戦国時代から江戸時代初期にかけての日本史において、前田利政(まえだ としまさ)という武将の名は、父・前田利家や兄・利長、異母弟・利常といった加賀百万石を象徴する人物たちの輝かしい功績の陰に隠れがちである。利家と正室まつ(芳春院)の次男として生まれ、若くして能登一国二十二万石余を領する大名にまでなった利政の人生は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける一つの決断によって、その後の軌道を大きく変えることとなる 1 。
一般的に、彼は「関ヶ原で西軍に与したために改易された悲運の武将」として記憶されている。しかし、その生涯を丹念に追うと、単なる「敗者」という一言では到底語り尽くせない、複雑で多面的な人物像が浮かび上がってくる。能登の大名「能登侍従」としての統治、改易後に京の都で当代一流の文化人らと交わった「宗悦」としての第二の人生、そして何よりも、彼の血脈が母・芳春院の尽力によって加賀藩筆頭家老「前田土佐守家」として明治に至るまで繁栄を続けたという歴史の皮肉 4 。
本報告書は、現存する史料を基に、前田利政の生涯を徹底的に掘り下げ、その決断の背景にある葛藤、人間性、そして歴史における真の役割を再評価することを目的とする。彼の物語は、勝者の記録だけでは見えてこない、加賀前田家という巨大な組織が抱えた内面の矛盾と、激動の時代を己の信念と共に生き抜いた一人の武将の実像を、我々に示してくれるであろう。
表1:前田利政 年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
利政の動向 |
関連する歴史的出来事 |
1578年 |
天正6年 |
1歳 |
尾張国荒子城にて、前田利家の次男として誕生 7 。 |
- |
1581年 |
天正9年 |
4歳 |
父・利家が能登一国を与えられ、七尾城主となる 3 。 |
- |
1582年 |
天正10年 |
5歳 |
- |
本能寺の変。織田信長が死去。 |
1583年 |
天正11年 |
6歳 |
- |
賤ヶ岳の戦い。父・利家は羽柴秀吉に従う。 |
1593年 |
文禄2年 |
16歳 |
豊臣秀吉より能登国二十一万石を与えられ、七尾城主となる。従四位下・侍従に叙任 1 。蒲生氏郷の娘・籍と婚姻 10 。 |
文禄の役。 |
1595年 |
文禄4年 |
18歳 |
羽柴氏の姓を与えられる 8 。 |
- |
1598年 |
慶長3年 |
21歳 |
- |
豊臣秀吉が死去。 |
1599年 |
慶長4年 |
22歳 |
父・利家より能登口郡一万五千石を分与される。大坂城の詰番衆となる 1 。 |
父・利家が死去。徳川家康による「加賀征伐」の動き(慶長の危機)。 |
1600年 |
慶長5年 |
23歳 |
関ヶ原の戦い。当初は兄・利長と共に東軍として大聖寺城を攻略するも、その後の再出兵命令を拒否 3 。戦後、所領を没収(改易)される 1 。 |
関ヶ原の戦い。 |
1603年 |
慶長8年 |
26歳 |
- |
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。 |
1614年 |
慶長19年 |
37歳 |
大坂冬の陣。豊臣・徳川双方からの誘いを断り、中立を保つ 8 。 |
大坂冬の陣。 |
1615年 |
元和元年 |
38歳 |
戦後、家康からの十万石での大名復帰の打診を固辞 8 。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。 |
1633年 |
寛永10年 |
56歳 |
京都の角倉与市邸にて死去。墓所は京都大徳寺芳春院 2 。 |
- |
前田利政は、天正六年(1578年)、織田信長の家臣であった前田利家の次男として、尾張国荒子城(現在の名古屋市中川区)で生を受けた 7 。幼名は又若丸といい、母は利家の正室である、まつ(後の芳春院)である 1 。利政が生まれた当時、父・利家は柴田勝家の与力として北陸方面で戦功を重ね、大名への道を駆け上がっている最中であった 3 。
利政の周囲には、後に加賀百万石の礎を築くことになる兄弟たちがいた。同母兄には、利家の後継者として前田家を率いた前田利長がいる。また、異母弟には、兄・利長の養子となって加賀藩三代藩主となる前田利常(母は側室の寿福院)や、上野七日市藩の初代藩主となる前田利孝らがおり、利政は前田家の嫡流に連なる重要な位置にいた 2 。
彼の幼少期は、前田家が飛躍を遂げる時代と重なる。本能寺の変後、父・利家は巧みな政治判断で羽柴秀吉に与し、賤ヶ岳の戦いを経てその地位を確固たるものとした 3 。秀吉の天下統一事業が進む中で、前田家は加賀・越中・能登にまたがる広大な領地を有する大大名へと成長していく。利政は、この名門前田家の次男として、将来を嘱望される存在であった。
表2:前田利政とその一族
関係 |
氏名 |
続柄・備考 |
父 |
前田利家 |
加賀百万石の祖。豊臣政権五大老の一人。 |
母 |
芳春院(まつ) |
利家の正室。利政改易後も彼を庇護し、その子孫の行く末を案じた。 |
兄(同母) |
前田利長 |
利家の嫡男。加賀藩初代藩主。関ヶ原では東軍を率いた。 |
弟(異母) |
前田知好 |
利家の三男。出家後、還俗し七尾城代などを務めた。 |
弟(異母) |
前田利常 |
利家の四男。利長の養子となり、加賀藩三代藩主となる。 |
弟(異母) |
前田利孝 |
利家の五男。上野七日市藩初代藩主。 |
妻 |
籍(せき) |
蒲生氏郷の娘。利政と共に京都で隠棲生活を送った 8 。 |
岳父 |
蒲生氏郷 |
会津92万石の大名。文武両道の名将として知られる。 |
子(嫡男) |
前田直之 |
利政の改易後、祖母・芳春院に養育され、加賀藩に仕官。前田土佐守家の祖となる 5 。 |
娘 |
(氏名不詳) |
角倉素庵の長男・角倉与一玄紀に嫁ぐ。この縁で利政は角倉家の庇護を受けた 2 。 |
娘 |
(複数) |
四辻家、竹屋家といった公家や、岡島家、神谷家、奥野家といった武家に嫁いだ 2 。 |
利政が歴史の表舞台に登場するのは、文禄二年(1593年)のことである。この年、16歳になった利政は、天下人・豊臣秀吉から能登一国、実に二十一万石(資料によっては二十一万五千石、二十二万五千石とも 10 )の領有を認められ、七尾城主となった 1 。同時に従四位下・侍従に叙任されたことから、世に「能登侍従」と称されるようになる 2 。さらに文禄四年(1595年)には羽柴の姓を、その前年には豊臣姓を下賜されており、彼が豊臣政権下で独立した大名として公認されたことを示している 8 。
ただし、彼の統治拠点については若干の考察を要する。父・利家は天正九年(1581年)に能登の国主となった際、当初は中世以来の名城である七尾城に入ったが、山城である七尾城が統治や経済活動に不便であると判断し、港に近い平地に小丸山城を築いて拠点を移していた 9 。史料によっては七尾城は天正十七年(1589年)には廃城になったとされており、利政が城主となった文禄二年(1593年)の時点では、城としての機能は失われていた可能性がある 21 。このため、「七尾城主」という称号は能登国主としての象徴的な意味合いが強く、実際の政務は父が築いた小丸山城、あるいはその城下で行われていたと考えるのが妥当であろう。いずれにせよ、父・利家の死後、慶長四年(1599年)にはその隠居領から能登口郡一万五千石を分与され、利政の所領は合計二十二万五千石に達した 1 。
利政が能登国主となったのと同じ年、彼は会津92万石の大名であり、当代きっての文武両道の名将と謳われた蒲生氏郷の娘・籍(せき)を正室に迎えた 10 。この婚姻は、単なる個人的な結びつきではなく、豊臣政権内部における前田家の地位をさらに強固にするための重要な政略結婚であった。蒲生家という有力大名との姻戚関係は、前田家にとって大きな政治的資産となったはずである。この妻・籍は、後に関ヶ原の戦いで利政の運命を左右する一因となり、改易後も彼と生涯を共にすることになる 1 。
若き能登国主・利政を支える家臣団には、父・利家が付けたであろう歴戦の武将たちが名を連ねていた。その中には、キリシタン大名として知られる高山右近(重友)や、不破長治といった人物が含まれていた 2 。
特に注目すべきは、長連龍(ちょう つらたつ)の存在である。彼は能登の旧領主・畠山氏の重臣の家柄で、織田信長から直接、能登鹿島郡半郡の所領を安堵されたという経緯を持つ、極めて独立性の高い武将であった 24 。彼は前田家の家臣というよりは「与力大名」に近い立場にあり、独自の領国支配を続けていた 26 。利政にとって、こうした能登の在地勢力をいかに掌握し、統制していくかは、領国経営における大きな課題であったに違いない。この複雑な家臣団の構成は、利政の能登統治が決して平坦な道ではなかったことを示唆している。そして、この家臣団を率いて、彼はやがて天下分け目の大戦に臨むことになるのである。
慶長三年(1598年)八月の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を一変させた。秀吉の遺言により豊臣秀頼の後見役となった五大老の中でも、徳川家康の力は突出しており、その野心は隠しようもなかった。家康に対抗しうる唯一の存在であった前田利家も、翌慶長四年(1599年)に病没すると、豊臣政権内の権力均衡は完全に崩壊した 3 。
父の跡を継いで五大老の一人となった兄・前田利長は、家康から「謀反の疑いあり」との嫌疑をかけられ、加賀征伐の軍を起こされかねないという絶体絶命の危機に陥る(慶長の危機) 13 。豊臣家の他の大老や奉行からの支援も期待できない中、利長は苦渋の末、母である芳春院(まつ)を人質として江戸の家康のもとへ送ることで、かろうじてこの危機を回避した 14 。この一連の出来事は、前田家が徳川家に対して屈服を余儀なくされたことを天下に示すものであり、家中の武将たち、とりわけ利政の心中に複雑な思いを刻み込んだことは想像に難くない。
慶長五年(1600年)、石田三成らが家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発する。前田利長は、家康の要請に応じて東軍に与することを決断し、加賀から大軍を率いて西へ向かった。この時、能登国主である利政も兄の指揮下に入り、能登の兵を率いてこれに合流した 17 。この時点では、兄弟の間に足並みの乱れは見られない。
前田軍の最初の目標は、西軍に与した加賀・大聖寺城主、山口宗永であった。前田軍は圧倒的な兵力で大聖寺城を包囲、攻撃し、これを陥落させた 1 。この戦いで利政軍も奮戦し、手柄を立てたことが記録されている 2 。しかし、この勝利の直後、前田家の運命を、そして利政の人生を大きく変える出来事が起こる。
大聖寺城を攻略し、続いて小松城の丹羽長重と小競り合い(浅井畷の戦い)を演じた後、前田軍は突如として金沢城への撤退を開始する 32 。この不可解な行動の裏には、西軍の将・大谷吉継による巧みな謀略があったとされる。吉継は、「上杉景勝が越後から加賀に迫っている」「西軍の別働隊が海路から手薄な金沢城を奇襲する」といった虚実入り混じった情報を流し、利長の判断を惑わせたのである 8 。
金沢城に帰還し、態勢を立て直した利長は、関ヶ原の本戦に間に合わせるべく、再び全軍に出陣を命じた。しかし、この時、利政は兄の命令に従わなかった。再三の催促にもかかわらず、彼は病と称して能登から動こうとしなかったのである 1 。東軍として共に戦ったはずの弟の、突然の軍務放棄であった。
利政が再出兵を拒んだ理由は、単一のものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果と推察される。諸説を検討することで、彼の苦悩と決断の背景がより鮮明になる。
これらの要素を総合すると、利政の不出陣は、単なる臆病や裏切りではなく、極めて複雑な状況下での苦渋の選択であったことがわかる。金沢への撤退期間中に、大坂の人質の状況、西軍の勢い、そして兄の徳川への傾倒ぶりなどを冷静に分析した結果、彼は利長とは異なる道を選ぶに至ったのではないか。それは、家族への情、豊臣家への義理、そして何よりも兄とは相容れない自らの価値観に基づいた、主体的な決断であった。この兄弟の価値観の相克こそが、関ヶ原における前田家のドラマの核心であり、利政のその後の運命を決定づけたのである。
関ヶ原の戦いが、わずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わると、前田利政の立場は極めて厳しいものとなった。兄・利長は弟の「裏切り」を徳川家康に訴え、その処分を求めた 3 。家康はこの訴えを入れ、利政の行動を咎め、能登二十二万五千石の所領を全て没収するという裁定を下した。没収された領地は、兄・利長に与えられ、結果として加賀藩の所領はさらに拡大することとなった 1 。これにより、利政は一国の大名の地位から一転、所領を持たない浪々の身となったのである。
武将としての全てを失った利政は、妻の籍を伴い、京の都へ上った。彼は京都の風光明媚な地、嵯峨に居を構え、剃髪して「宗悦(そうえつ)」あるいは「宗西」と号し、静かな隠棲生活に入った 1 。しかし、彼の生活は決して困窮したものではなかった。その背景には、当代随一の豪商であった角倉家との強い結びつきがあった。利政の長女が、角倉了以の孫であり、自身も文化人として知られた角倉与一玄紀に嫁いでいたのである 2 。この強力な姻戚関係が、改易後の利政の経済的、社会的な基盤を支えた。
利政の京都での生活は、単なる敗残の将のそれとは一線を画していた。彼は、その地で当代最高の芸術家であった本阿弥光悦や、出版事業で名を馳せた角倉素庵(与一の父)といった一流の文化人たちと深い交流を結んだ 8 。利政自身も茶の湯を嗜み、彼が所用したと伝わる茶道具も残されている 40 。
この京都での活動は、単なる慰めの趣味ではなかった可能性が高い。当時の京都は、朝廷を擁する政治の中心であると同時に、文化・経済の最先端の地でもあった。利政は、この地で文化人や豪商とのネットワークを築くことにより、武力に代わる「情報」と「人脈」という新たな影響力を保持していたと考えられる。事実、彼の存在が加賀藩に京の洗練された文化や貴重な情報をもたらすパイプ役を果たしたという見方もある 42 。彼の「隠棲」は、武将としてのキャリアを終えた後の、戦略的なセカンドキャリアの始まりであったと解釈することもできるだろう。
公的には改易された利政であったが、家族との絆、特に母・芳春院との関係は途絶えてはいなかった。芳春院は、江戸に人質として暮らしながらも、常に次男・利政の身を案じ続けていた。彼女が家臣の村井長次に宛てた自筆の書状には、家康から利政の赦免に関する内意(前田領の片隅に住まわせても良いという許可)を得たことへの喜びが綴られており、息子のために奔走する母の姿がうかがえる 5 。また、利政自身も兄・利長の病状を気遣う書状を送るなど、宗家との関係が完全に断絶していたわけではなかった 34 。この母の愛情と尽力が、利政の生命を救い、さらには彼の血脈を未来へと繋ぐ、最大の力となったのである。
関ヶ原の戦いから十数年後、徳川家と豊臣家の対立が遂に最後の局面を迎える。慶長十九年(1614年)に勃発した大坂の陣は、天下の趨勢を決する最後の戦いであった。この時、京都に隠棲していた前田利政のもとへも、豊臣方、徳川方双方から参陣を促す誘いが届いた 8 。
特に豊臣方からの誘いは破格のものであった。豊臣秀頼は、利政が味方すれば「加賀・越前の二国を与える」という、かつての兄の所領をも上回る条件を提示して彼を迎え入れようとした 1 。かつて豊臣家から能登一国を与えられた恩義を考えれば、この誘いは利政の心を揺さぶるに十分であったはずである。しかし、彼はこの破格の条件にも応じず、また徳川方からの誘いにも乗ることなく、毅然として中立の立場を貫いた。
大坂の陣が徳川方の勝利で終結した後、徳川家康は利政の行動に注目した。豊臣方からの破格の誘いを断ったことを、家康は徳川家への「忠節」の証と高く評価した。そして、利政を十万石の大名として取り立て、大名への復帰を打診したのである 8 。改易された武将にとって、これは望外の好機であり、名誉を回復する絶好の機会であった。しかし、利政の返答は、家康の意表を突くものであった。彼は、この申し出をきっぱりと固辞したのである。
利政がなぜ大名復帰という絶好の機会を自ら手放したのか。その理由は、彼が後に語ったとされる言葉に集約されている。
「大坂に行かなかったのは、関東方(徳川家)への忠節を尽くすためではない。大野治長や渡辺糺などの指揮下に入る私ではないからだ」 8 。
この言葉は、利政の行動原理が、豊臣家への恩顧や徳川家への反発といった単純な二元論ではなく、彼自身の武将としての極めて高い矜持にあったことを雄弁に物語っている。彼は、豊臣家そのものに背いたわけではないが、その軍を指揮する大野治長らの器量を認めず、彼らの下で戦うことを自らのプライドが許さなかったのである。同様に、家康からの申し出も、それが自らの信念に基づかない行動を「忠節」と評価されたことへの反発から受け入れなかった。彼の行動は、損得勘定や時勢への迎合ではなく、「誰の下で戦うべきか」という、武士としての根源的な美学に貫かれていた。
もちろん、この大名復帰が実現しなかった背景には、家康が最終的に態度を曖昧にしたことや、兄・利長が生涯を通じて弟の赦免に反対し続けたという政治的な事情も存在したであろう 8 。しかし、利政自身がその機会を自ら拒んだという事実は、彼がもはや世俗的な領地や権力に執着していなかったことを示している。彼は、関ヶ原で失った大名の地位に未練を見せることなく、京都の文化人「宗悦」としての生き方を全うすることを選んだのである。
大坂の陣の後も、利政は静かに京都での生活を続けた。そして寛永十年(1633年)七月十四日、長女が嫁いだ角倉与市の邸宅にて、五十六年の生涯を閉じた 1 。その亡骸は、母・芳春院が建立した京都市北区紫野の大徳寺塔頭芳春院に葬られた 1 。彼の墓は、波乱の生涯を乗り越え、彼を最後まで案じ続けた母の眠る寺院に、今も静かに佇んでいる。
前田利政個人の物語は、大名の地位を回復することなく京都で静かに幕を閉じた。しかし、彼の血脈は、予想もしない形で加賀百万石の歴史に深く刻まれることになる。
父・利政が改易された時、まだ幼かった嫡男の直之は、祖母である芳春院(まつ)に引き取られ、金沢城内で手厚く養育された 4 。芳春院は、次男・利政の名誉を回復することは叶わなくとも、その血筋だけは絶やしてはならないと強く願い、孫の将来のために奔走した。その尽力が実り、元和元年(1615年)、直之は十二歳の時に叔父にあたる加賀藩三代藩主・前田利常に召し出され、家臣として仕えることが許されたのである 4 。
前田直之の家系は、単なる一介の家臣ではなかった。藩祖・利家と正室・芳春院の血を引く藩主家の最も近い分家として、藩内において別格の扱いを受けた 12 。やがて、藩の重臣の中でも特に家柄の高い八家を定めた「加賀八家」の制度が確立されると、直之の家系はその筆頭に位置づけられた 5 。歴代当主は「土佐守」を名乗ることが多かったため、この家は「前田土佐守家」と称され、一万石を超える禄高を世襲し、代々藩の要職を歴任して明治維新まで加賀藩政の中枢を支え続けたのである 4 。
歴史の皮肉と呼ぶべきか、兄・利長が前田家存続のために切り捨てた弟・利政の家系が、結果的にその宗家を支える最も重要な柱の一つとして、後世に名を残すことになった。この結末を演出したのは、紛れもなく母・芳春院の深慮遠謀と、孫を想う深い愛情であった。
今日、石川県金沢市には前田土佐守家資料館があり、利政が所用したと伝わる兎の耳をかたどった特徴的な兜を持つ甲冑や、一族に伝来した数々の貴重な古文書、美術工芸品が大切に保存・公開されている 4 。これらの遺品は、彼の生きた証を静かに物語っている。
前田利政の生涯は、関ヶ原での一つの決断によって大きく翻弄された。しかし、それを単なる「失敗」や「敗北」の物語として片付けることは、あまりに一面的であろう。彼は、時代の大きな奔流の中で、損得や時勢に流されることなく、自らの義と矜持を最後まで貫き通した。大名の地位を失った後も、文化人として新たな価値を見出し、その生を全うした。
彼の人生は、戦国乱世における武将の生き様が、勝利と敗北という二元論だけでは測れないことを我々に教えてくれる。そして、彼の選択が、巡り巡って彼の子孫の繁栄という形で結実したことは、歴史の複雑な綾と、家族の絆の深さを象徴している。前田利政は、加賀百万石の輝かしい歴史の陰に咲いた、孤高にして味わい深い一輪の花であったと言えるだろう。