本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて、主君・立花宗茂を支え続けた武将、十時連貞(ととき つれさだ)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に分析し、その実像を再構築するものである。由布惟信、安東家忠、高野大膳(あるいは小野鎮幸)らと共に「立花四天王」の一人に数えられる連貞は、特にその人物評「沈勇にして剛直也」という言葉で知られている 1 。この評価が、彼の89年に及ぶ長い生涯を通じて、如何にして形成され、そして体現されていったのかを解明することが本報告書の主眼である。
連貞の生涯は、主君・立花宗茂への絶対的な忠誠心に貫かれている 3 。関ヶ原の戦いで西軍に与したことで主家が改易され、宗茂が浪人の身となっても、連貞は決して離れることなく苦楽を共にした。大坂の陣を前に豊臣家から破格の待遇で勧誘された際も、「忠臣は二君に仕えず」と一蹴した逸話は、彼の剛直な精神を象徴するものとして広く知られている 2 。しかし、その忠誠は単なる盲従であったのだろうか。
本報告書では、彼の出自と家系の伝統、戦場における冷静な戦術家としての一面、主家没落という逆境における人間性、そして武士としての哲学を深く掘り下げる。これにより、「忠臣」という言葉の裏に隠された、より立体的で深遠な十時連貞の人物像を提示することを目指す。彼の生涯は、激動の時代に武士としていかに生きるべきかという問いに対する、一つの崇高な答えを示しているのである。
十時連貞の揺るぎない忠誠心を理解するためには、まず彼が生まれ育った「十時氏」という一族の歴史的背景と、彼が家督を継ぐに至った悲劇的な経緯を深く考察する必要がある。彼の忠義は個人的な資質のみならず、その血脈と宿命に深く根差していた。
十時氏のルーツは、九州・豊後の古代豪族である大神氏(おおがし)の分流、入倉氏に遡る 6 。その家名は、豊後国大野郡十時庄(現在の大分県豊後大野市大野町十時)を所領としたことに由来する 6 。一族の初代とされる入倉惟信(長門守)が十時庄に移り住み、十時氏を称したのがその始まりである 6 。
十時氏は当初より豊後の戦国大名・大友氏に仕えていたが、やがてその重臣である戸次氏の配下、いわゆる「客分」となり、代々その家臣として奉公する家系となった 6 。この主従関係は連貞の代に始まったものではなく、数代にわたって築き上げられた強固な結びつきであった。この事実は、連貞にとって主家への奉公が自明の理であり、疑う余地のない価値観であったことを示唆している。
十時氏には多くの分家が存在したが、連貞の家系は、初代・惟信の四男である孫右衛門惟通を祖とする「摂津家」であった 1 。十時氏の嫡流は惟信-惟家-惟安-惟忠と続く家系であり、連貞は分家の出身であった 8 。
連貞の祖父・惟信(曾祖父と同名)と父・惟次(通称:摂津守)は、いずれも勇猛果敢な武将として知られ、主君・戸次鑑連(後の立花道雪)に従って各地を転戦した。特に父・惟次は、天文11年(1542年)の毛利鎮実の反乱平定などで戦功を挙げ、筑前国那珂郡に30町歩の所領を与えられるなど、武功の家としての地位を確立していた 2 。
栄光ある武門の家に生まれた連貞であったが、その運命は永禄12年(1569年)に暗転する。この年、大友氏と毛利氏が筑前の覇権を争った多々良浜の戦いにおいて、父・惟次と兄・惟則が毛利軍との激戦の末に討ち死にしたのである 1 。
この悲劇により、連貞はわずか14歳という若さで家督を相続し、父の通称であった「摂津守」を二代目として襲名。父が拝領した筑前国那珂郡板付村(現在の福岡市博多区板付)の所領30町歩も受け継いだ 1 。若くして一家の命運を背負うことになったこの経験は、彼の精神を強靭に鍛え上げると同時に、主家のための戦いで命を落とした父と兄の犠牲に報いなければならないという、強烈な使命感を植え付けたと考えられる。
元服に際しては、主君・戸次鑑連から直々に「連」の一字を賜り、「連貞」と名乗った 1 。これは、鑑連が若き日の連貞に大きな期待を寄せていた証であり、連貞にとっては自身の存在価値を主君に認められた証左であった。この栄誉は、彼の生涯にわたる忠節を誓う、極めて強力な動機付けとなったであろう。
表1:十時氏略系図(連貞の位置づけ)
家系 |
世代の流れ |
備考 |
十時氏嫡流 |
初代 惟信(長門守) → 惟家 → 惟安 → 惟忠 (右近太夫) |
惟忠は「戸次四天王」の一人。永禄10年(1567年)の休松の戦いで奮戦の末に戦死した勇将 10 。連貞とは、はとこの関係にあたる 1 。 |
十時氏分家(摂津家) |
初代 惟信(長門守)の四男・惟通 → (中略) → 惟次 (初代摂津守) → 連貞 (二代摂津守) |
連貞の家系。父・惟次は多々良浜の戦いで戦死 2 。連貞は分家出身ながら、その功績により立花家の家老にまで昇進した 1 。 |
この系図が示すように、連貞は嫡流ではなく分家の出身であった。しかし、彼はその出自に甘んじることなく、自らの実力と忠誠心によって立花家における地位を確立していく。父と兄の死という悲劇を乗り越え、主君からの期待を一身に背負った若き武将は、ここから激動の戦国乱世へとその身を投じていくのである。
十時連貞の生涯を語る上で、彼が仕えた二人の偉大な主君、立花道雪と立花宗茂との関係は不可欠である。特に、道雪から宗茂へと主君が移る過程で連貞が果たした役割は、彼の忠誠心のあり方を理解する上で極めて重要である。彼の宗茂への忠義は、単なる主従関係を超え、先代の主君・道雪から託された重い信託に基づいていた。
家督を継いだ当初、連貞は主君・立花道雪から、その一人娘であり、立花山城の女城主であった立花誾千代の守役(傅役)に任じられた 1 。道雪は、連貞の「沈勇にして剛直」な性格を早くから見抜き、高く評価していた 2 。自らの後継者たる娘の側近として、最も信頼に足る人物を配したのである。この人事は、連貞が単なる武勇だけの武将ではなく、冷静な判断力と高い人格を兼ね備えた人物として、道雪から認められていたことを示している。
天正9年(1581年)、道雪は男子の嗣子がいなかったことから、盟友である高橋紹運の長男・千熊丸(当時15歳)を養嗣子として迎え、娘の誾千代と娶せることを決断した 1 。この千熊丸こそが、後の立花宗茂である。
この時、道雪は極めて重要な人事を行う。自らの命令によって、最も信頼する家臣の一人である十時連貞を、新しく養子に迎えた宗茂付きの家臣としたのである 1 。これは、道雪の深謀遠慮を示すものであった。高橋家からの養子という立場の宗茂が、立花家中で孤立することなく、その統率力を円滑に発揮するためには、盤石な支持基盤が不可欠であった。道雪は、自らの哲学と統率術を宗茂に継承させるための精神的支柱として、武士の鑑たる資質を持つ連貞を選んだのである。
この任命は、連貞の運命を決定づけた。彼の忠誠の対象は、敬愛する主君・道雪から、その志を継ぐ若き後継者・宗茂へと正式に継承された。連貞にとって、宗茂に仕えることは、道雪への忠義を実践することと同義であった。宗茂を支え、立派な当主に育て上げることこそが、亡き道雪の恩に報いる最大の方法であると、彼は固く心に誓ったであろう。この瞬間から、連貞の生涯を懸けた宗茂への奉公が始まったのである。
十時連貞の武将としての本質は、戦場において最も鮮やかに発揮された。主君・道雪が評した「沈勇にして剛直」という言葉は、単なる人物評ではなく、彼の戦い方そのものを的確に表現している。「沈勇」は冷静な状況判断と知略に、「剛直」は困難な任務を遂行する精神力と実行力に、それぞれ具現化された。この二つの要素が分かちがたく結びついている点に、彼の強さの秘密があった。
連貞は、単に勇猛なだけの武将ではなかった。彼は伏兵、陽動、偽装退却といった戦術を駆使し、いかにして効率的に勝利を収めるかを常に思考する、優れた戦術家であった。
連貞の「剛直」さは、困難で危険な任務をためらわずに引き受け、完遂する精神力と行動力に表れている。その最も顕著な例が、主君・宗茂の家族を救出した作戦である。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐の最中、連貞は極めて重要な密命を帯びた。前年の岩屋城の戦いの際に島津軍に捕らえられ、敵地である薩摩の祁答院に幽閉されていた、宗茂の生母・宋雲院と実弟・高橋統増(後の立花直次)を救出せよというものであった 1 。
これは失敗すれば自らの命はもちろん、人質の命さえ危うくなる極めて危険な任務であった。しかし連貞は、同僚の薦野増時と共にこの任務を敢行。敵地深くに潜入し、見事母子を救出すると、追手をかわすために水路を選択し、船で肥前を経由して立花山城へと無事帰還した 2 。この大胆かつ緻密な作戦の成功は、彼の忠勇と知略を示すものであり、主君・宗茂からの絶大な信頼を勝ち取る決定的な出来事となった 3 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、西軍に属した宗茂は、東軍の京極高次が籠城する近江・大津城の攻略を担った 1 。この戦いでも、連貞の「沈勇剛直」ぶりは遺憾なく発揮された。
9月12日の夜、主君・宗茂が城方による夜襲の可能性を予見すると、連貞は即座にこれに応じ、的確に部隊を配置して待ち構えた。宗茂の読み通り、城内から夜襲部隊が出撃してくると、連貞の部隊はこれを迎撃。混乱の中、敵将である丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安右衛門の三名を捕縛するという大手柄を立てた 1 。
捕らえた敵将から城内の情報を聞き出すことに成功した立花軍は、その後の攻城戦を有利に進めることができた 15 。主君の洞察を即座に理解し、具体的な戦果に結びつける連貞の冷静な対応能力と卓越した実行力は、立花軍の精強さを支える重要な要素であった。
武士の真価は、順境の時よりも逆境においてこそ問われる。十時連貞の忠誠心もまた、主家が没落し、明日をも知れぬ浪々の身となった時に、その最も純粋な輝きを放った。彼の忠誠は、打算や利益計算を超越した、人格そのものに根差す武士の哲学であった。
大津城を攻略した立花軍であったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北したことにより、その運命は暗転する。九州へ帰還した宗茂は、東軍に寝返った鍋島直茂らの大軍を江上八院の戦いで迎え撃つも 1 、最終的には降伏。戦後、立花家は改易され、宗茂は筑後柳川13万石の領地を失い、一介の浪人となった 1 。
主家を失い、多くの家臣が離散していく中、連貞は由布惟信らの中核的家臣と共に、あくまで宗茂に付き従う道を選んだ。彼らは宗茂と共に、旧知の仲であった肥後熊本城主・加藤清正を頼り、その客将として一時身を寄せた 1 。
慶長8年(1603年)の冬、宗茂一行は再起を期して加藤家を辞去し、江戸へ向かうことを決意する 1 。しかし、その生活は極度に困窮を極めた。この時、連貞らは主君の生活費を稼ぐため、武士の身分を隠し、尺八を吹きながら喜捨を請う虚無僧(こむそう)や、日雇いの土方仕事に従事したと伝えられている 1 。
この浪人生活の中で、連貞の剛直な気性が宗茂の運命を動かす一つの逸話が生まれる。江戸の町で虚無僧姿の連貞(当時の通称、十時摂津)が托鉢をしていたところ、町のごろつきに絡まれた。いざこざの末、連貞は相手を斬り捨ててしまう 16 。
この事件は奉行所の知るところとなり、取り調べの過程で、虚無僧の正体がかつて13万石の大名の家老であったことが判明する。一介の浪人の仕儀として片付けられないこの一件は、時の老中・土井利勝の耳にまで達した 17 。この出来事が、幕府が宗茂の窮状を知り、その類稀なる器量を再評価する一つのきっかけになったと言われている。この逸話は、たとえ零落しても武士としての誇りを失わず、不正を許さない連貞の「剛直」な精神が、結果として主君の再起への道を切り開いたことを示している。
連貞の忠誠が試される最大の試練は、大坂の陣を前に訪れた。徳川家との決戦を控え、豊臣秀頼は全国の有能な浪人を集めるため、各地に勧誘の使者を送った 2 。その武勇と忠節で知られた立花家の旧臣たちも、当然その対象となった。
連貞のもとにも、豊臣家から破格の厚遇を約束する勧誘があった。明日をも知れぬ浪人の身にとって、これは願ってもない仕官の機会であった。しかし、連貞の答えは揺るがなかった。彼は、豊臣家の使者に対し、ただ一言、「忠臣は二君に仕えず」と述べ、その誘いをきっぱりと断ったのである 2 。
この言葉は、彼の生き様そのものを凝縮している。彼にとって、主君とは単なる雇用主ではなかった。先代・道雪から託され、共に幾多の死線を越え、苦楽を分かち合った立花宗茂という個人こそが、生涯を捧げる唯一の主君であった。豊臣家の誘いは、彼の忠誠が「誰に」向けられているのかを問う最終試験であったが、彼の答えはあまりにも明確であった。その忠誠は、いかなる利益や地位とも交換不可能な、彼の魂そのものであった。
十時連貞の生涯にわたる忠誠は、主君・立花宗茂からの絶大な信頼と破格の待遇によって報われ、武士として理想的ともいえる形で完結した。逆境の時代を乗り越えた主従の絆は、平和な江戸時代において、栄光の物語として結実する。
虚無僧の一件などを通じて宗茂の窮状と変わらぬ器量を知った徳川幕府は、ついに彼を再び召し出すことを決断する。特に、宗茂の武勇を高く評価していた徳川四天王の一人、本多忠勝らの強力な推挙があったとされている 15 。慶長8年(1603年)、宗茂は徳川家康に拝謁し、書院番頭に任じられ、陸奥棚倉に一万石の大名として奇跡的な復帰を遂げた 1 。
この時、連貞もまた、その長年の忠義を宗茂から高く評価され、200石の知行を与えられた 1 。改易された大名が復活すること自体が異例であり、藩の財政が極めて困窮していた状況を考えれば、これは最大限の評価であった。
その後、大坂の陣での功績などが認められ、元和6年(1620年)、宗茂は旧領である筑後柳川への復帰を果たし、10万9千石の大名として返り咲く。連貞もこれに従い、20年ぶりに故郷の土を踏むこととなった 1 。
柳川に帰還した連貞は、その功績から家老に任じられた 1 。しかし、彼はやがて老齢を理由に隠居を申し出る。家督は三男の十時惟昌が継承した 1 。この時、宗茂は連貞の生涯にわたる功績に報いるため、隠居料として破格の1000石を与えた 1 。これは、単なる金銭的な報酬ではない。浪人時代の苦難を共に乗り越え、立花家の再興を支えた最大の功労者に対する、宗茂からの心からの感謝の表明であり、永遠に消えることのない名誉の証であった。この厚遇により、連貞の家(十時摂津家)は、柳川藩において特別な地位を持つ家として、その後の代まで続く礎を築いたのである。
寛永14年(1637年)、九州で島原の乱が勃発すると、幕府は諸藩に出兵を命じた。この時、柳川藩主の立花宗茂も、その豊富な実戦経験を買われて幕府軍の総大将格として出陣することになる。
この知らせを聞いた時、十時連貞はすでに隠居の身であり、齢82という高齢であった。もはや戦場で槍を振るうことは期待されていなかった。しかし、彼は主君・宗茂の出陣と聞くや、自らも甲冑を身につけ、共に戦場へ赴くことを願い出た 1 。
この82歳での出陣は、物理的な戦力としてよりも、象徴的な意味合いが大きかった。それは、連貞自身にとって「生涯現役」の武士としての矜持を示す最後の奉公であり、宗茂にとっては、自らの軍団に「立花家の歴史と魂」そのものを帯同させることに等しかった。道雪の時代から続く立花家の武威と忠義の精神が、連貞という生きる伝説を通じて、若い世代の家臣たちに無言のうちに示されたのである。
島原の乱から数年後、主君・宗茂の逝去を見届けた連貞は、自らの役目を終えたかのように静かにその生涯を閉じた。寛永21年(1644年)9月14日、死去。享年89 1 。その人生は、戦国乱世の只中に生まれ、織豊政権を経て、徳川の治世が盤石となるまでを駆け抜けた、まさに激動の時代そのものであった。
彼の墓所は、福岡県柳川市の西方寺に現存し 1 、今なおその忠節の生涯を静かに物語っている。
十時連貞の生涯は、最初の主君・立花道雪が評した「沈勇にして剛直」という言葉を、寸分の狂いもなく体現したものであった。戦場で見せた冷静な知略と伏兵戦術は彼の「沈勇」を、主家没落といういかなる逆境にあっても決して揺らぐことのなかった忠誠心は彼の「剛直」を、それぞれ雄弁に証明している。
彼の生き様は、立花家臣団の結束を象徴する物語として、後世に長く語り継がれた。彼の子孫は柳川藩の組頭家兼家老家として続き、幕末に至るまで藩政の中枢を担った 1 。十時連貞がその生涯をかけて示した忠義の精神は、立花家、そして柳川藩の精神的支柱の一つとして、後世に大きな影響を与え続けたのである。
結論として、十時連貞は単なる一人の勇将ではない。彼は、戦国という価値観が激しく揺れ動く時代において、武士としていかに生きるべきかという根源的な問いに対し、その全生涯をもって「忠誠」と「信義」という明快かつ崇高な答えを示した、まさに「武士の鑑」と呼ぶにふさわしい人物であった。彼の人生は、主君と家臣という関係性が持ち得た、最も美しく、そして強固な絆の形を今に伝えている。
表2:十時連貞 生涯年表
年代(西暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
出典 |
弘治3年(1556) |
1歳 |
豊後国にて、戸次氏家臣・十時惟次の次男として誕生。 |
1 |
永禄12年(1569) |
14歳 |
多々良浜の戦いで父・惟次と兄・惟則が戦死。家督を相続し、二代目摂津守となる。 |
1 |
天正9年(1581) |
26歳 |
主君・立花道雪の命により、養嗣子・立花宗茂付きの家臣となる。 |
1 |
天正13年(1585) |
30歳 |
秋月種実軍の立花山城侵攻に対し、夜襲・伏兵戦術で撃退に貢献。 |
5 |
天正15年(1587) |
32歳 |
九州征伐の最中、敵地・薩摩に潜入し、宗茂の生母・宋雲院と弟・統増を救出。 |
1 |
天正19年(1591) |
36歳 |
立花家の家老に任命される。 |
1 |
文禄・慶長の役(1592-1598) |
37-43歳 |
宗茂に従い朝鮮へ渡海。数々の戦功により、知行が1500石まで加増される。 |
1 |
慶長5年(1600) |
45歳 |
関ヶ原の戦いに伴う大津城の戦いで、夜襲を仕掛けてきた敵将3名を捕縛。戦後、立花家は改易され、宗茂と共に浪人となる。 |
1 |
慶長8年(1603) |
48歳 |
宗茂と共に江戸へ。虚無僧となって主君の生活を支える。宗茂が陸奥棚倉1万石の大名として復帰し、200石を与えられる。 |
1 |
時期不詳(大坂の陣前) |
- |
豊臣家からの破格の勧誘を「忠臣不仕二主」として拒絶。 |
2 |
元和6年(1620) |
65歳 |
宗茂が旧領・筑後柳川10万9千石に復帰。これに従う。 |
1 |
時期不詳(柳川復帰後) |
- |
老齢を理由に隠居。宗茂から隠居料として破格の1000石を与えられる。 |
1 |
寛永14年(1637) |
82歳 |
島原の乱が勃発。隠居の身ながら、主君・宗茂に従い出陣する。 |
1 |
寛永21年(1644) |
89歳 |
9月14日、死去。墓所は柳川市の西方寺。 |
1 |
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