本報告書は、平安時代より下総国に君臨した名門・千葉氏の事実上最後の当主、千葉重胤(ちば しげたね)の生涯を、現存する史料に基づき、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の人生は、後北条氏による関東支配の完成、豊臣政権による天下統一とそれに伴う「関東仕置」、そして徳川幕府の成立という、日本史における未曾有の激動期と完全に同期している。この時代の奔流の中で、重胤は名門の嫡流という栄光と、家門を簒奪され流浪するという悲運の両極を経験した。
本報告書では、重胤を単なる歴史の波に翻弄された悲劇の貴公子としてのみ捉えるのではなく、時代の巨大な転換点に立ち会い、その宿命を背負いながらも、自らの家の誇りを守るために独自の道を選んだ歴史の証人として位置づける。父・邦胤の暗殺、後北条氏による家門の乗っ取り、豊臣秀吉による改易、そして徳川幕府下での再興の夢と挫折という彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代が終焉し、近世という新たな秩序が形成される過程で、関東の旧来の名族が如何なる運命を辿ったかを解き明かす上で、極めて重要な意味を持つ。
その探求の前提として、まず千葉氏の歴史的背景を概観する。千葉氏は桓武平氏の流れを汲み、平安時代末期に千葉常胤が源頼朝の挙兵を支え、鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たしたことで、幕府内でも屈指の有力御家人としての地位を確立した 1 。以来、代々下総国の守護職を世襲し、関東にその威勢を誇ってきた 4 。しかし、室町時代に関東で勃発した享徳の乱を契機に、一族は内紛に陥り、宗家は庶流の馬加氏に取って代わられるなど、その勢力には次第に陰りが見え始める 3 。戦国時代に入ると、相模国から勢力を拡大してきた後北条氏の圧迫を受け、千葉氏はその軍事力と政治力の下に従属的な地位へと追い込まれていった 4 。千葉重胤がこの世に生を受けたのは、まさにこの、かつての栄光は過去のものとなり、巨大勢力の庇護なくしては存続すら危ういという、極めて不安定な状況下であった。
重胤の生涯は、後北条氏、豊臣政権、徳川幕府という三つの巨大権力の動向に直接的に翻弄された。本年表は、重胤個人の出来事と、彼を取り巻く日本史全体の大きな流れを対照することで、彼の運命がいかに時代状況と不可分であったかを理解するための一助となる。
年代(西暦) |
千葉重胤と千葉氏の動向 |
日本史上の主要な出来事 |
天正4年(1576) |
1月1日、千葉邦胤の嫡男として誕生。幼名は千鶴丸(亀王丸) 8 。 |
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天正10年(1582) |
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本能寺の変。織田信長死去。 |
天正13年(1585) |
5月、父・邦胤が家臣に暗殺される 10 。後北条氏が介入し、氏政の子・直重が千葉氏の家督を継承 11 。 |
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天正17年(1589) |
(伝)徳川家康より、豊臣方への内応を促す使者が送られる 9 。 |
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天正18年(1590) |
3月、母・東殿と共に人質として小田原城に入る 9 。7月、小田原城開城。後北条氏滅亡に伴い、大名千葉氏は改易・滅亡。浪人となる 8 。 |
豊臣秀吉、小田原征伐。天下を統一。徳川家康、関東へ移封 13 。 |
慶長5年(1600) |
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関ヶ原の戦い。 |
慶長8年(1603) |
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徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府 15 。 |
時期不明(慶長年間) |
母・東殿が徳川秀忠夫人・崇源院に仕える 9 。その縁で常陸国宍戸に200石を与えられるも、後に返上 9 。 |
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寛永3年(1626) |
後援者であった崇源院が死去 9 。 |
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寛永10年(1633) |
6月16日、江戸にて死去。享年58 8 。 |
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千葉重胤は、天正4年(1576年)1月1日、下総国の戦国大名であり、千葉氏第29代当主であった千葉邦胤の嫡男として生を受けた 8 。幼名は千鶴丸、あるいは亀王丸、亀若丸などと伝えられている 8 。
父・邦胤は、関東に覇を唱える小田原の後北条氏との関係を生命線としていた。邦胤の正室は、後北条氏の当主・北条氏政の娘(芳桂院殿)であり、この強力な姻戚関係を背景に、安房の里見氏など周辺の敵対勢力に対抗し、不安定な領国支配の維持に腐心していた 10 。重胤の誕生は、この後北条氏との同盟関係が千葉氏の存続に不可欠であった時代のことである。
重胤の生母は、邦胤の側室であった「ひがし」、または「東殿」と呼ばれる女性である 9 。彼女の出自は、重胤の生涯を語る上で極めて重要な意味を持つ。彼女は、清和源氏の名門・新田氏の嫡流を称する上野国(現在の群馬県)の国人領主、岩松守純の娘(一説には姉)であった 8 。
この血筋は、単なる母方の家柄という以上の価値を秘めていた。後に天下人となる徳川家康が、自らの家系を新田氏の支流である世良田氏の後裔と称したことから、新田本宗家の血を引く東殿と、その子である重胤の存在は、徳川家にとって政治的に無視できないものとなる 9 。この母から受け継いだ血統は、後年、流浪の身となった重胤に、千葉家再興の一縷の望みをもたらすことになるのである。
重胤が生まれた天正年間、かつて関東に威を振るった千葉氏の独立性は、著しく損なわれていた。小田原の後北条氏は、その圧倒的な軍事力と巧みな外交戦略によって関東一円の支配体制を固めつつあり、千葉氏もその巨大な権力構造の中に組み込まれた衛星大名というべき存在であった 4 。当主の婚姻や家督相続といった家の重要事項さえも、後北条氏の意向が強く反映される状況にあり、千葉氏は自らの運命を自らで決めることが困難な時代を迎えていた 6 。重胤は、まさにこのような、名門の格式と凋落の現実が同居する家門の嫡男として、その生を受けたのである。
天正13年(1585年)5月、重胤が10歳の時、彼の運命を決定づける悲劇が起こる。父・邦胤が、居城である本佐倉城内において、家臣の手によって暗殺されたのである 10 。この衝撃的な事件の背景と動機については、史料によって異なる二つの側面が伝えられている。
一つは、事件の個人的な動機を強調する逸話である。『千葉伝考記』などの記録によれば、その年の新年祝賀の席で、近習であった桑田万五郎(一鍬田孫五郎とも)が配膳の際に二度にわたって放屁した 20 。これに激怒した邦胤は万五郎を厳しく叱責し、蹴り倒すなどの侮辱を加えた。この屈辱を恨んだ万五郎が、同年5月の夜、邦胤の寝所に忍び込み、短刀で刺殺したとされている 17 。この「放屁事件」は、主君の横死という大事件を、家臣の私怨という極めて個人的な動機に帰する物語として語り継がれている。
しかし、この暗殺劇の背後には、より深刻な政治的対立があったとする見方が有力である。当時の千葉家内部では、宗主である後北条氏への服従を巡り、親北条派と、それに反発する勢力との間で激しい権力闘争が繰り広げられていた 22 。邦胤の兄・良胤は反北条の姿勢を見せたために家臣によって追放されたという経緯もあり、邦胤の統治下でもその火種は燻り続けていた 17 。この暗殺は、単なる家臣の突発的な犯行ではなく、千葉氏の完全な掌握を狙う親北条派、ひいては後北条氏そのものの策謀が絡んだ、計画的な政治的事件であった可能性が指摘されている 22 。
この二つの説は、必ずしも矛盾するものではない。家中の親北条派が、邦胤に何らかの不満を抱いていた万五郎の私怨を利用、あるいは扇動し、邦胤排除の実行犯に仕立て上げたという構図を想定すれば、両説は結びつく。事件後の後北条氏のあまりにも迅速かつ周到な対応は、この暗殺が彼らにとって極めて好都合な出来事であったことを強く示唆している。
父・邦胤の突然の死により、嫡男である重胤(当時は千鶴丸)が家督を継ぐのが本来の筋であった。しかし、彼はまだ10歳の幼童に過ぎなかった 24 。この権力の空白を、後北条氏は見逃さなかった。当主・北条氏政は、千葉家中の内紛鎮圧を名目に、ただちに軍事介入を開始する 9 。
そして氏政は、千葉氏の正統な血を引く重胤を後継者とすることを認めず、自らの五男(あるいは七男)・七郎直重を、暗殺された邦胤の娘(すなわち重胤の異母姉)の婿養子として送り込み、千葉氏第30代当主の座に据えたのである 9 。これは、事実上の家門の乗っ取りであり、簒奪であった。
後北条氏による千葉家支配を決定的なものとしたのが、新たな城の築城であった。彼らは、千葉氏が代々本拠としてきた本佐倉城の南隣に、新たに鹿島城を築き、天正13年(1585年)12月、完成したこの城に新当主・直重と邦胤の娘を入れた 7 。これは、千葉氏の伝統的な権威の象徴である本佐倉城を無力化し、後北条氏の直接支配を物理的にも視覚的にも確立するための、極めて象徴的な措置であった。
この一連の出来事により、鎌倉時代から続く下総の名門・千葉氏は、その独立性を完全に喪失し、後北条氏という巨大な家の「一門」へと組み込まれてしまった。重胤の悲劇的な生涯は、この父の死と、それに続く家門の簒奪という、抗いようのない政治の渦の中から始まったのである。
父を殺害され、家督を異父兄の婿に奪われた重胤の境遇は、一変した。天正18年(1590年)3月、彼は母・東殿と共に、後北条氏の本拠地である小田原城へと送られる 9 。表向きは庇護であったかもしれないが、その実態は、千葉氏の正統な後継者としての価値を人質として利用し、旧臣たちが彼を担いで反乱を起こすことを封じ込めるための、冷徹な政治的措置であった 24 。名門千葉氏の嫡流は、ここに北条氏の完全な監視下に置かれることとなった。
重胤の人質生活の場所については、異説も存在する。母方の実家である上野国の岩松氏のもとへ送られ、その監督下に置かれたとする説である 8 。しかし、後北条氏の周到な関東支配戦略を考慮すれば、潜在的な反乱の核となりうる正嫡を、有力国人である岩松氏に預けるという選択は、政治的リスクが高い。万全を期すならば、本拠地である小田原城内で直接管理下に置く方が合理的であり、小田原へ送られたとする説の蓋然性が高いと考えられる。
この人質生活の間に、重胤は元服を迎えたとみられる。その際、千葉家を乗っ取った当主である千葉直重から「重」の一字を与えられ、「重胤」と名乗ったとされる 8 。これは、彼が千葉氏の血筋を継ぐ者として形式的には認められつつも、その存在が完全に直重の権威と支配の下にあることを示す、屈辱的ともいえる象徴的な出来事であった。彼の名は、自らの出自の正統性と、家を奪われた現実という、二つの矛盾を内包していたのである。
天正18年(1590年)、関白・豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、関東の後北条氏討伐の大軍を動かした。世に言う「小田原征伐」である 13 。千葉氏の当主となっていた北条直重は、当然ながら後北条一門として、父・氏政や兄・氏直らと共に小田原城に籠城し、豊臣軍と対峙した 13 。この時、人質であった重胤もまた、母と共に運命の小田原城内にいたと考えられている 9 。
秀吉が築いた石垣山一夜城からの心理的圧迫と、圧倒的な兵力差の前に、小田原城は同年7月に開城。関東に覇を唱えた後北条氏は滅亡した。この結果、後北条氏の与党と見なされた千葉氏もまた、その全所領を没収される「改易」処分を受けた 8 。これにより、平安時代の千葉常胤以来、約450年にわたって下総国に君臨してきた大名としての千葉氏は、その歴史に幕を下ろし、完全に滅亡した。重胤は、当主の座を奪われた上に、その家そのものを失うという二重の悲劇に見舞われたのである。
『千葉大系図』には、この時、重胤とその弟・俊胤も後北条方として罪を免れないところであったが、彼らが幼少であることを徳川家康が深く哀れみ、秀吉に助命を嘆願したことで赦免された、という伝承が記されている 24 。この逸話の真偽を直接証明する一次史料はないものの、後の徳川家との関わりを考慮すると、この時期に家康が千葉氏の正嫡である重胤の存在を認識し、何らかの形で接触を持っていた可能性は十分に考えられる。
小田原開城後、全ての地位と所領を失った15歳の重胤は、母と共に流浪の身となった 8 。下総国の旧領に戻ったのか、あるいは母方の岩松氏を頼ったのか、その足跡は定かではないが、十数年にわたる苦難の生活が始まった。
しかし、大名家としての千葉氏が滅亡しても、その権威が完全に失われたわけではなかった。旧領の下総国には、千葉氏に代々仕え、帰農した家臣たちが数多く存在した。彼らにとって、千葉氏の正統な血を引く重胤は、依然として敬うべき旧主であった。『千葉伝考記』には、「千葉重胤殿には束髪になり、浪人して居られしを、家来筋の者共敬ひ、養育致し置き候」とあり、旧臣たちが浪々の身となった重胤を支え、保護していた様子がうかがえる 29 。
これは、武家社会において「家」の血統と格式が、領地や武力といった物理的な力を失った後も、依然として大きな価値を持ち続けていたことを示す好例である。いわば「千葉氏ブランド」は、滅亡後もなお、旧臣たちのアイデンティティを繋ぎとめ、彼らの結束を促す無形の力として機能していたのである 7 。
重胤の運命は、関東の他の名族のそれと比較することで、よりその皮肉さが際立つ。例えば、同じく関東八屋形に数えられた下総の結城氏は、当主・晴朝が豊臣秀吉の計らいで徳川家康の次男・秀康を養子に迎えるという、巧みな政治的判断を下した 32 。これにより、結城氏は徳川家の一門として大名家の地位を保ち、後には越前福井藩主として幕末まで家名を存続させることに成功した。
一方で、常陸の小田氏は、佐竹氏との長年にわたる抗争で疲弊し、小田原征伐の際にも秀吉に恭順しなかったため、改易の憂き目に遭っている 33 。
千葉氏の場合、その滅亡は自らの政治的判断の誤りというよりも、父・邦胤の死後に家の主導権を完全に後北条氏に握られてしまったことに起因する。当主が後北条氏直系の直重であった以上、豊臣方につくという選択肢は存在せず、後北条氏と運命を共にすることは避けられなかった。重胤は、正嫡でありながら実権を持たず、この巨大な歴史の奔流に抗う術を持たなかった。彼の悲劇は、自家の選択の結果ではなく、他家の選択に巻き込まれた結果であった点に、より深い宿命性が感じられるのである。
十数年にわたる流浪の日々を送る重胤に、予期せぬ転機が訪れる。母である東殿が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の正室である崇源院(江)に、侍女として仕えることになったのである 8 。
この入仕が実現した背景には、東殿が持つ血統の政治的価値があった。前述の通り、彼女は源氏の名門・新田義貞の末裔を称する新田氏の嫡流、上野・岩松氏の出身であった 9 。一方、天下人となった徳川氏は、自らの家系の権威を高めるため、新田氏の支流である世良田氏の後裔であると公称していた 9 。このため、新田本宗家の血を引く東殿を将軍御台所の側近くに置くことは、徳川家の由緒と正統性を補強する上で、象徴的に大きな意味を持っていた。戦国は終わったが、血統が持つ政治的な力は、新たな江戸の世においても極めて重要だったのである。
母が将軍家に仕えた縁故により、浪人であった重胤にも光が当たることになった。秀忠は重胤の流浪を憫み、彼を幕府に召し出したのである 24 。そして、常陸国宍戸郡内に二百石の知行地が与えられることになった 9 。大名としての復活には程遠いものの、これは旗本として千葉家の家名を再興し、武士としての地位を回復する千載一遇の好機であった。この取り計らいには、当時の幕府の中枢を担っていた老中・土井利勝や本多正信も関わったと伝えられており、幕府としても千葉氏という名門の血筋を絶やすには忍びないと判断した様子がうかがえる 8 。
しかし、重胤の運命はここでも暗転する。拝領した二百石の知行地は、長年の戦乱で荒廃しきっており、とても生活を立てられる状態ではなかった。再興のための資金もない重胤は、窮状を母を通じて崇源院に訴え、替地(代わりの土地)を願い出た 9 。これに対し、老中・土井利勝らから伝えられたのは、まず一度、拝領した知行地を幕府に返上するようにという指示であった 9 。これは、当時の知行替において、一度旧領を返上させた上で新領を与えるという、慣習的な手続きであった可能性が指摘されている 34 。
重胤はこの指示に従い、一縷の望みを託して二百石の知行を返上した。しかし、その直後の寛永3年(1626年)9月、最大の庇護者であった崇源院が、54歳で急逝してしまう 9 。この突然の死により、替地の話は立ち消えとなり、千葉家再興の夢は、まさに目前で無残にも断たれたのであった。この逸話は、江戸幕府初期の権力構造が、制度的な側面だけでなく、将軍家との個人的な繋がりという極めて属人的な要素に大きく依存していたことを示している。そして、一度手続きの過程に入ってしまうと、後援者を失った瞬間に全てが停止してしまうという、官僚機構の非情さと融通の利かなさをも浮き彫りにしている。
この一件の後、重胤は二度と仕官の道を探すことはなかった。それは単なる諦めや無気力からではなかったかもしれない。鎌倉以来の名門である千葉氏の当主として、わずか二百石という、家の体面を保つにはあまりに少ない禄高での再仕官を潔しとせず、浪人のまま誇りを保つ道を選んだとも解釈できる。これは、彼の武士としての最後の矜持の表れであったとも考えられよう。
その後、重胤は母・東殿と共に、幕府から与えられた江戸の長谷川町(現在の東京都中央区日本橋堀留町あたり)の屋敷で、扶持を受けながら静かに暮らしたという 9 。そして寛永10年(1633年)6月16日、波乱に満ちた58年の生涯を、江戸の空の下で閉じた 8 。
重胤の遺骸は、江戸の海善寺で荼毘に付された。その位牌は、奇しくも千葉氏がその祖と仰ぐ平将門に所縁の深い、神田の日輪寺に納められた 9 。そして遺骨は、忠臣であった古川左兵衛という人物の手によって、かつての旧領・下総国佐倉へと運ばれ、千葉氏代々の菩提寺であった海上山海隣寺に葬られたと伝えられている 9 。彼は死してようやく、故郷の土に還ることができたのである。
千葉重胤の死後、名門・千葉宗家の血脈がどうなったのかについては、史料間で重大な矛盾が存在し、歴史上の謎となっている。
一方には、重胤の死をもって宗家は断絶したとする説がある。『千葉大系図』や『千葉市史』所収の系図などでは、重胤に子はなく、彼の死によって千葉介の正統な血筋は途絶えたと明確に記されている 9 。これは、大名としての千葉氏の滅亡という事実に加え、その血統もまた終焉を迎えたとする見方である。
しかし、他方の史料群は、重胤に子が存在したことを示唆している。複数の系図や伝承において、重胤の子として「千葉定胤(さだたね)」という人物の名が記されているのである 8 。
この千葉定胤は、単なる系図上の存在に留まらない。彼は元和3年(1617年)に生まれ、重胤の死後に家督を継いで「千葉介」を称したとされる 31 。浪人として下総国香取郡に住み、帰農した旧臣たちの世話になっていたと伝えられる定胤は、慶安元年(1648年)11月、千葉家再興を決意して香取神宮に家名再興を祈願する願文を奉納している 2 。この願文は現存しており、彼の具体的な活動を証明する貴重な史料となっている。
しかし、そのわずか2ヶ月後の慶安2年(1649年)1月、定胤は33歳の若さで病死し、彼の嫡男もまた早世していたため、この系統も断絶したとされている 2 。
この二つの相容れない説は、大名家としての千葉氏が消滅した後、残された旧臣や一族が、それぞれの思惑や願いを込めて「宗家」の歴史を語り継ごうとした結果生じたものと考えられる。定胤という人物が実在し、再興運動を行ったことは事実であろう。しかし、彼が重胤の実子であったかについては、確たる証拠がない。
江戸時代には、重胤の弟とされる千葉俊胤の系統や、邦胤の兄である千葉良胤の子孫を称する系統など、複数の家が「千葉宗家」を名乗り、家名再興を目指す活動を散発的に続けていた 2 。定胤もまた、そうした複雑な状況の中で、旧臣たちによって宗家継承者として擁立された人物の一人であった可能性が指摘されている。彼の存在は、千葉氏という「家」が、物理的な断絶の後も、人々の記憶と願いの中で生き続けようとしていたことの証左と言える。
千葉重胤の生涯を考察する上で、決して見過ごすことのできない重要な業績がある。それは、彼が仕官を断念し、江戸で浪人として過ごした晩年に、千葉氏一族の壮大な系譜を集大成した『千葉大系図』を編纂したと伝えられていることである 2 。
この文化的事業は、重胤の後半生の生き方を理解するための鍵となる。武力による家の再興が不可能となった彼が、なぜ筆を執ったのか。その動機には、いくつかの側面が考えられる。
第一に、 アイデンティティの保持 である。武力、領地、家臣団という、武士を武士たらしめる物理的な力を全て失った彼にとって、一族が積み重ねてきた輝かしい歴史と、連綿と続く血統の権威こそが、唯一残された誇りであった。系図の編纂は、その無形の誇りを「記録」という形あるものとして後世に遺し、自らの存在意義を確認するための行為であった。
第二に、 当主としての最後の務め という意識である。武力をもって家門を守り、繁栄させることが当主の第一の務めであるならば、それが叶わぬと悟った時、一族の正統な歴史を正確に記録し、その名誉と権威を後世に伝えることが、最後の当主として果たすべき責務であると考えたのではないか。彼は、戦場で戦う「武人」から、歴史を編む「文人」へと、その役割を自ら転換させたのである。
第三に、 未来への布石 としての意図も考えられる。この詳細な系図は、将来、千葉氏のいずれかの分家が家名を再興する好機に恵まれた際に、その家の正統性を幕府や社会に対して証明するための、決定的な根拠資料となることを期待して編纂された可能性もある。それは、自らの代での再興は諦めつつも、千葉氏という「家」の未来に望みを託す行為であった。
この編纂事業において、千葉氏の結束の象徴であり、一族のアイデンティティの中核をなしてきた妙見信仰に関する記録を整理することも、重要な目的の一つであったと考えられる 7 。
重胤のこの行動は、戦国末期に改易された他の多くの名族当主の晩年と比較すると、その特異性が際立つ。多くが再仕官や他家への客分となる道を選び、武士としての生き方を模索したのに対し、重胤は仕官を断り、一族の歴史編纂という内向的で文化的な活動にその晩年を捧げた。これは、武力による「家の存続」が不可能になった時、文化的な「記憶の継承」によって家の永続性を図るという、武家の新しい生き方の一つの萌芽と見ることができる。彼の行動は、戦国的な価値観(武力と領地)から、近世的な価値観(由緒と家格)への移行期を生きた人間の、一つの選択を体現している。それは単なる悲劇の物語ではなく、時代の転換期における、ある種の知的抵抗であり、誇り高き意志の表明であった。
千葉重胤の生涯は、一見すれば悲劇の連続である。平安時代以来の名門・下総千葉氏の正嫡として生まれながら、幼くして父を暗殺され、家門を関東の覇者・後北条氏に簒奪される。人質として過ごした青年期の後には、宗主・後北条氏の滅亡と共に自らの家も改易され、流浪の身となる。母の出自という奇跡的な縁によって掴みかけた徳川幕府下での家名再興の好機も、最大の庇護者であった崇源院の急死という非情な運命によって、目前で潰えた。彼の人生は、個人の力では抗いようのない、時代の巨大なうねりに翻弄され続けたものであった。
しかし、千葉重胤という人物の真価を、この「悲劇の貴公子」という側面のみで評価するのは一面的に過ぎる。彼の生涯の後半、特に再興の夢が完全に断たれた後の生き方こそ、注目に値する。彼は、武士として再び仕官する道を潔しとせず、浪人として生きることを選んだ。そして、その情熱を、失われた領地や権力の回復ではなく、自らの一族が歩んできた栄光と苦難の歴史を記録し、後世に伝えるという文化的事業へと注いだ。彼が編纂したと伝えられる『千葉大系図』は、その結晶である。
この選択は、彼が滅びゆく家の運命をただ無気力に受け入れただけの弱い貴公子ではなかったことを雄弁に物語っている。彼は、戦国武将として「武」によって家を立てることが叶わぬと悟った時、それに代わる「文」の力、すなわち歴史と記録の力によって、当主としての最後の務めを果たそうとした。それは、強い意志を持つ、誇り高き歴史の記録者としての姿であった。
千葉重胤の生涯は、戦国という「武」の論理が支配する時代が終わりを告げ、江戸という「文」の秩序が確立される、まさにその過渡期において、一個の武士がいかにして自らの、そして自らの家のアイデンティティを保とうとしたかを示す、極めて貴重な事例である。彼の人生は、失われたものへの尽きせぬ哀悼であると同時に、決して失われてはならないものを後世に伝えようとした、一人の人間の静かな、しかし確固たる意志の記録として、我々の前に立ち現れるのである。