日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代、数多の武将が歴史の舞台に登場し、その名を刻んだ。その多くは華々しい武功や天下に聞こえた智謀によって語られるが、歴史の深奥には、より複雑で機微に富んだ生涯を送った人物も少なくない。南部家臣、北愛一(きた ちかかず)もまた、そのような一人である。
彼の名を単独で耳にすることは稀であろう。しかし、彼の父は、南部藩成立の最大の功労者と謳われ、智勇兼備の名将として知られる北信愛(きた のぶちか)である 1 。偉大な父を持つ嫡男として、愛一は順風満帆な道を歩むことが約束されていたかに見える。だが、彼の経歴は単純な世襲の物語ではない。父・信愛が晩年に築いた花巻城代という巨大な権力と8000石の所領(花巻北家)を継ぐことなく、彼は陸奥国寺田(現在の岩手県八幡平市)に新たな家「寺田北家」を興した 5 。
この一見不可解な選択の背後には、個人の意思を超えた、近世初期における大名家の権力構造の変化と、家臣団統制の力学が働いていた。本報告書は、北愛一という一人の武将の生涯と、彼が創設した寺田北家の栄枯盛衰を、現存する史料に基づき徹底的に追跡・分析するものである。彼の人生の軌跡を解明することは、戦国から江戸へと移行する時代の転換期において、武家、特に大名の家臣団がどのように再編され、家の存続という至上命題にいかに向き合ったのか、その実相を具体的な事例を通して明らかにするための、貴重な鍵となるであろう。
北愛一の生涯と彼が置かれた状況を正確に理解するためには、まず彼が属した北氏の家格と、何よりも父・北信愛の存在を把握することが不可欠である。愛一のキャリアは、父が南部家において築き上げた絶大な功績と、その特殊な立場によって、光と影の両面から深く規定されていたからである。
北氏は、南部氏一門に連なる譜代の家臣である 1 。その出自は、もともと剣吉(けんよし)氏と称し、南部氏の宗家が居城とした三戸城(現在の青森県三戸町)の北方に館(剣吉城)を構えていたことから、周囲より「北殿(きたどの)」と呼ばれ、やがてそれが正式な氏(うじ)となったと伝えられる 8 。
系譜上、室町時代に根城(ねじょう)を本拠とした根城南部家から分かれた家系とされ、三戸南部家が宗家としての地位を確立していく過程で、その重臣として仕えた 7 。南部氏は甲斐源氏の流れを汲み、鎌倉時代に奥州糠部郡(ぬかのぶぐん)に入部して以来、多くの分家を分立させながら勢力を拡大した一族であり、北氏はその中でも宗家に近しく、重要な位置を占める家柄であった 9 。北愛一は、このような由緒ある家系の嫡流として、生来、南部家中で重んじられるべき立場にあった。
北愛一の生涯を語る上で、その父・信愛(1523年 - 1613年、号は松斎)の存在を抜きにしては成立しない 1 。信愛は、南部家四代の藩主に仕え、特に二十六代当主・南部信直の時代において、藩の創成期を支えた最大の功労者であった 2 。
信愛の功績が最も顕著に現れたのは、南部家が分裂の危機に瀕した家督相続問題においてである。当時の当主・南部晴政は、一度は養嗣子とした信直を疎んじ、実子・晴継が生まれると信直を廃嫡しようと試みた 12 。家中が晴政派と信直派に二分される内乱状態(屋裏の変)に陥る中、信愛は一貫して信直を庇護し、その身の安全を確保した 4 。天正10年(1582年)、晴政、そして後を継いだ晴継が相次いで死去し、家督が空位となると、信愛は機敏に行動し、時に強引ともいえる手腕で信直の当主就任を実現させた 1 。
信直政権が樹立されると、信愛はその筆頭家老として内政・外交の両面で辣腕を振るった 4 。天下統一を進める豊臣秀吉との交渉においては、天正15年(1587年)に加賀の前田利家を介して誼(よしみ)を通じ、南部氏が豊臣政権下で存続するための道を切り開いた 4 。
天正19年(1591年)、信直の家督相続に不満を持つ九戸政実が反乱を起こすと(九戸政実の乱)、信愛は自ら上洛して秀吉に窮状を訴え、豊臣家の大軍を援軍として引き出すことに成功し、乱の鎮圧に大きく貢献した 1 。乱後、南部領の南の要衝である花巻城(旧鳥谷ヶ崎城)の城代に次男・秀愛が任じられ、その秀愛が早世すると、慶長3年(1598年)からは信愛自らが8000石の知行をもって城代に就任した 4 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、伊達政宗が煽動した和賀・稗貫一揆勢が手薄な花巻城に攻め寄せたが、信愛は老齢ながらも卓越した知略でこれを撃退し、南部領の南方国境を守り抜いた(花巻城の夜討ち) 4 。
このように、北信愛は南部信直にとって、そして盛岡藩にとって、まさに救国の英雄であり、その功績と影響力は家臣団の中で群を抜いていた。しかし、この絶大な功績に対する破格の待遇こそが、嫡男である愛一のその後の運命を大きく左右することになる。信愛が一代で築いた花巻8000石という巨大な所領と権力は、世襲を前提としたものではなかった。信愛は慶長18年(1613年)に91歳で没する際、自ら名跡の継承を願わなかったため、その所領は藩に没収された 4 。これは、藩主・南部氏が、信愛個人の功績には最大限報いつつも、その権力が世襲され、藩内に独立した強大な勢力が生まれることを抑制しようとした、近世初期における中央集権化政策の一環と解釈できる。すでに父とは別に知行を得て独立していた愛一が、この断絶した「花巻北家」を継承せず、自身の家系である「寺田北家」として存続することになったのは、こうした藩の政策的意図が強く働いた結果であり、彼のキャリアパスは、偉大な父の存在によって、栄誉とともに大きな制約をも受けることとなったのである。
偉大な父・信愛が南部藩の中枢で活躍する一方、その嫡男である北愛一は、父とは異なる形で自身の家を興し、藩に仕えた。彼の生涯は、戦国末期の動乱から徳川の治世が確立する過渡期を、一人の武将として、また一つの家の創始者として生き抜いた記録である。
表1:北愛一の生涯年表
年代(和暦・西暦) |
愛一の年齢(推定) |
出来事 |
関連人物 |
典拠史料 |
生年不詳 |
- |
北信愛の長男として誕生。通称は彦助、名は定愛とも。 |
父:北信愛、母:南氏 |
4 |
天正19年(1591) |
不詳 |
九戸政実の乱が終結。乱後、旧一戸方の寺田館(寺田城)城主となり、2500石を知行。 |
南部信直、九戸政実 |
5 |
慶長3年(1598) |
不詳 |
弟・秀愛が花巻城代として死去。父・信愛が後任となる。 |
北信愛、北秀愛 |
4 |
慶長18年(1613) |
不詳 |
父・信愛が花巻城で死去。花巻北家は断絶し、所領は藩に没収される。 |
北信愛、南部利直 |
1 |
慶長19年(1614) |
不詳 |
大坂冬の陣に、藩主・南部利直に従い従軍。 |
南部利直 |
21 |
寛永11年(1634) |
不詳 |
将軍・徳川家光の上洛に際し、藩主・南部重直に扈従。 |
南部重直、徳川家光 |
21 |
寛永11年6月7日(1634年7月2日) |
不詳 |
死去。 |
- |
5 |
北愛一は、南部藩の重臣・北信愛の長男として生を受けた 4 。母は同じく南部家の重臣である南氏の娘であった 5 。通称を彦助(ひこすけ)といい、諱(いみな)は定愛(さだちか)とも伝わっている 5 。正確な生年は、残念ながら史料には残されていない 5 。
彼は父・信愛が南部信直を支えて多大な功績を上げていたことから、その嫡男として早くから特別な待遇を受けた。通常、武家の嫡男は父の家督を継ぐために家中に留まるが、愛一は父の存命中に主君・南部信直から直接知行を与えられ、独立した一家を構えることを許されていた 5 。これは、信愛の功績に対する報奨の一環として、その子である愛一にも恩賞が及んだことを示している。
その知行高については、史料によって若干の差異が見られる。盛岡藩の公式な系図集である『参考諸家系図』には2050石と記されている一方 5 、『岩手県史』に所収されている系図では2150石とされている 5 。いずれにせよ、2000石を超える大身であり、父とは別に独自の家臣団を抱えることが可能な、独立した領主としての地位を確立していたことは間違いない。
愛一が歴史の表舞台にその名を現すのは、天正19年(1591年)に起こった「九戸政実の乱」の後である。この乱は、南部信直の家督相続に端を発する南部一族内の対立が、豊臣秀吉による奥州仕置(おうしゅうしおき)という中央政権の介入を背景に爆発した、南部領を二分する大規模な内戦であった 15 。
乱が豊臣軍の圧倒的な兵力によって鎮圧された後、南部領内の領地再編が行われた。この時、愛一は、九戸政実に与して滅亡した旧一戸(いちのへ)氏の旧領であった寺田館(てらだたて)、すなわち寺田城の城主として配置された 5 。この際の知行高は2500石であったと『岩手県史』は記しており、これは彼が独立時に与えられた石高からの加増であった可能性が高い 5 。
愛一が任じられた寺田城(現在の岩手県八幡平市西根町寺田)は、単なる知行地以上の重要な意味を持つ場所であった。この地は、盛岡から北上し、秋田県の鹿角(かづの)地方へと抜ける主要街道「鹿角街道」を押さえる戦略的要衝に位置していた 23 。九戸の乱の平定後、依然として領内の情勢が不安定であり、また西に隣接する秋田氏との緊張関係も続く中、この地に藩主の信頼が厚い重臣の嫡男を配置したことは、領内北部の安定化と対外的防御という、明確な軍事・政治的意図に基づいていたと考えられる 24 。
父・信愛が慶長18年(1613年)に亡くなり、彼が一代で築いた花巻北家が事実上断絶した後も、すでに独立した領主であった愛一がその名跡を継ぐことはなかった 5 。これにより、愛一を初代とする家系は、その本拠地の名を冠した「寺田北家」として、南部藩の家臣団の中に明確に位置づけられることとなった。
寺田北家の当主としての愛一の動向を示す具体的な記録の一つに、大坂の陣への従軍がある。慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣において、愛一は盛岡藩主・南部利直の軍に加わり、出陣している 21 。この参陣は、単なる軍役奉仕以上の重い意味を持っていた。大坂の陣は、徳川家が豊臣家を完全に滅ぼし、その天下を盤石なものとするための総仕上げの戦いであった 27 。全国の諸大名にとって、この戦に徳川方として参陣することは、新時代の支配者である徳川幕府への忠誠を明確に示す、極めて重要な政治的行為だったのである。盛岡藩も藩主自らが出陣する中 28 、2000石を超える大身の領主である愛一がそれに従ったという事実は、彼が藩の主要な構成員としての役割をしっかりと果たしていたことを証明している。同時に、新たに創設された寺田北家という家が、藩主から公的に認められた正式な家臣団の一員であることを、藩の内外に誇示する機会ともなった。この従軍は、寺田北家の存立基盤を固める上で不可欠な行動であったと言えよう。
大坂の陣の後も、愛一は藩の重臣として務めを果たし続けた。その晩年の動向として、寛永11年(1634年)、三代将軍・徳川家光が上洛した際、時の藩主・南部重直(利直の子)がそれに扈従(こじゅう、お供をすること)したが、愛一もこの一行に随行していたことが記録されている 21 。これは、彼がその死の直前まで藩主の側近くに仕え、重要な公務に携わる立場にあったことを示唆している。
その旅から戻った直後であろうか、愛一は同年の6月7日にこの世を去った 5 。父・信愛の威光の下で独立し、動乱の余燼燻る北奥の地で新たな家を興し、徳川の世の到来をその目で見届けた生涯であった。
北愛一が創設した寺田北家は、藩主家との姻戚関係を結ぶなど、一時は輝かしい栄華を誇った。しかし、その繁栄は長くは続かず、些細な事件をきっかけに急転直下、衰退の道を辿り、わずか四代で嫡流が断絶するという悲劇的な結末を迎える。その過程は、近世初期における武家社会の厳格さと、主家の存続がいかに脆い基盤の上にあったかを如実に物語っている。
表2:寺田北家 歴代当主と知行高の変遷
代 |
当主名(通称) |
続柄 |
主要な出来事(家督相続、婚姻、事件、死没) |
知行高(石) |
典拠史料 |
初代 |
北 愛一 (彦助) |
北信愛の長男 |
寺田城主となり、寺田北家を創設。大坂の陣に従軍。寛永11年(1634)死去。 |
2500(または2150) |
5 |
二代 |
北 直愛 (左衛門佐) |
愛一の嫡男 |
父の跡を継ぐ。藩主・南部利直の娘・糸姫を娶る。鷹狩りの不祥事で処分を受ける。承応元年(1652)死去。 |
2100 |
5 |
三代 |
北 愛時 (主馬) |
直愛の嫡男 |
父の死後、知行を大幅に削減され家督相続。病により早くに隠居。天和3年(1683)死去。 |
500 |
21 |
四代 |
北 岩松 |
愛時の嫡男 |
幼くして家督を継ぐも、明暦元年(1655)に夭折。 |
500 |
21 |
- |
(嫡流断絶) |
- |
岩松の死により嗣子なく、嫡流は断絶。所領は藩により収公される。 |
0 |
23 |
初代・愛一の死後、寺田北家の家督は嫡男の直愛(なおちか)が継承した 5 。通称を彦八郎、後に左衛門佐(さえもんのすけ)と名乗った 21 。彼が相続した知行は2100石であり、父の代からの大身の家格を維持していた 29 。
直愛の代において、寺田北家はその栄華の頂点を迎える。彼は、時の藩主・南部利直の娘である糸姫(いとひめ)を正室として迎えたのである 21 。姫は後に「北姫」や「北殿」と称され、その存在は寺田北家の威光を大いに高めた。江戸時代初期、大名家臣が藩主家と直接の姻戚関係を結ぶことは、この上ない栄誉であり、藩内における家の地位を盤石にするための最も有効な手段の一つであった 30 。これにより、寺田北家は単なる重臣の一家ではなく、藩主一門に連なる特別な家柄として、その地位を確立したかに見えた。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。順風満帆に見えた寺田北家の運命は、ある偶発的な事件によって暗転する。複数の史料が伝えるところによれば、直愛の治世において、藩主が催した鷹狩りの場で不祥事が起きた 29 。鷹狩りは武士にとって重要な儀礼であり、娯楽であると同時に軍事演習の一面も持っていた。この場で、直愛の配下であった勢子(せこ、獲物を追い立てる役の者)が、獲物である鳥を逃してしまうという失態を犯したのである。
この事件は、藩主の面目を失わせるものとして重大視された。責任者である直愛は藩から厳しい処分を受け、その渦中の承応元年(1652年)、失意のうちにこの世を去ったとされる 21 。この死が処分と直接関係があったかは定かではないが、藩の対応は苛烈であった。直愛の死後、その嫡男である愛時(ちかとき)が家督を継ぐことは許されたものの、相続できた知行はわずか500石にまで激減させられてしまったのである 21 。2100石を誇った大身の家は、わずか一代でその地位と財産の大部分を失い、藩内における影響力も大きく後退せざるを得なかった。
家勢が大きく傾いた中で家督を継いだ三代・愛時は、病弱であったとみえ、早くに隠居してしまう 10 。そして、その跡を継いだのは、まだ幼い息子、岩松(いわまつ)であった。
しかし、寺田北家に追い打ちをかけるように、さらなる悲劇が襲う。四代当主となった岩松は、家督を継いで間もない明暦元年(1655年)に、幼くして亡くなってしまったのである 21 。岩松にはまだ跡を継ぐべき子(嗣子)がおらず、これにより、北愛一から続いた寺田北家の嫡流は、わずか四代、創設からおよそ60年で完全に断絶した。当主を失った家は、武家の厳しい掟に従い、残された500石の所領も藩によって収公(没収)された 23 。
主家の断絶という悲劇の結末において、戦国の遺風を色濃く伝える一つの逸話が残されている。寺田北家に仕えていた家臣、佐々木六助高政(ささき ろくすけ たかまさ、昌政とも)の殉死である 21 。
主君・岩松が夭折し、家が取り潰されるに及び、六助は主君の後を追うことを決意した。彼は、幼き主君の菩提が永代にわたって弔われることを願い、自らの禄の中から4石分の土地を菩提寺である聖福寺に寄進した 23 。そして、岩松の初七日を終えた翌日、自らの命を絶って主君の許へと旅立ったと伝えられている 33 。
この佐々木六助の行動は、単なる美談として片付けられるものではない。それは、主君個人への「御恩」に対し、自らの命をもって報いる「奉公」という、中世から続く武士の主従観念が、江戸時代初期においてもなお生々しく息づいていたことを示す象徴的な出来事である 34 。同時に、主家の断絶が、そこに仕える家臣にとっては生活の基盤と武士としての存在意義そのものを失うことを意味するという、武家社会の非情な現実をも浮き彫りにしている。彼の殉死は、幕府が文治政治への転換を推し進め、主従関係を個人間の私的なものから「家」と「家」の公的な契約へと変質させ、寛文3年(1663年)に殉死を厳禁する、まさにその直前の過渡期における、武士の忠誠心と死生観を示す極めて貴重な事例と言える。
寺田北家の嫡流はここに絶えたが、北氏の血筋と家名は辛うじて保たれた。二代・直愛には、嫡男・愛時のほかに次男がおり、名を愛紀(ちかのり)といった。彼は断絶した岩松の叔父にあたる 21 。藩は、この愛紀に対し、亡父・直愛の旧領のうちから新たに300石を与え、岩松の名跡を継承することを許した 10 。
こうして家名は存続したものの、その後の道も平坦ではなかった。この家系は、後の当主が自害する事件を起こして一時改易されるなど苦難が続き、最終的には50石という小身の旗本として再興され、幕末を迎えることとなる 6 。かつて2500石を領し、藩主の娘を娶るほどの栄華を誇った寺田北家の面影は、もはやそこにはなかった。
北愛一と彼が創始した寺田北家は、歴史の表舞台から姿を消して久しい。しかし、彼らが生きた証は、その本拠地であった岩手県の地に、そして彼らの動向を記録した古文書の中に、今なお確かに息づいている。本章では、現代に残るその痕跡を辿り、本報告書の根拠となった史料について検討する。
北愛一が城主を務めた寺田城の跡は、現在の岩手県八幡平市西根町寺田に存在する 36 。涼川(すずしかわ)の西岸に広がる丘陵の先端部に位置し、その地形を巧みに利用した平山城であった 36 。現在、城跡は公園として整備されているが、東側を天然の断崖、北から西にかけてを人工の空堀で防御した構造が今も見て取れる。特に西側に残る巨大な二重の空堀は、この城が鹿角街道を押さえる重要な軍事拠点であったことを物語っている 36 。
この城跡の北東麓には、曹洞宗の寺院、江峰山聖福寺(こうほうざん しょうふくじ)が静かに佇む 33 。寺に伝わる縁起によれば、この寺は慶長元年(1596年)または3年(1598年)に、初代寺田城主である北愛一を開基(かいき、寺院設立の経済的支援者)として創建されたとされている 23 。
聖福寺の境内および裏手の墓地は、寺田北家の歴史を今に伝える貴重な場所である。ここには、四代で夭折した岩松をはじめとする北一族の墓石群、そして主君の後を追い殉死した忠臣・佐々木六助の墓が、主従並んで現存している 23 。これらは、わずか半世紀余りで興亡の歴史を閉じた一族の記憶を、400年近い時を超えて現代に語りかけている。
本報告書は、複数の近世・近代の史料を比較検討することによって、北愛一と寺田北家の実像に迫ることを試みた。その中心となった史料は以下の通りである。
これらの史料は、それぞれが持つ性格や編纂された時代背景が異なるため、記述内容に細かな相違点が存在する。例えば、愛一の知行高のように、数値に食い違いが見られる場合もある。歴史研究においては、一つの史料を鵜呑みにするのではなく、このように複数の史料を突き合わせ、その異同を明らかにしながら、最も確度が高いと判断される史実を再構築していく作業が不可欠である。本報告書もまた、その厳密な手続きに則って記述されたものである。
盛岡藩士、北愛一の生涯と、彼が創始した寺田北家の興亡の軌跡は、一見すると地方の一家臣の小さな物語に過ぎないかもしれない。しかし、その短い歴史の中には、戦国の乱世が終わり、徳川による新たな秩序が形成されていく江戸時代初期という、大きな時代の転換期を生きた武家社会の実像が凝縮されている。
愛一の出発点は、紛れもなく輝かしいものであった。南部藩中興の祖・南部信直を支えた最大の功労者である父・信愛の威光を受け、彼は若くして2500石もの知行を与えられ、独立した家を立てることを許された。九戸の乱後の領内安定化のため戦略的要衝・寺田城を任され、徳川の天下を決定づけた大坂の陣にも藩の主戦力として従軍するなど、藩主への忠実な奉公を全うした。
しかし、彼が築いた寺田北家の運命は、二代・直愛が藩主の娘を娶り、その栄華が頂点に達した直後に暗転する。鷹狩りにおける配下の失態という、一つの偶発的な事件をきっかけに家勢は大きく傾き、三代目の病弱、四代目の夭折という不運も重なり、創設からわずか半世紀余りで嫡流は断絶の悲劇を迎えた。この背景には、一度の失態も許されない、藩主に対する家臣の厳格な責任と、藩主権力を絶対的なものとして確立しようとする盛岡藩の強い意志があった。
北愛一と寺田北家の物語は、戦国の遺風である主君個人への人格的忠誠と、近世的な「家」を単位とする官僚的支配体制とが交錯する過渡期の、武家社会の非情さと存続の困難さを映し出す、生々しい縮図である。彼の人生は、華々しい成功譚としてではなく、むしろ時代の大きなうねりの中で、一族の存続という重責を担い、翻弄されながらも武士としての本分を尽くした、一人の人間の記録として評価されるべきであろう。その栄光と悲劇は、近世武家社会の構造的矛盾を解き明かすための、貴重な歴史的証言として、後世に語り継がれる価値を持っている。