加藤嘉明は、永禄6年(1563年)に三河国に生を受け、戦国時代の激動を駆け抜け、江戸時代初期に大名としてその名を刻んだ武将である 1 。豊臣秀吉に見出されてその家臣となり、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武勇を轟かせた 3 。その後、水軍の将としても才覚を発揮し、文禄・慶長の役では朝鮮半島に渡海して数々の海戦で功績を挙げた 3 。秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して勝利に貢献、伊予松山藩20万石の初代藩主となった 4 。さらに後には陸奥会津藩40万石余の大封を得るに至るなど、その生涯は武功と栄進に彩られている 4 。
しかしながら、その輝かしい経歴とは裏腹に、嘉明の死後、子の明成の代で加藤家は改易の悲運に見舞われる 4 。これは、嘉明自身が築き上げたとも言える家風や、時代の変化に対応しきれなかった組織のあり方が影響した可能性も否定できない。彼の生涯は、実力主義が支配した戦国乱世を生き抜き、新たな泰平の世で大名としての地位を確立した武将の典型的な成功譚であると同時に、その後の家の盛衰という武家社会の厳しさをも物語っている。
本報告書では、加藤嘉明の出自から説き起こし、豊臣、徳川の両政権下における彼の武功、特に賤ヶ岳の戦いや文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いでの活躍を詳述する。さらに、伊予松山藩および会津藩における藩政、特筆すべき築城家としての側面、そして彼の人物像や家臣団、加藤家の改易の経緯、現代に残る史跡や関連史料に至るまで、現存する資料に基づき多角的にその実像に迫ることを目的とする。
嘉明の生涯を追うことは、織豊政権から徳川幕府へと移行する激動の時代において、一人の武将がいかにして自己の能力を発揮し、時勢を読み、そして新たな支配体制の中で地位を築いていったかを探る上で、貴重な示唆を与えてくれるであろう。彼の決断や行動の背景には、単なる武勇に留まらない、時代を見据えた鋭い洞察力や現実的な判断が存在したことが窺える。特に、豊臣恩顧の大名でありながら、秀吉没後は速やかに家康に与し、関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に貢献した事実は、彼が豊臣家への旧恩と新たな時代への適応という、ある種の緊張関係の中で巧みな政治的判断を下していたことを示唆している 3 。
加藤嘉明は、永禄6年(1563年)元旦、三河国幡豆郡長良郷(現在の愛知県西尾市)、あるいは岩根郷に生まれたと伝えられる 1 。幼名は孫六と称し、後に諱を房次、茂勝、そして嘉明と改めた 2 。
その出自は、甲斐国から三河国に移り住んだ岸氏に遡る。父は岸三之丞教明(きしのりあき)といい、三河一向一揆の際に一揆方として徳川家康と敵対し、敗北を喫した過去を持つ 4 。教明はその後、羽柴秀吉に仕えるにあたり、加藤姓を名乗ったとされる。この改姓の経緯については、加藤光泰の父である貞泰の猶子となり、その推挙を得たためという説が伝えられている 4 。この「加藤」姓の選択は、単なる偶然ではなく、当時の武家社会における有力者との関係構築の重要性を鑑みた戦略的な判断であった可能性も考えられる。岸姓のままでは、父の三河での過去が将来の障害となることを予見し、有力な加藤氏との縁組を通じて新たな立身の道を開こうとしたのかもしれない。
嘉明は少年期に父に従って近江国へ移り、そこで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に見出され、その小姓として仕えることとなった 2 。一説には、秀吉の養子であった羽柴秀勝の小姓として取り立てられた後、秀吉の直臣になったとも言われている 3 。天正3年(1575年)には早くも知行三百石を得ており、翌天正4年(1576年)の播磨征伐以降は、秀吉の側近としてその股肱の臣となった 2 。父がかつて徳川家康と敵対したという事実は、嘉明の初期の経歴において、ある種の制約や困難をもたらした可能性も否定できない。しかし、そのような逆境を乗り越え、実力で秀吉の信頼を勝ち得ていった過程は、彼の不屈の精神と上昇志向を物語っていると言えよう。
羽柴秀吉の直臣となった加藤嘉明は、その類稀なる武才と忠誠心によって、豊臣政権下で目覚ましい躍進を遂げる。
天正11年(1583年)、織田信長亡き後の覇権を巡る賤ヶ岳の戦いにおいて、嘉明は羽柴軍の一翼を担い、目覚ましい武功を挙げた 3 。この戦いでの勇猛果敢な働きにより、福島正則、加藤清正らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、その武名は天下に轟いた 3 。具体的な戦功として、柴田勝家方の佐久間盛政の家臣である宿屋七左衛門と一騎打ちの末に勝利を収めたと伝えられるが 3 、特定の敵将の首級を挙げたという明確な記録は残されていない 9 。しかし、秀吉から一番槍の感状と共に3000石の所領を与えられた事実は、彼の戦功がいかに高く評価されたかを如実に物語っている 3 。
賤ヶ岳での武功を皮切りに、嘉明は豊臣政権の主要な戦役において重要な役割を担うようになる。特に水軍の将としての才覚は秀吉に高く評価され、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐では水軍を率いて活躍した 3 。この経験は、後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、彼が水軍指揮官として大任を果たすための布石となった。陸戦での勇将から水軍の将へとその役割を広げ、いずれの分野でも功績を挙げたことは、嘉明の多才さと高い適応能力を示すものである。秀吉が彼を水軍の将に抜擢した背景には、単なる武勇への信頼だけでなく、その統率力や戦略眼に対する深い洞察があったと考えられる。
文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では、嘉明は水軍の主力として朝鮮半島に渡海し、数々の激戦を経験した 3 。文禄の役においては、安骨浦(アンゴルポ)の海戦で朝鮮水軍の名将・李舜臣(イ・スンシン)の前に苦杯を喫することもあったが 5 、慶長の役では戦局を転換させる大きな戦功を挙げる。慶長2年(1597年)の漆川梁(チルチョンニャン)海戦では、藤堂高虎、脇坂安治らと巧みに連携し、元均(ウォン・ギュン)率いる朝鮮水軍主力を壊滅させるという大勝利を収めた 5 。これらの目覚ましい活躍により、嘉明は秀吉から再び感状を受け、伊予国正木(松前)6万石から10万石余の大名へと加増されるに至った 3 。
豊臣政権末期、嘉明は武断派の有力武将として、石田三成ら文治派の吏僚としばしば対立したと伝えられている 3 。この対立は、単なる個人的な感情のもつれに留まらず、豊臣政権内部の権力構造や政策方針における路線対立の現れであった。朝鮮出兵における戦功評価や恩賞を巡る不満が、三成ら吏僚への反感を増幅させ、同じく武功を重んじる徳川家康への接近を促す一因となったと考えられる。この武断派としての立場が、秀吉死後の政局において、嘉明が家康方に与する大きな要因となったことは想像に難くない。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心に大きく動き始める。武断派の重鎮であった加藤嘉明は、石田三成らとの対立もあって早くから家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、迷うことなく東軍に馳せ参じた 3 。
関ヶ原の本戦において、嘉明は東軍の先鋒の一角を担い、黒田長政、細川忠興らと共に石田三成の本隊と激しく衝突したと記録されている 12 。『黒田家譜』によれば、東軍先陣の右翼に布陣し、奮戦した 12 。嘉明が本戦で活躍する一方、彼の本領である伊予国では、もう一つの戦いが繰り広げられていた。嘉明の留守を狙い、毛利輝元の支援を受けた河野氏の旧臣らが三津浜(現在の松山市三津)に上陸したのである。しかし、城代として松前城を守っていた嘉明の家老・佃十成らは、寡兵ながらも巧みな夜襲を敢行し、油断していた毛利勢を撃破した(三津浜夜襲) 14 。この戦いで佃十成は毛利方の勇将・村上元吉を討ち取るなど目覚ましい働きを見せ、嘉明の本領を守り抜いた 14 。この三津浜での勝利は、嘉明が後顧の憂いなく関ヶ原での戦功に集中できる環境を整えた点で、戦略的に極めて大きな意味を持ったと言えよう。
関ヶ原での東軍勝利の結果、嘉明はその戦功を高く評価され、従来の伊予松前10万石から倍増となる20万石を与えられ、伊予松山藩の初代藩主となった 4 。これを機に、嘉明は新たな領国経営と城郭建設に乗り出す。
伊予松山藩主としての嘉明は、単に武勇に優れただけの武将ではなかった。領内の安定と発展のため、様々な内政手腕を発揮した。特に、重臣の足立重信を普請奉行に任じ、大規模な治水事業に着手したことは特筆に値する 2 。当時、松山平野を流れる伊予川(現在の重信川)や湯山川(現在の石手川)は頻繁に氾濫を繰り返し、領民を苦しめていた。嘉明はこれらの河川改修を行い、流路を安定させることで水害を防ぐと共に、広大な新田(約300ヘクタール)を開発し、灌漑設備を整備することで農業生産力を飛躍的に向上させた 2 。
また、新たな城下町の建設にも情熱を注いだ。勝山(現在の松山城所在地)の麓に「堀之内」と呼ばれる武家屋敷街を整備し、その北西部には商家町を計画的に配置した 2 。靍屋町、松屋町、亀屋町、竹屋町といった町名は現在にも残り、その町割りは30町にも及んだという。うち20町は嘉明自身が縄張りを行い、残る10町は家老の佃十成が担当したと伝えられている 2 。
そして、嘉明の伊予松山藩主時代における最大の事業は、慶長7年(1602年)から開始された松山城の築城である 4 。それまでの居城であった松前城は、伊予灘に面し風波の影響を受けやすく、また20万石の大名の居城としては手狭であったため、松山平野の中央に位置する勝山が新たな築城地として選ばれた 2 。築城にあたっては、まず前述の湯山川の流路変更という大規模な土木工事が行われ、城下町の安全と発展の基盤が築かれた 2 。
松山城は、標高約132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹から山麓にかけて二之丸、三之丸を配した壮大な平山城である 2 。その縄張りは極めて実践的かつ堅固であり、特に朝鮮出兵の際に倭城で用いられた防御手法である「登り石垣」を巧みに取り入れている点は注目に値する 19 。これは、山腹を登ってくる敵の側面を攻撃するための石垣であり、松山城のものは国内最大級の規模を誇る。嘉明が朝鮮での実戦経験で得た最新の築城技術や防衛思想を、自身の居城建設に積極的に導入した証左であり、彼が単なる勇将ではなく、戦訓を学び応用する能力に長けた戦略家であったことを示している。天守は複数の櫓と渡櫓で連結された連立式天守であり、城攻めの経験豊富な嘉明ならではの、難攻不落を目指した構造であった 19 。この壮大な築城事業においても、足立重信は普請奉行として設計から資材運搬の工夫(瓦をリレー式に運ばせるなど)に至るまで、中心的な役割を果たした 2 。
以下に、加藤嘉明の知行変遷をまとめた表を示す。これは、彼の生涯における重要な転機と、それに伴う石高の増加、すなわち武功や政治的地位の向上を具体的に示している。
時期 |
役職・出来事 |
石高 |
主な領地 |
典拠 |
天正3年(1575年) |
羽柴秀勝小姓(または秀吉直臣)として知行を得る |
300石 |
(不明) |
7 |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦いの功 |
3,000石 |
近江・山城・河内・播磨の内 |
7 |
天正14年(1586年) |
四国征伐の功 |
15,000石 |
淡路国三原郡・津名郡内 |
7 |
文禄4年(1595年) |
文禄の役の功など |
60,000石 |
伊予国松前 |
4 |
慶長3年(1598年)頃 |
慶長の役の功 |
100,000石 |
伊予国松前 |
3 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いの功 |
200,000石 |
伊予国松山 |
4 |
寛永4年(1627年) |
会津へ転封 |
435,500石 |
陸奥国会津 |
4 |
この表からも明らかなように、加藤嘉明は一介の小姓から身を起こし、数々の戦功と巧みな政治判断によって、最終的には40万石を超える大大名へと昇り詰めた、戦国時代を代表する立身出世の武将の一人であったと言える。
伊予松山において20万石の領主として確固たる地位を築いた加藤嘉明であったが、その武勇と実績は徳川幕府からも高く評価されていた。寛永4年(1627年)、嘉明は伊予松山から陸奥会津40万石(一説には43万5500石)へと、大幅な加増を伴う転封を命じられた 4 。これは、当時改易となった蒲生氏の後任として、東北地方の要衝である会津の統治を任されたものであり、幕府の嘉明に対する深い信頼の証であった。特に、仙台藩の伊達政宗をはじめとする有力外様大名が割拠する東北において、会津は江戸幕府にとって戦略的に極めて重要な拠点であり、その抑えとして嘉明の武威と忠誠心が期待されたのである 4 。嘉明は、三代将軍徳川家光の介添え役を務めるなど、幕府中枢との関係も良好であったことが、この大抜擢に繋がったと考えられる 4 。
会津藩主となった嘉明は、伊予松山で培った領国経営の手腕を新天地でも発揮しようとした。会津若松城(鶴ヶ城)に入ると、領内の道路網や交通の整備、そして蠟(ろう)や漆、漆器といった地場産業の育成にも努めたと伝えられている 2 。しかし、会津における嘉明の治世は、伊予松山に比べて具体的な記録が乏しく、その詳細な藩政改革や成果については不明な点が多い 22 。これは、会津での在任期間が約4年と比較的短かったことや、その後の加藤家の改易によって関連史料が散逸した可能性などが考えられる。
会津における嘉明の大きな事績の一つに、会津若松城の大規模な改修が挙げられる。当時、地震によって天守が傾くなど損傷を受けていた若松城の修築に嘉明は着手し、その事業は息子の明成の代に引き継がれ、新たな天守の完成と共に城郭全体に大規模な改修が施された 24 。現在の壮大な鶴ヶ城の姿は、この加藤氏父子による改修の賜物であると言われている 25 。
しかし、会津での新たな統治が軌道に乗り始めた矢先、嘉明は病に倒れる。寛永8年(1631年)9月12日(旧暦)、江戸桜田の藩邸にて、69年の生涯を閉じた 1 。法名は松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門。遺体は麻布の善福寺で荼毘に付され、その遺骨は京都の東本願寺大谷祖廟に葬られた 27 。後に法名は東本願寺法主・琢如によって三明院道誉宣興と改められている 27 。また、伊予市灘町にある光明寺には加藤嘉明の墓碑と伝えられるものがあるが、これは嘉明の舎弟である唯明が開基した寺院であり、嘉明本人の墓所であるかについては慎重な検討が必要である 28 。
加藤嘉明の人物像は、史料や逸話を通じて多角的に浮かび上がってくる。その中核を成すのは、戦国武将らしい剛毅さと実直さ、そして主君に対する律義さであろう 4 。一方で、些事にはこだわらないさっぱりとした気性の持ち主であったとも伝えられている 29 。
彼の度量の大きさを示す逸話として、関ヶ原の戦いの直前、自陣に忍び込んだ間者を捕らえた際、その者の主君への忠義を認め、「その忠勇は賞賛に値する。我が備えに落ち度がなければ、彼がいくら窺おうとも恐るるに足らず。命を助けてやれ」と命じたという話が残っている 1 。また、ある時、家臣が誤って火中に落とした火箸を、嘉明は素手で拾い上げ、顔色一つ変えずに静かに灰の中に突き立てたという逸話もあり、その冷静沈着さと剛胆さを物語っている 27 。
しかし、その剛直さは、時に周囲との軋轢を生むこともあったようだ。「家風」として、嘉明一代で築き上げられた彼の考え方や行動様式は、同僚や家臣との衝突も辞さないという側面を持っていた。これが、息子の明成の代になると、家臣団との深刻な対立を招き、結果として加藤家改易の一因となった可能性も指摘されている 4 。嘉明の時代には武勇の証とされたかもしれない行動様式が、泰平の世に移り、当主の器量が異なる状況下では、組織運営上の致命的な欠陥となったのかもしれない。
築城家としての嘉明の評価は極めて高い。伊予松山城の築城 17 や会津若松城の改修 24 に見られるように、彼は実践的で堅固な城郭を構築する卓越した技術と構想力を持っていた。特に松山城の複雑巧緻な縄張りや、朝鮮出兵の経験を活かした「登り石垣」の導入は、彼の先進性と戦略眼を示すものとして高く評価されている 19 。
信仰面については、特定の宗派を熱心に信仰したという直接的な史料は多くない。伊予市灘町の光明寺は、嘉明の舎弟である唯明が開基した真宗本願寺派の寺院である 28 。また、嘉明の遺骨は京都の東本願寺大谷祖廟に葬られていることから 27 、浄土真宗との縁が深かった可能性が考えられる。滋賀県長浜市には嘉明を祀る嘉明霊社(藤栄神社)も現存する 30 。京都桂離宮の松琴亭前に架けられた石橋を寄進したという逸話もあり 5 、武骨な一面だけでなく、文化的な素養も持ち合わせていたことが窺える。
総じて加藤嘉明は、賤ヶ岳の勇将、水軍の将としての武勇が際立つ一方で、伊予松山での治水事業や城下町建設、会津での産業育成など、内政面でも優れた手腕を発揮した、武辺と内政のバランス感覚に優れた大名であったと言える。彼の多面的な能力と、時代を読み解き適応していく力こそが、彼を戦国乱世から江戸初期にかけての成功へと導いた原動力であったと考えられる。
加藤嘉明の生涯を支え、またその後の加藤家の運命に深く関わった家族と家臣団について詳述する。
父:岸教明(きしのりあき)
三河国の出身で、元は岸姓を名乗っていた 4。三河一向一揆の際に一揆方として徳川家康と戦い敗れた後、羽柴秀吉に仕える際に加藤姓に改めたとされる 4。
正室:堀部氏、子女
嘉明の正室は、堀部市右衛門の娘と伝えられている 27。彼女との間には、以下の子女が生まれた。
主要家臣
加藤嘉明の躍進と領国経営を支えた主要な家臣たちを以下に挙げる。彼らの多様な才能と忠誠心が、加藤家の興隆に大きく貢献した。
家臣名 |
出自・特記事項 |
主な功績・逸話 |
典拠 |
佃十成(つくだ なりしげ/じゅうせい) |
三河出身。元徳川家臣。後に嘉明に仕え筆頭家老。 |
関ヶ原の戦い時、伊予松前城代として三津浜夜襲を指揮し毛利勢を撃退。松山城下の町割も担当。 |
14 |
足立重信(あだち しげのぶ) |
美濃出身。内政手腕に長ける。 |
伊予松山城築城の普請奉行。石手川・重信川の治水工事、城郭設計、資材運搬指揮など、松山建設の中心人物。「なきがらを城の見える所に」との遺言を残す。 |
17 |
石川隆次(いしかわ たかつぐ) |
詳細不明。 |
関ヶ原の戦いの際、岐阜城攻めに嘉明と共に参加。 |
13 |
藪与左衛門(やぶ よざえもん) |
詳細不明。茶湯者。 |
朝鮮出兵に従軍。後に秋田家に仕えるが一代で去る。子・市郎左衛門が秋田家に仕官。 |
27 |
塙団右衛門(ばんば だんえもん/なおゆき) |
元嘉明家臣。勇猛果敢な武将。 |
関ヶ原の戦いで軍令違反を咎められ出奔。後に大坂の陣で豊臣方として活躍し討死。嘉明は彼を「奉公構」にしたという。 |
27 |
黒田九兵衛直次(くろだ くへえ なおつぐ) |
詳細不明。鉄砲隊・水軍指揮に長ける。 |
朝鮮出兵、小田原攻めで戦功。関ヶ原の戦いの際、松山防衛にあたり三津浜で毛利軍と戦い戦死。 |
27 |
これらの家臣たちは、それぞれ異なる背景や能力を持ちながらも、嘉明の下でその力を発揮した。佃十成のように徳川家を出奔した経歴を持つ者や、塙団右衛門のように後に他家でその名を轟かせる個性的な武将、足立重信のような卓越した内政官僚など、多様な人材を登用し、彼らを統率した嘉明の器量の大きさが窺える。
加藤家の改易:明成の代における経緯と理由
輝かしい武功を重ね、大大名へと昇り詰めた加藤嘉明であったが、その死後、加藤家は急速に衰退の道を辿る。嫡男・明成が会津40万石余を相続したものの、彼の藩政運営は多くの問題を引き起こした。特に、先代からの功臣である堀主水ら重臣との対立は深刻化し、「会津騒動」と呼ばれるお家騒動へと発展した 6。
堀主水とその一派が藩を出奔するという事件が起こり、明成はこれを追討しようとした。この藩内における私闘は江戸幕府の知るところとなり、幕府の介入を招く結果となった 32 。寛永20年(1643年)、幕府は加藤家に対して改易という厳しい処分を下した 6 。
改易の直接的な理由としては、明成自身が「病気のため藩政を執ることは困難であり、また大藩を治める任には堪えられないため、所領を返上したい」と幕府に申し出たこと 32 、そして会津騒動の責任を問われたことなどが挙げられる 40 。幕府は、嘉明のこれまでの功績に免じて、明成の庶子である明友に家督を継がせて家名を存続させようとしたが、明成がこれを頑なに拒否したため、一旦は改易となった。その後、明友に近江国水口藩1万石(後に2万石に加増)が新たに与えられる形で、加藤家の名跡は辛うじて保たれた 32 。
嘉明が一代で築き上げた剛直な「家風」が、息子の明成の代では、その器量の問題も相まって、家臣団との深刻な軋轢を生み、結果として家の没落を招いたという見方もできる。父の成功体験や強烈な個性が、必ずしも後継者にとって良い影響を与えるとは限らないという、武家の存続の難しさを示す事例と言えよう。
加藤嘉明の生涯と事績を今に伝える史跡や遺物、そして関連史料は、彼の歴史的評価を考察する上で不可欠なものである。
家紋:下り藤(さがりふじ)
加藤嘉明の家紋は「下り藤」または「下がり藤」として知られている 1。より詳細には、軸の形状が一般的な「下り藤」とは異なり、あたかも「上り藤」を逆さにしたような独特の意匠を持つ「下り藤(2)」と呼ばれるものであるとされている 41。藤紋は、その生命力の強さや繁殖力の高さから吉祥の象徴とされ、多くの武家で用いられた家紋である 41。嘉明がこの特殊な形状の藤紋を用いた背景には、単に家系を示す以上の、彼自身の信条や願いが込められていた可能性も考えられる。
銅像
伊予松山藩の初代藩主としての功績を称え、松山市内には加藤嘉明の騎馬像が建立されている。主な設置場所としては、松山城の東雲口登城道入口付近 17 や、松山城ロープウェイ乗り場の北側、東雲神社の手前などが挙げられる 43。これらの銅像は、勇壮な嘉明の姿を今に伝えている。
ゆかりの武具・書状
加藤嘉明ゆかりの武具や書状も現存しており、その一部は博物館などに所蔵されている。愛媛県歴史文化博物館には、加藤嘉明の肖像(写真展示)のほか、豊臣秀吉が嘉明に宛てた朱印状(慶長3年1月17日付、同年5月3日付など)、そして嘉明自身が小出氏、朝倉氏、片桐氏、金地院などに宛てた書状が収蔵されている 44。これらの書状は、当時の嘉明の動向や他の武将・寺社との関係性を知る上で貴重な一次史料である。その他の甲冑や槍などの武具に関する具体的な所蔵情報は、今回の調査資料からは限定的であった 45。
「加藤嘉明軍功記」などの関連史料と研究状況
「加藤嘉明軍功記」という名の特定の史料に関する詳細な内容や所蔵情報については、今回の資料群からは明確に特定することはできなかった 13。しかし、加藤嘉明に関する史料研究は現在も進められている。特筆すべきは、東京大学史料編纂所において、加藤嘉明関係文書、特に彼が発給した文書を中心とした総合的な研究プロジェクトが進行中であることである 48。この研究の過程で、一時行方不明となっていた徳島城博物館所蔵の嘉明関係史料が再発見されるなど、重要な成果が上がっている 48。このような史料の再発見や研究の深化は、これまで不明であった嘉明の行動や思想、他の人物との関係性などを明らかにし、彼の歴史的評価をより深める上で大きな意義を持つ。今後の研究によって、嘉明に関する新たな事実が解明されることが大いに期待される。
加藤嘉明は、戦国時代の動乱期から江戸時代初期の泰平の世へと移行する激動の時代において、武勇と才覚をもって身を立て、大大名へと昇り詰めた傑出した武将であった。その生涯を総括すると、いくつかの重要な側面が浮かび上がる。
第一に、賤ヶ岳の戦いにおける「七本槍」随一の勇名に始まり、文禄・慶長の役では水軍指揮官として朝鮮水軍を破るなど、戦場における卓越した武功は疑いようがない 3 。第二に、関ヶ原の戦いにおいては、時勢を的確に読み東軍に与して勝利に貢献し、その後の政治的地位を確固たるものとした判断力も特筆すべきである 4 。第三に、伊予松山藩主として、あるいは会津藩主として、城郭の築造や改修、城下町の整備、治水事業、産業振興など、領国経営においても非凡な才能を発揮した 2 。特に、彼が築いた伊予松山城は、その壮大さと堅固な縄張りにおいて、近世城郭の傑作の一つとして今日までその姿を伝え、松山市のシンボルとなっている 17 。また、会津若松城の改修も、その後の城郭の発展に大きな影響を与えた 24 。
嘉明の生涯を貫くのは、状況に応じて求められる能力を的確に発揮し、着実に結果を残してきた高い適応能力である。陸戦の勇将から水軍の指揮官へ、そして大規模な城郭の築城家、さらには数十万石を領する大名としての統治者へと、その役割は多岐にわたる。これは、彼が自己変革を厭わず、常に学び続ける姿勢を持ち合わせていたことを示唆している。
しかしながら、その一方で、彼が築き上げたとされる剛直な「家風」は、子の明成の代において家臣団との深刻な対立を招き、結果として加藤家の改易という悲劇的な結末を迎える一因となった 4 。これは、創業者の強烈な個性や成功体験が、時代の変化や後継者の資質によっては、組織の持続可能性を脅かす要因となり得ることを示す教訓と言える。松山城やその城下町という物理的な「遺産」は、今日までその恩恵を地域社会に与え続けているが、「家風」という無形の遺産は、負の側面が露呈する結果となった。
近年の東京大学史料編纂所などによる史料研究の進展は、加藤嘉明に関する新たな事実の発見や、より詳細な人物像の再構築に繋がる可能性を秘めている 48 。今後、これらの研究成果が公になることで、加藤嘉明の歴史的評価はさらに多角的かつ深みを増していくことが期待される。
総じて、加藤嘉明は、戦国乱世を生き抜いた武勇と、新たな時代を切り開いた統治能力を兼ね備えた、近世初期を代表する大名の一人として、その名を歴史に刻んでいると言えよう。