北条氏時は後北条氏の祖・早雲の次男で、玉縄城初代城主。大永鎌倉合戦で里見軍を撃退し、後北条氏の南関東支配を確立した。若くして死去し、子が無かったため玉縄城は宗家直轄となった。
本報告書は、戦国時代の武将「北条氏時」の生涯と歴史的役割を、現存する限られた史料と彼をとりまく周辺状況から徹底的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。北条氏時は、後北条氏の祖である北条早雲の子として生まれ、玉縄城(現在の神奈川県鎌倉市)の城主を務め、大永6年(1526年)の里見氏による鎌倉侵攻を撃退したという断片的な事実で知られている。しかし、彼自身に関する一次史料は極めて少なく、その生涯の大部分は謎に包まれてきた 1 。この史料的制約こそが、氏時を研究する上での最大の課題である。したがって、本報告書では、彼に関する直接的な記録の乏しさを前提としつつ、関連する人物、城郭、合戦、寺社との関わりといった間接的な情報を丹念に繋ぎ合わせることで、その人物像を立体的に再構築するアプローチを取る。
歴史研究における混乱を避けるため、まず本報告書の対象が、鎌倉幕府の執権を務めた「執権北条氏」ではなく、北条早雲を祖とする戦国大名「後北条氏(小田原北条氏)」であることを明確にしなければならない 3 。調査過程で参照される史料には、鎌倉時代の北条時氏 5 や北条経時 6 といった同姓の人物が登場するが、これらは本稿の主題である北条氏時とは全く異なる系譜の人物である。
後北条氏の祖・伊勢宗瑞(後の北条早雲)自身は「北条」を名乗ったことはなく、その子の氏綱の代になって初めて「北条」姓を称するようになった 4 。これは、かつて関東を支配した執権北条氏の権威を利用し、新興勢力である自らの支配の正当性を関東社会に広く認めさせるための、高度な政治的戦略であったと考えられている 4 。この改姓の意図を理解することは、後北条氏の統治戦略を読み解く上で極めて重要である。本報告書は、この後北条氏一門の一員としての北条氏時に焦点を当て、その知られざる生涯と功績を明らかにしていく。
北条氏時の父・北条早雲(伊勢宗瑞)は、長らく一介の素浪人から身を起こした下剋上の典型と見なされてきた。しかし近年の研究では、室町幕府の政所執事を務めた名門・伊勢氏の出身であり、幕府中枢にも通じたエリート官僚であったことが定説となっている 10 。彼は駿河の今川氏の内紛に介入して足掛かりを築くと、伊豆の堀越公方を滅ぼして伊豆一国を平定し、続いて相模国へ進出。小田原城を拠点として、戦国大名・後北条氏の礎を一代で築き上げた 3 。
その跡を継いだのが、氏時の兄である二代当主・北条氏綱である。氏綱は、父が築いた基盤をさらに発展させ、後北条氏の支配体制を盤石なものにした。前述の通り「北条」への改姓を断行し 4 、また、大永6年(1526年)の戦火で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮の再建事業を主導する 12 ことで、自らが関東の伝統的権威の継承者であることを内外に示した。氏時は、この後北条氏が単なる新興勢力から関東の覇者へと脱皮を遂げる重要な時代に、兄・氏綱を最も近い場所で支えるという重責を担ったのである。
北条氏時は、北条早雲の次男として生を受けた 15 。母は、兄・氏綱と同じく早雲の正室であったと推定されている 2 。生年は明確ではないが、兄・氏綱の生年である文明19年(1487年)と、弟で後に箱根に隠棲し「幻庵」と号した北条長綱の生年である明応2年(1493年)の間と推測されており、後北条氏の草創期から発展期にかけて活動した人物であることがわかる 2 。通称として「新六郎」 16 、官途名としては「左馬助」を称したと伝えられている(ユーザー提供情報)。
新興の戦国大名家において、当主の兄弟、特に次男や三男といった近親者は、本拠地の防衛や最前線の重要拠点の確保を任されることが多かった。これは、血縁による強固な結束を基盤として、一族による支配体制を盤石にするための常套手段であった。家督を継いだ兄・氏綱にとって、同腹の弟である氏時は最も信頼のおける片腕であり、彼を後北条氏の支配領域における最重要拠点の一つに配置することは、極めて合理的な戦略であった。氏時が玉縄城主として南関東の守りを固めることで、氏綱は安心して北や東の敵対勢力、すなわち扇谷上杉氏や古河公方との戦いに注力できたのである。氏時の存在は、まさに後北条氏の支配基盤を固める「戦略的支柱」であったと言えよう。
続柄 |
人物名 |
通称・号 |
備考 |
初代 |
伊勢宗瑞 |
新九郎、 北条早雲 |
後北条氏の祖。 |
妻 |
南陽院殿 |
- |
小笠原政清の娘。 |
┣長男 |
北条氏綱 |
新九郎 |
後北条氏二代当主。「北条」姓を称する。 |
┣次男 |
北条氏時 |
新六郎、左馬助 |
本報告書の主題。玉縄城初代城主。 |
┣三男 |
北条氏広 |
- |
葛山氏の養子となる。 |
┗四男 |
北条長綱 |
菊寿丸、 幻庵 |
箱根に住み、五代にわたって一族を支えた。 |
氏時がその生涯の拠点とした玉縄城は、後北条氏にとって極めて重要な戦略拠点であった。この城は永正9年(1512年)、父・早雲が当時まだ相模国に勢力を残していた旧来の名族・三浦氏を攻略するために築城したものである 11 。
地理的に見ると、玉縄城は三浦半島の付け根に位置し、武家の古都・鎌倉を背後に控え、相模湾の海上交通を掌握するための要衝であった 16 。鎌倉は、単なる都市ではなく、源頼朝以来の武家政権発祥の地という精神的な象徴性を帯びており、この地を抑えることは関東支配の正統性を主張する上で不可欠であった。さらに、玉縄城が持つ戦略的価値の中で最も重要だったのは、対岸の房総半島に拠点を置く宿敵・里見氏への備えである。里見氏は強力な水軍を擁しており、東京湾の制海権を巡って後北条氏と激しく争った。玉縄城は、この里見水軍に対抗するための後北条氏の水軍統括拠点として、決定的に重要な役割を担っていたのである 16 。
北条氏時は、この玉縄城の初代城主であったと広く認識されている 11 。江戸時代に編纂された地誌『新編相模国風土記稿』など、後世の記録においては、彼が開基(創建の発願者)となった寺社の縁起を通じてその名が確認できる 1 。氏時自身が発給したことが確実視される唯一の現存文書として、享禄2年(1529年)8月19日付で二伝寺(現在の神奈川県藤沢市)に宛てたものがあり、この時点で彼が城主として玉縄の地を確かに支配していたことを示す動かぬ証拠となっている 17 。
一部の資料では、玉縄城を本拠とする後北条氏の分家、いわゆる「玉縄北条家」は、氏時の死後に跡を継いだ甥の北条為昌の代から正式に始まるとされている 11 。これは、為昌が宗家当主・氏綱の直系の子であることから、より明確な分家として位置づけられたためであろう。しかし、氏時が初代城主として玉縄城に入り、その支配の基礎を固めた事実は動かない。彼は名実ともに、玉縄における後北条氏支配の創始者であった。
北条氏時の統治者としての一面を物語るのが、彼と寺社との深い関わりである。氏時は、藤沢の二伝寺 17 と、鎌倉の円光寺 17 の開基として、その名を現代に伝えている。これらの寺社創建は、単なる城主個人の信仰心の発露に留まらず、軍事・統治の両面から地域を掌握するための高度な政治戦略であったと考えられる。
二伝寺の創建縁起によれば、この寺は永正2年(1505年)、氏時の「初願」によって開かれたと伝わる 17 。これは玉縄城の築城年(1512年)よりも早く、後北条氏がこの地域への影響力を確立し始めた極めて初期の段階から、周到な布石を打っていた可能性を示唆している。二伝寺は玉縄城から尾根続きの高台にあり、旧鎌倉街道を見下ろす軍事上の要地である。実際に、戦国時代には玉縄城の支城、すなわち砦として機能したことが複数の資料で明記されており 17 、寺院の創建が軍事拠点の確保という側面を色濃く持っていたことは明らかである。
一方、円光寺は当初、玉縄城内に創建された城主の祈願所であった 17 。これは城主の権威を高め、武運長久を祈るという、戦国大名が自らの居城に鎮守寺社を置く典型的な形式である。
これらの寺社保護・創建活動は、伊豆から来た新来の支配者である後北条氏が、在地社会の精神的支柱である寺社を通じて民衆の支持を獲得し、自らの支配を正当化・浸透させるための極めて有効な手段であった。それは、兄・氏綱が後に行った鶴岡八幡宮の再建という国家的な大事業の、いわば地域レベルでの実践例と見なすことができる。武力による制圧だけでなく、宗教的権威をも巧みに利用して領国を安定させるという、後北条氏の優れた統治能力の一端が、氏時の活動からも窺えるのである。
北条氏時の名を歴史に刻むことになった最大の舞台が、大永6年(1526年)に勃発した「大永鎌倉合戦」、またの名を「鶴岡八幡宮の戦い」である。この合戦の根本的な原因は、東京湾の制海権を巡る後北条氏と房総の里見氏との対立にあった。
決定的な転機となったのは、合戦の2年前、大永4年(1524年)に北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を攻め落としたことであった 33 。これにより後北条氏は、江戸湊(東京港の前身)や品川湊といった物流の要衝を含む東京湾西岸の制海権と、利根川や荒川水系を通じて内陸部へ至る広大な河川交通網を掌握した 33 。これは、東京湾の東岸を拠点とし、海上交易を生命線とする安房の里見氏や上総の真里谷武田氏にとって、経済的・軍事的に死活問題となる深刻な脅威であった 33 。
この危機的状況に対し、里見氏の当主であった里見義豊は、下総国小弓城を拠点に勢力を拡大していた小弓公方・足利義明と連携し、後北条氏に対抗する 33 。足利義明は、古河公方の正統性を巡って兄・高基と対立しており、自らの勢力基盤を固めるために南関東の諸勢力を糾合していた。ここに、後北条氏に江戸城を奪われた扇谷上杉朝興も加わり、強力な反北条包囲網が形成された。
そして大永6年(1526年)11月、彼らは満を持して行動を開始する。作戦は、里見・小弓公方連合軍が水軍を率いて海上から鎌倉・玉縄城方面へ、同時に扇谷上杉軍が陸上から北方より玉縄城を攻撃するという、大規模な挟撃作戦であった 33 。後北条氏にとって、その支配体制の根幹を揺るがしかねない最大の危機が訪れたのである。
大永6年11月12日(西暦1526年12月15日)、里見義豊とその叔父・里見実堯が率いる数百隻の船団が、三浦半島から鎌倉の海岸に上陸した 33 。軍記物によれば、里見軍は鎌倉市中に乱入して略奪や放火を働き、その過程で兵火が東国武士の守護神たる鶴岡八幡宮に燃え移り、社殿の多くが炎上、焼失したと伝えられる 33 。この予期せぬ文化的象徴の焼失は、里見軍の将兵に大きな動揺を与えたと考えられ、彼らが当初の目標であった玉縄城へと軍を向ける直接的なきっかけとなった。
鶴岡八幡宮が炎上するのを見て、里見軍は鎌倉から北上し、玉縄城へ向かおうとした。この動きを察知した城主・北条氏時は、城に籠もって守りを固めるのではなく、機を逃さず打って出た。彼は軍を率いて、玉縄城と鎌倉の中間に流れる戸部川(現在の柏尾川)付近で敵軍を迎え撃ったのである 33 。
この戸部川での戦いで、氏時は見事に里見軍を撃退し、玉縄城の防衛に成功した。一方で、北方から攻め寄せていた扇谷上杉軍もまた、堅固な玉縄城を攻略することができずに撤退を余儀なくされた 33 。これにより、反北条連合軍による挟撃作戦は完全に破綻した。この合戦の戦死者を弔ったとされる「玉縄首塚」が今に伝わっており、戦いの激しさを物語っている 11 。
この氏時の勝利は、単なる一戦闘の勝利に留まるものではなかった。それは、後北条氏の関東支配の礎を揺るがしかねない、国家的な戦略的危機を回避した決定的な防衛成功であった。玉縄城は、本拠地・小田原と最前線の江戸城とを結ぶ中継点であり、対里見氏の海軍基地でもある。その戦略的価値は計り知れない。もし氏時が敗れ、玉縄城が陥落していたならば、後北条氏は三浦半島という天然の要害と水軍拠点を失い、東京湾の制海権は完全に里見氏の手に渡っていただろう。そうなれば、里見氏は対岸に恒久的な橋頭堡を築き、後北条領への侵攻は格段に容易になる。さらに、北の上杉氏との連携も強化され、本拠地・小田原は常に南北から挟撃される危険に晒されることになったはずである。
氏時の勝利は、この最悪のシナリオを未然に防ぎ、後北条氏による相模・武蔵南部の支配を確定させた。この防衛成功によってもたらされた領国の安定があったからこそ、兄・氏綱は鶴岡八幡宮の再建という威信をかけた大事業に着手し、さらなる領土拡大へと邁進することができたのである。氏時の武功は、後北条氏がその後に遂げる飛躍の、まさに「前提条件」を創り出したと言っても過言ではない。
大永鎌倉合戦という最大の武功を挙げてから5年後の享禄4年(1531年)8月18日、北条氏時はその生涯を閉じた 1 。死因に関する記録は残されていないが、兄・氏綱が天文10年(1541年)に、弟・幻庵が天正17年(1589年)に没していることと比較すると、若くして亡くなったことは確かである。その墓所の所在も明確ではなく、特定の場所に墓碑が伝わっているわけではない。しかし、彼自身が開基となった二伝寺や円光寺に、供養塔などが建立されていた可能性は十分に考えられる 24 。
氏時の死は、玉縄城の継承問題を引き起こした。彼には実子がいなかったのである 23 。そのため、玉縄城主の座は、兄である宗家当主・氏綱の三男、北条為昌が継承することになった。この時、為昌はわずか12歳であった 17 。
為昌が若年であったため、氏綱は後見役として、後に「地黄八幡(じおうはちまん)」の異名で猛将として名を馳せることになる北条綱成(当時はまだ福島姓を名乗っていた)らを城代として派遣し、玉縄城の実務を補佐させた 11 。
氏時が子を残さずに早世したことは、結果的に後北条宗家による支城支配を強化する一つの契機となった。戦国時代において、力を持った支城主が独自の勢力を形成し、時には宗家と対立する例は決して少なくない。もし氏時に有能な男子がおり、その子孫が代々玉縄城を継承していれば、玉縄北条家はより独立性の高い分家として成長していた可能性もある。しかし、氏時が無嗣であったことにより、宗家当主である氏綱は、自らの直系の子である為昌を城主に据えることができた。これにより、玉縄城は単なる「当主の弟の領地」から、「宗家が直接管理する重要戦略拠点」としての性格を一層強めることになった。そして、為昌の後見として、後に娘婿ともなる有能な武将・綱成を配置したことも、宗家による玉縄城のコントロールを確実にするための、巧みな人事であったと言えるだろう。この一連の流れは、後北条氏が単なる一族の連合体ではなく、当主を中心とした中央集権的な支配体制を志向していたことを示す好例である。
北条氏時に関する直接的な史料は極めて乏しい。しかし、残された断片的な記録を繋ぎ合わせることで、その人物像をある程度推し量ることは可能である。まず第一に、彼は兄である当主・氏綱を忠実に支え、任された重要拠点を死守する「信頼篤き武将」であった。一族の存亡をかけた大永鎌倉合戦において、見事に防衛の任を果たしたことがその最大の証明である。
また、単なる武人としてだけでなく、領地経営や宗教政策にも意を用いていた統治者としての一面も看取できる。二伝寺や円光寺の創建に関わった逸話は、彼が武力のみならず、宗教的権威を利用して在地社会の掌握に努めていたことを示唆している 15 。後世に「文武両道に秀でた名君」という伝承が残っている 15 のも、こうした統治者としての側面が評価された結果であろう。
氏時の歴史的功績は、後北条氏の歴史全体の中で見ると、父・早雲の「創業」と、兄・氏綱の「発展」とを繋ぐ、極めて重要な「守成」の時期に集約される。特に大永鎌倉合戦での勝利は、後北条氏の南関東における支配権を決定的なものとし、その後の飛躍を可能にしたという点で、計り知れない価値を持つ。
彼が歴史の表舞台で兄の氏綱や甥の氏康ほど目立たない存在であるのは、いくつかの要因が考えられる。第一に、若くして亡くなったこと。第二に、跡を継ぐ子がいなかったため、彼の家系が独立した分家として存続しなかったこと。そして第三に、彼の最大の功績が、領土を拡大するような華々しいものではなく、「本拠地を守り抜く」という、地味ではあるが決定的とも言える重要なものであったためであろう。しかし、その貢献の重要性は、決して過小評価されるべきではない。
北条氏時は、その名が戦国史の表舞台で広く語られることはない。しかし、本報告書で詳述した通り、彼は後北条氏が相模の一勢力から関東の覇者へと飛躍する黎明期において、紛れもなく決定的な役割を果たした重要人物である。
彼は、後北条一門の重鎮として、鎌倉防衛と対里見氏の最前線という、最も重要な戦略拠点の一つである玉縄城を任された。そして、その統治基盤を築き、一族最大の危機であった反北条連合軍による大規模な侵攻を、その卓越した指揮によって見事に食い止めた。この勝利がなければ、後北条氏のその後の歴史は大きく異なっていた可能性が高い。
氏時の生涯は、華々しい戦功や領土拡大だけが戦国武将の価値ではないことを我々に示している。兄・氏綱という卓越したリーダーを陰で支え、一族の基盤を着実に固めるという「縁の下の力持ち」としての彼の貢献なくして、三代目当主・氏康の時代に訪れる後北条氏の最盛期はあり得なかったであろう。
これまで史料の海に埋もれ、「謎の人物」とされてきた北条氏時。しかし、その足跡を丹念に追うことで見えてくるのは、後北条氏百年王国の礎を築いた、寡黙にして有能な「礎の武将」の姿である。彼をそのように再評価することこそ、本報告書の結論としたい。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1487-1493年頃 |
北条早雲の次男として誕生(推定)。 |
北条早雲、北条氏綱 |
2 |
1505年(永正2年) |
氏時の「初願」により二伝寺が創建される。 |
- |
17 |
1512年(永正9年) |
北条早雲が三浦氏攻略のため、玉縄城を築城。 |
北条早雲 |
11 |
(築城後) |
氏時、初代玉縄城主となる。 |
- |
15 |
1526年(大永6年) |
大永鎌倉合戦(鶴岡八幡宮の戦い) 。里見軍が鎌倉に侵攻。 |
里見義豊、里見実堯 |
33 |
1526年(大永6年) |
氏時、戸部川にて里見軍を迎撃し、これを撃退。玉縄城を防衛。 |
北条氏綱 |
33 |
1529年(享禄2年) |
二伝寺宛の文書を発給。城主としての活動が確認される。 |
- |
17 |
(不詳) |
円光寺を開基する(当初は城内に創建)。 |
澄範(開山) |
17 |
1531年(享禄4年) |
8月18日、死去。 |
- |
1 |
代 |
城主名 |
続柄(宗家との関係) |
在任期間(推定) |
特記事項 |
初代 |
北条氏時 |
二代当主・氏綱の弟 |
1510年代後半~1531年 |
初代城主。大永鎌倉合戦で城を防衛。 |
二代 |
北条為昌 |
三代当主・氏康の弟(氏綱の三男) |
1531年~1542年 |
12歳で城主を継承。若年で病没。 |
三代 |
北条綱成 |
為昌の義兄(氏綱の娘婿) |
1542年~1587年 |
為昌の養子として家督を継承。猛将「地黄八幡」として活躍。 |
四代 |
北条氏繁 |
綱成の子 |
1587年頃 |
父の跡を継ぐが、まもなく病没か。 |
五代 |
北条氏舜 |
氏繁の嫡男 |
1587年頃~1580年代後半 |
兄の跡を継ぐが、まもなく病没か。 |
六代 |
北条氏勝 |
氏舜の弟 |
1580年代後半~1590年 |
小田原合戦時に降伏し、開城。 |