分部光信(わけべ みつのぶ)は、天正19年(1591年)に生まれ、寛永20年(1643年)に没した、江戸時代前期の大名である。彼の生涯は、戦国時代の終焉と徳川幕府による新たな統治体制「天下泰平」の構築という、日本の歴史における極めて大きな転換点を体現している。戦乱の世においては武士個人の武勇や知略が家の浮沈を左右したが、徳川の治世が確立するにつれて、大名には幕府への忠実な奉公と、領地を安定的に治める行政官としての能力が求められるようになった。分部光信の人生は、まさにこの武力による立身から、行政能力と公儀への奉仕による家の安泰へと、大名に求められる資質が劇的に変化していく過程そのものを象徴している。
彼の名は、祖父・光嘉の関ヶ原における武功や、大坂の陣での活躍、そして織田信長による焼き討ちで荒廃した比叡山延暦寺の復興奉行を務めたことなど、いくつかの印象的な逸話と共に語られることが多い。しかし、これらの断片的な事績を追うだけでは、光信という人物の全体像、そして彼が果たした歴史的役割の本質を見誤る可能性がある。
本報告書は、分部光信の生涯を、単なる逸話の集合体としてではなく、彼の出自と家督相続の背景、徳川大名としての武功と公儀奉公、近江大溝藩初代藩主としての藩政、そして彼の死後、後世に遺された影響という多角的な視点から体系的に再構成することを目的とする。これにより、彼が戦国の遺風を継ぎながらも、いかにして泰平の世の礎を築く一翼を担ったのか、その歴史的実像を徹底的に明らかにしたい。
分部光信の生涯を理解する上で、彼の祖父であり、分部家を近世大名へと押し上げた分部光嘉(みつよし)の存在を抜きにして語ることはできない。光信の功績の多くは、光嘉が築き上げた強固な政治的・軍事的基盤の上に成り立っているからである。
分部氏は、伊勢国安濃郡分部村(現在の三重県津市分部)を発祥とする一族で、戦国時代には伊勢北中部に勢力を誇った有力国衆・長野氏に仕える家臣であった 1 。光嘉の時代、尾張から織田信長が伊勢への侵攻を開始すると、長野一族の多くが信長に反抗する中で、光嘉は早くから時勢を見極め、信長への恭順を主張した。彼は巧みな交渉の末、信長の弟である織田信包(のぶかね)を長野家の養嗣子として迎えることで、主家である長野家と自らの分部家の存続を巧みに図ったのである 2 。この功績により、光嘉は信包の重臣として伊勢上野城(現在の津市河芸町上野)の城主となり、その地位を固めた 2 。
信長の死後、信包が文禄3年(1594年)に豊臣秀吉によって近江へ減移封されると、光嘉は信包のもとを離れ、秀吉の直臣となる道を選んだ。これにより彼は1万石余の大名となり、独立した領主としての地位を確立する 2 。さらに秀吉の死後は、次の天下人として台頭しつつあった徳川家康にいち早く接近した 2 。この一貫した「時流を読む力」と、時々の天下人に対して自家の価値を的確に提示する政治感覚こそ、分部家が戦国の動乱を乗り越え、近世大名として生き残るための最大の要因であった。
その政治的洞察力が最も劇的に発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。天下分け目の戦いに際し、光嘉は迷わず東軍に与した。そして、西軍が伊勢に侵攻してくると、自らの上野城を放棄し、同じ東軍に属する津城主・富田信高の安濃津城に合流して籠城するという決断を下す 2 。毛利秀元や吉川広家らが率いる3万ともいわれる西軍の大軍に対し、安濃津城の兵力はわずか1700ほどであった。圧倒的な兵力差にもかかわらず、光嘉は富田信高と共に奮戦し、西軍に多大な消耗を強いた。最終的には開城に至るものの、この籠城戦が西軍主力の関ヶ原への到着を遅らせ、東軍の勝利に間接的に貢献したことは疑いようがない。この戦いは、家康に対する分部家の忠誠心を示す、これ以上ない「投資」となった。
関ヶ原での東軍勝利後、家康は安濃津城での光嘉の功績を高く評価した。戦後、光嘉は本領を安堵された上で、さらに奄芸郡内で1万石を加増され、合計2万石の伊勢上野藩を立藩するに至った 3 。戦国武将が、徳川の治世下における近世大名へと完全に脱皮した瞬間であった。光信の生涯は、祖父・光嘉が命がけで築き上げたこの盤石な土台の上に始まるのである。
分部光信は、天正19年(1591年)、伊勢国雲林院(現在の三重県津市芸濃町)において、長野正勝(次右衛門)の子として生を受けた 8 。彼の母は分部光嘉の娘であり、光信は光嘉にとって直系の外孫にあたる 8 。
光信が分部家の後継者となる経緯は、家の存続を巡る当時の武家の事情を色濃く反映している。慶長4年(1599年)、光嘉の嫡男であった分部光勝が嗣子なくして死去した 8 。当主の血を引く男子が絶えることは、家の断絶に直結しかねない重大事であった。この危機に際し、最も血縁が近く、家名を継承するにふさわしい存在として白羽の矢が立ったのが、外孫である光信であった。彼は光嘉の養嗣子として迎えられ、分部家の後継者としての地位を得た 8 。これは、戦国時代の実力主義から、泰平の世における血統の継続性と正統性がより重視されるようになった時代の変化を象徴する出来事であった。
光信の家督相続は、徳川家康の公認のもとで進められた。その最初の儀式が、関ヶ原の戦いにおける「人質」としての役割であった。当時まだ9歳の光信は、分部家が東軍に与することを明確に示す忠誠の証として、同じ東軍の将である安濃津城主・富田信高のもとへ人質として差し出された 8 。これは単なる形式ではなく、分部家全体が徳川方の一員として運命を共にすることを、内外に宣言する極めて重要な政治的行為であった。
そして慶長6年(1601年)、祖父・光嘉が安濃津城の籠城戦で受けた戦傷が悪化し、この世を去る 2 。光嘉は死の直前、当時11歳の光信を伴って大坂城に赴き、徳川家康に御目見している 8 。これは、家康に対して次期当主を紹介し、家督相続の承認を得るための重要な手続きであった。この御目見を経て、光信は分部家の家督と祖父が獲得した伊勢上野2万石の遺領を正式に継承し、伊勢上野藩の第2代藩主となったのである。
若くして家督を継いだ光信にとって、徳川の治世下で大名としての価値を証明する最初の、そして最大の機会が、慶長19年(1614年)から翌20年にかけて勃発した大坂の陣であった。祖父・光嘉が関ヶ原の戦功によって家を興したように、光信もまた、この豊臣家との最終決戦において「武」の面で徳川家に貢献することこそが、自らの地位を不動のものにする道であると認識していた。
光信は、慶長19年の大坂冬の陣、そして翌年の大坂夏の陣の両方に参陣した。彼の部隊は、徳川譜代の重臣である本多忠政の指揮下に属して戦ったと記録されている 9 。特に戦局が最終段階に入った大坂夏の陣において、光信は重要な役割を果たした。
慶長20年5月7日、最後の決戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、徳川軍は大和口、天王寺口、岡山口の三方面から大坂城へ総攻撃をかけた 11 。光信が属する本多忠政の軍勢は、大和口方面軍の二番手として布陣しており 11 、徳川家康本陣の前面に展開する主力部隊の一翼を担っていた。この戦いで真田信繁(幸村)や毛利勝永らが率いる豊臣方が凄まじい抵抗を見せ、徳川軍は一時混乱に陥るほどの激戦となった。光信の具体的な戦闘行動を詳細に記した一次史料は限られているが、この徳川方にとって極めて重要な局面で奮戦し、戦功を挙げたと複数の記録が伝えている 2 。
この武功の意義は、単に戦場で活躍したという事実以上に大きい。それは、光信が徳川大名として、泰平の世を維持するための軍事力の一端を確実に担える存在であることを、将軍家の目前で証明したことに他ならない。この功績が、後の近江大溝への転封の一因になったとも考えられている 1 。
光信が単なる武人ではなく、家臣団を率いる統治者であったことを示す貴重な史料が現存している。それは「大坂御陣寅卯両年覚書」と題された冊子である 14 。この文書は、大坂の陣終結後の元和元年(1615年)12月に、光信が戦功のあった家臣たちに与えた褒賞の詳細な記録である。そこには、58名に及ぶ家臣の姓名、禄高、そして与えられた銀・金・米の具体的な量が一人ひとり几帳面に書き上げられている 14 。この記録は、単なる恩賞リストではない。藩主と家臣の間の具体的な主従関係、当時の藩の財政状況、そして戦功を評価する基準を知ることができる、極めて価値の高い一次史料である。このような文書が作成され、保存されていること自体が、分部家が戦国的な属人性の高い支配から、近世的な文書主義に基づく官僚的な行政へと移行しつつあったことを明確に示唆している。光信の武功は、彼のキャリアにおける重要な画期であると同時に、その後の論功行賞の記録は、彼が組織を管理する近世大名としての資質を既に備えていたことを物語っている。
大坂の陣が終結し、世に「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる泰平の時代が到来すると、大名に求められる役割は戦場での武功から、幕府が主導する国家事業への奉仕、すなわち「公儀」への貢献へと大きくシフトした。分部光信は、この時代の要請にも見事に応え、特に大規模な土木事業である「天下普請」において、その実務能力を遺憾なく発揮した。
家督相続後、光信は二条城、駿府城、大坂城、そして関ヶ原の戦い後に廃城となった佐和山城の石垣等の移築・破却作業など、幕府が命じた数々の城郭普請に奉行として参加した 3 。さらに慶長14年(1609年)には、京都の知恩院の造営においても奉行を務めており、若くして大規模な建設事業を指揮する経験を積んでいた 8 。
こうした数々の実績の中でも、光信の奉行としてのキャリアの頂点と言えるのが、寛永11年(1634年)に幕府から命じられた比叡山延暦寺の復興事業である 8 。延暦寺は、元亀2年(1571年)に織田信長による焼き討ちで主要な堂塔のほとんどを焼失し、壊滅的な打撃を受けていた 17 。その延暦寺を、かつての威容を取り戻すべく再建するこの事業は、単なる寺院の復興に留まらず、徳川幕府の威信を天下に示す国家的な大プロジェクトであった。
この重要な事業の奉行に、外様大名である分部光信が抜擢された背景には、多層的な理由が存在したと考えられる。
第一に、これまでの数々の普請事業で証明されてきた、光信の実務能力に対する幕府の厚い信頼があったことは間違いない。大規模な人員と資材を効率的に管理し、計画通りに事業を遂行する能力は、この大事業を成功させる上で不可欠な要素であった。
第二に、地理的な合理性である。寛永期には、光信はすでに近江大溝藩主となっていた。復興の現場である比叡山は、彼の領地である大溝から目と鼻の先にあり、資材の調達や人員の動員、現場の監督において、他のどの大名よりも有利な条件を備えていた。
そして第三に、極めて高度な政治的・象徴的な意味合いである。この延暦寺復興事業は、徳川家康の絶大な信頼を得ていた側近、天海僧正が中心となって主導していた 18 。その幕府の威信をかけた事業の実行責任者の一人に、外様大名の光信が選ばれたこと自体が、彼が幕府からいかに深く信頼されていたかを示している。さらに深く考察すれば、そこには徳川幕府の巧みな政治的演出が見て取れる。光信の祖父・光嘉は、かつて織田信長の弟・信包に仕えることで家を存続させた。その分部家の当主が、信長による破壊の象徴である延暦寺を「再建」する側に立つ。この構図は、武力による破壊の時代(織田)を、徳川の治世が完全に乗り越え、仏法をも再興させる平和と秩序の時代を築き上げたことを、天下に雄弁に物語る強力な政治的メッセージとなり得た。
比叡山復興奉行への任命は、光信個人の能力評価に留まらず、徳川幕府の高度な政治的計算と象徴操作の一環であった可能性が極めて高い。光信は、その幕府の意図を的確に汲み取り、忠実に任務を遂行することで、幕府内における自らの、そして分部家の地位をより一層強固なものにしたのである。
元和5年(1619年)8月27日、分部光信のキャリアにおいて大きな転機が訪れる。伊勢上野藩2万石から、近江国高島郡および野洲郡内に新たに与えられた2万石の領地へと転封(国替え)を命じられたのである 1 。光信は新たな居所を琵琶湖西岸の大溝(現在の滋賀県高島市勝野)に定め、ここに近江大溝藩が立藩した 19 。
この転封の理由については、二つの側面から解釈されている。一つは、大坂の陣における戦功に対する恩賞という見方である 1 。戦働きによって幕府への忠誠を示した大名に対し、より畿内に近い重要な地を与えるという論功行賞の一環であったとする説明である。
しかし、より直接的な要因として有力視されているのが、徳川御三家の一つである紀州藩の成立に伴う、幕府の大規模な領地再編政策の余波という見方である 1 。同年、徳川家康の十男である徳川頼宣が、紀伊国和歌山に55万5千石で入封し、紀州徳川家が成立した。この広大な紀州藩の領地には、伊勢国の一部も含まれており、分部家が治めていた伊勢上野藩領もその対象となった。そのため、幕府は分部家を伊勢から立ち退かせ、代替地として近江に新たな領地を与えた、というのが実情に近いと考えられている。
理由が何であれ、光信はこの新たな地で藩政の基盤をゼロから築き上げるという大任を担うことになった。彼は、かつて織田信長の甥である津田信澄が築城し、その後廃城となっていた大溝城の跡地の一角に、藩政の拠点となる大溝陣屋を新たに築いた 15 。ここから、分部家による大溝250年の治世が始まるのである。
初代大溝藩主となった分部光信の治績の中で、最も後世に大きな影響を与え、彼の統治者としての卓越した能力を物語るのが、大溝の城下町整備である。それは単なるインフラ整備に留まらず、軍事、経済、住民生活、防災、そして文化といった、都市が持つべき多面的な機能を統合した、包括的な「都市経営」と呼ぶにふさわしいものであった。
光信の都市計画は、全くの白紙から始まったわけではない。彼は、約40年前にこの地を治めた津田信澄が整備した城下町の町割り、特に京都の町家に見られるような間口が狭く奥行きの深い「短冊形」の区画割りを基盤として、それをさらに拡張・発展させるという合理的な手法を取った 1 。過去の遺産を有効活用しつつ、自身の新たな構想を重ねていったのである。
その空間設計は極めて巧みであった。まず、琵琶湖の内湖である乙女ヶ池を、陣屋の東側を守る広大な天然の外堀として活用した 24 。これは軍事的な防御機能だけでなく、物資を運ぶための舟運の拠点としても機能した 24 。そして、陣屋の西側には家臣団の武家屋敷地を、さらにその外側には町人たちの居住・商業区域を配置した。この武家地と町人地の間には、背戸川という自然の川が流れており、これを明確な境界線として利用することで、身分に応じた居住区の分離と、城下全体の秩序ある区画を実現した 24 。
しかし、光信の治績で最も注目すべきは、地域の豊かな水資源を最大限に活用した、先進的な水利システムの構築である。彼は、城下の主要な通りの真ん中に水路を通す「まち割水路」を整備した 23 。この水路は、洗濯などの日常生活用水として利用されると同時に、火災が発生した際には貴重な防火用水ともなる、一石二鳥の優れたシステムであった。さらに驚くべきことに、これらの生活用水とは別に、飲用のための清浄な水を供給する2系統の古式上水道も整備したと伝えられている 25 。山からの湧水を水源とし、衛生的な飲水を確保するこのシステムは、当時の地方都市としては極めて高度なものであり、領民の生活の質と公衆衛生、そして安全を飛躍的に向上させるものであった。
武功や普請奉行としての華々しい功績もさることながら、この大溝の地に今なおその面影を残す巧みな都市計画こそ、分部光信という人物が、戦国の武辺者から泰平の世を治める優れた行政官僚へと完全に自己を変革させることに成功した、何よりの証左と言えるだろう。
要素 |
設計・機能 |
関連史料 |
拠点 |
大溝城跡に陣屋を構築し藩政の中心とする |
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区画 |
津田信澄の町割りを継承。背戸川で武家地と町人地を分離 |
24 |
防御・水運 |
琵琶湖の内湖(乙女ヶ池)を外堀・舟運に活用 |
24 |
水利(生活・防火) |
通りの中央に「まち割水路」を配置 |
23 |
水利(飲用) |
2系統の古式上水道を整備 |
25 |
初代藩主としての光信の藩政は、城下町の物理的な整備に留まらなかった。彼は、藩の統治者として、領民の暮らしにも心を配った為政者であったと伝えられている。
史料には、光信が藩政において「領民に金子を分配するなど、善政を敷いた」という記述が散見される 8 。具体的な政策の内容まで詳述した記録は少ないものの、こうした逸話が後世に語り継がれていること自体が、彼が領民から慕われる仁政を行った藩主であったことを示唆している。これは、儒教的な徳治主義が為政者の理想とされた江戸時代の価値観を反映した評価とも言えるが、少なくとも圧政を敷くような領主ではなかったことは確かであろう。
また、光信の統治は、人々の文化的な営みにも影響を与えている。現在も滋賀県高島市に伝わる湖西地方唯一の曳山祭りである「大溝祭」は、光信が故郷である伊勢上野の曳山祭りを、この大溝の地に伝えたのが始まりであるとされている 8 。これは、彼の統治が単なるインフラ整備や経済政策だけでなく、領民の精神的な拠り所となる文化の移植・育成にまで及んでいたことを示す興味深い事例である。
一方で、大溝藩の財政基盤は、その歴史を通じて決して盤石ではなかった。石高は2万石という小藩であり、その後の歴史を見ると、寛文9年(1669年)や延宝4年(1676年)に大規模な洪水に見舞われ、年貢収入が激減し、幕府から救済米を拝借したり、参勤交代の免除を願い出たりするほど財政的に困窮した時期もあった 1 。
しかし、こうした脆弱な財政基盤にもかかわらず、分部家が大溝の地で一度も国替えを命じられることなく、明治維新までの約250年間にわたって存続し得たのは、初代藩主である光信が築いた藩政の初期基盤がいかに堅固なものであったかを物語っている。彼が整備した城下町と水利システムは、その後の藩の経済と生活の礎となり、幕府への忠実な奉公を通じて築いた信頼関係は、藩の存続を保障する大きな後ろ盾となったのである。
数々の武功を挙げ、幕府の普請奉行として重責を果たし、そして大溝藩の初代藩主として藩政の礎を築いた分部光信であったが、その生涯は寛永期に終わりを告げる。寛永19年(1642年)5月に病に倒れ、療養の甲斐なく、翌寛永20年(1643年)2月22日、居城である大溝の陣屋において死去した 8 。享年53。その法名は「泰雲院殿順翁宗曲大居士」と伝えられている 9 。
光信の死後、一つ興味深い謎が残されている。それは彼の墓所の場所である。分部家の菩提寺は、光信自身が伊勢上野から大溝の地に移した圓光寺(滋賀県高島市)であった 2 。歴代藩主の多くがこの圓光寺の墓所に眠っているにもかかわらず、藩の創始者である光信自身の墓は、そこにはない。彼の墓は、京都にある臨済宗の大本山、大徳寺の塔頭である大慈院に築かれたのである 2 。
この選択には、近世大名家としての戦略的な意図が込められていた可能性が高い。大徳寺は、織田信長をはじめ、多くの戦国大名や茶人、有力者が眠る寺院であり、そこに墓所を構えることは、大名家の格式と権威を示す一種のステータスであった。光信自身、あるいは彼の跡を継いだ分部家が、藩祖である彼の墓所をあえて京都の名刹に置いたのは、分部家が単なる近江の地方小大名ではなく、中央の政治・文化とも深いつながりを持つ、格式高い家であることを内外に示すための戦略的な判断であったと考えられる。これは、幕藩体制という厳格なヒエラルキーの中で、家の格を少しでも高く維持し、有利な立場を確保しようとする、近世大名に共通する意識の表れと解釈することができる。墓所の場所一つをとっても、そこには大名家の存続をかけた静かな戦略が見え隠れするのである。
光信が一代で築き上げた大溝藩の安定は、しかし、彼の死後、いとも簡単に揺らぐことになる。その後の分部家の歴史は、近世大名家が常に抱えていた後継者問題の難しさと、家の存続がいかに多くの不確定要素に左右されるものであったかを如実に示している。
光信の跡を継いだのは、三男の分部嘉治(よしはる)であった。しかし、この2代藩主・嘉治は、明暦4年(1658年)、悲劇的な事件を引き起こす。彼は、正室(備中松山藩主・池田長常の娘)の叔父にあたる旗本・池田長重と口論の末に刃傷沙汰に及び、長重を斬殺。自らもその際に深手を負い、翌日死亡するという衝撃的な結末を迎えたのである 1 。この事件は、泰平の世とはいえ、武士の荒々しい気性がまだ色濃く残っていた江戸時代初期の世相を反映している。
父の横死により、嘉治の子である嘉高(よしたか)がわずか11歳で家督を継ぎ、3代藩主となった。嘉高は、領内の凶作に際して自身の名刀を将軍に献上し、その褒美で得た金で領民を救うなど、若くして民政に心を砕いた良君であったと伝えられている 2 。しかし、その嘉高もまた、寛文7年(1667年)に嗣子のないまま、わずか20歳の若さで病死してしまう 2 。
これにより、分部光信の直系の血筋は、彼の死からわずか24年という短期間で完全に断絶してしまった。一人の当主の能力がいかに高くとも、後継者の資質や寿命、そして不慮の事故といった予測不可能な要因によって、家の存続そのものが脅かされる。分部家の事例は、泰平の世にあってもなお、すべての大名家が抱えていた本質的な脆弱性を浮き彫りにしている。
光信直系の血が絶え、分部家は断絶の危機に瀕した。しかし、家はここで潰えることはなかった。3代藩主・嘉高の母方が旗本の池田家であった縁故を頼り、その一族である池田長信の子・信政(のぶまさ)を急遽養子として迎え、家名を存続させることに成功したのである 1 。これは、有力な武家との婚姻政策によって築かれたネットワークが、いざという時に家の断絶を防ぐセーフティネットとして機能した典型的な事例であった。こうして分部家は、血統は変われども家名は存続し、その後も代を重ねて明治維新まで大溝藩主として存続した。
時代は下り、明治時代。武士の世が終わりを告げた後、大溝の地では分部家の功績を称える動きが起こる。明治11年(1878年)、旧藩士らの有志が中心となり、かつての大溝陣屋があった三の丸跡に、分部家の歴代当主を祀る「分部神社」の創建が計画され、公許を得て明治13年に落成した 24 。この神社では、分部家の始祖である光嘉から最後の当主・光謙(みつのり)に至るまでの歴代当主が祭神として祀られており、大溝藩の初代藩主である光信も、その中心的な一柱として崇敬の対象となっている 1 。
分部光信がこの地を治めてから400年以上の時が流れた。しかし、彼が設計した城下町の骨格、生活を支えた水路、そして彼が伝えたとされる祭り、彼を祀る神社といった有形無形の遺産は、現代の滋賀県高島市にも確かに息づき、その記憶を今に伝えているのである。
分部光信の生涯を俯瞰するとき、その軌跡は大きく三つの段階で要約することができる。第一に、祖父・光嘉の遺産を継承し、大坂の陣という最後の戦乱で「武功による立身」を成し遂げた段階。第二に、天下普請や比叡山復興事業への奉仕を通じて、「幕府への忠実な奉公による信頼獲得」を実践した段階。そして第三に、近江大溝への転封後、「卓越した統治による藩政基盤の構築」を成し遂げた段階である。彼は、戦国の動乱を巧みに生き抜いた祖父の政治的・軍事的遺産を、徳川の泰平の世に完全に適合した形で発展させ、一族を近世大名として社会に定着させた、極めて重要な過渡期の人物であった。
これまで、光信の評価は、大坂の陣での武功や、比叡山復興奉行という華々しい功績に光が当てられがちであった。しかし、彼の真価は、むしろそれらの功績の背後にある、より地道な側面にこそ見出されるべきである。
その最大のものが、大溝の先進的な都市計画に示される、極めて高度な行政手腕である。軍事、経済、防災、そして民衆の生活と文化を統合的に捉え、水という地域の資源を最大限に活用して持続可能な都市基盤を設計したその手腕は、単なる武人ではない、優れた「統治者」としての彼の本質を物語っている。また、幕府から命じられた数々の普請事業を、その政治的意図まで汲み取って忠実に、かつ着実に実行する実務能力の高さも、泰平の世の大名として不可欠な資質であった。
分部光信は、戦国武将に求められた「個の武勇」と、近世大名に求められた「組織の管理者」としての能力を、その生涯の中で両立させ、見事に時代の変化に対応した人物であった。彼は、新たな時代が求める「統治者」のあるべき姿を、その生涯を通じて体現した大名として、再評価されるに値する。彼の遺したものは、石高2万石という数字だけでは測れない、はるかに大きな価値を持つものであったと言えるだろう。