日本の戦国時代、その終焉を告げる巨大な画期となった豊臣秀吉による小田原征伐。この歴史的転換点において、関東に覇を唱えた後北条氏は滅亡の道をたどった。しかし、その一族の中にあって、滅びゆく宗家の運命と、新たに誕生する徳川の世という二つの時代の狭間で苦悩し、決断を重ね、ついには大名として家名を存続させることに成功した人物がいる。それが、相模国玉縄城の最後の城主、北条氏勝である。
氏勝の生涯は、単に「敗戦し、降伏した武将」という一言で片付けられるものではない。彼は、後北条一門の中でも屈指の武門とされた玉縄北条家の当主として、一族の誇りと重責をその両肩に担っていた。山中城での壮絶な敗北、宗家との間に生じた相克、そして徳川家康への帰順という一連の出来事は、彼が置かれた極限状況下での人間的な葛藤と、冷徹なまでの現実主義的判断の軌跡を物語っている。
本報告書は、北条氏勝という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の出自から、後北条家臣としての活動、小田原征伐における決断の背景、そして徳川大名としての再生と、その後の家名存続をめぐる葛藤に至るまでを多角的に検証する。これにより、氏勝を、後北条氏の終焉と徳川幕藩体制の創生という、二つの時代の奔流を生き抜いた稀有な人物として再評価し、その選択が持つ歴史的意味を明らかにしたい。
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
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1559年 |
永禄2年 |
北条氏繁の次男として誕生 1 。 |
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1578年 |
天正6年 |
父・氏繁が下総飯沼城にて病死 2 。兄・氏舜が家督を継承。 |
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1582年頃 |
天正10年 |
兄・氏舜の早世により、家督を継承。この頃、発給文書に「氏勝」の名が初見される 4 。伊豆大平新城の守備、武田方の戸倉城攻略に参加 5 。 |
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1583年 |
天正11年 |
玉縄北条家当主の官途名「左衛門大夫」を名乗り始める 4 。 |
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1584年 |
天正12年 |
下野国の皆川城、太平山城での合戦に出陣 4 。 |
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1586年 |
天正14年 |
再び下野に出陣 4 。 |
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1590年 |
天正18年 |
小田原征伐 3月29日:伊豆山中城の守将として豊臣方と交戦するも、半日で落城。自害を図るが家臣に制止され、玉縄城へ敗走 4。 |
4月:徳川家康軍に玉縄城を包囲される。龍寶寺住職らの説得を受け、降伏・開城 9。 |
4月以降:徳川家康の麾下に入り、北条方諸城の無血開城に尽力 11。 |
8月:徳川家康の関東入国に伴い、下総国岩富に1万石を与えられ、岩富藩主となる 1。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い 東軍に属し、犬山城の守備などを担当する 6。 |
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1611年 |
慶長16年 |
3月24日、死去。享年53 1 。家督は養子の北条氏重が継承。 |
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1612年 |
慶長17年 |
氏勝の死後、家督相続に不満を抱いた実弟・繁広が江戸で急死 15 。 |
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1613年 |
慶長18年 |
養子・氏重が下野国富田藩へ移封。岩富藩は廃藩となる 16 。 |
北条氏勝の人物像を理解するためには、まず彼が継承した「玉縄北条家」が、後北条氏の巨大な権力構造の中でいかに特異かつ重要な位置を占めていたかを知る必要がある。彼が背負ったものは、単なる城や領地ではなく、輝かしい武功によって築き上げられた名門としての誇りと、宗家との複雑な関係性という二重の遺産であった。
玉縄城は、永正9年(1512年)、後北条氏の始祖・北条早雲によって築かれたとされる 1 。その地理的位置は、本城である小田原の東方を守り、鎌倉を抑え、さらには三浦半島への睨みを利かせるという、軍事戦略上、極めて重要な拠点であった 13 。この要衝を預かる玉縄北条家は、後北条一門の中でも特別な役割を担う支族として成立した。
初代城主は、二代当主・北条氏綱の子である為昌であった 18 。しかし、為昌が天文11年(1542年)に若くして亡くなると、家督は北条綱成が継承する 13 。綱成は、近年の研究によれば為昌の養子ではなく、氏綱の娘を娶った婿であり、その出自は北条一門ではなかったとされる 13 。この継承劇は、玉縄北条家が宗家の純粋な血筋による分家から、武功に優れた武将がその実力をもって当主となる、いわば実力主義的な側面を持つ家系へと変質したことを示している。
その綱成こそ、「地黄八幡」の旗印を掲げ、河越夜戦をはじめとする数々の合戦で鬼神のごとき武勇を轟かせた名将であった 13 。彼の活躍により、玉縄北条家は後北条氏の軍事力を象徴する存在となり、その武名は関東一円に鳴り響いた。
綱成の嫡男として家を継いだのが、氏勝の父である氏繁である。初名を康成と名乗った彼は、天文5年(1536年)に生まれた 2 。氏繁の代になり、玉縄北条家の家格はさらに向上する。その背景には、彼の血縁関係があった。父・綱成は北条一門ではなかったが、氏繁の母は二代当主・氏綱の娘(大頂院殿)であり、さらに彼自身は三代当主・氏康の娘(七曲殿)を正室に迎えていた 2 。
この二重の婚姻関係により、氏繁は単なる支族の当主ではなく、宗家の子息に準ずる極めて高い地位を与えられた 13 。彼はその立場に安住することなく、父譲りの武才を発揮し、軍事面で活躍する一方、陸奥の白河氏との外交交渉を担当するなど、政務においても重要な役割を果たした 2 。後には武蔵岩槻城の城代や鎌倉代官をも兼任し、玉縄北条家の権勢を確固たるものにしたのである 2 。しかし、天正6年(1578年)、対佐竹氏の最前線であった下総飯沼城(逆井城)に在城中、病に倒れ、その生涯を閉じた 2 。
氏勝が相続したのは、このような輝かしい歴史を持つ家であった。祖父・綱成は外部からの登用でありながら武功によって家を興し、父・氏繁は婚姻によって宗家との結びつきを強化し家格を高めた。この事実は、玉縄北条家が「功績によって認められた家」という側面を持つことを意味する。氏勝が背負ったプレッシャーは、単に「北条最強の軍団を率いる」という武門としての重圧だけではなかった。それは、宗家に対して絶対的な忠誠を誓いつつも、どこかで自立性を保たねばならないという、複雑な立場そのものであった。この宗家との微妙な心理的距離感が、後の彼の運命を大きく左右することになる。
北条氏勝は、永禄2年(1559年)、氏繁の次男として生を受けた 1 。父・氏繁の死後、家督はまず兄の氏舜が継承したが、氏舜は病弱であったのか早世したとみられている 4 。これにより、天正10年(1582年)5月頃、氏勝が玉縄北条家六代当主の座に就いた 4 。この時期に発給された文書に、初めて「氏勝」という署名が確認される 4 。
家督を継いだ翌年の天正11年(1583年)には、玉縄北条家の当主が代々名乗ってきた官途名である「左衛門大夫」を称するようになる 4 。若き当主となった氏勝は、早速その武将としての力量を試されることになる。家督相続直後の天正10年(1582年)には、天正壬午の乱後の混乱が続く中、伊豆大平新城の守備につき、旧武田方の残党が立てこもる戸倉城の攻略戦に参加した 5 。さらに、天正12年(1584年)と天正14年(1586年)には、北関東の覇権をめぐり、下野国(現在の栃木県)の皆川城や太平山城での合戦に出陣しており、後北条氏の主戦力として、その責務を忠実に果たしていたことが記録されている 4 。
【後北条氏宗家】 【玉縄北条家】
北条氏綱 福島氏
┣━━━┳━━━━━┓ ┃
氏康 為昌 大頂院殿 =========== 北条綱成(地黄八幡)
┣━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ ┃
氏政 氏照 氏規 七曲殿 ======= 北条氏繁(康成)
┣━━━┓ ┣━━━━━━┳━━━━━━┓
氏直 直重 氏舜 **北条氏勝** 繁広
|(養子) |(養子)
| ┗━━━━┓
| ┃
【徳川家】 | ┃
徳川家康 | ┃
|(異父妹) | ┃
多劫姫 === 保科正直 | ┃
┃ | ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 北条氏重 ━━━━━━┛
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉の大軍が関東に押し寄せた時、北条氏勝は一族の存亡を賭けた戦いの最前線に立たされる。この小田原征伐における彼の一連の行動、特に山中城での敗戦とその後の決断は、彼の運命を決定づけるだけでなく、後北条氏の内部に潜んでいた構造的な脆弱性を浮き彫りにするものであった。
小田原征伐が始まると、氏勝は後北条氏の本拠・小田原城の西方を守る最も重要な防衛拠点である、伊豆山中城の守備を命じられた 1 。当時の城主は松田康長であったが、玉縄衆を率いる氏勝は、間宮康俊らと共に約4,000の兵を率いて援軍として入城した 8 。
対する豊臣方は、関白・豊臣秀次を総大将とし、中村一氏、一柳直末らの部隊を加えた、実に約7万ともいわれる大軍であった 18 。兵力差は歴然としていたが、山中城は後北条氏が誇る築城技術の粋を集めた堅城であり、特に障子堀や畝堀といった独特の堀の構造は、敵の進攻を阻む上で絶大な効果を発揮すると期待されていた 7 。
しかし、天正18年3月29日、豊臣方の総攻撃が開始されると、戦況は北条方の予想をはるかに超えて凄惨なものとなる。中村一氏配下の猛将・渡辺勘兵衛らが一番乗りを果たすと 8 、圧倒的な兵力で押し寄せる豊臣軍の猛攻の前に、北条方が誇る防御施設は次々と突破された。北条方も間宮康俊らが鉄砲隊を駆使して激しく抵抗したが 8 、衆寡敵せず、戦いはわずか半日、一説には数時間で決着した 7 。この短時間の攻防で、両軍合わせて2,000人以上もの死者が出たとされ、戦国時代でも類を見ない壮絶な籠城戦となった 7 。
山中城の落城が目前に迫る中、守将の一人であった氏勝は、もはやこれまでと自害を図る。武門の棟梁として、城を失う屈辱に耐えられなかったからであろう。しかし、その場にいた弟の直重・繁広、そして家臣の朝倉景澄らが必死に諫め、彼を制止した 4 。九死に一生を得た氏勝は、残存兵力を率いて城を脱出する。
ここからの氏勝の行動が、彼のその後の運命を大きく左右した。彼は敗走後、全軍が集結し籠城戦の指揮を執る本城・小田原城には向かわなかった。代わりに、自らの本拠地である相模玉縄城へと直接帰還し、籠城の構えを見せたのである 4 。
この「小田原素通り」とも言うべき行動は、後北条氏の当主・氏政や隠居・氏直の目には、極めて不可解なものと映った。敗軍の将が戦況報告もせずに自領へ引き下がることは、戦線放棄、あるいは最悪の場合、敵方への内通すら疑われかねない行為であったからである。事実、この行動によって氏勝は氏政から「疑念の目」を向けられたとされ、宗家との間に埋めがたい溝が生じた 11 。
この決断の背景には、氏勝の複雑な心理があったと考えられる。山中城での惨敗は、「武門の誇り」を背負う彼にとって耐え難い屈辱であった。その姿で小田原城へ赴けば、敗将として厳しい叱責を受けることは免れない。それ以上に、手勢の多くを失った自分が、巨大な籠城戦の中で一人の駒として扱われることへの無力感もあったであろう。一方で、玉縄城には彼が守るべき家臣団と領民がいた。彼らにとっての主君は氏勝であり、氏政ではない。小田原で無為に死ぬよりも、自らの城と民の行く末を見届けることこそが「玉縄城主」としての最後の責任だと考えたとしても不思議ではない。この責任感と、宗家への不信感が入り混じった極めて人間的な判断が、彼を玉縄城へと向かわせたのである。
玉縄城に帰還し籠城した氏勝であったが、やがて徳川家康率いる軍勢によって城は完全に包囲された 9 。しかし、家康は力攻めを選択しなかった。彼は、氏勝の心理状態と、宗家との間に生じた亀裂を的確に見抜いていたのかもしれない。
家康は、武力による威嚇ではなく、巧みな降伏勧告の道を選んだ。その使者として白羽の矢が立てられたのは、玉縄北条氏の菩提寺であり、氏勝自身も深く帰依していた龍寶寺(当時は大応寺とも称した)の住職、了達(良達)であった 9 。一説には、この了達は氏勝の叔父にあたる人物だったともいう 26 。信頼する僧侶、それも身内かもしれない人物からの説得は、氏勝の心を動かすのに十分であった。宗家からの「疑念」とは対照的な、敬意を払った家康の対応は、孤立していた氏勝にとって唯一の活路に見えたであろう。
説得を受け入れた氏勝は、天正18年4月21日(一説には28日)、大きな抵抗をすることなく城門を開き、徳川軍に降伏した 9 。玉縄城の無血開城は、単なる軍事的劣勢によるものではない。山中城での敗戦を起点とする「宗家との心理的決別」という、後北条氏の内部崩壊のプロセスが、家康の巧みな外交戦略と結びついた結果生じた、必然的な帰結であったと言える。
降伏後、氏勝の立場は劇的に変わる。彼は徳川家康の麾下に組み入れられ、今度は豊臣方の一員として、浅野長政らの将と共に、下総方面などに残る旧北条方の諸城に使者を送り、無血開城を促すという重要な役割を担った 11 。昨日までの味方に降伏を説いて回るという、精神的に過酷な任務であったが、彼はこれを忠実に遂行した。この働きが、彼の命運を救い、新たな道を開くことになる。
後北条氏の滅亡という未曾有の事態の中、北条氏勝は自らの決断によって生き残りの道を見出した。それは、かつての敵将であった徳川家康に仕え、新たな支配秩序の中で再生を図るという道であった。家康が氏勝を厚遇した背景には、単なる恩情や功績への褒賞だけでなく、広大な旧北条領を円滑に統治するための、高度な政治的計算が存在した。
玉縄城の無血開城、そしてその後の北条方諸城への降伏勧告における氏勝の働きは、豊臣方、特に彼の直接の交渉相手となった徳川家康から高く評価された 11 。結果として、宗家の当主であった氏直が高野山へ追放され、重臣の多くが処断される中、氏勝は敵将としては異例の厚遇を受け、家康の家臣団に組み込まれることになった 1 。
これは、家康にとって極めて戦略的な一手であった。家康は、小田原征伐後に北条氏の旧領の大部分を与えられ、新たに関東の支配者となった。しかし、その広大な領地には、数十年にわたり北条氏の善政に慣れ親しんできた武士や領民が数多く存在した。『徳川実紀』の記述によれば、領民はいつまでも旧主の北条氏を慕い、家康の初期の統治は困難を極めたという 29 。
このような状況下で、北条一門の中でも特に武門として名高い玉縄家の当主・氏勝を大名として取り立てることは、旧北条勢力に対する強力な懐柔策となった。氏勝に諸城を説得させたこと自体が、無用な流血を避けるという実利に加え、「北条氏自身が、徳川の世を受け入れた」という強力な政治的メッセージを発信する効果を持っていた。氏勝は、家康の関東統治戦略における「生きた象徴」としての価値を見出されたのである。
天正18年(1590年)8月、家康が正式に関東に入国すると、氏勝は下総国印旛郡岩富(現在の千葉県佐倉市岩富町周辺)に一万石の所領を与えられ、岩富藩の初代藩主となった 1 。これにより、彼は滅びゆく戦国大名の一族から、新たな徳川幕藩体制下の大名へと、その立場を完全に転換させた。
彼が入封した岩富城は、もともと下総の名族・千葉氏の重臣であった原氏の居城であった 14 。しかし、原氏は小田原征伐において北条方についたため没落しており、氏勝はその跡地を継承する形となった。この配置もまた、北条氏と関係の深かった千葉氏の旧領に、旧北条一門の氏勝を置くことで、地域の安定化を図るという家康の意図があった可能性が考えられる。
新たな領主となった氏勝は、領内の基盤整備に着手した。特に、領内であった佐倉市直弥の真言宗寺院・宝金剛寺に篤く帰依し、寺領百石を寄進して荒廃していた寺を再興するなど、地域の寺社政策に深く関与した記録が残っている 16 。これは、新たな領主としての権威を示すと同時に、地域の民心掌握を図るための重要な施策であった。
徳川家臣となった氏勝は、その忠誠を試される機会を得る。慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、彼は当然のことながら東軍に属して参陣した。この戦いにおいて、彼は犬山城の守備などを担当したと伝えられており、東軍の勝利に貢献した 6 。
この関ヶ原での功績もあり、氏勝は徳川政権内での地位を固めていった。特に、二代将軍となる徳川秀忠からの信頼も厚かったとされ、旧北条一門でありながら、徳川譜代の家臣に遜色ない扱いを受けていたことがうかがえる 6 。彼は自らの存在価値を巧みに利用し、新たな支配者の下で家名を存続させるという、最も困難な課題を成し遂げたのである。
徳川大名として再生を果たした北条氏勝であったが、その晩年から死後にかけて、岩富北条家は深刻な後継者問題に揺れることになる。この問題は、単なる家督争いではなく、血の継承を重んじる旧来の価値観と、新たな支配体制への順応を最優先する政治的現実主義との間の、壮絶な葛藤を象徴する出来事であった。それは、氏勝個人の意思を超えた、徳川政権下における「家の生き残り戦略」の最終局面でもあった。
氏勝には氏明という実子がいたとの記録もあるが 5 、詳細は不明であり、恐らく早世したか、あるいは家を継げる状態ではなかったと推測される。そのため、氏勝は当初、実弟である繁広を養子とし、自らの後継者とするつもりであった 32 。血筋から見れば、これは最も自然な選択であった。
しかし、この決定に待ったをかけたのが、玉縄城時代からの重臣であった堀内氏である。『寛政重修諸家譜』によれば、堀内靱負(ゆきえ)と名乗る重臣が、かねてより繁広と不仲であったことを理由に、この家督相続に強く反対した 5 。
堀内氏らが代案として擁立したのは、信濃高遠城主・保科正直の四男である氏重であった 33 。この人選には、極めて政治的な意味合いがあった。氏重の母・多劫姫は、徳川家康の異父妹にあたる。つまり、氏重は家康の外甥(甥)であり、徳川将軍家と直接的な血縁関係にあったのである 16 。
重臣が繁広を「嫌った」というのは表向きの理由に過ぎず、その真の動機は「岩富北条家の安泰」にあったと考えるのが妥当であろう。実弟の繁広が家督を継いだとしても、それは旧北条家の血筋が続くだけであり、徳川政権との繋がりは希薄なままである。外様大名として、いつ些細な理由で取り潰されてもおかしくない不安定な立場に置かれるリスクを、重臣たちは恐れたのである。一方、家康の外甥である氏重を当主に迎えれば、岩富北条家は徳川家の準親藩とも言うべき立場となり、その存続は極めて強固なものになる。この冷徹なまでの政治判断が、血の継承という伝統を覆した。
最終的にこの案が通り、氏重が氏勝の養嗣子となる。そして慶長16年(1611年)、氏勝は波乱の生涯を終えた。享年53であった 1 。
氏勝の死後、家督は幕府の意向通り、養子の氏重が継承した。この決定に到底納得できなかったのが、後継者の座を奪われた繁広であった。彼は家督相続の不当性を幕府に直接訴えるため、慶長17年(1612年)6月6日、江戸へ出向いた 15 。
しかし、彼の訴えが聞き入れられることはなかった。それどころか、江戸に到着してわずか2日後の6月8日、繁広は江戸屋敷で急死してしまう 15 。享年39。あまりに時宜を得たその死には、かねてより毒殺説が囁かれており、家の安泰のため、あるいは幕府の決定を覆させないための非情な措置が取られた可能性は否定できない 32 。
家督を継いだ北条氏重は、慶長18年(1613年)、下野国富田藩(後の下野富田藩)へ一万石で移封となった。これに伴い、氏勝が興した岩富藩はわずか一代で廃藩となった 16 。
氏勝(あるいは彼の家臣団)は、家の「血」よりも「名」の存続を選んだ。この非情な決断によって、玉縄北条家の家名は徳川大名として存続したが、それはもはや旧北条氏の血統とは異なる家となっていた。これは、滅びの淵から再生した武将が下した、最後の、そして最も冷徹な選択の帰結であった。
なお、氏勝の他の兄弟たちの血筋も、形を変えて後世に続いている。氏勝の弟で、一時は名族・千葉氏を継承した北条直重は、小田原合戦後に阿波の蜂須賀氏に仕官し、その子孫は姓を大石、さらに伊勢と改めながら、徳島藩士として幕末まで続いた 35 。また、悲劇的な死を遂げた繁広の子・氏長(北条新蔵)は、後に江戸幕府の大目付という要職に就いている 37 。玉縄北条の血脈は、様々な形で激動の時代を生き抜いていったのである。
北条氏勝の生涯は、後北条氏の滅亡という巨大な歴史の転換点に翻弄されながらも、その時々で最も合理的かつ現実的な選択を積み重ね、家名を存続させた軌跡であった。彼の人生は、戦国乱世の終焉期において、武士がいかにして新たな時代に適応し、生き残りを図ったかを示す、一つの貴重な事例として評価されるべきである。その複雑な生涯は、彼が眠るとされる二つの菩提寺に象徴されている。
通常、大名の墓所は一つに定められることが多いが、氏勝には二つの地にその菩提寺と墓所が伝わっている。この事実は、彼の生涯が持つ「断絶」と「連続」という二重性を雄弁に物語っている。
一つは、旧領である鎌倉市植木にある龍寶寺である 20 。この寺は、祖父・綱成の代から玉縄北条氏の菩提寺として栄え、境内には今も綱成、氏繁、そして氏勝の墓と伝えられる石塔や、三代の位牌が安置されている 21 。ここは、彼のルーツであり、後北条一門としての「過去」を象徴する場所である。龍寶寺に彼の墓が伝わることは、彼が後北条氏の一員であったという歴史からの「断絶」を拒み、そのアイデンティティを保持しようとした意志の表れと解釈できる。
もう一つは、新領であった千葉県佐倉市直弥にある宝金剛寺である 40 。氏勝はこの寺を岩富藩主として手厚く保護し、再興した 31 。寺の裏手には氏勝の墓と伝えられる場所が残り 40 、彼が寄進したと伝わる袈裟や椀は、佐倉市の有形文化財(一部は千葉県指定有形文化財)として大切に保存されている 16 。ここは、彼が徳川大名として「再生」したことを象徴する場所である。宝金剛寺に墓があることは、徳川の世で新たな大名家を創始したという「連続」性、すなわち新しい人生の始まりを意味している。
これら二つの墓所は、氏勝の生涯が持つ二面性、すなわち「滅びた後北条氏の将」としての側面と、「徳川の世に再生した大名」としての側面を、後世に物語る物的証拠である。彼は過去を完全に切り捨てることなく、しかし未来へ向かって力強く歩みを進めた。その複雑な心境が、二つの菩提寺という形で現代にまで伝えられているのである。
北条氏勝の人生は、選択の連続であった。山中城での敗北と屈辱、そこから生じた宗家との決別、そして徳川への帰順。さらに、家の存続のために血縁よりも政治的繋がりを優先した後継者問題の受容。これら一連の決断は、武門の棟梁としての誇りと、家と領民を守るという領主の現実的な責任との間で揺れ動いた、一人の武将の苦悩とリアリズムの表れであった。
彼は、時代の巨大なうねりの中で、旧来の価値観に固執して滅びる道ではなく、変化に適応して生き残る道を選んだ。その選択は、時に非情であり、またある時には大きな屈辱を伴うものであったかもしれない。しかし、その結果として「北条」の名を持つ大名家が徳川の世に存続したこともまた、厳然たる事実である。北条氏勝の生涯は、戦国という時代が終わりを告げ、新たな秩序が形成されていく過渡期を生きた武士の、一つの生き様を鮮やかに示している。