最終更新日 2025-07-24

加藤明利

加藤明利は名将・嘉明の三男で二本松藩主。有能な統治者だったが、兄・明成の会津騒動に巻き込まれ急死。死後、兄への連座を理由に改易。武断政治の犠牲者として再評価されるべき。

加藤明利 ―偉大な父と暗愚な兄の狭間で、歴史に翻弄された悲劇の藩主―

序章:加藤明利、悲劇の藩主 ―偉大な父と暗愚な兄の狭間で―

戦国乱世を駆け抜け、豊臣秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた名将・加藤嘉明。その栄光を継ぐべき家に生まれながら、歴史の激流に飲み込まれ、不遇の最期を遂げた一人の大名がいた。その名は加藤明利。父・嘉明が築いた会津40万石の威光の下、陸奥国の要衝・二本松で3万石を領した藩主である。彼は二本松城の大規模な改修を手掛けるなど、統治者として確かな足跡を残した。しかし、その功績が正当に評価されることはなかった。兄である会津藩主・加藤明成が引き起こした未曾有のお家騒動「会津騒動」の渦に巻き込まれ、寛永18年(1641年)に43歳の若さで謎の多い死を遂げる。そしてその死から2年後、幕府は彼の所領を没収するという非情な裁定を下した。

本報告書は、この加藤明利という人物の生涯を、断片的な史実の背後にある政治的・社会的文脈から丹念に掘り起こし、その実像と悲劇の真相に迫るものである。彼の死は本当に「不審」だったのか。兄の事件への「連座」とは具体的に何を意味し、法的に正当なものであったのか。そして、なぜ当主の死後に改易という、江戸幕府の法秩序においても異例と言える処分が下されなければならなかったのか。これらの謎を解き明かすことは、単に一人の大名の生涯を追うに留まらず、徳川幕府初期の武断政治の本質と、その下で翻弄された外様大名の運命を浮き彫りにすることに繋がるであろう。

第一章:名将・加藤嘉明の三男として ―栄光と期待を背負った前半生―

加藤明利の生涯を理解するためには、まず彼がどのような出自を持ち、いかにして大名としてのキャリアを歩み始めたかを探る必要がある。偉大な父の存在と、確立期にあった徳川幕府との関係性は、彼の後の運命を規定する重要な要素であった。

1.1 生い立ちと初期の経歴

加藤明利は、慶長4年(1599年)、伊予国松山(現在の愛媛県松山市)にて、伊予松山藩主・加藤嘉明の三男(一部史料では次男)として生を受けた 1 。母は堀部氏の娘と伝わる 2 。父・嘉明は、豊臣秀吉の子飼いの武将として数々の武功を挙げたが、秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に貢献した 4 。これにより、豊臣恩顧の外様大名でありながら徳川政権下でその地位を安堵され、重用されるという、巧みな政治感覚を持った実力者であった 6

このような父の下に生まれた明利は、若くして江戸に送られ、二代将軍・徳川秀忠に直接仕えるという栄誉を得た 7 。これは、加藤家が徳川家に対して絶対的な忠誠を誓っていることを内外に示す、極めて重要な意味を持つ人事であった。外様大名、特に豊臣家と縁の深い大名が幕府から常に警戒の目で見られていた時代において、その子弟を将軍の側近くに置くことは、家の安泰を図るための最上の策の一つだったのである。この出仕は功を奏し、明利は元和2年(1616年)に18歳の若さで従五位下・民部少輔に叙任されるという、順調な門出を飾った 2 。この「徳川への近さ」は、明利に輝かしい未来を約束するように見えたが、同時に幕府からすれば加藤家は「取り込み済み」の存在であり、いざとなれば容赦なく切り捨てられる危険性を内包するものでもあった。

1.2 父・嘉明の会津転封と三春藩の立藩

明利の人生における最初の大きな転機は、寛永4年(1627年)に訪れた。この年、父・嘉明は伊予松山20万石から、陸奥国会津40万石へと倍増以上の大加増の上で転封を命じられたのである 1 。会津は、仙台藩の伊達政宗をはじめとする東北の有力外様大名を睨む、幕府にとって最重要の戦略拠点であった 4 。その地を、徳川譜代ではなく外様の嘉明に任せたという事実は、幕府が嘉明の能力と忠誠心をいかに高く評価していたかを物語っている。これは、強力な外様大名を以て他の外様大名を牽制するという、幕府の巧みな大名統制策の表れでもあった。

この会津への移封に伴い、当時29歳であった明利は、会津藩の支藩として陸奥国三春に3万石の所領を与えられ、初代三春藩主として独立した大名の列に加わった 1 。官位も民部大輔に進んでいる 2 。彼の三春藩は、本藩である会津藩を軍事的・政治的に補佐する「与力大名」としての役割を期待されていた 7 。ここに、加藤明利の藩主としての人生が幕を開けたのである。

表1:加藤明利 生涯年譜

年代(西暦)

年齢

出来事

関連史料

慶長4年(1599)

1歳

伊予国松山にて、加藤嘉明の三男として誕生。

1

元和2年(1616)

18歳

従五位下・民部少輔に叙任。徳川秀忠に出仕。

2

寛永4年(1627)

29歳

父・嘉明の会津転封に伴い、陸奥三春藩主(3万石)となる。民部大輔に転任。

1

寛永5年(1628)

30歳

陸奥二本松藩(3万石)に移封。

2

寛永8年(1631)

33歳

父・嘉明が死去。兄・明成が会津藩を継承。

2

寛永16年(1639)

41歳

会津藩で堀主水が出奔(会津騒動の激化)。

13

寛永18年(1641)

43歳

3月25日、二本松にて急死。

2

寛永20年(1643)

-

死後、二本松藩は改易。兄・明成も会津藩を改易される。

7

第二章:二本松藩主としての治世 ―築城家としての才覚と統治の実態―

藩主となった明利は、短い三春での治世を経て、二本松へと拠点を移す。そこで彼は、自身の最大の功績となる二本松城の大改修に着手し、統治者としての能力を発揮することになる。

2.1 三春から二本松へ

明利の三春藩主としての期間は、わずか1年半ほどであった 14 。寛永5年(1628年)、彼は二本松藩へと移封される 2 。これは、当時二本松を領していた松下長綱との領地交換という形で行われた 11 。松下長綱は明利の姉・星覚院の子、すなわち明利の甥にあたる人物であったが、当時まだ18歳と若年であった 11 。そのため、会津藩の支城としてより戦略的な重要性を持つ二本松の統治を、経験豊富な明利に委ねるという本藩および幕府の判断があったとされている 11 。この移封は、決して左遷などではなく、むしろ彼の能力が評価され、より重要な任地を与えられた栄転と解釈するのが妥当であろう。将軍への出仕経験を持ち、幕府中枢の事情にも通じている明利は、要衝の地を治めるにふさわしい人材と見なされていたのである。なお、三春では入部に際して新領主への反対一揆が発生したとの記録もあり 16 、短期間での移封の一因となった可能性も考えられるが、詳細は不明である。

2.2 近世城郭・二本松城の大改修

二本松藩主となった明利が、その治世において最も情熱を注ぎ、後世に形として残る最大の功績を挙げたのが、二本松城の大規模な改修事業であった。彼は着任後すぐに、蒲生氏時代に築かれた城郭の全面的な刷新に着手した 1

その計画は壮大かつ戦略的なものであった。まず、城の最高所にある本丸の石垣を再構築して拡張し、防御の中核を強化した 1 。続いて、中腹に位置する二ノ丸、三ノ丸の整備を進め、特に三ノ丸には見る者を圧倒するような高く堅固な石垣(高石垣)を築き上げた 1 。さらに、城の麓には武家屋敷を計画的に配置し、城下町と一体化した防御体制を構築した 1 。この一連の普請により、二本松城は単なる山城から、政治・軍事・経済の中心機能を備えた本格的な「近世城郭」へと生まれ変わったのである 1

この大事業は、明利が単なる殿様ではなく、優れた構想力と土木技術の知識、そしてそれを実行に移すだけの統率力と財政管理能力を兼ね備えた、有能な統治者であったことを雄弁に物語っている。しかし、この才覚の発露は、諸刃の剣でもあった。江戸幕府が制定した武家諸法度では、城の無断での新築や大規模な修繕は厳しく禁じられていた 18 。たとえ幕府の許可を得ていたとしても、外様大名がこれほど堅固な城塞を構築することは、幕府の潜在的な警戒心を刺激しかねない行為であった。明利の築城への情熱は、彼の能力の証明であると同時に、後に幕府が彼に疑いの目を向ける一因となった可能性は否定できない。

2.3 藩政と領民

13年間に及んだ二本松での治世において、明利は城の改修以外にも、藩政の基盤固めに着手した。彼は領内全域で検地を実施し、藩の財政収入の安定化を図った 9 。しかし、この検地は新しく開墾された田畑(新田)も厳しく課税対象としたため、農民にとっては負担の増加、すなわち重税につながったと記録されている 20 。これが原因で、領民が幕府の巡見使に窮状を訴えようとする動きもあったという 9

また、宗教政策においては、幕府の禁教令に忠実に従い、領内のキリシタンを厳しく取り締まった 9 。多くの信徒が捕縛され、改宗を迫られたと伝えられている。これは、当時の藩主として課せられた義務であり、幕府への恭順の意を示すための重要な政策であった。

一方で、明利は地域の伝統や文化にも配慮を見せている。寛永14年(1637年)には、二本松市木幡にある隠津島神社の山林を保護するための禁制を発布しており 9 、地域の信仰の対象を尊重する為政者としての一面も持っていた。

これらの藩政を総合的に評価すると、明利の統治は「暴政」と断じることはできない。検地の強化やキリシタン弾圧は、幕府の方針に沿ったものであり、当時の多くの藩で見られた標準的な政策であった。彼の治世は、江戸時代初期の藩主として、財政基盤の確立と幕府への忠誠という二つの課題に現実的に取り組んだ、堅実なものであったと言えるだろう。

第三章:本家・会津藩の動揺 ―会津騒動の勃発―

明利が二本松で堅実な藩政を進める一方、本家である会津藩では、彼の運命を暗転させる巨大な嵐が吹き荒れようとしていた。兄・加藤明成が引き起こしたお家騒動「会津騒動」である。この騒動は明利自身の物語ではないが、彼の悲劇的な結末を理解するためには避けて通れない、決定的な背景となる。

3.1 兄・明成の治政と人物像

寛永8年(1631年)、父・嘉明が死去すると、その家督と会津40万石の広大な領地は、長男である明成が相続した 2 。しかし、この二代目藩主は、後世の史料において「暴君」として極めて否定的に描かれている。『古今武家盛衰記』や『大日本野史』といった書物には、彼が「私欲深く、家臣の知行や民の年貢にまで利息をかけて取り立て、商人や職人にも不当な税を課したため、訴訟や喧嘩が絶えなかった」と記されている 10 。特に金銭への執着は異常であり、当時の金貨「一歩金」をもてあそぶのを好んだことから、その官名「式部少輔」と掛けて「加藤一歩殿」と揶揄されるほどであった 10

ただし、彼の治世は単なる悪政と断じられない側面も持つ。慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊し、傾いたままだった若松城の天守閣を、7層から5層へと改築して再建し 21 、猪苗代湖の水を会津盆地に引き込む大規模な用水路工事を行うなど、藩のインフラ整備に手腕を発揮した記録も残っている 10

これらの事実から浮かび上がるのは、明成が大規模な事業を推進するだけの力量を持ちながらも、その性格は剛毅で我(が)が強く 22 、他者の意見に耳を貸さない狭量な人物であったということである。この性格が、家臣団との致命的な対立を生む原因となった。

3.2 堀主水との対立激化

明成と最も激しく対立したのが、父・嘉明の代からの功臣で、藩の筆頭家老であった堀主水(ほり もんど)であった 13 。主水は戦国時代の気骨を色濃く残す武人であり、主君である明成の素行や悪政に対して、何度も諫言を行った 13 。しかし、明成はこれを疎んじ、両者の関係は次第に険悪なものとなっていった。

決定的な亀裂が生じたのは、ある日、主水の家臣と明成の直臣が喧嘩を起こした事件であった 10 。藩主の家臣と筆頭家老の家臣の争いとあって、奉行の権限では裁けず、明成による裁定が仰がれた。多くの者が明成の家臣に非があると考えていたにもかかわらず、明成は「非は主水の家臣にある」として一方的な裁きを下し、さらに主水本人にも連座として蟄居を命じたのである 10 。この理不尽な処置に激怒した主水は、蟄居を破って明成に直談判し、再度の裁断を求めたが、逆上した明成は主水を家老職から罷免するという暴挙に出た 13

3.3 幕府の介入と騒動の結末

寛永16年(1639年)4月、全ての職を解かれ、もはや加藤家に見切りをつけた堀主水は、実弟ら一族郎党を率いて、白昼堂々と会津若松城から立ち去るという前代未聞の行動に出た 13 。しかもその際、これまでの鬱憤を晴らすかのように、城に向かって鉄砲を撃ちかけ、関所を強引に突破するという暴挙を犯している 13

この報に接した明成は激怒し、執拗な追跡を開始する。高野山に逃れた主水の身柄引き渡しを要求し、それが叶わないと見るや、幕府に対して「会津40万石の所領に代えてでも主水を追捕する」とまで訴え出た 10 。この常軌を逸した訴えは、幕府にとって加藤家改易の絶好の口実を与えるものであった。幕府は、この騒動を意図的に静観し、加藤家が自滅への道を突き進むのを待っていた節がある。最終的に幕府は、国家の法を乱した罪は重いとして主水の身柄を明成に引き渡し、主水は一族と共に処刑された 9

しかし、明成の狂気は収まらなかった。彼は次に、鎌倉の駆け込み寺である東慶寺に保護されていた主水の妻子を引き渡すよう要求した 10 。当時の東慶寺の住持は、豊臣秀頼の娘であり、将軍家とも縁の深い天秀尼であった。彼女は明成の理不尽な要求を断固として拒絶し、この一件を幕府に訴え出た 10 。この行動が、加藤家にとどめを刺すことになった。外様大名が、将軍家とゆかりの深い寺院と争うなど、言語道断であったからである。ここにきて、幕府はついに加藤家全体の処分へと大きく舵を切ることになる。

第四章:謎の死と改易 ―加藤明利の終焉―

会津本藩が自壊作用を強める中、その運命の奔流は、支藩である二本松の加藤明利をも容赦なく飲み込んでいく。本章では、明利の死と改易にまつわる最大の謎を、残された史料から多角的に分析し、その真相に迫る。

4.1 寛永十八年の急死とその「不審な点」

会津で堀主水が処刑され、騒動が新たな段階に入っていた寛永18年(1641年)3月25日、二本松藩主・加藤明利は居城で急死した 2 。享年43。公式には病死とされているが、多くの史料が異口同音に、その死には「不審な点があった」と記している 7 。幕府もまた、この突然の死に強い疑念を抱いたと伝えられる 2

この「不審な点」の具体的な内容を伝える一次史料は、残念ながら現存しない 2 。これが、明利の死を巡る謎を一層深めている。考えられる可能性としては、①兄・明成の暴走を止めようとして対立し、暗殺された、②会津騒動の責任を一身に負う形で自刃した、③幕府が加藤家取り潰しの布石として謀殺した、④ごく自然な病死であったが、幕府が改易の口実を作るために意図的に「不審死」というレッテルを貼った、などが挙げられる。しかし、①と③には直接的な証拠がなく、②も憶測の域を出ない。最も蓋然性が高いのは、④のシナリオである。すなわち、幕府は明利の死を、加藤一族全体を処分するための好機と捉えたのである。

4.2 「兄の事件への連座」という罪状

明利の死後、彼の領地は直ちに幕府の代官支配下に置かれ 25 、そして2年後の寛永20年(1643年)、兄・明成の会津藩改易と同時に、二本松藩も正式に改易、すなわち所領没収の処分が下された 7 。その罪状は、「兄が家老を殺した事件に連座した」というものであった 2

この「連座」という理屈は、法的に見て極めて不可解である。加藤明利は会津藩の家臣ではなく、幕府から3万石の朱印状を与えられた独立した大名である。兄の藩で起きた家臣の処罰問題に、弟の藩主が連座させられる法的な根拠は、江戸幕府の法体系の中に見出すことは困難である。これは、幕府が加藤家を一つの血族共同体とみなし、その連帯責任を問うという、法を超えた高度に政治的な判断であったことを示している。

さらに重大な謎は、なぜ当主の「死後」に改易が断行されたのかという点にある。改易は、本来、生存する当主の罪を問い、その身分と所領を剥奪する刑罰である 27 。当主が死亡した後にその罪を問い、領地を没収するということは、実質的に罪のない後継者から正当な相続権を奪うに等しい。これは、幕府の基本法である「武家諸法度」の精神からも逸脱しかねない、異例中の異例の措置であった。

これらの事実を総合すると、明利の改易は、法に基づいた処分というよりも、幕府の絶対的な権威を示すための政治的パフォーマンスであったという結論に至る。幕府は、加藤家全体の取り潰しという既定路線のもと、明利の死を絶好の機会と捉えた。そして、「不審な死」と「連座」という曖昧で法的に脆弱な理由を掲げ、超法規的な政治判断によって二本松藩を解体したのである。明利の死の真相がどうであれ、それは幕府の壮大な政治的策謀の中で、改易を正当化するための便利な「物語」として利用された可能性が極めて高い。

表2:会津騒動と二本松藩改易の時系列

年月

会津藩(加藤明成)の動向

二本松藩(加藤明利)の動向

幕府・その他の動向

寛永16年(1639)4月

家老・堀主水が出奔。城に発砲。

-

堀主水、高野山へ逃れる。

寛永16年~18年

明成、幕府に主水の引き渡しを執拗に要求。「所領に代えてでも」と発言。

-

幕府、騒動を静観しつつ、明成の行動を注視。

寛永18年(1641)

幕府の裁定により、堀主水が明成に引き渡され、処刑される。

-

-

寛永18年(1641)3月

-

加藤明利が二本松で急死。幕府は死因を「不審」とする。

-

寛永18年~20年

明成、東慶寺の堀主水の妻子引き渡しを要求し、さらなる問題を起こす。

(藩主不在、幕府代官支配)

幕府、加藤家全体の処分を検討。

寛永20年(1643)4月

明成、病を理由に所領の返上を幕府に申し出る。

-

-

寛永20年(1643)5月

会津藩40万石、改易。

明利の死から2年後、二本松藩3万石も正式に改易となる。

幕府、加藤家(会津・二本松)の取り潰しを決定。

この時系列は、明利の死が会津藩改易の2年も前でありながら、最終的な処分が同時に下されていることを明確に示している。これは、幕府が周到な計画のもとに、加藤一族全体の改易を一つのパッケージとして進めていたことを強く示唆するものである。

第五章:改易の時代的背景と加藤家の運命

加藤明利と加藤家の悲劇は、個別の事件としてではなく、徳川幕府初期の政治体制という、より大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その本質がより鮮明になる。

5.1 徳川初期の武断政治と大名統制

徳川家康から三代将軍・家光に至る時代は、幕府の支配権力を絶対的なものとして確立するための「武断政治」の時代であった 28 。幕府は、武家諸法度などの法を根拠に、大名統制を厳格に行った。特に、かつて豊臣家に仕えた有力な外様大名は、潜在的な脅威として常に警戒の対象であった 30

この時代、些細な不行跡や家臣団の統制不備などを理由に、多くの大名が容赦なく改易・減封の処分を受けている 31 。例えば、加藤清正の子である肥後熊本藩主・加藤忠広は、家臣の統制が不十分であることや、将軍家光と対立していた弟・忠長と懇意であったことなどを理由に、寛永9年(1632年)に54万石の領地を没収された 33 。また、同じく賤ヶ岳の七本槍の一人である福島正則も、洪水の被害を受けた広島城を幕府の許可なく修繕したことが武家諸法度違反とされ、安芸・備後49万石から信濃4万5千石へと大幅に減封された 36

加藤明成・明利兄弟の改易は、まさにこれらの事例と軌を一にするものである。幕府にとって、東北の要衝である会津に、40万石を超える強大な外様大名が蟠踞することは、長期的な安定を考えた場合に望ましい状況ではなかった。明成が引き起こした会津騒動は、この潜在的な脅威を取り除くための、またとない好機だったのである。

5.2 武家諸法度と改易の論理

幕府が大名統制の道具として用いたのが、元和元年(1615年)に制定された「武家諸法度」であった 39 。この法度は、大名が守るべき義務を詳細に定め、これに違反した者には改易・減封・転封といった厳しい処罰が下されることを明記していた 18 。明成のケースは、家臣団の統制不備や領内での訴訟の多発といった「不行跡」が、この法度に抵触すると判断された。

さらに、この時代の改易を多発させたもう一つの要因が「末期養子の禁」である 41 。これは、跡継ぎのいない大名が、死に際に急いで養子を迎えることを原則として認めないという厳しい規則であった 43 。これにより、当主が急死した場合、多くの大名家が後継者不在を理由に取り潰され、その結果、主家を失った膨大な数の浪人が発生し、社会不安の一因ともなっていた 44

加藤明利のケースは、これらの法制度がいかに幕府の政治的意図によって柔軟に(あるいは強引に)運用されたかを示す典型例と言える。明成には「不行跡」という明確な改易理由があった。しかし、明利にはそれに匹敵するほどの失政は見当たらない。そこで幕府は、「兄への連座」や「不審な死」といった、法的根拠の曖昧な理由を持ち出し、さらには「当主の死後に改易を宣告する」という超法規的な手段に訴えたのである。これは、もはや法治ではなく、法の衣をまとった、幕府の絶対権力による政治的裁定に他ならなかった。

5.3 加藤家のその後:旗本としての存続

幕府は加藤家を大名の地位から引きずり下ろしたが、その血筋を完全に根絶やしにすることはなかった。これは、幕府の巧妙な統治術の一環であった。

会津藩を改易された兄・明成は、その子・明友が石見国吉永(現在の島根県)に1万石を与えられる形で家名の存続を許された 10 。一方、二本松藩を改易された明利の子らも、処罰されながらも家名は保たれた。長男の明勝は、父の改易に連座して謹慎処分となった後、3,000石の知行を与えられたが、正保2年(1645年)に13歳で夭折し、無嗣断絶となった 2 。しかし、その弟たち、三男の加藤嘉遐(よしひろ)には1,300石、四男の加藤明重には1,500石がそれぞれ与えられ、徳川将軍家に直属する旗本として加藤の家名を後世に伝えることが許されたのである 2

この処遇は、幕府の「アメとムチ」の政策を象徴している。幕府に逆らう、あるいは統治能力に欠けると見なされた大名からは、容赦なくその領地と権力を剥奪する(ムチ)。しかしその一方で、一族の完全な断絶は避け、旗本などの形で家名を存続させる道を残す(アメ)。これにより、他の大名に対して「幕府の意に沿わなければ大名ではいられなくなるが、完全に従順であれば家が滅びることはない」という強烈なメッセージを送ることができる。これは、恐怖による支配と限定的な温情による懐柔を組み合わせた、高度な政治的コントロールであった。加藤家の最終的な処遇は、この武断政治の時代の典型的な結末だったのである。

終章:歴史に埋もれた藩主の再評価

加藤明利の生涯を振り返るとき、我々は一人の人間の運命が、個人の資質や努力だけではいかんともしがたい、巨大な歴史の力学によって決定づけられていく様を目の当たりにする。

二本松城の大規模な改修事業に見られるように、加藤明利は藩主として確かな行政能力と未来を見据えた構想力を持った人物であった。彼の13年間にわたる二本松での治世には、検地による領民の負担増といった負の側面はあったものの、それは当時の標準的な藩政の範囲内であり、改易という極刑に処せられるほどの決定的な失政は見当たらない。

彼の悲劇は、個人的な能力の欠如に起因するものではなかった。その原因は、二つの大きな歴史の潮流が、彼の人生の上で不運にも交差した点にある。第一に、兄・加藤明成の常軌を逸した愚行と暴政が、加藤一族全体を幕府の格好の標的としてしまったこと。第二に、当時の徳川幕府が、家光の時代に支配体制を磐石のものとするため、有力外様大名の力を削ぐという国家戦略を強力に推進していたことである。この二つの潮流が合流したとき、加藤家の改易は、もはや避けられない運命となっていた。

その政治的策謀の過程において、加藤明利は最も理不尽な形で犠牲となった。彼の「不審な死」と、前代未聞の「死後の改易」は、幕府が法や慣習さえも捻じ曲げて、その政治目的を達成しようとした冷徹な事実を物語っている。

したがって、加藤明利は単に「兄の事件に連座した悲運の人物」として片付けられるべきではない。彼は、有能な統治者でありながらも時代の大きな渦に飲み込まれ、その確かな功績ごと歴史の闇に葬り去られてしまった、「武断政治の犠牲者」としてこそ、再評価されるべきである。彼の生涯は、近世初期の非情な政治力学と、その中で個人の意志がいかに無力であったかを象徴する、一つの重要なケーススタディとして、我々に多くのことを示唆している。彼の墓所と位牌は、今も二本松市の顕法寺に静かに残り、訪れる者にその悲劇の生涯を語りかけている 14

引用文献

  1. 加藤明利墓所附加藤明利位牌(かとうあきとしぼしょ つけたり かとうあきとしいはい) - 二本松市 https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/bunka_sports_syo/bunka_rekishi/shitei_bunka/nihonmatsu/page011780.html
  2. 加藤明利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%98%8E%E5%88%A9
  3. 加藤嘉明 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E
  4. 【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/07/26/180000
  5. 加藤嘉明 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KatouYoshiaki.html
  6. 賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37879
  7. 三春城の歴代城主 - 三春城跡 https://miharujo.jp/owners/
  8. 史跡 | 浄土真宗本願寺派 塩松山 顕法寺(福島県二本松市) http://www.kenpouji.com/outline/41.html
  9. 加藤明利:概要 - 福島県 https://www.fukutabi.net/bodaiji/katouakitosi.html
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  11. 三春藩 - 福島県 https://www.fukutabi.net/jyouka/miharu.html
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  41. 幕府の大名統制・改易と転封(2) - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/240591957/
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  44. J2J - Z会 https://www.zkai.co.jp/wp-content/uploads/sites/18/2021/07/20203628/ol_No028_42051181CS6_mishina_J2J.pdf
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  46. 会津騒動 - 石見銀山通信 - JUGEMブログ https://iwami-gg.jugem.jp/?eid=4546
  47. 加藤清正一族 http://www.newtenka.cn/daming/02/zhanwu/07.htm
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