最終更新日 2025-07-22

前田茂勝

前田茂勝は五奉行玄以の子でキリシタン大名。関ヶ原で西軍につき、父の死後家督を継ぐ。狂気により改易され隠岐へ流罪。信仰と政治の狭間で翻弄された悲劇の生涯を送った。

時代の奔流に消えたキリシタン大名 ― 前田茂勝の栄光と悲劇

序章:五奉行の家に生まれて ― 栄光と悲劇の序曲

戦国の動乱が終焉を迎え、新たな治世が胎動する時代。その激動の渦中に生まれ、信仰と権力の狭間で翻弄され、歴史の闇に消えていった一人のキリシタン大名がいた。その名を前田茂勝(まえだ しげかつ)という。彼の生涯は、豊臣政権の栄光と、徳川幕藩体制確立期における苛烈な現実を映し出す鏡であり、個人の信仰がいかに時代の奔流に飲み込まれていくかを示す悲劇的な物語である。

茂勝の運命を理解するためには、まず彼の出自と、その生涯に絶大な影響を与えた父・前田玄以(げんい)の存在を語らねばならない。玄以は、豊臣政権下で絶大な権勢を誇った五奉行の一人である 1 。その出自は美濃国とされ、若い頃は比叡山の僧侶であったと伝えられる 1 。後に還俗し、織田信長の嫡男・信忠に仕えた 2 。天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、主君・信忠が自刃する二条新御所からその命により脱出、信忠の遺児である三法師(後の織田秀信)を保護して尾張国清洲城へと送り届けるという、絶体絶命の状況下で冷静な判断力と忠誠心を示した 2 。この功績が、彼の後の立身の礎となった。

信長の死後、玄以はその卓越した行政手腕と政治的嗅覚をもって時代の変転を乗り切り、豊臣秀吉に重用される。京都所司代として朝廷や寺社勢力との折衝、洛中洛外の民政を一手に担い、その手腕は「智深くして私曲なし」と評された 1 。天正13年(1585年)には丹波国亀山城主として5万石を領する大名となり、豊臣政権の中枢を担う存在となったのである 2

ここで留意すべきは、玄以の前田家が、加賀百万石で知られる前田利家の一族とは異なる系統であるという点だ。『寛政重修諸家譜』では菅原氏の一族として同流とされているが、藤原利仁を祖とする美濃国の前田氏の末裔であるという説が有力視されている 2 。玄以自身も、利家とは同姓であるものの直接の血縁関係にはない、と認識していたとされ 5 、茂勝が「前田」の姓を冠してはいても、加賀前田家のような強大な政治的庇護下にはなかった事実は、彼の後の孤立を理解する上で重要である。

前田茂勝は、天正10年(1582年)に玄以の次男(一説には三男)として生を受けた 6 。この年が、彼の生涯を暗示しているかのように象徴的である。1582年は、父・玄以が主君・信忠の死という最大の危機を乗り越え、新たな権力者・秀吉の下で飛躍する契機を掴んだ年、すなわち本能寺の変が勃発した年であった 2 。織田政権が崩壊し、豊臣政権が胎動する、まさに日本の権力構造が地殻変動を起こしたその年に、茂勝はこの世に生を受けたのである。彼の人生が、豊臣の栄光から徳川の治世へという時代の大きな転換点に翻弄される運命にあったことは、その誕生年がすでに予兆していたと言えよう。


主要人物・出来事年表

前田茂勝の生涯を、父・玄以の動向や国内外の主要な出来事と対比することで、彼の運命が時代の大きなうねりの中でいかに形成されていったかを概観する。

西暦(和暦)

茂勝の年齢

前田茂勝の動向

父・前田玄以の動向

国内外の主要な出来事

1582年(天正10年)

0歳

誕生 6

本能寺の変に際し、織田信忠の子・三法師を保護 2

本能寺の変。山崎の戦い。

1595年(文禄4年)

14歳

兄・秀以と共にキリシタンとなる。霊名「レアン」 6

丹波亀山5万石の城主となる 2

豊臣秀次切腹事件。

1598年(慶長3年)

17歳

豊臣政権の五奉行に任じられる 3

豊臣秀吉死去。

1600年(慶長5年)

19歳

西軍に属し、丹後田辺城攻めに参加。開城の使者を務める 6

大坂城に留まり、徳川家康に内通。戦後、所領を安堵される 1

関ヶ原の戦い。

1601年(慶長6年)

20歳

長男・秀以(パウロ)が死去 10

1602年(慶長7年)

21歳

父の死により家督相続。丹波八上5万石に移封される 10

5月7日、死去 2

1608年(慶長13年)

27歳

「狂気」により家臣・尾池清左衛門らを殺害。改易され、隠岐へ流罪となる 12

木下家定、金森長近ら大名が死去 14

1612年(慶長17年)

31歳

隠岐にて配流生活。

幕府、天領に禁教令を発布(岡本大八事件が契機) 16

1614年(慶長19年)

33歳

隠岐にて配流生活。

幕府、禁教令を全国に拡大。高山右近ら国外追放 17 。大坂冬の陣。

1621年(元和7年)

40歳

配流先の隠岐で死去 6


第一章:信仰の時代 ― キリシタン大名「コンスタンチノ」の誕生

前田茂勝の人間像を形成する上で、キリスト教信仰は決定的な要素であった。彼の入信は、単なる個人的な精神の探求に留まらず、当時の政治状況と複雑に絡み合い、やがて彼の運命を悲劇へと導く伏線となる。

兄・秀以との入信とキリシタンとしての歩み

茂勝がキリスト教の洗礼を受けたのは、文禄4年(1595年)、彼がまだ14歳の時であった 6 。この時、兄である秀以(ひでもち)も同時に入信しており、秀以は「パウロ」、茂勝は当初「レアン(またはリアン)」、後に「コンスタンチノ」という霊名を授かっている 6 。五奉行という豊臣政権の中枢を担う家の兄弟が揃ってキリシタンになったという事実は、イエズス会にとって特筆すべき成果であった。当時のイエズス会日本報告書には、京都所司代の息子の入信が、布教活動における画期的な出来事として誇らしげに記されている 20 。これは、イエズス会が単に魂の救済を目指すだけでなく、政治的影響力を持つ有力者との関係構築を戦略的に進めていたことの証左でもある。

兄弟の入信の背景には、当時の武士階級の一部にキリスト教が一種の先進文化として受け入れられていた風潮もあろうが、より直接的な契機も伝えられている。イエズス会の記録によれば、茂勝が病に罹った際、イエズス会の修道士が差し出した薬によって快癒し、父・玄以が大変喜んだという逸話が残されている 20 。この出来事が、前田家とキリスト教との距離を縮める一助となった可能性は高い。

父・玄以の二律背反的な態度

息子たちが熱心な信仰に目覚める一方で、父・玄以の態度は極めて複雑かつ現実的であった。元僧侶であった玄以は、当初はキリシタンに対して弾圧的な姿勢を見せていたが、京都所司代として多くの宣教師や信者と接する中で、次第にその教えに理解を示すようになる。後年には、豊臣秀吉のバテレン追放令下にもかかわらず、秘密裏に京都でキリシタンを保護するなど、融和的な政策をとったことさえあった 4

しかし、玄以の態度はあくまで政治家のそれであった。彼の理解は、個人的な信仰告白とは一線を画すものであり、政治的現実を常に最優先するものであった。イエズス会士ルイス・フロイスの記録によれば、玄以は息子たちに対し、「もし太閤(秀吉)様が日本中のキリシタンを処刑せよと命じられたならば、私が執り成して助けてもらえるなどとゆめゆめ思うな」と厳しく言い渡したという 20 。これは、主君の命令と息子の命を天秤にかければ、迷わず前者を選ぶという、彼の非情なまでの現実主義と、豊臣家への絶対的な忠誠心を示すものである。

茂勝は、この父の「政治的現実主義」と、自らが抱いた「純粋な信仰」との間で、常に引き裂かれる運命にあった。父の権勢下にある間は、この矛盾は潜在的な緊張関係に留まっていた。しかし、父という巨大な庇護者を失い、徳川の治世という新たな政治秩序の中で、この矛盾が彼の精神を深く蝕み、やがて破綻へと導く遠因となったことは想像に難くない。

信仰を巡る人脈の存在 ― 『時慶記』からの推察

茂勝の入信は、単に宣教師との個人的な出会いによってのみもたらされたわけではない可能性が高い。その背景には、父・玄以が京都所司代として築き上げた、公家社会との広範な人脈が触媒として機能したという構図が浮かび上がる。

玄以と親交が深かった公家の一人に、西洞院時慶(にしのとういん ときよし)がいる。彼の日記である『時慶記』には、玄以と時慶が連歌会で同席するなど、頻繁に交流していた様子が記録されている 20 。時慶自身はキリシタンではなかったが、その日記にはキリシタンの小集会への関心を示す記述が見られるなど、キリスト教に対して極めて好意的、あるいは近しい立場にあったことが示唆されている 20

フロイスの『日本史』には、玄以がインド副王への返書を作成する際、イエズス会から派遣された修道士と対談した折、その場に「我らとは一面識もない別の異教徒の貴人」が同席していたという記述がある 20 。この「貴人」こそ、時慶、あるいはその縁者であった可能性が研究者によって指摘されている。

これらの事実を繋ぎ合わせると、一つの仮説が導き出される。すなわち、玄以とイエズス会との間を、時慶に代表されるような親キリシタン的な公家が仲介し、それが結果として息子たちの入信へと繋がったのではないか、というものである。当時の信仰の広がりが、宣教師による直接的な布教活動だけでなく、既存の社会的・政治的ネットワークを介して、より複雑かつ有機的に進展していたことを、前田家の事例は雄弁に物語っている。

第二章:関ヶ原、そして丹波の国主へ ― 束の間の栄光

父・玄以の死を経て、前田茂勝は若くして一家の命運を担う大名となる。しかし、それは徳川家康が天下の覇権を掌握した後のことであり、彼の短い領主としてのキャリアは、豊臣恩顧の大名としての立場と、徳川の治世下で生き残りを図るという宿命を背負った、束の間の栄光に過ぎなかった。

関ヶ原の戦いにおける役割

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、茂勝は豊臣五奉行の家として西軍に与した 6 。彼は、小野木重勝や福知山城主の朽木元綱らと共に、東軍方の細川幽斎(藤孝)がわずかな兵で守る丹後国田辺城(舞鶴城)の攻撃に参加した 6 。この戦いは、幽斎の類稀なる文化人としての名声を惜しんだ後陽成天皇の勅命によって停戦に至るが、茂勝はその際に開城の交渉使者を務めるという大役を果たしている 6

茂勝が前線で西軍の一翼を担っていた一方で、父・玄以は老練な政治家として、より高次の次元で立ち回っていた。彼は、豊臣秀頼の警護を名目として大坂城に留まり、表向きは西軍の中心人物の一人として家康を弾劾する書状に連署しつつも 23 、裏では家康に内通し、東軍の勝利に貢献していたのである 1 。この二股的な戦略により、前田家は西軍に属しながらも、戦後、徳川家康から所領を安堵されるという離れ業を成し遂げた。茂勝の軍事行動そのものが家の運命を左右したわけではなく、最終的に家を救ったのは、父・玄以の冷徹な政治判断であった。

家督相続と丹波八上への移封

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に兄でキリシタンの同志でもあった秀以(パウロ)が早世する 10 。そして慶長7年(1602年)5月、父・玄以もこの世を去った 2 。これにより、茂勝は21歳の若さで前田家の家督を相続することになる 6

しかし、彼が継承したのは父の居城であった丹波亀山城ではなかった。茂勝は、同じ丹波国内の八上(やかみ)城5万石へと移封されたのである 10 。表向きは父の功績による所領安堵であったが、この移封には徳川幕府による政治的な意図が隠されていたと見るべきだろう。八上城は、かつて明智光秀の執拗な攻撃の末に落城し、城主・波多野秀治が非業の死を遂げた、峻険な山城として知られる 25 。茂勝は、この険しい山城の麓に「主膳屋敷」と呼ばれる居館を構えて政務を執ったと伝えられているが 11 、亀山という丹波の中心地から、より統治の難しい地へと移されたことは、豊臣恩顧の大名に対する幕府の牽制、あるいは一種の格下げであった可能性も否定できない。いずれにせよ、この八上の地が、彼の栄光の舞台であると同時に、悲劇の舞台ともなるのであった。

第三章:狂気の城主 ― 慶長十三年の悲劇と改易

丹波八上の領主となってわずか6年。慶長13年(1608年)、前田茂勝の人生は突如として暗転する。彼の「狂気」が引き起こしたとされる惨劇は、彼から大名としての地位、所領、そして未来の全てを奪い去った。この事件は、単なる一個人の精神破綻として片付けることはできない。その背後には、信仰の葛藤、そして徳川幕府の冷徹な政治的思惑が複雑に絡み合っていた。

『寛政重修諸家譜』に記された惨劇

江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』には、茂勝の改易の理由が簡潔かつ衝撃的に記されている。

「慶長十三年六月、狂気して家臣尾池清左衛門某を殺害し、また家臣等数多切腹せしめし事により所領を没収せられ、堀尾山城守忠晴にあずけられる」 12

幕府の公式記録に「狂気」と明記されている点は極めて重要である。これは、茂勝の行動が、領民を治めるべき大名として到底許容し得ないものであったという幕府の公式見解を示している。「尾池清左衛門(おいけ せいざえもん)」という家臣の具体的な名前が挙げられていることから、これが改易の直接的な引き金となった刃傷沙汰であったことがわかる 12 。諫言した家臣を手討ちにし、それに連座して多くの家臣に切腹を命じたというこの事件は、統治能力の完全な欠如を天下に示すものであった。

「狂気」の原因をめぐる多角的考察

なぜ茂勝は「狂気」に陥ったのか。その原因を探ることは、彼の悲劇の核心に迫る試みである。史料は断片的であるが、いくつかの要因を複合的に考察することで、その輪郭が浮かび上がってくる。

第一の要因:信仰と棄教の圧力

ある史料は、茂勝の精神が破綻した原因を、信仰の問題に求めている。それによれば、徳川幕府のキリシタンへの圧力を恐れた父・玄以(あるいは家臣団)が茂勝に棄教を迫り、彼はそれに泣く泣く従った。神への誓いを破ったことへの絶望と罪悪感が、彼の精神を蝕み、異常をきたす原因となったというのである 10

この説が事実であるとすれば、彼の「狂気」は、深刻な信仰的葛藤から生じた精神的崩壊であったと解釈できる。自らの信仰を否定するという行為は、彼のアイデンティティそのものを根底から揺るがすものであっただろう。その苦悩の中で、彼に諫言する家臣は、自らの弱さや罪を突きつけてくる存在に見えたのかもしれない。家臣たちの殺害は、自己の尊厳を守るための、あまりにも歪んだ過剰な防衛反応であった可能性が考えられる。

第二の要因:徳川幕府による政治的排除

茂勝の悲劇を、個人の内面の問題だけに帰することはできない。そこには、徳川幕府による極めて政治的な意図が介在していた可能性を強く疑うべきである。

第一に、茂勝が「豊臣恩顧の大名」であり、かつ「キリシタン大名」であったという事実が重要である。関ヶ原の戦いを経て、徳川家康は天下の支配を盤石なものにしようとしていた。その過程で、依然として豊臣家に忠誠を誓う可能性のある大名、特にキリスト教という幕府の支配イデオロギーと相容れない思想を奉じる大名は、潜在的な危険因子と見なされていた 29 。茂勝は、この二重の意味で、幕府から警戒されるべき存在であった。

第二に、事件が起きた時期である。茂勝の改易は慶長13年(1608年)。これは、幕府がキリスト教に対する態度を硬化させ始めた時期と一致する。この数年後、慶長17年(1612年)には岡本大八事件を契機として幕府直轄領に禁教令が発布され、慶長19年(1614年)には全国にその範囲が拡大される 17 。茂勝の改易は、この全国的な大弾圧に先立つ、いわば地ならし、あるいは他のキリシタン大名に対する見せしめとしての意味合いを持っていた可能性が考えられる。

当時、「乱心」や「狂気」は、跡継ぎがいないこと(無嗣)に次いで、大名が改易される一般的な理由であった 12 。時には、藩政の失敗などを糊塗するため、あるいは幕府が特定の大名を排除するための政治的な口実として「乱心」が利用されることもあった。

これらの状況証拠を総合すると、一つの冷徹な構図が浮かび上がる。茂勝の精神が何らかの理由で不安定であったことは事実かもしれない。しかし、幕府にとってその刃傷沙汰は、危険因子である豊臣恩顧のキリシタン大名を排除するための「渡りに船」であった。幕府は、この事件を好機と捉え、「狂気による統治能力の欠如」という、当時最も有効であった改易の論理を適用したのではないか。茂勝の悲劇は、彼の個人的な問題であると同時に、徳川幕藩体制が確立していく過程で起きた、政治的粛清の一環であった可能性が極めて高いのである。

殺害された家臣・尾池清左衛門の役割

この事件の真相を探る上で、殺害された家臣・尾池清左衛門がどのような人物であったかは重要な鍵となる。しかし、残念ながら彼に関する詳細な史料はほとんど現存していない 33 。もし彼が、幕府の意向を汲んで茂勝に棄教を迫る家老格の重臣であったならば、この事件は信仰を守ろうとした茂勝の絶望的な抵抗であったと解釈できるかもしれない。逆に、彼が茂勝と共に信仰を守ろうとしたキリシタンの同志であったならば、茂勝の精神錯乱はより深刻で、理性のタガが完全に外れたものであったということになる。彼の人物像が不明である以上、事件の直接的な動機については、憶測の域を出ることは難しい。

第四章:改易、そして流人の終焉 ― 信仰への回帰

慶長13年(1608年)の惨劇により、前田茂勝は丹波五万石の大名の地位を剥奪され、歴史の表舞台から姿を消した。しかし、彼の物語はそこで終わったわけではない。流人として送られた辺境の地で、彼は権力と引き換えに失いかけていたものを取り戻し、静かな最期を迎えることになる。その晩年は、権力を失った人間が何に救いを求めるのか、そして彼の信仰の本質とは何だったのかを我々に問いかける。

隠岐への流罪と堀尾氏への御預け

所領を没収された茂勝の身柄は、出雲国・隠岐国を治めていた松江城主、堀尾山城守忠晴に預けられることとなった 12 。堀尾氏は、関ヶ原の戦いの功績により家康から出雲・隠岐二国二十四万石を与えられた外様大名である 35 。茂勝は、堀尾氏の厳重な監視の下、日本海の孤島、隠岐国へと流された 13 。隠岐は、古来より後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された地として知られる、政治犯を社会から完全に隔離するための流刑地であった。大名から一転、罪人としてこの地に送られた茂勝の胸中はいかばかりであっただろうか。

信仰への回帰と静かな最期

しかし、この社会的な死ともいえる流罪は、皮肉にも茂勝に精神的な救済をもたらした。イエズス会の記録によれば、改易後、茂勝は自らが犯した過ちを深く悔い、司祭のもとを訪れて罪を告白(告解)したという 6 。そして、それまでの大名としての栄華や、彼を狂気へと追いやったであろう快楽や葛藤と決別し、一人の敬虔なキリシタンの女性と共に静かに暮らしたと伝えられている 6

大名という地位は、彼に富と権力をもたらす一方で、棄教の圧力や幕府との政治的緊張という、信仰とは相容れない重圧を課し続けた。改易と流罪によって、彼はそれら世俗的な権力、責任、そして葛藤の全てから解放されたのである。その結果、彼は青年期に抱いた純粋な信仰心と再び向き合う時間と心の平穏を得ることができた。

元和7年(1621年)、前田茂勝は配流先の隠岐で、40年の波乱に満ちた生涯を閉じた 6 。彼にとって改易は、社会的な破滅であったと同時に、魂の救済に至る道程であったのかもしれない。権力と信仰の相克の果てに、全てを失った地で自らの信仰を取り戻し、穏やかな最期を迎えた彼の人生は、一つの悲劇的な救いの形を提示している。

結論:歴史の狭間に埋もれた悲劇の再評価

前田茂勝の生涯は、「狂気の殿様」という単純なレッテルで語られ、歴史の片隅に追いやられてきた。しかし、その生涯を丹念に追うことで、近世初期日本の政治、宗教、そして個人の内面が複雑に絡み合った、一人の人間の普遍的な悲劇が浮かび上がってくる。

第一に、茂勝は時代の転換期の犠牲者であった。彼の人生は、豊臣から徳川へという日本の権力構造が再編される過渡期と完全に重なる。父・玄以が築いた豊臣政権下での栄光は、徳川の世においてはむしろ危険な出自を意味した。「豊臣恩顧」と「キリシタン」という、徳川幕府にとって二重に警戒すべき属性を帯びていたことが、彼の運命を決定づけたのである。彼の改易は、徳川幕藩体制がその支配を盤石にする過程で、旧体制に連なる者たちを淘汰していった冷徹な現実を象徴している。

第二に、彼の悲劇の核心は、個人的な信仰と、大名という公的な立場との間に生じた深刻な乖離にあった。父・玄以のような、信仰さえも政治の駒として利用できる冷徹な現実主義を持ち合わせなかった茂勝の純粋さ、あるいは精神的な脆さは、時代の荒波を乗り切るにはあまりにも無防備であった。神への絶対的な忠誠を誓う信仰と、主君(ひいては幕府)への絶対的な服従を求める封建社会の論理との間で、彼は引き裂かれ、破滅へと追いやられた。

最後に、前田茂勝のような歴史の敗者、あるいは忘却された人物の生涯を再検証することの意義を強調したい。彼の物語は、勝者の視点から描かれがちな歴史の裏面を照らし出し、その多層性と複雑さを我々に教えてくれる。丹波篠山市の八上城跡には、今も茂勝を供養するためのものと伝えられる石塔がひっそりと佇んでいる 28 。それは、時代の奔流に翻弄されながらも、最後まで自らの信仰に殉じようとした一人のキリシタン大名の、声なき証言者として、静かにその悲劇を現代に伝えているのである。

引用文献

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  31. 駿府キリシタンの光と影 - 岡本大八事件とキリシタン弾圧 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/06_02.htm
  32. 徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/ieyasu-achieved
  33. 天空の戦国夢ロマン丹波篠山国衆の山城を訪ねて https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/75/sengokuransenomichi.pdf
  34. 平成20年度 - 兵庫県立丹波の森公苑 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h20tnb.pdf
  35. 堀尾吉晴公共同研究会 報告書 - 大口町 https://www.town.oguchi.lg.jp/secure/13123/katsudoukiroku.pdf
  36. 隠岐の歴史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2