日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台に登場し、そして消えていった。その多くは天下に名を轟かせた英雄たちの影に隠れ、その生涯の詳細は断片的な記録の中にしか見出すことができない。本報告書が主題とする伊予国(現在の愛媛県)の武将、北之川氏もまた、そうした歴史の狭間に埋もれた一族である。
ご依頼主が当初提示された「北之川経安(つねやす)」という名は、一部史料においてその父の名として散見されるものの、より多くの信頼性の高い史料では父を「通安(みちやす)」、そして本報告書の中心人物となる当主を「親安(ちかやす)」と記している 1 。この名前の混同そのものが、中央から離れた地方豪族の記録が後世においていかに錯綜したかを示す好例と言えよう。本報告では、史料を精査し、南予の戦国史において長宗我部氏との攻防の主役としてその名を刻む「北之川親安」の生涯を、あらゆる角度から徹底的に追跡・分析する。
親安が生きた天正年間(1573年~1592年)の伊予国、とりわけ南予地方は、旧来の秩序が崩壊し、新たな覇者がその座を狙う激動の時代であった。長らく南予の盟主として君臨してきた西園寺氏の権威は翳りを見せ、東の土佐国からは長宗我部元親が破竹の勢いでその版図を拡大しつつあった 2 。本報告書は、この二大勢力の狭間で翻弄され、一族の存亡を賭けて激しい時代の波濤に立ち向かった一人の国人領主、北之川親安の実像に迫るものである。
北之川氏の権威と在地における正統性を支えたのは、その由緒ある出自であった。一族は、平安時代を代表する歌人であり、『古今和歌集』の撰者としても名高い紀貫之を遠祖に持つ紀氏の末裔を称していた 1 。『伊予温故録』や『愛媛面影』といった地誌によれば、その伊予における歴史は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に、紀実定なる人物が伊予国周知郷北之川庄を所領として与えられ、京都から下向したことに始まると伝承されている 5 。
戦国時代において、このような由緒ある貴族の末裔という系譜は、単なる名誉ではなく、在地社会における領主としての支配権を正当化し、他の国人衆に対する優位性を示すための重要な政治的資本であった。北之川氏が「紀親安」と、本姓である紀氏を名乗ることもあったのは、この権威を意識してのことであろう 1 。
一族が最初に本拠としたのは、甲之森城(かぶとのもりじょう)であった 1 。この城は現在の愛媛県西予市城川町土居に位置し、標高451メートルの山頂に築かれた堅固な山城である 9 。その立地は、伊予と土佐を結ぶ交通の要衝、すなわち予土国境地帯を扼する戦略的に極めて重要な拠点であった 11 。この城を拠点とすることで、北之川氏は南予の山間部に確固たる勢力基盤を築き上げたのである。
ご依頼主が触れられた「所領の北之川庄が発展し、2ヵ村に分割された」という点について、これを直接的に証明する一次史料は確認できなかった。しかし、在地領主による開発が村の発展を促すことは一般的であり、北之川氏の支配下で所領が安定し、人口が増加した可能性は高い。後の天正13年(1585年)に、豊臣秀吉の四国平定軍を率いた小早川隆景が発給した禁制(軍勢による乱暴狼藉を禁じる制札)の宛先に「北之川村」の名が見えることから、この地が一つの行政単位として確立していたことがわかる 13 。
戦国時代の南予地方は、宇和郡を拠点とする西園寺氏と、喜多郡を拠点とする宇都宮氏という二大勢力が長年にわたり対立・抗争を繰り広げる複雑な情勢下にあった 2 。北之川氏のような在地領主(国人、国侍)は、単独で生き残ることが困難なため、これらのより大きな勢力の傘下に入ることで自らの所領と一族の安泰を図るのが常であった。
北之川氏は、南予の盟主であった西園寺氏に臣従した。中でも親安の父である北之川通安は、西園寺氏の家臣団の中でも特に武勇と勢力に優れた15人の武将を指す「西園寺十五将」の一人に数えられている 15 。この「十五将」という呼称は、彼らが単なる被官ではなく、西園寺氏と軍事同盟を結ぶ半独立的な領主であったことを強く示唆している。『長元物語』においても、「西園寺・宇都宮・御庄・川原淵・北ノ川、この五人は往古より大身」と記されており、北之川氏が南予において別格の有力国人として認識されていたことが窺える 2 。『愛媛県史』などの記述によれば、北之川殿の石高は3,000石とされており、これは他の国人衆と比較しても相当な規模であった 18 。
親安が家督を継いだ頃、北之川氏はその本拠を甲之森城から、より堅固な三滝城(みたきじょう)へと移している 1 。三滝城は現在の西予市城川町窪野にあり、標高642メートル、三方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害であった 7 。この本拠地の移転は、単なる居城の変更ではなく、東方から迫りくる長宗我部氏の脅威を始めとする、緊迫の度を増す軍事情勢に対応するための、極めて戦略的な判断であったと考えられる。
ここに、戦国期における国人領主のあり方が見て取れる。北之川氏は、西園寺氏の「家臣」でありながらも「十五将」として独自の軍事力と所領支配権を維持し、自らの判断で本拠地を移転するほどの強い自立性を持っていた。しかし、その自立性は、西園寺氏という後ろ盾の権威に依存するものであり、それを上回る強大な外部勢力、すなわち長宗我部氏が出現した時、その存立基盤は根底から揺らぐこととなる。一族の安泰を求めて主家に従う一方で、状況次第では主家を裏切り、より強い勢力に乗り換えることも厭わない。この現実的な生き残り戦略こそが、国人領主の強みであると同時に、その後の悲劇を招く脆弱性でもあった。
土佐一国を統一した長宗我部元親の目は、次なる目標である四国全土の平定に向けられていた。天正5年(1577年)頃から、元親は伊予への本格的な侵攻を開始する 3 。その戦略は、単なる武力による制圧に留まらず、在地領主間の対立を利用し、調略によって内側から切り崩していくという、巧みかつ非情なものであった 23 。
この長宗我部氏の脅威に対し、南予の国人衆は動揺する。盟主である西園寺氏の力はもはや頼りにならず、各領主は自らの判断で生き残りの道を探らねばならなかった。『愛媛県史』や西予市の市史によれば、この時期、予土国境に位置する北之川氏は、同じく西園寺十五将であった魚成氏らと共に、主家である西園寺氏を裏切り、長宗我部氏に内通したとされる 2 。これは、没落しつつある旧主を見限り、日の出の勢いである新興勢力に与することで、自領の安堵と一族の存続を図ろうとした、戦国武将として当然の戦略的判断であった。
臣従の証として、親安はさらに一歩踏み込んだ策を講じる。長宗我部元親の娘婿(一説には妹婿)であり、一門衆として重用されていた波川玄蕃頭清宗(はかわ げんばのかみ きよむね)の娘を、自らの妻として迎えたのである 1 。この婚姻は、単なる主従関係を血縁という強固な絆で補強し、長宗我部政権内での地位を安定させるための重要な一手であった。これにより北之川氏は、他の伊予国人衆とは一線を画し、長宗我部一門に準ずる特別な地位を得ようとしたのである。
しかし、この生き残りを賭けた婚姻政策は、皮肉にも一族を破滅へと導く「諸刃の剣」となる。この時点では、親安にとって最善の選択に見えたであろう。長宗我部氏の信頼厚い重臣と縁戚関係を結ぶことで、自らの立場はより強固になるはずであった。だが、戦国の世は非情である。この婚姻によって結ばれた岳父・波川清宗の存在が、後に親安自身の首を絞める最大の要因となることを、彼自身もまだ知る由もなかった。この人間関係の綾が、北之川氏の運命を決定づけることになるのである。
北之川親安の運命を暗転させたのは、天正8年(1580年)、岳父である波川清宗が主君・長宗我部元親に対して謀反を企てた事件であった 1 。清宗の反乱は露見し、彼は元親の命によって誅殺される。この事件により、親安は「謀反人の縁者」として、元親から深い疑念の目を向けられることとなった。
身の潔白を証明するため、親安は謀反への関与を固く否定する起請文(神仏に誓う誓約書)を元親に送った。しかし、元親の対応は冷酷であった。彼は「謀反への加担は明白であるにもかかわらず、それを偽って神仏に誓いを立てるとは不届き千万。いずれ神仏の罰が下るであろう」という、常識では考えられない理屈で親安の訴えを退け、これを討伐の口実としたのである 1 。これは、一度疑いを持った家臣を容赦なく排除しようとする、元親の徹底した支配戦略の現れであった。
北之川親安と三滝城の最期については、記録された史料によってその時期や経緯に大きな相違が見られる。これは、勝者である土佐側の視点と、敗者である伊予側の視点の違い、そして軍記物語における脚色の影響などが複雑に絡み合った結果であり、歴史の多面性を物語っている。
史料名 |
落城・討死の時期 |
討伐軍の将 |
最期に関する記述の要点 |
典拠 |
『清良記』 |
天正8年(1580)冬 |
久武親信 |
芝美作の内通により、西園寺方の国境五将(北之川含む)が元親に降る。その流れで三滝合戦が起こる。 |
29 |
『土佐物語』『元親記』 |
天正9年(1581) |
久武親信 |
依岡左京進との一騎討ちに敗れ討死したとされる。 |
2 |
『予陽本』『土佐国編年紀事略』 |
天正11年(1583)1月13日 |
久武親信(親直) |
久武親信らが北之川城主・親安を攻めたと簡潔に記す。 |
33 |
『宇和旧記』『高野山過去帳』 |
天正11年(1583) |
久武親直 |
奮戦の末に討死。伊予側の史料はこの説を支持する傾向にある。 |
2 |
『依岡左京進伝』 |
天正9年(1581) |
(依岡左京進が従軍) |
親安を一騎討ちで破ったと記す。 |
34 |
これらの史料間の齟齬は、単なる記録ミスとは考えにくい。むしろ、長宗我部氏による伊予支配が、一度の合戦で完了したのではなく、数年にわたる段階的なプロセスを経ていたことを示唆している。すなわち、天正8年の波川清宗の乱を契機として長宗我部氏の圧力が強まり、北之川氏は臣従と抵抗を繰り返した末、天正11年1月の総攻撃によって最終的に滅亡した、という多段階の過程があったと推測するのが最も合理的であろう。『宇和旧記』に収められた西園寺公広の書状が、天正11年正月の時点で北之川方面の国侍がなおも抵抗していたことを伝えているのは、この推測を裏付ける有力な証拠である 2 。
『南予史概説』や軍記物語によれば、親安の最期は壮絶であった。久武親直率いる長宗我部の大軍に三滝城を包囲され、援軍の望みも絶たれた親安は、死を覚悟する。一族郎党を集めて最後の酒宴を開き、平家の栄枯盛衰を謡ったとされる「誓願寺」の謡曲をうたいながら、自ら長刀を振るって城門を開き、敵陣に討って出た。そして、長宗我部軍の猛将・依岡左京進との一騎討ちの末、力尽きて討死したと伝えられている 30 。
この悲劇は、親安一人の死では終わらなかった。地元には、落城にまつわる数々の哀話が今なお語り継がれている。その一つが「じゃぼりの馬のあしあと」の伝説である。親安の妻(『惣川誌』では西園寺氏の娘、『三滝城史』などでは愛妾・菊の方とも)は、落城の際に城を落ち延びたものの、追手に追い詰められ、あるいは行く末を悲観し、燃え盛る鉢ヶ森城の炎の中に馬ごと身を投げて自害したという。その馬が最後に大地を蹴った蹄の跡が岩に残ったとされ、その岩は今も地域の人々によって大切に祀られている 1 。
北之川親安の死は、一族の運命を大きく変えた。長宗我部氏への人質として土佐の岡豊城に送られていた嫡男・正親も、父の討死に伴い斬殺された 1 。これにより、伊予国の国人領主としての北之川氏の嫡流は、武士としては完全に断絶することとなった。
しかし、北之川の血脈そのものが途絶えたわけではなかった。親安の次男・宗親は、兄とは異なり難を逃れ、生き延びることに成功した 1 。彼は父の仇の国である土佐国へと移り住み、そこで新たな人生を歩み始める。宗親が選んだ道は、武士として再興を目指すことではなく、武士の身分を捨て、一族の祖先の名である「紀」姓に復し、庄屋(近世における村役人)として生きることであった。これが、土佐における庄屋・紀家の始まりと伝えられている 1 。
この一族の再生の物語は、単なる一個人の運命を超え、日本の歴史における大きな時代の転換を象徴している。親安の死が、戦国乱世における武力抗争による地方領主の淘汰を体現しているとすれば、その息子・宗親の生き様は、近世封建社会の到来を物語っている。武力による支配が終焉を迎え、幕藩体制という新たな行政機構を通じた支配へと社会が移行する中で、宗親は一族が生き残るための道を選んだのである。
武家の名である「北之川」を捨て、文化的な権威を持つ祖先の姓「紀」に回帰したことは、極めて示唆に富む。それは、武力に依拠した「武士」としてのアイデンティティを清算し、新たな社会秩序の中で、由緒ある家柄という文化的な権威を拠り所として再出発したことを意味する。力と策略が全てであった戦国時代から、身分と秩序が重んじられる江戸時代へ。北之川一族の滅亡と再生の軌跡は、この歴史の大きな潮流を、一つの家族の物語として鮮やかに映し出しているのである。
伊予の国人領主、北之川親安の生涯を追跡する本調査は、一人の武将の悲劇を通して、戦国時代という時代の本質を多角的に浮き彫りにした。
親安は、紀氏という由緒ある家柄を背景に、南予の山間部に確固たる勢力を築いた有力な国人領主であった。彼は西園寺氏の重臣「十五将」の一人として、また時には長宗我部氏に通じる自立した勢力として、激動の時代を生き抜くためにあらゆる戦略を駆使した。主家の衰退を見限って新興勢力に乗り換え、婚姻政策によってその内部に食い込もうとする姿は、まさに戦国武将の現実的な処世術そのものである。
しかし、その選択が結果として自らの首を絞めることになった。岳父・波川清宗の謀反という不運は、長宗我部元親の非情なまでの戦略眼によって、親安を排除するための絶好の口実として利用された。史料によって落城の時期や経緯が異なる点は、元親による伊予平定が一筋縄ではいかなかったこと、そして在地勢力の抵抗が根強かったことを物語っている。親安の物語は、強大な勢力の狭間で翻弄され、最後は時代の奔流に飲み込まれていった数多の地方領主たちの、典型的な悲劇として位置づけることができる。
彼の死は、武士としての北之川氏の終焉を意味した。だが、その血脈は絶えることなく、次男・宗親によって「紀」姓の庄屋として近世社会に受け継がれた。これは、武力による支配の時代が終わり、新たな身分秩序の社会が到来したことを象徴する出来事である。
北之川親安の生涯は、華々しい英雄譚ではない。しかし、錯綜する史料の断片を繋ぎ合わせることで見えてくるその実像は、戦国という時代の複雑さ、非情さ、そしてそこに生きた人々の逞しさと哀しみを、我々に力強く語りかけてくる。彼の物語は、歴史の敗者の記憶が、いかにして地域の伝説となり、後世に語り継がれていくかを示す貴重な事例であり、日本の戦国史を深く理解する上で、決して看過することのできない歴史的証言と言えるだろう。