安土桃山時代、下野国(現在の栃木県)にその生を受け、わずか25歳で非業の死を遂げた武将、千本資政(せんぼん すけまさ) 1 。彼は、戦国大名・那須氏の有力家臣でありながら、その生涯は時代の大きなうねりと複雑に絡み合った人間関係の中で翻弄され、悲劇的な結末を迎えました。
資政の死は、岳父である大関高増(おおぜき たかます)との個人的な対立、すなわち妻との離縁問題に端を発すると一般に理解されています 2 。しかし、一つの家庭内の不和が、なぜ一族の嫡流を根絶やしにするほどの周到な謀殺事件にまで発展したのでしょうか。その背景には、単なる個人的な確執を超えた、根深い政治的対立、父の代から引き継がれた宿痾、そして戦国という時代の非情な論理が存在していました。
本報告書は、千本資政という一人の武将の短い生涯を軸に、彼を取り巻く環境を徹底的に掘り下げることを目的とします。まず、彼が属した名門・千本氏の出自と、那須家中の独特な権力構造を明らかにします。次に、父・千本資俊が犯した「主君殺害」という過去の罪と、その後の功績が、いかに資政の運命に影を落としたかを分析します。そして、資政の誕生、大関氏との政略結婚、その破綻である離縁、そして彼と父の命を奪った謀殺事件「太平寺の変」へと至る過程を、史料に基づき詳細に再構築します。最後に、事件が那須家中に与えた影響と、皮肉な運命を辿る千本氏のその後を考察することで、千本資政の生涯を歴史の文脈の中に立体的に位置づけ、彼の悲劇が映し出す戦国武士の宿命を浮き彫りにします。
千本資政の悲劇を理解するためには、まず彼が背負っていた「千本氏」という家の歴史と、その家が置かれていた政治的環境を把握する必要があります。千本氏は、源平合戦における屋島の戦いの「扇の的」で知られる那須与一宗隆の兄、為隆(ためたか)を祖とする、那須一門の中でも屈指の名門でした 4 。為隆は建久年間(1190年~1198年)に下野国千本(現在の栃木県芳賀郡茂木町)の地に千本城(別名:教ヶ岡城)を築城し、以来、その子孫が代々この地を拠点としました 6 。
その家格は極めて高く、主家である那須氏、そして同じく那須氏の庶流である蘆野氏、伊王野氏、福原氏、さらには譜代の重臣である大関氏、大田原氏と並び、「那須七党」あるいは「那須七騎」と称される武家連合の中核を成していました 2 。この七党は、那須氏の軍事力を支える重要な支柱であり、千本氏もまた、那須家の「羽翼」として武名を馳せたのです 3 。
しかし、この那須七党という存在は、那須氏にとって諸刃の剣でもありました。彼らは主家を支える家臣であると同時に、それぞれが自らの領地と家臣団を持つ独立した領主としての側面を強く保持していました 9 。そのため、主家の統制は必ずしも盤石ではなく、七党が主家の意向に背き、独自の判断で行動することも稀ではありませんでした。この緩やかな連合体国家のような統治構造こそが、那須家中に絶え間ない内紛と権力闘争の火種を燻らせる根本的な要因となっていたのです。
特に、那須氏の家臣団は、主君の居城である烏山城に近い地域を本拠とする「下那須衆」と、北部の黒羽城や大田原城を拠点とする「上那須衆」という、地理的・政治的な派閥に大別される傾向がありました。千本氏は下那須衆に、そして後に資政の運命を左右することになる大関氏は上那須衆の筆頭格に位置づけられていました 4 。この二つの派閥間の対立構造は、後の千本氏と大関氏の宿命的な抗争の伏線として、常に那須家中に存在し続けていたのです。千本資政の悲劇は、こうした統制の緩い政治構造の歪みが、一個人の家庭問題を引き金として噴出した事件であると捉えることができます。
千本資政の運命を決定づけた最大の要因は、彼の父、千本常陸介資俊(せんぼん すけとし)の存在でした。大永2年(1519年)に生まれた資俊は、那須家中で絶大な権勢を誇った武将であり、その生涯は「主君への裏切り」と「主君への忠誠」という、二つの全く相反する側面によって彩られています 2 。この父が残した功罪の遺産が、息子の資政に重くのしかかることになります。
天文20年(1551年)1月、資俊は自らの主君であった那須氏第19代当主・那須高資(なす たかすけ)を、居城である千本城に誘い込んで謀殺するという、家臣としてあるまじき大罪を犯します 2 。この事件の背景には、那須氏と長年対立していた下野宇都宮氏の存在がありました。宇都宮氏の重臣・芳賀高定は、かつて自らの主君・宇都宮尚綱を那須高資に討たれた「喜連川五月女坂の戦い」の報復として、那須家中の内紛を利用することを画策し、その実行犯として資俊に白羽の矢を立てたのです 4 。資俊はこの謀略に乗り、主君の命を奪いました。
この行為は、たとえ背後に宇都宮氏の策謀があったとしても、許されざる裏切りでした。しかし、この事件によって那須氏の家督は高資の弟(資俊にとっては好都合な人物)である那須資胤(なす すけたね)が継ぐこととなり、資俊は一時的な追放処分を受けたものの、やがて許されて帰参を果たします 2 。
帰参後の資俊は、まるで過去の罪を贖うかのように、新当主・資胤の腹心として目覚ましい働きを見せます。特にその忠誠心が試されたのが、上那須衆の筆頭である大関高増が資胤に反旗を翻した時でした。高増は佐竹氏と結んで資胤を攻撃しますが、資俊はこれに同調せず、一貫して資胤の側に立ち続けました 12 。
永禄9年(1566年)の「治部内山の戦い」では、その武勇がいかんなく発揮されます。資俊は、佐竹義堅と大関高増らが率いる3,300の連合軍に攻められますが、これを数的不利を覆して撃破し、敵将・義堅を生け捕りにするという大勝利を収めました 2 。さらに外交面でも手腕を発揮し、元亀3年(1572年)には佐竹家との和睦交渉を成功させるなど、資胤政権下で千本氏の権勢は頂点に達しました 4 。
しかし、この輝かしい功績の裏で、父が犯した「主君殺害」という原罪は、決して消え去ることはありませんでした。それは那須家中に癒えない傷として残り続け、34年後、大関高増が資俊・資政父子を合法的に排除するための絶好の口実として利用されることになるのです。大関高増は、那須高資の甥にあたる当主・那須資晴に対し、「千本氏は那須家の仇敵であるから、これを討ち取り、伯父上の怨みを晴らすべきです」と進言し、謀殺の承認を得ることに成功します 3 。資政の悲劇の直接の引き金は後述する離縁問題でしたが、その計画を正当化し、主君の裁可を得ることを可能にした根本的な原因は、遠い昔に父・資俊が犯したこの一つの罪にあったのです。
父・資俊が那須家中で権勢を振るう中、永禄4年(1561年)、千本資政はこの世に生を受けました 1 。通称を十郎、別名を隆継ともいいます 1 。嫡男の誕生は、本来であれば一族の安泰を約束する喜ばしい出来事のはずでした。しかし、皮肉にも資政の誕生そのものが、千本家に新たな火種と将来の悲劇の種を蒔くことになります。
資俊には長らく実子がおらず、下野の有力国人である茂木治清(もてぎ はるきよ)の次男・義隆(よしたか、初名は義政)を養子として迎え、後継者としていました 11 。ところが、実子である資政が誕生したことで、この養子縁組は白紙に戻されます。養子・義隆は廃嫡され、実家の茂木氏へと送り返されてしまったのです 1 。
この一方的な養子縁組の破棄は、茂木氏の面目を著しく傷つけるものでした。『大田原市史』によれば、この一件によって「千本氏と茂木氏は不和となった」と記されており、千本氏は有力な隣人であった茂木氏を敵に回すことになりました 11 。この時に生まれた確執が、後に大関高増によって巧みに利用され、千本氏を孤立させる一因となります。
茂木氏との関係が悪化し、自らの政治的立場に不安定要素を抱えた資俊は、状況を打開するため、次なる一手として政略結婚に踏み切ります。相手として選ばれたのは、あろうことか長年の政敵であり、那須家中の最大の実力者であった大関美作守高増の次女でした 3 。資政は長じると、この大関氏の娘を正室として迎えます。
この縁組は、那須家中の二大勢力である千本氏と大関氏を結びつけ、家中の安定を図るという大義名分のもとに行われた典型的な政略結婚でした。資俊は、この婚姻によって政敵との関係を改善し、息子・資政の代における家の安泰を図ろうとしたのでしょう。二人の間には一人の娘も生まれ、表面的には両家の関係は修復されたかのように見えました 3 。
しかし、この縁組は根本的な問題を解決するものではありませんでした。むしろ、最も危険な政敵を親族として家の中に招き入れるという、極めて危うい選択でした。それは、一族を破滅へと導きかねない時限爆弾を自ら抱え込む行為に等しく、その導火線に火がつくまでに、さほどの時間はかからなかったのです。
カテゴリ |
人物名 |
千本資政との関係 |
備考 |
千本一族 |
千本資俊 |
父 |
太平寺の変で共に謀殺される 2 |
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千本資政 |
本人 |
享年25 1 |
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資政の母 |
母 |
大関高増の娘(資政の妻)と不和になる 3 |
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千本義隆 |
義兄(養子→廃嫡) |
茂木治清の次男。資俊・資政死後、千本氏の名跡を継ぐ 1 |
大関一族 |
大関高増 |
岳父 |
謀殺の首謀者。那須七党筆頭 17 |
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高増の次女 |
妻(のち離縁) |
離縁が高増の怒りを買い、事件の引き金となる 1 |
那須主家 |
那須高資 |
父の旧主君 |
天文20年(1551年)に父・資俊が謀殺 4 |
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那須資胤 |
父の主君 |
資俊を重用。資胤の死が千本氏の凋落を招く 12 |
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那須資晴 |
主君 |
高資の甥。大関高増の進言を受け、千本父子の謀殺を承認 11 |
共謀者 |
大田原綱清 |
大関高増の弟 |
謀殺の実行犯の一人 11 |
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福原資孝 |
大関高増の弟 |
謀殺の実行犯の一人 11 |
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茂木治清 |
義隆の実父 |
息子を廃嫡された恨みから、謀議に加担 11 |
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太平寺別当 |
犯行現場の住職 |
謀議に加担し、千本父子を寺に誘い込む 11 |
千本氏と大関氏の間に結ばれた危うい同盟関係は、予期せぬ形で、しかも急速に破綻を迎えます。戦国時代の大きな権力闘争の直接的な引き金となったのは、驚くべきことに、極めて個人的で家庭的な「嫁姑問題」でした。
『大田原市史』などの諸史料が一致して伝えるところによれば、資政の妻、すなわち大関高増の娘は、「姑との間が不和となり」ました 3 。この「姑」とは、資政の母であり、資俊の妻を指します。嫁と姑の対立は、いつの時代にも起こりうる家庭内の問題ですが、この一件は千本家の存亡を揺るがす政治問題へと発展します。
対立が深刻化する中、資政は最終的に、母の意向を受け入れる形で妻との離縁を決断し、彼女を実家である大関家へ送り返してしまいました 1 。この決断は、資政の政治家としての未熟さ、あるいは家庭内の情に流されやすい人間的な側面を物語っています。彼は、那須家中の複雑な政治力学よりも、家庭内の秩序を優先してしまったのです。
当時の武家社会において、大名や有力国人間の政略結婚によって迎え入れた正室を、一方的な理由で離縁し実家へ送り返すという行為は、その実家に対する最大限の侮辱であり、同盟関係の完全な破棄を意味しました。それは、相手の顔に泥を塗るだけでなく、その家の権威そのものを否定するに等しい挑発行為でした。
娘を送り返された大関高増は、これに「非常に立腹し、千本常陸守(資俊)を除こうと決意した」と伝えられています 3 。彼の怒りは、単に娘を不憫に思う父親としての私的な感情だけではありませんでした。それは、那須七党の筆頭であり、家中の実力者としての自らの面目を公衆の面前で踏みにじられたことに対する、政治的な憤激でした。長年の政敵であった千本氏から受けたこの屈辱は、高増に千本一族の抹殺という、冷徹な決断を下させるのに十分な理由となったのです。
この一件は、戦国の世において、個人的な感情の処理の失敗や家庭内の不和が、いかに容易に一族の滅亡に直結し得たかを示す象徴的な出来事です。冷徹な権力者である大関高増は、資政が露呈したこの「人間的な弱さ」あるいは「政治的未熟さ」を好機と捉え、長年の政敵を排除するための行動を開始しました。
妻との離縁問題によって千本氏を排除する大義名分と動機を得た大関高増は、周到かつ冷酷な謀殺計画を実行に移します。その手際の良さは、彼が単なる武人ではなく、謀略に長けた政治家であったことを如実に示しています。この一連の出来事は、その舞台となった寺の名から「太平寺の変」と呼ばれています。
高増の計画は、激情に任せた短絡的なものではなく、自らの行為を正当化し、成功を確実にするための周到な準備の上に成り立っていました。
第一に、彼はまず主君である那須資晴の「公認」を取り付けます。資晴に対し、かつて彼の伯父・那須高資が千本資俊に殺害された事件を持ち出し、「主家の積年の恨みを晴らす好機です」と進言しました。父の代からの因縁を巧みに利用された資晴はこれを承認し、高増に千本氏誅伐の謀議を命じました 2 。これにより、高増の計画は私怨による暗殺ではなく、「主命による逆賊討伐」という体裁を整えることができました。
第二に、彼は利害を共有する「共犯者」を結集させます。自らの実弟である大田原綱清と福原資孝を計画に引き入れ、実行部隊の中核としました 11 。さらに、かつて息子を廃嫡されたことで千本氏に恨みを抱いていた茂木治清を説き伏せ、協力を取り付けます 3 。彼らには、千本氏の広大な遺領を分配することを約束し、強固な共犯関係を築き上げました。
第三に、犯行現場として、被害者を油断させる絶好の場所を選定します。その舞台となったのが、烏山(現在の那須烏山市滝)に所在する天台宗の古刹・太平寺(通称:滝寺)でした 11 。この寺は坂上田村麻呂創建の伝説を持ち、那須氏代々の信仰も篤い神聖な場所であり、そのような場所で謀略が行われるとは誰も予期しなかったでしょう 20 。高増は、この寺の別当(住職)をも味方に引き入れることに成功し、千本父子を無防備な状態で誘い出すための罠を完成させました 11 。
天正13年12月8日(西暦1586年1月27日)、計画は実行に移されました 1 。高増らは、何らかの口実を設けて千本資俊・資政父子を太平寺での会談に招き寄せます。何の疑いも抱かずに寺を訪れた父子は、出迎えた別当に案内されるまま奥の間へと通されました。その瞬間、待ち伏せていた大関高増、大田原綱清、福原資孝らが一斉に襲いかかり、父子を斬殺しました 3 。同行していた従者たちも、外で待ち構えていた大関らの手勢によってその多くが討ち取られ、太平寺は惨劇の舞台と化しました 11 。
この「太平寺の変」により、千本資俊は享年67、そして千本資政はわずか25年の短い生涯を閉じました 1 。老獪な政敵が仕掛けた完璧な罠の前には、いかなる武勇も及ばず、父子ともに非業の死を遂げたのです。
年代 |
出来事 |
関係者・影響 |
天文20年 (1551) |
千本資俊が主君・那須高資を千本城にて謀殺。 |
芳賀高定の謀略に乗る。那須資胤が家督を継ぎ、資俊は後に許される。これが34年後の謀殺の口実となる 4 。 |
永禄4年 (1561) |
千本資政、誕生。 |
養子であった茂木義隆が廃嫡され、茂木氏との間に確執が生じる 1 。 |
永禄年間 (1560年代) |
大関高増が主君・那須資胤に反抗し、佐竹氏と結ぶ。 |
千本資俊は資胤に忠誠を尽くし、治部内山の戦いで大関連合軍を破る。両家の対立が鮮明化 12 。 |
天正11年 (1583) |
那須資胤、死去。子の那須資晴が家督を継ぐ。 |
千本氏にとって最大の庇護者が不在となる。那須家中のパワーバランスが変化 22 。 |
天正13年 (1585) 頃 |
千本資政が、大関高増の娘と離縁。 |
姑(資政の母)との不和が原因。高増は激怒し、千本氏排除を決意する 3 。 |
天正13年12月8日 (1586年1月27日) |
太平寺の変 |
資俊・資政父子が太平寺に誘い出され、大関高増・大田原綱清らに謀殺される。千本氏の嫡流は断絶 1 。 |
「太平寺の変」によって当主父子を失った千本氏は、その嫡流が断絶するという決定的な打撃を受けました。それは、那須与一の兄・為隆から約390年続いた名門の血筋が、謀略によって終焉を迎えた瞬間でした 11 。
事件後、主君・那須資晴は、伯父・高資の仇を討ったという名目のもと、千本氏の広大な遺領を謀殺の実行犯である大関高増、大田原綱清、福原資孝の三氏に分け与えました 3 。これは、高増らが計画段階から期待していた報酬であり、彼らの政治的・経済的基盤をさらに強固なものにしました。
一方で、千本氏の「家名」そのものは、断絶を免れました。当主の座には、かつて資政の誕生によって廃嫡され、実家に戻っていた茂木治清の次男・義政(義隆)が再び迎え入れられたのです 1 。彼は千本義隆と名乗り、千本城主となりましたが、その所領の大部分は奪われており、実質的には大関氏の強い影響下に置かれた傀儡当主であったと考えられます。ここに、為隆以来の血統を持つ「那須系千本氏」は滅び、新たに「茂木系千本氏」が誕生しました。
千本資政の悲劇は、ここで終わりませんでした。歴史はさらに皮肉な結末を用意します。千本氏の家名を乗っ取った形の茂木系千本氏は、その後、激動の時代を巧みに乗り越えていくのです。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、主家である那須氏は参陣に遅れ、改易の憂き目に遭います。しかし、千本義隆はいち早く豊臣方に参陣したことで所領を安堵され、主家が没落する中で独立した勢力としての地位を確立しました 4 。
続く慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、義隆の子・義定が徳川家康の東軍に属して功を挙げ、戦後には加増を受けて3000石を超える大身旗本となります 13 。江戸時代を通じて旗本として存続し、一時は跡継ぎがなく改易の危機に瀕するも、分家が家名を再興し、明治維新まで家名を保ち続けました 6 。
結果として、本来の千本氏を滅ぼした側(大関氏)と、その家名を継いだ側(茂木氏)が、戦国末期から近世にかけての「勝ち組」となりました。資政の死によって守られるはずだった血統は途絶え、その名を継いだ者が繁栄するという皮肉な結末は、戦国時代から近世へと移行する中で、古い血統の誇りよりも、時流を読んで巧みに立ち回る政治的手腕が武家の存続にとって重要であったことを冷徹に示しています。
千本資政の25年というあまりにも短い生涯は、自らの意思や器量とは無関係に、巨大な歴史の歯車と人間関係の宿痾に翻弄されたものでした。彼の悲劇は、複数の要因が複雑に絡み合って引き起こされました。
第一に、 父の罪業 です。父・資俊が34年前に犯した主君殺害という過去の亡霊は、常に千本家に付きまとい、最終的に政敵である大関高増に、一族を抹殺するための絶対的な大義名分を与えました。
第二に、**政略の軛(くびき)**です。茂木氏との関係悪化を招いた自らの誕生、そしてその状況を打開するために結ばれた大関氏との危険な政略結婚という、逃れられないしがらみが、彼を破滅へと誘いました。
第三に、 人間関係の亀裂 です。嫁姑問題という、一見すれば些細な家庭内の不和が、政治的判断を誤らせ、老獪な岳父に付け入る隙を与える致命的なきっかけとなりました。
千本資政は、歴史に名を轟かせる英雄でも、時代を動かした梟雄でもありません。しかし、彼の生涯は、戦国時代における地方の有力武家(国人)の当主が、いかに多くの重圧と矛盾の中で生きていたかを凝縮して体現しています。一族の存続、主家との関係、有力家臣とのパワーバランス、そして家庭内の人間関係。そのいずれか一つでも舵取りを誤れば、即座に一族の滅亡に繋がるという、常に薄氷を踏むような状況に置かれていました。
資政の悲劇は、彼一人の物語ではありません。それは、血縁、地縁、そして個人的な感情が複雑に絡み合い、一つの過ちが破滅的な結果を招く、戦国という時代の非情さ、複雑さ、そして人間ドラマの濃密さを、誰よりも雄弁に物語る貴重な歴史の証左です。彼の短い生涯を通して、私たちは、華々しい合戦の裏で繰り広げられていた、武士たちの生々しい生存競争と、逃れがたい宿命そのものを垣間見ることができるのです。