最終更新日 2025-07-23

内藤家長

内藤家長は徳川家康に忠義を尽くし、一揆で父に背く。弓の名手、長篠・小田原で武功。秀吉に将帥と評され、伏見城で家康のため討死。子孫繁栄と徳川天下の礎。

徳川黎明の礎石:内藤家長の生涯と忠義

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて徳川家康に仕え、その天下統一事業の重要な局面で命を捧げた武将、内藤家長(1546年 - 1600年)の生涯を、包括的かつ詳細に分析・考察するものである。家長の人物像を、単に「伏見城で戦死した忠臣」という側面からのみならず、その出自である三河内藤氏の淵源、徳川家臣団内での成長と役割、そしてその死が後世に与えた影響に至るまで、多角的な視点から再構築することを目的とする。史料としては、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』や『藩翰譜』を基軸としつつ、関連する合戦の記録や地方史を横断的に参照し、家長の生涯を重層的に解き明かしていく。

表1:内藤家長 関連年表

西暦 (和暦)

家長の年齢

内藤家長および内藤家の動向

徳川家・天下の動向

関連資料

1546年 (天文15年)

0歳

内藤清長の長男として三河国で誕生。

松平広忠(家康の父)が今川・織田両勢力に挟まれ苦闘。

1

1563年 (永禄6年)

18歳

三河一向一揆勃発。父・清長が一揆方に与するも、家長は家康に従い一揆鎮圧に貢献。

徳川家康、生涯最大の危機の一つに直面。家臣団が二分される。

2

1564年 (永禄7年)

19歳

父・清長が死去。家長が内藤家の家督を事実上継承。

三河一向一揆が鎮圧される。家康、三河国統一を盤石にする。

4

1572年 (元亀3年)

27歳

三方ヶ原の戦いに参陣。

徳川家康、武田信玄に大敗。

5

1575年 (天正3年)

30歳

長篠の戦いに参陣。遠方の敵斥候を射る武功を挙げ、織田信長より称賛される。

織田・徳川連合軍が武田勝頼軍に圧勝。

7

1584年 (天正12年)

39歳

小牧・長久手の戦いに参陣。嫡男・政長が初陣を飾る。

羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突。

9

1590年 (天正18年)

45歳

小田原征伐に先鋒として参陣。豊臣秀吉から「将帥の器」と評される。家康の関東移封に伴い、上総国佐貫城主(二万石)となる。

豊臣秀吉が天下を統一。徳川家康は関東へ移封される。

2

1600年 (慶長5年)

55歳

関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて、鳥居元忠らと共に籠城。8月1日、西軍の猛攻の末、城中で戦死。

徳川家康が会津征伐へ出陣。石田三成らが挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。

1

第一章:三河内藤氏の淵源と松平家への帰属

内藤家長の生涯を理解するためには、まず彼が属した三河内藤氏の歴史と、主家である松平家(後の徳川家)との関係性を把握することが不可欠である。内藤家の徳川家臣団における位置づけは、家康の代に突如として現れたものではなく、数代にわたる奉公の積み重ねの上に成り立っていた。

三河内藤氏のルーツ

内藤という名字の由来は、藤原氏の末裔が朝廷において天皇の身辺警護などを担う内舎人(うどねり)を務めたことから「内藤」を名乗ったとされている 1 。その系譜は藤原秀郷流、あるいは藤原道長流とも伝わるが、いずれも確証を得るには至っていない 1

三河国に根を下ろした内藤氏は、室町時代の応仁年間(1467年 - 1469年)頃に同地へ移り住んだといわれる 16 。その事跡が明確になるのは、家長の祖父にあたる内藤義清の代からである。義清は、当時まだ西三河の一国人に過ぎなかった松平宗家第四代当主・松平親忠に早くから臣従し、その勢力拡大に貢献した 16 。義清は松平家の重臣として重用され、一説には「岡崎五人衆」の一人に数えられたともいわれ、三河国上野城を与えられたとされる 17 。この事実から、内藤家が松平家臣団の初期形成において、すでに中核的な役割を担っていたことがうかがえる。

父・清長と家長の誕生

家長の父は、義清の子である内藤清長(1501年 - 1564年)である 4 。清長も父の跡を継ぎ、松平清康、広忠の二代にわたって宿老として仕えた 4 。清長が生きた時代は、松平家にとって激動の連続であった。主君・清康の横死(守山崩れ)、そして広忠が今川義元と織田信秀という二大勢力の狭間で生き残りをかけて苦闘した時期であり、内藤家も主家と運命を共にした。

内藤家長は、こうした松平家が最も困難な状況にあった天文15年(1546年)、清長の長男として生を受けた 1 。彼の誕生は、徳川家康(当時、竹千代)が今川家の人質として駿府に送られる前後のことであり、まさに徳川家黎明期の混乱の渦中であった。

内藤家が徳川家への忠誠心を培った背景には、単に完成された強大な主君に仕えたのではなく、弱小勢力であった松平家と共に幾多の苦難を乗り越え、三河統一、そして天下統一へと至る道を共に歩んだという歴史的経験が存在する。この「主家との同時成長」ともいえる関係性こそが、後に家長が見せる絶対的な忠節の精神的な基盤を形成したと考えられる。

一族の広がりと「武」の多様性

清長には家長の他にも、次男・忠郷、三男・勝重らがおり、それぞれが徳川家臣団の中で独自の家系を築き、一族の勢力を広げていった 4 。特に注目すべきは、一族内に異なるタイプの「武」の才能が存在したことである。

家長自身は、後述するように弓の名手として知られるが、それ以上に部隊を率いる指揮官としての能力を高く評価された武将であった 2 。一方で、叔父・忠郷の子、すなわち家長の従兄弟にあたる内藤正成は、個人の武勇、とりわけ弓術において数々の伝説的な逸話を持つ、特技に秀でた専門家タイプの勇士であった 17 。さらに、別の叔父である勝重の妻は徳川家康の乳母を務めており、芦谷内藤家として主家と極めて密接な関係を築いている 18

このように内藤一族は、家長のような「将帥型の武将」、正成のような「技能特化型の勇士」、そして勝重家のような「主家との姻戚関係」という、多様な形で徳川家に貢献していた。この多角的な奉公こそが、徳川家臣団における内藤家の地位を盤石なものとした要因の一つと言えよう。

第二章:忠節の試金石 ― 三河一向一揆

永禄6年(1563年)、若き日の徳川家康を襲った最大の危機が、三河一向一揆である。この動乱は、宗教と領主権の対立が引き金となり、徳川家臣団を根底から揺るがした 3 。多くの家臣が信仰を理由に家康に背き、徳川家は分裂の危機に瀕した。この未曾有の事態において、当時18歳の内藤家長が下した決断は、彼の生涯の方向性を決定づける極めて重要なものであった。

内藤家の分裂と家長の決断

一揆が勃発すると、家長の父であり内藤家の当主であった清長は、熱心な一向宗門徒であったため、一揆方に与して家康に反旗を翻した 2 。これは、松平家譜代の重臣である内藤家の惣領が、主君に弓を引いたことを意味し、一族にとってまさに存亡の危機であった。

この絶体絶命の状況下で、家長は父・清長と袂を分かち、主君・家康の下に留まって一揆鎮圧軍に加わるという道を選んだ 2 。これは、宗教的な信条や父子の情愛よりも、主君への忠節を優先するという、非情かつ重大な決断であった。この行動は、家康に対して家長の揺るぎない忠誠心を示すものとなり、その後の彼のキャリアにおいて絶対的な信頼を勝ち取る礎となったのである 2

この家長の決断は、単なる感情的な忠義の発露としてのみ捉えるべきではない。そこには、戦国武将としての極めて冷静な戦略的判断があった。父が一揆方に与した時点で、もし徳川家が勝利すれば、内藤家の家督と所領は改易・没収される運命にあった。家長が家康方についたことは、内藤家の家名を存続させるための唯一の、そして最善の道であった。彼の行動は、結果として「謀反人となった父」を切り捨てることで、自らが新たな当主として徳川家に認められるという効果をもたらした。これは、戦国時代の家督相続における非情な現実を示すと同時に、若き家長の卓越した状況判断能力と政治的嗅覚の鋭さを物語っている。

忠義観の形成

主君への忠誠を巡って実の父親と敵対するという壮絶な経験は、家長の精神に深く刻み込まれたに違いない。この経験を通じて、彼の中には「主君への忠義は、血縁、地縁、そして宗教的信条といった、あらゆる私的な関係性を超越する絶対的な価値を持つ」という、強固な倫理観、すなわち「忠義観」が形成されたと考えられる。

この三河一向一揆で示された忠節こそが、彼の武将としてのキャリアの原点であり、その後の生涯を貫く行動原理となった。そしてこの強固な忠義観は、40年近くの時を経て、伏見城での壮絶な殉死という形で、彼の生涯を締めくくることになるのである。

第三章:歴戦の将としての武功

三河一向一揆でその忠節を証明した内藤家長は、以降、徳川家康が繰り広げた数々の主要な合戦に従軍し、一人の武将として、また部隊を率いる指揮官として着実に武功を重ねていった。彼の評価は、単なる個人の武勇から、大軍を率いる将としての器へと、戦歴を重ねるごとに高まっていく。

弓の名手としての武勇

家長の武勇を語る上で、その卓越した弓の腕前は欠かせない。彼の強弓は敵味方に広く知れ渡っており、特に遠江国・二俣城攻めの際には、敵将であった依田信蕃から「近代無双。今弁慶と称すべし」と絶賛されたという逸話が残っている 2 。敵の将帥から名指しで称賛されるというのは異例のことであり、彼の武勇が戦場でいかに際立っていたかを如実に示している。

長篠の戦い(天正3年/1575年)

天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いは、織田・徳川連合軍が武田の騎馬隊を打ち破った、日本の合戦史における転換点であった。この歴史的な戦いにおいて、家長は叔父の内藤忠郷と共に参陣している 7 。設楽原に築かれた馬防柵の内側で、徳川軍の一翼を担った家長は、遠方に位置する武田軍の斥候を見事に射止めるという戦功を挙げた 7 。この強弓は、連合軍の総大将であった織田信長の目にも留まり、直接称賛を受けたと伝えられている 7

この信長からの称賛は、家長のキャリアにおいて重要な意味を持つ。主君である家康だけでなく、当時の天下人であった信長からもその実力を認められたことは、徳川家臣団内における彼の威信を著しく高める効果があった。

小牧・長久手の戦い(天正12年/1584年)

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が直接対決した小牧・長久手の戦いにも、家長は中核武将の一人として参戦した。この戦いは、彼の嫡男である内藤政長が17歳で初陣を飾った戦いでもある 9 。家長自身も第一線で戦っており、戦後、同僚の武将である竹内信次が獲得した戦利品の中から、名刀として知られる村正の脇差を譲り受けたという記録が残っている 10 。これは、彼が最前線で戦う将兵たちの間で、武人として敬意を払われる存在であったことを示唆している。

小田原征伐(天正18年/1590年)と「将帥の器」

家長の評価が「個の武勇」から「将の器」へと決定的に転換する契機となったのが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐であった。この戦いで、家長は徳川軍の先鋒の一人として参戦し、数々の戦功を立てた 12

その戦いぶりと堂々たる風貌は、天下人・豊臣秀吉自身の目にも留まった。秀吉は家長を高く評価し、「その容貌、将帥の器に当たれり」と称賛した上で、褒賞として鉄砲30挺を授けたと記録されている 2 。これは、単なる一兵卒の勇猛さではなく、一軍を預かるにふさわしい風格と指揮官としての資質を、当代随一の人物鑑定眼を持つ秀吉が見抜いたことを意味する。

信長と秀吉という、二人の天下人から受けた外部の高い評価は、家康にとって自らの家臣の価値を再認識させる機会となった。そして、この実績こそが、小田原征伐後の関東移封において、家長が二万石という譜代大名としての破格の厚遇を受ける直接的な背景となったのである。彼の武功は、もはや三河武士という内輪の評価に留まらず、天下に通用するものであることが証明された瞬間であった。

第四章:上総佐貫二万石の城主へ

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結し、後北条氏が滅亡すると、日本の勢力図は大きく塗り替えられた。徳川家康は、それまでの本領であった三河・遠江・駿河などを召し上げられる代わりに、北条氏の旧領であった関東への移封を命じられた。この「関東移封」は、徳川家にとって一大転機であったが、同時に家臣団にとっても新たな活躍の舞台が与えられる機会となった。

関東移封と大名への道

家康は、これまでの数々の合戦、特に小田原征伐での功績を高く評価し、内藤家長に対して上総国に二万石の所領を与え、佐貫城主に任命した 1 。これにより、家長は三河以来の譜代家臣から、近世大名としての第一歩を踏み出すことになった。二万石という石高は、当時の徳川家臣団の中でも破格の待遇であり、家康がいかに家長を信頼し、その実力を評価していたかを示している。

佐貫における戦略的役割

家康の関東支配体制は、信頼できる譜代家臣を軍事・交通の要衝に配置するという、極めて戦略的なものであった。家長が配置された上総国佐貫は、まさにその要の一つであった。佐貫城は江戸湾の入り口に近く、南に位置する安房国には、依然として独立性を保つ里見義康が勢力を有していた。里見氏は豊臣政権下で所領を減らされたものの、なおも徳川家にとっては潜在的な脅威であった。

したがって、佐貫城主としての家長の役割は、単なる領地の統治に留まらず、里見氏を牽制・監視し、江戸を防衛する外郭の一翼を担うという、極めて重要な軍事的使命を帯びていた。この最前線ともいえる地に、三河一向一揆以来、その忠誠心と武勇を幾度となく証明してきた家長を配置したことは、家康の彼に対する絶対的な信頼の現れに他ならない。家長の佐貫拝領は、単なる論功行賞ではなく、家康が構築した新たな関東支配体制の根幹をなす、「楔」としての役割を期待された戦略的人事であったと結論付けられる。

また、家長の娘が、同じく房総半島に所領を得た旗本・設楽氏貞に嫁いでいる記録もあり 23 、周辺に配置された徳川家臣団との間で連携を密にし、地域全体の安定化に努めていた様子がうかがえる。

第五章:忠義の終着点 ― 伏見城の攻防

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した五大老筆頭・徳川家康と、五奉行筆頭・石田三成との対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この歴史的な大戦の前哨戦として、京の伏見城で繰り広げられた攻防戦は、内藤家長の生涯の終着点であり、彼の忠義の集大成であった。

運命の任命

この年、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いて討伐に向かうことを決定した。しかし、家康は自身が畿内を留守にすれば、石田三成らが挙兵することを確実視していた。そこで家康は、自らの出発に先立ち、畿内における最重要拠点である伏見城の守備を、最も信頼する譜代の重臣たちに託した。その総大将に任命されたのが、幼少期からの側近である鳥居元忠であった。そして、その元忠を補佐する副将格として、内藤家長、松平家忠、松平近正といった、いずれも歴戦の勇士たちが選ばれた 1

この任命は、家康からの絶大な信頼の証であると同時に、死を覚悟せねばならないほどの過酷な任務であった。家長は、この主君の意図を完全に理解した上で、自らの嫡男・政長を家康の会津征伐軍に従軍させ、次男・元長を手元に残して共に伏見城に入った 2 。これは、自らの死を予期し、内藤家の家督を政長に託すという覚悟の表れであった。

西軍の挙兵と壮絶な籠城戦

家康の読み通り、彼が江戸を発つと、7月17日に石田三成らは毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵し、西軍を結成した。そしてその矛先は、真っ先に家康方の拠点である伏見城に向けられた 25

宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘といった西国の諸大名が率いる西軍の兵力は、総勢4万。対する伏見城の守備兵は、鳥居元忠の兵を中心に、家長らの兵を合わせてもわずか1800人から2300人程度であった 13 。兵力差は20倍以上と圧倒的であり、籠城は当初から玉砕を覚悟したものであった。

7月19日に始まった西軍の攻撃に対し、元忠、家長らは決死の覚悟で城を固守し、13日間から14日間にわたって猛攻を凌ぎ続けた 13 。守備側の奮戦は凄まじく、西軍に3000人もの死傷者を出させたとされる 14 。しかし、攻めあぐねた西軍は、城内にいた甲賀衆の一部に内応を働きかける。そして8月1日未明、内通者の手引きによって城の一角から火の手が上がり、そこから西軍が城内になだれ込んだ 26

最期の刻

城内での激しい白兵戦が始まると、松平家忠、松平近正らが次々と討死。内藤家長も奮戦を続けたが、衆寡敵せず、慶長5年8月1日、城中で壮絶な討死を遂げた 1 。享年55であった 1 。総大将の鳥居元忠も最後まで戦い続けた末に討ち取られ、伏見城は炎に包まれて落城した。

この伏見城での戦いは、一般的に西軍主力を10日以上にわたって足止めし、家康が軍勢を率いて東海道を引き返す時間を稼いだ「捨て石」作戦として評価されている 25 。しかし、その戦略的価値は物理的な時間稼ぎに留まらない。家康が正式に任命した留守居役を、三成らが一方的に攻撃し、元忠や家長といった忠臣たちを死に追いやったという事実は、三成らを「豊臣家に対して牙をむいた不忠の臣」として断罪する格好の口実を家康に与えた。

家長や元忠の死は、家康に「忠臣の仇を討つ」という絶対的な大義名分をもたらし、これまで日和見を決め込んでいた諸大名を東軍に引き寄せる強力なプロパガンダとなった。家長の死は、関ヶ原における家康の政治的・軍事的勝利を導く、極めて重要な礎となったのである。彼の生涯は、三河一向一揆で「忠義のために身内を捨てる」という選択から始まり、伏見城で「忠義のために自らの命を捨てる」という形で完結した。その死は突然の悲劇ではなく、彼が自らの生き方として貫いてきた「忠義」というテーマの、必然的かつ論理的な終着点であった。

第六章:後世への遺産

内藤家長の死は、彼個人の生涯の終わりであったが、それは同時に、内藤家の新たな繁栄の始まりでもあった。彼が命を賭して示した忠義は、徳川家康によって高く評価され、その遺産は子孫へと確かに受け継がれていった。

内藤家の繁栄

伏見城での家長の忠死の報は、関ヶ原へと向かう家康のもとに届けられた。家康はその功績を絶賛し、家長の跡を継いだ嫡男・内藤政長に対し、父の遺領二万石に加えて一万石を加増した 2 。これにより、政長は上総佐貫三万石の大名となった。

政長はその後も大坂の陣などで功績を挙げ、加増を重ねていく。元和8年(1622年)には、陸奥国磐城平七万石へと加増転封され、磐城平藩内藤家の初代藩主となった 22 。以後、内藤家は幕末に至るまで、譜代の名門大名として存続する。家長の壮絶な死は、文字通り一族の未来を切り開き、子孫に大名としての繁栄をもたらす礎となったのである。

また、家長の従兄弟である内藤正成の系統や、叔父・勝重の系統もそれぞれ旗本や大名として存続し、内藤一族は徳川の世において重要な地位を占め続けた 16

忠義の象徴として

家長や鳥居元忠らが流した血で染まった伏見城の床板は、彼らの忠義を後世に伝える象徴として、大切に保存された。関ヶ原の戦いの後、家康は彼らの供養のため、この床板を京都の養源院(浅井長政の菩提寺で、正室・お江が再興)をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵といった徳川家にゆかりのある寺院に移し、天井板として使用させた 13 。この「血天井」は、伏見城の悲劇と、そこで散った武士たちの忠義を、生々しく現代に伝えている。内藤家長の血もまた、その一部として、今なお静かに弔われているのである。

家長は、鳥居元忠と共に、徳川譜代の忠臣の鑑として、江戸時代を通じて武士たちの間で語り継がれる存在となった。彼の生き様と死に様は、徳川幕府がその支配体制を正当化し、武士階級に忠誠を求める上で、極めて有効な「物語」となった。彼は死してなお、徳川の天下泰平の体制固めに貢献したと言えるだろう。

終章:内藤家長という武将の再評価

内藤家長の生涯を総括すると、彼は単なる一人の勇猛な武将に留まらない、多面的な資質を備えた人物であったことがわかる。彼の人生は、三河の小領主に過ぎなかった松平家が、天下人へと駆け上がる激動の時代と完全に軌を一にしており、その歩みは徳川家の発展史そのものであった。

家長の人物像の核心には、青年期に経験した三河一向一揆の際に培われた、主君・徳川家康への絶対的な忠義があった。この何者にも揺るがされない忠誠心は、彼の生涯を貫く行動原理となった。しかし、彼は盲目的な忠臣ではなかった。二俣城で敵将から「今弁慶」と称されたほどの卓越した弓の技量を持ち、長篠では信長、小田原では秀吉という当代の天下人から「将帥の器」と認められるほどの冷静な判断力と指揮能力を兼ね備えていた。

その忠義と実力が結実したのが、関東移封における上総佐貫二万石の拝領であり、徳川家の譜代大名としての地位確立であった。そして、その生涯の最終局面である伏見城の戦いにおいて、彼は自らの命を捧げることで、主君・家康に関ヶ原の戦いにおける政治的・軍事的な勝利をもたらす決定的な貢献を果たした。

彼の犠牲は、嫡男・政長を七万石の大大名へと押し上げる直接的な礎となり、内藤家の永続的な繁栄を約束した。内藤家長は、自らの武勇と知略、そして命のすべてをもって徳川の天下泰平への道を切り開き、同時に一族の未来を勝ち取った、徳川創業期の功臣の中でも特筆すべき人物として、ここに再評価されるべきである。彼の生涯は、忠義が個人の犠牲に留まらず、いかにして一族の繁栄と国家の安定に結びつくかを示す、戦国乱世のひとつの確かな軌跡なのである。

引用文献

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  16. 武家家伝_内藤氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/naito_k.html
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  28. 城に眠る伝説と謎 【伏見城】 壮絶!血染めの天井板に隠された京都・伏見城の悲劇! https://shirobito.jp/article/315
  29. ないとう - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/naito.html
  30. 5 明治大学博物館特別展「藩領と江戸藩邸 ~内藤家文書の描く 磐城平・延岡・江戸~」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=u5cRtsXJ3-g
  31. 徳川一筋の忠義者・鳥居元忠が辿った生涯|人質時代から家康を守り続ける三河武士の鑑【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1104061/2