最終更新日 2025-07-02

内藤宗勝

三好政権の柱石、丹波に散る ― 内藤宗勝(松永長頼)の生涯と時代

序章:梟雄の弟、猛将・松永長頼

戦国時代、主君を凌駕し、将軍を弑逆、東大寺大仏殿を焼き払ったとされる「梟雄」松永久秀。その強烈な個性と逸話は、今なお多くの人々を惹きつけてやまない。しかし、その久秀に、兄よりも先に武勇をもって主君・三好長慶の信頼を勝ち取り、三好政権の屋台骨を支えた一人の弟がいたことは、あまり知られていない。その人物こそ、松永長頼、後の内藤宗勝である 1

通称を甚介と称した長頼は、兄・久秀と同様にその出自が詳らかではない 3 。しかし、その人物像は兄とは対照的であったと伝わる。謀略や政治を得意とした「頭脳派」の久秀に対し、長頼は戦場での駆け引きに長けた「武勇の人」であり、その人柄も誠実であったという 4 。この兄弟の対照的な資質こそ、三好長慶が畿内に覇を唱える過程で、松永一族が重用されるに至った要因の一つであった。

実力主義が支配する戦国の世において、主君の信頼を得る最も確実な道は、戦場での功績である。松永長頼がその卓越した軍事的才幹によって三好家中で確固たる地位を築いたことは、一族全体の評価を高めることに繋がった。弟が戦場で打ち立てた「戦に強い松永」という名声は、兄・久秀が祐筆(秘書官)として長慶の側近くに仕え、やがて政権の中枢でその政治的手腕を発揮するための大きな足掛かりとなったのである。長頼の「武」が、久秀の「智」が活躍する舞台を整えたという、この兄弟間の相互補完的な関係性は、松永一族の躍進を理解する上で欠くことのできない視点である。

本報告書は、これまで「松永久秀の弟」という枕詞のもとに語られがちであったこの武将を、独立した一個の将帥として捉え直し、三好政権の興隆と、その後の丹波支配、そして悲劇的な最期に至る生涯を徹底的に追跡するものである。彼の生涯を解き明かすことは、三好政権の構造と、その栄光と没落の軌跡をより深く理解することに他ならない。

第一部:三好政権の尖兵

第一章:畿内での武功と台頭

松永長頼が歴史の表舞台にその名を現すのは、主君・三好長慶が宿敵・細川晴元を破り、畿内の覇権を掌握し始めた時期と重なる。天文18年(1549年)、江口の戦いに勝利した長慶が京都に入ると、長頼は同年中に丹波守護格の細川氏綱から山城国山科七郷を与えられ、さらに天龍寺領であった西岡長井荘の下司職に任じられている 2 。この時点で、京都近郊の経済的、軍事的な要衝の管理を任されていることから、すでに長慶から厚い信頼を寄せられていたことがうかがえる。

長頼の軍事司令官としての評価を決定づけたのが、三好政権の京都支配を盤石にするための二つの重要な戦いであった。一つは、天文19年(1550年)の中尾城の戦いである。京都を追われた将軍・足利義輝と細川晴元が、近江の六角定頼の支援を得て京都奪還を試みた際、長頼は三好軍の先鋒大将として近江国坂本へ進軍し、放火を実行した 2 。この動きは、京都東山の中尾城に籠る将軍軍の背後を脅かすものであり、挟撃を恐れた義輝は城を自ら焼き払って近江堅田へと退却せざるを得なくなった 2 。これは、単なる一戦闘の勝利に留まらず、軍事力によって将軍の権威を物理的に京都から排除するという、三好政権の基本戦略を体現するものであった。

そしてもう一つが、天文20年(1551年)7月の相国寺の戦いである。細川晴元方の三好宗渭(政勝)、香西元成らが約3,000の兵を率いて京都に侵攻し、相国寺に布陣した 2 。これに対し、長頼は兄・久秀と共に摂津・河内・大和から4万と号する大軍を動員してこれを包囲、圧倒的な兵力差をもって敵軍を撃ち破った 2 。この戦いで長頼は総大将格として軍を指揮しており 3 、三好軍の中核を担う将帥としての地位を不動のものとした。

これらの軍功を通じて、長頼は三好長慶の「京都支配モデル」を軍事面で実行する中心人物となった。すなわち、将軍勢力を武力で威圧・排除し、同時に京都周辺の経済的要所を代官として直接掌握することで、三好氏による実効支配を確立するという役割である。彼の活躍なくして、三好政権初期の安定はあり得なかったと言えよう。

第二章:丹波への布石 ― 内藤家との縁組

三好氏が畿内の支配を固める中で、次なる戦略目標となったのが、京都の北西に位置する丹波国であった。丹波は首都防衛の観点からも、また山陰道へと通じる交通の要衝としても、極めて戦略的価値の高い地域であった。しかし、当時の丹波は一筋縄でいく土地ではなかった。守護代を務める内藤氏を筆頭に、多紀郡には波多野氏、氷上郡には赤井氏といった有力な国人領主が割拠しており、それぞれが独立性を保っていた 6

この複雑な情勢の丹波国に、三好氏が影響力を浸透させるための楔として送り込まれたのが、松永長頼であった。長頼は、丹波守護代であった内藤国貞の娘を妻として迎える 3 。これは単なる政略結婚に留まらない、既存の身分秩序を揺るがす一手であった。本来、守護代格の内藤氏の婿に相応しいのは、同じく守護代格である三好氏の当主クラスである 8 。その一介の家臣に過ぎない長頼が国貞の娘婿となったことで、三好氏と対等な同盟者であったはずの内藤氏は、事実上、三好氏の家臣と同格、すなわち三好氏に従属する立場へと組み替えられてしまったのである 6

この婚姻は、三好氏の丹波攻略が、単なる武力制圧ではなく、現地の権威構造を内部から取り込む形ですすめられたことを示している。長頼は、その武勇と政治的センスを見込まれ、この高度な戦略の実行者として選ばれたのであった。

第二部:丹波の支配者・内藤宗勝

第三章:内藤家乗っ取りの真相 ― 八木城の攻防と名跡継承

松永長頼が丹波支配の足がかりを掴む決定的な転機は、天文22年(1553年)に訪れた。この年、長頼は兄・久秀と共に丹波に出陣し、反三好方の波多野氏の城を攻撃していた。その隙を突かれ、義父である丹波守護代・内藤国貞が敵の援軍の攻撃を受け、戦死するという事件が起こる 2 。国貞の居城であった八木城(船井郡)はたちまち落城の危機に瀕したが、長頼はすぐさま軍を返して八木城に入ると、巧みな指揮で城を死守することに成功した 2 。この目覚ましい軍功が、彼を内藤家の実質的な後継者へと押し上げる直接的な契機となった。

国貞には男子がいなかったため 8 、内藤家の家督継承が大きな問題となった。ここで長頼は、自らが当主となるのではなく、国貞の娘である妻との間に生まれた息子・千勝(後の貞勝)を新たな当主として擁立し、自らはその後見人という形で実権を握るという巧みな手法をとった 2

しかし、三好氏の家臣筋である長頼が、丹波の名門・内藤家を牛耳ることに対し、現地の国人衆は強く反発した 8 。この反発を抑え込むために、長頼は主君・三好長慶と、長慶が擁立する丹波守護格・細川氏綱の権威を利用した。氏綱の名で丹波国人衆に宛てて発給された書状には、「内藤家の跡目は、生前の国貞と長頼との契約通り、千勝が継承する」「長頼は分別をもって、自らは身を引き息子に相続させた」といった内容が記されていた 8 。これは明らかに、国人衆の反発を和らげるための後付けの説明であり、一種の方便であった。さらに書状の末尾には「詳細は三好筑前守(長慶)が申し伝えるであろう」と添えられており、これに従わぬ場合は三好氏が軍事力をもって介入することを示唆する、強い圧力がかけられていた 8

この一連の過程は、三好政権、そして松永兄弟が得意とした「権威の乗っ取りと正当化」の典型例である。まず武力(八木城死守)によって実質的な支配権を確保し、次に既存の権威(守護・細川氏綱)を利用して反対派を抑え込み、最終的に名跡ごと自らの支配体制に組み込む。この計算され尽くした手法は、後に兄・久秀が大和国で展開する権力掌握術とも通底しており、松永兄弟が単なる武辺者ではなく、高度な政治的謀略にも長けていたことを示している。

当初は後見人として内藤家を率いていた長頼であったが、やがて出家して「蓬雲軒宗勝」と号し 3 、弘治2年(1556年)頃には「内藤宗勝」と名乗り始める 4 。さらに永禄年間には、内藤氏歴代当主が称した官途名である「備前守」を名乗り、名実ともに内藤家の当主となった 8 。ここに、松永長頼は丹波の支配者・内藤宗勝として、新たな道を歩み始めるのである。

内藤宗勝(松永長頼)関連年表

西暦(和暦)

名乗り・役職

主要な出来事(合戦、政治的活動)

関連人物

典拠史料・資料

生年不詳

松永長頼(甚介)

松永久秀

2

1549年(天文18年)

松永長頼(甚介)

三好長慶の上洛に伴い、山城国山科七郷・長井荘を与えられる。

三好長慶, 細川氏綱

2

1550年(天文19年)

松永長頼(甚介)

中尾城の戦い。先鋒大将として近江坂本に放火し、足利義輝を退却させる。

足利義輝, 細川晴元

2

1551年(天文20年)

松永長頼(甚介)

相国寺の戦い。総大将格として三好宗渭・香西元成軍を撃破。

松永久秀, 三好宗渭

2

1553年(天文22年)

松永長頼(甚介)

義父・内藤国貞が戦死。八木城を死守し、子・千勝の後見人となる。

内藤国貞, 波多野元秀

2

1554年(天文23年)

内藤宗勝(松永長頼)

「内藤宗勝」を名乗り始める。内藤家を事実上継承。

6

1558年(永禄元年)

内藤宗勝

丹波氷上・天田両郡を平定し、赤井氏を追う。

赤井時家, 荻野直正

6

1559年(永禄2年)

内藤宗勝

波多野元秀の八上城を陥落させ、丹波の大部分を平定。

波多野元秀

6

1562年(永禄5年)

内藤備前守宗勝

河内教興寺の戦いに、丹波国衆を率いて参陣。

畠山高政, 三好長慶

2

1565年(永禄8年)

内藤備前守宗勝

8月2日、丹波黒井城を攻撃中、赤井(荻野)直正に敗れ戦死。

赤井直正

2

第四章:丹波平定戦と統治

内藤宗勝として丹波の支配者となった彼は、三好氏の強大な軍事力を背景に、領内の平定事業を精力的に推し進めた。その拠点となったのが、彼自身が死守した八木城である。宗勝は、元々内藤氏の臨時的拠点に過ぎなかったこの城を大規模に拡張・整備し、丹波支配の中核を担う堅固な山城へと変貌させた 11 。このことは、彼の丹波支配が長期的かつ安定的な視点に立っていたことを示している。

宗勝の軍事行動は迅速かつ効果的であった。永禄元年(1558年)には氷上郡と天田郡を平定し、この地の有力国人であった赤井時家・荻野直正親子を播磨国三木へと追いやった 6 。翌永禄2年(1559年)には、長年の宿敵であった波多野元秀の居城・八上城を陥落させ、波多野氏を屈服させた 6 。これにより、一部の独立勢力を除き、丹波国のほぼ全域が宗勝の支配下に置かれることになった。

しかし、宗勝の役割は丹波一国の統治に留まらなかった。彼は三好長慶の主力武将として、政権の軍事行動に動員され続けた。永禄5年(1562年)に三好氏と宿敵・畠山高政との間で行われた教興寺の戦いでは、丹波の国人衆を率いて参陣し、三好軍の勝利に貢献している 2 。これは、宗勝が三好政権にとって、丹波方面の抑えであると同時に、畿内各地に展開可能な機動戦力としても極めて重要な存在であったことを物語っている。

だが、その支配は決して盤石なものではなかった。永禄4年(1561年)、反三好の旗幟を鮮明にする若狭国の武田義統が、越前の朝倉義景の支援を受けて丹波に侵攻すると、宗勝はこれに敗北を喫してしまう 6 。この敗戦は、宗勝の軍事的権威に傷をつけ、一度は服従したかに見えた丹波の国人衆、特に波多野氏や赤井氏が再び反抗的になる絶好の機会を与えた 4 。丹波の地は、再び不穏な空気に包まれ始める。

第三部:落日の刻

第五章:黒井城の悲劇 ― 「丹波の赤鬼」との死闘

内藤宗勝の丹波支配に、最後の、そして最大の壁として立ちはだかったのが、一度は播磨へ追いやったはずの荻野(赤井)直正であった。勢力を回復して丹波に戻った直正は、その勇猛さと巧みな戦術から「丹波の赤鬼」と称され、近隣にその名を轟かせる猛将となっていた 12 。彼は単なる武勇一辺倒の人物ではなく、幕府への忠節を重んじるなど、在地領主としての信望も厚く 15 、外部勢力である宗勝にとって最も厄介な敵であった。

永禄8年(1565年)8月2日、宗勝は丹波統一の総仕上げとして、赤井直正が籠る黒井城(氷上郡)への総攻撃を開始した。しかし、これが彼の運命を決定づける最後の戦いとなる。城を攻めあぐねる内藤軍に対し、直正は隙を突いて城から打って出て、猛烈な反撃に転じた。この奇襲攻撃により内藤軍は総崩れとなり、総大将の内藤宗勝は奮戦の末、この地で討死を遂げたのである 2

公卿・山科言継の日記『言継卿記』によれば、この戦いで宗勝と共に討ち取られた兵は260名にのぼると記されており 2 、一説には700名とも伝わる 2 。いずれにせよ、軍の中核が壊滅するほどの決定的な敗北であったことは間違いない。戦いの場所は、天田郡(現在の福知山市)か何鹿郡(現在の綾部市)のいずれかとされる 2

この敗北は、単なる一武将の戦死に留まらない。それは、三好政権という中央の論理が、丹波という土地に深く根を張った在地領主の抵抗の前に、最終的に打ち破られた象徴的な出来事であった。宗勝の支配は、三好氏という巨大な後ろ盾に依存したものであり、その基盤は在地社会に深く浸透する前に、赤井直正という不世出の猛将によって打ち砕かれた。宗勝の敗因は、個人の力量不足というよりも、三好政権が推し進めた急進的な支配拡大策が内包していた構造的脆弱性が、最も手強い敵を前にして露呈した結果であったと言えるだろう。

第六章:宗勝の死がもたらしたもの

内藤宗勝の戦死は、丹波一国にとどまらず、畿内全体の政治情勢に大きな衝撃を与えた。まず、三好氏の丹波支配は、その支柱を失ったことで完全に瓦解した。宗勝の死の報を受けるや、雌伏していた波多野氏や赤井氏などの丹波国人衆は一斉に蜂起。翌永禄9年(1566年)2月には、波多野元秀が八上城を奪還し、三好氏の勢力は丹波から完全に駆逐されてしまった 2 。宗勝が十数年をかけて築き上げた丹波支配は、彼の死と共に一夜にして水泡に帰したのである。

さらに、宗勝の死は三好政権内部の権力バランスを大きく揺るがした。兄・松永久秀にとって、弟・宗勝は単なる血縁者ではなく、政権内における最大の軍事的な支えであった。その宗勝を失ったことで松永派の力は著しく低下し、これが三好長逸、三好政康、岩成友通ら「三好三人衆」との権力闘争を激化させる一因となった 17 。これまで宗勝という重石によって抑えられていた三人衆は、久秀に対してより強硬な姿勢を取りやすくなり、やがて両者の対立は修復不可能な段階へと進んでいく。

そして、宗勝の死は、その息子たちの運命をも大きく変えた。家督は嫡男の貞弘、すなわち後のキリシタン大名・内藤如安が継いだとされる 2 。しかし、父の横死と三好家の内紛という混乱の中で、彼が丹波における実権を維持することは不可能であった 9 。奇しくも如安が洗礼を受けたのは、父・宗勝が戦死したのと同じ永禄8年(1565年)のことであった 9 。父の悲劇的な死と、拠って立つべき領国の喪失という絶望的な状況が、若き日の彼を深く信仰の道へと導いたことは想像に難くない。如安はその後、足利義昭、織田信長、小西行長らに仕え、信仰に生きた波乱の生涯を送ることになる。

終章:内藤宗勝の歴史的評価

内藤宗勝(松永長頼)は、戦国史において兄・松永久秀の巨大な影に隠れ、その実像が十分に語られてきたとは言い難い。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、三好政権の興亡において彼が果たした極めて重要な役割が浮かび上がってくる。

第一に、宗勝は三好政権の軍事的な「柱石」であった。兄・久秀が卓越した政治手腕で政権を運営する「宰相」であったとすれば、宗勝は数々の合戦で勝利を重ね、政権の武威を示す「大将軍」であった。彼の軍事力なくして、主君・三好長慶の畿内制覇は成し得なかった可能性が高い。

第二に、彼は優れた軍事指揮官であると同時に、内藤家継承の過程で見せたように、高度な政治的嗅覚を併せ持つ武将であった。しかし、その丹波支配は三好氏という外部の権力に大きく依存しており、在地社会に深く根を下ろすまでには至らなかった。彼の生涯は、三好政権の急成長と、その内実の脆さを同時に体現していると言える。

宗勝が歴史の中に埋もれてしまった理由は、いくつか考えられる。兄・久秀のあまりにも強烈なキャラクター、三好政権自体が織田信長登場前の過渡的な政権と見なされがちなこと、そして何よりも、彼の丹波支配が一代で終わり、確固たる勢力として後世に繋がらなかったことが大きい。

しかし、内藤宗勝は決して単なる「久秀の弟」ではない。彼は自らの武勇と才覚で道を切り拓き、一時は丹波一国を平定し、三好政権の命運を左右するほどの存在感を示した、戦国時代を代表する武将の一人であった。彼を正当に評価することなくして、三好長慶から織田信長へと至る畿内政治史の転換点を正確に理解することはできないであろう。

補遺:内藤宗勝ゆかりの地を訪ねて

八木城跡(京都府南丹市・亀岡市)

内藤宗勝がその拠点とし、丹波支配の中核を担った八木城は、現在もその遺構をよく留めている。黒井城、八上城と並び「丹波三大山城」の一つに数えられるこの城は、宗勝の時代に大規模な拡張・整備が行われたと考えられている 7

  • 現状と概要: 城跡はJR嵯峨野線「八木」駅の南西に位置する城山(標高約330メートル)にあり、山頂の本丸を中心に、尾根筋に多数の曲輪や堀切、石垣が配された広大な山城である 19 。保存状態は良好で、戦国期の山城の姿を今に伝えている。
  • 見どころ: 山頂の本丸跡からは八木町内や亀岡盆地を一望できる。また、近世天守台の祖形ともいわれる「金之間曲輪」や、領主一族の生活空間であったと推測される「奥方屋敷曲輪」など、『八木城古絵図』に記された区画を現地で確認できるのが大きな魅力である 20
  • アクセス: JR「八木」駅から登山口までは徒歩約15分。そこから山頂の本丸跡までは約1時間ほどの登山となる。複数の登山コースが整備されており、初心者でも比較的登りやすい 21

龍興寺(京都府南丹市)

八木城の麓にある龍興寺は、八木城主であった内藤家の菩提寺と伝わる臨済宗の名刹である 24 。寺伝によれば室町幕府管領・細川勝元による創建とされ、京都三龍(龍安寺、龍潭寺、龍興寺)の一つにも数えられている 24 。また、塔頭寺院である東雲寺の敷地は、内藤家の居館跡であったともいわれる 26 。しかし、内藤宗勝自身の墓所や供養塔、あるいは彼に直接関わる記録や遺品などは、現在のところ確認されていない 27

墓所・供養塔に関する考察

内藤宗勝の明確な墓所が今日に伝わっていないという事実は、彼の最期の状況を雄弁に物語っている。彼は敵地である黒井城近辺での合戦において、軍が壊滅するという悲劇的な状況下で戦死した。このような状況では、遺体が丁重に回収され、菩提寺である龍興寺に埋葬される余裕はなかったと考えるのが自然である。敵将であった赤井直正が宗勝の遺体を丁重に葬ったという記録も見られない。

おそらく彼の遺体は戦場の露と消えたか、あるいは現地で埋葬されたとしても、支配者の交代と混乱の中でその場所はすぐに分からなくなってしまったのであろう。そして、彼の死によって丹波における内藤(松永)氏の支配は完全に終焉を迎えたため、後年に供養塔が建てられることもなかった。菩提寺はあれども、祀られるべき墓がない。この事実は、内藤宗勝という武将の存在が、その死と共に丹波の地から完全に消し去られてしまったことを、静かに示している。

引用文献

  1. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E9%95%B7%E9%A0%BC#:~:text=%E6%9D%BE%E6%B0%B8%20%E9%95%B7%E9%A0%BC%2F%E5%86%85%E8%97%A4%20%E5%AE%97%E5%8B%9D,%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%80%82
  2. 松永長頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E9%95%B7%E9%A0%BC
  3. 松永長頼 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MatsunagaNagayori.html
  4. 松永長頼 あの松永久秀の弟にして、強く誠実な武将【名将の弟Vol 6】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7qTnNAZqwE4
  5. 歴史の目的をめぐって 松永長頼 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-31-matunaga-nagayori.html
  6. 丹波戦国史 第二章 ~内藤宗勝の攻勢~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku2.html
  7. 【御依頼製作】守護代内藤家の居城、丹波三大城郭の1つ、八木城。 - 戦国の城製作所 https://yamaziro.com/2024/12/07/tanbayagi/
  8. ÿþH 3 0 9Nâlf[_ ˙‰© 2fin0h‹ˇ} - 兵庫県立丹波の森公苑 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h30_tanbagaku.pdf
  9. 内藤如安とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%A6%82%E5%AE%89
  10. 松永長頼(まつなが ながより)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E9%95%B7%E9%A0%BC-1111081
  11. 八木城(神前北山城)跡 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1258.html
  12. 赤井 (荻野) 直正 ~ 赤井 悪右衛門 - 丹波市観光協会 https://www.tambacity-kankou.jp/spot/spot-3656/
  13. 【丹波市】2020大河ドラマ「麒麟がくる」特集 -明智光秀・赤井直正 https://tamba-tourism.com/taiga2020/
  14. 荻野直正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%AD%A3
  15. 「光秀に勝った男」描く ”赤鬼”赤井直正を小説に 「ロマン感じて」 - 丹波新聞 https://tanba.jp/2022/03/%E3%80%8C%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AB%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%80%8D%E6%8F%8F%E3%81%8F%E3%80%80%E8%B5%A4%E9%AC%BC%E8%B5%A4%E4%BA%95%E7%9B%B4%E6%AD%A3%E3%82%92%E5%B0%8F/
  16. F909 内藤季定 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F909.html
  17. 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ https://amago.hatenablog.com/entry/2015/08/09/235616
  18. ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地顕彰碑~内藤如安碑 | 古都の礎 https://ameblo.jp/rrerr/entry-12770515510.html
  19. 八木城跡 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2150
  20. 八木城 (丹波国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%9F%8E_(%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD)
  21. 八木城跡|御城印めぐり - 森の京都 https://morinokyoto.jp/siromeguri/siromeguri_144668/
  22. 【八木城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_26402af2170019085/
  23. 八木城の見所と写真・200人城主の評価(京都府南丹市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/462/
  24. 龍興寺|おでかけ検索 - 森の京都 https://morinokyoto.jp/spot/spot-517/
  25. 京都・南丹の自然を楽しむ vol.2 ~城山(八木城跡)編 https://good-nantan.online/nature02-yagi-castle-ruins/
  26. なんたん戦国巡り - 南丹市 https://www.city.nantan.kyoto.jp/www/even/122/000/000/79911/1004788_1_501_3.pdf
  27. 八木町観光協会 八木城跡 https://nantanyaginavi.com/page2