別所則定は、父・則治と子・就治の間に生きた播磨の武将。浦上村宗との戦いに敗北後、沈黙の治世で一族の力を蓄え、次代の就治が播磨の覇者となる礎を築いた。
日本の戦国史を彩る数多の武将の中で、別所則定(べっしょ のりさだ)という名は、決して広く知られているとは言えない。彼は、播磨国(現在の兵庫県南西部)に覇を唱えた別所氏の歴史において、中興の祖と称される父・則治(のりはる)と、一族の最盛期を築き上げた子・就治(なりはる)という、二人の傑出した当主の間に位置する 1 。その生涯を直接的に物語る史料は極めて乏しく 1 、彼の名はしばしば、系譜上の一点を埋めるためだけに記されるに過ぎなかった。
しかし、この「史料の沈黙」こそが、則定が生きた時代の過酷さと、彼が担った役割の重要性を逆説的に示唆している。彼は、主家である赤松氏の忠実な家臣団の一員であった別所氏が、独立した戦国大名へとその性質を劇的に変容させていく、まさにその「過渡期」そのものを体現した当主であった。彼の治世は、華々しい領土拡大や軍事的勝利によって飾られたものではなく、一族の存続という至上命題を背負い、激動する内外の情勢の中で耐え忍ぶ「守成」の時代であったと推察される。
本報告書は、この別所則定を単なる「繋ぎ」の当主としてではなく、一族の未来を切り拓くための困難な舵取りを担った「守成の名君」として再評価することを目的とする。則定個人の動向を直接追うことが困難である以上、本報告書では、彼が家督を継承した永正10年(1513年)から、子・就治が実質的に家中の実権を掌握するまでの播磨国内外の政治・軍事的情勢を徹底的に分析する。これにより、則定が置かれた極めて困難な状況と、彼が下したであろう判断の輪郭、そしてその歴史的意義を炙り出してゆく。彼の「沈黙」が、決して無為や無能を意味するものではなく、次代の飛躍に向けた戦略的な選択であったことを論証する。
人物名(通称・官位) |
生没年 |
関係性 |
主要な事績 |
別所則治(小三郎、大蔵少輔) |
生年不詳 - 1513年 |
則定の父 |
赤松政則の復帰に尽力。三木城を築き、別所氏中興の祖と称される 1 。 |
別所則定(耕月) |
生没年不詳 |
本報告書の主題 |
父・則治と子・就治の間の当主。下剋上の時代を耐え、一族存続の礎を築く 1 。 |
別所就治(大蔵大輔) |
1502年 - 1563年 |
則定の子 |
赤松氏から自立し、東播磨八郡を支配。別所氏の最盛期を現出させる 2 。 |
別所安治 |
1532年頃 - 1570年 |
就治の子(則定の孫) |
織田信長と誼を通じるが、早世する 3 。 |
別所長治(小三郎) |
1558年頃 - 1580年 |
安治の子(則定の曾孫) |
織田信長に反旗を翻し、三木合戦で羽柴秀吉と戦うも敗北、自刃する 8 。 |
別所重宗(重棟、孫右衛門尉) |
生没年不詳 |
就治の子(則定の孫) |
長治に同調せず織田方に属し、近世大名として家名を存続させる 3 。 |
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別所則定の生涯を理解するためには、まず彼の父である則治が、如何にして別所氏を播磨の有力な勢力へと押し上げたのかを把握することが不可欠である。則治が一代で築き上げた政治的地位と軍事的基盤こそが、則定が継承し、そして守り抜かねばならなかった全ての出発点であった。
室町時代中期の別所氏は、播磨の守護大名・赤松氏の庶流として、三木周辺を拠点とする一国人に過ぎなかった 3 。彼らの運命は、宗家である赤松氏の盛衰と常に一体であった。嘉吉元年(1441年)、時の赤松家当主・赤松満祐が第6代将軍・足利義教を暗殺するという前代未聞の事件(嘉吉の乱)を引き起こすと、幕府の総攻撃を受けて赤松宗家は滅亡。これに伴い、別所氏もまた一時的に没落の憂き目に遭う 3 。この主家と共に味わった没落の記憶は、一族の記憶に深く刻み込まれ、後の則治の行動原理を形成する上で重要な要素となったと考えられる。
苦難の末、応仁・文明の乱(1467年-1477年)の最中に赤松氏は旧領の播磨・備前・美作の守護職を回復し、奇跡的な再興を遂げる。この再興赤松家の当主となったのが赤松政則であった。しかし、その権力基盤は盤石とは言えず、文明15年(1483年)、政則は家臣団の筆頭であった浦上則宗らによって守護職を剥奪され、播磨から追放されるという事態に見舞われる 10 。主君が家臣によって追放されるという、まさに下剋上の兆候を示すこの事件において、歴史の表舞台に忽然と登場するのが別所則治である。
これ以前の則治の具体的な動向を知る史料は発見されていないが 11 、彼はこの絶体絶命の状況下で、極めて大胆かつ戦略的な行動に出る。則治は、堺に亡命していた主君・政則を密かに擁して京に上り、前将軍・足利義政に直接、政則の赦免と復帰の取りなしを願い出たのである 11 。
この行動は、単なる主君への忠義心だけで説明できるものではない。当時の赤松家中の実権は、政則を追放した浦上則宗が完全に掌握していた。播磨国内において、別所氏単独の力で浦上氏に対抗することは不可能であった。則治が着目したのは、地方の権力闘争を覆しうる「中央の権威」であった。将軍家、特に隠居後も絶大な影響力を保持していた大御所・足利義政の威光を借りることで、浦上氏の行動の正当性を覆し、政則の復帰という大義名分を確保しようとしたのである。これは、追放された主君に味方するという極めてリスクの高い賭けであったが、成功すれば浦上氏の権勢を牽制し、自らの発言力を飛躍的に高めることができる、高度な政治的判断であった。
結果として、この賭けは成功する。義政の介入により、政則は播磨守護として復帰を許され、播磨に再入国を果たした 10 。別所則治の功績は、単に主君を救ったというだけでなく、中央の権威を巧みに利用して地方の権力構造を塗り替えた、優れた戦略家としての一面を物語っている。この成功体験は、別所一族に大きな誇りと自負をもたらし、その後の発展の精神的な源流となった。
主君・赤松政則の播磨復帰を実現させた則治の功績は、絶大なものであった。政則は、自らの権力基盤を安定させるため、また浦上氏一強の状態を是正するために、忠臣である則治を積極的に重用した。政則は、守護代として強大な力を持つ浦上則宗と並び立たせる形で則治を登用し、家臣団の勢力均衡を図った 11 。これにより、別所氏は赤松家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者としての地位を公的に認められ、特に東播磨における支配権を確立していくことになる。
この政治的地位の向上を背景に、則治は自らの支配拠点として、新たな城の築城に着手する。明応元年(1492年)頃、彼は加古川の支流である美嚢川に面した交通の要衝、三木の地に釜山城、すなわち三木城を築いた 3 。三木城は、三方を断崖と急流に囲まれた天然の要害であり、播磨の内陸部と瀬戸内海を結ぶ結節点に位置していた。この城の築城は、単に居城を移したという以上の意味を持っていた。それは、東播磨支配の恒久的な政治・軍事センターを構築する事業であり、赤松氏の家臣という立場にありながらも、半ば独立した領主としての地歩を固めようとする、則治の強い意志の表れであった。
これらの功績により、別所則治は、赤松氏の一庶流に過ぎなかった別所氏を、播磨国において無視できない一大勢力へと押し上げた「中興の祖」として、後世に記憶されることになる 3 。彼が一代で築き上げた権力、東播磨の支配権、そして堅城・三木城という物理的拠点。これら全てが、息子・則定が家督を継承する際の、貴重な遺産となったのである。
別所則定が父・則治から家督を継承したのは、戦国時代の動乱が畿内から播磨へと本格的に波及し始めた、極めて困難な時期であった。彼の治世は、父が築いた遺産を守り抜き、次代へと継承するための、苦難に満ちた闘争の連続であった。則定の行動を理解するためには、彼が直面した播磨国内外の複雑な情勢を時系列で把握することが不可欠である。
年代(西暦・和暦) |
播磨の動向(赤松氏・浦上氏・別所氏) |
畿内の動向(幕府・細川氏) |
1507年(永正4年) |
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管領・細川政元が暗殺される。養子(澄之、澄元、高国)間の抗争「両細川の乱」が勃発 16 。 |
1511年(永正8年) |
赤松義村、前将軍・足利義澄の子(後の義晴)を庇護 18 。 |
船岡山合戦。細川高国・大内義興連合軍が勝利し、細川澄元は阿波へ敗走 18 。 |
1513年(永正10年) |
10月15日、別所則治が死去。嫡男・則定が家督を相続 1 。 |
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1518年(永正15年) |
播磨守護・赤松義村と守護代・浦上村宗の対立が表面化。義村、村宗の居城・三石城を攻撃するも失敗 18 。 |
- |
1519年(永正16年) |
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細川澄元・三好之長が摂津に上陸し、細川高国との戦闘が再燃 20 。 |
1520年(永正17年) |
浦上村宗、細川高国を支援するため上洛軍を起こす。この過程で**「東播磨の別所なり春を破」る** 21 。 |
高国が澄元に敗れ、将軍・足利義稙は高国を見限る 20 。 |
1521年(大永元年) |
浦上村宗、主君・赤松義村を幽閉し、後に暗殺。子の晴政を傀儡として擁立し、播磨の実権を掌握 22 。 |
細川高国が反撃に成功。三好之長を破り、澄元は阿波で死去。高国政権が確立 20 。 |
1523年(大永3年) |
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前将軍・足利義稙が阿波で死去。寧波の乱が起こる 18 。 |
1524年(大永4年) |
別所氏、浦上村宗の支配下で雌伏を余儀なくされる。 |
高国の重臣間で内紛の兆しが見え始める 20 。 |
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永正10年(1513年)10月15日、中興の祖・別所則治が死去し、嫡男である則定が家督を相続した 1 。彼が継承したのは、父が築き上げた東播磨の支配権と堅固な三木城という輝かしい遺産であった。しかし同時に、彼はいつ爆発してもおかしくない、二つの巨大な政治的爆弾をも引き継ぐことになった。
一つは、畿内における中央政局の混乱である。当時、室町幕府の実権を握っていた管領・細川京兆家では、当主・細川政元が暗殺されたことをきっかけに、三人の養子(澄之、澄元、高国)が家督を巡って泥沼の抗争を繰り広げていた。この「永正の錯乱」、あるいは「両細川の乱」と呼ばれる内乱は、畿内全域を巻き込み、その影響は隣接する播磨にも直接及んでいた 16 。播磨の国人たちは、細川氏のいずれかの派閥に与することを迫られ、国内の対立を一層深刻化させていた。
そしてもう一つ、より直接的で深刻な問題が、播磨国内における主家・赤松氏と守護代・浦上氏の対立であった。則定の父・則治は、主君・赤松政則を復帰させることで浦上氏の権勢を牽制し、絶妙な権力均衡の上に自家の地位を築いた 11 。しかし、則定が家督を継いだ時点で、そのバランスはすでに崩壊寸前であった。時の赤松家当主・赤松義村は、父祖の代からの宿老である守護代・浦上村宗の強大すぎる権力を危険視し、その権勢を削ごうと画策していた。対する浦上村宗も、主君の圧迫に強く反発し、両者の関係は一触即発の状態にあったのである 19 。
この状況下で、別所氏の立場は極めて微妙であった。父・則治が築いた「浦上氏への対抗勢力」という立場は、そのまま則定に継承された。これは、赤松義村から見れば頼れる味方である一方、浦上村宗から見れば、自らの覇権を脅かす潜在的な敵対勢力の頭目であることを意味した。則定は、家督を相続したその瞬間から、この抗争の渦中に否応なく巻き込まれる運命にあった。彼が継承したのは父の栄光だけでなく、その栄光が生み出した深刻な政治的対立、すなわち浦上村宗との避けられない緊張関係という「負の遺産」でもあった。彼の治世は、この時限爆弾をいかに処理するかという、極めて困難な課題から始まったのである。
則定が家督を継いでから数年間、播磨国内の緊張は高まり続け、ついに臨界点に達する。永正15年(1518年)、守護代・浦上村宗は、主君・赤松義村の排斥行為に耐えかね、ついに公然と反旗を翻した。義村は自ら兵を率いて村宗の居城である三石城を攻撃するが、備前・美作の国人衆を味方につけた村宗の前に敗北を喫する 18 。この敗戦は、赤松宗家の権威が地に落ち、播磨における力関係が決定的に変化したことを示すものであった。
この下剋上の奔流は、別所氏をも容赦なく飲み込んでいく。永正17年(1520年)、浦上村宗は、畿内で劣勢に陥っていた細川高国を支援するため、播磨・備前の兵を率いて上洛を開始する。その進軍過程で、村宗は自らの背後を固めるため、敵対勢力の一掃を図った。この時の動向を記した史料の中に、則定の治世を解明する上で極めて重要な、そして衝撃的な一文が存在する。それは、村宗が「 東播磨の別所なり春を破っ 」たという記録である 21 。
ここに記された「別所なり春」とは、則定の嫡男である別所就治(なりはる)を指すものと考えられる 2 。しかし、文亀2年(1502年)生まれの就治は、この時まだ18歳の若者であった 5 。軍の総帥として采配を振るっていたのは、当主である父・則定であったと考えるのが自然である。したがって、この記録は、当主・則定が率いる別所軍が、旧主・赤松義村方に与して浦上村宗の軍勢と交戦し、そして敗北したことを示す、動かぬ証拠と言える。
この敗北が則定と別所氏に与えた衝撃は、計り知れない。第一に、父・則治が築き上げた、赤松家臣団における屈指の軍事勢力という名声は、大きく傷つけられた。第二に、播磨における新たな支配者が、もはや赤松氏ではなく浦上村宗であることを、武力によって痛感させられた。そして第三に、これまで別所氏の行動原理であった「赤松家への忠誠」という路線が、もはや一族の存続を保証するものではないという、冷厳な現実を突きつけられたのである。
この敗戦の翌年、大永元年(1521年)、浦上村宗はついに主君・赤松義村を幽閉の末に暗殺し、その子・晴政を傀儡の守護として擁立した 22 。これにより、播磨国は名実ともに浦上村宗の支配下に入った。かつて父・則治が赤松政則を復帰させたことで始まった別所氏の栄光の時代は、その孫である義村が家臣に討たれるという悲劇によって、完全に終焉を迎えた。この手痛い敗北の経験こそが、則定のその後の治世、そして息子・就治の代における「赤松家からの自立」という新たな生存戦略へと舵を切らせる、決定的かつ不可避の転換点となったのである。
浦上村宗との戦いに敗れ、主君・赤松義村が殺害されるという激動を経て、別所則定に関する記録は歴史の表舞台からほとんど姿を消す。この「沈黙」の期間こそ、彼の武将としての真価が最も発揮された時代であったと解釈できる。
浦上村宗という圧倒的な強者が播磨を支配する状況下で、軍事的な再挑戦を試みることは、一族の滅亡を招きかねない無謀な行為であった。則定が選んだ道は、敗北の事実を冷静に受け入れ、表面上は村宗に恭順の意を示しつつ、内部の力を蓄える「雌伏」の戦略であった。彼は、父・則治が築き上げた東播磨の支配地を、巧みな政治的立ち回りで維持することに全力を注いだ。それは、浦上氏の支配を受け入れ、一定の従属関係を結びながらも、領内の統治権は手放さないという、極めて困難な舵取りであったと推察される。この「沈黙」の期間に、則定は戦乱で疲弊したであろう領内の安定化を図り、経済的基盤を固め、来るべき次の時代に備えていたのである。
この時期の則定の心境を窺わせるのが、「耕月(こうげつ)」という彼の別名である 1 。戦国の世に生きる武将が用いる名としては、異例とも言える風流で文化的な響きを持つ。これは単なる個人的な趣味に留まらず、彼の政治的な意思表示であった可能性も考えられる。すなわち、「私はもはや武力で覇を競う気はない」というメッセージを内外に発信し、浦上村宗の警戒心を和らげるための、一種のカモフラージュとして機能したのではないか。武威を誇示するのではなく、文化的な隠遁者のような姿を見せることで、敵意を逸らし、一族が生き残るための時間を稼ごうとしたのである。
そして、この雌伏の期間における則定の最大の功績は、次代を担う息子・就治の育成であった。彼は、自らが味わった敗北の教訓、すなわち旧来の価値観に固執することの危険性と、現実的な力関係を見極めることの重要性を、就治に徹底的に叩き込んだであろう。そして、武勇に優れた武将として成長していく息子を見届け 3 、来るべき時に備えて徐々に家中の実権を移譲していったと考えられる。則定の「守り」と「忍耐」の時代があったからこそ、息子・就治は、後に別所氏を播磨随一の勢力へと押し上げるためのエネルギーを、十分に蓄えることができたのである。
則定の治世に見られる表立った活動の乏しさは、決して無能や消極性の表れではない。それは、敗北という厳しい現実から学んだ、極めて計算高く、現実的な生存戦略であった。彼は、自らが矢面に立つ栄光を捨て、一族の存続と次代の飛躍のための土台を築くことに徹した「賢慮の武将」であったと評価できる。
別所則定の「沈黙の治世」は、それ自体が目的ではなかった。それは、次なる時代への壮大な布石であった。彼が守り抜いた遺産は、息子・就治の代で華々しく開花し、別所氏の歴史における頂点を築き上げる。しかし、その栄光の中には、皮肉にも後の悲劇に繋がる要因が内包されていた。
則定の没年に関する正確な記録はないが、彼の治世の末期から、息子である別所就治の活動が活発化していく。父が浦上氏の支配下で耐え忍び、守り抜いた東播磨の国力と、三木城という強固な拠点を背景に、就治は父とは対照的に、積極的な勢力拡大路線へと乗り出した。
就治の時代、播磨の情勢は再び大きく動いていた。かつて圧倒的な権勢を誇った浦上村宗は、主君・赤松晴政との対立の末に戦死し、浦上氏の力は一時的に後退する。この権力の空白期を逃さず、就治は行動を開始した。彼は、もはや傀儡と化し、権威も実力も失った主家・赤松氏を見限り、事実上の独立を宣言する 3 。これは、父・則定が浦上氏に敗北したことで始まった、別所氏の生存戦略の転換が、ついに完成した瞬間であった。
独立した戦国大名となった就治は、その武勇を遺憾なく発揮する。西からは山陰の雄・尼子氏が、東からは畿内の覇者・三好氏が播磨に侵攻してくるが、就治はこれらの強大な勢力の攻撃を次々と撃退した 6 。これらの戦いを通じて、彼は東播磨の美嚢、明石、加古、印南、加西、加東、多可、神東の八郡にまたがる広大な領域を支配下に収め、二十四万石ともいわれる勢力を築き上げた 7 。これは、別所氏の歴史における紛れもない最盛期であった。
この就治の華々しい武功と領土拡大は、決して無から生まれたものではない。その全ての基盤には、父・則定が下剋上の荒波の中で耐え抜き、守り通した東播磨の領地と、そこで蓄積された国力があった。もし則定が、浦上村宗への敗北後に感情に任せて無謀な戦いを挑んでいれば、別所氏はその時点で歴史から姿を消していた可能性が高い。就治の「最盛期」という輝かしい成果は、則定の「忍耐の時代」という堅固な土台の上に成り立っていたのである。則定は、自らは歴史の表舞台で目立つ功績を残さずとも、次代の飛躍を準備した、まさに「縁の下の力持ち」であった。彼の歴史的功績は、この点においてこそ最大限に評価されるべきである。
則定の雌伏を経て、就治が確立した「何者にも従わない」という高い独立性と、東播磨の支配者であるという強い自負は、孫の安治、そして曾孫の長治の代まで、別所氏のアイデンティティとして色濃く受け継がれていった 3 。この誇りこそが、彼らを播磨の雄たらしめた力の源泉であった。
しかし、時代は再び大きく変わろうとしていた。尾張から現れた織田信長が、足利義昭を奉じて上洛し、天下布武を掲げてその勢力を急速に拡大。その矛先は、やがて中国地方の毛利氏へと向けられ、播磨はその最前線となった。信長の代理人として播磨に乗り込んできたのは、羽柴秀吉であった。
当初、別所長治は他の播磨国人衆と共に織田方に恭順の意を示していた。しかし、天正6年(1578年)、長治は突如として信長に反旗を翻し、毛利氏と結んで居城・三木城に立て籠もるという決断を下す 6 。この離反の理由は、叔父・吉親ら反織田派の影響や、秀吉の尊大な態度への反発など、複合的な要因が挙げられている。だが、その根底には、曾祖父・則定の時代から続く、別所氏の歴史的アイデンティティがあったと見るべきである。
すなわち、赤松氏から自立し、尼子・三好といった大勢力と渡り合ってきたという誇りが、彼らに織田信長という新たな中央権力の巨大な構造の中に、単なる一部将として組み込まれることを許さなかったのである。彼らにとって、織田に従うことは、自らの独立性を放棄することを意味した。この強い独立性と自負こそが、かつては別所氏を栄光に導いた「光」であったが、時代の奔流の前では、新秩序への順応を妨げる「影」へと転化してしまった。
その後の結末は、歴史が示す通りである。長治の籠城戦は、秀吉による凄惨な兵糧攻め、「三木の干し殺し」を招き、2年近くに及ぶ抵抗の末、天正8年(1580年)、長治は城兵の命と引き換えに一族と共に自刃した 8 。ここに、戦国大名としての別所氏嫡流は滅亡した。則定の治世に形成された「自立志向」は、息子の就治の代で一族を栄光の頂点に押し上げると同時に、その曾孫・長治の代で一族を滅亡へと導く、宿命的な種子をも内包していたのである。則定の生涯を考察することは、戦国時代における一つの地方勢力の興亡の力学そのものを解明する鍵となる。
別所則定は、歴史の記録に乏しい「影の薄い当主」という従来の評価に留まるべき人物ではない。本報告書で詳述したように、彼は、父・則治が築いた勢力を、下剋上の荒波が最も激しく吹き荒れる危険な時代において、守り抜いた極めて重要な人物である。浦上村宗との戦いにおける敗北という手痛い経験から、現実的な力関係を冷静に見極め、武力による対決ではなく、巧みな政治判断と忍耐による「雌伏」を選択した。そして、その雌伏の期間を利用して、一族の生存戦略を旧来の「主家への忠臣」から、新たな時代を生き抜くための「独立大名」へと転換させるという、歴史的な大事業を成し遂げたのである。
彼の存在なくして、子・就治が築いた別所氏の最盛期はあり得なかった。また、曾孫・長治が示した、一族の誇りをかけた悲劇的な抵抗も、その淵源を辿れば、則定の時代に確立された強い独立性に行き着く。彼は、別所氏の歴史における栄光と悲劇の双方に繋がる、決定的な「結節点」に位置する人物であったと言える。
歴史の主役として語られる武将たちの華々しい功績の陰には、常に則定のように、耐え忍び、次代への道を整えることに生涯を捧げた、無数の「沈黙の功労者」たちが存在する。彼らは、自らの代で天下に名を轟かせることはなくとも、一族という共同体の存続と未来のために、最も困難で、最も地味な役割を引き受けた。別所則定の生涯に光を当てることは、戦国という時代の勝者と敗者を分けた要因を、より深く、多層的に理解する上で不可欠な作業である。本報告が、その一助となることを願うものである。