日本の戦国史にその名を刻む武将は数多いるが、その多くは勝者として、あるいは悲劇の英雄として、華々しい物語とともに語り継がれてきた。しかし、歴史の奔流の中に埋もれ、断片的な記録の中にのみその存在を留める者も少なくない。加藤政貞(かとう まささだ)もまた、そうした歴史の狭間に消えた武将の一人である。
彼について語られる時、その経歴はごく簡潔にまとめられることが多い。「尼子家臣、尼子清久の子。尼子家滅亡後、尼子勝久が率いる尼子再興軍に呼応。布部山合戦に敗れて出雲を追われ、播磨国上月城で毛利家の大軍に包囲されて自害した」 1 。この記述は彼の生涯の結末を正確に捉えてはいるが、その背後にある複雑な血脈の葛藤、改姓の謎、そして大国間の戦略に翻弄された一人の武将の苦悩を語るにはあまりにも不十分である。
彼は、山陰に覇を唱えた「雲州の狼」尼子経久の血を引く名門の出身でありながら、なぜ尼子を名乗らず、「加藤」としてその生涯を終えなければならなかったのか。彼の人生は、主家への揺るぎない忠義の物語だったのか、それとも、生まれながらに背負わされた「反逆者の孫」という烙印から逃れようともがいた、一個人の悲劇の物語だったのか。
本報告書は、現存する『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』といった軍記物語、断片的な一次史料、そして彼が最期を迎えた地に残る史跡を手がかりに、加藤政貞という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする 2 。彼の生きた時代背景を丹念に読み解くことで、歴史の片隅に追いやられた人物の輪郭を浮かび上がらせたい。
西暦(和暦) |
政貞の年齢(推定) |
加藤政貞と尼子一族の動向 |
毛利氏の動向 |
織田氏・羽柴秀吉の動向 |
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1497年(明応6年) |
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祖父・塩冶興久、生まれる 6 。 |
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1534年(天文3年) |
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塩冶興久、尼子経久に反乱を起こし敗死 6 。父・尼子清久は尼子姓に戻される 8 。 |
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1540年(天文9年) |
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尼子義久、生まれる 9 。 |
毛利元就、尼子晴久の吉田郡山城攻めを撃退(吉田郡山城の戦い) 10 。 |
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生年不詳 |
0歳 |
加藤政貞、尼子清久の子として誕生 1 。 |
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1554年(天文23年) |
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尼子晴久、叔父の尼子国久ら新宮党を粛清 10 。 |
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1560年(永禄3年) |
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尼子晴久が急死し、嫡男・義久が家督を相続 9 。 |
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1566年(永禄9年) |
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第二次月山富田城の戦いにて、尼子義久が毛利元就に降伏。戦国大名尼子氏が滅亡 10 。 |
毛利氏、出雲国を支配下に置く。 |
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1568年(永禄11年) |
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山中幸盛(鹿介)、京で尼子勝久を擁立 13 。 |
毛利軍、北九州の大友氏討伐を開始 13 。 |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
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1569年(永禄12年) |
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尼子再興軍、出雲へ侵攻し、一時は出雲国の大半を制圧 13 。 |
大内輝弘の乱が勃発。九州から軍を撤退 13 。 |
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1570年(永禄13年) |
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布部山の戦いで、尼子再興軍が毛利本隊に大敗。出雲から撤退を余儀なくされる 13 。 |
毛利輝元、尼子再興軍を鎮圧するため出雲へ出陣。 |
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1577年(天正5年) |
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加藤政貞 、尼子再興軍の一員として羽柴秀吉の与力となる。秀吉が播磨国上月城を攻略し、尼子衆が入城 1 。 |
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羽柴秀吉、信長の命により中国攻めを開始。 |
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1578年(天正6年) |
没年 |
4月-7月:上月城の戦い。毛利の大軍に包囲され、織田軍の援軍なく孤立。7月3日、尼子勝久らと共に自害して果てる 1 。 |
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吉川元春・小早川隆景ら3万余の軍勢で上月城を包囲 14 。 |
三木城の別所長治が離反(三木合戦)。秀吉は三木城攻略を優先し、上月城を放棄 14 。 |
加藤政貞の生涯を理解する上で、彼の出自、すなわち尼子一門という血脈が持つ栄光と悲劇の両面を避けて通ることはできない。彼は、戦国史にその名を轟かせた謀将・尼子経久の曾孫でありながら、同時に宗家への反逆者という汚名を着せられた祖父を持つという、相克する宿命を背負って生を受けたのである。
尼子氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家であり、近江国甲良荘尼子郷を名字の地とする一族である 18 。室町時代、宗家である京極氏が出雲守護を務める中で、尼子氏はその守護代として月山富田城(島根県安来市)を拠点とし、次第に力を蓄えていった 7 。
その勢力を飛躍的に拡大させたのが、政貞の曾祖父にあたる尼子経久である。経久は巧みな謀略と武威をもって主家である京極氏を凌駕し、出雲国を完全に掌握。さらには周辺諸国へと勢力を伸ばし、一時は「十一ヶ国太守」と称されるほどの広大な版図を築き上げた 10 。この経久の時代が、尼子氏の栄華の頂点であった。
一方で、政貞の祖父・塩冶興久が養子に入った塩冶氏は、同じく佐々木氏の血を引く出雲の名門であり、鎌倉時代を通じて出雲守護職を務めた家柄であった 8 。経久が三男の興久を、当時の塩冶氏当主・塩冶貞慶の養子として送り込んだのは、単なる縁組ではない。これは、出雲国内の有力な在地勢力である塩冶氏を尼子一門の支配体制に組み込み、その勢力を盤石なものにしようとする経久の深謀遠慮の現れであった 6 。こうして興久は、出雲西部における尼子勢力の要として、重要な役割を担うことになったのである。
尼子経久の支配体制は、しかし、盤石ではなかった。天文3年(1534年)頃、経久の実子でありながら塩冶家を継いだ塩冶興久が、父に対して反旗を翻すという衝撃的な事件が起こる 6 。この「塩冶興久の乱」は、加藤政貞の運命を決定づける「原罪」とも言うべき出来事であった。
反乱の直接的な原因は、経久による西出雲の権益掌握と、それに伴う塩冶氏への圧迫にあったとされる 25 。興久は、自らの支配下にある出雲大社や、尼子氏の支配に不満を持つ西出雲・南出雲の国人衆を糾合し、大規模な反乱へと踏み切った 26 。これは単なる一族内の内訌ではなく、尼子氏の強権的な支配に対する在地勢力の反発が決壊したものであり、その支配体制の脆弱性を白日の下に晒すものであった 27 。
反乱は、隣国の大内氏が尼子方につくなど、複雑な様相を呈したが、最終的には鎮圧され、興久は自害に追い込まれた 7 。この事件が尼子一族に与えた衝撃は計り知れない。宗家に対する反逆は、一族内に深刻な亀裂と拭い難い不信感を生んだ。興久の遺領の多くは、経久の次男で、精強な軍事集団「新宮党」を率いる尼子国久に与えられた 8 。この処置は、後の新宮党の増長と、それに続く当主・尼子晴久による粛清という、さらなる悲劇の遠因となった可能性も指摘されている 21 。
この祖父の反乱と敗死こそが、孫である政貞の生涯に暗い影を落とし続けることになる。もしこの事件がなければ、彼は「尼子」あるいは「塩冶」の名跡を継ぐ有力な一門衆として、全く異なる人生を歩んでいた可能性は極めて高い。しかし、彼は生まれた時から「反逆者の孫」という重い烙印を背負う宿命にあったのである。
祖父・興久の反乱は、その子、すなわち加藤政貞の父である尼子清久の人生をも大きく規定した。清久に関する史料は極めて乏しく、その業績はほとんど伝わっていない 1 。この「記録の欠如」こそが、彼が置かれた不遇な立場を雄弁に物語っている。
興久の死後、清久は塩冶姓から尼子姓に戻すことを許された 8 。これは、尼子一門への帰参を形式上は認められたことを意味する。しかし、その実態は大きく異なっていた。京都大学の研究論文によれば、『石山本願寺日記』には天文7年(1538年)の段階で清久が「エンや子息」と記され、『竹生島奉加帳』には「彦四郎殿 清久」と見えるものの、塩冶氏の家督を正式に継承していなかった可能性が高いと指摘されている 2 。
戦国時代において、当主の近親者、特に嫡男の動向が記録にほとんど残らないのは極めて異例である。これは、彼が「反逆者の子」として意図的に政治の中枢から排除され、歴史の表舞台からその存在を消されていたことを示唆している。彼は尼子一門として遇されることなく、いわば「存在しない」かのように扱われることで、その家系の政治的無力化が図られたのであろう。
この父・清久の不遇は、間違いなく息子の政貞に受け継がれた。政貞は、栄光ある尼子一門の血を引きながらも、常に一族の負の遺産と向き合わなければならなかった。父が歩んだ沈黙の生涯は、政貞の心にどのような影響を与えたのか。父の無念を晴らしたいという思いか、あるいは父と同じ道を歩むことへの恐れか。その内面を窺い知ることはできないが、彼のその後の人生、特に「加藤」への改姓という不可解な行動の背景に、この父の存在があったことは想像に難くない。
加藤政貞の生涯における最大の謎は、彼がなぜ尼子一門の血を引きながら「尼子」でも祖父の「塩冶」でもなく、「加藤」という全く縁のない姓を名乗ったのかという点である 1 。この改姓は、彼が置かれた苦しい立場と、時代の中で生き残りを図ろうとした彼の意志の表れと見ることができる。
直接的な原因は、祖父・塩冶興久の反乱にあることは間違いない 1 。宗家への反逆という汚名は、孫の代に至るまで重くのしかかった。「尼子」を名乗れば、常に一門内の監視と不信の目に晒される。「塩冶」を名乗れば、反逆の記憶を自ら呼び覚ますことになる。どちらの姓も、戦国の世を渡っていくにはあまりに重い足枷であった。
では、なぜ「加藤」だったのか。残念ながら、彼が加藤姓を名乗るに至った経緯を直接示す史料は現存しない。肥後熊本藩主となった加藤清正をはじめ、戦国時代には美濃や尾張を中心に藤原姓を称する加藤氏が多数存在するが 30 、政貞とこれらの加藤氏との間に何らかの縁戚関係があったことを示す証拠は見つかっていない。
考えられる可能性はいくつかある。一つは、母方の姓を名乗った、あるいは特定の加藤氏と婚姻関係を結び、その庇護下に入ったという可能性である。戦国時代、有力な家臣団は婚姻関係を通じて複雑なネットワークを形成しており、没落した家の者が縁戚を頼ることは珍しくなかった 33 。もう一つは、政治的な意図や過去との決別を込めて、全く無関係な姓を新たに名乗ったという可能性である。
この改姓は、単なる身の安全の確保という消極的な理由だけではなかったかもしれない。彼が活動した時期、尼子氏はすでに落日の時を迎えていた。宗家は毛利氏に降伏し、再興運動もまた、風前の灯火であった。「尼子」という姓は、輝かしい過去の象徴であると同時に、「滅びゆく者」の烙印でもあった。政貞は、「加藤」という新たな姓を名乗ることで、一族にまとわりつく滅びの宿命から逃れ、一個の武士として新たな人生を切り開こうとしたのではないだろうか。
しかし、皮肉なことに、彼はその生涯の最期において、再び「尼子」の旗の下に集い、尼子一門として死ぬ運命を選ぶ。この改姓という過去との決別の試みと、最終的に忠義に殉じた行動との間の矛盾こそが、彼の内面に渦巻いていたであろう葛藤、すなわち血の宿命から逃れたいという願いと、一族への断ちがたい忠誠心との間で揺れ動いた様を、何よりも雄弁に物語っている。
加藤政貞の生涯は、主家である尼子宗家の滅亡という激動の中で大きく揺れ動く。彼は一度は敗者として歴史の舞台から姿を消すが、やがて尼子再興という悲壮な戦いにその身を投じていくことになる。
永禄3年(1560年)に尼子氏の最大版図を築いた当主・晴久が急死すると、尼子家の勢威には翳りが見え始める 9 。家督を継いだ嫡男・義久は、新宮党粛清によって有力な一門衆を失い、かつて抑圧されてきた国人衆の不満が噴出するという困難な状況下で、西から勢力を拡大する毛利元就と対峙しなければならなかった 9 。
永禄8年(1565年)、元就は満を持して出雲への総攻撃を開始する(第二次月山富田城の戦い) 11 。毛利軍は月山富田城を完全に包囲し、兵糧攻めによって城内の士気を奪っていった。この絶望的な籠城戦に、加藤政貞も加わっていたと推測される。一年半以上にわたる抵抗も虚しく、永禄9年(1566年)11月、尼子義久はついに降伏を決断 10 。ここに、戦国大名としての尼子氏は一度、滅亡の時を迎えた。
主君・義久は毛利氏によって安芸国に幽閉され、多くの家臣は所領を失い、牢人として各地へ離散した 13 。政貞もまた、この時に義久に従い毛利方に降ったものと思われる 1 。主家の滅亡という屈辱的な体験は、彼の心に深く刻み込まれ、その後の人生を決定づける転機となったに違いない。
尼子家滅亡から2年後の永禄11年(1568年)、一人の男が立ち上がった。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で知られる、尼子家臣・山中幸盛(鹿介)である 10 。幸盛は、各地に離散した尼子遺臣を糾合し、京の東福寺で僧となっていた尼子誠久の遺児・孫四郎を還俗させて尼子勝久と名乗らせ、再興軍の総大将として擁立した 3 。
好機はすぐに訪れた。永禄12年(1569年)、毛利軍の主力が北九州で大友宗麟と対峙し、山陰地方の守りが手薄になった隙を突いて、尼子再興軍は出雲へと侵攻を開始する 13 。彼らの蜂起の報に、出雲国内に潜伏していた旧臣たちが続々と馳せ参じ、その軍勢は瞬く間に数千に膨れ上がった。再興軍は破竹の勢いで出雲国の大半を制圧し、一時は旧領回復の夢が現実のものになるかと思われた 13 。
加藤政貞が、どの時点でこの再興軍に合流したかを記す明確な史料はない。しかし、毛利氏の支配下で雌伏の時を過ごしていた彼が、尼子一門の勝久を大将とする再興軍の快進撃の報に接した時、眠っていた尼子の血が騒ぎ、参陣を決意したことは想像に難くない。それは、滅びた主家への忠義心からか、あるいは自らの不遇な境遇を打破するための賭けであったのか。いずれにせよ、彼は再び歴史の表舞台へと躍り出たのである。
尼子再興軍の快進撃は、しかし、長くは続かなかった。大友氏との戦いを切り上げ、九州から引き返してきた毛利本隊が、尼子再興軍の前に立ちはだかったのである。
永禄13年(1570年)2月、毛利輝元を総大将とし、吉川元春、小早川隆景という「毛利両川」が率いる2万を超える大軍が、尼子再興軍を鎮圧すべく出雲へと進軍した 13 。これに対し、山中幸盛らが率いる尼子再興軍は、兵力ではるかに劣る約7,000の兵で、月山富田城南方の要衝・布部山に陣を構え、決戦を挑んだ(布部山の戦い) 13 。
戦いは当初、地の利を得た尼子軍が優勢に進めた。山の上から鉄砲や弓矢で攻めかかる毛利軍を苦しめ、毛利方の将を討ち取るなど善戦した 13 。しかし、兵力で圧倒する毛利軍は、吉川元春の巧みな用兵により、尼子軍の側面を突く別動隊を派遣。この奇襲が成功し、尼子軍の陣立ては崩壊した。総崩れとなった尼子軍は多数の将兵を失い、惨敗を喫した 13 。
この布部山の敗戦は、尼子再興運動にとって致命的な打撃となった。再興軍は出雲の地から一掃され、総大将の勝久は隠岐へと脱出、幸盛らもまた、再起を期して落ち延びていった 13 。この戦いに加藤政貞が参加していたという直接的な記録はないが、尼子一門の主要人物として、この絶望的な戦場に身を置いていた可能性は極めて高い。出雲奪還の夢は、わずか半年あまりで潰え去ったのである。
布部山の敗戦により出雲を追われた尼子再興軍は、新たな活路を求めて西へ向かう。彼らが頼ったのは、毛利氏と敵対関係にあり、天下統一への道を突き進む織田信長であった。この選択は、加藤政貞を含む尼子残党に最後の活躍の場を与えると同時に、彼らを大国間の熾烈な争いの渦中へと引き込み、悲劇的な結末へと導くことになる。
織田信長にとって、毛利氏に激しい敵愾心を燃やす尼子再興軍は、中国攻めにおける格好の「先兵」であった。天正5年(1577年)、信長は中国方面軍の総大将に羽柴秀吉を任命。尼子勝久、山中幸盛、そして加藤政貞ら尼子再興軍は、秀吉の与力としてその指揮下に組み込まれた 1 。
秀吉は播磨へと進軍すると、播磨・美作・備前の三国国境に位置する軍事上の要衝・上月城を毛利方から攻略 38 。そして、この最前線の城の守りを、尼子再興軍に委ねたのである 14 。尼子衆にとって、上月城は再起を果たすための待望の拠点であった。しかしそれは同時に、織田と毛利という二大勢力が激突する緩衝地帯という、極めて危険な死地でもあった。
尼子再興軍が上月城に入って束の間、戦局は急変する。天正6年(1578年)3月、秀吉に臣従していたはずの東播磨の大勢力・三木城主の別所長治が、突如として織田方に反旗を翻し、毛利氏と結んだのである(三木合戦) 14 。
この別所氏の離反は、秀吉の中国攻略計画の根幹を揺るがす大事件であった。播磨の国人衆の多くが別所に同調し、秀吉軍は背後を突かれる形となった。秀吉にとって、交通の要衝であり、反織田勢力の一大拠点となった三木城の攻略は、上月城の防衛よりもはるかに優先度の高い戦略目標となった。
この機を逃さず、毛利方も動いた。吉川元春、小早川隆景、宇喜多忠家らが率いる3万を超える大軍を派遣し、上月城を完全に包囲したのである 14 。上月城に籠る尼子軍は、わずか2,300余。絶体絶命の状況に陥った秀吉は信長に救援を要請するが、信長が下した決断は非情なものであった。三木城の攻略を最優先とし、上月城を放棄せよ、という命令である 5 。
この決断は、戦国後期の新たな戦争の様相を象徴している。個々の武将の武勇や忠義よりも、方面軍全体の戦略目標と兵站の維持が優先される。信長と秀吉にとって、中国攻略という大局の前では、尼子再興軍は戦略的に切り捨て可能な「捨て駒」でしかなかった。加藤政貞たちの運命は、彼らの奮戦とは無関係に、遠く離れた三木城をめぐる戦略状況によって、すでに決定づけられていたのである。
織田の援軍という最後の望みを絶たれた加藤政貞と尼子再興軍は、上月城で孤立無援の籠城戦を強いられる。秀吉からの撤退命令を、なぜ彼らは拒否したのか。それは、ようやく手に入れた再興の拠点を手放すことへの抵抗であり、そして何よりも、ここで退くことは尼子武士としての誇りが許さない、という悲壮な決意の表れであったのだろう 40 。
10倍以上の兵力差がある毛利軍の猛攻に対し、尼子軍は約70日間にわたって懸命に抵抗を続けた 14 。しかし、兵糧は尽き、城兵は疲弊し、もはやこれまでであった。天正6年(1578年)7月3日、総大将の尼子勝久は、城兵の命と引き換えに城を明け渡すことを決断。実兄の尼子氏久ら一門の者たちと共に、静かに自刃して果てた 15 。
加藤政貞もまた、この時、主君・勝久に殉じた 1 。彼の名は、上月城で自害した尼子一門の一人として、軍記物に記されている 15 。山陰の名門・尼子氏再興の夢は、播磨の小城・上月城の露と消えた。それは、祖父の代から続いた一族の波乱に満ちた歴史の、あまりにも儚い終焉であった。
加藤政貞の生涯は、天正6年(1578年)の夏、播磨国上月城において、主君尼子勝久への殉死という形で幕を閉じた。彼の人生は、戦国乱世の非情さと、その中で翻弄されながらも自らの信義を貫こうとした一人の武将の姿を、我々に示している。
加藤政貞は、祖父・塩冶興久の反乱という、生まれながらにして背負った負の遺産と常に対峙し続けた武将であった 8 。主家の滅亡、流転、そして再興運動への参加という激動の生涯は、彼個人の意思を超えた、時代の大きなうねりに飲み込まれていく過程そのものであった。
一度は「加藤」と改姓し、尼子という血の宿命から逃れようとしたかのように見える 1 。しかし、最終的には尼子再興軍の中核として、尼子一門の将として最期を迎えた。この行動は、彼が自身のアイデンティティの根幹を、やはり「尼子」という血脈に置いていたことの証左であろう。彼の生涯は、過去からの脱却を目指しながらも、結局は自らのルーツから逃れることのできなかった、戦国武士の複雑な精神性を体現している。彼は、大国の論理に翻弄された悲劇の人物であると同時に、滅びゆく主家への忠義を貫いた、誇り高き武士であったと言えるだろう。
加藤政貞が最期の時を過ごした兵庫県佐用町の上月城跡は、現在、国の史跡として整備されている。城跡の麓には、尼子勝久や山中幸盛、そして政貞を含む尼子一族の戦没者を弔うための供養塔や追悼碑が建立されており、彼らの悲劇を今に伝えている 1 。また、麓にある上月歴史資料館では、上月合戦に関する展示が行われ、訪れる人々に当時の激戦の様子を解説している 45 。これらの物理的な記憶は、政貞という武将が確かにこの地で生き、そして死んでいったことを物語る、何より雄弁な史料である。
加藤政貞に関する記録の多くは、江戸時代に成立した『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』といった軍記物語に依拠している 2 。これらの書物は、史実と創作が混在しており、史料として扱うには慎重な批判が求められる。しかし、尼子再興軍の悲壮な戦いを情緒豊かに描き出し、山中幸盛という英雄とともに、加藤政貞のような人物の名を後世に伝えた功績は大きい。
特に、郷土史家・妹尾豊三郎氏が著し、近年ハーベスト出版から復刻された『尼子氏関連武将事典』では、主要な武将たちに加えて、補遺として加藤政貞が独立した項目で取り上げられている 4 。これは、彼が単なる無名の雑兵ではなく、尼子氏の歴史を語る上で記憶されるべき一門の将として、地元出雲・山陰地方において認識されていることを示している。
上月城で自害したため、加藤政貞に妻子がおり、その血脈が後世に繋がったという記録は確認できない 30 。彼の死は、祖父・塩冶興久から三代続いた波乱の家系の、完全な終焉を意味した。
尼子氏の嫡流もまた、同様の運命を辿る。毛利氏に降伏した尼子義久は、毛利家のもとで余生を送り、その血筋は長州藩士佐々木氏として江戸時代を生き延びた。しかし、この佐々木尼子家も継嗣なく絶家し、尼子経久から続く名門の血は、歴史の彼方へと消え去った 20 。
加藤政貞の物語は、歴史研究における「記録の非対称性」を我々に突きつける。勝者である毛利氏や織田氏の記録は豊富に残されているのに対し、敗者である尼子氏、とりわけその傍流に過ぎない政貞のような人物の記録は、極端に少ない。我々が知りうる彼の姿は、敵方の記録や後世の物語の断片を繋ぎ合わせ、歴史的想像力をもってその空白を埋めることによってのみ、かろうじて再構築される。彼の生涯を追うことは、歴史の勝者が残した記録の影に埋もれた、無数の「声なき声」に耳を澄ます試みそのものなのである。