない 19 。
公文重忠という武将の名を現代にまで伝えている最大の要因は、彼にまつわるユニークな逸話である。それは、「非常に貧乏であったため、正月に餅をつくことさえできなかった。それを知った城下の領民たちは、領主を慮って自らも正月に餅をつくことをやめ、それが慣習となった」というものである 1 。この逸話は、ゲームのキャラクター設定にも取り入れられるほど、強烈なイメージを放っている 2 。この「餅なし正月」の伝承は、複数の角度から解釈することができる。
第一に、戦国時代の土佐における経済的実態の反映である可能性が考えられる。土佐国は山地が多く、耕作可能な平野が限られていたため、米の生産量は他国に比べて決して多くはなかった 30 。一領具足を構成した在地領主たちの経済基盤も、決して盤石なものではなかったであろう。重忠のような城持ちの豪族であっても、家臣団を維持し、戦の準備を整える経済的負担は大きく、その生活は質素を極めていた可能性がある。この逸話は、そうした土佐の国人領主の厳しい経済状況を象徴的に物語っているのかもしれない。
第二に、為政者の徳を示すための教訓譚として、後世に創作あるいは脚色された可能性である。「清貧の領主」と「その徳を慕い、自発的に倣う民」という構図は、儒教的な価値観における理想的な君民関係の姿であり、物語として非常に魅力的である。特に、支配者が山内氏に変わった江戸時代において、旧領主である長宗我部時代の記憶を美化し、領主と領民の強い絆を語り継ぐ中で、このような美談が形成されたとも考えられる。
最後に、この逸話が郷土の記憶として果たした機能である。山内氏の支配下に入った後、多くの旧長宗我部家臣とその領民は、厳しい処遇を受けた。そのような中で、長宗我部時代を「貧しかったが、武勇と主従の絆に満ちた誇りある時代」として回顧し、その記憶を凝縮させた物語として、この「餅なし正月」の逸話が語り継がれていったのではないだろうか。それは単なる貧困の記録ではなく、失われた時代へのノスタルジアと、在地社会のアイデンティティを内包した文化的な記憶と言えるだろう。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部盛親は、戦後処理によって改易され、土佐24万石の領地を没収された。これにより、土佐国は徳川家康によって山内一豊に与えられ、長宗我部氏の支配は終焉を迎える。
主家を失った公文氏をはじめとする旧家臣団の多くは、その地位と所領を失った。現地に残った者たちは、帰農して農民となるか、山内藩体制下で新たに設けられた「郷士」という身分に組み込まれた 1 。徳善城跡の案内板には、公文氏が「百姓並となる」と記されており 8 、これは山内氏による厳しい支配体制への移行と、旧勢力の解体という歴史の現実を物語っている 26 。
戦国武将としての公文氏の歴史は長宗我部氏の没落と共に終わるが、その血脈は江戸時代前期の土佐藩を揺るがす大事件に巻き込まれていく。複数の資料、特に徳善城跡の現地案内板によると、公文重忠の娘は、土佐藩第二代藩主・山内忠義のもとで執政として絶大な権力を振るった野中兼山の側室になったとされている 8 。『宿毛市史』には、兼山の側室の一人として「公文かち」という名が記録されており、彼女が兼山との間に一男一女をもうけたことが記されている 9 。
野中兼山は、山田堰の建設など大規模な開発事業を推進し、土佐藩の財政基盤を築いた大政治家であったが、その強権的な手法は多くの政敵と民衆の反発を招いた 31 。そして寛文4年(1664年)、兼山は失脚し、宿毛に幽閉されることとなる 10 。この政変の余波は、彼の家族にも及んだ。重忠の娘である「かち」とその子供たちも罪人として宿毛へ配流され、案内板には「子と共に果てた」と、その悲劇的な末路が記されている 8 。
このエピソードは、戦国時代の価値観から近世の厳格な封建体制へと移行する時代の厳しさを示している。長宗我部家臣の娘という出自を持つ女性が、新興の支配者である山内家の重臣と結びつくことは、一見すると家の存続と地位向上に繋がる道であったかもしれない。しかし、結果として藩内の激しい権力闘争の渦に巻き込まれ、一族に悲劇をもたらした。戦国時代の武功や家柄が、新しい支配体制下では必ずしも栄光とはならず、むしろ危険なレッテルとなり得たことを象徴する出来事である。
公文氏の歴史は、この悲劇で途絶えることはなかった。驚くべきことに、複数の資料が、戦国武将・公文重忠が、世界的な教育メソッド「公文式」の創始者である数学者・公文公(くもん とおる、1914-1995)の直系の先祖であると指摘している 1 。また、著名な社会学者である公文俊平氏もこの系譜に連なる人物である 1 。
公文公自身も高知県の出身であり 11 、現在でも高知県、特に中部から東部にかけては「公文」姓が多く分布している 33 。この事実は、戦国時代の動乱、江戸時代の支配体制の転換、そして近代化という激動の歴史を乗り越え、公文氏の血脈が土佐の地に根付き、受け継がれてきたことを示している。
この歴史の巡り合わせは、非常に興味深い。武勇をもって知られた戦国武将・公文重忠の子孫が、数世紀の時を経て、教育という全く異なる「文」の分野で世界的な成功を収めたのである。ここで第一章で触れた公文氏のルーツを思い起こすと、その示唆はさらに深まる。元々「公文」とは公文書を扱う「文官」の役職名であり、一族は神社の神官も務めていた。つまり、一族の歴史は「文(官吏・神官)」から「武(重忠)」へ、そして再び「文(教育者・公文公)」へと回帰したかのような軌跡を描いている。重忠の「貧乏」の逸話と、万人に学ぶ機会を提供しようとした公文式の精神性を結びつけるのは飛躍かもしれないが、時代に適応し、新たな価値を創造してきた一族の強靭な生命力の現れとして捉えることは可能であろう。
公文重忠は、単に「餅もつけないほど貧乏な勇将」という逸話の中の人物ではない。彼は、古代にまで遡る可能性のある由緒正しい神官・官吏の家系にその源流を持ち、戦国の動乱期に武士として生きる道を選び、土佐統一という大きな歴史の転換点において、抵抗と帰順の双方を経験した、きわめて立体的で奥行きのある歴史上の人物である。
彼の生涯は、長宗我部氏という新興勢力の台頭によって、そのあり方の変容を迫られた土佐の在地国人領主層の典型的な姿を映し出している。一度は敵対しながらも、その武勇を認められて家臣団に組み込まれ、統一事業に貢献する。しかし、主家の没落と共にその地位を失い、近世の新たな支配体制下では、その血脈が藩の政争に巻き込まれ悲劇に見舞われる。この一連の出来事は、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムと、そこに生きた人々の過酷な運命を凝縮している。
「餅なし正月」の逸話や、娘「かち」をめぐる悲劇は、史実としての厳密な考証を超えて、地域社会が公文重忠という人物とその時代をどのように記憶し、語り継いできたかを示す貴重な文化遺産と言える。史料の断片を繋ぎ合わせ、伝承の背後にある歴史的文脈を読み解くことで、公文重忠という一人の武将の生涯を通して、時代の大きなうねりを描き出すことが可能となる。そして、その存在は、著名な子孫の活躍によって、数世紀の時を超えて予期せぬ形で現代に新たな光を当てられているのである。彼の物語は、歴史の主役として語られることの少ない地方豪族の視点から、戦国という時代の豊かさと複雑さを再認識させてくれる、価値ある研究対象と言えよう。