最終更新日 2025-07-02

内藤国貞

「内藤国貞」の画像

戦国丹波の動乱と守護代内藤国貞 ― ある在地領主の選択と末路

序章:混沌の畿内と丹波国

戦国時代、日本の政治的中心であった畿内は、権力の流動化が最も激しい地域であった。室町幕府の権威は応仁の乱(1467-1477)を経て失墜し、将軍は実権を失った。それに代わり幕政を掌握したのは、将軍を補佐する管領職を世襲した細川京兆家であった 1 。しかし、その細川家もまた、永正4年(1507年)に当主の細川政元が暗殺されると、三人の養子(澄之、澄元、高国)による深刻な家督争いに突入する 3 。この「両細川の乱」と呼ばれる十数年に及ぶ内乱は、畿内全域を巻き込み、諸勢力の離合集散を加速させた 4 。内藤国貞は、まさにこの混沌の時代の渦中にその生涯を送った武将である。

彼の生きた丹波国は、京都の西に隣接し、都と山陰地方を結ぶ山陰道が貫通する、極めて重要な戦略的要衝であった 5 。畿内の覇権を狙う者にとって、丹波の支配は京都への進出路を確保し、また西からの脅威を防ぐための生命線であった。この地理的特性が、丹波を絶え間ない政争と戦乱の舞台へと変えたのである。

このような状況下で、丹波国の実質的な統治を担っていたのが、守護代・内藤氏であった。守護は複数の国を兼任し、京都にあって中央政務に携わることが常であったため、任国には家臣の中から代官として「守護代」を派遣し、現地の統治を代行させていた 7 。丹波守護であった細川京兆家もその例に漏れず、内藤氏はその守護代職を世襲する家柄として、丹波に君臨していた 1 。彼らは、中央権力である細川氏の意向を在地社会に浸透させると同時に、波多野氏や赤井氏といった在地国人を統制するという、中央と地方の結節点としての役割を担っていた。しかし、その権力基盤は、主君である細川氏の権威に絶対的に依存していた。主家が分裂し、その権威が揺らげば、守護代の立場もまた危うくなる。さらに、内藤氏は細川氏によって他国から派遣された、いわば「落下傘」の支配者であり、在地国人からの反発を受けやすいという構造的な脆弱性を常に抱えていた 1

本報告書は、この内藤国貞という一人の武将の生涯を徹底的に追跡し、彼が下した政治的選択と、その悲劇的な末路を明らかにすることを目的とする。彼の生き様は、伝統的な権威が崩壊し、実力が全てを決定する戦国という時代の本質と、その激流の中で生き残りをかけて苦闘した地方領主の実像を、我々に生々しく伝えてくれるであろう。

内藤国貞 関連年表

年代(西暦)

内藤国貞の動向

丹波国の動向(波多野氏・赤井氏等)

畿内中央の動向(細川氏・三好氏等)

永正17年(1520年)

父・貞正、細川高国方として等持院の戦いで三好之長を破る 9 。国貞、この頃までに守護代職を継承か。

細川高国、澄元方の三好之長を破り、政権を安定させる 2

大永6年(1526年)

細川高国方に属す。

波多野元清・柳本賢治兄弟、高国に反旗を翻す 10

細川高国、家臣の讒言により香西元盛を謀殺。波多野氏らが離反。

大永7年(1527年)

波多野氏、細川晴元と結び、桂川原の戦いで高国軍を破る 4

細川晴元、阿波から上陸し、堺公方府を樹立。高国を京から追放。

享禄4年(1531年)

大物崩れ。細川高国、晴元・三好元長軍に敗れ自害 4

天文7年(1538年)

細川氏綱の挙兵に呼応し、八木城で籠城するも、波多野秀忠・三好政長に敗れる 1

波多野秀忠、晴元に重用され勢力を拡大。「丹波守護」を称する 1

細川氏綱(高国の養子)、晴元に対し初めて挙兵するも鎮圧される 12

天文14年(1545年)

細川氏綱に呼応して再び挙兵するも、三好長慶に世木城を落とされる 8

波多野秀忠、国貞の反乱を鎮圧 14

細川氏綱、再び挙兵。

天文18年(1549年)

三好長慶・細川氏綱方に明確に与する。

江口の戦い。三好長慶が主君・細川晴元を破り、近江へ追放。畿内の実権を掌握 15

天文22年(1553年)

松永久秀・長頼兄弟と共に波多野秀親の数掛山城を攻めるが、晴元方の援軍の攻撃を受け戦死。嫡男・永貞も討死 17

波多野元秀(秀忠の子)、晴元方として三好・内藤連合軍と交戦。

三好長慶、将軍・足利義輝と対立。晴元は義輝と結ぶ 16

天文23年(1554年)

(死後)娘婿の松永長頼が「内藤宗勝」と名乗り、内藤家の家督と丹波守護代職を継承 19

三好政権、丹波支配を本格化。

第一章:丹波守護代・内藤氏の系譜

内藤国貞の生涯を理解する上で、彼が背負っていた「丹波内藤氏」という家の歴史と立場を把握することは不可欠である。丹波内藤氏は、藤原秀郷流、あるいは藤原道長流を称する藤原氏の末裔とされる一族である 20 。鎌倉時代には、周防(山口県)や甲斐(山梨県)など各地に内藤姓を名乗る御家人が存在し、大族として活動していた記録が見られる 21 。丹波内藤氏がこれらのどの系統から直接分岐したかは明確ではないが、室町幕府の成立と共に歴史の表舞台に登場する。

丹波国は、南北朝時代を経て、14世紀末の明徳の乱(1391年)以降、足利将軍家に近い細川京兆家が代々守護職を世襲する分国となった 23 。管領として京都に在住することが常であった細川氏に代わり、丹波の現地統治を担ったのが守護代である。当初は香西氏などが務めていたが、15世紀前半には細川氏の被官(家臣)であった内藤氏がその地位を世襲するようになり、丹波における細川氏支配の中核を担う存在となった 1 。彼らは船井郡(現在の京都府南丹市)の八木城を本拠地とし、丹波一円に権勢を振るった 25

国貞の直接の先代、特に彼の父である内藤貞正の時代は、丹波内藤氏の立場を決定づける重要な時期であった。貞正は、細川京兆家の家督を争った細川高国を熱心に支持し、その政権下で重きをなした 9 。永正17年(1520年)には、高国の敵対勢力であった細川澄元方の中心人物・三好之長(三好長慶の祖父)を打ち破る「等持院の戦い」で軍功を挙げるなど、高国派の重鎮として活躍した 9 。この時期、貞正は息子の国貞に守護代の職を譲り、自身は丹波国内の統治に専念するという、一種の分業体制を敷いていた可能性も指摘されている 9

この父の代からの政治的立場は、国貞の生涯に決定的な影響を与えた。国貞自身も、主君である高国から偏諱(名前の一字を授かること)を受け、「国」の一字を賜って「国貞」と名乗っている 8 。これは、当時の武家社会において、主君と家臣の極めて強い信頼関係と忠誠を示すものであった。つまり、内藤家は家を挙げて「細川高国派」に深く与していたのである。この選択は、高国が権勢を誇った時代には内藤家の地位を安泰にするものであったが、ひとたび政局が転換すれば、その立場を根底から揺るがす危険性を内包していた。高国が政争に敗れ、細川晴元が新たな権力者として台頭した時、国貞は父から継承した「負の遺産」と共に、困難な時代に立ち向かうことを余儀なくされたのである。

第二章:内藤国貞の登場と苦境

内藤国貞が丹波守護代として本格的に活動を開始した時期は、畿内情勢が激動の渦中にあった。当初、彼は父・貞正以来の路線を継承し、管領・細川高国の忠実な家臣として行動した。しかし、享禄4年(1531年)、高国が政敵である細川晴元とその配下の三好元長(三好長慶の父)に攻められ、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市)で自害に追い込まれると(大物崩れ)、国貞の運命は暗転する 4

畿内の新たな覇者となった細川晴元は、自らの政権を安定させるため、高国打倒に功績のあった丹波の在地国人・波多野秀忠(元清の子、元秀の父)を重用した 1 。波多野氏は、内藤氏と同じく細川氏の被官ではあったが、より在地に根を張った勢力であり、この時期に「丹波守護」を自称するほどに勢力を伸長させていた 1 。晴元は、旧高国派の重鎮であった国貞を意図的に疎んじ、代わりに波多野氏を登用することで、丹波国内の勢力図を塗り替え、自らの支配を盤石にしようと図ったのである。これにより、丹波国内では、伝統的な守護代である内藤氏と、中央権力と結びついた新興勢力である波多野氏との間に、深刻な対立構造が生まれた。

守護代としての権威を脅かされ、丹波国内で孤立を深めた国貞は、反撃の機会を窺っていた。天文7年(1538年)、かつての主君・高国の養子であった細川氏綱が、打倒晴元を掲げて和泉国で挙兵すると、国貞はこれに呼応した 12 。彼は高国恩顧の牢人衆を糾合し、居城である八木城に籠城して晴元政権に公然と反旗を翻したのである 1 。しかし、この挙兵は、丹波国内での劣勢を中央の反晴元勢力との連携によって挽回しようとする試みであったが、時期尚早であった。晴元は即座に討伐軍を派遣し、波多野秀忠や、当時は晴元方であった三好政長(三好長慶の同族)らが八木城を攻撃した 1 。衆寡敵せず、同年11月には八木城は陥落し、国貞の最初の反乱は失敗に終わった。

この敗北は、国貞の苦境をさらに深刻なものにした。彼の行動は、単に中央政局に追従したものではなく、晴元政権による丹波国内勢力への直接介入と、それに伴う自らの権力基盤の失墜に対する、追い詰められた守護代の必死の抵抗であった。しかし、この失敗により、彼は晴元政権下での復権が絶望的であることを悟り、より抜本的な生き残り策を模索せざるを得なくなった。この経験が、後に彼を新興勢力・三好長慶との連携へと向かわせる伏線となるのである。

天文年間における丹波国主要勢力関係図(天文22年頃)

【細川晴元方 陣営】

  • 中央
  • 細川 晴元(管領)
  • 足利 義輝(将軍)
  • 畿内武将
  • 三好 宗渭(政勝)
  • 香西 元成
  • 丹波国人
  • 波多野 元秀 (八上城主)
  • 一族:波多野 秀親(数掛山城主)
  • 赤井(荻野) 直正 (黒井城主)※当初は中立的、後に反三好

【三好長慶・細川氏綱方 陣営】

  • 中央
  • 三好 長慶 (畿内の実力者)
  • 細川 氏綱(管領・長慶の傀儡)
  • 畿内武将
  • 松永 久秀
  • 松永 長頼 (後の内藤宗勝)
  • 丹波国人
  • 内藤 国貞 (丹波守護代・八木城主)

【関係性の解説】

この図は、内藤国貞が戦死する天文22年(1553年)頃の丹波内外の複雑な対立構造を示している。

  1. 二大陣営の対立 : 畿内は、旧来の権威である 細川晴元 と、彼を追放して実権を握った 三好長慶 の二大勢力に分かれていた。将軍・足利義輝は晴元と結び、長慶に対抗していた 16
  2. 内藤国貞の立場 : 丹波守護代であった 内藤国貞 は、晴元に疎んじられた経緯から、三好長慶・細川氏綱の陣営に属していた 17 。彼は、三好氏の力を借りて、丹波国内での勢力回復を目指していた。
  3. 波多野氏の立場 : 一方、丹波の有力国人である 波多野元秀 は、父の代から晴元に重用されていたため、一貫して晴元方に属していた 28 。これにより、丹波国内では「内藤氏 vs 波多野氏」という代理戦争の構図が生まれていた。
  4. 国貞最期の戦い : 天文22年の合戦は、三好長慶の命を受けた松永久秀・長頼兄弟と内藤国貞が、晴元方の波多野秀親(元秀の一族)が守る数掛山城を攻めたことで始まった 17 。しかし、晴元方の援軍である三好宗渭・香西元成に背後を突かれ、国貞は戦死した。このことから、国貞の死は、畿内全土を巻き込んだ二大陣営の衝突の、まさに最前線で起きた悲劇であったことがわかる。

第三章:三好長慶との連携 ― 生存を賭けた選択

天文7年(1538年)の反乱失敗後、内藤国貞は雌伏の時を過ごすが、その間にも畿内の政治情勢は大きく変動していた。細川晴元政権の内部で、一介の家臣に過ぎなかった三好長慶が急速に台頭し始めたのである。長慶は、阿波国(徳島県)を本拠とする三好氏の出身で、父・元長は晴元のために働きながらも、晴元方の策謀により非業の死を遂げていた 16 。父の死後、家督を継いだ長慶は、晴元の家臣として各地を転戦し軍功を重ねる一方で、主家を凌駕するほどの強大な軍事力と政治力を蓄えていった 15

そして天文18年(1549年)、長慶はついに主君・晴元に反旗を翻す。晴元政権内部の対立を利用し、同族の有力者であった三好政長を「江口の戦い」で討ち取ると、その勢いのまま主君・晴元を京都から近江へと追放した 15 。この事実上の下剋上により、長慶は室町幕府の権威を形骸化させ、畿内における新たな覇者として君臨することになる。彼は、自らの権力掌握を正当化する「錦の御旗」として、かつて国貞が与した旧主・細川高国の養子、細川氏綱を新たな管領として擁立した 13

この三好長慶の台頭と、「反晴元・親氏綱」という新たな政治体制の出現は、不遇をかこっていた内藤国貞にとって、まさに千載一遇の好機であった。天文14年(1545年)に氏綱が再度挙兵した際にも国貞は呼応しており 8 、彼は一貫して反晴元・氏綱方の立場を取り続けていた。長慶が畿内の実権を握ったことで、国貞はついに強力な後ろ盾を得ることになったのである。

国貞が細川晴元という本来の主君を裏切り、その家臣であった三好長慶と結んだ選択は、一見すると不忠極まりない行為に映るかもしれない。しかし、これは戦国という時代の力学の中では、極めて合理的かつ現実的な戦略的判断であったと分析できる。第一に、旧主・高国への恩義と、その正統な後継者である氏綱を立てるという「大義名分」が存在した。第二に、晴元政権下で冷遇され続け、丹波国内ではライバルの波多野氏に圧迫されるという、座して死を待つほかない「現実的脅威」があった。そして第三に、畿内を席巻する三好長慶という圧倒的な軍事力を持つ「新たな権力への期待」があった。

国貞のこの決断は、戦国時代における「権力の本質」の変化を象徴する出来事であった。彼は、もはや名ばかりとなった管領・細川晴元という伝統的な権威に見切りをつけ、軍事力によって畿内を実効支配する三好長慶という新たな実力者と結ぶことを選んだ。これは、血筋や家格といった室町時代的な秩序から、実力主義が全てを支配する戦国大名領国制へと時代が大きく移行する、その過渡期に生きた武将の典型的な行動パターンであった。彼の選択は、観念的な「忠誠」よりも、家と領地の存続という現実的な「利益」と「安全保障」を優先する、戦国武将のリアリズムの表れだったのである 34

第四章:舎人院の合戦 ― 栄光なき最期

三好長慶という強力な同盟者を得た内藤国貞は、長年の宿願であった丹波国内における権力の回復へと動き出す。天文22年(1553年)、三好長慶は丹波の完全平定を目指し、腹心である松永久秀と、その弟で国貞の娘婿でもあった松永長頼(後の内藤宗勝)を大将とする軍勢を丹波へ派遣した 17 。国貞はこの三好軍の道案内役、あるいは先鋒として、長年の宿敵であった波多野氏の攻略戦に参加した。

彼らが目標としたのは、波多野元秀の一族である波多野秀親が守る数掛山城(かけやまじょう)であった 17 。この城は現在の京都府亀岡市本梅町付近に位置し 37 、国貞の居城・八木城と波多野氏の本拠・八上城の中間にあたる戦略上の要地であった。三好・内藤連合軍は、この城を包囲し、攻勢をかけた。

しかし、戦況は思わぬ形で暗転する。連合軍が数掛山城の攻略に手間取っている隙を突き、近江に逃れていた細川晴元が派遣した援軍が、戦場の背後に出現したのである。この援軍を率いていたのは、三好宗渭(政勝)と香西元成であった 17 。三好宗渭は長慶の同族でありながら晴元方に留まっていた人物であり、当時の勢力関係の複雑さを物語っている。彼らは連合軍の背後を強襲し、戦場は大混乱に陥った。

この乱戦の中で、内藤国貞は奮戦虚しく討死を遂げた。この彼の最期を伝える最も信頼性の高い一次史料が、公家・山科言継の日記である『言継卿記』である。その天文22年(1553年)9月3日の条には、「内藤国貞、於本目城被討死了」という記述が見られる 38 。本目城は数掛山城の別名、あるいは近隣の城と考えられており、国貞がこの戦いで命を落としたことは確実視されている。この戦いは、戦場の地名から「舎人院の戦い」とも呼ばれるが、その正確な場所については諸説あり、特定には至っていない。

この戦いの悲劇は、国貞一人の死に留まらなかった。当時、既に守護代としての権限を譲られつつあったとみられる嫡男の永貞(ながさだ)も、父と共にこの戦場で命を落としていたのである 17 。当主とその後継者を同時に失ったことにより、丹波守護代を代々務めてきた内藤氏の男系の嫡流は、ここに事実上断絶した。家と領地の安泰を賭けて新興勢力と結んだ国貞の選択は、結果として自らと家の滅亡を招くという、あまりにも皮肉な結末を迎えたのであった。

国貞の死は、彼個人の悲劇であると同時に、三好長慶の丹波支配戦略における大きな誤算であった。長慶の統治スタイルは、幕府の権威を利用しつつ、各地の有力な在地領主を味方につけて「緩やかに支配する」というものであった 40 。国貞は、その戦略を丹波で実行するための、まさに核となるべき「在地協力者」であった。彼の死によって、三好氏は丹波における権力の代理人を失い、支配戦略の転換を迫られることになった。結果として、より直接的かつ強硬な支配体制、すなわち腹心である松永長頼を送り込むという手段に訴えざるを得なくなったのである。国貞の死は、彼自身の意図とは関わりなく、丹波における三好氏の支配をより露骨で直接的なものへと変質させる、歴史の転換点となった。

第五章:国貞の死がもたらしたもの

内藤国貞と嫡男・永貞の同時戦死は、丹波内藤家に権力の真空を生み出した。この危機的状況に対し、畿内の覇者・三好長慶は迅速かつ巧みな手を打つ。彼は、自らの弟であり、かねてより国貞の娘を娶っていた松永長頼を、内藤家の後継者として八木城へ送り込んだのである 8 。長頼は、戦死した舅・国貞の名跡を継承し、「内藤備前守宗勝」あるいは「内藤蓬雲軒宗勝」と名乗り、丹波守護代の地位と八木城主の座を掌握した 19 。この家督継承は、細川氏綱の承認を得る形で行われ、丹波の国人衆にも通達された 8

この一連の出来事により、丹波内藤家の立場は根本的に変質した。国貞の時代、内藤氏は三好長慶と対等の同盟者という体裁を保っていたが、内藤宗勝の代になると、その実態は完全に三好氏の家臣団の一翼を担う存在となった 19 。内藤家は、いわば「三好化」されたのである。しかし、この変化は内藤氏の軍事力を飛躍的に増大させた。宗勝は、三好本家の強大な軍事力を後ろ盾に、丹波平定へと乗り出す。天文23年(1554年)から永禄2年(1559年)にかけて快進撃を続け、父祖の代からの宿敵であった波多野元秀を本拠地の八上城から追放し、氷上郡の「丹波の赤鬼」こと赤井(荻野)直正親子をも一時的に播磨へ駆逐するなど、丹波のほぼ全域を席巻するに至った 19 。国貞が果たせなかった丹波統一の夢は、皮肉にも彼の家を乗っ取った娘婿によって、一時的に実現されたのである。

国貞の死がもたらしたもう一つの重要な歴史的帰結は、彼の孫にあたる人物の誕生である。国貞の娘と内藤宗勝(松永長頼)の間に生まれたのが、後にキリシタン武将としてその名を歴史に刻むことになる内藤如安(ジョアン、本名:貞弘あるいは忠俊)であった 8 。国貞の戦死と、それに続く宗勝の入嗣という政治的変動がなければ、如安が丹波内藤家の後継者として歴史の表舞台に登場することはなかったであろう。国貞は、自らが知ることなく、丹波におけるキリスト教史の幕開けに繋がる遠因を作ったと言える。

しかし、宗勝による丹波支配もまた盤石ではなかった。永禄8年(1565年)、三木に追われていた赤井直正が反撃に転じ、宗勝は黒井城攻めの最中に奇襲を受けて戦死する 25 。これにより丹波における三好勢力は大きく後退し、機に乗じて波多野氏が八上城を奪還するなど 28 、丹波は再び在地国人が覇を競う群雄割拠の時代へと回帰していった。

内藤国貞の生涯と死、そしてその後の家の変遷は、戦国時代における「家」の継承原理がいかに流動的であったかを示す好例である。嫡男との同時戦死という権力の真空は、娘婿という「血縁の縁」を足がかりにした外部の軍事勢力(三好氏)によって即座に埋められた。これは、家の存続が純粋な血統の継承よりも、より大きな権力構造への帰属によって保証されるという、戦国時代の冷徹な現実を浮き彫りにしている。国貞の死は、丹波内藤家という一つの「家」が、時代の激流の中で再編・変質していく劇的なプロセスの序幕となったのである。

終章:内藤国貞の歴史的評価

内藤国貞は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人ではなく、戦国史の表舞台で華々しく活躍した人物でもない。彼の名は、しばしば主君を裏切り、戦に敗れて死んだ「歴史の脇役」として語られることが多い。しかし、彼の生涯を丹波国という地域史と、畿内中央の政治動乱という二つの文脈から深く考察する時、その姿はより複雑で多層的な様相を呈してくる。

第一に、国貞は戦国期における「守護代」という立場の典型的な苦悩を体現した人物として評価できる。中央の主君(細川氏)の権威が揺らぎ、分裂する中で、在地勢力(波多野氏)からの突き上げに直面するという二正面での困難に苛まれた。彼の行動は、この構造的なジレンマの中で、いかにして自らの家と領地を守り抜くかという、当時の多くの地方領主が共有していたであろう切実な課題への一つの回答であった。

第二に、彼を単に「裏切り者」や「悲劇の武将」と断じるのは一面的である。旧来の主君・細川晴元に背き、その家臣であった三好長慶に与した選択は、古い価値観から見れば不忠義であろう。しかし、それは同時に、もはや実体を失った伝統的権威に見切りをつけ、現実に畿内を支配する軍事力と統治能力を持つ新たな実力者と結ぶという、機を見るに敏な「現実主義者」としての側面を強く示している。彼の決断は、中世的な秩序が崩壊し、実力本位の近世へと移行する時代の大きな転換点を敏感に察知した、生き残りのための合理的な戦略であったと再評価することができる。

最後に、国貞の歴史的意義は、彼自身の功績よりも、彼の死がその後の歴史に与えた影響の大きさにある。彼は志半ばで戦場に倒れたが、彼の死が引き金となり、三好氏による丹波支配が本格化した。そして、その過程で娘婿の松永長頼が内藤家を継承し、その子である内藤如安が誕生した。国貞の存在がなければ、丹波がキリシタン布教の重要な拠点の一つとなる歴史は、大きく異なる様相を呈していたかもしれない 43

結局のところ、内藤国貞は、自らの意図を超えて、丹波の歴史を次のステージへと繋ぐ重要な伏線を残した人物であった。彼の生涯は、一人の武将の選択と死が、いかに大きな歴史の潮流を生み出し、次代の展開を準備するかを示す、興味深い事例として記憶されるべきであろう。

引用文献

  1. 戦国の世と丹波Ⅲ https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/3c21c92384cd047be5568af8719b1d3c.pdf
  2. 丹波戦国史 序章 ~細川家の混迷~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku0.html
  3. どん底と頂点の両方を知る男・細川晴元、巡る因果の行きつく先は? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=orRgzPXgdR0
  4. 大物崩れ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11089/
  5. 兵庫・丹波、但馬の里 https://www.asahi.co.jp/rekishi/2004-11-15/01.htm
  6. 亀岡市の 歴史文化の特徴 と関連文化財群 第3章 https://www.city.kameoka.kyoto.jp/uploaded/attachment/29247.pdf
  7. 守護代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E4%BB%A3
  8. F909 内藤季定 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F909.html
  9. 内藤貞正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E8%B2%9E%E6%AD%A3
  10. 明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑵ 〜奮闘する丹波武士波多野氏 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E8%A1%86%E3%80%8D%E2%91%B5%E3%80%80%E3%80%9C%E5%A5%AE%E9%97%98
  11. 富松城をめぐる戦乱の政治史的背景 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/background.html
  12. 歴史の目的をめぐって 細川晴元 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-30-hosokawa-harumoto.html
  13. 第32話「細川 晴元」29(全192回) - 戦国時代の名将・武将の群像(川村一彦) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887172229/episodes/1177354054887373709
  14. 明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑶ 〜縺れた権力闘争と丹波動乱の時代へ - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E8%A1%86%E3%80%8D%E2%91%B6%E3%80%80%E3%80%9C%E7%B8%BA%E3%82%8C
  15. 三好長慶の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46488/
  16. 三好長慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
  17. 内藤国貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%9B%BD%E8%B2%9E
  18. 細川晴元 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hosokawa-harumoto/
  19. 丹波戦国史 第二章 ~内藤宗勝の攻勢~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku2.html
  20. 頓宮氏と内藤氏 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/naitoh1.htm
  21. 内藤政優 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%94%BF%E5%84%AA
  22. 内藤氏伝来・二王清綱作の伝二王/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/31320/
  23. 丹波国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD
  24. 戦国の世と丹波 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h25tnb.pdf
  25. 【御依頼製作】守護代内藤家の居城、丹波三大城郭の1つ、八木城。 - 戦国の城製作所 https://yamaziro.com/2024/12/07/tanbayagi/
  26. 八木城 https://tanbou25.stars.ne.jp/yagijyo.htm
  27. 八木城 (丹波国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%9F%8E_(%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD)
  28. 波多野元秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%85%83%E7%A7%80
  29. 波多野秀忠 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/HatanoHidetada.html
  30. 【三好氏の台頭】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100010/ht010180
  31. 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/01.html
  32. 三好長慶(みよし ながよし) 拙者の履歴書 Vol.64~主家を超えた畿内の覇者 - note https://note.com/digitaljokers/n/ndb973b22096c
  33. 三好長慶は何をした人?「五畿を平定して信長に先駆けた最初の天下人になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagayoshi-miyoshi
  34. 戦国時代の同盟|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf7362318df3b
  35. 松永長頼 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MatsunagaNagayori.html
  36. 平成20年度 - 兵庫県立丹波の森公苑 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h20tnb.pdf
  37. 数掛山城跡 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1257.html
  38. 神尾山城とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  39. 内藤貞勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E8%B2%9E%E5%8B%9D
  40. 三好政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9
  41. 松永長頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E9%95%B7%E9%A0%BC
  42. BTG『大陸西遊記』~日本 京都府 南丹市~ https://www.iobtg.com/J.Nantan.htm
  43. 2024/05/20 京都ゆかりの「キリシタン武将 内藤如安」を知っていますか。 (田中 憲) http://www.kinugasa-catholic.jp/posts/post105.html
  44. 内藤ジョアン https://ebible.jp/ukon/naitou.html
  45. 光秀が来る前の丹波の状況は? - 迷い犬を拾った https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanba_3kyou.html
  46. 赤井 (荻野) 直正 ~ 赤井 悪右衛門 - 丹波市観光協会 https://www.tambacity-kankou.jp/spot/spot-3656/
  47. 波多野元秀 - Wikipedia https://wikipedia.cfbx.jp/wiki/index.php?title=%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%85%83%E7%A7%80&mobileaction=toggle_view_desktop