最終更新日 2025-06-29

千葉胤富

日本の戦国時代の武将「千葉胤富」に関する総合研究報告

序章:乱世の名門・千葉氏と胤富の位置づけ

戦国時代、関東地方は旧来の権威であった古河公方と関東管領の体制が崩壊し、新興勢力である後北条氏、越後から関東に進出する上杉氏、そして安房の里見氏や常陸の佐竹氏といった国衆が覇を競う、激動の時代にありました 1 。このような群雄割拠の状況下で、鎌倉時代以来の名門として下総国に君臨してきた千葉氏もまた、その存亡の危機に立たされていました。享徳の乱以降、一族の内紛や家臣団の台頭によってその支配力は著しく衰退し、かつての栄光は見る影もありませんでした 3

本報告書で詳述する千葉胤富(ちば たねとみ)は、まさにこの時代の転換点において、没落寸前の千葉氏の家督を継いだ人物です。大永7年(1527年)に生まれ、天正7年(1579年)に没した彼の生涯は、伝統的権威の失墜と実力主義の台頭という、戦国時代の二つの大きな潮流が交差する地点にありました 6 。彼の行動は、源頼朝以来の名門としての「誇り」と、強大な勢力に囲まれた中で家を存続させるための冷徹な「現実主義」との間の、絶え間ない葛藤によって特徴づけられます。

本報告は、千葉胤富という一人の武将の生涯を、その出自、家督相続の複雑な経緯、軍事行動、領国経営、そして人物像に至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げます。彼の選択と行動を丹念に追うことで、戦国中期における関東の動乱の実像と、その中で名門・千葉氏が如何にして生き残りを図ったのかを明らかにすることを目的とします。


表1:千葉胤富 略年譜

西暦(和暦)

胤富の年齢

胤富・千葉氏の動向

関連する関東の動向

1527年(大永7年)

1歳

1月15日、千葉昌胤の次男として誕生 6

(不明)

有力庶家・海上氏の名跡を継ぎ、海上九郎と称す。森山城主となる 6

1546年(天文15年)

20歳

父・昌胤が死去。兄・利胤が家督を継承 8

1547年(天文16年)

21歳

兄・利胤が早世。甥(または弟)の親胤が家督を継承 8

1557年(弘治3年)

31歳

8月7日、親胤が家臣に暗殺される。家臣団に推され、千葉宗家の家督を継承。佐倉城主となる 8

1560年(永禄3年)

34歳

北条氏康の要請に応じ、古河公方・足利義氏を攻める上杉謙信への対策として援軍を派遣 6

里見方の正木氏が香取地域に侵攻を開始 11

1561年(永禄4年)

35歳

里見氏の侵攻により臼井城、小弓城を奪われる 6 。鶴岡八幡宮での上杉謙信の関東管領就任式に参列。小山高朝と席次を争う 6

上杉謙信が11万の大軍で小田原城を包囲 6

1562年(永禄5年)

36歳

北条氏の支援を受け、臼井城、小弓城を奪還 6

1566年(永禄9年)

40歳

3月、臼井城の戦い。上杉謙信の大軍を原胤貞らと共に撃退する 1

上杉謙信の関東における権威が失墜し、関東諸将が離反し始める 13

1568年(永禄11年)

42歳

北条氏康の要請に応じ、武田信玄に攻められた今川氏真を救援するため駿河へ出兵 8

1571年(元亀2年)

45歳

小弓城にて里見義弘軍と交戦 6

c.1573年(天正元年)

47歳

史料上の活動が見られなくなり、子・邦胤に家督を譲り隠居したとみられる 7

1579年(天正7年)

53歳

5月4日、死去。法名、真岩常源大禅定門 6


第一部:家督相続への道程

第一章:誕生と「海上九郎」としての前半生

千葉胤富は、大永7年(1527年)1月15日、下総千葉氏第24代当主・千葉昌胤の次男として誕生しました 6 。母は上総国長柄郡の国人、金田左衛門大夫正信の娘と伝えられています 6 。当時の千葉氏は、父・昌胤の代に小田原の北条氏綱と姻戚関係を結ぶなど、新興勢力である北条氏との連携を模索していましたが、その支配力はかつてのように下総一円に及ぶものではなく、家臣団である原氏の力が「千葉は百騎、原は千騎」と称されるほど強大化し、宗家の権威は相対的に低下している状況にありました 5

このような状況下で次男として生まれた胤富は、当初、宗家の家督を継ぐ立場にはありませんでした。彼は早くに千葉氏の有力な一族である海上(うなかみ)氏の名跡を継ぎ、「海上九郎」と称して、下総国東部、香取海に面する要衝・森山城(現在の千葉県香取市)の城主となります 6 。この海上氏は、千葉氏の祖・千葉常胤の子孫である東氏の庶流にあたり、下総東部(東総地域)に強固な地盤を持つ一族でした 18 。胤富がこの海上氏を継承したことは、単なる庶子の処遇に留まらず、彼に千葉宗家とは異なる独自の権力基盤をもたらすことになります。

胤富と海上氏との結びつきは、婚姻によってさらに強固なものとなりました。彼は海上山城守の娘である通性院芳泰を妻に迎えています 19 。後に胤富は、この妻が亡くなると、その菩提を弔うために森山城下に芳泰寺を建立しており、彼の情愛の深さをうかがわせる逸話として知られています 6

胤富の「海上九郎」としての前半生は、彼が後の千葉氏当主として辣腕を振るう上で、決定的に重要な意味を持ちました。彼が拠点とした森山城は、広大な内海であった香取海に面し、水運と流通の結節点でした 21 。この地で領主として過ごした経験は、彼に農業生産だけでなく、水運、漁業、商業といった経済活動の重要性を深く認識させたはずです。この視点は、本拠地・佐倉を中心とする内陸的な性格の強い千葉宗家の歴代当主とは一線を画すものであり、後に彼が当主として商人保護政策などを打ち出す素地を形成したと考えられます 19 。胤富の卓越した統治能力は、この「海上九郎」時代に培われたと言っても過言ではないでしょう。

第二章:宗家の動揺と親胤暗殺事件

胤富が森山城主として東総に勢力を固めていた頃、本家の佐倉千葉氏では激しい動揺が続いていました。天文15年(1546年)に父・昌胤が没すると、家督は長兄の利胤が継承しますが、わずか2年後の天文16年(1547年)に33歳の若さで急死してしまいます 8

利胤の死後、家督を継いだのは千葉親胤でした。親胤の出自については、利胤の嫡男とする説 9 と、昌胤の四男で利胤の弟にあたる人物とする説 9 があり、判然としません。この系譜上の混乱自体が、当時の千葉宗家の不安定な状況を物語っています。いずれにせよ、親胤は若年で当主の座に就きましたが、『千葉伝考記』によれば「剛愎驕慢にして、国政をなすに往々私あり」と評されるなど、その独善的な振る舞いは家臣団の信望を著しく損なっていきました 8

そして弘治3年(1557年)8月7日、親胤は家臣の手によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げます。享年わずか17歳でした 9 。この暗殺事件は、単なる家臣の暴発ではなく、当時の関東の複雑な政治情勢を背景とした、周到に計画された政変であったと考えられています。その背景には、大きく三つの要因が絡み合っていました。第一に、親胤の専横に不満を抱く家臣団内部の権力闘争。第二に、千葉氏の外交方針を巡る、親北条派と反北条派の路線対立。そして第三に、関東の覇権を確立しようとする北条氏康の巧妙な介入です。

近年の研究では、親胤が親北条派の重臣・原胤貞らの専横に反発し、反北条の立場をとる古河公方・足利晴氏と結ぼうとしたことが、暗殺の直接的な引き金になったと見られています 9 。この動きは、千葉氏を自らの勢力圏に組み込もうとしていた北条氏康にとって到底容認できるものではありませんでした。暗殺の黒幕については、原胤貞、あるいは彼と権勢を競っていた原親幹が、北条氏康の内諾を得た上で実行したとする説が有力です 9 。親胤の妻が氏康の娘であったにもかかわらず、北条氏が暗殺を黙認、あるいは主導した可能性は極めて高く、この事件は千葉氏の内政に対する北条氏の強い影響力を如実に示しています。事実、北条氏は後に親胤の未亡人となった自らの娘に対し、「堪忍分」として川崎の丸子村の所領を与えており、これは北条氏が千葉家の内部事情に深く、かつ直接的に介入していたことの動かぬ証拠と言えます 25

親胤の死後、家中の混乱を収拾するため、一族・重臣に推される形で家督を継承したのが、森山城にいた叔父(または兄)の胤富でした 8 。一貫して親北条路線を歩むことになる胤富の擁立は、まさに北条氏が望んだ筋書きであり、この親胤暗殺事件は、千葉氏が事実上、北条氏の衛星大名となる画期的な出来事であったと評価できるのです。

第二部:戦国大名としての戦略と武功

第三章:北条氏との同盟――存亡を賭けた選択

千葉宗家の家督を継いだ胤富が直面したのは、関東の覇権を巡る二大勢力の角逐という、極めて厳しい地政学的現実でした。北には越後から南下する上杉謙信、南には安房から北上する里見義堯、そして東には常陸の佐竹義重。これら諸将は反北条連合を形成し、西から関東平野の制圧を目指す相模の後北条氏康と激しく対立していました 1 。下総に本拠を置く千葉氏は、まさにこの両勢力の衝突の最前線に位置し、どちらに与するかが家の存亡を左右する、絶体絶命の岐路に立たされていたのです 29


表2:関東主要勢力関係図(永禄年間中期)

図の解説:

  • 青線(同盟・協力関係): 千葉氏は後北条氏と強固な同盟関係にありました。一方、上杉、里見、佐竹の各氏は、対北条という共通の目的のために連携していました。
  • 赤線(敵対関係): 千葉氏は、北条氏の同盟者として、上杉氏、里見氏、佐竹氏という三つの強大な勢力と同時に敵対関係にありました。特に、領土を接する里見氏とは直接的な脅威に晒されていました。

家中には「里見氏と連携し北条に抵抗すべし」との声もありましたが、胤富は冷静に情勢を見極め、北条氏との同盟を強化する道を選択します 30 。この決断は、いくつかの現実的な理由に基づいています。第一に、親胤暗殺事件を経て家督を継いだ経緯から、胤富政権は発足当初から親北条的な性格を帯びていました。第二に、領国を直接的に脅かす最大の敵は、国境を接する里見氏であり、これに対抗するには地理的に近い北条氏の軍事力が不可欠でした。

この同盟は、短期的な生存戦略としては大きな成功を収めました。胤富は北条氏という強力な後ろ盾を得て、里見氏に奪われた諸城を奪還し、さらには上杉謙信の侵攻をも撃退することになります 6 。しかし、その代償として千葉氏の独立性は次第に蝕まれていきました。北条氏が作成した家臣団のリストである『小田原衆所領役帳』には、千葉氏の重臣である原氏などが、北条氏の家臣団を構成する「他国衆」として名を連ねています 16 。これは、北条氏が千葉氏の当主を介さず、その家臣団と直接主従関係を結び、支配を浸透させていたことを示しています。

胤富の対北条同盟は、滅亡の危機にあった千葉氏を救うための最善手であったかもしれません。しかしそれは同時に、千葉氏が北条氏の関東支配体制に組み込まれ、主体性を失っていく不可逆的なプロセスの始まりでもありました。胤富は北条氏の軍事力を巧みに「利用」しましたが、千葉氏もまた北条氏の広域戦略の一翼を担う駒として「利用」される存在へと変質していったのです。

第四章:臼井城の戦い――「軍神」謙信との激突

胤富の武将としての名を不朽のものにしたのが、永禄9年(1566年)の臼井城の戦いです。この年、上杉謙信は関東管領としての権威をかけて、反北条勢力を結集し、下総へと大軍を進めました。その矛先が向けられたのが、北条方の重要拠点であり、千葉氏の重臣・原胤貞が守る臼井城でした 1

謙信は結城晴朝らと連合し、数千(一説には八千から一万五千)の軍勢で臼井城を包囲します 12 。対する城兵はわずか二千。落城は時間の問題かと思われました。城主・原胤貞は籠城して奮戦しつつ、主君である胤富に急を報じます。報せを受けた胤富は、自ら軍を率いてただちに救援に向かうと共に、同盟者である北条氏康にも援軍を要請。氏康はこれに応え、重臣の松田氏らを派遣しました 12

3月下旬、謙信は総攻撃を開始します。しかし、圧倒的な兵力差にもかかわらず、上杉軍は堅固な臼井城を攻めあぐねます。城兵は士気高く防戦し、胤富率いる千葉本隊と北条からの援軍が効果的に連携し、上杉軍に多大な損害を与えました 12 。結果、謙信は攻略を断念し、4月半ばには撤退を余儀なくされたのです 13 。この敗北は「軍神」とまで称された謙信の軍歴における数少ない汚点となり、その恥辱のためか、謙信の公式な伝記である『謙信公御年譜』にはこの戦いの記録が残されていません 35

この劇的な勝利は、後世の軍記物において、謎の軍師・白井浄三(入道)こと白井胤治の奇策によるものとして脚色されました 34 。しかし、この白井浄三という人物は同時代の一次史料には一切登場せず、その存在は伝説の域を出ません 35 。実際の勝因は、軍師一人の活躍というよりは、臼井城が印旛沼を望む急崖に築かれた天然の要害であったこと 38 、城主・原胤貞以下の城兵の奮戦、そして胤富と北条氏による迅速かつ的確な救援活動といった、複合的な要因によるものと考えるべきでしょう。

臼井城での勝利は、単なる一戦の勝利以上の、絶大な戦略的影響を関東の勢力図に与えました。小田原城攻囲の失敗に続き、小城であるはずの臼井城攻略にも失敗したことで、謙信の軍事的な権威は決定的に失墜します 39 。この敗戦を機に、それまで謙信に従っていた関東の国衆たちは次々と離反し、北条方へと雪崩を打って靡いていきました 13 。これにより、関東の覇権は事実上、北条氏の手に帰すこととなり、胤富と千葉氏はこの歴史的な転換点において、北条氏にとって最も価値ある同盟者として、その存在感を最大限に高めたのです。

第五章:房総の覇権を巡る死闘

上杉謙信という最大の脅威が関東から後退した後も、胤富の戦いは終わりませんでした。彼の治世後半は、房総半島の覇権を巡る宿敵・里見氏との、血で血を洗う長期的な抗争に明け暮れることになります 6

この戦いは、特定の城や地域を巡る一進一退の攻防として展開されました。特に、里見氏の勢力圏に近い小弓城(現在の千葉市中央区)は、両勢力にとって戦略的な要衝であり、何度も争奪戦の舞台となりました。元亀2年(1571年)には、胤富自らが出陣し、小弓城で里見義弘の軍勢と激しく交戦した記録が残っています 6 。また、永禄12年(1569年)には、里見軍が臼井郷の村々に侵入し、放火して回るなど、領民を直接巻き込む形での凄惨な戦闘も頻発しました 7 。これらの戦いは、下総と上総の国境線を巡る、千葉氏自身の死活問題に直結した「局地戦」でした。

一方で、胤富は北条氏の同盟者として、より広域的な戦略にも組み込まれていきました。永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真に侵攻した際には、北条氏康からの要請に応じ、胤富は今川氏を救援するために軍勢を率いて駿河国へ出陣しています 8 。この出兵は、千葉氏の直接的な領土とは関係がなく、北条氏との同盟義務を果たすための「広域戦」への参加でした。

胤富が、自領防衛のための「局地戦」と、同盟者としての義務を果たす「広域戦」という、性格の異なる二正面作戦を同時に遂行していたという事実は、彼の治世において千葉氏の立ち位置が大きく変化していたことを示しています。もはや千葉氏は、独立した戦国大名として自己の判断のみで行動するのではなく、北条氏を中心とする広域軍事同盟の重要な構成員として、その戦略の一翼を担う存在となっていたのです。これは、千葉氏が北条氏から軍事的な支援を受ける見返りとして、自らの貴重な軍事力を北条氏に提供するという、より明確な従属関係へと移行していたことを物語っています。

第三部:領主としての素顔

第六章:領国経営と経済基盤

胤富の卓越した能力は、戦場での采配のみに留まりませんでした。彼は、弱体化した千葉氏の権力を再建すべく、領国経営においても巧みな手腕を発揮しました。

家臣団の統制と権力基盤の構築

胤富は、家督継承の経緯から、当初その権力基盤が脆弱であったことを認識していました。そのため、室町幕府の将軍直属の親衛隊である奉公衆の制度にならい、千葉一族や譜代の重臣からなる「森山衆」と呼ばれる新たな組織を創設したと伝えられています 6 。これは、旧来の家臣団の枠組みとは別に、当主直属の軍事・行政組織を構築することで、自身の権力を強化しようとする試みであったと考えられます。また、彼の権力の源泉であった海上氏の一族内部で、常陸に勢力を持つ者と下総に残った者との間に対立が生じた際には、森山城を拠点とする下総の海上氏を支持しつつも、領国全体の経済的利益を損なわないよう、両者の妥協点を探る現実的な裁定を下しています 19 。これは、彼が単なる軍人ではなく、領国全体の安定と繁栄を考える統治者であったことを示しています。

香取海をめぐる経済政策

胤富の領国経営における最大の特色は、領国の経済的動脈であった「香取海」の支配を重視した点にあります 21 。香取海は、現在の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼を含む広大な内海であり、利根川水系を通じて関東各地と結ばれ、漁業、製塩、そして水運・商業の一大中心地でした 22 。胤富は、この香取海がもたらす経済的利益を千葉氏の財源として確保することに注力しました。

その具体的な政策として、永禄2年(1559年)に、香取海沿岸の港町・野尻(現在の銚子市)を拠点とする有力商人・宮内清右衛門尉に対し、千葉領内での町役(商業税)などを免除する特権を与えたことが知られています 23 。これは、特定商人を優遇することで、塩などの重要物資の流通を円滑にし、領内経済を活性化させようとする、積極的な商業保護政策でした。軍事面で北条氏への依存を深めざるを得ない状況下で、経済的な自立性を確保しようとする、彼の巧みな統治戦略の表れと言えるでしょう。

権威の象徴としての印判

戦国大名は、自らの権威を内外に示すため、花押に加えて印判を用いました。胤富が使用した「鶴を描いた丸黒印(鶴丸黒印)」は、彼の権力のあり方を象徴するものとして非常に興味深いものです 7 。この鶴の紋は、彼の出身母体である海上氏の家紋に由来するとされ、胤富の権力が東総地域と、そこからもたらされる経済力に深く根差していたことを示しています 15


表3:千葉氏当主の印判比較

当主

印判の名称

形状・特徴

使用された文書の性格

象徴する意味(考察)

千葉胤富

鶴丸黒印

円形、羽を広げた鶴の図像、黒印 7

領国東部の限定された地域(旧香取海沿岸)に宛てた文書に主に使用 15

自身の権力基盤である海上氏との繋がりと、香取海の経済圏を象徴。個人的、あるいは特定の地域に根差した権威を示す。

千葉邦胤

龍印

方形、三重郭、「龍」の一文字、朱印 7

領国内に広く発給された公的な文書に使用。文書様式には北条氏の影響が見られる 15

父の権力基盤の上に、より強力で普遍的な君主権を確立しようとする意志の表明。北条氏との関係深化と、下総国主としての自立志向の交錯を象徴する。


興味深いことに、胤富の子・邦胤は、父の「鶴丸黒印」に代わり、「龍印」と呼ばれる新たな印判を使用し始めます 7 。龍は古来より天子や王者の象徴であり、この印判の採用は、邦胤が父の代以上に強力な君主権を志向していたことの表れと解釈できます。また、その様式が北条氏の印判の影響を受けていることは、千葉氏の当主権威のあり方が、北条氏との関係性の中で再定義されつつあったことを示唆しています 15 。この鶴から龍への印判の変遷は、胤富から邦胤へと至る千葉氏の政治的アイデンティティの変化を雄弁に物語る、貴重な物証なのです。

第七章:人物像、信仰、そして最期

数々の武功や巧みな領国経営の背後には、千葉胤富の複雑で魅力的な人間性がありました。彼は、旧来の権威を重んじる保守的な名門当主としての側面と、激動の時代を生き抜くための冷徹な現実主義者としての側面を併せ持っていました。

その名門としての高い自負心を示す逸話が、永禄4年(1561年)、鶴岡八幡宮で行われた上杉謙信の関東管領就任式での席次争いです。この式典に参列した胤富は、下野の小山高朝と諸将の首席の座を巡って争いました。家格において千葉氏は鎌倉時代以来、関東諸士の筆頭にあるという誇りがあったのです。この争いは謙信の仲裁によって、最終的に胤富が首座を認められる形で決着しました 6 。実力では謙信や北条氏に遠く及ばないものの、家格においては決して引けを取らないという、彼の強い矜持が表れた出来事でした。

一方で、彼の人間的な情愛の深さを示すのが、妻・芳泰院(海上氏の娘)の死後に、その菩提を弔うために森山城下に芳泰寺を建立したことです 6 。戦乱に明け暮れる日々の中にあっても、家族への想いを大切にする一面があったことがうかがえます。

また、胤富は千葉氏一族の守護神である妙見菩薩への信仰も篤く、当主としてその祭祀を主宰しました 43 。千葉氏では、当主の元服式は本拠が本佐倉城に移った後も、伝統的に一族発祥の地である千葉の妙見社(現在の千葉神社)で行うのが慣例でした 8 。胤富もこの伝統を重んじ、一族の精神的な支柱である妙見信仰を守り続けたと考えられます。

胤富の史料上の活動は、天正元年(1573年)頃を最後に途絶えます。このことから、比較的早い段階で嫡男の邦胤に家督を譲り、隠居生活に入ったとみられています 7 。これは、北条氏との関係をより強固にするため、北条氏政の娘を妻に迎えた邦胤に早めに家督を継承させることが、領国の安定に繋がると判断した、彼の最後の戦略的決断だったのかもしれません 15

そして天正7年(1579年)5月4日、胤富は波乱の生涯に幕を閉じました。享年53でした 6 。その亡骸を弔う供養塔は、佐倉市の勝胤寺に五輪塔が、海隣寺に宝篋印塔が、今も静かに佇んでいます 7

結論:千葉胤富の歴史的評価

千葉胤富は、戦国時代の関東史において、決して主役ではありませんでした。しかし、彼の存在なくして、この時代の関東の勢力図を正確に理解することはできません。彼の歴史的評価は、二つの側面からなされるべきです。

第一に、その最大の功績は、内紛と外圧によって滅亡の危機に瀕していた名門・千葉氏を、その卓越した外交手腕と軍事的才能によって救い、家名を保った点にあります。上杉、里見、佐竹という強大な敵に囲まれながら、巧みに北条氏と結び、特に臼井城の戦いでは「軍神」上杉謙信を撃退するという、戦国史上に残る大金星を挙げました。諸史料が彼を「戦国末期における千葉介として最も器量人であった」と評する通り 8 、その危機管理能力と戦略的判断力は、高く評価されるべきです。

第二に、その功績がもたらした限界もまた、直視しなければなりません。彼が選択した北条氏への従属路線は、短期的には千葉氏の存続を可能にしましたが、長期的にはその独立性を完全に奪い去る結果を招きました。胤富の子・邦胤の代には北条氏との婚姻関係がさらに強化され、邦胤の死後は北条氏政の子・直重が千葉氏の家督を継承するに至ります 46 。これにより、千葉氏は事実上、北条氏の一門に組み込まれ、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、北条氏と運命を共にし、改易されることになりました 26

総じて、千葉胤富の生涯は、戦国の荒波の中で、旧来の名門としての誇りを胸に抱きながらも、生き残りのために冷徹な現実主義に徹し、家の存続を図った一人の武将の、成功と悲哀を象徴しています。彼は千葉氏の「中興の祖」となることはできませんでしたが、滅びゆく名門が最後に放った「掉尾の勇」であり、その歴史に確かな輝きを刻んだ名君であったと結論づけることができます。

引用文献

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  2. 北条氏が台頭する以前の関東の状況(関東公方と関東管領について) - 攻城団 https://kojodan.jp/info/story/2789.html
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  4. 【千葉県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 房総を舞台にした千葉氏・里見氏の激闘 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jUprEdrRu1U
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  10. 千葉胤富(ちば たねとみ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8D%83%E8%91%89%E8%83%A4%E5%AF%8C-1091361
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  17. 一 後北条氏の房総支配 - ADEAC https://adeac.jp/oamishirasato-city/texthtml/d100010/mp100010-100010/ht010890
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  37. 臼井の白井 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12711170904.html
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