最終更新日 2025-07-06

南部利直

盛岡藩初代藩主 南部利直 ―戦国の終焉と近世大名の創造―

序章:戦国末期、南部家の岐路

南部利直の生涯を理解するためには、まず彼が歴史の表舞台に登場する以前、南部家が置かれていた複雑な状況と、その父・南部信直が直面した困難な課題を把握する必要がある。戦国時代の終焉と江戸幕府による新たな秩序形成という激動期において、南部家は存亡を賭けた選択を迫られていた。

奥州の政治情勢と南部家の立ち位置

戦国末期の奥州、特に陸奥国北部は、中央の権力が完全には及ばず、数多の豪族が割拠する情勢が続いていた。南部氏もまた、その広大な領国を完全に掌握した単一の権力体というよりは、一戸、三戸、九戸といった有力な一族の連合体としての性格を色濃く残していた [1, 2]。この分権的な構造は、宗家の権力基盤を脆弱にし、常に内紛の火種を抱える要因となっていた。

この状況を打破し、南部家を近世大名へと脱皮させる礎を築いたのが、利直の父である第26代当主・南部信直であった。信直の時代における最大の画期は、天正19年(1591年)に発生した「九戸政実の乱」である [1, 3]。九戸政実は、南部一族の中でも最大級の実力を誇り、信直の家督相続に公然と不満を抱いていた [2]。自力での鎮圧が困難であると判断した信直は、これを豊臣秀吉に報告し、豊臣秀次を総大将とする中央の討伐軍を領内に引き入れるという大胆な策に出た [1, 2]。結果、九戸氏は滅亡し、信直は中央政権の権威を背景に、長年の懸案であった領内最大勢力の排除に成功した。この経験は、自家の武力のみに頼る戦国的な思考から脱却し、中央の権威を巧みに利用して領国支配を確立するという、新たな時代の統治術の重要性を南部家にもたらした。

信直の戦略は、内政に留まらなかった。彼は、宿敵である津軽為信との競争や、伊達政宗の南下政策という外部からの脅威にも晒されていた。為信は巧みな政治工作で秀吉から津軽地方の領有を認められ、南部家にとっては大きな痛手となった [1, 2]。こうした苦い経験から、信直は豊臣政権の中枢、特に前田利家らとの関係構築に心血を注ぎ、南部家が正式な大名として認められるよう腐心した [1]。彼の行動は、常に内外の危機に備える「堅実」さと、時代の趨勢を見極める先見性に基づいていた。利直の生涯にわたる政策の根幹には、この父・信直が苦闘の末に確立した「中央志向」と、隣接する強大なライバルに常に囲まれているという「危機意識」が色濃く受け継がれていくことになる。利直の藩政は、信直が始めた中央集権化と対外戦略を、より大規模かつ体系的に完成させる試みであったと位置づけられる。

利直の誕生と青年期

南部利直は、天正4年(1576年)3月15日、第26代当主・南部信直の長男として、三戸の田子城で誕生した [3, 4, 5]。母は信直の側室であった泉山古康の娘・慈照院である [4, 6]。正室の子ではなかったため、当初の家中における母子の立場は必ずしも安泰ではなかったが、利直が嫡子として認められ、中央政権との繋がりを深める中でその地位は確立されていった [7]。

利直の青年期は、父・信直の対中央戦略と密接に連動していた。天正18年(1590年)、14歳になった利直は、豊臣政権の重鎮である前田利家を烏帽子親として元服する [4, 7]。この時、利家から「利」の一字を与えられて初めは「利正」と名乗り、後に「利直」へと改名した [4, 8]。これは単なる元服の儀式ではなく、南部家が豊臣政権の中枢と強固なパイプを持つことを内外に示す、高度な政治的演出であった。

さらに、信直は秀吉の命令を受け、利直の婚姻を決定する。相手は、奥州の抑えとして会津に封じられた蒲生氏郷の娘・武姫(源秀院)であった [4, 7]。この縁組は、当時破竹の勢いであった伊達政宗を、南の蒲生家と北の南部家で挟撃するという、秀吉の奥州支配戦略の一環に組み込まれたものであり、南部家がその重要な一翼を担うことを意味していた [7]。蒲生氏郷の嫡男・秀行は徳川家康の娘を娶っており、この婚姻を通じて、南部家は将来天下人となる家康とも間接的な縁を結ぶことになった。これらの出来事は、利直が若くして、自身の立場が南部家一家の問題に留まらず、天下の政治情勢と深く結びついていることを自覚する契機となったであろう。

第一章:家督相続と関ヶ原の動乱

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を再び流動化させた。この天下の転換期に、利直は南部家の家督を継ぎ、当主として最初の、そして最大の試練に直面することになる。関ヶ原の戦いと、それに連動して発生した岩崎一揆は、利直の指導者としての資質を天下に示す最初の舞台となった。

家督相続と徳川への接近

慶長4年(1599年)、父・信直が病により死去し、利直は24歳で南部家第27代当主の座を継いだ [3, 4, 5]。信直は秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康の実力と将来性を見抜き、いち早く接近を開始していた [3, 7]。信直は死に際し、家康に従うよう遺言したとされ、利直はこの父の路線を忠実に継承した [7]。蒲生家との婚姻を通じて徳川家との縁も生まれており、利直が迷いなく家康に臣従する下地は整っていた。

関ヶ原合戦と岩崎一揆の勃発

慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名にその討伐を命じた。これが関ヶ原の戦いの序曲となる。利直は家康の命令に従い、東軍に属することを明確にした。彼は主力軍を率いて、上杉領に隣接する最上義光の救援のため、出羽国山形へと出陣した(慶長出羽合戦) [3, 4, 9]。

しかし、この南部家の主力が領外に出た隙を、宿敵・伊達政宗が見逃すはずはなかった。政宗は、かつて奥州仕置によって所領を没収された和賀氏の旧当主・和賀忠親を密かに煽動した [10, 11]。旧領回復という悲願に燃える忠親は、政宗からの支援の密約を取り付けると、南部領南部の和賀郡・稗貫郡において旧家臣団を集めて蜂起した [11]。一揆軍は花巻城などを急襲し、その拠点である岩崎城に籠城した。この「岩崎一揆」の勃発により、利直は出羽と自領内の二つの戦線に対応するという、絶体絶命の危機に陥ったのである [3, 4]。政宗の狙いは、和賀氏に旧領を回復させることで南部氏の南下政策を妨害し、その勢力を削ぐと同時に、混乱に乗じて自身の領土を拡大することにあった [11]。

二つの戦線への対応と鎮圧

領内の危機的状況を伝え聞いた利直は、家康から帰国を許可されると、直ちに軍を転進させた [4, 9]。彼は岩崎城の南西に位置する七折館に本陣を構え、約480名の一揆勢が籠る岩崎城を包囲した [11]。

戦闘は熾烈を極めた。一揆勢は頑強に抵抗し、伊達家からは鈴木重信らが率いる援軍が密かに派遣された。しかし、利直はこれを的確に察知し、待ち伏せ攻撃によって伊達の援軍を壊滅させることに成功する [11]。攻城戦が膠着する中、慶長6年(1601年)4月26日、利直は重臣・北信愛の具申を容れ、強風を利用した火攻めを決行した。大量の茅束に火を放ち、風に乗せて城内へ飛ばすという壮大な作戦は功を奏し、岩崎城は炎に包まれた [11]。総攻撃によって城は陥落し、一揆勢の多くは討ち取られた。首謀者の和賀忠親は辛うじて城を脱出し、伊達領へと逃げ込んだ [11]。

この一連の出来事は、単なる軍事的勝利に留まらなかった。家督を継いだばかりの利直にとって、この危機は自らの政治的手腕を証明する絶好の機会となったのである。彼は一揆鎮圧の過程で、伊達政宗が一揆を裏で操っていた証拠を掴んでいた。彼はその詳細を家康に報告し、政宗の陰謀を白日の下に晒した [11, 12]。家康は政宗に対し、一揆の首謀者である忠親の身柄引き渡し(または処分)を厳命した。追い詰められた政宗は、忠親を仙台の国分尼寺で自刃させるしかなかった [11, 12]。

この結果、利直は複数の政治的成果を手にした。第一に、自力で大規模な一揆を鎮圧したことで、家督を継いだばかりの若き当主としての権威と求心力を領内外に示した。第二に、宿敵・伊達政宗の領土的野心を挫くと同時に、その策謀を家康に報告することで政宗の評価を著しく下げ、徳川政権内における自らの信頼性を相対的に高めることに成功した。関ヶ原の戦後、家康は利直の所領10万石を安堵し、盛岡藩が正式に成立する [3]。利直は、藩の存亡を揺るがす大危機を、巧みな軍事・政治行動によって乗り切り、むしろそれを藩の基盤を固め、対外的な地位を向上させるための好機へと転換させたのである。この一件は、彼が単なる武勇の将ではなく、情報戦と政治交渉にも長けた、近世大名としての資質を十分に備えた人物であったことを物語っている。

第二章:盛岡藩の礎を築く

関ヶ原の動乱を乗り越え、初代盛岡藩主として徳川幕府から公認された南部利直は、次なる課題として、永続的な藩支配の基盤構築に着手した。彼が取り組んだのは、単なる領内統治に留まらない、壮大な「国家建設」であった。盛岡城という新たな政治的中心地の創造、鉱山開発による財政基盤の確立、そして藩権力を絶対化するための行政改革は、その後の南部家250年の歴史を規定する決定的な事業となった。

盛岡城築城と城下町の建設

本拠地移転の戦略的意図

南部家の伝統的な本拠地であった三戸城や、九戸政実の乱後に居城とした九戸城(福岡城と改称)は、いずれも領国の北辺に偏っていた [1]。この地理的弱点は、九戸の乱の際に豊臣政権の重臣であった蒲生氏郷や浅野長政からも指摘されていた [13, 14]。南に伊達、西に津軽という潜在的な脅威を常に抱える南部家にとって、領国の中央部に強力な政治・軍事拠点を置くことは急務であった。そこで白羽の矢が立ったのが、北上川と中津川の合流点に位置する不来方(こずかた)の地であった。この地は、領内各地へのアクセスが容易であると同時に、防衛にも適した要害の地であった。

近世城郭としての先進性

築城計画は、父・信直の代である慶長2年(1597年)頃に始まり、利直がその実行を命じられた [14, 15]。利直は、この新城を単なる居城ではなく、南部家の権威を内外に示す政治的シンボルとすることを意図していた。彼は近江から石垣職人の集団である穴太衆(あのうしゅう)を招聘し、当時最先端であった織豊系城郭の技術を全面的に導入した [15]。城地が花崗岩の丘であったという地の利も活かし、東北地方では珍しい総石垣造りの壮麗な城郭を建設した [13, 15]。複雑に折れ曲がる塁線や、徹底的に枡形化された虎口(こぐち)は、高い防御能力を誇ると同時に、上方風の最新式堅城を築くことができるという南部家の財力と技術力、そして中央政権との繋がりの強さを誇示するものであった [15]。この城は、家中に依然として残る不満分子に対し「謀反は無駄である」と知らしめ、また隣接する伊達や津軽に対しては、南部家の国力を誇示する強力なメッセージとなった [15]。

城下町の形成

築城工事は長期にわたり、城が概ね完成したのは元和元年(1615年)頃であった [3, 4]。利直はこれに合わせて、旧来の本拠地であった三戸から家臣団や商工業者を組織的に移住させ、盛岡城下に計画的な城下町を形成した [4]。これが現在の岩手県の県庁所在地である盛岡市の直接の原型となる。新たな城と城下町の建設は、物理的な拠点移動に留まらず、南部家の支配体制が、中世的な豪族連合体から近世的な中央集権国家へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。

藩政の確立と中央集権化

利直の藩政改革の核心は、藩主への権力集中にあった。その背景には、父・信直の時代から続く九戸氏のような有力一族との苦い闘争の経験があった [3, 4]。利直は、血縁関係にある有力な家臣であっても、藩主の意向に反する者や、独立志向の強い者に対しては、容赦なく処罰・追放という厳しい姿勢で臨んだ [4]。

行政機構の面では、江戸幕府の職制を参考に、藩政を統括する家老職を筆頭に、監察を担う目付、財政を司る勘定所、城下の行政や寺社を管轄する奉行といった役職を整備し、近代的で機能的な行政組織を構築した [16]。これにより、藩主の命令が領内の隅々まで効率的に伝達される体制が整えられた。

一方で、家臣への給与体系においては、全国的に俸禄制(藩が徴収した米を蔵から支給する制度)への移行が進む中で、盛岡藩は幕末まで地方知行制(家臣に土地を与え、そこからの年貢徴収権を認める制度)を維持し続けた [17, 18]。これは一見、中央集権化の流れに逆行するように見えるが、広大な領地を抱え、未開拓地も多かった盛岡藩の実情に合わせた現実的な選択であった可能性がある。家臣に知行地の経営を委ねることで、新田開発などを促進し、藩全体の石高向上に繋げる狙いもあったと考えられる [18, 19]。利直は、急進的な改革による混乱を避けつつ、実効支配を固めていくという現実的な路線を選択したのである。

財政基盤の確立と産業振興

壮大な盛岡城の築城や藩政機構の維持には、安定した財政基盤が不可欠であった。利直はこの点においても卓越した手腕を発揮した。

鉱山開発

南部領は古くから金の産地として知られており、利直はこの天与の資源を最大限に活用した。彼は、鹿角の白根金山や西道金山をはじめとする領内の鉱山開発を積極的に推進し、その経営を藩の直轄下に置いた [3, 4, 20]。これらの金山から産出される金は、藩財政の最大の柱となり、盛岡城築城などの巨大プロジェクトを可能にしただけでなく、幕府への献上や他藩との交易においても重要な役割を果たした。

特産品の育成

利直の経済政策は、鉱山開発だけに留まらなかった。彼は藩の長期的な繁栄を見据え、多様な産業の育成にも力を注いだ。

その最も有名な例が、現在、岩手を代表する伝統工芸品である南部鉄器の源流である [21]。利直は茶の湯に造詣が深く、京都から釜師を招き、盛岡城下で茶の湯釜を作らせたことが、南部鉄器の始まりとされている [21, 22, 23]。

また、食文化の面では、大豆を用いた菓子「豆銀糖(まめぎんとう)」を創案したと伝えられ、これは城中でのお茶請けとして珍重された [24]。さらに、領内で採れるカタクリの根から精製した良質な「かたくり粉」は、盛岡藩の特産品として幕府への献上品にもなった [25]。

利直の一連の藩政は、ハード(城・経済)とソフト(制度・人心)の両面からアプローチする、包括的な国家建設であった。盛岡城という物理的な「ハードウェア」で権威を可視化し、金山開発で財政を固める一方、家臣団の再編成や行政制度の導入という「ソフトウェア」で支配体制を確立した。さらに特産品の育成は、領民の生業を安定させ、長期的な繁栄の種を蒔く行為であった。これは、戦国時代の「力の支配」から、近世の「統治の支配」へと、国家のあり方を根本的に変革しようとする、利直の長期的かつ広範なビジョンに基づいた行動であったと言える。

第三章:初代藩主としての政治と人間関係

盛岡藩という新たな「国家」を創造した南部利直の治世は、彼個人の政治手腕と人間関係によって大きく左右された。彼は、中央の徳川幕府に対しては巧みな外交で信頼を勝ち取る一方、周辺のライバル大名や領内の有力分家に対しては冷徹な現実主義者として臨んだ。この硬軟織り交ぜた多面的なアプローチこそが、激動の時代を乗り切り、南部家の地位を確立した彼の真骨頂であった。

徳川幕府との関係強化

利直の対外政策の基軸は、一貫して江戸幕府との関係強化にあった。彼は、藩の存続と安泰のためには、中央政権からの絶対的な信頼を得ることが不可欠であると深く認識していた。

軍役による奉公

慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣において、利直は自ら軍を率いて参陣し、徳川方として戦った [3, 4]。これは、関ヶ原での功績に続き、改めて幕府への忠誠を行動で示す重要な機会であった。この功により、南部家は外様大名でありながら、幕府内での地位を確固たるものにしていった。

将軍家からの絶大な信頼

利直は、初代将軍・家康、二代・秀忠から極めて厚い信頼を寄せられていた。その最も象徴的な逸話が、家康から十一男であり、後の水戸藩祖となる徳川頼房の教育を依託されたというものである [26]。これは、外様大名としては異例中の異例の厚遇であり、利直の人格と識見が将軍家から高く評価されていたことを物語っている。利直は江戸や駿府に赴く際には必ず水戸に立ち寄り、頼房の様子を伺うなど、その任を誠実に果たし、両家の親密な関係は後々まで続いた [26]。

逸話研究:家康から下賜された「虎」

利直と家康の親密さを示すもう一つの有名な逸話が、「虎の下賜」である [27]。これは、家康がカンボジアから献上された虎の扱いに困っていた際、たまたま駿府城に登城していた利直に与えたというものである [27]。

拝領された年や頭数については、諸資料で記述に違いが見られる。『南部史要』では慶長年間に1頭、『篤焉家訓』では慶長19年(1614年)に2頭、『岩手史叢』では元和元年(1615年)に虎の子2頭を拝領したと記録されており、詳細は判然としない [27]。しかし、いずれにせよ、将軍家からの特別な下賜品である虎は、盛岡城内に「虎屋敷」と呼ばれる専用の檻を設けて丁重に飼育された [27]。その飼料には死罪人や鳥獣の肉が用いられたという凄惨な記録も残っている [27]。この虎は南部家の威光を高める象徴となり、死後はその皮を剥いで馬の鞍覆いとし、参勤交代の行列における装飾品として使用されたと伝えられる [27]。この逸話は、利直が10万石という石高以上の特別な存在として幕府から遇されていたことを示している。

周辺大名との角逐

幕府に対して従順な顔を見せる一方で、利直は周辺大名に対しては一切の油断を見せなかった。

宿敵・伊達政宗

岩崎一揆の一件以降も、南部家と仙台の伊達家との間の緊張関係は継続した [11, 28]。利直が莫大な費用を投じて盛岡城を類稀なる堅城としたのも、その視線が常に南の伊達に向けられていたからに他ならない [15]。両家の関係は、江戸時代を通じて、奥州における二大勢力としてのライバル関係を形成していくことになる。

分家・八戸氏との関係

利直の権力集中政策は、領内の有力分家にも向けられた。慶長19年(1614年)、分家である八戸家の当主・直政が嗣子なく急死すると、利直はこの機に乗じて八戸家の支配権を宗家に吸収しようと画策した [29]。彼は直政の未亡人・子子(ねね)姫(後の清心尼)に対し、南部宗家の息のかかった毛馬内氏の男子を婿養子として迎えるよう、半ば強制的に縁談を持ちかけた。しかし、清心尼は「貞女は二夫に見えず」としてこれを毅然と拒絶し、自ら剃髪して出家、八戸家第21代当主として家を率いることを宣言した [29]。利直の思惑は、この気丈な女性の強い意志によって阻まれた。この逸話は、利直の強引な中央集権化政策が必ずしも順風満帆ではなかったこと、そして有力分家が依然として高い独立性を保持していたことを示す好例である。

家族と後継者問題

藩主としての公的な顔の裏で、利直は一人の人間として家族と後継者の問題にも直面していた。

彼は正室である蒲生氏郷の娘・武姫との間に三男・重直を、また複数の側室との間に長男・家直、次男・政直、五男・重信、七男・直房など、多くの子女をもうけた [4]。長男の家直と次男の政直は利直に先立って早世したため [4]、家督は正室の子である三男・重直が継ぐことになった [4]。

しかし、この重直は気性が激しく、気に入らない家臣を理由なく解雇したり、幕府の法令に背いて処罰を受けたりするなど、藩主としての器量に問題があったとされる [6]。さらに重直には嗣子がおらず、二人の男子も夭折してしまった [30]。このため、寛文4年(1664年)に重直が死去すると、盛岡南部家は断絶の危機に瀕した。

この事態に対し、幕府は裁定を下し、利直が築いた広大な南部領を分割することを命じた。利直の五男で、分家の七戸家を継いでいた重信が本藩である盛岡藩10万石(後に8万石に減封)を継承し、七男の直房が新たに2万石を分知されて八戸藩を立藩した [4, 31]。これにより、利直が一代で築き上げた統一された南部領は、彼の死から約30年後、二つに分割されることになったのである。これは、利直の集権化政策が内包していた限界を示すと同時に、子宝に恵まれたが故の宿命でもあった。

利直の外交・対人関係は、相手によって明確に使い分けられた二重の顔を持っていた。中央の徳川幕府に対しては、絶対的な忠誠と個人的な信頼関係の構築に全力を注ぎ、藩の安泰を確保した。一方で、隣国の伊達や領内の有力分家に対しては、権謀術数を用い、隙あらばその力を削ごうとする冷徹な現実主義者としての顔を見せた。この硬軟織り交ぜた二面性こそが、彼の行動原理である「南部家の利益の最大化」を実現するための、最も効果的な戦略であった。

終章:利直の遺産と後世への影響

南部利直の生涯は、戦国乱世の終焉から徳川幕府による泰平の世の始まりという、日本史の大きな転換期と重なる。彼はこの激動の時代を巧みに生き抜き、南部家を中世的な豪族連合体から、安定した支配体制を持つ近世大名「盛岡藩」へと見事に脱皮させた。彼の遺産は、その後の南部家の歴史、そして現在の岩手県の姿にまで、深く刻み込まれている。

人物像の総括

南部利直は、父・信直から受け継いだ「堅実さ」と「危機意識」を土台としながらも、より大きなスケールで近世的な国家像を描き、それを実現する能力を持った、極めて有能な行政家であり、同時に冷徹な政治家であった [2]。

彼の最大の特長は、中央政権の動向を的確に読み解き、時代の変化に柔軟に対応する能力にあった。豊臣政権下では前田利家や蒲生氏郷との関係を深め、徳川の世となると見るや、いち早く家康に臣従して絶対的な信頼を勝ち取った。その一方で、岩崎一揆の背後で糸を引いた伊達政宗の策謀を暴き、その野心を挫くなど、戦国武将としての気骨と策略も失ってはいなかった。彼は、戦国武将の気風を内に秘めつつも、江戸幕府という新たな秩序の下で「藩主」として生きる術を完璧に心得た、まさに過渡期の理想的な支配者像を体現していたと言える。

江戸桜田屋敷での最期

諸大名の江戸定府が進む中、利直もまた江戸に藩邸を構えていた。寛永3年(1626年)には従四位下に叙任されるなど、幕府からの厚遇は続いていた [4]。しかし、長年の激務が彼の体を蝕んでいたのか、寛永9年(1632年)8月18日、江戸の桜田屋敷にてその生涯を閉じた。享年57であった [3, 4, 5]。

利直の歴史的評価と遺産

南部利直の最大の功績は、疑いなく、盛岡藩の創設と、その250年以上にわたる支配体制の基礎を盤石にしたことである [3, 4]。

第一に、彼は盛岡城とその城下町を建設し、南部領に確固たる政治的・経済的中心を創造した。これは単なるインフラ整備ではなく、南部家が近世大名として生まれ変わったことを内外に示す象徴的な事業であった。

第二に、金山開発を軸とした財政基盤の確立と、南部鉄器に代表される産業振興によって、藩に経済的な安定をもたらした。この財政力が、その後の藩政運営を支える屋台骨となった。

第三に、九戸の乱の教訓を活かし、藩主への権力集中を徹底する行政改革を断行した。これにより、分権的であった南部家は、藩主の強力なリーダーシップの下に統制される、一枚岩の組織へと変貌を遂げた。

彼が築いたこれらの礎があったからこそ、盛岡藩は江戸時代を通じて奥州の雄として存続し得たのである。

一方で、彼の治世が残した課題もある。彼の死後、嗣子の問題から幕府の介入を招き、結果として八戸藩が分立したことは、利直一代で完成させたかに見えた中央集権体制が、後継者という人的要因によって揺らぎうる脆さを含んでいたことを示している [4]。しかし、これは彼の失敗というよりは、多くの子を持った大名家に共通する宿命であったとも言える。

総じて、南部利直は、時代の大きなうねりの中で、自家の存続と発展という命題に対し、極めて的確かつ効果的な答えを出し続けた稀有な指導者であった。彼が描いたグランドデザインは、今日の盛岡市を中心とする地域の骨格を形成し、その遺産は今なお生き続けている。


付属資料

表1:南部利直 略年表

和暦

西暦

年齢

主要な出来事

出典

天正4年

1576年

1歳

3月15日、南部信直の長男として田子城にて誕生。

[3, 4]

天正18年

1590年

15歳

前田利家を烏帽子親として元服。「利」の字を賜る。

[4]

天正19年

1591年

16歳

蒲生氏郷の娘・武姫と婚姻。

[7]

文禄4年

1595年

20歳

従五位下・信濃守に叙任される。

[4]

慶長3年

1598年

23歳

父・信直の命により、不来方(盛岡)の地に築城を開始。

[14, 32]

慶長4年

1599年

24歳

父・信直の死去に伴い、家督を相続。南部家第27代当主となる。

[3, 8]

慶長5年

1600年

25歳

関ヶ原の戦いで東軍に属す。伊達政宗の煽動による岩崎一揆が勃発。

[3, 10]

慶長6年

1601年

26歳

岩崎一揆を鎮圧。戦後、徳川家康から10万石の所領を安堵される。

[3, 5]

慶長19年

1614年

39歳

大坂冬の陣に参陣。

[3, 4]

元和元年

1615年

40歳

盛岡城が完成。城下町を形成し、本拠地を移転する。

[3, 4]

寛永3年

1626年

51歳

従四位下に昇叙される。

[4]

寛永9年

1632年

57歳

8月18日、江戸の桜田屋敷にて死去。

[3, 4]

表2:南部利直 家系図(主要人物)

コード スニペット

graph TD
A[南部信直<br>26代当主] --> B(南部利直<br>27代当主<br>盛岡藩初代);
C[泉山古康の娘<br>慈照院<br>側室] --> B;

D[蒲生氏郷の娘<br>武姫<br>正室] -- 婚姻 --> B;
E[花輪政朝の娘<br>慈徳院<br>側室] -- 婚姻 --> B;
F[中野正吉の娘<br>仙寿院<br>側室] -- 婚姻 --> B;
G[今渕政明の娘<br>お三世<br>側室] -- 婚姻 --> B;
H[石井直弥の妹<br>楽女<br>側室] -- 婚姻 --> B;

B --> G1(南部家直<br>長男<br>早世);
G --> G1;
B --> H1(南部政直<br>次男<br>早世);
H --> H1;
B --> D1(南部重直<br>三男<br>盛岡藩2代);
D --> D1;
B --> E1(南部重信<br>五男<br>盛岡藩3代);
E --> E1;
B --> F1(南部直房<br>七男<br>八戸藩初代);
F --> F1;

subgraph 凡例
direction LR
S1(男子)
S2(---)
S3(女子)
S4(-.-)
S2 --- S1
S4 --- S3
end

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出典: [4] に基づき作成。

引用文献

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  26. 寛永 13年南部重直 参勤交代遅参事件の再検討 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&code_no=73
  27. 南部利直が徳川家康から賜った虎について書かれた資料はあるか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000342619&page=ref_view
  28. 岩手の江戸時代の歴史~盛岡藩と仙台藩が成立しのちに八戸藩と一関藩が独立 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16773/
  29. 貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(一) - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/107860/2
  30. 第一章 近世の南部藩 - 滝沢市 https://www.city.takizawa.iwate.jp/about-takizawa/gaiyo/bunkazai-history/sonshi/sonshi-sangyo/p20241125153513
  31. なんぶ - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 - FC2 https://haiyaku.web.fc2.com/nanbu.html
  32. 盛岡城(陸奥国・岩手県盛岡市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう https://ameblo.jp/castle-manabu/entry-12190382878.html