最終更新日 2025-05-15

前田玄以

前田玄以:戦国乱世を駆け抜けた僧侶にして五奉行

序章:前田玄以、その時代と位置づけ

本報告書は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、前田玄以(まえだ げんい)について、その生涯、業績、人物像、そして歴史的意義を多角的に考察することを目的とする。前田玄以は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代一流の権力者に仕え、特に豊臣政権下では京都所司代、さらには五奉行の一人として重責を担った人物である。彼の生涯は、僧侶から武士へ、そして大名へと転身を遂げた稀有な経歴に彩られており、その処世術や行政手腕は、激動の時代を生き抜くための知恵と戦略に満ちている。

玄以が生きた時代は、応仁の乱以降の群雄割拠の戦国乱世が終焉を迎え、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が進展し、やがて徳川家康による江戸幕府の成立へと向かう、まさに日本の歴史における一大転換期であった。このような時代背景の中で、玄以は中央政権の官僚として、京都の治安維持、朝廷との交渉、寺社政策、そして豊臣政権の末期には政権運営そのものにも深く関与した 1 。彼の京都所司代としての経験は、後の五奉行としての活動、さらには関ヶ原の戦いにおける微妙な立場と戦後の処遇に連鎖的な影響を与えたと考えられる。また、彼の寺社政策やキリシタンに対する態度の変遷は、当時の京都における宗教的・社会的情勢に少なからぬ影響を及ぼしたであろう。本報告書では、これらの点を踏まえつつ、玄以の多面的な実像に迫る。

第一章:前田玄以の生涯

第一節:出自と初期の経歴 – 僧侶から武士へ

前田玄以は、天文8年(1539年)、美濃国に生まれたとされる 1 。彼の前田氏としての出自については、『寛政重修諸家譜』において菅原氏の一族として記述されているが、加賀藩主として著名な前田氏とは別流であり、藤原利仁の末裔で斎藤氏の支流である季基が美濃国安八郡前田に住んで前田氏を称したのが始まりとも伝えられている 1 。この出自の違いは、彼のその後のキャリアや人間関係において、何らかの影響を与えた可能性も否定できない。

若い頃の玄以は、美濃国の僧侶であったとされ、禅僧であったとも、比叡山の僧であったとも伝えられている 1 。『藩翰譜』や『武功雑記』といった史料には、尾張小松原寺の住職であったとの記述も見られる 1 。僧侶としての経験は、彼の教養や交渉術、さらには後の寺社政策における知識や人脈の基盤となったと考えられる。当時の武士階級において、僧侶から還俗して武士となる者は決して珍しくはなかったが、玄以の場合、この初期の経歴が後の京都所司代としての寺社政策や、五奉行としての朝廷・寺社担当という役割に直結していく点で注目される。

第二節:織田信長・信忠への仕官と本能寺の変

前田玄以は、後に織田信長にその才を見出され、臣下として迎えられた。信長の命令により、その嫡男である織田信忠付きの家臣となった 1 。これは、玄以の能力が信長親子双方から高く評価されていたことを示唆する。

天正10年(1582年)6月、歴史を揺るがす本能寺の変が発生した際、玄以は信忠と共に二条新御所にいた 1 。明智光秀の軍勢が迫る中、信忠の命を受けて御所を脱出し、信長の嫡孫にあたる三法師(後の織田秀信)を伴い、美濃国岐阜城から尾張国清洲城へと避難させるという重大な役割を果たした 1 。この危機的状況における玄以の冷静な判断と行動は、単なる主君への忠誠心に留まらず、織田家の血脈を保護するという大局的な視点と、来るべき政局の変動を見据えた行動であったと評価できる。この三法師保護という実績は、後の豊臣秀吉による玄以評価、ひいては豊臣政権下での重用に繋がる重要な布石となった可能性が高い。

第三節:豊臣秀吉への臣従と京都所司代就任

本能寺の変後、天正11年(1583年)には織田信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられた 1 。しかし、天正12年(1584年)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、玄以は秀吉の家臣へと転じる 1 。この主君の変遷は、戦国時代特有の流動的な主従関係と、玄以自身の現実的な政治判断を示すものである。

秀吉政権下においても、玄以は引き続き京都所司代としての職務を継続し、重用された 1 。これは、彼の行政手腕が既に高く評価されており、秀吉にとっても京都統治に不可欠な人材と認識されていたことを物語る。京都所司代という要職を継続できたことは、秀吉政権の中枢に食い込むための重要な足がかりとなり、後の五奉行抜擢へと繋がる道を開いたと言えるだろう。

第二章:京都所司代としての前田玄以

第一節:京都支配と朝廷・寺社政策

京都所司代としての前田玄以の職務は多岐にわたった。朝廷との交渉役、寺社の管理、そして洛中洛外の民政全般を統括し、京都の治安維持と豊臣政権の威光を示す上で極めて重要な役割を担った 1 。特に、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸においては奉行としてその手腕を発揮し、行幸を成功に導いた 1

豊臣秀吉は、寺社勢力に対して厳しい政策を採ることもあり、例えば僧侶の武装解除や妻帯の禁止などを命じている 7 。玄以は京都所司代として、これらの政策を京都の寺社に対して実行に移す役割を担った。彼が発給した多数の文書(前田玄以発給文書)からは、具体的な行政手腕を窺い知ることができる 8 。例えば、能面師である醍醐の角坊に豊臣秀吉の命を伝達する文書や、上賀茂神社への祝儀の品を披露したことを伝える書状、聚楽第の普請のために人足を徴発する命令書などが現存しており、彼の細やかな行政実務の一端を示している 8

また、当時の公家の日記である『言経卿記』や『兼見卿記』にも、玄以の活動に関する記述が見られる 10 。例えば『兼見卿記』には、妙顕寺の屋敷普請に際して川原者が徴用されたことに対し、吉田兼和がこれを不服として玄以に訴え出たという記録があり、玄以が寺社と民衆の間の紛争解決にも関与していたことがわかる 11

京都所司代としての玄以は、単に命令を伝達するだけの存在ではなく、伝統的権威である朝廷や寺社と、新興権力である豊臣政権との間に立ち、両者の関係を調整する高度な政治感覚と実務能力が求められる立場にあった。この時期に京都で培った実績と広範な人脈は、後の五奉行としての役割、特に朝廷・寺社担当としての専門性を確固たるものにする上で不可欠なものであった。彼の民政・寺社政策は、戦乱によって疲弊した京都の復興と社会秩序の安定に大きく寄与したと考えられる。

第二節:キリシタンとの関わりとその変遷

前田玄以のキリシタンに対する態度は、彼の経歴や時代の変化を反映して変遷を見せた。元僧侶であったことから、当初はキリシタンに対して弾圧的な姿勢を取ったとされる 1 。しかし、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布した後には、むしろキリスト教に理解を示すようになり、京都において秘密裏にキリシタンを保護したという逸話が伝えられている 2

さらに、ポルトガルのインド総督とキリシタン保護に関して交渉を行った経験もあるとされ、外交的な側面からもキリシタン問題に関与していたことが窺える 2 。興味深いことに、玄以の二人の息子はキリシタンとして洗礼を受けている 2 。この事実は、玄以自身のキリシタンに対する個人的な感情や、家族の影響が彼の政策判断に影響を与えた可能性を示唆している。

玄以のキリシタンに対する態度の変化は、単なる政策上の転換に留まらず、彼の人間性や時代の要請を読み解く上で重要な手がかりとなる。宗教的寛容性を示したとも、あるいは外交戦略の一環であったとも解釈できるこの柔軟な姿勢は、後の関ヶ原の戦いにおける彼の巧みな立ち回りにも通じるものがあるかもしれない。

第三章:豊臣政権の五奉行

第一節:五奉行としての役割と権能

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉はその死期を悟り、幼い嫡子・秀頼の後見体制を固めるため、政権運営の中核を担う実務官僚として五奉行を任命した。前田玄以もその一人として抜擢された 1 。五奉行は、玄以の他に浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家という、いずれも秀吉子飼いの吏僚派大名で構成されていた 12 。彼らの役割は、五大老(徳川家康、前田利家ら有力大名)と連携しつつ、豊臣政権の重要政務を分掌し、秀頼を補佐することにあった 12

五奉行内での役割分担は、それぞれの専門性や経験に基づいて行われたと考えられる。史料によれば、前田玄以は京都所司代としての経験を活かし、主に朝廷や寺社との交渉、関連する行政を担当したとされる 12 。一方で、例えば長束正家は財政・検地を担当するなど、各奉行がそれぞれの分野で手腕を発揮し、政権運営を支えた 12 。五奉行制度は、秀吉晩年における権力委譲と集団指導体制への移行の試みであり、玄以はその中で自身の専門性を活かし、政権の安定に不可欠な役割を果たした。この五奉行としての地位と経験は、関ヶ原の戦い前夜における彼の政治的影響力を高め、家康弾劾状への署名など、政局を左右する重要な意思決定に関与する立場へと彼を導いた。

第二節:他の奉行との関係性(石田三成、増田長盛など)

豊臣政権の五奉行は、政権運営において協力関係にあった一方で、各々の出自や性格、秀吉からの信任の度合いなどから、その内部には複雑な力学が存在したと推察される。一般的に、石田三成を中心とする吏僚派(文治派)の五奉行は、加藤清正ら武断派の大名と対立していたとされる 15

前田玄以は、この五奉行の一員として、石田三成や増田長盛らと行動を共にすることが多かった 13 。特に、関ヶ原の戦いに至る過程では、彼らと共に徳川家康への警戒感を共有し、家康弾劾状に名を連ねるなど、反家康の動きに同調する姿勢を見せている 1 。しかし、玄以自身の性格や、京都所司代としての経験からくるバランス感覚は、他の奉行たちとは一線を画すものであった可能性も指摘される。例えば、石田三成が強硬な姿勢を見せる場面においても、玄以は比較的穏健な、あるいは調整役的な立場を取ることがあったのではないかと考えられる。

増田長盛とは、関ヶ原の戦いにおいて共に大坂城に留まり、結果として戦後の処遇で明暗が分かれることになるが、五奉行としての活動期においては、互いに連携して政務にあたっていたと考えられる 17 。彼ら五奉行内部の関係性は、豊臣政権末期の政治情勢を理解する上で重要な要素であり、玄以の行動原理を読み解く鍵ともなる。

第四章:関ヶ原の戦いと前田玄以

第一節:開戦に至る経緯と玄以の立場

豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強めると、豊臣政権内部では緊張が高まった。前田玄以は、秀吉没後の政権内部における抗争の沈静化に努めたとされるが 1 、家康の台頭に対しては警戒感を抱いていた。慶長5年(1600年)、家康が上杉景勝討伐のため会津へ出兵すると、石田三成らがこれに反発して挙兵する。玄以は、この家康の会津征伐に反対の立場を示し 1 、三成らが発した家康の罪状を列挙した「内府ちかひの条々」(家康弾劾状)に、他の奉行らと共に副状の責任者として名を連ねた 1 。この行動は、表向きには豊臣家への忠誠を示すものであり、西軍への加担を明確にするものであった。しかし、その一方で、玄以は政局の流動性を冷静に見極め、自らの生き残りの道を模索していた可能性も否定できない。これらの行動が、後の彼の立場を「中立」あるいは「内通」と評価される複雑な要因となった。

第二節:田辺城の戦いにおける役割

関ヶ原の戦いの本戦に先立ち、各地で前哨戦が繰り広げられた。その一つが、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)の攻防戦である。東軍に与した細川幽斎(藤孝)が寡兵で籠城する田辺城に対し、西軍は小野木重次らを大将とする大軍で包囲した。この西軍の部隊には、前田玄以の息子である前田茂勝も加わっていた 20

戦いが膠着状態に陥る中、朝廷は文化人としても名高い幽斎の討死を惜しみ、勅命を発して和議を促した。この勅命を受け、京都所司代であった玄以は、子の茂勝を田辺城へ派遣し、和議の使者として開城交渉にあたらせた 22 。この交渉には、増田長盛と玄以が連署した書状も関わっていたとされ、細川忠興(幽斎の子)を非難しつつ、豊臣秀頼への忠節を説き、田辺城の早期開城を促す内容であったという 24 。結果的に幽斎は勅命を受け入れて開城し、田辺城は西軍の手に落ちた。この田辺城攻防戦において、玄以は息子を西軍の将として参陣させつつも、朝廷の意向を受けて和平交渉を主導するという、極めて複雑な役割を担った。この茂勝の働きは、関ヶ原の戦い後の前田家の処遇において、有利に働いた重要な要素の一つと考えられている 22

第三節:本戦における動向 – 中立、西軍加担、東軍内通の諸説検討

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で東西両軍が激突した際、前田玄以は大坂城に留まり、豊臣秀頼の警護を大義名分として、積極的な軍事行動を起こさなかった 1 。この玄以の行動については、歴史家の間でも評価が分かれており、「西軍に加担した」とする説 2 、「中立の立場を貫いた」とする説 1 、「徳川家康に内通していた」とする説 19 など、諸説が存在する。

西軍加担説の根拠としては、家康弾劾状への署名や、息子・茂勝の西軍への参陣などが挙げられる。一方、中立説は、玄以が大坂城から動かず、豊臣家として中立を保ったとするもので、秀頼警護という大義名分がこれを裏付けるとされる 1 。東軍内通説は、玄以が裏で家康と連絡を取り合い、西軍の情報を流していたとするもので、戦後の所領安堵という結果から逆算して唱えられることが多い 19 。『徳川実紀』には、玄以が家康の力量を評価していたという記述も残されており 22 、これが内通の動機の一つであった可能性も示唆される。

しかし、玄以が積極的に家康に内通していたという明確な一次史料は乏しく、その行動は豊臣家への忠誠、自己保存、そして時代の流れを読む冷静な判断が複雑に絡み合った結果であったと見るのが妥当であろう。彼の立場は、単純な「西軍」か「東軍」かという二元論では捉えきれない、戦国末期の武将の現実的な選択であったと言える。

表1:関ヶ原の戦いにおける前田玄以の立場に関する諸説

主な根拠・論点

関連史料・記述例

西軍加担説

家康弾劾状への署名、息子・茂勝の西軍参陣、一部史料における西軍所属との記述。

『寛政重修諸家譜』 1 、一部の編纂物 2

中立説

大坂城に留まり豊臣秀頼を警護、積極的な軍事行動の回避、豊臣家としての中立維持を大義名分とした。

『前田玄以記』 1 、『武功雑記』 1 、一部の編纂物 4

東軍内通説

戦後の所領安堵という結果、家康への情報提供の可能性、家康の力量を評価していたとの記録。

『徳川実紀』 22 、一部の編纂物 17 、サライ.jp記事 35

複合的解釈

表向き西軍に与しながらも、豊臣家の存続と自己の保身を最優先し、状況に応じて家康方とも接触を保っていた可能性。明確な内通ではなく、日和見的な中立に近い立場。

上記諸説の複合的理解。玄以の行動の多面性、当時の複雑な政治状況を考慮。

この曖昧とも取れる行動が、結果的に家康による所領安堵という、玄にとっては最善の結果に繋がった。彼の「中立」が、家康にとって都合の良いものであった可能性は否定できない。玄以のような、単純な敵味方では割り切れない立場の武将の存在が、関ヶ原の戦いの帰趨や、その後の豊臣家と徳川家の力関係に、少なからぬ影響を与えたと言えるだろう。

第四節:戦後の処遇と丹波亀山藩の成立(増田長盛との比較考察を含む)

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍に与した大名の多くが改易や減封といった厳しい処分を受けた。しかし、前田玄以は慶長5年(1600年)10月16日、徳川家康から丹波亀山5万石の本領を安堵され、初代亀山藩主となった 1 。これは、五奉行の中で唯一、所領を維持できたという点で特筆すべき結果である。

この処遇の理由については、いくつかの要因が考えられる。第一に、大坂城において豊臣秀頼の警護に徹し、積極的な軍事行動を控えたこと 1 。第二に、田辺城開城交渉における息子・茂勝の働きが、家康方からも評価されたこと 22 。そして第三に、玄以自身が家康の力量を評価し、一定の配慮を示していた可能性である 19

同じく五奉行の一人であった増田長盛も、関ヶ原の戦いでは大坂城に留まり、家康に内通していたとされる 17 。しかし、長盛は戦後に改易処分となっている 17 。この両者の処遇の違いは、内通の質やタイミング、家康からの信頼度、あるいは豊臣家への関与の度合いなど、様々な要素が絡み合っていたと考えられる。史料によれば、玄以は「長盛のように大坂城内にありながら徳川方に内通しているようなことはなく」、あくまで豊臣家として中立の立場を維持したとされており 1 、この点が評価されたのかもしれない。玄以の「厳正中立」とも言える態度は、結果的に家康にとって最も受け入れやすい形となり、彼の政治的生命を繋ぐことに成功した。

表2:五奉行の関ヶ原の戦い後の処遇比較

奉行氏名

関ヶ原での主な行動

戦後の処遇

処遇の理由(推測含む)

前田玄以

大坂城にて豊臣秀頼を警護。表向き西軍だが実質的中立。息子茂勝が田辺城開城に貢献。

本領安堵

秀頼警護、茂勝の功績、家康への配慮、巧みな中立姿勢が評価された。 1

石田三成

西軍の首謀者として関ヶ原で指揮を執る。敗走後捕縛。

斬首

西軍首謀者としての責任。 20

増田長盛

大坂城に留まり、家康に内通。

改易

内通は認められたが、西軍への加担責任、あるいは家康からの信頼を得られなかった等の理由。 17

長束正家

西軍として活動。安濃津城攻めなどに参加。関ヶ原敗戦後、居城水口岡山城で自刃。

自刃(事実上改易)

西軍への積極的加担。 25

浅野長政

東軍に与し、徳川秀忠軍に従軍。しかし、嫡男幸長は東軍主力として活躍。戦後、隠居。

隠居・所領安堵

息子幸長の功績、家康との関係性。五奉行としての責任は問われず。 15

この玄以の所領安堵により、丹波亀山藩前田家が成立し、江戸時代を通じて存続する基盤が築かれることとなった。

第五章:前田玄以の人物像と評価

第一節:同時代及び後世の史料に見る評価

前田玄以は、同時代において高い評価を得ていた人物である。特に豊臣秀吉からの信任は厚く、その行政手腕は『秀吉事記』において「智深くして私曲なし」と称賛されている 2 。この評価は、玄以が私心なく公正に政務を執行し、深い知慮をもって難局に対処したことを示している。彼の行政官としての有能さは、複数の政権を渡り歩きながらも常に要職を歴任できた大きな理由の一つであろう。

また、『徳川実紀』には、玄以が徳川家康の力量を的確に評価していたことを示す記述が残されている 22 。これは、玄以が単なる実務官僚に留まらず、人物眼や大局観をも備えた政治家であったことを物語っている。

江戸時代に編纂された史書においても、玄以に関する記述は見られる。『藩翰譜』や『武功雑記』といった史料では、彼の出自や初期の経歴に触れられている 1 。ただし、これらの史料は編纂者の主観や伝聞に基づく部分もあり、その記述の取り扱いには慎重を期す必要がある。例えば、『藩翰譜』には玄以の記述があるとする資料 1 と、ないとする資料 27 が存在し、史料間の相違も見られる。これらの史料を比較検討することで、時代や立場によって人物評価がどのように変化し得るかという点も考察できる。

第二節:文化的側面 – 茶の湯と千利休、丿貫との逸話

前田玄以は、武将や行政官としての側面だけでなく、文化人としての一面も持ち合わせていた。彼は典礼や故実に詳しく 2 、当代随一の茶人であった千利休に茶の湯を学んだとされている 2 。利休との交流は、単なる趣味の域を超え、当時の武家社会における重要なコミュニケーション手段であり、政治的・社会的なネットワーク構築にも繋がっていたと考えられる。豊臣秀吉が伏見城の普請を進めるにあたり、利休の好みを尊重するよう玄以に指示したという逸話は 28 、玄以が利休の意向を汲み取れる人物として信頼されていたことを示している。

また、北野大茶会における異才の茶人・丿貫(へちかん)との逸話も、玄以の文化的な素養や人間性を垣間見せるものとして興味深い 29 。秀吉が丿貫の風流な茶席に感心し、玄以に命じて城へ招かせたというこのエピソードは、玄以が秀吉の側近として文化的な催しにも深く関与していたことを示している。これらの文化人との交流は、玄以自身の教養を高めるとともに、彼の人間的魅力を形成し、間接的に彼の政治的立場にも好影響を与えた可能性が考えられる。

第三節:行政官としての手腕

前田玄以の行政官としての手腕は、京都所司代および五奉行としての活動を通じて遺憾なく発揮された。京都所司代としては、朝廷との折衝、寺社勢力の統制、洛中洛外の民政安定化、そしてキリシタン政策など、複雑かつ多岐にわたる課題に対処した 1 。五奉行としては、豊臣政権の最高実務機関の一員として、特に朝廷・寺社関連の政務を担当し、政権運営に貢献した 12

具体的な事例としては、蒲生氏郷が病に倒れた際、秀吉が命じた輪番診療の仕組みの運営を玄以邸で行い、検使として立ち会い、診療経過を逐一秀吉に報告したことなどが挙げられる 1 。これは、彼の管理能力と忠実さを示すエピソードである。また、彼が発給した多数の書状は、聚楽第の普請における人足の手配や資材調達、寺社への指示伝達など、具体的な行政実務の内容を今に伝えている 8

玄以の行政手腕の根底には、僧侶時代に培われた学識や実務能力、そして何よりも激動の時代を生き抜くための優れたバランス感覚と現実的な判断力があったと考えられる。彼の行政は、豊臣政権の安定、特に首都京都の統治に大きく貢献したと言えるだろう。

第六章:史跡と子孫

第一節:墓所(妙心寺蟠桃院)と肖像画

前田玄以の墓所は、京都府京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺の塔頭・蟠桃院(ばんとういん)に存在する 1 。この蟠桃院は、慶長6年(1601年)、玄以自身が開基となり、妙心寺79世の一宙東黙(いっちゅうとうもく)を開山として創建された寺院である 2 。境内には、玄以、その正室である永福院殿、そして娘の長松院殿の墓とされる五輪塔3基が並んでおり、彼が晩年に自らの一族の菩提を弔う場所を設けたことがわかる 2

また、蟠桃院には、慶長7年(1602年)に妙心寺58世の南化玄興(なんかげんこう)が賛を記した前田玄以の肖像画が所蔵されている 2 。この肖像画の存在は、玄以が当時、記憶され、後世に伝えられるべき重要な人物として認識されていたことを示している。自らの菩提寺を建立し、そこに一族と共に眠るという行為は、戦国武将としての彼の人生の達成感と、後世への意識の表れとも言えるだろう。

第二節:伏見屋敷跡とその調査状況

前田玄以は、豊臣秀吉が政権の中心地とした伏見にも屋敷を構えていたことが知られている 30 。古地図などによれば、伏見城の三の丸西に位置する桃山町治部少丸に玄以の上屋敷があったとされている 30 。伏見は、秀吉によって壮大な城郭と城下町が建設され、全国から大名が集住した政治都市であった。

近年、伏見城跡およびその城下町跡では発掘調査が進められており、前田家に関連すると見られる遺構も発見されている。例えば、桃山筑前台町では、2015年の発掘調査で前田家の屋敷跡と推定される礎石の根固めや複数の礎石据え付け穴などが見つかっている 30 。また、伏見城跡からは金箔瓦が多数出土しており 31 、これは城郭だけでなく、大名屋敷にも使用されていたと考えられている。これらの発掘調査は、当時の大名の生活様式や伏見の都市計画、そして豊臣政権の壮大な威容を具体的に明らかにする上で極めて重要である。玄以の伏見屋敷もまた、彼の政治活動の拠点の一つであり、当時の権力者たちが集う壮麗な都市景観の一部を構成していたと考えられる。

第三節:子・前田茂勝の生涯と丹波亀山藩前田家のその後

前田玄以には複数の子がいたが、長男の秀以は父に先立って早世した 1 。そのため、玄以の死後、家督と丹波亀山藩5万石は三男(一説には次男)の前田茂勝が継承した 1

茂勝は、父・玄以の晩年からその活動を助けており、特に関ヶ原の戦いの前哨戦である丹後田辺城の戦いでは、西軍の一員として参陣し、父の命を受けて朝廷の勅使に供奉し、細川幽斎が籠る田辺城の開城交渉にあたるという重要な役割を果たした 20 。また、茂勝はキリシタンとしても知られており、文禄4年(1595年)に洗礼を受けたとされる 21

しかし、丹波亀山藩主となった茂勝の治世は長くは続かなかった。慶長13年(1608年)、茂勝は「狂気して家臣尾池清左衛門某を殺害し、また家臣等数多切腹せしめし事により所領を没収せられ、堀尾山城守忠晴にあずけられる」という事件を起こし、改易処分となった 33 。これは、江戸幕府初期における大名統制の一環と見ることができ、茂勝がキリシタンであったことや、「狂気」と記録された事件の真相については、さらなる検討の余地がある。

この茂勝の改易により、前田玄以が築いた丹波亀山藩前田家は一代で終焉を迎えた。ただし、前田家自体はその後も幕臣として存続した可能性が史料から示唆されている 19

終章:前田玄以の歴史的意義

前田玄以の生涯は、戦国時代の動乱から江戸時代初期の新たな秩序形成へと至る、日本の歴史における激動の転換期を象徴している。元は美濃の一僧侶であった彼が、織田信長に見出されて武士となり、豊臣秀吉の下では京都所司代、そして五奉行の一人として中央政権の中枢で活躍し、最終的には徳川家康から所領を安堵されて大名となるという経歴は、当時の社会の流動性と、個人の能力次第で大きく運命が変わり得ることを示している。

玄以の歴史的意義は、まず卓越した行政官僚としての能力にある。「智深くして私曲なし」と評されたように 2 、彼は複雑な京都の統治や、豊臣政権の政務を的確に処理し、政権の安定に貢献した。特に、朝廷や寺社との交渉における手腕は、彼の僧侶としての経験と教養に裏打ちされたものであり、他の武将にはない強みであった。

また、関ヶ原の戦いにおける彼の立ち回りは、乱世を生き抜くための現実的な処世術とバランス感覚の重要性を示唆している。単純な忠誠論や敵味方という二元論では割り切れない彼の行動は、豊臣家への配慮と自己保存、そして時代の流れを見極める冷静な判断力に基づいていたと考えられる。結果として、彼は五奉行の中で唯一所領を安堵され、近世大名として家名を残すことに成功した。

前田玄以は、武力だけでなく、知力、交渉力、そして行政能力がますます重要性を増していく時代の変化を体現した人物であったと言える。彼の存在と活動は、豊臣政権の統治機構の実態、関ヶ原の戦いを巡る複雑な人間模様、そして江戸幕府初期の秩序形成過程を理解する上で、多くの示唆を与えてくれる。彼の生涯は、現代においても、変化の激しい時代をいかに生き抜くかという問いに対する一つの答えを示しているのかもしれない。

表3:前田玄以 略年譜

年代(和暦)

年齢

主な出来事

主君・関連人物

官位・役職など

天文8年(1539)

1歳

美濃国に生まれる 1

(不明)

美濃の僧となる(禅僧、比叡山の僧、尾張小松原寺住職などの説あり) 1

(不明)

還俗し、織田信長に仕える 1

織田信長

天正年間初期か

信長の命で織田信忠付の家臣となる 1

織田信忠

天正10年(1582)

44歳

本能寺の変。信忠と共に二条新御所に籠るが、信忠の命で脱出。三法師を保護し清洲城へ 1

織田信忠、三法師(織田秀信)

天正11年(1583)

45歳

織田信雄に仕え、京都所司代に任じられる 1

織田信雄

京都所司代

天正12年(1584)

46歳

羽柴(豊臣)秀吉に仕える 1

豊臣秀吉

京都所司代

天正16年(1588)

50歳

後陽成天皇の聚楽第行幸で奉行を務める 1

豊臣秀吉、後陽成天皇

京都所司代

文禄4年(1595)

57歳

秀吉より5万石を与えられ、丹波亀山城主となる 1

豊臣秀吉

丹波亀山城主

慶長3年(1598)

60歳

豊臣政権の五奉行の一人に任じられる 1 。秀吉死去。

豊臣秀吉、豊臣秀頼

五奉行、民部卿法印 1

慶長5年(1600)

62歳

関ヶ原の戦い。家康弾劾状に副状責任者として署名 1 。大坂城で秀頼を警護し中立を保つ 1 。息子・茂勝が田辺城開城に関与 22 。戦後、本領安堵 1

豊臣秀頼、徳川家康、石田三成、細川幽斎、前田茂勝

五奉行、民部卿法印、丹波亀山城主

慶長6年(1601)

63歳

妙心寺塔頭・蟠桃院を創建 2 。長男・秀以死去 1

慶長7年(1602)

64歳

5月20日(一説に5月7日または5月10日)死去 1 。三男(次男説あり)・茂勝が跡を継ぐ 1

初代丹波亀山藩主

参考文献リスト

  • 『寛政重修諸家譜』
  • 『藩翰譜』
  • 『武功雑記』
  • 『秀吉事記』
  • 『徳川実紀』
  • 『言経卿記』
  • 『兼見卿記』
  • 前田玄以発給文書(早稲田大学古典籍総合データベース、京都西山短期大学紀要『前田玄以発給文書集成』など)
  • 各ウェブサイト資料(本文中括弧内に記載のID参照)

引用文献

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  2. 前田玄以 京都通百科事典 - 京都通百科事典(R) https://www.kyototuu.jp/History/HumanMaedaGeni.html
  3. 第一章 前田利家と家族 - 近世加賀藩と富山藩について http://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364357863.html
  4. 前田 玄以(まえだ げんい) - 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/toyotomi/maeda-geni/
  5. 向日市の歴史に関わる主な人物 https://www.city.muko.kyoto.jp/site/rekishi/1056.html
  6. 「京都所司代(キョウトショシダイ)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%89%80%E5%8F%B8%E4%BB%A3
  7. 織豊政権の寺社支配 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180782/1/ybunk00148.pdf
  8. seizan.ac.jp https://seizan.ac.jp/wp_new/wp-content/uploads/2022/05/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%9C%9F%E6%98%AD_%E7%B4%80%E8%A6%812022.pdf
  9. 前田 玄以 - 古典籍総合データベース https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E5%89%8D%E7%94%B0+%E7%8E%84%E4%BB%A5
  10. その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。 https://www.big-c.or.jp/~makichan/20150121.html
  11. 史料纂集古記録編 第172回配本 新訂増補 兼見卿記2 | 商品詳細 ... https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/760
  12. 「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/479426
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  14. 前田利家はなぜ家康を殺さなかったのか?――五大老五奉行の時代、そして利家の最期のとき https://san-tatsu.jp/articles/271250/
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  29. 前田玄以の回想~丿貫~/北野大茶会・豊臣秀吉・千利休 - 骨董品・美術品買取こたろう https://kotto-kotaro.com/news/detail/hechikan/
  30. 伏見屋敷めぐり:豊臣期の大名屋敷跡、今も地名に数多く残す http://usagitabi.g1.xrea.com/fusimiyasiki.html
  31. 伏見城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E
  32. 伏見城の造営 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/News/kenkyu/06kiyou-3.pdf
  33. 家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道” https://diamond.jp/articles/-/355011
  34. 前田玄以の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64618/
  35. 「関ケ原の戦い」で中立の立場を保った、徳善院玄以(前田玄以 ... https://serai.jp/hobby/1151248