日本の歴史上、類を見ない壮挙として知られる天正遣欧少年使節。それは、戦国時代の動乱のさなか、まだ見ぬ西方の世界へと旅立った4人の少年たちの物語です 1 。伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、そして千々石ミゲル。彼らは、九州のキリシタン大名の名代としてローマを目指し、日本という存在を初めてヨーロッパ世界に実体として知らしめた、歴史の扉を開いた若者たちでした。
彼らの帰国後の運命は、日本のキリスト教弾圧という歴史の荒波に翻弄され、それぞれが過酷な道を歩むことになります。主席正使であった伊東マンショは布教活動の末に病死し、語学の天才と謳われた原マルチノはマカオへ追放され客死、副使の中浦ジュリアンは国内で潜伏布教を続けたのち、壮絶な拷問の果てに殉教を遂げました 4 。彼ら3人が司祭として、あるいは信仰者としてその生涯を閉じたのに対し、ただ一人、千々石ミゲルだけが歴史の中で異なる光を当てられてきました。それは、「イエズス会を脱会し、棄教した唯一の使節」という、いわば「背信者」の烙印です 2 。
400年もの長きにわたり、この「棄教者ミゲル」という歴史像は、半ば定説として語り継がれてきました。しかし、その棄教に至る具体的な理由や、謎に包まれた晩年の動静については、宣教師側の断片的な記録が残るのみで、多くの部分が深い霧の中にありました 1 。この「謎」こそが、千々石ミゲルという人物の複雑な魅力を形成し、歴史探求の尽きないテーマであり続けたのです。
この長きにわたる沈黙が破られる転機が訪れたのは、21世紀に入ってからのことでした。2003年、長崎県諫早市(旧多良見町)の山中で、彼のものと推定される墓石が発見されたのです 2 。この発見は、単なる一史跡の発見に留まらず、文献史料が描いてきたミゲルの人物像を根底から揺るがす可能性を秘めた、まさに歴史的な大発見でした。その後、十数年にわたる複数回の考古学調査によって、墓石の下からは驚くべき事実が次々と明らかにされていきます。
本報告書は、この最新の考古学的知見を基軸に据え、従来のイエズス会側の記録を中心とした文献史料を批判的に再検討することで、千々石ミゲルの生涯を立体的に再構築することを目的とします。単に「棄教者」というレッテルを剥がすだけでなく、その栄光と苦悩、そして沈黙せざるを得なかった選択の背後にあった真実に迫ります。彼の人生の軌跡を丹念に追うことで、私たちは一人の人間の内面の葛藤を通して、信仰と組織、異文化との邂逅、そして歴史の「真実」とは何かという、普遍的な問いに行き着くことになるでしょう。
千々石ミゲルの生涯を理解する上で、その出自と彼が生きた時代の特異な状況を把握することは不可欠です。彼は、九州におけるキリシタン勢力の中核をなす大名家の血を引き、戦国の動乱とキリスト教の伝来という二つの大きな歴史の潮流が交差する、まさにその渦中に生を受けました。
千々石ミゲルは、永禄12年(1569年)頃、肥前国釜蓋城(現在の長崎県雲仙市千々石町)にて誕生したとされています 8 。彼の洗礼名は「ミゲル」ですが、本名は千々石紀員(ちぢわ のりかず)といい、後にイエズス会を離れてからは、通称として千々石清左衛門(せいざえもん)を名乗りました 4 。
彼の血筋は、当時の肥前国において極めて重要な意味を持っていました。父は、肥前有馬氏の当主であった有馬晴純の三男で、千々石氏を興して釜蓋城主となった千々石直員(なおかず)です 2 。この父・直員の兄たちが、ミゲルの運命を大きく左右することになります。長兄の有馬義貞は有馬本家を継ぎ、次兄は日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠として大村家に養子に入りました。この複雑な血縁関係により、ミゲルは、大村純忠の甥であり、後の大村藩初代藩主・大村喜前、そして同じくキリシタン大名である有馬晴信とは従兄弟という、九州キリシタン大名の中心的な血縁ネットワークに連なる貴公子だったのです 6 。
この血縁こそが、ミゲルの生涯を規定する構造そのものでした。彼の人生は、単に一個人の信仰や意思によって動いたのではなく、この大村・有馬という二大キリシタン大名家との強固な結びつきによって、その航路を定められていたと言っても過言ではありません。そもそも天正遣欧使節という壮大な計画は、これらキリシタン大名の威信と、日本における布教の成果をヨーロッパ世界に誇示するための、高度に政治的・宗教的な意味合いを帯びたプロジェクトでした 5 。その使節団の正使という大役に、ミゲルが選ばれたのは、彼個人の資質もさることながら、彼が大村・有馬両家の「名代」として、その血統が持つ象徴的な価値が極めて大きかったからに他なりません 16 。帰国後に従兄弟である大村喜前から600石という破格の厚遇をもって迎え入れられたのも 4 、この血縁に基づけば自然な帰結でした。しかし、皮肉なことに、かつて彼を栄光の舞台へと押し上げたこの強固な血縁は、後の悲劇の伏線ともなります。主君であり従兄弟でもある喜前が、幕府の意向を汲んで棄教し、キリシタン弾圧へと舵を切った時、二人の対立は単なる主君と家臣の意見の相違を超え、一族内部の深刻なイデオロギー対立へと発展します。ミゲルは、かつて自らを輝かせたはずの血縁によって、今度は疎まれ、追われる身となっていくのです。
華々しい血統とは裏腹に、ミゲルの幼少期は過酷なものでした。当時、肥前国では、勢力を拡大する龍造寺氏と有馬・大村連合との間で激しい抗争が繰り広げられていました。その戦いの渦中で、父・直員は戦死し、天正5年(1577年)、ミゲルが8歳頃に本拠地であった釜蓋城は龍造寺軍の猛攻の前に落城します 2 。幼いミゲルは、乳母に抱きかかえられ、かろうじて戦火を逃れたと伝えられています 2 。
父を失い、故郷を追われたミゲルが身を寄せたのが、叔父であるキリシタン大名・大村純忠のもとでした 2 。この純忠の庇護下で、ミゲルはキリスト教と出会い、洗礼を受けます 2 。その後、イエズス会が宣教師や指導者を育成するために設立した高等教育機関、有馬のセミナリヨに第一期生として入学し、ここで伊東マンショら、後に運命を共にすることになる少年たちと出会うのです 2 。
ミゲルの信仰の原点には、この幼少期の体験が色濃く影を落としていると考えられます。彼の信仰は、純粋な神学的探求心から始まったというよりも、父の死、落城、そして流浪という、戦国の世の無常と理不尽さを身をもって体験したことによる、強烈なトラウマからの救済を求める、極めて切実な動機に基づいていた可能性があります。彼を絶望の淵から救い、保護したのは、当時キリスト教に深く帰依していた叔父・大村純忠でした。ミゲルにとってキリスト教は、現世の苦難を超えた永遠の救いと、揺るぎない秩序を約束してくれる、強力な精神的支柱として映ったことでしょう 14 。彼の信仰の根底には、この個人的な救済への渇望があったと推察されます。そして、この極めて内面的で個人的な信仰のあり方が、後に彼が直面する、組織としてのイエズス会の論理や現実の政治力学と衝突する一因となったのかもしれません。
有馬のセミナリヨで学んでいたミゲルに、その運命を決定づける転機が訪れます。それは、イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した、前代未聞の計画への参加でした。日本の少年たちを、遠くヨーロッパへ、そしてキリスト教世界の中心であるローマへと派遣するという壮大な構想です。
ヴァリニャーノがこの使節派遣を企画した目的は、大きく二つありました 5 。第一に、ローマ教皇やスペイン・ポルトガル両国王に対し、日本の布教活動が順調に進んでいることを報告し、さらなる経済的・精神的援助を要請すること。第二に、日本の若者たちにヨーロッパのキリスト教世界の栄光と偉大さを直接見聞させ、その体験を帰国後に彼ら自身の口から語らせることで、日本国内での布教活動をさらに推し進めるための強力なプロパガンダとすることでした 18 。
この重要な使節団の一員として、ミゲルは、叔父である大村純忠と従兄弟である有馬晴信、二人のキリシタン大名の名代(正使)という重責を担って選出されました 5 。主席正使には豊後の大友宗麟の名代である伊東マンショが、そして副使として原マルチノと中浦ジュリアンが選ばれ、4人の少年使節が誕生したのです 2 。
天正10年(1582年)2月20日、4人の少年を乗せた船は長崎の港を出帆しました。マカオ、マラッカ、インドのゴアといった寄港地を経て、喜望峰を回り、大西洋を北上してヨーロッパ大陸に至るという、想像を絶する長旅でした。そして、天正18年(1590年)7月21日に再び長崎の地を踏むまで、実に8年5ヶ月もの歳月を要したのです 14 。
彼らのヨーロッパ訪問は、各地で熱狂的な歓迎を受けました。当時、「太陽の沈まぬ国」として世界に君臨していたスペインでは、国王フェリペ2世から丁重なもてなしを受け 2 、イタリアのフィレンツェでは、ルネサンス文化の華であるメディチ家の舞踏会に招かれるなど、まさに国王の使節に準ずる破格の待遇で迎えられました 2 。
旅のクライマックスは、天正13年(1585年)3月に訪れます。一行はローマに到着し、カトリック教会の最高権威である教皇グレゴリウス13世との謁見を果たします。その舞台は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に隣接する、枢機卿たちが一堂に会する厳粛な広間でした。少年たちは、そこで国王使節並みの歓待を受け、さらにはローマ市民権を授与されるという、前代未聞の栄誉に浴しました 2 。グレゴリウス13世の死後には、その後継者であるシクストゥス5世の盛大な戴冠式にも参列しています 22 。
この長大な旅の中で、ミゲルはどのような少年として周囲の目に映っていたのでしょうか。残された記録からは、彼の多面的な人物像が浮かび上がってきます。イタリアの年代記作者ウルバーノ・モンテは、ミラノで出会ったミゲルのことを「蜂蜜のように甘い柔らかな物腰の子」と記しており、彼の物静かで穏やかな人柄を伝えています 8 。その一方で、旅の途中で疱瘡(天然痘)を患うなど、体は決して壮健ではなかったようです 8 。
しかし、彼にはただ穏やかで病弱なだけではない、別の側面もありました。使節派遣の発案者であるヴァリニャーノ自身が、帰国後に使節たちの見聞をまとめた対話録形式の書物『デ・サンデ天正遣欧使節記』の中では、ミゲルは対話を主導する中心人物として描かれています。そこには、ヨーロッパの進んだ文明やキリスト教の教えについて、理路整然と語る聡明でリーダーシップに溢れた若者の姿があります 8 。
この8年以上に及ぶ旅は、ミゲルの内面に計り知れない影響を与えたはずです。日本の、それも肥前という一地方の封建的な身分社会しか知らなかった少年が、ヨーロッパの王侯貴族、そしてキリスト教世界の頂点であるローマ教皇と、対等に近い立場で交流するという経験は、彼の世界観を根底から覆したに違いありません。この経験を通じて、彼の中には、特定の藩や国といった枠組みを超えた、より普遍的な「世界」や「人間」という概念が芽生えた可能性があります。石造物研究家の大石一久氏が、ミゲルが「(自分は)全世界に直属する一個の住民であり市民だ」と語ったと指摘しているように 27 、彼の中に「世界市民」とも呼ぶべき意識が形成されたとしても不思議ではありません。彼は、キリスト教が説く神の下の平等という普遍的な価値と、ヨーロッパ社会が持つ壮麗さ、合理性、そして文化的な奥深さを、一つの理想として深く内面化したことでしょう。しかし、この時に形成されたであろう高い理想こそが、帰国後に彼が目の当たりにする日本の、そしてイエズス会の生々しい現実との間に、埋めがたいギャップを生み出すことになります。この理想と現実の乖離が、後の彼の幻滅と苦悩を深くし、組織との決別へと向かわせる、最大の思想的根源となったのではないでしょうか。
8年半もの長旅を終え、青年へと成長したミゲルたちが日本の地を再び踏んだ時、彼らを待っていたのは、出発前とは大きく様変わりした、キリスト教に対する厳しい現実でした。栄光の旅から帰還した英雄たちを待ち受けていたのは、信仰のあり方を根本から問われる、苦難に満ちた道のりの始まりでした。
ミゲルたちが長崎に帰着したのは、天正18年(1590年)のことでした。しかし、彼らが日本を留守にしている間に、国内の情勢は激変していました。天正15年(1587年)、天下統一を進める豊臣秀吉が、突如として「伴天連追放令」を発令。キリスト教の宣教師たちに国外退去を命じ、キリスト教に対する逆風が吹き始めていたのです 1 。さらに、彼らの派遣を後押しした最大の庇護者であったキリシタン大名、大村純忠と大友宗麟は、すでにこの世を去っていました 1 。
それでも、ヨーロッパから帰還した彼らは、時の権力者である秀吉から大きな注目を集めます。天正19年(1591年)、一行は京都の聚楽第に招かれ、秀吉に謁見。ヨーロッパで習得したヴィオラやハープなどの西洋楽器を演奏して見せました 14 。秀吉は彼らを大いに気に入り、自らに仕えるよう誘いますが、ミゲルを含む4人全員が、司祭になる道を選ぶとして、その誘いを丁重に断ったとされています 28 。
秀吉からの仕官の誘いを断った4人は、司祭になるという当初の目的を果たすため、天草にあったイエズス会の修練院(コレジヨ)に入り、神学の勉学を再開します 8 。そして1591年、4人はそろって正式にイエズス会に入会を果たしました 1 。
この入会に際して、ミゲルが語ったとされる言葉が、宣教師ルイス・フロイスが編纂した『1591・92年度日本年報』に記録されています。それは、彼を庇護し、使節として送り出した従兄弟の有馬晴信(ドン・プロタジオ)への感謝を述べた後、次のように語ったというものです。「どれほど広大な領地をもらったとしても、また有馬殿(が有するの)よりも広大な支配権を得ても、(イエズス)会に入ることを思い留まりはしないであろう」。この言葉は、世俗の栄華よりも神に仕える道を選ぶという、彼の篤い信仰心とイエズス会への強い信頼を雄弁に物語るものとして、長らく引用されてきました 1 。
しかし、この有名な決意表明は、別の角度から見ることも可能です。これはミゲルの純粋な信仰の告白であると同時に、彼のパトロンである有馬晴信に対して、その期待に応えることを誓う、多分に儀礼的・政治的な意味合いを帯びたパフォーマンスであった可能性も否定できません。この発言は、晴信への謝辞の直後に述べられており 14 、彼の行動が常に大村・有馬両家の意向と分かちがたく結びついていたことを考えれば、これは個人的な信仰の発露であると同時に、「あなたの期待通り、私は俗世の栄華を捨てて神の道に進みます」という、主君(従兄弟)に対する忠誠の誓いでもあったのです。この公的な場でなされた力強い誓いこそが、皮肉にも、後の彼の脱会をより一層「裏切り」として際立たせる効果を持ってしまったと言えるでしょう。
あれほど固い決意を示したミゲルでしたが、その約10年後、慶長6年から8年(1601年〜1603年)頃に、彼はイエズス会を脱会し、会から除名処分を受けることになります 4 。一体、彼の心に何が起きたのでしょうか。
その背景には、理想を胸に抱いて帰国したミゲルの目に映った、イエズス会の「負の側面」への深い幻滅があったのではないかと指摘されています。具体的には、宣教師たちが主導した一部の寺社破壊や、在地文化を顧みない強圧的な布教活動 14 、ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売り飛ばすのを黙認していたという事実 27 、そして何よりも、日本人修道士に対するヨーロッパ人宣教師の差別的な待遇です。当時のイエズス会内部では、日本人とポルトガル人の修道士の間で食事や衣服、さらには学習内容にまで格差が設けられており、日本人を一段低く見る風潮がありました 21 。ヨーロッパで普遍的なキリスト教の理想を学んだミゲルにとって、このような現実は到底受け入れがたいものだったに違いありません 27 。
ミゲルが「棄教」し、さらには「日蓮宗に改宗した」という記録は、主にイエズス会側の書簡や報告書に見られるものです 7 。しかし、これらの記録は、組織を離れた者に対する一方的な評価や非難である可能性を考慮して、慎重に読み解く必要があります。研究者の間では、これはあくまでイエズス会という「組織」からの脱会であって、キリスト教「信仰」そのものを放棄したわけではない、という見方が有力になっています 13 。
そもそも、イエズス会がミゲルを「棄教者」として記録したこと自体、単なる事実報告ではなく、組織の権威を守るための意図的な情報操作であった可能性すら考えられます。天正遣欧少年使節は、イエズス会がその威信をかけて実行した一大プロジェクトであり、ミゲルはその成功の象徴でした。その中心人物が、日本人差別など組織の根幹に関わる問題を批判して脱会したとなれば、会の権威は大きく揺らぎ、他の日本人信徒の動揺を招きかねません。そこで、彼の脱会の動機を、組織批判という公的な問題から、「信仰を捨て、世俗の快楽に屈した」という個人的な堕落の問題にすり替えることで、彼の行動の正当性を奪い、批判の声を封じ込めようとしたのではないでしょうか。「日蓮宗に改宗した」という記録も、当時キリシタンが隆盛を極めていた大村藩の状況とは明らかに矛盾しており 27 、彼の「棄教」をより決定的に見せるための脚色であった可能性も否定できないのです。
イエズス会との決別を選択したミゲルは、聖職者としての道を捨て、一人の武士として、そして一人の家長として生きる道を選びます。彼は名を「千々石清左衛門」と改め、俗世へと「帰還」しました。しかし、その先に待っていたのは、かつての栄光とはほど遠い、複雑で困難な人生でした。
イエズス会を脱会した清左衛門(ミゲル)は、故郷である肥前に戻り、従兄弟にあたる大村藩初代藩主・大村喜前の家臣となります 4 。喜前は、ヨーロッパの知識と経験を持つ彼を高く評価したのか、伊木力(現在の諫早市多良見地区)と神浦に合計600石という、上級家臣に匹敵する知行を与えて迎え入れました 4 。
清左衛門はこの地で妻をめとり、渡馬之介、三郎兵衛、清助、玄蕃という4人の息子と、後に大村藩の城代家老である浅田安昌に嫁ぐことになる娘をもうけ、一人の武士、そして家庭人としての生活を始めます 4 。
この世俗への「帰還」は、彼の明確な意思表示でした。イエズス会が定める聖職者の道、すなわち独身制を守り、神に全てを捧げる生き方との完全な決別を意味します。彼が選んだのは、かつて共に学んだ仲間たちが目指した道ではなく、信仰を持ちながらも、家族を築き、社会の中で自らの責任を果たしていくという、より地に足の着いた生き方でした。この選択の背景には、ヨーロッパで見聞した貴族の生活様式への憧れがあったのかもしれませんが、より本質的には、イエズス会が理想とする聖職者の生き方そのものへの懐疑や拒絶があったことを示唆しています。彼は、信仰と日常生活が切り離された特別な存在として生きるのではなく、信仰を内包しながら世俗の中で生きるという、より統合された人間としてのあり方を模索したのではないでしょうか。
しかし、清左衛門が築いた穏やかな生活は、長くは続きませんでした。彼が仕える主君であり、従兄弟でもある大村喜前の心変わりが、その運命を再び暗転させます。慶長10年(1605年)頃、喜前は徳川幕府との関係を重視し、突如としてキリスト教を棄教。翌慶長11年(1606年)には領内から宣教師を追放するなど、積極的なキリシタン弾圧政策へと転換したのです 14 。
この藩の方針転換は、清左衛門の立場を極めて困難なものにしました。イエズス会側の史料によれば、清左衛門は喜前から疎まれ、迫害を受けるようになったと記されています 4 。ある記録では、彼が喜前に棄教を勧めたとさえ伝えられていますが、いずれにせよ二人の関係は急速に悪化し、ついには喜前から命を狙われる事態にまで発展したため、大村領から逃れざるを得なくなったといいます 8 。
この状況は、清左衛門を「二重の裏切り者」という、極めて孤立した立場に追い込んだ可能性があります。まず、イエズス会を脱会した時点で、彼は宣教師たちから「信仰を裏切った者」という烙印を押されていました 2 。そして、主君である喜前が弾圧に転じた際、もし彼が藩の安泰を願う現実的な判断から、喜前に何らかの助言をしたという記録 8 が事実であれば、今度は領内に残る熱心なキリシタンたちから「仲間を売った裏切り者」と見なされたことでしょう。
大村領を追われた清左衛門は、かつて自らを送り出してくれた有馬領に身を寄せますが、そこでも「背教者」として激しい非難を浴び、有馬家の家臣に襲われて瀕死の重傷を負わされたという痛ましい記録も残っています 4 。この逸話は、キリシタン側からの彼に対する憎悪がいかに強かったかを物語っています。結果として、清左衛門はイエズス会という組織からも、地域のキリシタン・コミュニティからも完全に居場所を失いました。最終的に彼は、より多様な人々が暮らし、幕府の直轄地として比較的自由な空気があった長崎に移り住んだとされますが、その後の詳しい動静は、長らく歴史の闇の中に葬られていたのです 4 。
長らく謎に包まれていた千々石ミゲルの後半生。その歴史の闇に一条の光を投じたのが、2003年の墓所発見と、それに続く科学的な調査でした。文献史料の沈黙を破り、物言わぬ遺物と遺骨が、400年の時を超えてミゲルの真実を語り始めたのです。
全ての始まりは、2003年、長崎県諫早市多良見町山川内(旧伊木力村)の山中で、一体の古い墓石が石造物研究家・大石一久氏の目に留まったことでした 2 。その墓石は、地元ではミゲルの四男である「玄蕃(げんば)の墓」として代々伝えられてきたものです。しかし、大石氏はこの伝承に疑問を抱き、墓石に刻まれた銘文を詳細に分析しました。
墓石の正面には、「自性院妙信」「本住院常安」という二人の男女の戒名と、それぞれ「寛永九年十二月」「十二日」「十四日」という、わずか2日違いの没年月日が刻まれていました。これは明らかに夫婦の墓であることを示しています。一方で、墓石の裏面には、施主(墓を建てた人物)として「千々石玄蕃」の名がはっきりと刻まれていました 7 。もしこの墓が玄蕃自身の墓であれば、施主として自分の名を裏に刻むのは不自然です。大石氏は、これは施主である玄蕃が、寛永9年(1632年)に相次いで亡くなった自身の両親、すなわち千々石清左衛門(ミゲル)とその妻のために建立した墓ではないか、という画期的な仮説を立てたのです 7 。
この仮説を証明するため、ミゲルの子孫にあたる浅田昌彦氏らの全面的な協力のもと、民間主導の「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」が立ち上がりました 1 。そして、2014年から2021年にかけて、4次にわたる大規模な発掘調査が実施されることになります 10 。
調査は驚くべき発見の連続でした。第3次調査(2017年)では、墓石の下から、成人女性(推定年齢25〜45歳)の人骨を納めた「1号墓壙(ぼこう)」が発見されます 1 。そして、その遺骨の胸元からは、ガラス製の玉(ロザリオの一部か)やガラス板の破片といった、明らかにキリシタンの信仰具(聖遺物)と思われる副葬品が出土したのです 1 。これは、この女性、すなわちミゲルの妻がキリシタンとして埋葬されたことを示す動かぬ証拠でした。
そして、プロジェクトの集大成となった第4次調査(2021年)において、ついに1号墓壙に並ぶ形で、成人男性の人骨を納めた「2号墓壙」が発見されました 40 。こちらからは副葬品は見つからなかったものの、遺体は妻と同様に西の方角に頭を向け、手足を折り曲げた「側臥屈肢(そくがくっし)」という、この地域の近世墓としては特異な姿勢で埋葬されていました 40 。
4回にわたる調査で得られた考古学的データと、大石氏らによる文献史料研究を総合的に検討した結果、専門家委員会は2022年、「当墓所が千々石清左衛門(ミゲル)夫妻の墓所であると確定する」との結論を発表しました 12 。これにより、天正遣欧少年使節4人の中で、ミゲルは唯一、その墓所の場所が具体的に特定された人物となったのです 2 。
調査次数 |
調査年月 |
主な目的・手法 |
主要な発見と意義 |
第1次・第2次調査 |
2014年9月、2016年9月 |
墓所の建立当時の構造確認、地中レーダー探査 |
墓石が後世(明治期)に整備され、本来の位置から動かされていることが判明。基壇の下に墓壙が存在する可能性を示唆 1 。 |
第3次調査 |
2017年8月 |
基壇を解体し、墓壙の検出 |
1号墓壙(成人女性人骨)を発見。胸元からガラス玉・板ガラス片などの キリシタン信仰具 が出土。ミゲルの妻と推定され、「棄教者」の妻がキリシタンとして葬られたという衝撃的な事実が判明 1 。 |
第4次調査 |
2021年8月 |
2号墓壙の調査と墓所全体の解明 |
2号墓壙(成人男性人骨)を発見。副葬品はなかったが、妻と同様の特異な埋葬姿勢(側臥屈肢)。ミゲル本人と推定。墓所全体の構造と造営過程が明らかになる 40 。 |
総合評価 |
2022年以降 |
考古学・文献史学による成果の統合 |
墓所が 千々石ミゲル夫妻のものであると確定 。妻の信仰が物証で裏付けられたことで、ミゲル自身の信仰のあり方にも再検討を迫り、従来の「棄教者」という歴史像を根本から覆す契機となった 12 。 |
この一連の考古学調査の結果は、イエズス会の文献史料が一方的に描いてきた「棄教者ミゲル」像に対し、決定的な物証をもって反論するものでした。特に、妻の埋葬状況は、ミゲルの「棄教」が単純な信仰の放棄ではなかったことを、何よりも雄弁に物語っています。キリスト教への弾圧が厳しさを増していた寛永9年(1632年)という時期に、一藩士の妻を、しかもキリシタンの信仰具と共に埋葬することは、発覚すれば一族の存亡に関わる、極めてリスクの高い行為でした。この埋葬を主導し、あるいは少なくとも容認したのは、家長である夫、すなわちミゲル以外には考えられません。もし彼が本当にキリスト教を憎み、心底から棄教していたのであれば、このような埋葬を決して許すはずがなかったでしょう。したがって、ミゲルはイエズス会という「組織」を離れた後も、キリスト教「信仰」そのものは、妻と共有する形で密かに保持し続けていた、すなわち「潜伏キリシタン」であった可能性が極めて高い、と結論づけることができます。イエズス会の記録は、400年の時を経て現れたこの「沈黙の証言」の前に、その信憑性を大きく揺るがされることになったのです。
墓所の発見と考古学的調査は、千々石ミゲルの歴史像を根本から書き換えることを我々に迫ります。「棄教者」という単純なレッテルを剥がした先に、どのようなミゲルの実像が浮かび上がってくるのでしょうか。それは、組織と個人、信仰と文化の狭間で苦悩し、自らの信じる道を模索し続けた、一人の人間の複雑で奥深い姿です。
考古学的証拠、とりわけ妻の墓から発見されたキリシタン信仰具は、ミゲルがイエズス会という組織を離れた後も、個人として、また家族として信仰を保持し続けた「潜伏キリシタン」であったという仮説を強力に裏付けます 10 。彼の行動は、イエズス会への忠誠と、自らの良心に基づく信仰との間で引き裂かれた結果としての、苦渋の選択であったと解釈できます。彼は、ヨーロッパ中心主義的で強圧的ともいえるイエズス会の布教方針や組織運営には同調できなかったものの、キリスト教の教えそのものは、生涯捨ててはいなかったのです。彼の「棄教」とは、信仰の放棄ではなく、特定の教団組織からの離脱を意味した、と捉えるべきでしょう。
ミゲルの行動をさらに深く読み解くと、彼が単なる潜伏キリシタンに留まらない、時代の先駆者としての側面が見えてきます。ヨーロッパで見聞したキリスト教の普遍的な理念と、彼が生まれ育った日本の伝統文化や社会との共存、すなわち「インカルチュレーション(土着化)」を、誰よりも真剣に模索した人物だったのではないでしょうか 27 。
彼がイエズス会を離れた根本的な理由は、その布教体制への批判、つまり、日本の文化や慣習を十分に尊重しないやり方への反発にあったと考えられます。彼は、より日本人の心性に根差した、穏やかで共存可能な信仰のあり方を求めた結果、組織と袂を分かつ道を選んだのかもしれません。彼が抱いたとされる「全世界に直属する一個の住民であり市民だ」という意識 27 は、特定の文化や組織の枠組みを超えて、普遍的な真理を追求しようとした彼の思想を象徴しています。しかし、そのような先進的な思想は、当時の硬直化した組織や、激動する社会情勢の中では理解されず、結果として彼を孤立させる原因となってしまいました。
ミゲルの生涯の特異性は、他の3人の使節の最期と比較することで、より鮮明になります。
殉教、病死、追放死。信仰に殉じた3人の最期と比べると、ミゲルの「生き延びる」という選択は、一見すると信仰の弱さの表れと見なされがちでした。しかし、その内実を深く見つめ直す時、全く異なる評価が可能になります。彼は、信仰のために公然と死ぬ道ではなく、信仰を内に秘めながら、世俗の荒波の中で家族を守り、生き抜くという、最も困難で誤解されやすい道を選んだのです。作家の村木嵐氏が「実は四人のうちで最も過酷な人生を送ったのではないでしょうか」と述べているように 1 、彼の人生は、英雄的な殉教とは異なる、もう一つの壮絶な戦いの連続でした。
キリシタン史は、しばしば殉教者を「聖」、棄教者を「俗」とする二元論で語られがちです。しかし、ミゲルの生涯は、この単純な構図に根源的な問いを突きつけます。信仰を証明する方法は、死ぬことだけなのでしょうか。禁教という極限状況下で、棄教者の烙印を押され、双方の陣営から追われながらも、妻の信仰を守り、家族を養い、最終的には妻と共にキリシタンとして葬られる。この「生き抜く」という選択は、それ自体が極めて強靭な信仰の証であったと評価することもできるはずです。ミゲルの物語は、キリシタン史における英雄像を、より豊かで多層的なものへと深化させてくれるのです。
本報告書は、千々石ミゲルという一人の歴史上の人物をめぐる、400年にわたる評価の変遷を追ってきました。その過程で明らかになったのは、歴史像というものがいかに危うい基盤の上に成り立っているか、そして、新たな発見がいかにして凝り固まった通説を覆しうるか、という事実です。
千々石ミゲル像は、この探求を通じて、「イエズス会を裏切った単純な背教者」から、「組織のあり方に根本的な疑問を抱き、自らの良心とヨーロッパで見聞した普遍的理念に基づき、日本の文化との共存を模索しながら、個人としての信仰を貫こうとした、極めて複雑で苦悩に満ちた人物」へと、劇的な転換を遂げました。
この歴史像の転換を可能にした最大の要因は、言うまでもなく考古学の力です。文献史料、特に勝者や権力を持つ組織によって残された記録だけでは決して見えてこなかった歴史の側面に、墓所の発掘調査という科学的なアプローチが光を当てました。物言わぬ遺物と遺骨が、イエズス会の記録が語るミゲル像に静かに、しかし決定的な反証を突きつけたのです。千々石ミゲルの事例は、文献史学と考古学が融合することによって、歴史の「真実」にどこまで迫れるかを示す、画期的なケーススタディとして記憶されるべきでしょう。
そして、千々石ミゲルの生涯は、一人の戦国武将の伝記に留まらず、現代に生きる我々に対しても、多くの普遍的な問いを投げかけます。
第一に、 信仰と組織の関係 です。個人の純粋な信仰心は、巨大な組織の論理や権威主義と、常に関係なく存在しうるのでしょうか。ミゲルの苦悩は、信念を貫くことと組織に属することの間に生じる、時代を超えたジレンマを我々に示唆します。
第二に、 異文化理解のあり方 です。異なる文化や価値観が衝突する時、いかにして一方的な押し付けや排除を乗り越え、相互尊重に基づいた共存の道を見出すことができるのか。ミゲルが模索したであろう「インカルチュレーション」の試みとその挫折は、グローバル化が進む現代社会においても、極めて重要な教訓を含んでいます。
最後に、 歴史の「真実」とは何か 、という問いです。歴史とは、記録を残した者によって語られる物語に過ぎないのでしょうか。ミゲルのように、沈黙を強いられ、「裏切り者」の汚名を着せられた人々の声に、我々はいかに耳を傾けるべきなのか。彼の物語は、歴史を多角的に、そして批判的に読み解くことの重要性を教えてくれます。
千々石ミゲルの探求は、まだ終わってはいません。彼の生涯は、歴史の大きなうねりの中で、自らの信念と良心に従って誠実に生きようとした一人の人間の、栄光と苦悩の記録です。その沈黙の声に耳を澄ます作業は、過去を理解するだけでなく、我々自身の生き方を問う、未来に向けた営みであり続けるでしょう。