江戸時代前期、徳川幕府による泰平の世が盤石のものとなる過程において、その礎を築いた数多の譜代大名が存在する。その中でも、陸奥国磐城平藩主・内藤忠興(ないとう ただおき、天正20年(1592年) - 延宝2年(1674年))は、戦国の遺風を色濃く残す武将としての側面と、近世的な官僚として領国経営に辣腕を振るった統治者としての側面を併せ持つ、極めて象徴的な人物である 1 。
一般に、内藤忠興は「血気盛んで、大坂の陣では留守居の軍令を破って参陣し、徳川家康を喜ばせた武将」であり、「新田開発や検地によって藩の財政を豊かにした名君」として知られている。この二元的なイメージは、彼の生涯の核心を的確に捉えている。しかし、その行動の背後にある動機や、彼が生きた時代の文脈を深く掘り下げることで、より立体的で多層的な人物像が浮かび上がってくる。
本報告書は、内藤忠興の生涯を、その出自から晩年に至るまで、軍事、政治、経済、そして私生活の各側面にわたり、現存する史料や研究成果を基に多角的に探求するものである。彼の生涯は、単なる一個人の一代記に留まらない。それは、戦国の動乱が終焉し、徳川による新たな支配秩序が形成される過渡期において、譜代大名という存在が如何に時代の要請に応え、幕藩体制の確立に貢献したかを示す、貴重な歴史の証言でもある。本稿では、忠興を「戦国の遺風と近世的官僚の狭間で生きた、理想的譜代大名の典型」として捉え、彼の武と治の軌跡を追うことで、徳川幕府初期という時代の本質に迫ることを目的とする。
内藤忠興の83年という長い生涯は、徳川幕府の体制が確立していく最も重要な時期と重なる。彼の個人的な経歴と、幕府や国内の大きな歴史的動向を対比することで、その行動の時代的背景を明確にすることができる。
西暦(和暦) |
内藤忠興の動向 |
幕府・国内の動向 |
忠興の年齢 |
1592年(文禄元) |
2月1日、江戸桜田の藩邸にて誕生。初名は忠長 1 。 |
豊臣秀吉、文禄の役を開始。 |
1歳 |
1600年(慶長5) |
祖父・家長が伏見城の戦いで討死 3 。 |
関ヶ原の戦い。 |
9歳 |
1603年(慶長8) |
|
徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。 |
12歳 |
1605年(慶長10) |
徳川秀忠の上洛に供奉 2 。 |
徳川秀忠、2代将軍に就任。 |
14歳 |
1614年(慶長19) |
大坂冬の陣に軍令を破り参陣、武功を立てる 4 。 |
大坂冬の陣。 |
23歳 |
1615年(元和元) |
大坂夏の陣に参陣し、さらに武功を立てる。戦功により計2万石の大名となる 4 。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。武家諸法度・禁中並公家諸法度制定。 |
24歳 |
1622年(元和8) |
父・政長の磐城平移封に伴い、陸奥国泉2万石の藩主となる 5 。 |
|
31歳 |
1623年(元和9) |
|
徳川家光、3代将軍に就任。 |
32歳 |
1634年(寛永11) |
父・政長の死去により、磐城平藩7万石を相続。弟・政晴に泉2万石を分与 1 。 |
徳川家光、大軍を率いて上洛。 |
43歳 |
1635年(寛永12) |
|
武家諸法度改定(参勤交代の制度化)。 |
44歳 |
1637年(寛永14) |
|
島原の乱が勃発(~38年)。 |
46歳 |
1638年(寛永15) |
領内で大規模な検地(寛永寅の縄)を実施 6 。 |
|
47歳 |
1651年(慶安4) |
家臣・沢村勘兵衛に命じ、小川江筋の開削に着手 8 。 |
徳川家光死去、家綱が4代将軍に就任。由井正雪の乱。 |
60歳 |
1654年(承応3) |
幕府の要職である大坂城代に就任(~明暦2年) 10 。 |
|
63歳 |
1657年(明暦3) |
藩法「壁書」を制定 11 。 |
明暦の大火。 |
66歳 |
1659年(万治2) |
再び大坂城代に就任(~万治3年) 10 。 |
|
68歳 |
1670年(寛文10) |
長男・義概に家督を譲り隠居 12 。 |
|
79歳 |
1674年(延宝2) |
10月13日、死去。享年83 1 。 |
|
83歳 |
内藤忠興のキャリアは、「武」によって切り拓かれた。彼の前半生を特徴づけるのは、戦国の気風が未だ社会を覆っていた時代における、武将としての鮮烈な活躍である。特に、徳川の天下統一事業を完遂させた大坂の陣での行動は、彼の名を一躍高め、その後の磐石な地位の礎となった。彼の武功は、単なる若さゆえの血気によるものではなく、譜代の名門としての誇りと、徳川家への揺るぎない忠誠心に裏打ちされた、計算された行動であった可能性が高い。
内藤忠興の行動原理を理解するためには、彼が背負っていた内藤家の歴史と血脈をまず紐解かねばならない。内藤家は、徳川家康の祖先である松平氏の時代から仕える三河譜代の家臣であり、その忠誠心は数々の戦場で証明されてきた 3 。
その象徴的な出来事が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いである。忠興の祖父・内藤家長は、徳川家康から伏見城の守備を命じられ、鳥居元忠らと共に城に籠もった。西軍の大軍に包囲され、落城が必至の状況下で、家長は息子の元長と共に奮戦し、壮絶な討死を遂げた 3 。この主君のための犠牲的な死は、徳川の天下統一事業における殉教にも等しい行為と見なされ、内藤家の徳川家に対する絶対的な忠誠の証として、後々まで語り継がれることとなる。
この「忠死」という最大の功績により、家長の嫡男であった忠興の父・政長は、家康から厚い信頼を得た。関ヶ原の戦い後、父の戦功と自身の働きが認められ、上総佐貫に領地を与えられ、その後も加増を重ねて大名としての地位を固めていく 3 。政長は、朝鮮出兵の際の肥前名護屋駐屯や、改易された大名の城受け取り役といった、幕府の重要な任務を歴任しており、徳川政権にとって不可欠な譜代大名の一人であった 15 。
忠興は、文禄元年(1592年)、この父・政長が朝鮮出兵のため肥前名護屋に長期滞在中、江戸の桜田屋敷で生を受けた 2 。幼少期に父親が不在がちであったことは、彼が祖父・家長の武勇伝や、内藤家に伝わる三河武士としての精神性を、より純粋な形で受け継ぐ環境にあったことを示唆している 4 。伏見城での祖父の壮絶な死の物語は、内藤家にとって最大の栄誉であると同時に、次代を担う忠興に課せられた重い「期待」でもあった。彼にとって、来るべき戦で功を立てることは、単なる個人の出世欲を満たすためだけでなく、一族の栄光を継承し、祖父や父に劣らぬ武勇を示すことで、譜代としての内藤家の価値を改めて徳川家に証明するという、家長としての責務そのものであった。
祖父から受け継いだ武門の誇りと、家を背負う責任感は、慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣で鮮烈な形で発露する。当時23歳の忠興は、父・政長と共に安房国の守備を命じられた。しかし、徳川の天下を盤石にする最後の大戦という歴史的瞬間に、後方で留守居役を務めることに彼は到底満足できなかった 4 。
忠興は、武将としての本能と功名心に突き動かされ、驚くべき行動に出る。彼は軍令を半ば無視する形で手勢を率い、決戦の地である京・伏見まで駆けつけたのである 5 。そして、徳川家康の側近中の側近であり、幕政の実力者であった本多正信に参陣を直訴した。通常であれば軍律違反で厳しく罰せられるべきこの行動に対し、総大将である家康の反応は意外なものであった。家康は忠興の行動を咎めるどころか、その比類なき戦意と熱意を大いに喜び、井上正就の配下として参陣することを正式に許可したのである 4 。
この家康の判断の背景には、巧みな政治的計算があったと考えられる。大坂の陣における徳川軍は、譜代の家臣だけでなく、かつては豊臣恩顧であった外様大名も多く含む、いわば「寄せ集め」の軍勢であった。軍全体の士気を高め、徳川への忠誠心を内外に示すことが、勝利への鍵を握っていた。その状況下で、譜代の名門である内藤家の嫡男が、命令を破ってまで「戦わせてほしい」と駆けつけてきたのである。この行動を罰するよりも、むしろ賞賛し抜擢することで、家康は「徳川のために戦うことこそが最大の栄誉である」という価値観を軍全体に浸透させる絶好の機会と捉えた。忠興の若き情熱は、老練な家康の人心掌握術の格好の材料となったのである。
期待に応え、忠興は冬の陣で武功を立てた。その功績は高く評価され、翌慶長20年(1615年)、父・政長への加増とは別に、忠興個人に1万石の所領が与えられ、彼は相続を待たずに独立した大名となった 4 。
同年、再び戦端が開かれた大坂夏の陣では、忠興は1万石の大名として、弟の政次をも率いて酒井家次の部隊に属して参陣した。この戦いの中でも特に苛烈を極めた天王寺・岡山の戦いにおいて、豊臣方の真田信繁(幸村)が徳川本陣に決死の突撃を敢行し、家康の馬印が倒されるほどの混乱に陥った際も、忠興とその家臣たちは持ち場を固守し、奮戦したと伝えられている 4 。この夏の陣での功績も認められ、彼はさらに1万石を加増された 5 。
こうして内藤忠興は、二度にわたる大坂の陣での活躍により、計2万石を領する大名として、そのキャリアの第一歩を力強く踏み出した。彼の成功は、個人の武勇や血気だけでなく、時代の要請と、それを見抜いた家康の政治的判断が奇跡的に合致した結果であったと言えよう。
大坂の陣が終結し、世が泰平へと向かう中で、内藤忠興は「武」の人物から「治」の人物へと、見事な転身を遂げる。彼の藩主としての治世は、徳川幕府の支配体制が確立していく大きな流れと軌を一にしながら、領国の富国強兵を実現し、近世的な支配システムを構築していく過程そのものであった。しかし、その輝かしい功績の裏には、有能な家臣の犠牲という深い影も落とされていた。
大坂の陣での功績により2万石の大名となった忠興は、元和8年(1622年)、父・政長が上総佐貫から陸奥磐城平へ7万石で加増移封された際に、独立した領地として陸奥国泉に2万石を与えられ、泉藩主となった 5 。ここに、父子の藩が隣接して並び立つ形が生まれる。
そして寛永11年(1634年)、父・政長が死去すると、忠興は家督を継ぎ、磐城平7万石の領主となった 1 。この時、彼は自らが治めていた泉2万石を弟の内藤政晴に分与して相続させ、泉藩を正式に立藩させている 5 。この措置は、弟への配慮であると同時に、本家の領地を分割することで、幕府に対する恭順の意を示す意味合いも含まれていたと考えられる。
磐城平藩主となった忠興が最初に取り組んだのは、藩の財政基盤を抜本的に強化するための総検地であった。藩主就任の翌年から約10年にわたり実施されたこの検地は、特に寛永15年(1638年)に集中的に行われたことから、後世「寛永寅の縄」と呼ばれる 6 。この厳格かつ精密な検地の結果、藩の公式な石高(表高)とは別に、実質的な収穫高(内高)を実に2万石も増加させるという驚異的な成果を上げた 5 。これは、隠田を摘発し、測量技術を駆使して領地の実態を正確に把握した、彼の行政手腕の賜物であった。
この一連の藩政改革は、当時の3代将軍・徳川家光が進めていた中央集権化政策と密接に連動していた。家光は、徳川忠長や加藤忠広といった親藩・大藩すら容赦なく改易することで将軍の絶対的権威を確立し、武家諸法度の改定によって参勤交代を制度化するなど、大名への統制を急速に強めていた時代である 4 。このような幕府の厳しい姿勢の中、譜代大名には、将軍の意向を的確に汲み取り、自領の統治を安定させ、幕府への奉公を果たすことが強く求められていた。
忠興の「寛永寅の縄」は、単なる増収策に留まらなかった。それは、家光政権下で譜代大名として生き残り、幕府の期待に応えるための、積極的な「奉公」の一環であった。財政基盤を強化することで、参勤交代や幕府からの普請命令(手伝普請)といった軍役・公役の負担に耐えうる体制を整えたのである。さらに、明暦3年(1657年)には、藩の基本法となる「壁書」を制定し、家臣団の服務規律や領民支配の規範を成文化した 11 。これにより、藩主の個人的な裁量に頼る統治から、法に基づく安定した統治へと移行する道筋をつけ、磐城平藩における近世的な支配体制の礎を築いたと高く評価されている 1 。
財政基盤と統治機構の整備に成功した忠興が、次なる目標として掲げたのが、新田開発によるさらなる富国であった。磐城平の領地は、土地そのものは肥沃であったが、領内を流れる夏井川が田畑より低い場所を流れていたため水利に恵まれず、ひとたび日照りが続けば深刻な干ばつに見舞われるという宿痾を抱えていた 19 。
この問題を根本的に解決するため、忠興は大規模な灌漑用水路の建設を決断する。そして、この藩の命運を左右する大事業の責任者として、郡奉行であった沢村勘兵衛勝為という一人の家臣を抜擢した 4 。勘兵衛は忠興の特命を受け、慶安4年(1651年)から、後に「小川江筋」と呼ばれる巨大用水路の開削に着手する 8 。
工事は困難を極めた。近代的な測量技術など存在しない時代、勘兵衛は夜間に提灯の光を遠くに並べ、その高低差を測るという独創的な方法で水路の勾配を計算したと伝えられる 21 。固い岩盤は鑿で砕き、土砂は鋤や鍬、もっこを使い、全て人力で掘り進められた。この難工事の末に完成した小川江筋は、夏井川から取水し、四倉に至るまで総延長約30キロメートルに及び、沿岸の30以上の村々、約900ヘクタールから1200ヘクタールの広大な水田を潤す大動脈となった 6 。これにより、長年の懸案であった水不足は解消され、磐城平藩の米の収穫量は飛躍的に増大した。
しかし、この輝かしい成功の裏で、悲劇が待っていた。革新的な手法で大事業を推進した勘兵衛は、藩内の保守的な重臣たちから嫉妬と反感を買い、様々な讒言に晒された。そして、事業が完成した矢先の承応4年(1655年)、勘兵衛は突如として忠興から切腹を命じられてしまう 4 。その理由は定かではないが、事業の過程で生まれた藩内の深刻な政治的対立を収拾するため、忠興が勘兵衛を犠牲にした可能性が指摘されている。藩主のトップダウンで進められた革新的事業が、藩の旧来の秩序と軋轢を生んだ結果、その実行者が「切り捨てられる」というこの悲劇は、近世初期の藩組織が抱える構造的な矛盾を象徴している。藩全体の統治責任者として、忠興は一人の有能な家臣を守ることよりも、藩組織全体の秩序維持を優先するという、冷徹な政治判断を下したのである。
江筋の恩恵を受けた農民たちは、勘兵衛の死を深く悼み、その霊を慰めるために念仏踊りを奉納した。これが、現在までいわき市に伝わる伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」の起源の一つになったと伝えられている 19 。小川江筋は、藩に恒久的な繁栄をもたらし、沢村勘兵衛は悲劇の英雄として後世に語り継がれることとなった。
領国経営で卓越した手腕を発揮する一方、忠興は譜代大名の重鎮として、幕府への奉公においても重要な役割を果たした。そのキャリアの頂点と言えるのが、西国支配の要である大坂城代への就任である。
大坂城代は、大坂城の警備を統括し、西国に睨みを利かせると共に、大坂周辺の広大な幕府直轄領の行政・司法を監督する、将軍の名代ともいえる重職であった 24 。この役職には、原則として5万石以上の、幕府が最も信頼する譜代大名が任命された。忠興は、この大坂城代を二度にわたって務めている。記録によれば、一度目は承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)、二度目は万治2年(1659年)から万治3年(1660年)まで、水野忠職や松平光重らと交代でこの重責を担った 1 。
忠興がこの要職に任命された背景には、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱の影響を無視できない。この大規模な一揆は、九州の外様大名だけでは鎮圧できず、幕府が老中・松平信綱を総大将として派遣し、総勢12万もの大軍を動員する事態となった 26 。この事件は、幕府に西国支配の脆弱性を痛感させ、信頼できる譜代大名を西国の要衝に配置する必要性を再認識させる契機となった。大坂城は、西国、とりわけ九州の外様大名に対する監視と統制の最前線基地である。忠興の大坂城代就任は、幕府の西国警戒体制強化という、国家的な安全保障政策の一環として位置づけることができる。
この他にも、忠興は幕府から全幅の信頼を寄せられていた。会津の蒲生家が減封された際の三春城受け取りや、肥後熊本54万石の大大名であった加藤忠広が改易された際の八代城受け取りなど、幕府による大名改易という、最も緊張を伴い、一触即発の事態も想定される任務の総責任者を務め、いずれも無事に成功させている 4 。これらの功績は、彼が武勇だけでなく、交渉力や統率力にも優れた、当代随一の能吏であったことを証明している。内藤忠興の生涯は、領国経営と幕府への奉公という、譜代大名に課せられた二つの責務を高いレベルで両立させた、稀有な実例であった。
磐城平藩を磐石の体制に導き、幕府の重職を歴任した内藤忠興。その公的な経歴は輝かしいものだが、残されたいくつかの逸話は、彼の人間的な側面、すなわち一人の人間としての性格や価値観を垣間見せてくれる。それらは、彼が単なる冷徹な統治者ではなく、実質を重んじ、時には人間的な感情も見せる、複雑な内面を持った人物であったことを物語っている。
忠興の人物像を伝える逸話として、特に有名なものが三つある。
第一に、「恐妻家」としての一面である。忠興の正室は、譜代の名門・酒井家次の娘であった。彼女は非常に気の強い女性だったと伝えられている。ある時、忠興が正室に内緒で、家中でも評判の美女を自室に呼び寄せた。これに気づいた正室は激怒し、なんと薙刀を振りかざして忠興を追い回したという。豪胆な武将として知られた忠興もこれには敵わず、以降は女性関係を慎み、藩政の重要な決定に際しても常に正室の意見を聞くようになったとされている 5 。この逸話は、彼の家庭内での意外な一面を示すと同時に、彼が道理や相手の実力(この場合は妻の怒りと武力)を認め、自らの非を改める柔軟性を持っていたことを示唆している。
第二に、「食へのこだわり」である。明治大学博物館には、忠興が江戸在府中に国元の家臣に宛てた書状が現存する。その内容は、国元から送らせる大根の漬物について、「塩辛くない浅漬けが欲しい」「塩辛くなく、それでいて歯ごたえがあるように、シワが寄るように漬けて送れ」などと、極めて詳細な注文をつけているものである。しかし、何度注文しても塩辛い漬物ばかりが届くため、しまいには「沙汰の限りである」と激怒している様子が記されている 5 。これは、彼が些細なことにも妥協を許さない、完璧主義的な側面を持っていたことを示している。自らの要求という「実質」が満たされないことへの苛立ちは、藩政における厳格な検地や税徴収の姿勢とも通底している。
第三に、「実利を重んじる価値観」である。忠興が従四位下に昇進した際、ある家臣が「これを機に、加賀守や出羽守といった受領名(官職名)を拝領されてはいかがでしょう」と勧めた。これに対し、忠興は冷笑してこう答えたという。「今の世の中では、加賀の国に一坪の土地も持たぬ者が『加賀守』などという名をありがたがっている。実態の伴わぬ名誉に何の意味があるか」と 28 。この逸話は、彼が名目的な権威や虚飾を徹底して嫌い、実質的な価値や実力を何よりも重んじる人物であったことを端的に示している。
これら三つの逸話は、一見するとそれぞれ異なる側面を語っているように見えるが、その根底には「実質を重んじ、虚飾を嫌う」という一貫した性格が流れている。彼の価値観は、名目や家柄よりも実力でのし上がることができた戦国時代の気風を色濃く反映しており、平和な江戸時代にあってもその精神を持ち続けた、過渡期の武将の典型であったと言えるだろう。
内藤家は、代々篤い浄土宗の信者であった。その菩提寺(帰依し、先祖代々の墓所を置く寺)は、鎌倉の材木座にある浄土宗関東総本山・光明寺である 29 。この寺は、鎌倉幕府4代執権・北条経時が開基となった名刹であり、内藤家は江戸時代を通じてこの寺を厚く保護した 30 。忠興自身も光明寺に寺領の寄進を行っており、その意思を記した寄進状の存在も確認されている 29 。
延宝2年(1674年)、忠興は83年の長い生涯を閉じた。その際、彼は注目すべき選択をする。自らの墓所を、長年治めた領国である磐城平ではなく、菩提寺のある鎌倉の光明寺に置くことを遺言したのである 4 。これは、当時の大名としては比較的珍しい選択であった。
この選択の背後には、忠興の深い自己認識が隠されている。彼は自らを、一代限りの「磐城平の領主」としてではなく、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、日本の歴史を紡いできた「武家政権を担う武士」の正統な系譜に連なる者として位置づけていたのである。武家政権発祥の地である鎌倉に眠ることは、彼の個人的な信仰心の発露であると同時に、徳川の天下を支えた譜代大名としての誇りと、武士としてのアイデンティティを後世にまで示すための、極めて象徴的かつ思想的な行為であった。
現在、光明寺の境内には、忠興をはじめとする内藤家歴代の墓碑が壮観な姿で立ち並んでいる。高さ3メートルにも及ぶ宝篋印塔などが整然と保存されており、江戸時代初期から続く大名家の墓地として、その歴史的価値の高さから鎌倉市の史跡に指定されている 31 。彼の選んだ終焉の地は、今なお、その武士としての矜持を静かに物語っている。
内藤忠興が一代で築き上げた磐城平藩の栄華と安定。しかし、その強固な体制は、彼の強力なリーダーシップという、一個人の力量に大きく依存するものであった。彼が世を去り、時代が下ると共に、その遺産は予期せぬ形で変容を遂げていく。特に、後継者である嫡男・義概との資質の違いは、やがて藩の根幹を揺るがす大事件「小姓騒動」の遠因となり、封建的な世襲制度が内包する本質的な脆弱性を露呈させることとなった。
寛文10年(1670年)、79歳となった忠興は隠居し、家督を長男の内藤義概(よしむね)に譲った 12 。この義概は、父・忠興とはあらゆる面で対照的な人物であった。武勇と政治に生涯を捧げた父とは異なり、義概の情熱は、和歌や俳諧といった風雅の道に向けられていた 13 。
義概は「風虎(ふうこ)」という俳号を持つ、当代一流の文化人であった 35 。その実力は藩主の慰み事の域をはるかに超え、「奥州俳壇の始祖」と称されるほどであった 13 。彼は松尾芭蕉の師として知られる北村季吟や、談林派の西山宗因といった中央の俳人たちとも深い交流を持ち、『夜の錦』『桜川』など、複数の優れた俳諧集を自ら編纂している 14 。また、儒学者に命じて領国の地誌『磐城風土記』の編纂を行わせたり、近世箏曲の父と称される八橋検校を藩お抱えの音楽家として召し抱えたりするなど、文化の保護者としても大きな足跡を残した 12 。
義概がこのような文化活動に没頭できたこと自体が、逆説的に父・忠興の治世の成功を物語っている。戦乱の時代には価値を持たなかったであろう風雅の道が、一藩の主の最大の関心事となり得たのは、忠興が築いた平和と経済的安定という土台があったからに他ならない。しかし、この事実は同時に、統治者に求められる資質が時代と共に変化し、創業の才と守成の才が必ずしも一致しないという、世襲制が抱える根源的な問題を浮き彫りにするものでもあった。
文化人としては一流であった義概だが、藩主としては致命的な欠点を抱えていた。彼は風雅の世界に耽溺するあまり、次第に煩雑な藩政を省みなくなり、統治の実権を小姓出身の寵臣・松賀族之助(まつが やからのすけ)という人物に全面的に委ねてしまったのである 6 。
藩主の信頼を盾に、族之助は権勢をほしいままにし始めた。彼は自らの一族で藩の要職を固め、領民には重税を課して私腹を肥やし、藩政を完全に壟断した 13 。その野心は留まるところを知らず、ついには自らの子を次期藩主に据えるという、主家乗っ取りの陰謀を企てるに至る。そのために、正当な世継ぎ候補であった義概の次男・義英(よしひで、後の俳人・内藤露沾)が邪魔な存在となった。族之助は、義概に義英に関する様々な讒言を吹き込み、病弱であることなどを口実に、彼を廃嫡に追い込むことに成功する 12 。
この一連の騒動は、忠興が築いた藩の秩序を内側から蝕んでいった。忠興の治世は、彼自身の強力なリーダーシップによるトップダウン型の統治であった。彼が検地から藩法制定、小川江筋のような大事業までを自ら主導したため、家臣団の中に自律的な統治能力や、藩主の過ちを諫めるような健全なチェック機能が十分に育っていなかった可能性がある。その結果、忠興という絶対的な「重し」が取れ、義概のような藩政に無関心な当主が後を継ぐと、組織の腐敗は一気に進行した。族之助のような野心的な側近の台頭を許した背景には、忠興が作り上げた統治システムの構造的欠陥、すなわち「偉大な創業者亡き後の組織の脆弱性」があったと言える。
忠興の死後、この「小姓騒動」はさらに深刻化し、数十年にわたって藩を揺るがし続ける。最終的には、藩財政の完全な破綻と、元文3年(1738年)の大規模な百姓一揆(元文一揆)を引き起こし、その責任を問われる形で、内藤家は磐城平から日向延岡へと懲罰的な転封(領地替え)を命じられることになるのである 37 。内藤忠興の輝かしい成功の裏には、後継者育成と権力委譲の失敗という、次代への重い課題が潜んでいた。
内藤忠興の83年にわたる生涯は、戦国乱世の終焉から徳川による泰平の世の確立へと至る、日本の歴史における一大転換期と完全に重なっている。彼の人生の軌跡は、この激動の時代において、譜代大名という存在が果たした役割と、彼らが直面した課題を凝縮して示している。
第一に、彼は「武」の人であった。大坂の陣において軍令を破ってまで参陣した逸話は、単なる若武者の功名心だけでなく、徳川の天下統一事業に身を捧げた祖父・家長の遺志を継ぎ、武門の誉れを立てんとする強い意志の表れであった。その行動は家康に認められ、彼のキャリアの輝かしい出発点となった。
第二に、彼は卓越した「治」の人であった。平和な時代の到来と共に、彼はその能力を領国経営へと振り向けた。「寛永寅の縄」と呼ばれる徹底した検地によって藩の財政基盤を確立し、「小川江筋」の開削によって領地を豊かにした。彼の藩政は、3代将軍・家光が進める中央集権化政策に呼応し、幕藩体制の一翼を担う譜代大名としての務めを忠実に果たすものであった。大坂城代などの幕府の要職を歴任したことも、彼が武勇と統治能力を兼ね備えた、幕府にとって不可欠な人材であったことを証明している。
しかし、彼の人物像は単純ではない。薙刀を振りかざす妻に頭が上がらなかったという逸話や、漬物の味にまで細かく注文をつける書状は、彼の人間的な側面を垣間見せる。名ばかりの官職を一笑に付した態度は、虚飾を嫌い実利を重んじる、戦国時代的な価値観を色濃く残していたことを物語る。そして、終焉の地に武家の古都・鎌倉を選んだことは、自らを徳川の家臣であると同時に、日本の武家支配の歴史に連なる者と自負する、彼の強い矜持を示している。
内藤忠興は、徳川幕府初期における「理想の譜代大名」の一つの典型であったと言えるだろう。彼は幕府への忠誠を尽くして奉公し、領国を豊かにするという、この時代の譜代大名に課せられた二つの使命を見事に両立させた。
だが、その輝かしい功績には影の側面も存在する。彼の強力なリーダーシップは、結果として後継者である義概の代における権力の空洞化と、寵臣による藩政の壟断を招いた。忠興が築いた繁栄の裏には、個人の力量に依存する統治システムの脆弱性と、権力委譲の失敗という、次代への課題が残されていたのである。
総じて、内藤忠興の生涯は、一人の武将が新たな時代にいかに適応し、国家の形成に貢献し、そして意図せずして次代に混乱の種を残していったかを示す、極めて示唆に富んだ歴史的ケーススタディである。彼はまさに、戦国と近世の狭間に立ち、その両方の価値観を体現しながら、徳川の世の礎を築いた巨星であった。