戦国乱世とは、旧来の権威が失墜し、実力のみがものをいう時代の謂である。その激動の時代を、一人の武将の生涯を通して見るとき、我々は歴史のダイナミズムをより鮮明に感じ取ることができる。本報告書が主題とする南条元清(なんじょう もときよ)は、まさにそのような人物であった。伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)という、中央から見れば一地方の国人領主の子として生を受けながら、その生涯は織田、毛利、豊臣、そして徳川という天下の巨大な権力の奔流に翻弄され、またそれに抗い、生き抜こうとした軌跡そのものであった。
彼の人生は、謎と波乱に満ちている。なぜ、南条家の次男であった彼が、伯耆国で最も由緒ある名門・小鴨(おがも)氏を継ぐことになったのか。兄の後見役として南条家の実権を掌握しながら、なぜ若き当主である甥と対立し、主家を追われるに至ったのか。そして、主君・小西行長の仇敵ともいえる加藤清正に高禄で仕えながら、その最期には大坂の豊臣方へ馳せ参じようとしたとされる。その真意とは一体何だったのか。
これらの問いは、南条元清という一個人の伝記に留まらない。それは、戦国時代から近世へと移行する過程で、地方の武士たちが如何なる選択を迫られ、如何なる論理で行動したのかを解き明かす鍵となる。本報告書は、断片的に残された史料を丹念に読み解き、彼の生涯を包括的かつ詳細に再構築することで、これらの謎に迫り、戦国乱世の縮図ともいえる一人の武将の実像を明らかにすることを目的とする。
南条元清の生涯を理解する上で、その出自と、彼が青年期に置かれた伯耆国の政治的状況を把握することは不可欠である。彼の行動原理の根源は、南条氏という一族が生き残りをかけて勢力を拡大していく過程の中にこそ見出される。
南条元清は、伯耆国羽衣石(うえし)城主・南条宗勝(そうしょう)の次男として生を受けた 1 。生年は不詳であるが、彼の父・宗勝は、まさに戦国武将の典型ともいえる人物であった。宗勝は、中国地方の二大勢力である出雲の尼子氏と安芸の毛利氏との間で巧みな外交を展開し、時には尼子氏に、時には大内氏を経て毛利氏に属するなど、主君を次々と変えながら自家の存続と勢力拡大を図った 4 。
宗勝の時代、南条氏は一度、尼子氏の侵攻によって本拠地である羽衣石城を追われ、宗勝自身も約20年間にわたり故郷を離れ、周辺諸国を流浪するという苦難を経験している 4 。しかし、永禄5年(1562年)、毛利元就の支援を得てついに羽衣石城を奪還 4 。帰国後の宗勝は、毛利氏の権威を背景に、山田氏や小森氏といった東伯耆の国人衆を次々と被官化し、南条氏を山陰地方東部における最大の国人勢力へと成長させた 6 。元清が物心ついた頃は、まさに南条氏が父・宗勝のリーダーシップの下、単なる一国人から地域の覇権を握る戦国大名へと脱皮しようとする、最も激動の時代であったといえる。元清には兄に元続(もとつぐ)、弟に元秋(もとあき)がいたと記録されている 1 。
嫡男である兄・元続が南条家の家督を継ぐことが既定路線である中、次男である元清の人生に最初の大きな転機が訪れる。永禄年間から天正年間にかけて、彼は東伯耆の由緒ある名門・小鴨氏の家督を継承し、「小鴨元清」と名乗ることになったのである 3 。彼の新たな居城は、倉吉近郊の岩倉城であった 1 。
この小鴨氏継承は、単に次男の身の振り方を決めるための家督相続問題の解決策ではなかった。ここには、父・宗勝による深謀遠慮、すなわち南条氏の東伯耆支配を盤石にするための高度な政治戦略が存在した。小鴨氏は、その系図によれば天智天皇を祖とするとされ、平安時代から伯耆国の在庁官人(国衙の実務官僚)を務めてきた、国内で最も歴史と権威を持つ一族であった 10 。戦国時代においても、南条氏や他の国人たちと連携しつつ、一定の勢力を保っていた 5 。
新興勢力に近い南条氏にとって、武力のみで東伯耆全域を支配するには限界があり、在地勢力からの反発も予想された。そこで宗勝が打った手が、自らの次男を最も権威ある小鴨氏の後継者として送り込むことであった。これは、武力による制圧ではなく、旧家の名跡を乗っ取る形でその権威を吸収し、自家の支配に正統性を与えるという巧みな手法であった。これにより、南条氏は東伯耆における支配体制を完成させ、元清は南条一門の有力武将であると同時に、小鴨氏という独立した勢力基盤と岩倉城という拠点を手に入れることになった。この経験は、彼が単なる兄の補佐役に留まらない、独自の政治力と軍事力を持つ存在となる上で、決定的な意味を持つことになったのである。
小鴨氏を継承し、岩倉城主として独自の勢力基盤を確立した元清は、兄・元続を支える南条家の重鎮として、歴史の表舞台で活躍を始める。中央で織田信長の勢力が伸張し、その波が中国地方に及ぶと、南条氏は存亡を賭けた大きな決断を迫られることになった。
当初、南条氏は父・宗勝の代からの関係を引き継ぎ、毛利氏に属していた。元清も兄・元続と共に、毛利方の重鎮である吉川元春(きっかわ もとはる)に誓書を提出し、その指揮下にあった 3 。しかし、天正7年(1579年)、織田信長の中国方面軍を率いる羽柴秀吉の勢力が因幡国(現在の鳥取県東部)にまで及ぶと、南条氏は毛利氏からの離反を決意し、織田方へと寝返った 3 。
この決断は、西から迫る毛利氏と東から進軍する織田氏という二大勢力の狭間で、南条家が生き残りを賭けて下した大きな賭けであった。この離反に対し、毛利方は即座に反応する。翌天正8年(1580年)、吉川元春自らが大軍を率いて伯耆へ侵攻した 3 。元清は、岩倉城主としてこの毛利軍の猛攻の最前線に立つことになる。彼は兄・元続と共に八橋城を攻撃するも、これは二度にわたり失敗に終わった 3 。さらに、頼みとしていた羽柴秀吉は、因幡の鳥取城攻略に戦力を集中させており、孤立した南条氏に十分な援軍を送る余裕がなかった 3 。
戦況は次第に南条氏にとって不利となり、兵の逃亡も相次いだ。そして天正10年(1582年)、ついに南条氏の本拠地である羽衣石城が毛利軍の前に落城する。岩倉城で奮戦していた元清も、もはやこれまでと、兄・元続と共に城を捨て、秀吉のいる播磨国へと落ち延びていった 3 。この一連の戦いは、元清にとって武将としての苛烈な洗礼であり、領地を失うという苦杯を嘗める結果となったが、織田方として毛利軍と互角以上に渡り合ったその武勇は、彼の評価を高めることにも繋がった。
失意のうちに播磨へ逃れた元清と南条一族であったが、天正10年(1582年)6月、本能寺の変という劇的な事件が彼らの運命を再び好転させる。信長の死を受け、秀吉は毛利氏と和睦(中国大返し)。この和睦の条件に基づき、天正12年(1584年)、元清は兄・元続と共に東伯耆への復帰を果たした 3 。
帰国後、兄である当主・元続が中風を患い、病気がちで政務を執ることが困難になると、元清がその後見人として、南条家の政務および軍事の一切を代行する立場となった 3 。この時期から、元清は名実ともに南条家の最高実力者として領国を統治することになる。
彼の武将としての能力は、豊臣政権下でも高く評価された。天正15年(1587年)、秀吉が天下統一の総仕上げとして行った九州平定に従軍。日向国の高城を包囲している最中に、島津軍が仕掛けてきた夜襲を撃退するという武功を挙げたことが『太閤記』に記されている 3 。この功績は、彼が単なる一地方の領主ではなく、豊臣政権の中央軍においても通用する有能な指揮官であることを天下に示すものであった。兄の代理として、しかし実質的には南条軍の総大将として、元清は武将としてのキャリアの頂点を迎えつつあった。
兄の後見役として南条家の実権を握り、武将としても功績を重ねた元清であったが、その権勢は長くは続かなかった。世代交代の波は、彼の運命を大きく揺さぶり、権力の頂点から流転の人生へと突き落とすことになる。
天正19年(1591年)、長年病床にあった兄・元続が死去する 3 。家督は元続の子である南条元忠(もとただ)が継承したが、この時わずか13歳であった 14 。当然のことながら、叔父である元清がその後見人となり、打吹(うつぶき)城の城番として城内の屋敷に住み、引き続き政務を執行した 3 。
しかし、長年にわたり事実上の当主として君臨してきた叔父・元清と、成長し自らの手で親政を行いたいと願う若き当主・元忠との間には、次第に埋めがたい溝が生じていく 3 。これは単なる個人的な感情のもつれではなかった。家中には、経験と実績を誇る元清を支持する旧来の家臣団と、新たな当主である元忠を盛り立てて発言力を高めようとする新興の側近グループとの間で、深刻な派閥対立、すなわち権力闘争が潜在していたと考えられる。元清の存在は、自らの権威を確立したい元忠にとって、次第に疎ましく、そして脅威に映るようになっていったであろう。
この構造的な対立は、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵(文禄の役)を契機に、ついに表面化する。この時、元清は当主・元忠の名代として1500の兵を率いて朝鮮へ渡海した 3 。しかし、彼が異国の地で戦っている間に、元忠の側近であった山田越中守(やまだえっちゅうのかみ)らが元忠に讒言したことにより、元清は失脚に追い込まれる 3 。讒言の具体的な内容は不明だが、元清に謀反の意あり、といった類のものであったと推測される。この讒言は、両者の対立を決定的にした引き金に過ぎず、その背景には、戦国大名家でしばしば見られる世代交代に伴う、避けることのできない内部抗争の力学が働いていた。元清の失脚は、彼の個人的な失敗というよりも、権力移行期における悲劇であったといえよう。
南条家中の混乱を収拾するため、天下人・豊臣秀吉が裁定を下す。その結果、元清は南条家から追放され、肥後国南部を領する大名・小西行長(こにし ゆきなが)の許へ預けられることとなった 3 。この時、彼は小鴨姓から、実家である南条姓に戻したと伝えられている 3 。
この秀吉の裁定は、南条家の内紛を鎮めると同時に、元清が持つ優れた軍事的能力を遊ばせることなく、朝鮮出兵の第一線で活用するための、極めて巧みな人事であった。小西行長は秀吉子飼いの武将であり、その配下に置くことで、元清を完全に豊臣政権のコントロール下に置く意図があった。
伯耆国で権勢を振るった一国人領主の重鎮から、一大名の家臣(陪臣)へ。この劇的な身分の変化は、元清にとって大きな屈辱であったに違いない。しかし、彼はここで腐ることなく、新たな主君の下で自らの価値を証明しようとした。朝鮮の戦場において、慶尚道仁道県の領主の子を生け捕りにするという手柄を立てており 3 、逆境の中でも武士としての本分を全うしようとする彼の気概がうかがえる。この流転の経験が、彼をより現実的で老練な武将へと鍛え上げていくことになった。
小西行長の家臣として再出発した元清であったが、豊臣秀吉の死後、日本の情勢は再び大きく揺れ動く。天下分け目の関ヶ原の戦いは、彼の運命をさらに数奇なものへと変えていった。
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突する関ヶ原の戦いが勃発する。元清の主君・小西行長は、三成と親しい関係にあったことから、西軍の主力として参戦した 15 。これに伴い、元清も西軍の一員として戦うことになった 1 。
行長が主力を率いて関ヶ原へ向かう一方、元清は行長の弟・小西行景(ゆきかげ)と共に、行長の本拠地である肥後国・宇土城の守備を任された 16 。宇土城は、東軍に与した隣国の大名・加藤清正が治める熊本城を牽制するための、極めて重要な戦略拠点であった。やがて清正は、関ヶ原の主戦場とは別に、九州の西軍勢力を掃討すべく宇土城へ大軍を差し向けた。元清はここで、加藤軍を相手に激しい籠城戦を繰り広げる。ある記録によれば、この戦いで元清は、清正麾下の猛将として知られた三宅角左衛門(みやけ かくざえもん)と直接槍を交えたとさえ伝えられている 16 。
しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅的な敗北を喫したとの報が伝わると、宇土城も抗戦を断念し、城兵一同と共に加藤清正に投降した 3 。かつて自らが実権を握っていた南条本家(当主・元忠も西軍に属し、戦後改易されている 9 )とは別の形で、元清は西軍の敗将となったのである。
戦後、主君・小西行長は捕らえられ、京の六条河原で斬首。小西家は改易となり、元清は再び主を失うことになった 3 。しかし、彼の武将としての人生は、ここで終わりではなかった。驚くべきことに、彼は宇土城で敵将として戦った加藤清正に、6000石という破格の待遇で召し抱えられたのである 3 。この時、彼は剃髪して俗世との縁を断つ意思を示し、名を「元宅(げんたく)」と改めた 1 。
この出来事は、極めて異例であった。小西行長と加藤清正は、朝鮮出兵における作戦方針の対立や、行長が熱心なキリシタンであったのに対し清正が熱心な日蓮宗徒であったことなどから、犬猿の仲として広く知られていた 15 。その清正が、仇敵ともいえる行長の重臣であった元清を、これほどまでの高禄で家臣に迎えたのである。
この事実は、元清の武将としての能力と名声が、敵味方の区別や主君同士の個人的な確執といった垣根を越えて、高く評価されていたことを雄弁に物語っている。清正は実力主義者であり、宇土城での元清の奮戦ぶりを目の当たりにして、その武勇を惜しんだのであろう。これはまた、戦国末期から江戸初期にかけての、武士の価値観の変化を象徴する出来事でもあった。主家が滅びた後、武士が新たな主君の下で生き残るための最大の資産は、もはや過去の所属や家柄ではなく、個人の持つ「武芸」と「才覚」そのものであった。元清の生涯は、その価値を最大限に利用して激動の時代を渡り歩いた、現実的な生存戦略の好例といえる。
加藤清正の家臣として、肥後熊本の地で新たな人生を歩み始めた元清。しかし、彼の波瀾万丈の生涯は、穏やかな結末を迎えることを許さなかった。その最期は、彼の人生を象徴するかのように、大きな謎に包まれている。
慶長19年(1614年)、徳川家康と豊臣秀頼との対立が頂点に達し、大坂冬の陣が勃発する。この時、元清の主家である加藤家(清正は慶長16年(1611年)に死去)は、当然ながら徳川方として参陣した。しかし、元清の行動は不可解であった。彼は豊臣秀頼に味方することを願い、密かに大坂へ向かおうとしたのである 3 。
だが、その計画は成就しなかった。大坂へ向かう船中にて病を発し、京都の建仁寺で療養したものの、その甲斐なく死去したと伝えられている 1 。彼の没日については、慶長19年2月13日とする説 1 と、同年10月23日(または26日)とする説 3 があり、情報が錯綜している。
加藤家の家臣でありながら、なぜ主家を裏切ってまで豊臣方に加わろうとしたのか。これは、元清の生涯における最大の謎である。考えられる理由としては、①かつて仕えた豊臣家への恩義を忘れられなかった、②徳川が支配する新たな世に馴染めず、豊臣方の勝利に最後の賭けをした、③加藤家内での待遇や立場に不満があり、新天地を求めた、などが挙げられる。また、大坂にいたとされる彼の二男・作十郎(のちの南条宜政)との連携を図った可能性も指摘されている 3 。
しかし、いずれの説も確たる証拠を欠く。徳川の治世が盤石になりつつある中で、豊臣方への加担はあまりにも無謀な賭けであった。彼の行動が事前に加藤家側に露見し、反逆者として粛清され、それが「病死」として処理されたのではないか、という可能性も完全には否定できない。錯綜する没日は、彼の死を巡る何らかの混乱や、情報操作があったことを示唆しているのかもしれない。確かなことは、彼の最期の行動が、滅びゆく戦国の世への複雑な思いを抱えた、一人の武将の最後の意地と悲哀を物語っているということである。
元清の墓は、現在、熊本市中央区の禅定寺にあり、「惟安元宅居士(いあんげんたくこじ)」という法名が刻まれている 16 。
彼の死後、その家督を巡って一族は再び分裂する。幕末期の熊本藩士がまとめた『藻塩草』によれば、元清は病床で、病身であった嫡子「勘三郎」に代わり、嫡孫の藤八郎(のちの南条元信)に家督を譲るよう遺言したという 3 。しかし、大坂にいた二男で庶子の作十郎(南条宜政)を立てる動きがあり、結果的に宜政が家督を継承した 3 。
この決定を不服とした藤八郎とその支持者たちは、加藤家を退去。小倉藩主であった細川忠興を頼り、藤八郎は3000石という高禄で細川家に召し抱えられた 3 。奇しくも、元清自身が経験した南条本家での確執を彷彿とさせる内紛を経て、彼の一族は加藤家と細川家という二つの流れに分かれて、近世を生き延びていくことになった。これは、有力な家臣団が一族の血脈を保つために、複数の大名家に仕えることでリスクを分散するという、当時の武家の生存戦略の一つの形でもあった。
南条元清の生涯を振り返るとき、我々はそこに戦国という時代のあらゆる要素が凝縮されているのを見る。伯耆の国人領主の子として生まれ、一族の発展戦略のために由緒ある名門を継ぎ、兄の後見役として権勢を振るう。しかし、世代交代の波の中で甥との政争に敗れて流転の身となり、陪臣として武功を重ねることで自らの価値を証明し、ついには仇敵であったはずの武将の家臣となる。その生涯は、まさに波瀾万丈の一語に尽きる。
彼は、旧来の秩序が崩壊した戦国時代にあって、「力」と「策略」を駆使して生き抜こうとした武将であった。同時に、主家の改易や権力闘争といった、戦国から近世へと移行する時代の混乱に直面し、自らの「武芸」と「才覚」を唯一の資本として、新たな道を切り拓いた現実主義者でもあった。
その謎に満ちた最期は、徳川による新たな秩序が確立されゆく中で、滅びゆく豊臣の世、そして自らが駆け抜けた戦国の世に対して、彼が抱いていたであろう複雑な心情を我々に想像させる。南条元清の生涯を追うことは、戦国から江戸へという日本の歴史が大きく転換する様を、翻弄されながらも主体的に生き抜いた一人の人間の生き様を通して、より深く、そして鮮やかに理解することに繋がるであろう。
年代(西暦/和暦) |
南条元清の動向 |
関連人物・勢力の動向 |
日本国内の主要動向 |
典拠 |
(生年不詳) |
南条宗勝の次男として誕生。 |
父・宗勝、尼子・毛利間を揺れ動く。 |
戦国時代中期。 |
1 |
永禄5年 (1562) |
この頃、小鴨氏を継承し、小鴨元清となる。岩倉城主。 |
父・宗勝、毛利氏の支援で羽衣石城を奪還。 |
|
3 |
天正7年 (1579) |
兄・元続と共に毛利氏から離反し、織田氏に属す。 |
南条元続、毛利氏から離反。 |
織田信長、中国攻めを本格化。 |
3 |
天正8年 (1580) |
吉川元春の侵攻に対し、岩倉城で籠城・奮戦。 |
吉川元春、伯耆へ侵攻。 |
|
3 |
天正10年 (1582) |
羽衣石城落城に伴い、兄・元続と共に播磨へ逃れる。 |
南条元続、羽衣石城を失う。 |
本能寺の変。秀吉、中国大返し。 |
3 |
天正12年 (1584) |
秀吉と毛利の和睦により、伯耆へ帰還。 |
南条元続、羽衣石城を回復。 |
|
3 |
天正13-19年 (1585-91) |
病身の兄・元続の後見役として、南条家の政務・軍事を代行。 |
兄・元続、中風を患う。 |
豊臣秀吉、天下統一を進める。 |
3 |
天正15年 (1587) |
九州平定に従軍し、島津軍の夜襲を撃退。 |
豊臣秀吉、九州を平定。 |
|
3 |
天正19年 (1591) |
兄・元続没。甥・元忠の後見人となる。 |
南条元続死去。南条元忠(13歳)が家督継承。 |
|
3 |
文禄元年 (1592) |
元忠の陣代として朝鮮へ渡海。讒言により失脚し、小西行長預かりとなる。 |
南条元忠、家臣の讒言を容れる。 |
文禄の役(朝鮮出兵)開始。 |
3 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、宇土城で加藤清正軍と戦う。戦後投降。 |
小西行長、西軍の主力として戦うも敗北、斬首。南条元忠も西軍に属し改易。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康の勝利。 |
3 |
慶長5年以降 |
加藤清正に6000石で仕え、剃髪し「南条元宅」と名乗る。 |
加藤清正、肥後一国の大名となる。 |
徳川幕府の成立へ。 |
3 |
慶長19年 (1614) |
大坂の陣に際し、豊臣方に加わるため大坂へ向かうも、船中で病死。 |
加藤家は徳川方。 |
大坂冬の陣。 |
1 |