日本の戦国時代、その幕開けを告げる人物として「北条早雲」の名は広く知られている。一般に流布するその人物像は、「今川家の客将から身を起こし、主家の内紛に乗じて勢力を拡大。ついには伊豆・相模の二国を武力と謀略で切り取り、関東に覇を唱えた後北条氏の礎を築いた『戦乱の梟雄』」というものであろう 1 。このイメージは、素性不明の一介の浪人が、己の才覚のみで大名へと成り上がる、いわゆる「下克上」を体現した英雄譚として、江戸時代の軍記物語などを通じて長く語り継がれてきた。
しかし、このドラマティックな「梟雄」像は、近年の実証的な歴史研究によって、その姿を大きく変えつつある。数々の史料の再検討と発見は、彼が素浪人どころか、室町幕府の中枢で活躍した名門出身のエリート官僚であったことを明らかにした 3 。彼の成功は、単なる武力や謀略によるものではなく、中央で培った高度な行政手腕と、時代の変化を的確に捉える先見性、そして緻密な戦略に基づいていたことが解明されてきたのである 5 。
本報告書は、この「梟雄」から「創業者」へという劇的な評価の変遷を軸に、数多の伝説と謎に包まれた「北条早雲」こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)の生涯を、最新の研究成果に基づいて多角的に検証し、その実像を徹底的に解き明かすことを目的とする。彼の出自の謎から、幕府官僚としての前半生、東国への転身、伊豆・相模平定の真実、そして後北条氏百年の繁栄の礎となった革新的な領国経営に至るまで、その全貌に迫っていく。
北条早雲という人物を理解する上で、まず解決すべきは、そのアイデンティティの根幹をなす「呼称」「出自」「生年」「前半生の経歴」という四つの大きな謎である。これらの謎を解き明かすことは、従来の人物像を根本から覆し、彼の行動原理を理解するための不可欠な前提となる。
最も基本的な事実として、彼自身が生涯を通じて「北条」という姓を名乗ったことは一度もない 1 。彼が公式な文書などで用いた名は、俗称である「伊勢新九郎」と、諱(いみな)である「盛時」であった 1 。また、出家後は「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」と号しており、「早雲」とはこの庵号に由来する通称である 1 。
では、なぜ彼は「北条早雲」として歴史に名を刻まれているのか。その理由は、彼の跡を継いだ二代目の氏綱にある。氏綱は、父が築いた伊豆・相模という領国を関東一円に拡大していく過程で、政治的な権威付けを必要とした。そこで、かつて鎌倉幕府の執権として関東に絶大な権威を誇った名門「北条氏」の姓を名乗り始めたのである 3 。これは、新興勢力であった伊勢氏が、関東の伝統的な権威を継承する正当な支配者であることを内外に示すための、巧みな政治的ブランディング戦略であった。このため、鎌倉時代の北条氏と区別して、早雲に始まる一族を「後北条氏」と呼ぶのが一般的である。
本報告書では、歴史上の実像に即し、彼の生涯の段階に応じて「伊勢新九郎(盛時)」や「宗瑞」といった呼称を適切に用い、通称である「早雲」も併用することで、その人物像を正確に描き出すことを目指す。
早雲の出自については、長らく謎に包まれ、様々な説が提唱されてきた。『北条五代記』などが記す「山城宇治説」や「大和在原説」、そして最も広く知られていたのが「伊勢素浪人説」である 1 。
しかし、これらの説、特に素浪人説は、現在では実証的な研究によって完全に否定されている 3 。その最大の論拠は、彼の姉(あるいは妹)とされる北川殿が、駿河国の守護大名であった今川義忠の正室として嫁いでいるという厳然たる事実である 3 。当時の厳格な身分社会において、どこの馬の骨とも知れない素浪人の縁者が、足利将軍家の一門に連なる名門・今川家と婚姻関係を結ぶことは、到底考えられない 3 。
近年の研究で確立された定説は「備中伊勢氏説」である。これによれば、彼は備中国荏原荘(現在の岡山県井原市)を所領とする伊勢盛定(もりさだ)の次男、伊勢新九郎盛時として生を受けた 3 。この伊勢氏は、室町幕府の最高政務機関である政所(まんどころ)の長官(執事)を代々世襲する名門中の名門であった 1 。早雲の父・盛定は、その分家筋にあたるが、本家である政所執事・伊勢貞国の娘を妻に迎えており、幕府中枢と極めて強い繋がりを持つ、高い家格の武士だったのである 3 。
「素浪人神話」がこれほどまでに広く受け入れられてきた背景には、彼の劇的な成功物語が、戦国時代の象徴的なキーワードである「下克上」のイメージと完璧に合致したことがある。出自不明の男が、知恵と力だけで成り上がるという物語は、旧来の秩序が崩壊していく乱世を表現する上で、非常に魅力的で分かりやすい筋書きであった。しかし、このロマンチックな物語は、彼の成功を支えた「名門の家柄」「中央政界との人脈」「高度な教養」といった、より地道で複雑な要因を覆い隠してしまった。近年の研究は、この神話を解体し、彼が既存の権力構造の中で巧みに立ち回り、その知識と人脈を最大限に活用した極めて現実的な戦略家であったことを白日の下に晒した。これは、歴史上の人物がいかに後世の価値観や物語の要請によって脚色され、その実像が歪められていくかを示す好例と言えよう。
早雲の人物像を決定づけるもう一つの大きな謎が、その生年である。長らく通説とされてきたのは、『相州兵乱記』などの軍記物にある「永正十六年(1519年)に八十八歳で没した」という記述から逆算した、永享四年(1432年)生まれという説であった 1 。
しかし近年、この説に有力な反論が提出され、現在では康正二年(1456年)生まれ、享年六十四歳であったとする説が学界の主流となっている 17 。この新説の最も強力な根拠とされるのが、文明三年(1471年)に彼が「平盛時」として署名した、備中の法泉寺に宛てた禁制文書(岡山県指定重要文化財)の存在である 19 。もし1432年生まれであれば、この時すでに39歳であり、文書の署名としては不自然さが残る。一方、1456年生まれであれば15歳となり、元服して間もない若き領主が、父に代わって所領の管理を始めた最初の公式文書として、極めて自然な年代となる。
この24年という年齢差は、単なる数字の問題にとどまらない。それは、早雲の生涯のキャリアパスと人物像そのものを根本的に書き換える力を持つ。
新しい生年説は、彼の前半生における幕府官僚としての華々しい経歴と、後半生における戦国大名としての目覚ましい活動を、より自然な一つの物語として結びつける。彼は突如として歴史の表舞台に現れた謎の老人ではなく、中央政界での経験をバネに関東へと飛躍した、時代の先端を行くエリートだったのである。
備中伊勢氏という名門に生まれた盛時(早雲)は、若くして京に上り、幕府官僚としての道を歩み始める。当初は8代将軍・足利義政の弟である足利義視に仕えたとされる 10 。その後、文明十五年(1483年)には9代将軍・足利義尚の申次衆(もうしつぎしゅう)に、さらに長享元年(1487年)には将軍直属の精鋭部隊である奉公衆(ほうこうしゅう)に任命されている 4 。
申次衆とは、将軍への取次や訴訟の受付などを行う秘書官的な役職であり、幕府の意思決定の過程に深く関与する重要なポストであった。彼はこの職務を通じて、幕府の法制度や行政システム、そして全国各地の複雑な利害関係を肌で学び、当代一流の政治・行政の実務能力を身につけたと考えられる。
また、彼は武辺一辺倒の人物ではなかった。京都滞在中には、五山文学の中心地であった建仁寺や大徳寺で禅を学んだことが記録されており 21 、これが彼の精神形成や文化的な素養に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
早雲が後に関東で展開した、他の戦国大名に先駆ける検地や税制改革といった高度な領国経営。その成功の源泉は、まさにこの京都での官僚経験にあった。彼は、幕府の中枢で、国家レベルの統治システム、財政、法制度がどのように機能し(あるいは応仁の乱を経て機能不全に陥り)、荘園制という旧来の支配体制がいかに崩壊しつつあるかを、当事者として目の当たりにしていた。彼の伊豆・相模における統治は、ゼロからの発明ではない。それは、京都で学んだ最先端の統治技術を、関東地方の現実に合わせて応用・改良したものであった。彼の革新性とは、単なる武力ではなく、この高度な「行政テクノロジー」を東国に持ち込み、新たな支配体制を構築した点にこそあるのである。
項目 |
従来説(八十八歳説) |
近年説(六十四歳説) |
生没年 |
永享4年(1432)~永正16年(1519) |
康正2年(1456)~永正16年(1519) |
根拠史料 |
『相州兵乱記』など後代の軍記物 1 |
『法泉寺文書』(文明3年の初見文書)など同時代の史料 19 |
伊豆討ち入り時の年齢 |
61歳 |
37歳 |
人物像 |
老獪な大器晩成型の武将 |
活力に満ちた青年エリート官僚 |
キャリアの整合性 |
前半生が長く空白。突如として歴史に登場する印象。 |
幕府官僚としての経歴と戦国大名としての活動が自然に繋がる。 |
この生年論争が示すように、早雲の生涯の解釈は、史料の発見と研究の深化によって大きく変化してきた。彼の物語は、京都での華々しいキャリアを捨て、東国に新たな活路を見出すところから、本格的に動き出すことになる。
京都で順調にキャリアを重ねていた伊勢新九郎盛時が、その将来を約束された地位を捨てて東国へ向かう決断を下した背景には、彼の姉・北川殿を介した今川家との深い縁があった。この駿河下向と、それに続く家督争いへの介入が、彼の人生の大きな転機となり、後の飛躍への確固たる足掛かりを築くことになる。
文明八年(1476年)、駿河の守護大名であり、盛時の義兄(姉・北川殿の夫)にあたる今川義忠が、遠江国での戦の帰途、不慮の死を遂げた 10 。跡を継ぐべき嫡男の龍王丸(たつおうまる)、後の今川氏親はまだ6歳という幼さであった 10 。
この報は、京都で幕府に仕える盛時のもとにもたらされた。姉と幼い甥が置かれた危機的な状況を救うため、彼は幕府官僚としての立場、あるいは一族の有力者として、家督争いの調停役を担うべく駿河へと下向する 3 。これは、彼の人生において東国へと舵を切る、最初の重要な一歩であった。
義忠の死後、今川家では案の定、家督を巡る内紛が勃発した。義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ)が、「幼い龍王丸に家督は務まらない」と主張し、自らが当主の座に就こうと画策したのである 10 。今川家中は、龍王丸を推す勢力と範満を支持する勢力に二分され、一触即発の事態に陥った。
この危機に際し、盛時は調停者として卓越した政治手腕を発揮する。彼は、この内紛に乗じて介入しようとした扇谷上杉家の家宰・太田道灌ら外部勢力を巧みに牽制しつつ、両派の交渉を進めた 28 。そして、「龍王丸が元服するまでは、小鹿範満が家督を代行する」という現実的な妥協案を提示し、一旦は事態を収拾することに成功した 15 。この一件で、彼は今川家中にその能力と存在感を強く印象づけた。
しかし、長享元年(1487年)、元服した氏親(龍王丸)に範満が家督を返還する約束の年になっても、範満は権力の座に居座り続けた。この約束違反に対し、盛時はついに実力行使を決断。手勢を率いて駿府の今川館を急襲し、小鹿範満を討伐した 15 。これにより、彼は正当な後継者である甥の氏親を、名実ともに今川家の当主の座に就けることに成功したのである。
この一連の行動は、しばしば早雲の野心の発露、すなわち今川家を乗っ取るための第一歩と見なされてきた。しかし、彼の立場から見れば、これは正当な後継者である甥を守り、家中の簒奪者を排除するという、極めて「義理」にかなった行動であった。彼は今川家を乗っ取ったのではなく、むしろ分裂の危機から救ったのである。この功績により、氏親から与えられた伊豆国との国境に位置する興国寺城(現在の静岡県沼津市)と富士郡の所領は、彼の野心の第一歩であると同時に、彼の忠誠と能力に対する正当な報酬でもあった 5 。この「義理堅い調停者」という評判は、後の伊豆侵攻や関東での同盟戦略において、彼の信用を担保する重要な政治的資産となったに違いない。彼は、興国寺城を拠点に、東国における新たなキャリアをスタートさせたのである。
興国寺城主として東国に確固たる地歩を築いた伊勢新九郎盛時。彼の名を一躍、歴史の表舞台に押し上げたのが、伊豆国への侵攻、いわゆる「伊豆討ち入り」である。この事件は、単なる一武将が一国を奪い取ったという点で、身分秩序が崩壊する戦国時代の到来を告げる象徴的な「下克上」として語られてきた 18 。しかし、その背景には、単なる国盗りの野心だけでは説明できない、中央政界の動乱と連動した緻密な政治的計算が存在した。
当時、伊豆国を治めていたのは、室町幕府が関東支配のために設置した出先機関、堀越公方(ほりごえくぼう)であった 29 。しかし、その支配は盤石ではなかった。延徳三年(1491年)に初代公方の足利政知が病没すると、後継者を巡って凄惨な内紛が勃発する 30 。
政知の長男であった足利茶々丸は、父から疎まれ廃嫡されていたが、父の死を好機と捉え、後継者とされていた異母弟の潤童子とその母・円満院を殺害し、力ずくで家督を強奪した 30 。さらに茶々丸は、讒言を信じて重臣の外山豊前守らを次々と誅殺するなど、恐怖政治を敷いたため、家臣団の離反を招き、伊豆国内は極度の混乱状態に陥っていた 8 。
この伊豆の混乱は、単なる地方の内紛にとどまらなかった。明応二年(1493年)、京都で管領・細川政元がクーデターを起こし、時の将軍・足利義材(よしき)を追放、新たに足利義澄(よしずみ)を将軍に擁立するという「明応の政変」が発生した 35 。この政変により、旧将軍・義材の縁者であった茶々丸は、新政権にとって排除すべき旧体制派の重要人物と見なされるようになったのである。
ここに、盛時の伊豆侵攻の真の動機が見えてくる。彼の行動は、単に隣国の混乱に乗じた火事場泥棒的な国盗りではなかった。それは、京都で成立した細川・義澄新政権の意向を受け、今川氏の将として、新将軍・義澄(皮肉にも茶々丸の弟であったが、政敵である)の権威を背景に、旧体制派の茶々丸を討伐するという「大義名分」を伴った軍事行動であった可能性が極めて高い 18 。彼の下克上は、無秩序な暴力ではなく、より大きな政治的文脈の中で正当化された、計算され尽くした行動だったのである。この視点に立つとき、「下克上の梟雄」という従来のイメージは、中央政界の動向と連携し、新たな時代の秩序を形成しようとする「新時代の秩序形成者」へと大きく転換する。
大義名分を得た盛時は、今川の軍勢を率いて伊豆へ侵攻。堀越公方の本拠地である堀越御所を急襲し、領内が混乱していた茶々丸を敗走させた。そして、伊豆支配の新たな拠点として、堀越御所の近くに韮山城を築き、そこを本拠地とした 29 。
彼の伊豆統治の手法は、武力一辺倒ではなく、巧みなアメとムチを使い分けたものであった。彼は伊豆領内に高札を立て、「味方に付けば、これまでの所領を安堵する。しかし、抵抗するならば、作物を荒らし、住居を破壊し、攻め滅ぼす」と宣言した 18 。この明確な方針は、伊豆の国人衆に恭順か抵抗かの二者択一を迫るものであった。
抵抗する勢力に対しては、容赦ない態度で臨んだ。最後まで抵抗した堀越公方の重臣・関戸吉信が籠る深根城に対しては、徹底的な殲滅戦を行い、城兵のみならず、城内にいた女子供や僧侶までことごとく処刑し、その首を見せしめとして晒したという 30 。この冷徹なまでの現実主義は、彼の武将としての一面を如実に示している。
一方で、彼は侵略者としてだけではなく、新たな統治者としての正統性を確立することにも細心の注意を払った。彼は伊豆を支配下に置くと、直ちに領内の年貢を軽減し、戦乱で苦しむ病人を手厚く看護するなど、民衆の支持を得るための善政を積極的に敷いた 27 。この民政重視の姿勢は、圧政に苦しんでいた伊豆の民衆から熱烈な歓迎を受け、彼の支配を内側から強固なものにした。
『北条五代記』などの軍記物は、伊豆平定がわずか「一か月」で完了したかのように記しているが、実際には茶々丸派の抵抗は根強く、伊豆全土を完全に掌握するには数年を要したと見られている 27 。しかし、武力による制圧と、民衆の心をつかむ善政を両輪とする彼の統治手法が、後の後北条氏百年にわたる安定経営の原型となったことは疑いようがない。
伊豆国を手中に収め、戦国大名としての第一歩を踏み出した伊勢新九郎盛時。彼の次なる目標は、伊豆の東に広がる関東の要衝、相模国(現在の神奈川県の大部分)の平定であった。この相模統一の過程で、彼の名は数々の伝説に彩られることになる。しかし、その伝説の背後には、史実に基づいた冷徹な戦略と、関東の複雑な政治状況を読み解く高度な政略が存在した。
早雲の武功として最も有名な逸話の一つが、相模西部の拠点であった小田原城の奪取である。軍記物『北条記』などが描く物語は、実に鮮やかだ。早雲は小田原城主・大森藤頼に贈り物を重ねて油断させ、「箱根山で鹿狩りをしたい」と偽って領内への立ち入りを許可させる。そして夜陰に乗じ、千頭もの牛の角に松明をくくりつけて突進させ、大軍が攻め寄せたと見せかけて城を奇襲し、一夜にして奪い取ったという 29 。この「火牛の計」の伝説は、早雲の智謀と狡猾さを象徴する逸話として、長く語り継がれてきた。
しかし、この劇的な物語は、後世の創作である可能性が極めて高い 10 。そもそも、小田原城がいつ、どのようにして早雲の手に落ちたのか、確たる史料は存在せず、明応四年(1495年)という年も通説に過ぎない 5 。
近年の研究で有力視されているのは、より政治的な文脈に基づいた説である。当時、関東は山内上杉氏と扇谷上杉氏という二つの上杉家が覇権を争っており、早雲は扇谷上杉家と同盟関係にあった 42 。一方、小田原城主の大森藤頼は、もともと扇谷上杉方に属していたが、何らかの理由で敵対する山内上杉家に寝返った。この同盟者による裏切り行為に対し、早雲が扇谷上杉家との同盟の義理を果たすべく、正当な軍事行動として小田原城を攻撃・攻略した、というのが新たな真相として浮かび上がっている 40 。
この二つの説が描き出す早雲像は、全く異なる。「火牛の計」は彼を「狡猾な謀略家」として描く。しかし、大森藤頼の寝返り説は、彼を「同盟の義理を重んじる政略家」として描き出す。彼は、衝動的な国盗りを行ったのではなく、関東の二大勢力が織りなすパワーバランスというマクロな政治状況を的確に読み切り、それを自らの勢力拡大の好機として利用した。これは、彼の行動が、単なる謀略ではなく、極めて高度な政治的判断に基づいていたことを示唆している。
小田原城を手に入れ、相模国に深く食い込んだ早雲の前に、最後の、そして最大の壁として立ちはだかったのが、相模の旧来の支配者であり、鎌倉時代以来の名門・三浦氏であった 45 。当主の三浦道寸(どうすん、義同)と、その子・義意(よしおき)は、新興勢力である早雲の進出に激しく抵抗した。
早雲は、この難敵を攻略するため、周到な準備を進める。永正九年(1512年)、彼は三浦氏の本拠地である三浦半島を睨む要衝の地に、玉縄城(現在の神奈川県鎌倉市)を築城した 38 。この城は、三浦氏を攻めるための前線基地であると同時に、相模湾を扼する水軍の拠点としても、後の後北条氏の関東支配において重要な役割を果たしていくことになる 38 。
岡崎城、住吉城といった拠点を次々と失った三浦道寸・義意親子は、三方を海に囲まれた天然の要害、新井城(現在の神奈川県三浦市)に追い詰められた 45 。しかし、彼らはここから驚異的な粘りを見せる。援軍の望みが薄い中、三年間にも及ぶ壮絶な籠城戦を展開したのである 46 。この戦いは、日本の籠城戦の歴史の中でも特筆すべきものとして知られている。
だが、衆寡敵せず、永正十三年(1516年)七月、ついに援軍の望みを絶たれた三浦親子は、城兵と共に城から打って出て最後の決戦を挑み、玉砕した 8 。道寸は自刃し、身長2メートルを超す巨漢で金砕棒を振るって奮戦したという義意も討ち死を遂げた 52 。この戦いの凄惨さは、討ち死にした三浦一族の血で城前の湾が油を流したように染まったことから、その地が「油壺」と呼ばれるようになったという伝説にも、生々しく刻まれている 51 。
ここに、鎌倉以来の名門三浦氏は滅亡し、早雲は伊豆・相模の二国を完全に手中に収めた。一介の幕府官僚が東国に下ってから約40年、彼はついに戦国大名として、関東に揺るぎない地歩を築き上げたのである。
伊豆・相模を平定した北条早雲の真価は、その武力や戦略のみにあるのではない。彼の最も特筆すべき功績は、その後の後北条氏百年の繁栄を可能にした、極めて革新的で合理的な領国経営システムを構築した点にある。彼が導入した税制や土地制度は、戦国の世にあって領民の生活を安定させ、国力を飛躍的に増大させる原動力となった。
早雲は、自らが支配下に置いた土地において、年貢率を「四公六民」に定めたと伝えられている 7 。これは、その土地の収穫高の四割を領主が年貢として徴収し、残りの六割を農民の取り分とするという税制である。
これが当時の基準から見ていかに画期的な低税率であったかは、他の地域と比較することで明らかになる。戦国時代の年貢率は、五公五民(税率50%)が一般的であり、戦乱が激しい地域や財政難に苦しむ大名の領地では、六公四民(60%)や甚だしい場合には七公三民(70%)という過酷な収奪が行われることも珍しくなかった 55 。このような状況下で早雲が打ち出した四公六民という税率は、領民にとってまさに破格の恩恵であった。
支配者/時代 |
年貢率(公:民) |
備考 |
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北条早雲 |
四公六民 (40%) |
『北条五代記』に記載。領民の支持を得て、国の安定に寄与 7 。 |
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戦国時代(一般的) |
五公五民 (50%) |
比較的安定した地域の基準 55 。 |
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戦国時代(苛烈な例) |
六公四民~七公三民 (60-70%) |
頻繁な戦争や財政難の大名領で見られた。農民の逃散や一揆の原因となる 55 。 |
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江戸時代(目安) |
四公六民 (40%) |
幕府が目指した理想的な税率。戦乱が収まった時代の基準 56 。 |
この政策は、単なる農民への温情や人気取りではなかった。その背後には、極めて高度な経済合理性に基づいた国家戦略が存在した。第一に、農民の手取りが増えることで、彼らの労働意欲、すなわち生産意欲が向上し、長期的には領国全体の総生産高(石高)の増加につながる。第二に、「早雲様の国に行けば楽になれる」という評判が広まれば、他国から優れた労働力である農民が流入し、人口増加と耕地の拡大が期待できる 38 。第三に、農民の不満を根本から解消することで、一揆などの社会不安のリスクを低減させ、統治コストを大幅に削減できる。これにより、領主は安心して軍事行動やさらなる領土経営に専念できるのである。
つまり、早雲は目先の増収という短期的な利益よりも、領国の持続的な経済成長と社会の安定という、より大きな長期的利益を優先した。これは、近代的とも言える経済思想に基づいた、卓越した統治哲学であったと言えよう。
早雲の革新性を象徴するもう一つの政策が、「検地」(土地調査)の実施である。彼は、他の多くの大名に先駆けて、領国内で体系的な検地を行った戦国大名の嚆矢(こうし)とされている 5 。史料によって確認できる最初の検地は、永正三年(1506年)に実施された相模国西郡宮地(現在の神奈川県湯河原町)でのものである 58 。
検地の目的は、それまで土地を重層的に支配していた荘園領主や国人領主といった中間支配層を排除し、大名が直接、領内の全ての田畑の面積、等級(土地の肥沃度)、そしてそこから見込まれる公定収穫高(石高)を把握することにあった 57 。それまでの大名の支配は、在地勢力からの自己申告(指出検地)に依存することが多く、不正確で中間搾取の温床となっていた 61 。
早雲が導入した直接的な検地は、領国内のあらゆる土地と人民を、大名という単一の権力の下で一元的に管理する「中央集権体制」の確立を意味した。これにより、公平で正確な課税が可能になるだけでなく、家臣への所領の配分(知行)や、それに応じた軍役負担の算定も、客観的な基準に基づいて行うことができるようになった 36 。
この政策は、中世の複雑で曖昧な支配構造を解体し、後の豊臣秀吉による全国的な「太閤検地」へとつながる、近世的な一元支配体制への道を切り拓く、まさに画期的なものであった。検地は、後北条氏の支配の根幹をなす、最も重要な統治技術だったのである。
早雲の統治哲学は、彼自身の作と伝えられる家訓『早雲寺殿廿一箇条』にも色濃く反映されている 62 。この家訓が早雲自身の筆によるものかについては、確たる証拠がなく、後世に彼の言行がまとめられたものとする見方が有力である 63 。しかし、いずれにせよ、これが後北条氏の家臣団が共有すべき価値観を示したものであることは間違いない。
その内容は、極めて具体的かつ実践的である。「一、神仏を信ずること」から始まり、「一、朝は早く起きること」「一、夜は早く寝ること」「一、嘘をついてはならない」「一、文武弓馬の道に励むこと」といった、武士としての基本的な心構えから、礼儀作法、友人の選び方、火の用心、倹約に至るまで、日常生活の細かな心得が平易な言葉で記されている 63 。
注目すべきは、この家訓が、旧来の名門の家柄や格式といった伝統的な価値観よりも、勤勉、正直、倹約、実務能力といった、実力主義の新しい時代に求められる「官僚的」とも言える徳目を重視している点である。これは、早雲が、独立性の高い土豪の連合体であった家臣団を、大名の命令を忠実に実行する、近代的で機能的な行政組織へと再編しようとしていたことを示唆している。
『早雲寺殿廿一箇条』は、単なる精神論ではなく、彼が理想とする国家を支える人材を育成するための、思想的な基盤であり、新たな支配者層を創出するための教育マニュアルであった。早雲が築いた王国の強さは、城や兵力だけでなく、こうした人間を育てるシステムにも支えられていたのである。
相模一国を平定し、革新的な領国経営によってその支配を盤石なものとした北条早雲。彼の最後の、そして最大の仕事は、自らが一代で築き上げたこの王国を、いかにして次代に安定して継承させ、百年の礎とするかであった。戦国時代の多くの大名家が、後継者問題や家督争いによって衰退・滅亡していく中、早雲が示した道は、後北条氏の未来を決定づけるものとなった。
永正十五年(1518年)頃、早雲は家督を嫡男の氏綱に譲り、第一線から退いた 8 。しかし、これは完全な引退を意味するものではなかった。彼は本拠地であった韮山城に隠居しつつも、小田原城の氏綱に対して助言を続けるなど、後見役として絶大な影響力を保持し続けた 17 。事実、彼の死の直前である永正十六年四月にも、自らの印判「纓」を用いて箱根の所領を譲渡した文書が残っており 8 、その権威と政治的判断力が最後まで衰えなかったことを物語っている。
戦国時代において、多くの創業者がその絶大な権力ゆえに後継者への権力移譲に失敗する中、早雲は生前に家督を譲り、自らは後見役としてその統治を支えるという、極めて円滑な事業承継を実現した。これは、彼の先見性と組織運営能力の高さを示すものと言えよう。
永正十六年(1519年)八月十五日、伊豆の韮山城にて、北条早雲こと伊勢新九郎盛時はその波乱に満ちた生涯を閉じた 8 。享年は、近年の研究に基づけば六十四歳であった。
その死に際し、彼は跡を継いだ氏綱に「小田原を基とし、関東の覇者たれ。されど民を愛し、城を守るを忘れるな」という遺言を残したと伝えられている 17 。この言葉は、領土拡大という野心と、民政重視という統治の基本を両立させることの重要性を説いた、彼の統治哲学の集大成であった。
さらに、早雲の思想は、彼が直接遺したとされる『早雲寺殿廿一箇条』だけでなく、息子の氏綱がさらにその子・氏康に遺した『五箇条の訓戒』にも、色濃く受け継がれている 68 。この訓戒で説かれる「一、義を大事にすること」「一、侍から農民に至るまで、全てを慈しむこと」「一、驕らずへつらわず、身の程をわきまえること」「一、倹約を心がけること」、そして有名な「一、勝って兜の緒を締めよ」という教えは、早雲から氏綱へ、そして氏綱から氏康へと、三代にわたって継承された後北条家の家訓の核であり、その精神的支柱となった。
父の死後、氏綱はその遺志を継ぎ、大永元年(1521年)、箱根湯本の地に父の菩提を弔うための寺院、早雲寺を創建した 71 。早雲の遺体は、修禅寺で荼毘に付された後、この早雲寺に葬られたと伝えられる 73 。
そして、氏綱の代に、後北条氏の歴史における決定的な転換が訪れる。彼は、父祖の姓である「伊勢」を改め、関東支配の正当性を内外に示すため、鎌倉執権家の名跡である「北条」を名乗り始めたのである 3 。ここに、単なる伊豆・相模の新興勢力は、関東に覇を唱える名門「後北条氏」として、その歴史を正式にスタートさせた。
早雲の最大の功績は、単に武力で領土を征服したことではない。それは、今川家や堀越公方が直面したような家督争いのリスクを克服し、安定した権力移譲システムと、世代を超えて受け継がれるべき明確な統治理念を確立したことにこそある。彼が築いたのは、城や領土といった物理的な資産だけではなかった。安定した統治と持続的な発展を可能にする「経営理念」と「事業承継計画」こそが、彼が遺した最大の遺産であった。これこそが、後北条氏が戦国の世にあって、五代約百年にわたり関東に君臨し得た、最大の要因なのである。
本報告書を通じて明らかにしてきたように、北条早雲こと伊勢新九郎盛時の実像は、従来の「素浪人上がりの梟雄」という一面的なイメージとは全く異なる、複雑で多面的なものであった。彼は、下克上の代名詞として語られる一方で、その行動の多くが幕府や主家との関係性の中で正当化される、義理堅い側面をも持ち合わせていた。
彼の本質を捉えるならば、それは室町幕府の官僚として培った高度な行政手腕と、戦国の乱世を生き抜くための冷徹な現実主義を兼ね備えた、類稀な「経世家(けいせいか)」であったと言えるだろう。彼は、武力のみに頼るのではなく、政治、経済、法、そして人心掌握といった、国家経営に関わるあらゆる要素を駆使して、自らの王国を築き上げた。
彼が断行した検地による土地と人民の一元的な把握、四公六民に象徴される民政を重視した税制改革、そして『早雲寺殿廿一箇条』に見られる機能的な家臣団の育成。これら一連の政策は、荘園制に代表される中世的な重層的支配体制を打破し、大名による直接的かつ一元的な領国支配、すなわち「近世」的な国家の萌芽を、いち早く関東の地にもたらしたものであった。その意味において、彼は織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業に先駆ける、戦国最初の「近代的」領主であったと評価することができよう。
北条早雲の生涯は、一個人の立身出世の物語にとどまらない。それは、古い秩序が崩壊し、新たな価値観が模索される激動の時代に、いかにして新たな社会システムを構築していくかという、壮大な実験であった。彼の人生は、日本社会が中世から近世へと大きく転換していく、その時代のダイナミズムそのものを体現しているのである。