冷泉隆豊は大内氏の文武両道の忠臣。主君義隆の文化傾倒と陶隆房の謀反に苦悩。大寧寺の変で義隆を介錯後、壮絶な自刃を遂げた。その忠義は後世に語り継がれた。
戦国時代、西国にその名を轟かせた大名・大内氏。三十一代当主・大内義隆の治世において、その勢力は周防、長門、安芸、石見、備後、豊前、筑前の七ヶ国に及び、最大版図を築き上げた 1 。その本拠地・山口は、京都から多くの公家や文化人を迎え入れ、大陸との交易によってもたらされた富と文化が融合し、「西の京」と称されるほどの繁栄を極めた 3 。雪舟に代表される芸術家を庇護し、フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許可するなど、義隆が築いた大内文化は、日本の文化史に燦然と輝く光を放っていた 3 。
しかし、その栄華の裏では、崩壊の影が静かに忍び寄っていた。天文11年(1542年)、宿敵・尼子氏を討つべく義隆自らが出陣した出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)が、国人衆の離反により惨憺たる敗北に終わると、事態は暗転する 7 。この敗戦で寵愛した後継者候補・大内晴持を失った義隆は、軍事と政治への情熱を急速に失い、文化的な世界へと深く傾倒していく 1 。この主君の変貌は、武功によって大内家を支えてきた譜代の重臣たちの間に、深刻な亀裂を生じさせた。長年の功績を誇る武断派の筆頭・陶隆房(後の晴賢)と、義隆に重用され文治政治を推し進める相良武任ら文治派との対立は、もはや修復不可能な段階に達していた 9 。
この対立は、単なる権力闘争に留まるものではなかった。それは、大内氏という国家のあり方を巡る「価値観の断絶」であった。武力による勢力拡大こそを大名家の本分と信じる者たちと、京都のような文化国家を目指す主君。両者の理念は決して交わることなく、やがて大内家を滅亡へと導く悲劇の引き金となる。
本報告書が主題とする冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)は、まさにこの歴史の転換点を象徴する人物である。彼は、和歌に通じる文化人として大内文化の「光」を享受する一方で、その文化への過度な傾倒が生んだ「影」である家中の対立に深く苦悩した。そして、分裂する家中にあって、ただひたすらに主君への「忠義」という古来の武士の徳目を守り抜き、壮絶な最期を遂げた。彼の生涯は、西国最大の大名家の栄光と悲劇、そして戦国という時代に生きた武士の義とは何かを、我々に強く問いかける。本稿では、一般的な忠臣という評価に留まらず、その出自から経歴、そして最期の瞬間に至るまでを徹底的に検証し、冷泉隆豊という一人の武将の実像に迫るものである。
表1:冷泉隆豊 関連年表
西暦(和暦) |
冷泉隆豊の動向・役職 |
大内氏・周辺勢力の動向 |
1511年(永正8年) |
冷泉興豊の子として誕生 7 。 |
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1527年(大永7年) |
17歳。「隆祐」として安芸仁保島、国府城で武田氏と戦う 7 。 |
大内義興、安芸武田氏と抗争。 |
1528年(享禄元年) |
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大内義隆、家督を相続 2 。 |
1537年(天文6年) |
27歳。従五位下・検非違使に叙任 7 。 |
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1541年(天文10年) |
31歳。安芸佐東銀山城の城主となる 7 。 |
大内氏、毛利元就を使い安芸武田氏を滅ぼす。 |
1542年(天文11年) |
32歳。第一次月山富田城の戦いに従軍。船奉行を務める 7 。 |
大内義隆、出雲へ遠征するも大敗。養子・晴持が死亡。 |
1543年-1547年 |
33-37歳。大内水軍を率い、伊予方面で能島村上氏らと交戦 7 。 |
義隆、政治への関心を失い文化活動に傾倒。家中の対立が深刻化。 |
1548年(天文17年) |
38歳。正五位下に昇叙 7 。 |
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1551年(天文20年) |
41歳(享年39)。8月、陶隆房の誅殺を進言するも容れられず。9月1日、大寧寺にて義隆を介錯し、自刃 7 。 |
陶隆房(晴賢)、謀反を起こす(大寧寺の変)。大内義隆、自害。 |
冷泉隆豊の名跡を語る上で、まず明らかにすべきはその出自である。「冷泉」という姓は、和歌の家として名高い公家の藤原定家の子孫、冷泉家を想起させる 17 。しかし、隆豊の家系は、この和歌の師範家である藤原氏流や村上源氏流の冷泉家とは直接の血縁関係にない 19 。
彼のルーツは、西国に覇を唱えた大内氏そのものにある。大内氏二十四代当主・大内弘世の子である弘正を始祖とする、大内氏の庶流、すなわち多々良氏の一門であった 19 。この一族は、明徳の乱や応仁の乱で武功を挙げた人物を輩出するなど、武勇の家柄として知られていた 20 。ではなぜ、武門である大内一族が「冷泉」という雅な姓を名乗るに至ったのか。それは隆豊の父・興豊の代に、母方の縁戚関係を理由に大内姓から改めたものとされている 19 。これは、本家である大内氏の姓を庶流が名乗ることを遠慮した結果であるという説もあるが 14 、同時に、大内氏が進めていた文化的戦略の一環と見ることもできる。当時、大内氏は日明貿易や京都からの文化人招聘を通じて、「西の京」としての権威を高めようとしていた 3 。その中で、公家社会における最高の文化ブランドの一つである「冷泉」の名を(たとえ直接の血縁がなくとも)一門に加えることは、一族全体の文化的権威を向上させ、中央との繋がりを誇示する上で極めて有効な「ブランディング」であった可能性が考えられる。
隆豊は、永正8年(1511年)、この冷泉興豊の嫡男として生を受けた 7 。幼名は五郎と伝わる 14 。成人すると、主君である大内義隆から偏諱(名前の一字)を賜り、当初は「隆祐(たかすけ)」と名乗った。後に父・興豊の「豊」の字を受け継ぎ、「隆豊」と改名した 7 。この改名の経緯は、彼の生涯が父祖から受け継いだ武門の伝統と、主君・義隆から与えられた文化的期待の両方を背負っていたことを象徴している。
この「武勇の血筋」と「文化的な家名」という二重の背景こそが、隆豊を「文武両道」の将として形成した根源であろう。父方の家系から武人としての気風と役割を叩き込まれる一方、「冷泉」を名乗る家柄は、彼に和歌などの文化的素養を身につけることを自然と促した 17 。その結果、彼は単なる猛将でも、文弱な貴族風の武士でもない、戦場で功を立てつつ和歌にも通暁するという、当時の武士の理想像を体現する人物へと成長していったのである。その一族の拠点としては、現在の山口県岩国市周東町に「冷泉氏館」の跡が伝わっており、彼らの生活の痕跡を今に伝えている 7 。
冷泉隆豊の武将としてのキャリアは、大内氏の軍事力の根幹をなす水軍の指揮官として始まった。父・興豊から警固衆(水軍)の統率権を受け継いだ彼は、瀬戸内海を舞台にその武才を遺憾なく発揮する 21 。
彼の初陣は、大永7年(1527年)、まだ「隆祐」と名乗っていた17歳の時であった。この戦いで彼は安芸国(現在の広島県)へ進出し、当時大内氏と抗争を繰り広げていた安芸武田氏の海上拠点である仁保島や国府城を攻撃し、制海権の確保に大きく貢献した 7 。若き将の活躍は、大内氏にとって極めて重要な意味を持っていた。なぜなら、大内氏の経済的基盤は、日明貿易と瀬戸内海の海上交通路の支配にあり、その生命線を脅かす安芸武田氏や、後に敵対することになる伊予の村上水軍の一部勢力は、断固として排除しなければならない存在だったからである 23 。隆豊の戦いは、単なる領土紛争ではなく、大内氏という国家の経済的生命線を守るための戦略行動の最前線であった。
その活躍は後年も続き、大内氏の歴史的転換点となった出雲遠征の後も、彼の戦場は主に伊予(現在の愛媛県)方面であった。天文12年(1543年)から天文16年(1547年)にかけて、彼は繰り返し伊予灘に出撃し、能島村上氏の反大内勢力が拠点とする平智島や中途島を攻撃した記録が残っている 7 。これらの海戦は、瀬戸内海の覇権を巡る熾烈な争いの一端を示すものであり、隆豊がその渦中で中核的な役割を担っていたことを物語っている。
こうした一連の戦功により、隆豊は大内家臣団の中での地位を不動のものとしていく。天文6年(1537年)には従五位下・検非違使に、さらに天文17年(1548年)には正五位下・大夫判官へと昇進し 7 、足利将軍家の御供衆にも名を連ねるなど 7 、名実ともに大内家の上級家臣としての栄誉を担うに至ったのである。
隆豊の軍事的な才能は、水軍の指揮だけに留まらなかった。天文10年(1541年)、大内義隆は麾下の毛利元就らを動員し、長年の宿敵であった安芸武田氏を滅亡させる 26 。この戦いの後、隆豊は武田氏の本拠地であった安芸佐東銀山城の城番(事実上の城主)に任命された 7 。
佐東銀山城は、太田川流域を押さえる安芸国の要衝であり、大内氏にとっては尼子氏の南下を防ぐ防波堤であると同時に、安芸国人衆を統制するための最重要拠点であった 27 。この戦略的要地に、水軍の将である隆豊が配置されたことは、彼が単なる海の将ではなく、占領地の統治を任せられるほどの総合的な能力と、主君からの絶大な信頼を得ていたことを示している 12 。
さらにこの人事には、より深い政治的意図があった可能性も指摘できる。安芸武田氏を滅ぼした主役は、大内氏の国人領主であった毛利元就である 31 。急速に勢力を拡大する元就に対し、主君・義隆が潜在的な警戒感を抱いていたとしても不思議ではない。元就の本拠地・吉田郡山城に睨みを利かせることができる佐東銀山城に、譜代の重臣であり忠誠心の厚い隆豊を送り込むことは、元就をはじめとする安芸国人衆を監視し、牽制するという重要な意味合いを持っていたと考えられる。すなわち隆豊は、対尼子氏の防波堤であると同時に、味方であるはずの毛利氏に対する「楔」としての役割も期待されていたのである。
天文11年(1542年)、大内義隆は尼子氏の息の根を止めるべく、自ら大軍を率いて出雲国へと侵攻した。この第一次月山富田城の戦いは、大内氏の栄華の頂点を示す遠征となるはずであったが、結果としてその運命を暗転させる歴史的な転換点となった 1 。
この遠征に先立って開かれた軍議において、冷泉隆豊の冷静な判断力が示されている。武断派筆頭の陶隆房が即時出兵を強硬に主張し、文治派の相良武任がこれに反対する中、隆豊は「段階的攻略」という折衷案を提示したと伝わる 14 。これは、軍事行動の必要性を認めつつも、そのリスクを慎重に管理しようとする現実的な戦略眼の表れであった。彼は単に主君の意向に従うだけの人物ではなく、大内家の置かれた状況を冷静に分析し、最善策を模索する能力を持っていたのである。しかし、この思慮深い提案は採用されず、義隆は隆房の強硬策を受け入れた。この決定が、後の悲劇を予兆していた。
戦いが始まると、隆豊は船奉行として、また一軍の将として従軍した 14 。出雲国の中海に浮かぶ大根島での戦闘では戦功を挙げ、義隆から直接感状を授与されるなど、武人としての役割を全うしている 12 。しかし、戦局は大内軍の思惑通りには進まなかった。難攻不落の月山富田城を前に戦線は膠着し、やがて味方として参陣していた国人衆の裏切りが相次ぎ、大内軍は総崩れとなって惨憺たる敗走を強いられることになった 7 。
この撤退の混乱の中で、隆豊の生涯に暗い影を落とす悲劇が起こる。義隆の養子であり、寵愛する姉の子で、次期当主と目されていた大内晴持の脱出である 8 。船奉行であった隆豊は晴持が乗る船を手配したが、不運にもその船は中海で転覆し、晴持は溺死してしまった 7 。隆豊は懸命にその行方を捜索したが見つけ出すことはできず、主君の後継者を死なせてしまうという痛恨の事態を招いた 14 。
この晴持の死は、隆豊にとって任務失敗という個人的な責務の問題に留まらなかった。それは、大内家の未来そのものが失われた瞬間でもあった。唯一の後継者を失った義隆は、この出来事を境に政治と軍事への意欲を完全に喪失し、文化の世界への逃避を始める 1 。隆豊は、たとえ不可抗力であったとしても、自らの手配の不手際が主君の心を折り、ひいては大内家衰退の端緒を開いてしまったという、二重の苦悩を生涯抱え続けることになったのである。
表2:大寧寺の変 主要人物関係図
派閥 |
人物名 |
役職・立場 |
変における結末 |
義隆方(文治派) |
大内義隆 |
大内家31代当主 |
自害 |
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冷泉隆豊 |
重臣、水軍の将、安芸銀山城主 |
義隆を介錯後、自刃 |
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相良武任 |
重臣、文治派筆頭 |
逃亡するも、後に殺害される |
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二条尹房 |
公家(前関白) |
逃亡中に討死 |
陶方(武断派) |
陶隆房(晴賢) |
重臣、武断派筆頭 |
謀反を主導、大内氏の実権を掌握 |
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内藤興盛 |
重臣 |
陶に同調 |
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杉重矩 |
重臣 |
当初は義隆に陶の危険性を訴えるも、後に陶に同調 |
出雲遠征の失敗と後継者・晴持の死は、大内義隆の心を深く蝕んだ。彼は現実の戦乱から目を背けるように、和歌や連歌、公家たちとの雅な交流といった文化的な世界に没頭していく 3 。牛車に乗り、貴族のような装束をまとう主君の姿は 3 、長年にわたり武功をもって大内家を支えてきた重臣たちの目に、耐え難い「文弱」なものと映った。
特に、武断派の筆頭である陶隆房(晴賢)の不満は頂点に達していた 10 。彼は大内氏の庶流に生まれ、幼い頃から義隆に仕え、その寵愛を受けて軍事面で絶大な権勢を誇ってきた人物である 11 。その彼にとって、軍事を軽んじ、吏僚的な才覚を持つ相良武任のような文治派の官僚を重用する義隆の姿は、大内家の伝統と誇りを踏みにじる裏切り行為に他ならなかった 10 。一方、相良武任らにとっても、武を笠に着て家中を壟断する陶隆房は排除すべき存在であり、両者の対立はもはや個人的な感情を超え、大内家の進むべき道を巡る国家的な路線対立へと発展していた 9 。
この深刻な家中の分裂を、冷泉隆豊は深い憂慮をもって見つめていた。彼は相良武任らと共に文治派に数えられることもあったが 20 、その行動原理は派閥争いではなく、あくまで主君・義隆と大内家そのものの安泰を願う純粋な忠誠心にあった。彼は、義隆が文化に耽溺し、軍備を疎かにする現状を危惧し、再三にわたって軍事にも力を注ぐよう諫言を繰り返した 14 。
やがて山口の町に「陶隆房に謀反の風聞あり」との噂が広まると、隆豊の危機感は現実のものとなる。彼は直ちに義隆のもとに参じ、噂の真相を究明し、必要とあらば隆房を誅殺するよう強く進言した 7 。特に、隆房が同じく武断派の重臣である内藤興盛や杉重矩と密かに手を結んでいる危険性を具体的に指摘し、先手を打つことを求めた 16 。しかし、義隆はこれらの切迫した警告に耳を貸そうとはしなかった。「六十を過ぎた分別のある興盛が、若輩の隆房などに同調するはずがない」と述べ、最後まで隆豊の言葉を信じなかったのである 16 。
義隆が隆豊の忠言を頑なに拒絶したのは、単なる楽観主義や情報分析の誤りではなかった。それは、自らが作り上げた文化的世界観への固執であり、一種の現実逃避であった。出雲での敗戦後、義隆は「武」の論理が支配する現実世界から、「文」の秩序が支配する雅な理想世界へと精神的に逃避していた。陶隆房の謀反という、暴力的で生々しい「武」の現実は、彼が必死に維持しようとしていた理想世界そのものを根底から覆すものであった。それを認めることは、自らのアイデンティティの崩壊を意味した。故に彼は、隆豊の警告を「聞きたくなかった」のである。
この主君と家臣のすれ違いは、戦国期における「忠義」の質の変化をも浮き彫りにする。陶晴賢の行動は、文弱化した主君を排除してでも「大内家」という組織を守るという、ある種の合理性に基づいたものであった。一方、隆豊の忠義は、主君が明らかに過ちを犯していると認識していても、最後までその個人に付き従うという、より古典的で非合理的な「殉死の忠義」であった。この二人の対照的な姿は、戦国乱世における武士の倫理観が、大きな転換期にあったことを示している。
天文20年(1551年)8月28日、冷泉隆豊が恐れていた事態は現実のものとなった。陶隆房(晴賢)が、ついに謀反の兵を挙げ、山口へと侵攻を開始したのである 16 。義隆は慌てて重臣たちを招集するが、時すでに遅く、内藤興盛や杉重矩らは既に陶方に与しており、義隆に味方する兵はほとんどいなかった 16 。
この絶望的な状況下で、隆豊は主君に対し、大内氏代々の館で潔く最期を遂げることを進言した 20 。しかし、この最後の進言すらも聞き入れられることはなく、義隆はわずかな供回りを連れて館を脱出し、山麓の法泉寺へと逃れた 20 。隆豊は、主君の覚悟の定まらぬ逃避行に付き従うほかなかった。
一行は当初、石見国(現在の島根県)の縁戚・吉見正頼を頼ろうと、日本海側の仙崎港を目指した。しかし、折悪しく嵐に見舞われ、船を出すことすらできずに断念 7 。万策尽きた義隆一行は、9月1日、長門国深川(現在の長門市)にある大寧寺へと追い詰められた 7 。
四方を陶軍に包囲され、もはや逃れる術がないことを悟った義隆は、ついに自害を決意する。彼は仏法の教えにちなんだ辞世の句、「討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観(にょろやくにょでん おうさにょぜかん)」(討つ者も討たれる者も、共に露や稲妻のようにはかないものである。この世の全てのものは、そのようにはかないものと観ずるべきである)を詠み、静かにその時を待った 16 。
そして、主君が人生の幕を閉じるにあたり、その首を落とす「介錯」という最も重く、最も信頼する者にしか託せない役目を務めたのが、冷泉隆豊であった 14 。この介錯の瞬間は、隆豊の諫言がことごとく無視された末に訪れた、悲劇的な結末であった。しかし同時に、自らの過ちの果てに死を選んだ義隆が、最後まで忠誠を尽くした隆豊に最後の役目を託したことは、言葉にならない主君から忠臣への最後の信頼の証であり、究極の和解であったとも言えよう。一説には、この介錯には冷泉家に伝わる偃月刀が用いられたと記されている 20 。
主君の介錯という大役を果たした隆豊の胸に、もはや生への執着はなかった。彼の最後の務めは、自らの義を貫き、武士としての名誉ある死を遂げることであった。彼はまず、義隆の亡骸が敵の手に渡らぬよう、その場に火を放った 16 。そして、寺の経蔵に一人立て籠もると、攻め寄せる陶軍の兵を相手に最後の奮戦を開始した。その鬼神の如き戦いぶりは凄まじく、敵兵は恐れをなして近づくことすらできなかったと伝わっている 7 。
敵兵を前に、隆豊は辞世の句を詠んだ。
「見よや立つ 煙も雲も 半空(なかぞら)に さそいし風の 末(すえ)も残らず」 15
(見よ、今立ち上るこの煙も天に舞う雲も、それを誘った風の痕跡さえ残らないように、この世の全てははかなく消え去るのだ)
この句の「末(すえ)」には、謀反人である「陶(すえ)」の姓が掛けられており、その滅亡を予言する強い意志が込められていると解釈されている 22 。彼の死は単なる自決ではなく、反逆者への呪詛と、自らの義を後世に伝えるための強烈なメッセージであった。
そして、隆豊は武士として最も壮絶とされる死に様を選ぶ。経蔵に自ら火を放つと、深手を負った体で腹を十文字に切り裂き、その中から自らの内臓を掴み出して天井に投げつけ、絶命したという 7 。享年39(一説に41)。この凄絶な最期は、自らの魂の座と信じられた腹の中を見せつけることで潔白を証明し、敵への最大限の侮蔑を込めた、後世に語り継がれるための「儀式」であった。
現在、長門市の大寧寺には、隆豊が籠ったとされる経蔵の跡地を示す石碑や、義隆主従の墓、そして彼の忠義を偲んで名付けられた「冷泉坂」が、その悲劇の物語を静かに伝えている 20 。
冷泉隆豊の人物像を考えるとき、まず浮かび上がるのは「文武両道」という言葉である。彼は大内水軍を率いて安芸や伊予の海を転戦し、武功を重ねた紛れもない勇将であった 7 。その一方で、和歌に堪能な文化人としての一面も持ち合わせていた。彼の名は、室町時代後期の重要な連歌集である『新撰菟玖波集』にも撰者の一人として記されており、その文化的素養が高く評価されていたことがわかる 14 。
この文武に秀でた姿は、隆豊個人の資質に留まらず、彼が生きた時代の「西の京」山口の気風そのものを反映していた。大内氏の歴代当主は、武家でありながら和歌や連歌を奨励し、一条兼良や宗祇といった当代一流の文化人たちと交流を深めた 42 。その庇護のもと、家臣たちの中からも多くの優れた連歌師が生まれている 42 。隆豊は、まさにこの「大内文化が生んだ理想の武士」であった。しかし皮肉なことに、彼を形成したその文化への主君の過度な傾倒が、政治的バランスを崩し、武断派の反発を招いて大内家を崩壊へと導いた。その意味で、隆豊は大内文化の最高傑作であると同時に、その文化の持つ脆弱性によって滅びた、最大の犠牲者であったとも言えるだろう。
冷泉隆豊の名が後世に語り継がれる最大の理由は、その壮絶な死に様と、そこに込められた「忠義」の精神にある。彼の死は、主君の後を追って自刃する「追腹(おいばら)」の典型例として、武士の忠義の鑑と高く評価されてきた 17 。それは、家の存続や政治的な合理性を超越して、主君個人への恩義と忠節を命がけで貫くという、滅びの美学を体現するものであった。
この隆豊の行動は、謀反を起こした陶晴賢のそれと鮮やかな対比をなす。晴賢もまた、「大内家のため」という大義名分を掲げていた 48 。彼にとって、家を危うくする主君・義隆個人は、家門の存続のために排除すべき対象であった。これは、戦国時代に広まった下剋上の論理であり、ある種の合理性を持つ。対して隆豊は、「主君のため」に家も自らの命も投げ出した。この二人の姿は、戦国という過渡期における「忠義」という価値観が、決して一様ではなかったことを示している。
ただし、隆豊の「忠義」が後世、特に江戸時代に入ってから理想化され、増幅された側面も見過ごすことはできない。下剋上が常態であった戦国時代の価値観から、主君への絶対的な忠誠が至上の美徳とされる儒教的な幕藩体制の価値観へと移行する中で、隆豊のような殉死は「義」の理想的な発露として称揚されるようになった 47 。『陰徳太平記』などの軍記物語が、彼の最期をより劇的に、より教訓的に描いたことは想像に難くない。冷泉隆豊の伝説は、彼の実像に、後世の人々の理想が投影されて形成されたものなのである。
冷泉隆豊の死は、大内氏の事実上の滅亡を意味したが、彼の物語はそこで終わらなかった。その忠臣としての名は、特に江戸時代を通じて軍記物語などで語り継がれ、武士の鑑として不動の評価を確立していった 20 。
隆豊には、元豊(もととよ)と元満(もとみつ)という二人の息子がいた。彼の妻は安芸の国人・平賀弘保の娘であり、大寧寺の変の後、息子たちは母方の実家である平賀氏のもとに身を寄せ、辛くも難を逃れた 7 。
やがて、父の主君・義隆の仇である陶晴賢を厳島の戦いで討ち、防長二国を平定した毛利氏が新たな支配者となると、元豊・元満の兄弟はその毛利氏に仕官する 20 。父の仇の仇であり、大内領の継承者でもある毛利氏に仕えることは、個人的な恩讐を超え、家名を存続させるという武士としての責務を果たすための、極めて現実的な選択であった。これは、非合理的なまでの殉死を遂げた父・隆豊の生き様とは対照的であり、戦国武士が持つ「義」と「実利」という二つの側面を象徴している。
しかし、彼らもまた父と同じく、武門の宿命を辿ることになる。兄の元豊は毛利家の門司城代を務めたが、永禄5年(1562年)に九州の雄・大友氏との戦いで討死。その跡を継いだ弟の元満も、毛利水軍の将として活躍したが、慶長の役における第一次蔚山城の戦いで壮絶な戦死を遂げた 7 。父子二代にわたり、主家のために戦場で命を散らしたのである。それでも冷泉の家名は途絶えることなく、子孫は長州藩士として幕末まで続いた 20 。
また、隆豊の生涯は、思わぬ形で後世に伝承を残している。彼の義理の弟(妻の弟)にあたる平賀清恒が、大寧寺の変の後に厚狭(現在の山陽小野田市)に逃れ、その地で田畑を開墾したという話が、山口県に伝わる民話「三年寝太郎」のモデルになったという説がある 7 。
大内氏の滅亡は、政治史的に見れば、内部対立による自壊という冷徹な事実である。しかし、歴史が人々の記憶に刻まれる時、単なる事実の分析だけでは心に残らない。冷泉隆豊の壮絶な殉死という物語は、この事件に「裏切りと忠誠」「非情と義理」という普遍的なテーマを与え、人々の感情に訴えかける力を持った。彼がいなければ、大寧寺の変は単なる「陶晴賢のクーデター」として記録されるだけであったかもしれない。冷泉隆豊という一人の忠臣の存在が、この歴史的事件を、後世に語り継がれるべき「悲劇の物語」へと昇華させたのである。