日本の歴史が、戦国乱世の終焉から織豊政権による天下統一、そして徳川幕府による新たな治世へと大きく舵を切った激動の時代。その渦中にあって、もう一つの巨大なうねり、すなわちキリスト教の伝来と禁教という、思想と文化の地殻変動を一身に受け止め、数奇な運命を辿った一人の武将がいた。その名を内藤如安(ないとう じょあん)という。
彼の生涯は、丹波国(現在の京都府中部と兵庫県東部)の守護代という名門の継承者として始まりながら、織田信長によって領地を追われ、キリシタン大名・小西行長の腹心として外交の最前線に立ち、ついには徳川家康によって異郷マニラへ追放されるという、まさに波瀾万丈の連続であった。しかし、その変転の激しい人生の軌跡を貫く一本の揺るがぬ軸があった。それは、洗礼名「ドン・ジョアン」に由来する「如安」の名が示す通り、彼のキリシタンとしての篤い信仰心である。
本報告書は、内藤如安という人物について、その出自から終焉に至るまでの全貌を、史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。彼が単なる一地方武将に留まらず、信仰を羅針盤として国際的な舞台で活動し、武士としてのアイデンティティとキリシタンとしてのそれとの間で、いかに葛藤し、独自の生涯を切り拓いていったのか。その多面的な実像に迫ることで、戦国から江戸初期という時代の持つ複雑さと奥行きを、一人の人間の生き様を通して浮き彫りにする。
内藤如安の人物像を理解する上で、その複雑な出自は避けて通れない。彼は丹波の名門守護代の血を引きながら、同時に戦国時代を代表する梟雄・松永久秀の一族でもあった。この二重性は、彼の生涯にわたるアイデンティティと行動原理を形成する上で、決定的な意味を持つことになる。
丹波内藤氏は、藤原北家秀郷流を称し、室町時代には管領・細川京兆家の直属の家臣(被官)として重用された一族である 1 。永享3年(1431年)、細川氏の命により丹波守護代に任じられた内藤信承が、船井郡八木(現在の京都府南丹市八木町)に拠点を構えたことから、内藤氏による丹波支配の歴史が始まった 1 。
しかし、その支配は決して安泰ではなかった。応仁の乱や、その後の細川家の内紛(高国派と晴元派の対立など)において、内藤氏は常に丹波の国人衆を率いて戦いの渦中に身を投じなければならなかった 1 。さらに、戦国時代に入ると、八上城の波多野氏など、丹波国内の新興勢力が台頭し、守護代としての内藤氏の権威は絶えず挑戦に晒されていた 1 。如安が継承することになる「内藤」という家名は、輝かしい伝統を持つ一方で、常に政争と戦乱の危険に満ちた、不安定なものでもあったのである。
この丹波の複雑な政治状況に、外部から強力な影響力をもって介入したのが、内藤如安の父、松永長頼(まつなが ながより)であった。長頼は、畿内に覇を唱えた三好長慶の重臣であり、後に織田信長と渡り合い「梟雄」と評される松永久秀の実弟である 4 。
優れた軍事能力を持つ長頼は、三好家の丹波方面軍司令官として活躍する中で、丹波守護代・内藤国貞(くにさだ)の娘を娶り、その婿となることで内藤家との関係を築いた 6 。これは、三好家の家臣に過ぎない長頼が、守護代格の内藤氏と姻戚関係を結ぶという、巧みな政略であった 8 。
決定的な転機は、天文22年(1553年)に訪れる。長頼が義父・国貞と共に波多野氏を攻めている最中、国貞が敵の攻撃を受けて戦死してしまう 3 。国貞には跡を継ぐべき男子がおらず、内藤家は断絶の危機に瀕した 8 。この機を逃さず、長頼は内藤家の軍勢を掌握して八木城を死守し、事実上、内藤家の実権を握ったのである 6 。
当初、長頼はあくまで後見役として、自身と国貞の娘との間に生まれた子・千勝丸(後の貞勝)に家督を継がせるという形をとった 8 。これは、外部の人間である長頼が名門を乗っ取ることに対する丹波国人衆の反発を和らげるための方便であったと考えられる 8 。しかし、やがて彼は出家して「宗勝(そうしょう)」と名乗り、ついには自らが「内藤備前守宗勝」を称して、名実ともに内藤家の当主となった 3 。これは、武力と策略によって名家の家督と領地を掌握するという、戦国時代における下剋上の一典型であった。
内藤如安(幼名:五郎丸、諱は貞弘、後に忠俊と改めたとされる)は、この内藤宗勝(松永長頼)と内藤国貞の娘の間に、天文19年(1550年)頃に生まれた 7 。彼の身体には、丹波の伝統的な権威である「内藤氏」の血と、畿内の新興勢力である「松永氏」の血という、二つの異なる性質の血が流れていた。
しかし、父・宗勝が築いた丹波支配は盤石ではなかった。永禄8年(1565年)、宗勝は「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正との戦い(黒井城の戦い)で急襲を受け、討死を遂げる 4 。これにより、まだ10代半ばであった如安は、父という最大の支柱を失い、周辺を赤井氏や波多野氏といった強敵に囲まれた極めて困難な状況の中で、父が築いたばかりの脆弱な支配権を継承することになったのである 13 。
彼が継いだ「丹波守護代・内藤家当主」という地位は、伝統的な権威に深く根差したものではなく、父の武力と三好家の後ろ盾という、極めて流動的で脆い基盤の上に成り立っていた。この出自の複雑さと、若くして直面した存亡の危機は、彼が既存の武家社会の価値観とは異なる、より絶対的で普遍的な権威、すなわちキリスト教の神へと精神的な拠り所を求める、重要な心理的土壌を形成したと推察される。
表1:内藤如安をめぐる主要人物関係図(第一章時点)
人物名 |
如安との関係 |
主要な役割・出来事 |
内藤 国貞 (ないとう くにさだ) |
祖父(母方) |
丹波守護代。細川高国派として活動。三好・松永勢と共に波多野氏と戦い戦死 3 。 |
松永 長頼(まつなが ながより) (内藤 宗勝) |
父 |
松永久秀の弟。三好長慶の家臣。国貞の娘婿となり、国貞の死後に内藤家を掌握 6 。赤井直正との戦いで戦死 4 。 |
松永 久秀 (まつなが ひさひで) |
伯父(父方) |
三好三人衆と対立し、後に織田信長に仕えた戦国時代の梟雄。 |
三好 長慶 (みよし ながよし) |
父の主君 |
畿内を支配した戦国大名。父・長頼を重用し、丹波方面を任せた 4 。 |
細川氏 (ほそかわし) |
(旧)主家 |
室町幕府管領家。丹波守護。内藤氏は代々その守護代を務めた 1 。 |
内藤 如安 (ないとう じょあん) |
本人 |
本報告書の主題。父の死により、若くして困難な状況下で内藤家の家督を継ぐ。 |
父の死によって不安定な権力の頂点に立たされた内藤如安。彼がその精神的支柱として見出したのは、武家の伝統的な価値観ではなく、海を越えて伝来したキリスト教の教えであった。この信仰の獲得は、彼の人生を決定的に方向づけ、やがて彼を「武将」という枠組みから解き放つことになる。
如安がキリスト教と出会ったのは、家督を継ぐ前後、永禄7年(1564年)から8年(1565年)にかけてのことである。彼は京にあったイエズス会の教会、いわゆる「南蛮寺」を訪れ、当時日本で活動していた高名な宣教師ルイス・フロイスから直接洗礼を受けた 16 。この時授かった洗礼名が「ドン・ジョアン」(Don João)であり、彼の通称「如安」はこの音を漢字で表したものである 18 。
彼の信仰は、単なる時流に乗ったものでも、政治的なポーズでもなかった。フロイスは、後に編纂した『日本史』の中で、如安を「日本人の誰よりも信仰厚くキリシタンの鑑」とまで記し、その信仰心の篤さを絶賛している 7 。この評価を裏付けるように、彼の行動にはキリスト教の教えが深く反映されていた。
元亀3年(1572年)以前、彼の母(禅宗の信徒であった)が都で仏僧に殺害されるという悲劇が起こった。この時、家臣たちは慣例に従い、禅宗の大本山である大徳寺に進物を贈るべきだと進言したが、如安はこれを断固として拒否。代わりに、母が殺害された日に八木城下に貧しい人々を招き、大規模な喜捨(施し)を行ったという 20 。これは、武家の伝統的な儀礼よりも、キリスト教的な慈善の精神を優先した彼の姿勢を明確に示している。また、彼の家臣団の中にも信仰は広まり、特に家政を預かる重臣であった内藤貞信は、如安の影響を受けて「トマス」の洗礼名を受け、熱心な信者となった 20 。
如安が信仰に深く帰依していく一方で、畿内の政治情勢は織田信長の台頭によって激変していた。室町幕府第15代将軍・足利義昭が信長と対立を深めると、如安は将軍方に与することを決意する。元亀4年(1573年)、彼は将軍の救援要請に応じ、2,000の兵を率いて上洛した 1 。伝承によれば、この時彼は十字架を刻んだ兜をかぶり、十字の旗を掲げていたとされ、自らがキリシタンであることを公然と表明して戦いに臨んだ 17 。
しかし、この選択は彼の運命を暗転させる。義昭を追放して畿内の実権を完全に掌握した信長にとって、将軍に味方した如安は討伐すべき敵となった。天正3年(1575年)、信長は明智光秀を総大将とする丹波攻略軍を派遣し、内藤氏の討伐を命じた 1 。
故郷・丹波を舞台にした数年にわたる攻防の末、天正6年(1578年)頃、ついに居城・八木城は光秀軍によって包囲される 21 。如安はよく耐えたが、城内から裏切り者が出て本丸に火が放たれると、明智軍が一挙に城内へとなだれ込み、城は陥落した 21 。この絶体絶命の状況で、多くの家臣が武士の習いとして切腹しようとするのを、如安は「死んではならん」と制して回ったという 21 。自ら命を絶つことを大罪とするキリスト教の教えを、武士としての名誉ある死よりも優先したのである。この行動は、彼のアイデンティティの優先順位が、もはや「武将」から「信仰者」へと完全に移行していたことを示す、象徴的な出来事であった。
八木城を脱出し、丹波の領主としての全てを失った如安は、信長に追われた将軍・足利義昭が庇護されていた備後国・鞆の浦(現在の広島県福山市)へと落ち延びた 21 。
武将としてのキャリアが絶たれたこの地で、彼はしかし、ただ雌伏していたわけではなかった。伝承によれば、如安はこの鞆の浦で約9年間にわたり、漢学やポルトガル語の習得に励んだとされる 21 。信仰をより深く理解したいという動機から始まったこの学問への探求は、結果として彼を単なる武人から、国際的な知見と語学力を備えた文化人へと変貌させた。この亡命期間は、彼の人生の次なる舞台、すなわち外交官としての活躍への重要な準備期間となったのである。
丹波を追われ、武将としての道を断たれた内藤如安。しかし、彼が鞆の浦で培った学識と、何よりも揺るぎない信仰は、新たな時代の支配者・豊臣秀吉の天下で、彼に意外な活躍の舞台を用意することになる。それは、キリシタン大名・小西行長の腹心として、東アジアを股にかける外交の最前線であった。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、キリシタンへの風当たりが強まる中、如安は京に戻っていた。そこで彼に声をかけたのが、堺の豪商であり、自身も熱心なキリシタンであった小西隆佐(こにし りゅうさ)であった 21 。隆佐は、如安がかつて洗礼を受けた京の南蛮寺を支援していた人物であり、如安の深い信仰と教養を知悉していた。
当時、隆佐の子である小西行長は、秀吉の家臣としてめきめきと頭角を現していた。商人出身でキリシタン(洗礼名アウグスティヌス)という異色の経歴を持つ行長は、武断派の加藤清正らとは一線を画し、主に水軍の指揮や兵站、外交交渉といった分野でその才能を発揮していた 25 。隆佐は、この息子の参謀として、丹波守護代としての統治経験、国際的な学識、そして何よりも共通の信仰を持つ如安こそが適任者だと考えたのである 21 。こうして如安は、小西行長に仕えることとなり、単なる家臣ではなく、外交を担うブレーンという特別な地位を得た 28 。
文禄元年(1592年)、秀吉は明の征服という壮大な野望を掲げ、朝鮮への出兵を開始する(文禄の役)。行長は第一軍の司令官として、加藤清正と先陣を競いながら朝鮮半島に上陸した 19 。如安もまた、行長軍の一員として渡海したと考えられる。
しかし、日本軍は朝鮮各地で義兵の激しい抵抗に遭い、さらに明が朝鮮の援軍として大軍を派遣すると、戦況は次第に膠着状態に陥った 30 。早期の戦争終結を望む行長は、明側の使者である遊撃使・沈惟敬(しん いけい)との間で、水面下での和平交渉を開始する 13 。この極めて困難な交渉において、日本側の使節として明の首都・北京へ赴くという大任を託されたのが、内藤如安であった 13 。
和平への道は、初めから絶望的な困難を抱えていた。秀吉が提示した和平の条件(和議七箇条)には、「明の皇女を天皇の后妃とすること」や「日明間の勘合貿易を復活させること」、「朝鮮半島の南四道を日本に割譲すること」といった、明側が到底受け入れられない非現実的な要求が含まれていたからである 31 。
このままでは交渉が決裂することは火を見るより明らかであった。そこで行長と沈惟敬は、秀吉と明の皇帝、双方の主君を欺いてでも和平を実現させるという、大胆極まりない策を講じる。それは、秀吉が明に「降伏」して臣下の礼をとり、明の皇帝から「日本国王」として認められることを願っている、という内容の偽りの国書(降表)を作成することであった 32 。
文禄2年(1593年)、如安はこの偽りの降表を携えて、北京へと旅立った。道中は困難を極め、抑留されることもあり、実に1年半近い歳月を経て、文禄3年(1594年)末にようやく北京に到着した 13 。如安は明の朝廷において、この偽りの降表に基づき、①日本軍の釜山周辺からの撤兵、②日本と朝鮮の和解、③日本が明の冊封体制に入り、朝貢以外の要求はしないこと、などを誓約した 32 。この交渉は見事に成功し、明は秀吉を「日本国王」に封じるための冊封使を日本へ派遣することを決定した。
この偽装工作は、自らの主君を欺くという、武士の道に悖る危険な賭けであった。しかし、それは無益な戦争を終結させたいという、行長と如安がキリシタンとして共有する「和平」への強い願いと、交易による繁栄を重視する現実的な判断に基づいた、国境を超えるスケールの政治的決断であったと評価できる。
慶長元年(1596年)、明の冊封使一行が来日し、大坂城で秀吉との謁見に臨んだ。しかし、そこで読み上げられた明の皇帝からの国書(誥勅)は、「茲(ここ)に特に爾(なんじ)を封じて日本国王と為す」という、秀吉を臣下として扱う内容であった 36 。
自らが明を征服するはずが、逆に臣下として扱われたことに、秀吉は激怒した 13 。行長と如安らによる偽装工作は完全に露見し、和平交渉は破綻。秀吉は直ちに再出兵を命じ、戦火は慶長の役として再び朝鮮半島を覆った 13 。この外交的失敗は、行長や石田三成ら文治派の失墜を招き、豊臣政権内に深刻な亀裂を生じさせ、後の関ヶ原の戦いへと繋がる遠因となったのである。歴史の歯車を動かそうとした如安の外交努力は、最高権力者の怒りの前に水泡に帰した。
秀吉の死後、豊臣政権内の対立は決定的となり、天下分け目の関ヶ原の戦いへと至る。主君・小西行長と共に西軍に与した内藤如安は、敗戦によって再び全ての基盤を失い、流浪の身となる。しかし、この苦難の時代において、彼の行動原理はより一層明確になる。それは、地上のいかなる権力者への忠誠よりも、「神への忠誠」と「信仰共同体への責任」を優先するという、キリシタンとしての生き方であった。
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原で西軍が敗れると、その主力であった小西行長は捕らえられ、京都の六条河原で斬首された 37 。キリシタンであった行長は、武士の名誉である切腹を拒み、捕縛される道を選んだと伝えられる 38 。
その頃、如安は行長の弟・小西行景と共に、行長の居城であった肥後国・宇土城(現在の熊本県宇土市)の守備にあたっていた 37 。しかし、関ヶ原での勝利の勢いに乗る東軍の加藤清正の大軍に城を包囲されると、抗戦は不可能と判断し、降伏・開城した 37 。
その後、如安は一時的に加藤清正に仕えることとなる 19 。清正は熱心な日蓮宗の信者であり、キリシタンに対しては厳しい姿勢で知られていた。にもかかわらず如安が仕官したのは、自らの身分を保証してもらうことと引き換えに、清正の領内にいたキリシタンたちの信仰の自由を保証させる、という条件があったためだとされる 21 。この時点で彼は、もはや一個人の武将としてではなく、信仰共同体の保護者、代表者として行動していたことがうかがえる。
しかし、清正との共存は長くは続かなかった。慶長8年(1603年)、清正は約束を破り、領内のキリシタンに対して棄教を強制する弾圧を開始した 21 。
この背信行為に対し、如安は驚くべき行動に出る。彼は清正に反旗を翻すのではなく、密かに同じキリシタン大名であった黒田官兵衛(如水)らと連絡を取り、領内の信者たちを安全な場所へ脱出させる手はずを整えた。そして、全ての信者が肥後から逃れたことを見届けた後、自らも加藤家を去ったのである 21 。この一連の行動は、地上の主君への忠誠という武士の規範が、彼の中では、信仰共同体を守るという神への責任によって完全に上書きされていたことを明確に物語っている。
加藤家を去った如安は、まず同じキリシタン大名であった肥前の有馬晴信のもとへ一時身を寄せた 19 。その後、旧知の仲であり、当時、加賀藩で前田利長に客将として厚遇されていた高山右近から招きを受けることになる 37 。
高山右近の斡旋により、如安は加賀藩主・前田利長に客将として迎えられた 19 。当時の加賀藩は、右近をはじめ、後に加わることになる浮田休閑など、多くのキリシタン武士を庇護しており、全国的にキリスト教への風当たりが強まる中で、比較的信仰が自由に行える稀有な場所であった 42 。
慶長8年(1603年)に加賀に移った如安は、ここから慶長19年(1614年)に国外追放されるまでの約10年間、高山右近らと共に布教活動にも関わりながら、その波乱の生涯において束の間と言える平穏な日々を過ごした 40 。彼の流浪の旅は、もはや領地や俸禄といった武士的な価値を求めるものではなく、「信仰を実践できる場所」を求める巡礼の旅であった。その終着点として、彼は加賀の地を選んだのである。
加賀藩での平穏な日々は、徳川幕府による全国的な禁教政策によって、突如として終わりを告げる。しかし、この最後の試練とも言える国外追放は、内藤如安の生涯を「敗北」や「亡命」で終わらせるものではなかった。むしろそれは、彼のアイデンティティが「武将」から「信仰者」へ、そして最終的には国境を越えた「共同体の構築者」へと昇華する、究極の舞台となったのである。
慶長19年(1614年)、天下をほぼ手中に収めた徳川家康は、キリスト教の教えが幕府の支配体制と相容れないと判断し、全国にキリシタン禁教令を発布した。これにより、宣教師はもとより、高山右近や内藤如安といった高位の信徒に対しても、国外追放という厳しい処分が下された 19 。
この時、如安は加賀藩で客将として安定した地位にあった。棄教すれば、その身分は保証されたであろう。しかし彼は、高山右近や、日本で最初の女子修道会を創立したとされる実の妹・ジュリアらと共に、信仰を守るために故国を追われる道を選んだ 13 。
同年、如安らは長崎の港から、スペインの植民地であったフィリピンのルソン島マニラへと、過酷な船旅に出た 45 。彼らがマニラに到着すると、そこでは予想だにしない光景が待っていた。
当時のフィリピン総督フアン・デ・シルバをはじめとするスペイン当局は、大名の地位を捨ててまで信仰を貫いた高山右近や、その同志である内藤如安らを「信仰の英雄」として認識していた。そのため、彼ら一行が乗る船が入港すると、礼砲が撃ち鳴らされ、岸壁は歓迎の市民で埋め尽くされるなど、国賓級の盛大な歓迎を受けたのである 15 。幕府にとっては最大の懲罰であった追放が、カトリック世界においては最高の名誉として迎えられた瞬間であった。
しかし、マニラの気候と長旅の疲労は、高齢であった右近の体を蝕んだ。彼はマニラ到着後わずか40日で熱病にかかり、この世を去ってしまう 46 。信仰共同体の偉大な指導者を失った後、残された日本人キリシタンたちの精神的、そして実質的な支柱となったのが、内藤如安であった。
右近の死後、如安はそれまで特別に居住を許されていた城壁都市イントラムロスを出て、近隣のサン・ミゲル地区に、追放されてきた日本人たちのための町を建設したと伝えられる 48 。彼はこの日本人町の指導者として、追放後の約12年間の晩年を過ごした。
1626年にマニラに赴任したイエズス会士フランシスコ・コリン神父が、如安の最期を記録に残している。それによれば、如安はその語学力や医学の知識を活かし、宗教的な書物の日本語への翻訳や、現地の人々への医療援助などを行い、極めて模範的な信仰生活を送っていたという 50 。かつて丹波という「藩(くに)」を治めた領主は、最期の地で、信仰を共有する人々の「共同体(コミュニティ)」を導く指導者となった。彼の人生は、土地に根差した封建的な価値観から、信仰という普遍的な価値観に基づく共同体形成へと、見事な変容を遂げたのである。
寛永3年(1626年)、内藤如安は長く患っていた病(記録によればひどい頭痛)により、マニラにてその波乱の生涯を閉じた。享年は76歳前後であったと伝えられる 18 。
コリン神父の記録によれば、彼の葬儀は非常に丁重に執り行われ、フィリピン総督や王室評議会の議員たちが自らその棺を担ぎ、多くの人々が彼の死を篤く悼んだという 50 。
今日、マニラ市内の聖ヴィンセント・デ・ポール教会には、彼の終焉の地を示す記念碑が建てられている 37 。そして、このキリシタン武将が結んだ縁は時を超え、彼の故郷である京都府南丹市(旧八木町)とマニラ市との間で、姉妹都市提携という形で受け継がれている 15 。
内藤如安の生涯は、戦国武将として生まれながらも、その枠組みに収まることなく、信仰という絶対的な羅針盤を手に、時代の荒波を乗り越えていった稀有な物語である。丹波の若き領主、信長に追われた亡命者、小西行長の外交顧問、関ヶ原後の流浪の客将、そしてマニラの日本人共同体指導者。彼の立場と舞台は目まぐるしく変わったが、その全ての行動の根底には、一貫して「ドン・ジョアン」としてのキリスト教信仰が存在した。
彼の人生は、武士の規範よりも信仰の教えを、地上の主君への忠誠よりも天上の神と信仰共同体への責任を優先するという、類稀な選択の連続であった。八木城落城の際に自害を禁じた判断、加藤清正の弾圧に際して信者を逃がすことを選んだ決断、そして加賀での安寧を捨ててマニラへの追放を受け入れた覚悟。その全てが、彼のアイデンティティの核心がどこにあったかを雄弁に物語っている。
彼の物語を今日我々が知ることができるのは、ルイス・フロイスの『日本史』やイエズス会の年報といった、ヨーロッパからもたらされた史料の存在に負うところが大きい 20 。もしこれらの記録がなければ、彼の名は丹波の一地方領主として歴史の中に埋もれ、その信仰に根差した国際的な活動や、マニラでの晩年の姿が詳らかになることはなかったであろう。内藤如安の生涯は、戦国という時代が内包していたグローバルな側面と、個人の信念が歴史を動かしうる可能性を、我々に鮮やかに示してくれるのである。