最終更新日 2025-07-13

前田利常

加賀百万石の守護者、前田利常 — 愚者の仮面と名君の実像

序章:凡庸なる暗君か、深慮遠謀の智将か

前田利常。加賀百万石、三代藩主。歴史上、彼に与えられた評価は「幕府を欺くために愚鈍を装った名君」という、一見矛盾をはらんだ言葉に集約されることが多い 1 。江戸城内での奇行、常軌を逸した振る舞いの数々は、彼が天下への野心を持たぬ凡庸な人物であると徳川幕府に誤認させるための、計算され尽くした演技であったと語られる。しかし、この intriguing な人物像は、彼の生涯の複雑さと多層性を捉えるには、あまりにも一面的である。彼の治世は、単なる保身術に終始したわけではなく、加賀藩の百年以上にわたる泰平と繁栄の礎を、揺るぎないものとして築き上げた輝かしい功績に満ちている。

本報告書は、この前田利常という人物の生涯を、その出自の謎から、宿命的ともいえる家督相続、徳川幕府との息詰まるような緊張関係、そして藩主として発揮した驚くべき内政手腕と文化振興への貢献、さらには晩年に至るまで、時系列的かつテーマ別に徹底的に解剖する。個々の逸話や政策を単独で評価するのではなく、それらが織りなす壮大な物語として再構成し、彼の行動原理と、その行動が持つ真の歴史的意義を深く掘り下げて再評価することを目的とする。凡庸なる暗君の仮面の下に隠された、深慮遠謀の智将としての実像に迫ることで、我々は泰平の世をいかにして築き、守り抜くかという、普遍的な統治の叡智を垣間見ることができるであろう。

【表1】前田利常 生涯略年表

年代(西暦)

元号

年齢

主要な出来事

1594年

文禄2年

1歳

前田利家の四男として、肥前名護屋城にて誕生。幼名は猿千代 2

1600年

慶長5年

7歳

関ヶ原の戦いに際し、兄・利長と丹羽長重の和議の人質として小松城に入る 2

1601年

慶長6年

8歳

徳川秀忠の次女・珠姫と婚約。前田家の後継者として定められる 2

1605年

慶長10年

12歳

元服し利光と名乗る。兄・利長から家督を相続し、加賀藩三代藩主となる 2

1614年

慶長19年

21歳

大坂冬の陣に徳川方として参陣。功を焦り失態を演じる 6

1615年

慶長20年

22歳

大坂夏の陣に参陣。天王寺・岡山口の戦いで奮戦し、名誉を挽回する 6

1626年

寛永3年

33歳

従三位権中納言に叙任される。これ以降「小松中納言」と称される 2

1629年

寛永6年

36歳

嫡男・光高の元服に伴い、将軍家光から偏諱を受け、名を利光から利常に改める 2

1631年

寛永8年

38歳

「寛永の危機」。金沢城の無断修築等を理由に幕府から謀反の嫌疑をかけられる 3

1632年

寛永9年

39歳

金沢城の防火・防衛用水として辰巳用水の建設を命じる 9

1639年

寛永16年

46歳

隠居し、小松城に移る。家督を嫡男・光高に譲る 11

1645年

正保2年

52歳

四代藩主・光高が急死。幼い孫・綱紀の後見人として幕府から藩政復帰を命じられる 6

1651年

慶安4年

58歳

藩政の大改革である「改作法」を本格的に開始する 12

1658年

万治元年

66歳

10月12日、隠居城である小松城にて脳溢血で急逝。享年66 6


第一部:宿命の継承者 — 辺境から藩主へ

第一章:出自と幼少期 — 権力闘争の渦中での誕生

前田利常の生涯は、その始まりからして波乱に満ちていた。彼がこの世に生を受けたのは文禄2年(1594年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵のさなか、父である加賀藩祖・前田利家が肥前名護屋城に在陣していた時のことである 3 。利家、実に56歳の時の子であった。母は、正室・まつ(芳春院)ではなく、名護屋に侍女として仕えていた下級武士の娘、千世(後の寿福院) 2 。この「側室の子」という出自は、彼のその後の運命に決定的な影響を与えることになる。本来であれば、利家の嫡男・利長が既に家督を継ぐことが定まっており、四男かつ庶子である彼が前田家の当主となる可能性は限りなく低かった 3

誕生後、幼名・猿千代と名付けられた彼は、実母の手を離れ、越中守山城代であった姉の幸と、その夫である前田長種夫妻のもとで養育された 2 。この事実は、彼が当初、前田本家の後継者レースの中心から意図的に外された存在であったことを明確に示している。権力の中枢から遠く離れた場所で育ったこの経験は、結果として彼に、物事を一歩引いた客観的な視点から捉える冷静さと、自らの立場を常に俯瞰して考える現実主義的な思考を育ませたのかもしれない。

彼の幼少期に決定的な影を落としたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。この天下分け目の戦いにおいて、兄・利長は東軍(徳川方)に与したが、戦後、隣国の丹羽長重との間に緊張が生じた。両者が和議を結ぶ際、わずか7歳の利常(当時の猿千代)が人質として差し出され、小松城へと送られたのである 2 。幸いにも、丹羽長重は利長の義理の叔父にあたる関係から彼を可愛がったと伝わるが、この経験は、彼が幼くして巨大な権力の前でいかに家を存続させるかという、冷徹な政治の駒であることを骨身に染みて理解させる出来事であったに違いない。彼の政治家としての原点は、権力闘争の渦中で生まれ、人質として過ごしたこの不遇な幼少期にこそ形成されたと言えよう。

第二章:家督相続の力学 — 政略の駒から藩主へ

前田利常が歴史の表舞台に躍り出る直接のきっかけは、兄であり加賀藩二代藩主であった前田利長の、後継者不在という深刻な問題であった。利長は、正室の永姫(織田信長の娘)との間に男子を儲けることができなかった 16 。この状況が、本来ならば藩主の座とは無縁であったはずの庶子、利常(当時の名は利光)に、宿命的な形で白羽の矢を立てさせることになる。

その運命を決定づけたのが、豊臣秀吉の死後に前田家を襲った存亡の危機、世に言う「慶長の危機」である。秀吉亡き後、五大老筆頭として絶大な権勢を誇った利家が慶長4年(1599年)に病没すると、徳川家康はその機を逃さず、利長に謀反の嫌疑をかけて加賀征伐の軍を起こそうとした 3 。絶体絶命の窮地に立たされた利長は、母・まつ(芳春院)を人質として江戸に送るという苦渋の決断を下し、家康への完全な恭順の意を示すことで、この危機を辛うじて回避した 3

この時、和睦の決定的な証として交わされたのが、利常と徳川家との政略結婚であった。家康の孫娘であり、二代将軍・徳川秀忠の次女である珠姫が、利常に嫁ぐことが取り決められたのである 3 。慶長6年(1601年)、利常わずか8歳、珠姫に至ってはまだ3歳という幼さであった 6 。この結婚は、単なる縁組ではない。前田家が徳川家に未来永劫服従することを誓う、何より雄弁な象徴であった。そして、この政略の駒として選ばれた利常は、徳川将軍家の姻戚となることで、前田家の後継者としての地位を盤石なものとしたのである。

この流れを受け、慶長10年(1605年)、利長は44歳で隠居。利常は12歳で元服して「利光」と改名し、兄から家督を譲り受け、加賀藩三代藩主の座に就いた 2 。彼の藩主就任は、彼個人の資質や能力が評価された結果というよりも、前田家が徳川幕府という新たな支配体制の中で生き残るための、究極の外交戦略の産物であった。彼はその誕生の瞬間から、「対徳川政策の具現者」としての役割を運命づけられていた。彼の治世全体を貫く「いかにして徳川幕府との関係を維持し、百万石の巨大な領国を守り抜くか」という至上命題は、この宿命的な家督相続の経緯にその根源を見出すことができる。


第二部:生存戦略としての「うつけ」

第一章:幕府の猜疑 — 二度の存亡の危機

加賀百万石。その石高は徳川御三家に次ぐ規模を誇り、外様大名としては突出した存在であった。この巨大な国力こそが、前田家が江戸時代を通じて常に徳川幕府からの警戒と猜疑の目に晒され続ける宿命を決定づけた 1 。藩主となった利常の治世は、この見えざる圧力との絶え間ない闘争の歴史であった。

その原体験となったのが、彼が幼少期に目の当たりにした「慶長の危機」(1599-1600年)である。家康が些細な口実を捉えて加賀征伐を企てたこの一件は、徳川家が前田家を取り潰す機会を常に窺っているという冷徹な現実を、前田家臣団の骨の髄まで刻み込んだ 3

そして利常自身の治世において、その脅威が再び現実のものとなったのが、寛永8年(1631年)の「寛永の危機」である。この年、加賀藩が幕府に無断で金沢城を修築したこと、軍船にも転用可能な大船を他国から購入したこと、さらには大坂の陣での功労者に追加の褒賞を与えたことなどが、立て続けに問題視された 3 。これらは全て、幕府の目には謀反の準備と映った。利常と嫡男の光高は弁明のために急ぎ江戸へ赴くが、三代将軍・家光は謁見すら許さないという峻烈な態度を示す。前田家は再び存亡の淵に立たされたが、この時も重臣・横山康玄らの必死の弁明と工作によって、辛うじて事なきを得た 3 。この二度にわたる危機は、利常に対して、幕府の猜疑心を和らげるための抜本的な対策が不可欠であることを痛感させた。それは、正面からの弁明や恭順の意だけでは不十分であり、より巧妙で、より大胆な戦略を必要とするものであった。

第二章:愚鈍の仮面 — 計算され尽くした奇行

「寛永の危機」という絶体絶命の窮地を乗り越えたことを契機に、前田利常の行動は劇的な変化を遂げる。彼は、幕府の警戒心を根底から解体するため、意図的に「うつけ者(愚か者、奇人)」を演じるという、前代未聞の戦略に打って出たのである 3 。その振る舞いは、大藩の藩主としての威厳をかなぐり捨てた、常軌を逸したものばかりであった。

その奇行の中でも特に有名な逸話がいくつか残されている。

一つは「鼻毛」の話である。利常はわざと鼻毛を伸ばし続け、手入れを怠った。見かねた側近が、彼の前で自分の鼻毛を抜いてみせたり、手鏡を献上したりして暗に気付かせようと試みた。すると利常は、彼らの意図をすべて見透かした上で、こう言い放ったという。「これはただの鼻毛ではない。三国(加賀・能登・越中)を守り、お前たちが安泰に暮らすための鼻毛なのだ」 3。

江戸城内での行動はさらにエスカレートする。ある時、病気を理由に登城を休んだことを幕府の老中に咎められると、利常は「疝気(せんき)でござる。ここが痛くてかなわぬ故」と述べ、こともあろうに衆人環視の中で自らの股間をさらけ出して見せた 3 。また別の日には、城内に掲げられた「小便禁止。罰金黄金一枚」という高札の目の前で、臆面もなく立ち小便をしたとも伝えられる 3

これらの常識外れの行動は、決して彼が理性を失ったからではない。すべては、利常が「天下国家への野心など微塵もなく、百万石を統治する能力にも欠ける、ただの大藩の暗君に過ぎない」と幕府中枢に誤認させるための、高度に計算された政治的パフォーマンスであった 1 。強大な力を誇示するのではなく、あえて無能を装うことで、最大の脅威である幕府の猜疑心という名の刃を鈍らせる。これこそが、利常が編み出した究極の生存戦略だったのである。

第三章:武人としての実像 — 大坂の陣における功罪

「うつけ」の仮面を被る一方で、利常は武門の棟梁としての責務を忘れたわけではなかった。その実像が最も鮮明に現れたのが、徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣であった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、若き利常は徳川家の姻戚として手柄を立てようと功を焦るあまり、軍令を無視して独断専行に走り、手痛い敗北を喫した 6 。これは彼の武将としての未熟さを示す苦い経験であった。

しかし、彼はこの失敗から多くを学んだ。翌年の慶長20年(1615年)、「大坂夏の陣」が勃発すると、利常は汚名返上を期して前田軍を率い、奮戦する。特に最後の決戦となった天王寺・岡山口の戦いでは、彼の軍勢は徳川秀忠本隊の前面に布陣し、真田信繁(幸村)や大野治房らが率いる豊臣方の猛烈な突撃を正面から受け止めるという、極めて重要な役割を担った 7 。この激戦で前田軍は多大な犠牲を払いながらも持ちこたえ、多くの首級を挙げることで、徳川方の勝利に大きく貢献したのである 6

この戦功に対し、戦後、大御所・徳川家康から加増転封、すなわちさらに大きな領地への移封を打診された。しかし、利常はこの破格の申し出を丁重に固辞したと伝えられている 6 。これは、これ以上の領地拡大が幕府の警戒心を不必要に煽るだけであり、前田家の将来にとってむしろ禍根となると判断した、彼の冷静な政治感覚の表れであった。

利常の生涯におけるこれらの行動—江戸城での奇行、戦場での奮戦、そして戦後の加増辞退—は、一見すると矛盾しているように映るかもしれない。しかし、その根底には「加賀藩の安泰」という一貫した目的が存在する。江戸での「うつけ」は幕府に向けた「外向き」の顔であり、戦場での武功は武門の当主としての矜持を示す「内向き」の顔、そして加増辞退は将来の安寧を確保するための「政治的」な顔であった。彼は、置かれた状況に応じて複数の仮面を巧みに使い分ける、稀代の戦略家だったのである。

この戦略の独自性は、同時代の有力外様大名、伊達政宗と比較することでより鮮明になる。政宗は、慶長遣欧使節を派遣してスペインとの直接交易を目指すなど、幕府の統制下にあってもなお「外向き」の野心的な拡大戦略を追求した 22 。しかし、この試みは幕府の鎖国政策への転換によって最終的に頓挫する 24 。一方、利常は「寛永の危機」を経て、外向きの拡大路線は不可能であり、極めて危険であると判断した。彼は戦略を180度転換し、巨大な領国の「内向き」の充実に全ての精力を注ぐことを決意した。彼の「うつけ」の演技は、この内向的発展戦略を外部の干渉から守るための、分厚い防護壁の役割を果たしたのである。それは、政宗の華々しい外交とは対照的でありながら、結果として徳川の治世下で巨大外様大名が生き残るための、より現実的で効果的な生存術であったと言えるだろう。


第三部:百万石の礎を築く — 内政と文化

第一章:藩政大改革「改作法」の断行

江戸で「うつけ」を演じる裏で、前田利常は国元において、加賀藩の構造を根底から変革する壮大な内政改革に着手していた。その中核をなすのが、彼の名を不朽のものとした藩政改革「改作法」である 12 。改革の背景には、寛永末期から続く飢饉や、それに伴う藩財政の悪化、そして武士・農民双方の深刻な困窮があった 2 。利常はこの積年の課題に対し、大胆かつ体系的なアプローチで臨んだ。

改作法は、農民に対する「飴と鞭」を巧みに使い分ける二面性を持っていた。

一方では、「御開作」と称される手厚い農民救済策が講じられた。藩が農民の抱える借金を肩代わり、あるいは帳消しにし、農具の購入資金(改作入用銀)や当座の食料(作食米)を貸し与えた 2。これにより、生活基盤を失いかけていた農民たちに再び耕作に専念する意欲と機会を与えたのである。利常は鷹狩りと称して自ら領内を巡察し、改革が適切に運用されているかをつぶさに検分したという 12。

その一方で、徴税の強化と規律の徹底は苛烈を極めた。耕作を怠ける者(徒百姓)や年貢を納めない者(蟠り百姓)に対しては、全財産の没収や村からの追放といった厳しい処罰が下された。場合によっては、罪の重さに応じて鼻や耳を削がれることさえあった 12 。この峻厳な態度は、藩の財政基盤を揺るがす行為を絶対に許さないという、利常の固い決意の表れであった。

さらに利常は、この改革を支える新たな統治システムを構築した。従来は作柄によって変動していた税率を固定化する「定免制」を導入し、藩の収入を安定させると同時に、農民が努力して得た増産分を自らの収入とすることを可能にした 12 。そして、この制度を末端で支えたのが「十村(とむら)制度」の活用である。地域の有力農民を十村に任命し、年貢の徴収から農事指導、紛争の調停まで、村落支配の全般を担わせた。彼らには藩から槍や馬が与えられ、藩士に準じる権威を持つことで、藩の支配力を領内の隅々まで浸透させることに成功した 11

この改革の最も重要な点は、家臣(給人)が自らの知行地を直接支配し、年貢を徴収する伝統的な知行制を事実上廃止したことであった。徴税権は藩(十村と奉行)に一元化され、家臣は藩から俸禄米を受け取るサラリーマンのような存在へと変貌した 11 。これにより、藩主の権力は絶対的なものとなり、加賀藩は強力な中央集権体制を備えた近世的な統治機構へと生まれ変わったのである。

この改作法の遂行において、利常の統治者としての慧眼が最も発揮されたのが、かつて織田信長をも苦しめた一向宗(真宗)門徒の強固な組織力を、巧みに統治機構に組み込んだ点である。加賀・能登・越中は一向宗の勢力が極めて強い土地柄であった。利常は、一向一揆の指導者層を前身に持つ十村を、藩の行政官として積極的に登用した 11 。これは、潜在的な抵抗勢力となりうる宗教的共同体を力で抑えつけるのではなく、その結束力と指導力を藩の政策目標達成のために利用するという、高度な社会工学であった。伝えられるところによれば、利常は「真宗門徒が喜んで寺に布施をするように、年貢を納めるようにはならぬものか」と考え、彼らの信仰心や共同体意識を、勤勉の奨励や納税意識の向上へと巧みに誘導しようとした 11 。これは、対立ではなく「包摂による統治」であり、彼の現実主義と深謀遠慮を示す好例と言える。

第二章:国土の経営 — 辰巳用水と金沢城の防衛

利常の統治者としてのスケールの大きさは、藩政改革のみならず、壮大な土木事業にも見て取れる。その代表格が、寛永9年(1632年)に建設が開始された「辰巳用水」である 9 。表向きの目的は、寛永8年(1631年)の金沢大火を教訓とした、金沢城の防火用水の確保であった 10 。しかし、その真の目的は、軍事的・産業的な意図を内包した、多目的かつ戦略的な国土経営にあった。

この事業は、金沢城の南東(辰巳の方角)にある犀川の上流から水を取り、約11kmの距離を経て城下まで水を導くという、壮大なものであった 10 。特筆すべきは、その過程で駆使された驚くべき土木技術である。上流部の約4.6kmは硬い岩盤を刳り貫いて造られた隧道(トンネル)であり、さらに金沢城の手前にある百間堀を越えて城内に水を供給するため、「伏越の理」と呼ばれた逆サイフォンの原理が用いられた 9 。取水地が城よりも高い位置にあることを利用し、高低差による水圧で水を城内に吹き上げさせるこの技術は、当時としては画期的なものであった。

この辰巳用水は、単なる防火用水に留まらなかった。城下の貴重な生活用水となり、後の兼六園の美しい景観を創り出す水源ともなった 10 。さらに重要なのは、その水流が、藩の火薬製造施設であった「土清水塩硝蔵」の動力源(水車)として利用されたことである 28 。つまり、辰巳用水の建設は、城の防火という実用的な目的と、有事に備えた兵器生産という軍事的な目的を同時に達成する、極めて戦略的な事業だったのである。

江戸で愚鈍を装う利常の姿とは裏腹に、国元ではこのように着々と藩の地力と防衛力が強化されていた。彼は金沢城を挟む犀川と浅野川を天然の外堀に見立て、その外側に寺社群を戦略的に配置し、万が一の際には防御拠点として機能するよう設計するなど、巧妙な城下町計画も進めていた 3 。辰巳用水の建設は、この重層的な防衛構想の、まさに生命線となるプロジェクトであった。それは、彼の統治が単なる現状維持ではなく、未来永劫の安泰を見据えた、長期的かつ多角的な視点に貫かれていたことを雄弁に物語っている。

第三章:「加賀ルネサンス」の萌芽

前田利常の治世が後世に与えた最も華やかな遺産は、後の「加賀百万石文化」または「加賀ルネサンス」と呼ばれる、絢爛たる芸術文化の礎を築いたことである。彼の文化振興策は、単なる個人的な趣味や道楽ではなく、幕府の警戒を逸らし、藩の威光を示すための、もう一つの高度な政治戦略であった。

その中核となったのが、藩営の工房である「御細工所」の設立と拡充である 3 。当初は武具の製作や修理を主としていたこの組織を、利常は美術工芸品全般を制作する総合的な工房へと発展させた。彼は京都などから一流の絵師や工芸家を積極的に招聘し、彼らに手厚い保護を与えて技術の研鑽を奨励した 8 。狩野派の絵師や茶人、能役者などが金沢に集い、華やかな京風文化が移入された 8

この御細工所での活動を通じて、後の加賀友禅、九谷焼、加賀漆器、金沢箔といった、今日まで続く石川県の伝統工芸の基礎が築かれていった 1 。利常の狙いは、加賀百万石の莫大な財力を、幕府に警戒される軍事力としてではなく、誰もが称賛する文化的な威光へと転換させることにあった。豪華絢爛な工芸品や壮麗な建築物は、前田家の富と権威を平和的な形で天下に示威する、何より効果的な手段であった 31

利常の統治者としての二面性は、ここでも見事に発揮されている。改作法が農民に対する「慈悲」と「峻厳」を両立させたように、文化振興策もまた、純粋な「芸術性」の追求と、冷徹な「政治性」の計算が表裏一体となっていた。彼の政策は常に多目的であり、一つの行動に複数の意図が込められている。この多層的なアプローチこそが、利常が単なる「うつけ」でも「名君」でもなく、その両方を内包した現実主義者、すなわち「深慮遠謀の統治者」であったことを証明しているのである。


第四部:晩年と不滅の遺産

第一章:小松での隠居と後見政治

寛永16年(1639年)、前田利常は46歳で隠居し、家督を嫡男の光高に譲った。彼は隠居城として小松城を改築し、悠々自適の生活に入るかに見えた 11 。しかし、彼の人生に安息の時は長くは続かなかった。正保2年(1645年)、四代藩主となった光高が、江戸藩邸での宴席の後に急病を発し、わずか30歳でこの世を去ってしまうのである 8

この突然の悲劇により、加賀藩は再び危機に瀕した。跡を継いだ光高の遺児・犬千代(後の綱紀)は、まだ3歳という幼さであった 33 。藩の将来を憂慮した幕府は、異例の措置として、隠居していた利常に犬千代の後見人となり、再び藩政の全権を掌握するよう正式に命令した 6

こうして利常は、小松城を拠点としながら、事実上の最高権力者として藩政に復帰する。ここから彼が亡くなる万治元年(1658年)までの13年間は、彼の政治家としての集大成の時期となった 6 。彼はこの「後見政治」の時代に、自らが着手した改作法などの大改革を完成へと導き、加賀藩の統治体制を盤石のものとした 11 。光高の早世という不運は、逆説的に、利常が自らの政治構想をその手で完成させ、次代への揺るぎない礎を築き上げるための、いわば「アディショナルタイム」を彼に与えることになった。もし彼が隠居のまま世を去っていれば、その改革は道半ばで終わり、彼の真価は後世に正しく伝わらなかったかもしれない。彼の統治者としての評価は、この晩年の後見政治によって決定的なものとなったのである。

【表2】前田利常 家系図(主要人物抜粋)

関係

人物名

備考

前田利家

加賀藩祖 14

寿福院(千世)

利家の側室 14

養父(実兄)

前田利長

加賀藩二代藩主 14

本人

前田利常

加賀藩三代藩主

正室

珠姫(天徳院)

二代将軍・徳川秀忠の次女。政略結婚であったが夫婦仲は極めて良好であったと伝わる 14 。三男五女を儲けるも24歳で早世 8

嫡男

前田光高

加賀藩四代藩主。30歳で早世 8

次男

前田利次

富山藩の初代藩主となり、支藩を創設 14

三男

前田利治

大聖寺藩の初代藩主となり、支藩を創設 14

孫(光高の子)

前田綱紀

加賀藩五代藩主。利常の後見を受けて藩政を継承 8

第二章:次代への継承 — 名君・綱紀の治世

利常が築いた盤石の礎は、孫である五代藩主・前田綱紀の時代に見事に開花する。幼くして藩主となった綱紀は、祖父・利常が敷いた政治路線を忠実に継承し、発展させた。利常が断行した改作法を基盤として十村制度をさらに整備し、藩の財政と民政を安定させた 30

特に文化事業において、綱紀は祖父の遺志を見事に昇華させた。利常が設立した御細工所を大幅に拡充し、職種を20種類以上に細分化して専門技術の向上を奨励した 30 。さらに綱紀は、全国から優れた工芸品やその見本を体系的に収集・分類させ、工芸技術の百科事典とも言うべき「百工比照(ひゃっこうひしょう)」を編纂させた 39 。これは、図書を収集・分類するという学問的な手法を、工芸技術の保存と発展に応用した画期的な試みであった。こうした綱紀の治世下で、「加賀百万石文化」はその最盛期を迎え、金沢は江戸や京都と並ぶ文化の中心地として栄華を極めた。

利常の深謀遠慮は、自らの死後の藩政にまで及んでいた。利常が万治元年(1658年)に亡くなると、綱紀の後見役は、当代随一の名君と謳われた会津藩主・保科正之に引き継がれた 8 。正之は三代将軍・家光の異母弟であり、幕政に絶大な影響力を持つ人物であった。利常が生前に正之との間に築いていた信頼関係が、この円滑なバトンタッチを可能にし、加賀前田家の安泰を決定的なものとしたのである。

この保科正之と前田利常の藩政改革を比較すると、同じ「名君」と呼ばれながらも、その統治思想の違いが浮き彫りになり興味深い。利常の「改作法」が、藩財政の確立と生産性向上という経済合理性を強く志向した、現実主義的なトップダウン型の改革であったのに対し、正之が会津藩で実施した「社倉制度」は、儒教的な仁政思想に基づき、飢饉に備えて民を救済する相互扶助的なセーフティネットの構築に重点が置かれていた 43 。常に幕府の猜疑に晒される巨大外様大名の当主として、まず藩の「経済力」と「統制力」の確立を最優先せざるを得なかった利常。それに対し、将軍の弟という絶対的な信頼を背景に、より理想主義的な「仁政」を追求することができた正之。この対比は、江戸時代初期における藩政改革の多様性と、それぞれの藩主が置かれた政治的立場の違いを明確に示している。

【表3】藩政改革の比較:前田利常と保科正之

比較項目

前田利常(改作法)

保科正之(社倉制度など)

主目的

藩財政の再建と安定化、生産性の向上、藩主権力の強化 12

儒教的仁政の実現、飢饉対策、民生の安定、福祉制度の構築 43

手法(飴)

農民の負債整理、営農資金・食料の貸与 2

社倉からの低利貸付、90歳以上の高齢者への終身扶持米支給(年金制度の先駆け)、人身売買・間引きの禁止 43

手法(鞭)

怠慢・年貢未納者への厳罰(財産没収、追放)、家臣の徴税権剥奪 12

厳格な身分制度の確立、神仏習合の排斥など、儒教的秩序の徹底 43

思想的背景

現実主義、経済合理主義 12

朱子学に基づく仁政思想、神儒一致 46

結果

加賀百万石の経済的基盤の確立と藩財政の安定

「会津福祉国家」と称される安定した藩体制の構築、幕政への影響力増大


終章:前田利常の再評価 — 泰平の世を創り上げた「かぶき者」

前田利常の生涯を俯瞰するとき、我々は彼に貼られた「愚鈍を装った名君」というラベルが、その本質を捉えるにはあまりにも単純化され過ぎていることに気付かされる。彼の「うつけ」としての振る舞いは、単なる奇行や保身術に留まるものではない。それは、徳川による泰平の世という新たな秩序の中で、外様大名筆頭という危険な立場にある巨大な領国を守り抜き、未来永劫の繁栄の礎を築くための、壮大かつ計算され尽くした「生存戦略」そのものであった。

利常は、戦国の遺風を色濃く受け継ぐ「かぶき者」の気質と、近世的な合理主義を併せ持つ、まさに時代の転換点を象徴する人物であった。彼は、巨大な権力構造の前では、正面からの抵抗がいかに無力であるかを深く理解していた。その上で、愚者の仮面を被ることで敵の警戒を解き、その裏で着々と領国の内なる力を蓄えるという、非凡な道を選んだ。彼の藩政改革「改作法」は藩の経済基盤を確立し、辰巳用水に代表される土木事業は国土の経営能力を示し、そして文化振興は加賀藩の富を平和的な威光へと昇華させた。これらの施策はすべて、幕府との緊張関係という制約の中で、藩の自立と繁栄を両立させるための、緻密に連携した戦略だったのである。

彼の深慮遠謀なくして、後の綱紀の時代に花開いた華麗な「百万石文化」はあり得なかった 48 。今日の金沢の街並みや、世界に誇る伝統工芸の数々は、その多くが利常の蒔いた種から芽吹いたものである 49 。彼は、愚者の仮面の下に、誰よりも冷静に時代を見据え、泰平の世という舞台を巧みに経営した真の名君であった。その評価は、単に「愚鈍を装った」という逸話の面白さだけで語られるべきではない。戦国の荒波を乗り越え、近世という新たな時代に巨大な組織を適応させ、未来への道筋をつけた統治者としての、より深い次元でなされるべきである。前田利常とは、加賀百万石という巨大な船を、時代の荒波の中で巧みに操舵し、見事に安寧の港へと導いた、偉大なる船長だったのである。

引用文献

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